No.53 2002.05.25日号
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【絵本】 『鳥の巣みつけた』(鈴木まもる あすなろ書房) 『世界の鳥の巣の本』(岩崎書店)で鈴木は、様々な鳥の巣を綿密に描き、説明し、巣から見た世界とでも言える作品を結実させた。私たちは一般に巣ではなく、鳥から世界を見てしまうのですけどね。 今作では、鈴木は、自らが暮らす山中にある様々な巣を発見する。だけでなく、日本では巣を作らない鳥たちへと視線を向けていく。 マガンの巣を求めてシベリアに。ハシホソミスナギドリの巣を求めてオーストラリアに、ハタオリドリの巣を求めてアフリカに、ミソサザイの巣を求めてアメリカに、オオツリスドリの巣を求めて南アフリカに、アジアの草原ではカササギの巣を、そしてヨーロッパでコウノトリの巣を。 鈴木はそこによけいな感傷は持ち込まない。巣が子どもを育てる大事な場所であること以外は。 そうすることで、ここでも鈴木は巣から世界を見せることと、世界に巣を置くことに成功している。(hico) 『トットちゃんとアフガニスタンの子どもたち』(田沼武能・写真集 岩崎書店 2002) ユニセフ親善大使黒柳が訪れる各国に18年間田沼は同行し、国々の子どもの表情をカメラに収めている。 この書物は、9.11以前のアフガンに出かけた時と、今年の2月に訪れたときの写真集。 中の写真はモノクロだけど、表紙と裏表紙はカラー。その表の表紙写真が実にいい。素晴らしい! 装幀もいいからだけど。 田沼はずっと子どもを撮ってきていて、いい仕事が一杯あるが、今回は、お叱りをおそれずいえばタイムリーな一作。今一番子どもの表情を知りたい国の一つだから。 いい写真がたくさんある。難を言えば、黒柳がフレームに入っているのはつまらない。当たり前の話だ。それがフォーマルになってしまうから。でも、「売り」としては「トットちゃん」は必要だから仕方ないか。 この出版社は、奥付に編集者名を記していることがある。それはとても大事。していない出版社はどうぞ取り入れて欲しい。今作も記していて、「池田春子」。いい仕事をした。(hico) 『ナイナイとしあわせの庭』(キティ・クローザー:作・絵 平岡敦:訳 徳間書店 2000/2002) まず、画がいいぞ。 いいということは好き嫌いがはっきり出てしまうのやけどね。 簡単に言うと、カワイイ画ではなく、暖かい画。寂しさと悲しさに溢れた物語なのに。そこがいい。 ママが亡くしたリラ。寒い日はパパのコートを着て、ブーツを履いて。 だってママがそう言ってたから。 ママが亡くなってからパパは沈みっぱなしで、リラの相手もしてくれない。 でも寂しくない。リラにしかみえないナイナイがいるから。 いつまでたっても立ち直らないパパへの怒りをリラはナイナイにぶつけてしまう。 あんたなんかあっちに行けって。消えるナイナイ。 荒れ果てた庭にママが大好きだったヒマラヤ・ブルー・ポピーの種をまく。 大事に大事に育てる。 ラストシーンで私たちも幸せになれます。(hico) 『ありんこぐんだん』(武田美穂 理論社 2002) 武田美穂の困るところは、決して巧くもない(ように見せかけている)画に、なんだかわけわかんないストーリーを乗せて、できのいい絵本を仕上げてしまうとこ。 こんなにやっかいな作家はいません(いるけど)。 今回の主人公はありさんたち。 ありさんというのはいったいどこまで砂糖をもとめてやってくるかを、宇宙にまで(こまった作家だ)ひろげて展開していきます。 じゃ、この絵本で、あり嫌いになってしまうかというとそうでもなく、「しょーがねーなー」で終わるのが、この作家の力です。(hico) 『ママってすごいね!』(ミック・マニングさく ブリタ・グランストロームさく せな あいこやく 出版:評論社 1999/2002) サルやヘビから人間まで、「ママ」が子育てでどんなに「すごい」かを描いた絵本。 「ペンギンのママは、さかなをとるまで、なんにちもがんばる。 にんげんなママは、どんなおてんきでも、かいものにでかける」 しかし、例えばコウテイペンギンのママは確かに3ヶ月ほど掛けてえさを取りに行くいくけど、その間子どもを温めながら飲めず食わずでパパはがんばっている。 にんげんのママはどうしてかいものなんだろう。 いまどきこんなジェンダー肯定の母性神話を描く絵本なんて、信じられない。 『がぶり もぐもぐ』なんか良かったのにねぇ。