2002.07.25

       
【創作】

『サマースクールデイズ』(深沢美潮:作 幻冬社 2002)
「フォーチュン・クエスト」(メディアワークス)の著者による学園モノ。
 千里は高1の女の子。夏休みに、アメリカンスクールで開催のサマースクールに参加する。幼なじみで親友だった瑞穂に嫌われたことをきっかけに「登校拒否」になった娘のために、母親がセッティングしたのだ。しかしながら、サマースクール先には瑞穂の姿があった…。
 夏休みモノの王道かと。サマースクールは、これまで決断することを他人(母親と瑞穂)任せにしてきた消極的な千里にとって転機(その中身は本書に譲る)となるから。とりわけ、母親と瑞穂に(共)依存していた千里の姿はよく描けていると思う。ただ、ジェラルドという男の子(サマースクール先のアシスタント)と付き合うことになる結末は、ジェラルドが千里に惹かれる理由が不明なために説得力がない。また、ジェラルドがおとぎ話世界の王子さまのようで、サマースクールをサバイバルした千里への戦利品としか受け取れない。以上の解離(女の子たちのリアルな世界とおとぎの国の男の子たちの世界)に、女の子たちの日常と願望を指摘することも可能だろう。最後に、蛇足かも知れないが、「ふだんは英語を母国語にしているような人たちだけが通う学校」という一文の「母国語」は「母語」にすべきかと。「母語」と「国家語」が一致することはありえないので「母国語」という概念は成立しないし、そもそも「母国語」に相当する英単語はないはずだから。(meguro)

『新・時空のクロス・ロード 緑の指の女の子』(鷹見一幸:作 あんみつ草:イラスト メディアワークス 2002)
「時空のクロス・ロード」シリーズが新シリーズとして再出発。前シリーズとリンクしているけれど、独立したシリーズとして読むことができます。
雅之は高2の男の子。幼なじみで高1の女の子・瑞穂と通学中に、千夏という女性と出会う。園芸という共通の「趣味」を通して、千夏と瑞穂は交流を深めていくが、知夏が瑞穂に接触したのには理由があった。千夏は別世界の住人で(80年後の世界だが、未来ではなく、時間軸に沿った平行世界である点に注意。両者は現時点でパラレルだから)、彼女たちの世界は環境の激変で滅びに瀕している。千夏は別世界では遺伝子工学の研究員で、人間に対してのみ毒性を発揮する植物に対抗する手段を模索していた。その鍵を握るのが「緑の指」(植物とシンクロできる能力)を持つ瑞穂であった。瑞穂は、個人的なある理由から千夏たちの世界を救うべく行動を起こす。
瑞穂は、自分のことを「パセリ」(添え物のように、居ても居なくても気にしてもらえない存在)だと思っている。だからこそ、気にかけてくれる雅之は瑞穂にとってかけがえのない存在である。このように男性に依存する女性像に不満をおぼえる読者もいるかも知れない。たしかに、そのように慕われている雅之にとって瑞穂は都合のよい女性である訳だけど、そこら辺の男性のいやらしさがきちんと描けていることを考えると、確信犯なのでしょう。「緑の指の女の子」ではなく、「緑の指の男の子」だったら、どのような展開になったのか想像してしまいます。物語運びの巧さは相変わらず。ちなみに、「でたまか」シリーズ(角川スニーカー文庫)が第2部(アウトニア王国再興録1)に突入しました。(meguro)

