2002.03.25
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【絵本】 『いたずら子ゾウのパオ』(わしおとしこ:作 くもん出版) 多摩動物園で初めて生まれたアフリカゾウ、パオの写真絵本。 まあ、あんましカワイイので、思わず情に流れそうなものを、わしおはそのギリギリのところで、文を書いているのがいい。 「多摩どうぶつえんには、ずっとまえから、アフリカゾウがいました。 でも、あかちゃんが生まれたのは、はじめて。 とても、めずらしいことなのです。 とても、うれしいことなのです」 などですね。 ページごとの紙色の選択にも目がいっていて(これは編集者?)、とても丁寧なつくり。 なもんだから、わたしは安心して、情に流れ、ただただ、パオを「カワイイ・・・」と、テレーとして眺めるのであります。(hico) 『よあけまで』(曹文軒:作 中由美子:訳 和歌山静子:絵 童心社 2002) ターヤとシャオヤのばあが亡くなった。彼らにとってのただ一人の肉親。 この物語は、たった二人でよあけまで、ばあの側ですごす時を、淡々を描く。ばあへの愛情とばあからの愛が、静かに、静かに二人の中を流れていく。 和歌山の画はもう少し明るい方が返って静けさを増しただろうところが少し残念だが、それでもこの絵本は、人の死を受け入れるすがた、つまりは死者の生前をいとおしむ姿が深く伝わってくる。(hico) 『ぜったい たべないからね』(ローレン・チャイルド:作 木坂涼:訳 フレーベル館 2002) あははは。 が、読後最初の言葉。 だって、いかにもありそうな話なんだから。 「ぜったい たべないからね」って妹が言うもんだから、当然兄ちゃんは「たべさせよう」と画策する。そのアイデアはいいし、いいから、「うそ」とわかってても妹はたべていく。 ここには、「いい方法」の押しつけはない。あるのはただ、たべない妹にたべさせたい兄ちゃんの必死気分。(hico) 『ぜったい たべないからね』(ローレン・チャイルド作、木坂涼訳/フレーベル館 2002) コンピューター・グラフィックスの特性や印刷技術を巧みに生かした、とってもお洒落(しゃれ)でダイナミックな絵本の登場である。 プチトマトが、カボチャのように拡大されて扉を飾ると、その異様な画像が「ぜったい たべないからね」という表題に説得力を感じさせる。ジャガイモだって、スイカみたいに巨大になったら恐怖感が先にたつ。幼い子どもの心理を鮮やかにあぶり出す見事な表現である。 妹の面倒をちゃんと見てあげてね、なんていって両親は出かけてしまう。好き嫌いが激しい妹に、兄は辟易(へきえき)する。そこで一計を案じた兄は、食材のそれぞれを宇宙の彼方からの贈り物だとして、ユニークな命名を試みる。 ニンジンは「えだみかん」、ソラマメは「あめだまみどり」、ジャガイモは世界一高い山のてっぺんで採(と)れる「くもぐちゃらん」、魚のフライは「ころもうみ」。そのアイデアが妹のこだわりを溶解する。 絶対に食べないと拒んでいたプチトマトを、妹は「まんげつぶちゅっと」と命名して、お兄ちゃんはまさかこれをトマトだと思っていたの、と反撃して食べようとする妹の切り返しが鋭い。 日常性を反転させて、新しい関係性を照射する作者のたくらみはしたたかだ。ケート・グリーナウェイ賞の受賞作。続編の『ぜったい ねないからね』とともに、詩人の訳も工夫されていて楽しい。(野上暁) 『ポストマン』(あんどうともこ アスラン書房 2002) 村から町から、郵便を受け取り配達すること。昔は遠方モミュニケーション唯一の地位を占めていた、郵便も今、ケイタイやメールと共にある一つのツールにすぎません。そんな中、この絵本は、ひとりのポストマンを描いて、ケイタイやメールとは別の有り様を示します。 などというより、画と言葉のリズムができのいいNHK「みんなの唄」のノリで、楽しませてくれます。「心の絵本」シリーズはメッセージ性が高く、そこでつんのめってしまうのですが、この作にはそれがありません。 印刷のせいか色味が少し悪いのが残念。(hico) 『宇宙・地球 いのちのはじまり』(1巻 2巻)(理論社 2002) 宇宙の誕生から、地球のいのちのはじまりまでを追っていく、科学絵本の第一回配本。 少女マータが時間の化身ルタン=コスマス博士と、この旅に出かける設定は無難なもの。 そして作り事態も無難です。最新科学情報を手際よくまとめて、知識を投げかけてくれます。 私の子供の頃は説明だけの「図鑑」でしたが、今はこうした試みの方がいいのかもしれません。あとは、どうトキメクことができるか?です。 