(hico) 『みえないさんぽ このあしあとだれの?』(ゲルダ・ミューラー〔作〕評論社 1999/2002) 雪の日に家から外へ出てゆくあしあとだけが描かれている。そうして雪の中でいろんなコトして遊んでいるようなんですが、あくまで描かれているのはいろいろな足跡だけ。 これが実のいいですね。 なんだろーと気になって気になって。 最初の表紙裏見開きに、男の子と犬がしている「いろんなコト」が描かれているんです。つまりその仕草たちがどの足跡のなのかを、私たちは想像する必要がある。 そうして最後の表紙裏には、行われたことが順番に並べ替えられているので正解が分かるしかけ。 うまいなー。 でも、足跡みているだけでも充分楽しいです。(hico) 『もう一羽のがちょう』(ジュディス・カー作 まつかわ まゆみ訳 評論社 2001/2002) がちょうのカテリーナが住んでいる池には墓にがちょうはいませんから、彼女はさみしい。 パン屋さんもダンンスをおしえているジョーンズさんも講演に訪れる人はみんなかわいがってくれるんだけど。 ある日、カテリーナはもう一匹のがちょうを発見。でも本当は車に映った自分の姿それがわからない彼女、そこから出てきて欲しいと思うのですが・・・。 最後にはもちろん幸せがおとずれます。そこまでで、カテリーナがちゃんと描かれているから、彼女の幸せに、読者も満たされます。(hico) 『むしゃ!むしゃ!むしゃ! マグリーリさんとはらぺこウサギ』(カンダス・フレミングぶん G.ブライアン・カラスえ いしづ ちひろやく BL出版) マグリーリは長年の夢だった野菜作りを始める。でも、野ウサギたちがやってきて、大切なカワイイ芽を食べてしまう。で、頭に来たマグリーリさんは、囲いをするけど突破され・・・・、てな具合で、もうおわかりでしょうが、マグリーリさんはどんどん防御をしていき、ウサギたちは難無くそれを突破していく物語が軽妙に進んでいきます。 落語といっしょで、分かっているけどおもしろい作品。画もそのまんまでいいよ。(hico) 『キャベツ姫』(エロール・ル・カイン作 灰島 かり訳 ほるぷ出版 1969/2002) 絵本というには、文章が多いです。が、エロール・ル・カイン自身の画が当然ながら濃いので、そんなにアンバランスな感じはしません。 すぐに切れて起こってしまう王様。彼が薦める王子との結婚をことごとく断るお姫様にも頭に来ています。ある日森の王と名乗る男がやってきてお姫様を自分の息子にと願い出る。ふざけるなとばかり王様は怒り出す、と、森の王は、王様が口に出した悪口はみんな本当になる魔法をかけてしまう。 で、王様が口を滑らせた悪口でいろんな人が変わってしまう物語展開。タイトルのようにお姫様はキャベツにね。 次から次へと変わっていくその姿のなんと濃い画であること。 オチはお約束通りです。ストーリーをというより、その安定したストーリーに乗っけられた画を楽しむ絵本。(hico) 『ペーテルおじさん』(エルサ・ベスコフ 石井登志子:訳 フェリシモ出版 1949/2002) フェリシモ出版さんが立て続けに復刊してくださっているベスコフの一冊。 元船乗りのペーテルさんは物知りだし何でもできる。子どもたちに「ワクワク」話はできるし、村の住民の壊れた道具もいとも簡単に直せる。 けれど、彼は貧乏。 というのは、彼の才能に誰も賃金を払ってくれなかったから。 ある日町の役人がきてペーテルの家があまりにきたないので、もし直さないのなら条例により壊すと宣言。 それを聴いた子どもたち、親を説得して、ペーテルの家を新しくすることに。 ベスコフの時代の「お約束の成就」がここでも堂々と展開されています。 ここに戻る必要はないですが、ここを知っておくことは大事です。(hico) 【創作】 『ここは魔法少年育成センター』(久美沙織:作 なるしまゆり:イラスト エニックス 2002) EXノベルズ。 14歳の男の子の瑛蘭は親友を助けようとして、魔法に目覚めてしまう。困ったことに、魔法の発動が認められた子どもは、「青少年健全育成センター付属魔法学校」、通称「イクセン」に強制的に送還されるからだ。案の定、瑛蘭は魔法学校に入学することに。どうやら、瑛蘭にはひどく特殊な魔法力が備わっているらしいのだが…。 魔法学校に寄宿舎で男子校。王道です(「女の子−魔女」が無視されている訳ではないのでご安心を。ネタばれになるので言えませんが、次作以降でメインになるはず)。