|
*発行年は「原著年/訳年」です。 ★『そして永遠に瞳は笑う』(堀直子 小峰書店 1300円 1998) 幕末の長崎が舞台。主人公のナツは手に入れた銃で、写真館を経営する上野彦馬を撃とうと待ちかまえています。ナツの姉は家族のために遊女となったのですが、そこで恋仲となった彦馬が姉を裏切り別の女と結婚し、そのために姉が自殺。ナツはその仇をとろうというのです。 こうして始まる物語は、「幕末」「写真館」「長崎」「出島」「異人」「維新」「竜馬」といった魅力的な設定で、元気少女ナツを描いていきます。 「うちは、ニューカー(自転車。ひこ注)に乗って、風のごたっ、町ば走りたかだけさ。チョクラートば飲みながら、好きなときに好きな本ば読める。自由に楽しく、女やからって、だれにも文句ばいわせん。カエみたいな女が、一人でも、この世からなくなリますようにってね。そんげん、世の中がきたら、うちは、それでよか!」「ナツ!」「男らは、男らのために戦うだけやろ! 自分らのためだけに!」 ナツはニューカーにまたがった。「自分らにつごうのよか世の中ば、作リたかためばっかりに、男らは」 いいですね。このノリは。 そしてやがてナツは仇のはずの上野が命をかけている「写真」という技術の惹かれ始め・・・。 ★『じてんしゃにのりたい! 』グレギー・ドゥ・マイヤー作・絵 野坂悦子訳くもん出版 1998/1993 次もまた「ニューカー」のお話です。原作はベルギー。 ベスはまだ三輪車しか持っていない。そのため自転車に乗れる年上の男の子から馬鹿にされたり。 絶対自転車に乗れるようになるんだ! 自転車屋のブルースさんに頼むベス。が、「べスは、からだを右にかたむけます。右足をのばし、足のおやゆびまで、ぴんとのばしてみます。でも、ゆびの先が、ちょっぴりぺダルにさわっただけでした」。 可哀想に思ったブルースさんは、「作業台から、のこぎりと、気の板をもってきました。そして、だまったまま、板のながさをはかったり、切ったり、けずったりしています。ブルースさんはつみきのようなものをふたつつくると、ぺダルにとりつけました」。これでなんとか足が届く。 いよいよ自転車の練習。でもなかなかうまく乗れません。みんなが励まします。「ぺダルをこぐのよ。ぺダルをこいで、バランスをとるの。それさえできれば、だいじょうぶ」「かんがえすぎちゃ、だめよ。やってみれば、しぜんにのれるんだから。とにかく、からだを、ずっとうごかしていること。そこが、かんじんよ。うごいてなくちゃ、バランスがとれないでしょ」「ぺダルをこぐんだよ。ぺダルをこげば、じてんしゃはすすむんだ」 これって、作者が後書きで言っているように、日常を生きるときの気持ちそのもの。それを、幼年物語にすることで、うまく描いているんやね。 「幼くてかわいいでしょ」「純粋でしょ」だとかの、およそ、紙資源の無駄遣いとしか思えない作品が多い幼年物の中で、これは、いい。幼年をナメてない。 それと、なじみのないベルギー作品だからでしょうか? ちょっと他のヨーロッパのものと肌合いが違う。うまく言えませんけど。その辺りもお楽しみ下さい。 ★『赤い自転車』ディディエ・デュレーネ文 ファブリス・テュリエ絵 つじ かおり訳 パロル舎 1998/1995 あれ、また自転車。 これは絵本です。主人公はこの赤い自転車。彼(「ぼく」となっているから彼でしょう。)はルィーズって女の子の自転車になります。楽しい日々。でもルィーズは段々大きくなる。 「ルィーズは大きくなった。もちろんぼくもさ。ぽくは補助車をはずして、サドルとハンドルを高くしたんだ。そのおかげで前よりももっと早く、もっと遠くへ行けるようになった。」 しかし、 「それからまたルイーズはもっと大きくなった。でもぼくはもう大きくなれなかったから、ルィーズをのせることができなくなってしまった。そのうえぺンキははげおち、タイヤはすりへっていた。とうとうぼくは屋根裏部屋に片づけられてしまったんだ。」 さっきの作品でいえばこれは自転車の嘆きですね。こうして、自転車の側から見ることで、「成長」と呼ばれている物の、別の側面が、よく見えて来る。絵本っていうメディアの強みが、すごうよくわかります。 そして、 「ぼくはとってもひろいホールへ連れていかれた。(略)そのときやっとわかったんだ。ルイーズとパパはぼくを売ってしまうつもりなんだって。