『ムーンゲイザー ー月を見つめて』(高見ゆかり著,PHP研究所、2002年7月)
 空にあるはずの月が、わたしにだけ見えない。中学生のあずみの身に、何が起こったのだろうか? 親友のエミに励まされるあずみに、天文部のクラスメイト・遠夜がなぜか接近してきて……。そして、あずみの胸に忘れていた過去のできごとがよみがえる。
 ミステリアスな物語の導入として、主人公に異変が起きるのは常。しかしそれが、巨大な虫に変身するとか超能力が身に付いてしまうとかではなく、
「月が見えない」。さして日常に支障をきたすわけでものない、でも何かを喪失したようで落ち着かない。それが、この物語の核心だ。
元気な親友や、ちょっと気になる男の子との日常を描きながら、そこに不思議な時間と空間をさりげなく重ねていく物語は、SFテイストの叙情を感じさせる。この感じ、たとえば梶尾真治や薄井ゆうじのファンなら、ぴったりくることだろう。
 ネタばれになるからくわしくはふれないが、日常の時間の奥にうもれてしまったできごとが、たしかに今の自分の古層にしっかり存在している、という認識は、主人公たち中学生のみならず大人のわたしたちにとっても貴重なものだ(けっこうじんとくるよ)。ライトノベル風でありながら、たしかに児童文学。上質のファンタジーです。(seri)

『カードゲームの呪い』(石崎洋司著,講談社青い鳥文庫、2002年4月)
夏休み、小学校6年生の智也は、同級生の純一、妹の千里と三人で、母の田舎である瀬戸内の小島へやってくる。その近くの無人島は、小学生四人が神隠しにあったというし、島では石切場の建設をめぐって大人たちのもめごともあるようだ。カードゲームにはまっている智也と純一の前に、なぞめいた美少年・進矢が現れ、島内の源平合戦ゆかりの場所を舞台に、カードゲームでの対戦が始まる。
 …と、設定を紹介しただけで、この物語がいかに情報量が多く、お楽しみが張り巡らされているか、わかっていただけるでしょう。しかも、物語に登場するカードゲーム「源平闘呪伝」ー源平の武将はもちろん、陰陽師や怪僧、将門や道真の怨霊などのキャラが勢揃いーは、作者のオリジナル(こんなのあったらハマるかも)。さらに社会派系のオチも忘れないという、サービス精神たっぷりのエンタテインメントなのだ。(seri)

『ぼくが空を飛んだ日』(ニッキー・シンガー著,浅倉久志訳、角川書店、2002年6月/2001年)
 まずオビに苦言。「おばあさんのお話が、いじめられっ子ノーバートを、人生という物語へと踏み出させる」と“癒し系児童書”好きの中高年向きのフレーズ。確かに購買層としては大きいから販売戦略としては、これでいいかも。でも中身は違うと思うがなあ…。まあ、「浅倉久志」訳で買い、もあるからいいか。
 イングランドのヤングアダルトで、すでに十一ヶ国で翻訳決定の話題書。主人公は十二歳のロバートで、彼による一人称の語りが、仕掛けに満ちていてなんとも魅力的。というのも、一人称での語りはときに事実を反映するより、当人の認識を前面に出すから、ときに読者は「おやっ?」と驚かされることになる。このあたり、本書の大きな魅力だ。
 クラスのリーダー格、ナイカーのたくらみで、いじめの標的にされているロバートの転機になったのが、老人ホームを訪問して自分のパートナーになった老人と交流するプロジェクト(このプロジェクト自体と、指導する若い女性も魅力的)。無愛想でやや痴呆気味の老婦人の命令で、ロバートは取り壊し寸前の古い屋敷を探検する羽目になる。老婦人の人生のなぞ解きから、ロバートの変容と老夫妻の救済への物語が始まるのだ。
 古い屋敷の探検というモチーフが、なんともわくわくさせて魅力的だ。冒険をつうじて恐怖を克服し自身に向き合うという、古典的な少年小説のスタイルが、「いじめ」という現代的なテーマをくぐってよみがえる。いじめっ子ナイカーの人物像も魅力があるし、登場する老人夫妻も個性的でエピソードに重みがある。結末はたしかに“癒し系”でもあるが、単線的ではない洗練された物語が堪能できる。(seri)