男子校ではないですが、魔法学校といえば「ハリポタ」を思い浮かべてしまうのは書評子だけではないでしょう。作者もその辺りを意識してか、瑛蘭に「なんてこった。世界のベストセラーだ。でも僕はハリー・ポッター」とは違う」と言わせてます。わざわざ、こんなことを確認したのは、本作は「ハリポタ」よりも、作者が「あとがき」でリスペクトしているように、牧野修『呪禁管』(祥伝社、46号で紹介済み)に影響されているからです。牧野をご存知の方ならピンとくるかと思うのですが、本作はコミカルであると同時にダーク(これまたネタばれなので抽象的にしか言えなくてすみません)であることが言いたかったからです。それと作中で、ペットショップボーイズのLeft To My Own Devicesがうまく使われているのが意味深でよいかと。それにしても、『少年魔法士』(新書館、ちなみにマンガ)のなるしまゆりにイラストをお願いできるなんて、贅沢ですな。(meguro) 『放課後戦役』(鷲田旌刀:作 明治ていか:イラスト 集英社 2002) コバルト文庫。デヴュー作。 入学してまもなく、博喩堂高校の男子生徒は徴兵される。大学生が中心になって蜂起した謎の武装組織エミイルに対抗すべく組織された高等生徒隊の第一陣として。自衛隊はエミイルに壊滅的な打撃を被り、大学生はエミイルに参画しているので、予備兵の絶対数が足りなかったからだ。高校1年生の水無瀬誠は中学時代の友人の柏木遊に誘われて、最強のパーティに加わることに。やがて、誠たちは高等生徒隊設立とエミイル蜂起にかかわる軍事機密に巻き込まれる…。 本作の設定(高等生徒隊だとかエミイルのこと)を荒唐無稽だと思うか、さもありなんと思えるかが評価の分かれどころかな。日本製品は粗悪なものがあふれかえり、治安も悪化するばかり。そんな衰退する日本社会を再興するために、高等生徒隊とエミイルは設立された。作中でキーパーソンが言っているように、為政者にとって「軍隊は最高の学校」なのです。その意味で、本書のテーマは「戦争」ではなく、まさしく「教育」なのです。本作は、史上最悪の名を献上されるであろう小泉首相に率いられ、小泉を阻止できなかったわれわれの未来なのかも知れません。(meguro) 『十二歳』(椰月美智子 講談社 2002) 十二歳の女の子の一年間を、活写しています。 十二歳の女の子の言葉にならない心の動きが、とてもクリアに描かれています。なかなかこうはいきません。 「あとがき」で作者は子どものときは気づかなかったことも大人になって分かることがあるというような発言をしていますが、おそらくそうでしょう。それを丁寧に拾っていく。それをもう一度「十二歳の言葉」に置き直すのは難しい作業だと思いますが、それに成功しています。 もちろん、十二歳がこんな風に日々一刻一刻、自らも含め観察分析しているとは思いませんが、物語はそれを可能にしてくれます。今の十二歳にとって言葉にならない想いを『十二歳』は言語化してくれているわけです。ですから、今の十二歳が抱えている様々な想いのいくつかを、彼らはこの物語で言葉として受け止め直すことができるでしょう。(hico) 『トラベリング・パンツ』(アン・ブラッシェアーズ:作 大蔦双恵:訳 理論社 2001/2002) 理論社YA、ソフトカバーシリーズ(というシリーズではないが私が勝手にそう呼んでいる)最新作。Masayuki TakahasiのDesignedは、帯を取れば表紙は英語だけで、萌葱色にブルージーン、ロゴはなんだかフラワーチルドレン風で、今となればおしゃれです。Takako HanadaによるIllustratedもちょどいい塩梅の軽さ。Masayuki TakahasiのDesignedとかTakako HanadaによるIllustrated書いたのは、Designed by Masayuki TakahasiやIllustrated by Takako Hanadaと表記されているからです。この辺りは「JPOPS」なんぞの影響でしょうか。 ま、電車の中で読んでいても恥ずかしくない外見となってます。 角田光代、森絵都推薦文もあります。 4人の同じ年に産まれた女の子たちは、元々母親同士が友人だったのですが、親たちは今は疎遠で、彼女たちが親友になっています。この夏はみんなバラバラに過ごします。キリシャの祖父母のところにいくレーナ、サマーキャンプのブリジット、離婚したパパのところに出かけるカルメン、残ってバイトに明け暮れる予定のティビー。 