ぼくはいつだってルィーズのことを大切に思う自転車だった。永遠に友だちだと思っていた。それなのにだれか知らない人にぼくを売ってしまうなんて! ぼくはハンドルをルィーズの方にむけていった。「お願いだからそんなことしないっていってよ、ねえ・・・・・・」でもルイーズはぼくに見むきもしなかった。まわりのおもちゃを見るのに夢中だったから」 すごいことを描いてるよなー。 人間以外を主人公に設定する幼年物の多くは、動物や物をステレオタイプに人間に当てはめて、何かを書いたつもりになっていることが多いけど、これは違う。子どもを全然ナメてない。 このあと、おじいさんに買われた赤い自転車は、修理され、ペンキを塗り替えられる。「こうしてぼくは 上から下まで 青い自転車になった。」 絵と合わせて、このフレーズに出会った時、ゾクゾクしました。だって、「赤い自転車」が「青い自転車」になるってのは、大変なことですもの。ことはアイデンティティに関わります。 絵本ってメディア、才能ある作家たちが使えば、ホントに力あるものが作れるねー。 このあとの展開もいいです。 ★『とんでもないブラウン一家』 アラン・アルバーグ 井辻朱美訳 講談社 1998/1995 作家が「ブラウン一家」の物語を書こうとしたら、その作家の元にブラウン一家がやってきて、色々文句をつける。作家は彼らの注文の応じて物語を書く、と、また要求があり、それに即して書くと、またやって来て・・・。という、現実と物語が行き来する趣向。大げさに言えば、「物語」がどのようにして成立しているか、物語の構造とはなにか、が、分かる作品。 ま、笑って読めばいいんですけどね。 ★『ザンジバルの贈り物』マイケル・モーバーゴ 寺岡たかし訳 BL出版 1998/1995 亡くなったおばあちゃんが遺してくれた、日記に書かれている、彼女の少女時代の出来事。という枠物語です。 イングランド南西にある小さな島が舞台。わずかな牧畜や農業と漁で日々をしのぐ生活。時々ある大きな実入りといえば、船が島の近くで座礁したとき、船荷をいただくこと(もちろん船員は助けますが)。 そんな貧しい島の少女が主人公。彼女、船に乗りたくてしょうがないのですが、「女はギグには乗れないんだよ。いままでもためしがないからな」。 双子のビリーは男だから、乗れるっていうのに! メイばあちゃんは、「女にだって、男にはできない仕事がいっぱいあるんだからね」と言うけれど、「そんなのは私の仕事ではないって気がする。やっぱり、どうしてもギグの漕ぎ手になりたい。いつか、きっとなってみせるわ」。 しかも、その乗れるビリーは島に嫌気がさし、出て行きます。落ち込むお父さんとお母さん。 大事な収入源であった、牛が嵐で死んでしまう。「もう、わたしたちにできることは、せいぜい、難破船がやってきて、その救助活動であるていどの分け前が得られることを期待して、お祈りすることしかないって。だからわたしも、心からそう願って、難破船がやって来ますようにって、いつもお祈りしているんだけど」。 そして、なんと難破船が。「わたし」も女であるにもかかわらず、船を漕いでそれを救いにいくことに!「これまでの人生のなかでいちばん望んできたことが、まちがいなくいま実現しているんだわ。ついによ。ついに、ついに!」 さて、難破船によって得た物は、「わたしたち、ずうっと難破船がやってくることを祈りつづけてきた。だけど、それがほんとうになるなんてね。それも、こんな難破船とはね! まさに奇跡が起こったとしか考えられないんじゃない? 壊れた家を建てなおしたり、ボートを修繕したりする木材もたっぷり補給できたしね。ミルクを出してくれる牛もいるし、わたしたちと牛が冬を越すのに十分どころか、春蒔き用の種までのこせるくらいの穀物だってあるし。それに、ラム酒だって、お父さんに言わせれば、みんなを、それこそ死ぬまで、ずうっと幸せな気分のままでいさせてくれるほどたっぷりあるなんてね」 です。そして、メイばあさんの一言は、「奇跡なんて起こるものじゃない、何かが起こったとすれば、それは何者かがそうさせたのさ、それが自然の摂理ってものなのさ」 この「何者か」が何者かは、物語の中でどうぞ。 今世紀初めのちょっと珍しい生活と、主人公の前向きの明るさが楽しめる一品。 ★『ウイニングショット』しんやひろゆき 岩崎書店 1998 ジェンダーに関わる要素を意識的に使用することを、最近の児童文学は始めています。