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【絵本】
『FLIX』(トミー・ウンゲラー:作 今江祥智:訳 BL出版 1997/2002)
ウンゲラーの新訳絵本。
仲の良いネコの両親に産まれたのはなんとオスのパグ。
でも二人は彼フリックスを愛情一杯に育てます。が、ネコの子どもたちには受け入れてもらえず、イヌ町の学校に。そこで人気者になったフィリックスは、ある時溺れているネコを助け、ネコ町でも認められます。
イヌだのネコだのではなく、自分らしく生きていくフィリックス。
オチは予想通りですが、ここしかないでしょうね。(hico)
『ぼくはいぬのプーシュキン』(ハリエット・M・ジーファート:文 ドナルド・サーフ:絵 山元育代:訳 ほるぷ出版
1998/2002)
両親のに可愛がられていた子が、下に子どもが産まれた時のとまどいを描いた絵本。ちがうのは、プーシュキンが人間ではなく犬なこと。つまり可愛がられていた犬が、人間の赤ん坊が産まれたとたん、飼い主たちの愛情がそっちに傾いてしまったという趣向。
それでどうした、といわれると困るが、犬と人間(赤ん坊)がフラットに描けているのが、いいのです。(hico)
『あめ!』(マニャ・ストイッチュ:作 くどうなおこ:訳 ポプラ社 1999/2002)
アフリカの大地に雨が降り、喜ぶ動物。そして、止んで、また暑い日が。
一瞬の雨のすごさと喜びをダイナミックに描いています。色遣いもタッチも大胆に、アフリカの大地そのままを切り取ったような絵本。
ただ、ロゴが、うまくそれにとけ込めていません。実は作者自身が描いた、タイトルの「Rain」のロゴも浮いています。そこが残念。(hico)
『ナイトシミー』(アンソニー・ブラウン:絵 グエン・ストラス:文 灰島かり:訳 1991/2002)
「だんまりおばけ」って呼ばれている、エリック。いつも家で一人なんだけど、だから、彼には秘密の友だちナイトシミーがいる。彼はエリックの心の中のヒーロー。
誰だって不安を抱えた子ども時代、どんな形であれ、このナイトシミーみたいな存在を持っていたと思うよ。それはちっとも悪いことではない。それを支えに、日常のコンタクトが取れるようになっていけば。
マーシャはエリックを「だんまりおばけ」なんて呼ばない。だからある日一緒に遊ぶ。楽しい、楽しい、楽しい。でも、家に帰ったらナイトシミーはもういない。イライラするエリック。
世界と繋がろうとする子どもの物語です。(hico)
『ヒロシマに原爆がおとされたとき・CD付き』(大道あや:作 ポプラ社)
丸木夫妻の妹である大道(被爆体験がある)が、その日の現場のその状況を静かに熱く描いた画と、それぞれの画に関して解説した大道の語りが入ったCD付き。絵本というより、画集+証言です。語りの良さと画の記憶。それを忘れないようにあえて、日を遅らせてご紹介します。
あんまし説明はしたくないです。
観て、聞いてやってください。
分かるから。(hico)
『おじいちゃん わすれないよ』(ベッテ・ウェステラ:作 ハルメン・ファン・ストラーエン:絵 野坂悦子:訳 金の星社 2000/2002)
大好きだった、いや大好きなおじいちゃんのお葬式の日、おじいちゃんの赤いハンカチを握りしめながら、楽しかったおじいちゃんとの日々を思い出しているヨースト少年が、その死を受け入れるまでを、とても丁寧に描いています。
二人で海賊ごっこをしたこと、自転車に乗れるようにしてくれたこと、浜辺でのひととき。
忘れ去るのではなく、想い出を、その人物が亡くなったときに反芻しながら、ゆっくりゆっくり事実として受け入れる。
それしかないんだしね。
画がいいですよ。もちろん物語が物語だから、トーンは沈んでいますが、ヨーストとおじいちゃんの表情と仕草に動きがあって、ちょうどそれが、死後と生前を同時に感じられるように出来ている。
こうしたテーマの絵本を誰が読むんだ、という方もいるかもしれませんが、子どもに死を伝えるってことは、生を伝えるために大事だし、その意味でこの絵本なんかは買いでしょう。(hico)