『カモ少年と謎のペンフレンド』(ダニエル・ペナック著,中井珠子訳、白水社、2002年5月/1992年)
 白水社のヤングアダルトはどうも大人向きかなあという気がするが、「スランスの少年少女に大人気」(オビ)とある、とってもおしゃれでユーモラスな物語。
 英語が苦手な中学生カモ(→フランスの名前なのか日本語訳したニックネームなのか、最後までわからなかった)が、母親との賭けに負けて、英国人少女と文通しなければならなくなった。ふてくされていたカモだが、そのうち親友(語り手の「ぼく」)の目からみても異常なのめりこみぶり。なにしろ相手の少女が、非常にあやしい。監禁同様の環境にいるらしく、電話も地下鉄も知らないというのだ。ぼくはカモのために、こっそり調査にのりだす。そのころ、カモ同様に異国のあやしいペンフレンドとの文通にのめりこむ中学生が、周囲で増殖していって……。
 あやしい文通相手の正体、どこでわかったかを、読了した人同士で話し合ってみたい! と痛烈に思わされたのでした。(seri)

『こちら『ランドリー新聞』編集部』(アンドリュー・クレメンツ著,田中奈津子訳、講談社、2002年2月/1999年)
 すでに児童文学時評50でhico紹介済みですが。
 小学生の新聞作りをめぐって、言論と報道の自由、メディア・リテラシーを正面から、かつゆかいに描いた、ストレート児童文学。
 という評価が定まった観もある本書だが、そこにすすむ後段よりも、むしろユニークなのが、担任教師ラーソン先生と転校生カーラの対立を描いた前段、という気がするんだな、どうも。
 とりわけ大人読者には、ラーソン先生がなぜ、新聞はスポーツ欄がいちばんたのしみというダメ教師になったのかというあたり、深読みへと誘われる。「自由教育」を看板に生徒からも月給どろぼう呼ばわりされるほどの、やる気のなさ。でも、彼の教室には本と資料がぎっしり。本のなかには、「ニューベリー賞受賞作品」だって、ちゃんとある。この物語は、そんな彼が教師になって初めて「やりがい」を覚えるまでの「回復」の物語でもある。でも、その回復過程はわりと予想どおりなのだが。
それと、新聞好きなカーラが、もとは「人を見下し、よそよそしく、超然とした記者」で人の弱点や失敗を「強い調子で非難」していたという前歴も、ちょっと無関心ではいられない。そんなカーラが思いやりある編集長に育つ「成長物語」もまた、予定調和の観。
 こんなおもしろいキャラ同士がぶつかりあう前段は、とてもスリリングで、現代的な問題をはらんでいる。この調子で「成長」も「回復」もしないふたりの格闘物語も読みたかったと思わされます。(seri)

『心やさしく』(ロバート・コーミア:作 真野明裕:訳 徳間書店 1997/2002)
 徳間のこのシリーズでは『ぼくの心の闇の声』に続く2冊目。別に続編ではありませんが、人の(子どもも)の心に潜む影を描いています。原題の『TENDERNESS』に「心」が付いたのも前作と重ねているのかもしれません。原題では脆さなどもイメージされますし、この物語にはそれもありますから、難しいところだったでしょう。
 15歳の少女ローリーと18歳のエリックが主人公。ローリーは、いつも新しい男に夢中な母親にかまってもらえず、孤独を抱えています。しかも悪いことに今回の男が母親が留守の時ローリー手を出してきます。で、それを母親に告発するのかといえばそうでなく、彼女は家出を敢行。男の所行を母親が知ったら悲しむだろうから。彼女は自分の心を制御することと、そのために一点何かに夢中になることで、結構前向きに生きてます。今回の家出だって、人気ロック歌手にキス(それも舌を入れて歯と歯の間の闇をまさぐりたい)することに取り憑かれ、それを実行するためでもあります。お金を稼ぐのに男の体を触れさせるのもいとわない。
 一方エリックは母親にも再婚した義父にもなじめず、優しくされることを渇望しながらも、一度それを得ることができても、きっと失うに違いないという強迫観念が彼を侵しています。その人を引きつける笑みでエリックは少女たちを誘い、優しくされた後殺害することに快感を得るようになる。15歳で両親を殺す。家庭内暴力を受けていたとしくんで。そうして18歳、彼は収監所かた解放される。引退した警部補はエリックが二人の少女殺害に関わっていると信じ、彼を監視している。
 人気ロック歌手にキスすることに成功したローリーは解放されたエリックをTVで観てたちまち魅了される。キスしたくなる。だって、この人は私が12歳のとき、暴走族から守ってくれた人だから。
 そうあの日、エリックが一人の少女を殺害終えて森から出てきた時。ローリーは彼が女の子と森に入っていき、一人で出てきたのを目撃している。それが何を意味するかも知らないまま。
 こうして二人はついに出会う。
 ローリーの視点では1人称が使われ、エリックのときは3人称です。そうすることによって、ローリーの心の動きはライブで、エリックのは少し距離をおいて語られますから、物語に奥行きができています。
 物語作りの腕は一流。読ませます。そうしてエキセントリックに描かれた二人は、10代の心を大写しに代弁しています。(hico)