お別れ会の時、カルメンが買ってきた古着のジーンズをみんなが履いてみる。プロポーションも全然違う4人なのに、なぜかそれぞれにぴったり。とてもよく似合う。これは魔法のジーンだ。これを履くときっといいことがある。4人は離ればなれの間、一週間ごとに順に送ることを約束する。履いているときにきっといいことが起こるはず! というとても魅力的な設定からスタートする物語。ここにはすでに日常化したマジックリアリズムがかすかに見えます。 4人の夏休みが交代に次々と描かれていきます。それぞれは問題を抱え込む。祖父母が見合いさせようとした男の子にうんざりしていたはずが・・・のレーナ、指導員の青年にこれまで感じたことがないようなときめきを感じてしまうブリジット、パパと二人で過ごせると思ったらパパは再婚相手とその子どもと一緒に待っていたカルメン、ひょんなことから知り合ったなまいきな年下の女の子がガンで、どうしてあげたらいいかわからないテイビー。どれもが彼女たちを傷つけますが、ジーンは果たして魔法をかけてくれるのか。 YAってのが生きている国なんですね、アメリカは。 悪い意味ではなく、ちゃんとお行儀良く「青春」してます。昔の日活青春映画を思い出してしまった。 日本では、癒し系としてヒット?(hico) 『生きのびるために』(デボラ・エリス:作 もりうちすみこ:訳 さ・え・ら書房 2000/2002) タリバン政権下のカブールに生きる女の子パヴァーナの物語。父親は逮捕され、家に残るのは母親と姉と幼い妹たち。 母親や姉は男の同伴なしに外出もできない。パヴァーナは髪を切り男の子の格好をして商売を始める。 作者は訪れた難民キャンプで見た子どもたちの姿などから、女性の権利に関して活動してきた視線で、タリバン政権下のアフガンの女の置かれている状況をニュースや資料とは違うフクション化された世界で生々しく描きます。 出版が2000年、書かれた時点ではこれはある種情報小説であり、私たちは彼女たちへのタリバン政権の抑圧を読みとるのですが、2001年、アメリカなどによる報復テロによってタリバンが崩壊した後に私たちは読んでいるわけです。そうすると、その情報は価値が今でもあるのか? 状況の情報としてはもう古びていますし、それはこうした物語の抱えている宿命です。逆に言うと「新しい」時はとても価値がある。 ただし、状況の情報としてそれを読むのをやめたとき、サバイバーとしてのパヴァーナが浮上してきます。 報復テロの中、パヴァーナは生き延びたのでしょうか?(hico) 『家なき娘』(エクトール・マロ:作 二宮フサ:訳 偕成社文庫 1893/2002) 完訳本(津田訳の岩波文庫版も最近復刻)です。上下巻で600ページ。19世紀の小説は長い。 今30代の方には世界名作劇場「ペリーヌ物語」(1978年放映)の原作といったらいいのかな。私はちょうどTVを持っていない時代でしたので、残念ながら観てませんが。シリーズの中でもなかなかいいできだったとか。 父親の望まぬ結婚をした息子は苦労の末、連れ合いと娘を残して亡くなる。母娘は父親の実家があるフランスへ向かうのですが、その途次で母親も逝き、残された孤児の娘は・・・。ってだけで、おお、どこかで読んだような設定なのですが、ま、そんなのが19世紀末から20世紀初めに多かったってことです。そーゆー過酷な運命にいる子どものピュア性。逆に言えば100年前でも子どものピュア性をリアルに物語として描くには、そーゆー過酷さが必要だったわけですね。 そんな中で、この物語の面白さは、大金持ちのおじいさまのところにまでたどり着きながら、ペリーヌは自分がこの人に愛されると分かるまで身分を隠し、貧乏してがんばるところ。これは死に際しての母親からのアドバイスなんですね。ま、そういう設定にしないと物語は続かないからといってしまえばそれまでなのですが、たとえ肉親でも愛しているとは限らないなんて、結構すごいでしょ。で、そんな状態で女の子がどうサバイブするかが中盤以降、作者の腕の見せ所。となると、ペリーヌは必然的に戦略家・分析家にならざるをえないし、実際そうして生き延びていく。とどめはインド育ち(母親がインド人)であるが故、英語ができ、それをおじいさまに重宝がられ(あ、いうまでもないですが、フランスのお話です)、出世していくところ。まるで情報化社会のお話のようではありませんか。 