『スモーキーナイト』(イヴ・バンティング:ぶん ディヴィット・デアス:え はしもとひろみ:やく 岩崎書店 1994/2002)
白人警官による黒人少年への暴行事件が無罪となったために起こったロスでの暴動を覚えている方は多いと思います。最近また同じような警官の暴行がありますし。
この絵本はその暴動に巻き込まれた人々、そしてその暴動を扱っています。
画面ごとの背景はコラージュで、混乱の様子を印象づけ、太い線で描かれた人物たちの画は力強いです。
このダイナミックさは絵本本来の力の一つをよく示してくれています。
割と文章が多く、また社会背景を知る必要もあるので、教材として使われるのもいいでしょう。
子どもが自分で読んで、背景は分からなくても驚いてくれるのが一番いいのですがね。(hico)
『けしごむくん』(二宮由紀子:作 矢島秀之:絵 ひかりのくに 2002)
二宮の新作。まちがいがだいきらいなけしごむくんは、えんぴつくんやいろえんぴつくんに、まちがてはだめ! と演説してしまう。次の日、だれもいない。だってみんな間違わないように練習しているから。
だれもあそんでくれない。と、一本、練習していないいろえんぴつくんがいた。それはしろえんぴつくん。
さてどうなりますか。
ここにも、「はりねずみのフルフル」シリーズに似た、マイナスの効能が書かれています。
まちがったっていいじゃないか、へと、二宮がこの物語をどう着陸させるか、お楽しみに。(hico)
『わにのスワニー2.3』(中川ひろたか:作 あべ弘武士:絵 講談社 2002)
はい、出ました。ワニのスワニーくんとふくろうのしまぶくろさんコンビによる、しょーがない話シリーズ新作2冊です。
今回はいわだぬきさんも加わって、そりゃもう脱力感満載。
しまぶくろさんは自分のバースデー・パーティーをしようと、お客にまず自分を招こうとするわ、何がなんでも郵便で招待状を出そうとするわ(電話ですむのに)。もう大変です。
なーんにも考えなくていいです。
どうせスワニーたちもさして考えてませんから。その世界で遊びましょう。(hico)
『ちゃんと たべなさい』(ケス・グレイ:文 ニック・シャラット:絵 よしがみきょうた:訳 小峰書店 2000/2002)
母親と娘の壮絶なバトル絵本。
なーんて大げさな話ではありませんが、結構すごいです。
なんとか豆を食べさせようとする母。豆が大嫌いな娘。
母親は、色々条件をだします。
アイスクリームあげるとか遊園地連れて行ってあげるとか。
ページを繰るごとにそれがどんどんエスカレートしていって、ついに最後は世界中のお菓子屋さんとおもちゃやさんを買ってあげるし、学校は行かなくてイイし、歯を磨かなくていいし、アフリカ旅行も・・・・・・。
もうムチャクチャです。
こうしてムキになる母親と頑固な娘ってのが、ある種のコミュニケーションのあり方を描いていて、いいです。
オチは? 言えないな〜。(hico)
『ゴリラとあかいぼうし』(山極寿一:作 デビット・ビシームア:絵 福音館書店 2002)
これはゴリラ研究家が、日本の子どもたちにゴリラ普及(?)のために出した絵本。
なんですが、だからといって、啓蒙だのあるわけではありません。
山極の文は素っ気ないほど、画面の上部に置かれているだけで、ゴリラが住む地域にやはり住む子どもたちの話が、ゴリラたちの画とともに進んで行きます。
画と、見開き画面での構成力はまだまだ、というのが正直なところ。
それでもゴリラへの思いは伝わってきます。
デビット・ビシームアがもっと巧くなれば、もっといい絵本になるでしょう。
これでも悪くないけどね。(hico)
『まいごのフォクシー』(イングリ&エドガー・ドーレア:文・絵 うらべ ちえこ:訳 岩波書店 1946/2002)
キツネに似ているからフォクシーって名前になった犬の物語。
飼い主の男の子が、ひもで結んだ骨でフォクシーにいたずら。その骨を持ったまま外出したからフォクシーは追いかけ迷子に。