さしていい印刷でもない図鑑の手書きの精密な宇宙、銀河の画と写真、何度見ても飽きなかったのを覚えています。それはもう、自分がごく小さな地球の存在であることを確かめる喜びでした。自分の近場の悩みで手一杯な子供時代にとって、それすら、小さな事象だと思わせてくれたのです。 40年前の図鑑を取り出してきてみると、画のパワーは比べようもないほどアップしています。 それが、感動のパワーアップにつながるかどうか? おそらくそんなことはないでしょう。子供の目もまたパワーアップしているのですから。 おもしろいのは、この科学絵本、WEBでも公開されている点。「心の絵本」シリーズも同じ試みをしています。 WEBで見て(さわりだけじゃなく、ほぼ全部)、それを書物として手元に置きたい人が買う。ちゃんとアマゾンへのリンクも貼られている。 絵本の場合、こうしたやり方は、いいと思う。図書館などがチェックして買いやすくなるから。それと、書物とWEB、そのメディアとしての違いが実感できるから。 なお、本に出ているURLは間違いで、正しくは以下。 http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/ehon/rironsha/index.html 【創作】 『13歳の沈黙』(E・L・カニグズバーグ著、小島希里訳、岩波書店)2000/2001 カノグズバーグといえば、これまで12歳を中心とした子どもが直面するリアルな問題を描いてきたベテラン。ところが、本書では、大人への入り口に立つ少年、つまり13歳に初挑戦。これだけでも読む価値あり! キイワードは「恥」の感覚。つまり、セックスがからんでくる。 物語はミステリー仕立て。とびきり言葉好きな親友が、小さい妹の事故を緊急通報した瞬間から、何も話さなくなってしまった。少年が、謎を解きあかすまでのサスペンスフルな物語で、家族が重要な位置を占めるのは、従来のカニグズバーグ作品と同様。 少年が助けを借りる腹違いの姉、ソフト開発会社を自営する20代女性の人物像もなかなか魅力的。これまで、もっと年輩の「大人」像が多かったように思うのだが…。70歳になって若い世代に望みを託せる作家は、やはり大物だなあと、しみじみ実感の一冊。(seri) 『13歳の沈黙』(E・L・カニグズバーグ著、小島希里訳、岩波書店 2000/2001) 義理の妹ニコルが部屋で怪我をし、意識不明に。ために緊急通報をするはずがそこで言葉がでなくなってしまった親友ブランウェル。言葉を何より愛していた彼がどうして? 義理の妹に怪我をさせた容疑で、ブランウェルは収監される。 何があったのか? 真相を突き止めるべくコナーは毎日、ブラウウェルのもとに通う。自分とだけのコミュニケーション方法があるはずだ、と。 ベビーシッターをしていたビビアンは、彼がニコルに異様な興味を抱いていたという。本当か? 物語は、ニコルの容態の回復具合と、ブランウェルとのコミュニケーションが徐々に開けていく様と、コナーと義理の姉マーガレットが真相に迫っていく過程を交差させながら、とてもスリリングに展開していく。 作者のキャラ立ては相変わらず本当にうまい(うますぎて、ちょっと鼻につくくらい)。 この人の作品に多い大人の節度が、ここでは今の子ども世代に対しては陰が薄く、20代のマーガレットの、節度からははみ出した、ものごとを隠さない態度に作者が惹かれているのがよくわかる。 12歳を子どもの臨界点としてこだわり続けてきた作者が、13歳を描いた。大人でも、子どもでもない時代の最初の一歩を。 それはなにより、描かざるを得ない時代ということ。 巨匠がいよいよ13歳に入ってきた!(hico) 『影の王』(スーザン・クーパー:作 井辻朱美:訳 偕成社 1999/2002) ロンドンのグローブ座で上演される『真夏の夜の夢』のパック役のためにアメリカからやってきたナット。厳しい練習の日々。が、ある時彼は時を超えてしまう。やってきたのは16世紀のグローブ座。『真夏の夜の夢』の練習場。彼は同じナットと呼ばれる少年と間違えられたまま、20世紀の演出による技でみなを驚かす。ナットに興味をもっとも示したのは、ウィル。まだ傑作を生み出す前のシェイクスピアだった。こうして、シェイクスピアと共演する、夢のような日々がはじまる。 何故時を超えてしまったか、本物の16世紀のナットが20世紀の病院でペストの治療を受けているのは? 種明かしはよすとして、もう単純に時を超えてシェイクスピアと共演というだけで結構楽しく読めてしまう。エリザベス女王も登場するし。 タイムトラベルなんですが、20世紀でナットは母親が亡くなり父親が後追い自殺し、孤児です。で、16世紀で、父親としてシェイクスピアを発見する。