プラス、ここでは経営者と労働者の関係のありかたが問われていて、労働者の福利厚生にまで言及されます(あまいけどね)。 いやー自然主義文学のお国です。(hico) 『夢がかなう日』(清水久美子:著 偕成社 2002) 物語ではなく、「感動実話」物です。 といっただけで、引く人もいると思います。 私がそうだから。 けど、これ、結構いいです。 「メイク・ア・ウイッシュ」って組織があるのですが、その名前の通り、3歳から18歳の難病を抱えている人たちの具体的願いを叶えるわけ。 直接「病気を治してください」は無理だよね。医者でも漢方医でもないから。そうではなく、コテコテの、興味のない他人からみたらつまらないけど、本人にとっては大切な夢をスタッフが奔走して叶えるわけ。ここがいい。「XJAPANのhideに会いたい」なんてのですよ。だれがバカにしたって本人には大切で、でも絶対に叶いっこない夢を叶えてもらえる資格に、誤解を恐れず書くなら、難病がなっていること。それは特権でありながら、「XJAPANのhideに会いたい」のようにあくまで個人的欲望として消費されることで、特権からズリ落ち、私たちは病気と闘っている彼・彼女たちと「同情」ではなく向かい合うことができます。 hide好きだからか、「XJAPANのhideに会いたい」編は、興奮しましたよ。(hico) 『アリソン』(時雨沢恵一 電撃文庫 2002) 序章で、「今から私は、数千を超える人間を、考えられ得る最も残忍な方法で殺そうとしています」なる不穏なモノローグが置かれる割に、軽いタッチの物語。 もちろん、この不穏なモノローグの意味は最後に巧く説明されています。けれど、序章と物語のギャップはそうとうなもの。 プロローグとエピローグが繋がっていて、本編の物語は主人公の回想形式ですから、そこにすでに「思い出」は仕組まれており、その「思い出」の根幹に先のモノローグの意味が潜むわけです。 なんてややこしい言い方になるのは、ネタバレしそうだからです。 私がおもしろいと思ったのは、今言ったような重厚な仕掛けをしつつ、それがライトノヴェルズになってしまうこと。 これは、どういうことなんだろう? ライトノヴェルズもまたそうした仕掛けなしには語れない(ライトが重厚なんて、ね)のだろうか、それとも、そうした重厚さもライトノヴェルズはライトに組み込んでしまっているのだろうか? ま、それはともかく、ネタも大きいのですが、その大きさと語られる物語の軽さを楽しんでいただけるのでは? と。 付け加えれば、ここでもマッチョは巧みに排除されています。(hico) 『青空のむこう』(アレックス・シアラー:作 金原瑞人:訳 求龍堂 2001/2002) 『十二番目の天使』をベストセラーした求龍堂の第二弾。この出版社の売り込み方は並の根性ではなく、読者からの葉書を冊子にしたり、この作品の場合だと、ゲラの段階でモニタリングをして、その反応をデータとして流通や書店に見せていく。そのデータでは『十二番目の天使』より反応がいいとのこと。 もちろん読む前にこんなこと知らされるのはたまったものではなく、かえって偏見を抱いてしまうという人もいるでしょうが、出した作品を読まれたい、そのためにはいろんな方法をつかって売り込むというのはいいと思うよ。 交通事故で死んでしまったハリーは、「あの世」の先にある「彼方の青い世界」へと行くはずなのですが、現実世界に思いを残したままななで、「あの世」から先に進めません。「あの世」で出会った150年前の少年(彼もまた母親を捜している)に連れられてこの世へ戻る。自分の死んだ後の世界はどう動いているのか? そして、姉エギーの謝らないといけないことがある。死者となったアーサーは果たしてそれを成し遂げることができるのか? 死者という形を取ることで友人や家族をもう一度問い直す物語ですね。『カラフル』なんかもそうでしたが、こうした手続き(迂回路)が物語を動かしていく様は「物語の死」を逆に印象づけています。 物語自体はストレートで、もう一ひねり欲しいですが、何人かキャラが立っていますし、ホロリのエピソードもそこそこあって読み飽きることはないかと。(hico) 【評論】 『児童文学に魅せられた作家たち』(林美千代ほか編 KTC中央出版 2002) 本書で取り上げられている作家は、岸武雄・河合雅雄・浜野卓也・赤座憲久・かつおきんや・しかたしん・北村けんじ・浜たかやの計8名。中部地方にゆかりのある作家たちにスポットライトをあてた作家論である。