動物つかいに拾われて、調教されます。フォクシーの初舞台、例の男の子が見に来ていて、巡り会い、めでたし。
なんだか不愉快な気分の残る絵本。だってフォクシーにしたら大変な事件で、ショックなのに、それが元の「ご主人様」に会えただけで解決するんだもん。(hico)
『かわいい かわいい わたしの ぼうや』(キャシー・アペルト:ぶん ジェーン・ダイヤー:え 村上真理:やく 岩崎書店 2000/2002)
おしごとに出かけるママは、保育園に残していくぼうやの寂しさをおもい、わたしの想いはいつでもあなたの側にいると呼びかける絵本。
子どもを預けて働きにいく母親のつらさ、でも家族の絆は決してきれていない。
もう愛情一杯です。でもなんだか重いんですね。
そう伝えることで子どもの不安を柔らげるのはわからないでもないけれど、こうも全編、「かわいい かわいい わたしの ぼうや」って繰り返されると、共依存の一歩手前に思えてもしまう。
もう少し力を抜いて。(hico)
『ダンゴムシ みつけたよ』(皆越ようせい:写真&文 2002 ポプラ社)
傑作『おちばのしたを のぞいてみたら・・・』の作者の新作写真絵本。
今回もやっぱり、いいぞ。
前作と違うのは、徹底的にダンゴムシにこだわったこと。
もう、他人(ダンゴムシ)の一生を盗み撮りです。
その一つ一つが、説明文も含めて、皆越さん、昆虫オタクなんやな〜と、感動です。
はっきり言って、ダンゴムシの生涯なんて、私たちと関係ないし、知る必要もありません。
でも当たり前にそこには「生涯」があり、それ(命)の愛おしさを、皆越さんは必死で撮って、伝えようとしています。
写真そのものも、いちいちいいのですよ。
学校図書館、小学校よりむしろ中学校に入れて欲しいです。
この世界の面白さを受け渡してくさだいな。(hico)
『さいた さいた』(とりごえ まり:作 金の星社 2002)
ぞうの背中に花が咲いて、でもそれが枯れて、哀しい。と、その種がライオンたちのへ中に落ちて花が咲く。
この物語の発想は作者が表紙見返しに書いてます。
この単純といえば単純な物語。でもちょっと思いつかないですよね。そこが買い。
ただし、画の工夫のなさはダメ。楽しんで描くのはいいけれど、観る側へのサービスも考えて欲しいな。(hico)
『PINO ピノのおるすばん』(くろい けん:絵 もき かずこ:文 フレーベル館 2002)
ピノとは「科学技術振興事業団ERATO北野共生システムプロジェクト」によって研究開発されたヒューマノイド。
つまりこれを素材として作った企画絵本。
はじめてのおるすばんで不安なピノの時間が描かれていきます。言葉の一つ一つの下に英訳が添えられている意図はインターナショナルをねらっているのか、もきさんが翻訳者だからなのかよくわかりません。日本だけの絵本とした場合、これは余計です。
だって、いちいち気になるだもん。「なんで?」って。
くろいけんの画は、ロボットを描いているからか、いつもとは少しタッチが違っていて、ちょっとおもしろい。でもストーリーは動物を擬人化したものと代わりません。
こういう形でヒューマノイドに馴染ませ(親しませ)ようなんて、まさかないよね。(hico)
『おどる うさぎ レティス』(マンディー・スタンレイ:さく おがわ ひとみ:やく 評論社 2001/2002)
自分の才能を活かしたいって、だれでも思う。
うさぎのレティスは野原でのぴょんぴょんに繰り返しに飽きて、バレリーナを目指す。
なれない都会に出て、バレー教室を見つける。そして、そのジャンプ力によって、たちまちプリマドンナに。
そこまでのストーリーは画の素朴さと併せて、楽しい。
けれど、そのラストが、どうも納得いかない。
いいじゃん、うさぎのプリマドンナで成功して生きてゆけば。
そうならないところが、作者の子ども観ってことでしょうね。(hico)
『そして 犬は走っていきます』(五味太郎 ブロンズ社 2002)
五味絵本のすごさは、タイトルで発想したストーリーをそのまま絵本にしてしまうことでもあるけれど、これも、そうした一つ。