『ふたりのアーサー・1予言の石』(ケビン・クロスリー=ホランド:著 亀井よし子:訳 ソニーマガジンズ 2002/2002)
 ってことは続編もある(3部作)、長編500ページの大作。
 魔法が出てくるわけではないので、しかも時代は12世紀末から13世紀初めに設定されているので、ファンタジーと呼ぶよりむしろサトクリフ的な歴史物語の範疇に入れてもいいのかもしれませんが、最近のファンタジーの要素を含んでいるので、ファンタジーと同じ目線で読んでおきましょう。
 『ふたりのアーサー』なる邦題(原題は「Arthur the seeing stone」)がすでに「予言」していますように、主人公のアーサーと、かの伝説のアーサーが重なっていく展開。
 またまたパラレル・ファンタジーなわけですね。
「私は誰?」という問い立ては、「自我」さえ社会化されればどこにだってあるものですが、それがその社会の中だけで解決(完結)され得ない事態が、ここでも発生しています。
 物語そのものはシンプルな成長小説。バックボーンがしっかりしているので、一気に読めてしまいます。(hico)

『ライディング・フリーダム』(パム・M・ライアン:作 こだまともこ:役 藤田新策:得 ポプラ社 1998/2002)
 19世紀。孤児のシャーロットは男の子よりずっと乗馬がうまい。養子の口はちっともかからず、このままでは飼い殺しになる。いつか必ず牧場をもって一所に暮らそうと約束した親友のヘイワードが養子にもらわれた日、12歳の彼女は孤児院を脱走することにする。ヘイワードの服を着、髪を切り、チャーリーという男の子になって。
 追ってを逃れ、馬の扱いの巧さが認めら彼女は御者に。しかも街で一番評判の。事故で片目を失うもその評判はかえって増すばかり。そうしてためてお金で土地を買い、牧場を持つ。
 実話を元にしているそうです。
 それ故か、物語がスイスイと進んでいってしまって、ソレゾレの個性が立っていないのが残念ですが、実話そのものの面白さで読ませてしまいます。女が参政権を得る50年前に男として投票していた彼女は、死ぬまで女とは知られていなかったとのこと。
 こういう生き方もあるのです。(hico)

『ドルフィン・エキスプレス』(竹下文子:作 鈴木まもる:絵 岩崎書店 2002)
 『黒猫サンゴロウ』(偕成社)シリーズ番外編とでもいいましょうか、サンゴロウにあこがれている若い猫テールの物語。
 ドルフィン・エクスプレス(海の宅配便)で働いているテールが引き受けた品物の差出人は、あのサンゴロウだった!
 テンポが神髄の軽い冒険物語。サンゴロウへのあこがれがテールの成長を促していきます。おそらくこれもシリーズになるのでしょうが、このレベルの読み物がもっと欲しい。(hico)