彼の元にずっといたいと思うナット。でも、20世紀に戻ってしまう。 ここにもあるのは自己の輪郭をはっきり掴めない子ども。出自は失われ、自ら得たそれは4世紀も過去に・・・。 もちろん救いは用意されてはいますが、それも確たるものではありません。(hico) 『上と外』6分冊(恩田陸著,幻冬社文庫、(1)2000年8月〜(6)2001年8月) スティーブン・キング『グリーン・マイル』(邦訳は新潮文庫)のように毎月書き下ろし文庫連載(?)スタイルに、『六番目の小夜子』でおなじみの売れっ子作家が挑戦。いずれ単行本になるかもしれないが、とりあえずは ページターナーのエンタテインメントに仕上がっている。 中南米の政情不安定なG国で、クーデターに巻き込まれ、さらにはジャングルで迷子になる兄(中学生)妹(小学生)が主人公。ふたりの父母は、すでに離婚済みなのだが、毎年休暇をともにする疑似家族でもある。冒険小説と家族小説、それにマヤ文明の廃墟といった伝奇的要素も盛り込んで、これらのうちきっとどこかで読者の関心がヒットしそう。この荒技にとりくんで、これまでややブッキッシュな傾向がめだった恩田陸という作家、もう一段ブレイクしそうな気配も感じさせる。 盛りだくさんな内容だが、成長物語のワクをくずさないから、児童文学読者にも読後感はよいはずだ。そして成長物語をとりまく現代的な「情報性」も、ここにはたくさん盛り込まれている。たとえば、身体性ということ。兄妹の成長は、どちらの場合も、身体と精神あるいは感情をコントロールできるようになるというかたちで描かれる。日本と中南米の格差、つまりグローバル化のもとで再認識されるような不均衡問題と、コンピュータによる相互の交流可能性にも、ずいぶん目配りされていて、そのあたりがたぶん著者がいいたかったテーマなのかもしれない。中学生以上向き、かな。 註:ただし調査不足なのが、主人公の兄がはまっているフリークライミング関連の叙述。クライマーは絶対、軍手なんかしません! (seri) 『家なき鳥』(グロリア・ウィーラン著、 代田亜香子訳 白水社)2000/2001 表題は、インドの詩人・タゴールの詩による。帰る家のない鳥のように、貧しさ故に住みかを変転させられながらも、たくましく生き抜く少女の物語。舞台はインドだが、著者はアメリカ人で、この作品は全米図書賞受賞作。 ここに描かれるインド女性の境遇は、まさに日本でいう「女三界に家なし」。13歳で生家から婚家へ(生家では口減らしが、婚家では持参金が目当て)、そこで夫(といえるほどの実体はなくても)が死ねば、「未亡人の街」に捨てられる。 口減らしのための「姥捨て」なら日本にもあったが、この「未亡人の街」、現在もインドには実在するのだそうだ。 なんだか悲惨な物語のように思われるかもしれないが、この主人公は意外にも明るくたくましい。ただひとつの楽しみ、キルト刺繍に自分を取り巻く物語をつづりながら、ついには自立への道を見いだす。その過程がいきいきと描かれていて、実に楽しく読める。 女性の自立のカギは、手に職をつけること、読み書きができるようになることというメッセージが伝わってくる。そこに感動できれば、これはよい本。意地悪な読者なら、そこに「第三世界支援NGOの手引き」のようなものを感じるかもしれないけど。(seri) 『ふたりでまいご』(いとうひろし・さく 徳間書店 2002) 「ごきげんなすてご」シリーズ最新作。 巻を追うごとに姉弟は大きくなっていくのですから、作品そのものも、グレードを挙げてきて、今作は文章がずいぶん増えています。数年後には長編小説になっているかもしれません。これも楽しみな仕掛けです。 わたしはあいかわらず、元おさるの弟をあんまし好きじゃない。から、いろいろいじわるでいじくる。んだけど、それって結局弟をよくかまってやっていることになる。ので、なつかれてしまう。ならきっとわたしは世界一のよい姉なんだと思い、弟に訊くと、「オニババ」。もう頭にきたわたしは、よき姉として、弟をセンジンノタニに突き落として鍛えるライオンのごとく、弟を家から遠く離れた公園においてけぼりにすることに。 が、たどりついたはいいが、私もどう帰ればいいかわからなくなってしまい・・・・。 できのいい設定のシリーズは安定していますから、今作もおもしろおかしくホノボノと読ませます。自分ではツッコミのつもりの姉が実は結構ボケだったりしてね。 キャラが画でしっかりたてられているこのシリーズの場合、文の方が増えていくに従って、文と画のバランスが微妙に変わってきてしまい(これは当然なんですが)、それが少し気になりますが。