各場面で、色んなことが起こっているけれど、そんなの関係なく、走っている犬。
というか、関係なく走っている犬を描くことで、その色んな出来事をフラットにしてしまう。(hico)
『くらやみがこわい』(クリスチャン・ランタン:文 レジ・ファレール/シャルロット・ルドレール:絵 石津ちひろ:訳 ブロンズ新社 2000/2002)
「はじめての社会生活BOOK」シリ−ズ3。
大きくなっていく子どもたちが直面する問題を回避したり乗り越えたりするためのアドバイス絵本。
くらやみが怖いジュール。トイレに行くのももう大変。
そんなとき、おじいちゃんからくらやみが怖くなくなる魔法のメガネとピストル型ライトをもらう。
ま、それで暗示にかかって、段々くらやみになれてくるわけです。
物語と、親のための子育てアドバイス小冊子がセットです。
絵本とういジャンルはこういう使われ方もよくするのですが、これはなかなか巧い作品に仕上がっています。コミックっぽい割付も入りやすい。
「はじめての社会生活BOOK」というシリーズ名が全面に出過ぎているところが、イマイチ。(hico)
『へんてこライオンがいっぱい』(長新太 小学館 2002)
ライオンの後ろ足が緑になって、前足が紫になって、胴体と頭が赤くなって、キュウリとナスとニンジンとトマトになったり・・・・・、なんて説明したって、しょーがないですね。
長新太の絵本です。
これで説明は充分。(hico)
『おばあちゃん すごい!』(中川ひろたか:文 村上康成:絵 童心社 2002)
見知らぬおばあちゃんがやってきて園児たちと遊び出す。このおばあちゃん、遊び上手でたちまち人気者に。彼女ひろたかなりって子どもを捜しているんだけど・・。
実はその子どもは園長先生。大人だけどおばあちゃんには子ども。で、ひろたかなりくんは子ども時代・・・。
シンプルだけど物語展開のリズムや、ピークへも持っていきかたの巧みさはさすが。ピークのひろたかなりくんのエピソードがいいし。(hico)
『チンプとジィー・おおあらしのまき』(キャサリンとローレンス アンホールト
http://www.anholt.co.uk 角野栄子:訳 小学館 2002/2002)
ふたごのチンプとジィー、シリーズ新作。
洗濯物の片付けを手伝っていると、風が吹いて、シーツの両端をもっていたチンプとジィーはシーツが凧になって空へと飛んでいってしまう。
それを追いかける両親。という設定。
描いた絵を切り取って色紙に貼り直したようなページ作り(ナレーションもそう)。それが、この絵本は作り物なんだよとあえておしえているのが、おもしろい。そうすることで、手作り物語の色合いが増して、親しみを与えてます。(hico)
『雨のじょうろとあなぐまモンタン』(茂市久美子:作 中村悦子:絵 学習研究社 2002)
せんたくやさんのあなぐまモンタン。森の動物の子どもたちが木のうろで見つけたじょうろでどろんこ遊び。
実はそれは花の精が雨を降らせるじょうろ。洗ってもらうためのモンタンの所に雨の精がやってくる。
茂市らしい、ポカポカ物語。
新鮮味はありませんが、それは色々読んでいるからで、初めてこれに接した子どもはおもしろがるんでしょう。(hico)
【創作】
『DIVE!! 4−コンクリート・ドラゴン』(森絵都 講談社 2002)
「飛込み」を題材にしたスポ根小説の最終巻。
いよいよシドニー・オリンピックの最終選考会。ミズキダイビングクラブの知季・飛沫・要一が対決することに。彼らにとっては、同時に、ミズキダイビングクラブの存続を賭けた戦いでもある。知季(14歳)は「天賦の才―ダイヤモンドの瞳を持って生まれた未知の大器」で、飛沫(17歳)は「幻の天才ダイバーと呼ばれた祖父、沖津白波の血を受け継ぐMDC(ミズキダイビングクラブ)の秘密兵器」、そして要一(17歳)は「元オリンピック飛込み代表の両親から生まれたサラブレットの大本命」。それぞれが必殺技をマスターして、選考会に臨む。