また、資料編が充実しているのが特徴かと。詳細なプロフィールに、作品・エッセイ・評論等が網羅された著作リストは、後学の研究者には嬉しい限りだ。書評子もしかたしんさんに評論を寄せているのだが、評論の数々もバラエティに富んでいて、読み物としてもお薦め。現代よりの作家論に十分な蓄積がない児童文学研究に、地方からのチャレンジとして一石を投じるのではないだろうか。(meguro) 『英米児童文学の宇宙:子どもの本への道しるべ』(本多英明 ミネルヴァ書房 2002) 児童文学批評の「道標」、一里塚として本書は生成されている。もちろんそれはとてもありがたいことだし、興味深い論考も多くある。灰島かり「『そだてる者』と『育てられる者』の葛藤」はセンダックの『窓の〜』を読み解こうとする試みがスリリングだし、西村醇子「嘘つきたちのギャラリー」は「嘘」をキーワードにしてアン・ファイン作品の一側面に光を投げかけ、その作風の内部に進入する方法もおもしろいし、川端有子の「インドの紳士の物語」は、フェミニズム批評やニューヒストリズム批評で『小公女』を解析すればどうなるかを分かりやすく記しており、まだ知らない人がその方法論を学ぶには絶好。他にも数々取り上げられている作品をまず読んだ後にそれぞれの論考を楽しむのが吉でしょう。 ところで「まえがき」の最初において、「ハリー・ポッター」シリーズが「文字離れ・文学離れが叫ばれるなか、ほとんどひとり勝ちのような状態で広い支持と人気を獲得しているのが現状と言えるであろう」と書きながら、次のページで「児童文学は長い間過小評価されてきた。おそらく今は人気に押されず、注意深く児童文学の過大評価を避けなければならない時期にきている。そうした意味でも児童文学批評の確立は急務の課題となっている」と簡単に言い切ってしまうのが分からない。「ハリー・ポッター」シリーズが「ほとんどひとり勝ち」として、それと児童文学のこれまでの過小評価から過大評価への移行はどう関連するのか? 「ひとり勝ち」なんだから、「人気に押されて」なんかいませんて。「まえがき」がこのように記されているのなら、『ハリー・ポッター』論は一遍あってもよかった。 「児童文学の過大評価」こそ、過大評価でしょう。また、もしそうであるとしてもなぜ「そうした意味でも児童文学批評の確立は急務の課題となっている」のだろう? 例えば先に挙げた3論考は過大評価に対する答えではなく、あくまで論者たちがおもしろいと思う読み解きであり、そこに意味があるし、それだけだ。批評こそがここでは「過大評価」されているのではないか。それだからではないでしょうが、「『幸せな子ども時代』を構築する具体的な手段のひとつに『読書』がある」として「命」を扱った絵本への言及をする桂宥子の「命ををみつめる絵本考」は、それ以降の論述は別として、その枕に神戸の小学生殺人事件やバスジャックを持ってきてしまう。「今やキーワードになりつつある『一七歳』の少年たちが、どのような『幼児期』を過ごしたかに注目が集まっている」と。 本当に絵本の力を語りたいとき、そんな脅しは必要ないと思うけど(細かに言えば、神戸BOYたちは今「一七歳」ではなく二十歳だ。もっと細かく言えば神戸BOYの時は「一四歳」が「キーワード」だった。)。(hico) 『図説 子どもの本・翻訳の歩み事典』(柏書房 2002) 考えてみたら、今まで有りそうで無かった企画。 ここには、この国が明治以降「子ども」のために取り込んだ翻訳子どもの本の歴史が「事典」として記されています。 困った時調べるのにとても便利です。データの編集も調べやすくなってます。 データのそこココで、現在の研究者たちによる解説からコラムまでが挿入されていますが、これは論考ではありませんので、ちょい読みでかまいません。 それよりやはり、これは「事典」として活用されるべきでしょう。 だだし、キャッチが「おばあさんもお母さんも、みんな『ハイジ』に涙した」であり、ハハから娘へというノリなのが今時だめ。ちゃんと中味作ろうとしているのに、それをキャッチが壊してる。残念。 値段的にいって、これは研究者か図書館が買えるものでしょう。 ですから、それ以外の人は近くの図書館へ、リクエスト、リクエスト! ああ、柏書房さんへの私のリクエストはこれをCD-ROMにして、廉価販売してくださいな、です(hico) |
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