【評論】
『図説 子どもの本・翻訳の歩み事典』(柏書房)
 子どもの本に限らず、日本の出版文化は欧米諸国の著作物の移入と翻訳から計り知れない影響を受けてきた。毎年フランクフルトで行なわれる国際ブックフェアーや、ボローニャ国際児童図書展での、日本の出版社に対する積極的な版権売り込みを目の当たりにすると、今日でも我が国は欧米出版物の最大輸入国であることが強烈に印象付けられる。
この本は、二〇〇〇年五月、東京上野にできた国際子ども図書館の開館記念として催された「子どもの本・翻訳の歩み」展をもとに、それをさらに発展させてまとめた労作である。記念展示そのものは、スペースの制約もあっていささか物足りなかったが、この本ではそれが大幅に拡充され、日本の児童文学翻訳史としてこれまでにないユニークな本に仕上がっている。
編者の一人である佐藤宗子は、翻訳は創作以上に時代の子ども観を反映しているのではないかと述べているが、完訳、翻案、抄訳、再話といった翻訳のさまざまな在り様を時代の変化と読者との関わりの中から読み解いていくと、それが如実に浮かび上がってくる。
本文は明治期の「子どもの文学の誕生」から、「成長する子どもの文学」「花開く時代」「広がる子どもの本」「戦争をはさんで」「「近代」から「現代」へ」「「現代」の出発」「変化の波」と、日本の児童文学の流れを基準にして一九七九年までを八章に区分し、日本語化された代表的な海外作品に、時代を象徴する国内の児童文学作品を挟み込みながら九六二点紹介する。そのそれぞれの作品解説が、短文ではあるが要を得ていてなかなか読ませる。後半は「翻訳児童文学データ集」「翻訳児童文学関連施設紹介」「翻訳児童文学出版年表」と続き、児童文学や児童文化研究者にはなかなか重宝な本であろう。
とはいえ、気になる点も少なくない。タイトルに「子どもの本」とありながら、膨大に出版されてきた翻訳絵本が全く省かれている。ならばなぜ「子どもの文学」としなかったのか。また、「図説」とか「事典」という表現も実体とのズレを感じる。同じ版元から昨年出版された、ピーター・ハントの『子どもの本の歴史』が、随所にカラー口絵を挟み込み豊富な図版を大きく紹介しながら、世界の子どもの本の流れを楽しく見せていたのだが、このような優れた手本があるのだから、「図説」と題するならもう一工夫も二工夫もできたのではないか。
巻末の「翻訳児童文学出版年表」も、本文の紹介作品を年代別に表にしただけ。おそらく掲載タイトルの数倍の作品を検討しながら絞り込んでいったのだろうから、それらを収録したら資料的な価値はもっと高まったのではないか。本文中に唐突に入っている石子順の「映像に"翻訳"された外国児童文学」の「児童文学は子ども映画の大きな供給源となってきたから、欧米各国のたいていの児童文学は映像化されている」という記述には驚いた。こういう論証抜きの記述を容認しては、本そのものの信憑性に関わってくる。せっかくの意欲的な企画であり、たいへんな労作であるだけに惜しまれてならない。(野上 暁 読書人)

『近代子ども史年表 明治・大正編』(下川耿史:編 河出書房新社 2002)
明治大正年間(1868〜1926)の近代日本の子ども史。「家庭・健康」「学校・教育」「文化・レジャー」「社会」のジャンルごとに整理されている。
 書評子も近代日本をフィールドに研究しているので痛感していることなのだが、明治大正年間の出来事を辿ることはかなり困難である。史料の散逸ということも原因の一つであるが、子どもたち自身の声が文書の形で残ることは稀であるし、そもそも、子どもたちに読み書き能力を期待できるための諸条件が整うのが明治大正年間なのである。したがって、本書の年表の多くは、当時の大人たちが子ども達に向けたまなざし(役割期待)と、そのような役割期待(イデオロギー)を普及する諸制度の歴史であることには注意が要される。児童文学もまた、イデオロギー装置としての側面を有していることは言うまでもない。いずれにせよ、どのように子ども達が位置付けられ、語られていたのかを知る上では好適な1冊。ちなみに、「昭和・平成編」も刊行されているので、近代から現代に至る子ども観の変遷を辿ることができて重宝します。(meguro)