最終巻は、各巻で語られていた三者三様の飛込みとの決着(順位ではなく、飛込みと自分の関係についての決着)が描かれているので、かなり「濃い」。よくぞ1巻に収めることができたものだと感心しきり。個人的には、サブキャラのレイジ(知季の友達で「平凡」な飛込みが特徴)が物語にアクセントをつけていてよかったかと(構成上、3人以外の視点人物が必要だったということを抜きにしても)。それに、意外な人物の意外な側面が随所で描かれるなど、サービス精神旺盛なところも評価したい。続刊が待たれる同社の風野潮『ビートキッズ』とともに、児童書の裾野を広げる貴重な1冊。(meguro)
『ポストガール』(増子二郎:作 GASHIN:イラスト メディアワークス 2002)
電撃文庫。第1回電撃hp短編小説賞受賞作。
型番「MMF108−41」、通称「シルキー」は、女の子の姿をした人型自律機械。戦争で枯渇した人的資源のかわりに、通信システムが崩壊した地域に郵便物を届けるのが役目である。また108タイプには「自意識システム」(感情を表現できるプログラム)が搭載されており、戦争で疲弊した人間の心を癒すことも使命の1つである。シルキーは、各地に郵便物を配達するが、社会状況のせいか、その配達物は戦死通知のような悲しいものばかり。そして、彼女の「自意識システム」に、そのような手紙を配達することを拒む「感情」が生まれる。郵便配達を目的に造られた機械にとって、自らの目的を拒む「感情」は、予めプログラムされたものではなく、「バグ」でしかない。シルキーは「バグ」を積み重ねていくことで、変容していく。
古今東西、郵便配達をネタにした物語にはコミュニケーションをテーマにしたものが多いが、本書もまた例外ではない。郵便物を媒介とした様々なコミュニケーション(物悲しいものが多いが)が描かれる。さらに、シルキーは、「自意識システム」に生じた「バグ」によって、「人間」らしくなっていく。興味深いことに、彼女は「人間」になりたい訳ではない。むしろ、プログラム以上に「人間」らしく振舞ってしまう自分に抵抗している。にもかかわらず、シルキーは「人間」に近づいていく。この逆説は、説得力がありました(作者が「あとがき」で触れている『キカイダー』と本質は同じかも知れません)。「コミュニケーション」と「人間」というテーマが郵便配達する女の子型のロボットという現代風の設定で語られるところに、「いま」を感じます。(meguro)
『ほしのこえ』(大場惑:作 柳沼行:イラスト メディアファクトリー 2002)
MF文庫。新海誠の同名の自主制作アニメのノベライズ版。
中学3年生のノボルとミカコは、友達以上恋人未満の同級生。同じ高校に進学することを目指していたが、ミカコが国連宇宙軍に半強制的に抜擢されたことで、離れ離れになってしまう。国連宇宙軍は、タルシアンという地球外生命体の追跡・調査を目的に組織されたものだ。2039年、火星探査チームがタルシアンに壊滅させられたタルシアン・ショック以降、タルシアン遺跡から発掘されたオーバーテクノロジーを利用して、急遽編成された組織であった。ミカコがトレーサーという人型探査機のパイロットを命じられたのが2046年。2人は、メールでしか連絡ができなくなる。やがて、ミカコを乗せた宇宙船が外宇宙に進出するにつれ、メールの着信所要時間は大きくなるばかり。2人の想いは、時差によってすれ違い始める。
念のため、時差について説明しておきます。わかり易く言えば、ノボルの年齢が着信所用時間の分、加齢するということ。たとえば、5光年離れた地点から15歳のミカコが発信したメールを受信するとき、ノボルは20歳になっている。当たり前のことであるが、コミュニケーションは基本的に時間(と表裏一体の場所)に制約される。メールは一見したところ、時間の制約を無くしたように思えるが、従来に比べて所要時間を短縮したにすぎない。本書のように、地球と宇宙くらい離れてしまえば、その時差は無視できないほど顕在してしまう。もちろん、対面して話しているときにでも、発信と受信の間には確実に時差が生じている訳だし、そもそも「現在」を把握した途端、それは「過去」になってしまうのだから自分と対話すること(自分が「今」考えていることを知ること)さえあやしい。私たちの多くは、この時差に気がつかないふりをして生きている訳ですね。本書の設定はSFだけど、それはコミュニケーションに内在する上記のパラドクスを顕在させるための仕掛けなので、SF嫌いの方もどうぞ。(meguro)