(hico) 『旅立ちの翼』(プリシラ・カミングス:作 斉藤倫子:訳 徳間書店 1997/2002) 父親が失業して祖父の農場に住むウィル。父親はなんだかふやけてしまって、母親とケンカが絶えない。そんな不安の中、おじいちゃんがガンの狩りに連れていってくれる。でもそのときおじいちゃんは心臓発作が出て、倒れる。狩りのせいだ。ぼくのせいだ。いらだったウィルはガンに向かって発砲。当たってしまう。ウィルは傷ついたガン、自分が傷つけたガンを助けようとする。 この物語は、孤独な少年、野生動物とのかかわりによる孤独からの解放と、動物物語の典型を踏んでいる。従って成長物語です。 どこか懐かしい。(hico) 『こちら「ランドリー新聞」編集部』(アンドリュー・クレメンツ:作 田中奈津子:訳 伊東美貴:絵 講談社 1999/2002) 自由教育が売り物のラーソン先生。でも実は何の指導もしなくて、新聞、雑誌、本などが資料として置かれているだけ。先生は、騒がしい教室で生徒をほったらかして新聞を読んでいる。父兄からはあのクラスにだけは入れてくれるなとの嘆願書が校長に届くありさま。 教室転校生カーラ・ランドリーが、学級新聞をつくり、その社説で、先生を批判したことから、物語は始まります。 先生は最初怒るのですが、最近のやる気のなさは決していいことではないことを自分でも思っているから怒ってしまったことも気付いてます。で、「ランドリー新聞」を素材に本当の自由教育を始める。 表現の自由を巡っての展開はスピーディーで、読ませます。 まぶしいほど真っ当な児童文学、という言い方が皮肉でもなんでもない作品の仕上がり具合。重くなく、あくまで軽く、ね。 ラストがうまく行きすぎて、今のではなく昔の金八先生みたいなの。 だからこれも懐かしいかな。 伊東美貴の画が、うまくはまってます。(hico) 『クレーン男』(ライナー・チムニク:文・画 矢川澄子:訳 パロル舎 1956/2002) 言うまでもなく、チムニクの代表作。パロル舎さんが復刊してくれました。装丁がいいです。 これは児童書というより、大人のための寓話です。だから、大人が読む場合、「児童書を大人が読む」という姿勢でアプローチすると、はずしますのでご用心。 チムニクの想像力の幅を堪能できます。 『<ヤギ>ゲーム』(ブロック・コール:作 中川千尋:訳 1987/2002) これは、以前ベネッセから出ていた『森に消える道』です。版元が変わって復活しました。 いい物語です。http://www.reviewers.jp/sakuhinn/7ma/morini.htm(hico) 【評論】 『子どもの「夢中世界」のヒミツ』(渡辺尚美:作 雲母書房 2002) 子ども調査研究所の渡辺によるこどものおもちゃのヒット要因の解析や、「今」の子どもの情報が書かれている。親がすでにファミコン世代になりつつあり、マンガやアニメ世代はとっくにそうだから、作品は親子共有されることへの言及は、大人と子どもの差異の無効化の一つのデータとなっている。筆者の知らなかったヒットおもちゃもいくつかあり、勉強になった。 どちらかと言えば資料の提示が主なので、分析そのものはさしたる新しさはない。しかし、調査研究所員である渡辺のすべき仕事は提示の方なので、これはこれでいい。(hico) 『若者はなぜ「繋がり」たがるのか』(武田徹 PHP研究所 2001) これはもう、タイトルからしてキャッチされてしまいますよね。 この主題の展開は、たとえば前号で目黒が批判的に評価した香山リカの『多重化するリアル』に至る様々な発言や、宮台の一連の「今」の「Y」(ヤングだよ。懐かしいね。)に関する発言などをふまえて、作動しています。 武田はケイタイに象徴される「今」の「Y」を否定はしませんが、これでいいのか?というのがあるので、ここに集められた、様々な雑誌に書かれたエッセィは似たようなリズムを刻んでいます。もちろん武田にも答えはなく、「?」だけですが、それでいい。 ただし、この書物は、タイトルを裏切っていて、それに直接リンクしないエッセイも入っているところが、んんんn・・・。 宇多田の分析など、それなりにナルホドですが、「そんだけ?」であることも確か。 「そもそも若者とは誰のことか。若者はどこにいるのか・・。そんな疑問をつねづね持っていた」とのあとがきの正直さは、武田がこの書物で抽出する「若者」(Yです)と同じ「モラル」から出てるような気がするのが、おもしろい。 全部を信用してもしょうがない(ことは武田も他者のデータに対して言っているからいいだろう)けれど、漠たる全体のあいまいな輪郭を知るためには、『子どもの「夢中世界」のヒミツ』(渡辺尚美:作 雲母書房 2002)と同じく、読んで損はない。(hico) |