今回でも『そして永遠に瞳は笑う』や『ザンジバルの贈り物』などがそうです。それらは、「女の子(女)」であることだけでの理不尽が強く意識されています。だからといって、それだけがテーマとなっているのではなく、その理不尽に無自覚のまま物語を成立させるわけには行かない、との認識がごく自然に備わっているだけです。 この物語もそうで、地方予選の決勝戦まで行った中学生チームのエースである「ぼく」が主人公。このチームが、新チームとなったとき、最初の練習試合を女子の野球チームとすることになり、相手のエースは、以前女の子だからとチーム入りと断られた、「ぼく」の幼なじみ・・・。 この練習試合にスペースを割き過ぎていて、物語バランスがいいとは言えませんが、肩ひじ張ることなく、ジェンダー問題が出てくる辺り、まさに現代の物語といえそうです。 ★『がんばれセリーヌ』ブロック・コール 戸谷陽子訳 徳間書店 1998/1989 16歳のセリーヌはパパの再婚相手、22歳のキャサリンと同居中。というのは、パパが「歳がこんなに近いんだから、共通する話はたくさんあるはずだよ」と言って「ヨーロッパの七つの大学を回る講演旅行に出かけて行っちゃった」から(『がんばれセリーヌ』ブロック・コール 戸谷陽子訳 徳間書店)。絵描き志望の彼女はそれを、「パパって途方もない想像力と、限りない希望の持ち主」といった、自分も含めた事態、状況を眺め分析する仕草でしのぐのやね。 隣家のバーカー夫妻の息子、7歳のジェイクと二人で、自分が描いた絵を踏みつけて遊んでいるときも、「アーティストってみんな、自分の創った作品が嫌いなんだから」というわけだ。 しかしそうしたやり方に満足しているわけではない。夏にフィレツェにある友達の別荘へ行くつもりだけれど、「わたしは帰って来ないつもり」なのだから。 物語はいままさに両親が離婚しかかっているジェイクを配すことで、セリーヌに「私と世界」の繋がりをもう一度再チェックさせる。口に出しては言わないけれど、「ジェイコブ。やっぱり現実を直視した方がいい。家族の暮らしは終わリよ。あんたには、離婚を思いとどまらせるほどの価値がないってわけ」といった思いはセリーヌ自身の抱える痛みでもある。 物語のクライマックスはセリーヌがママを大好きだったある情景を思い出す所なのだけれど、それは読んでのお楽しみ。「こんなにまっすぐ児童書である作品も近頃珍しい」、と言ったらあなたはそれを批判だと思う?(読書人時評1998/05より抜粋) ★『夜物語』パウル・ビーヘル 野坂悦子訳 徳間書店 1998/099 さっき『じてんしゃにのりたい! 』というベルギーの本をご紹介しましたが、今度は同じ訳者によるオランダの物語。オランダはもちろん、オランダ語を使うのですが、ベルギーも北部のフラマン系はフラマン語、すなわちオランダ語を使います(南はフランス語圏)。そんな訳で同じ訳者が両国の児童書を紹介できるのです。 物語の初期設定はとてもスタンダード。屋根裏に忘れられた人形の家、それに住む小人。そのともだちは、ネズミとヒキガエル。ある夜、羽を傷めた妖精が宿を借りに来る。気のいい小人は一夜の約束で妖精と泊めるのですが、彼女が語る話が面白くて、次の日も、そして次の日も・・・。 よくありそうな設定。けど、実はこの妖精、毎日歌い踊って暮らすのにうんざりして、ある時聞き込んだ情報を信じて、旅をしています。 「結婚して、子どもができて、そしたら死ぬことができる」と。 そんなもので、とにかく結婚しようと、開いてを探す。くどき文句は、「わたしたちが結婚したら、きっと死がむかえにくるわ!」 果たして妖精は死を見つけることが出来るのか? ね、ちょっと違う感じです。 オランダ語の児童書って、これまであんまり訳されなかったのですが、この訳者の出現で、昨年から、ポツポツ出てきました。ここでも紹介した「マタビアは貝のおまもり」(岩波書店)、「テーブルの下のアンネ」(くもん出版)、「赤姫さまの冒険」(徳間書店)。そして本日の2点。どれもハズレではありません。 ここしばらく、注目はオランダ語の児童書かもしれません。 妖精への、小人の最後の決めセリフは、「ぼくのそばで暮らしたら? そしたら、ぼくたちもちょっとだけ、人間みたいにやっていけるよ」 決めるときゃ決めるね、あんた。
(1998/05/25)
|
|