『わたしのほんとの友だち』(エルス・ペルフロム:作 テー・チョン=キン:絵 野坂悦子:訳 岩崎書店 1980/2002)
ちょっと昔の作品ですが、古さを感じさせません。それは、ペルフロムのアンテナが、時代とは関わりのない子どもの芯とシンクロしているからでしょう。
オランダはたくさんの植民地を持っていました(今も持っています)がその中の一つスリナムから移民してきた一家と、母親の入院でおじさんチに預かられることとなった女の子、ズワーチェの物語です。
ズワーチェは誰も知らない空想上の三人の友だちピーがいます。彼女は別に孤児でも孤独でもないです。にもかかわらずピーたちがいるのは、空想大好きキャラなんですね。
だから当然ながら、おじさんチで、ピーたちは大活躍。でも、空想は空想で、彼女が抱えた問題の役には立ってくれません。
彼女が友だちになったスリナムから移民でてきた一家の男の子リカルドは、平気で万引きする子なんですが、作者はそれを作品の中で、大人の道徳によって批判なんてしません。ただ、提示するだけで。
で、そのリカルドはある強盗の首謀者として捕まって、でもズワーチェは、彼が万引き少年でも強盗はしないと信じ、助けようとする。
おじさんチは母親の入院の間だけの仮住まいだからリカルドを助けるための時間は少ない!
植民地・移住民への差別問題と、ズワーチェの空想力を作者は同等に描いています。前者を強調しないことで、かえってリアルに子ども読者にそれを伝えるんですね。
子どもを信頼しているペルフロムがここにもいます。(hico)
『水晶玉と伝説の剣』(ヴィクトリア・ハンリー http://www.victoriahanley.com:作 多賀京子:訳 徳間書店 2000/2002)
トリーナの父王カリードは戦好きで、平和を愛する隣国ベランドラを滅ぼす。父を殺されたベランドラの王子ランドンは奴隷として連れてこられる。トリーナの好きにしろ。愛娘トリーナは父に言う。ならば彼を自由にしたいと。こうしてランドンは父親を殺したカリード王の戦士としての道を歩み始める。いつか強くなって・・・・。
ベランドラに伝わる伝説の剣は何をも滅ぼす最強の剣だが、ベランドラの直系以外がもつとのろいがかかってしまう。カリード王はそれを封印し、溶かしてしまったとウソを流布する。知っているのは王と王女だけ。一方トリーナがベランドラからの土産としてもらって水晶玉は、まるで彼女を待っていたかのように、彼女にだけ未来を見せるのだった。ただし自分以外の。
というスタートから始まって、裏切り、逃走、別の名で生きるなど、中世的冒険が満載。アメリカ発らしく、ロマンスもちゃんと入ってます。といってもやはり今の作品、お姫様だって、ちゃんと自己の意志で活躍してます。
新しい世界を読んでいるというより、お馴染みの世界や道具が美味くセットされ、心地よく読ませます。
YAが楽しく読める一品。(hico)
『麦ふみクーツェ』(いしいしんじ:作 理論社 2002)
今一番注目作家いしいしんじの新作。
港町で、偏屈なティンパニストの祖父、数学者の父と「ぼく」の三人暮らし。祖父は町の吹奏楽団を率いている。で、「ぼく」は祖父に「楽器」として育てられた。
ある日「ぼく」は麦ふみをする男の幻覚が見えるようになる。彼の名はクーツェ。「いいも悪いもない。だってこれは麦ふみだもの」。
やがて町にはネズミが降り注いだり、町中が詐欺師にだまされてしまったり、と災難が次々襲う。そんな中「ぼく」は大きな町の音楽学校に行くのだが。
と説明していってもなんだか仕方がない。
ここにあるのは哀しみの深さや、人への愛おしさの調べ。それが、静かに奥底から響いてくる。
クーツェとは何者なのか?
それが明らかになったとき、この世界はその輪郭を見せ始める。(hico)
『おばあちゃんはハーレーにのって』(ニーナ・ボーデン:作 こだまともこ:訳 偕成社 1995/2002)
キャットはおばあちゃんと二人暮らし。彼女が産まれた頃、両親は売れない役者で、地方巡業に連れていけないから、祖母が育てたわけ。
ケンカもするけど仲のいい二人。キャットのもっかの最大の悩みは、いつもちょっかいを出してくるウィリー。親友のロージーとキャットは「鼻くそウィリー」と呼んでいる。
ある下校時、ウィリーとその仲間に追いかけられたキャット。なんとか逃げ延びたが、次の日キャットは校長に「鼻くそウィリー」と呼んだことを叱られる。ウィリーの父親は学校の理事だった。
なんだかうんざりしているキャットだが、悪いことは重なるもので、TVでレギュラーをつかんだ両親が彼女と一緒に暮らしたいと言い出した。キャットはおばあちゃんと一緒がいいのに。
大人たちのキャラはかなり輪郭濃く(ハーレーに乗るおばあちゃんは有名な精神科医。、両親は強烈に子どもっぽい。校長は権力主義者。)描かれてはいるけれど、作者は誰をも公平に描いているので、リアル。それは子どもたちもそうで、ウィリーをやっつけることで解決に導こうとはしない。彼もまた問題を抱える子どもなのだ。
子どもは誰と暮らすか? その権利は? 重たい問題も、語り手であるキャット自身が反芻することで、分かりやすく伝わってくる。(hico)
『エルフギフト』(上下巻)(スーザン・プライス:作 金原瑞人:訳 ポプラ社 1996/2002)
遠い昔、南イングランド、サクソン人の王が今亡くなろうとしている。王位を継ぐのは誰か。王が指名したのは、エルフの女との間に産まれたエルフギフトだった。
そんな馬鹿な。怒り狂う異母兄弟たち。彼らはエルフギフトを殺害せんと、王国辺境の地へと向かう。
勧善懲悪皆無。濃いファンタジー。いや、ファンタジーっていうのも違いますね。確かに奇跡は起こりますが。
愛憎渦巻く世界。それぞれが迷い、時に裏切り、運命とも闘っていく。
オーディンを神とあがめる人々と新しくキリスト教に改宗した人々との対立。
エルフギフトとは果たして誰なのか?
読みごたえ、たっぷりの一冊です。いや2冊ですね。(hico)
『ハンナのかばん』(カレン・レビン:著 石岡史子:訳 ポプラ社 2002/2002)
これは、アウシュビッツを日本の子どもたちに伝えようと、資料センターを作った石岡が、ハンナって女の子の旅行カバンを資料として手に入れたことから始まります。手がかりはなにもない。データは名前と殺された収容所。
それでもこの旅行カバンという、目に見える資料、しかもそれは間違いなく他の誰でもないハンナって女の子の物だったこと。そこから、子どもたちはあのアウシュビッツをリアルに感じてくれるのでは? と石岡の探索が始まります。その熱意はものすごく、それに引きつけられたかのように奇跡的に、ハンナのお兄さんがまだ生きていることも分かってくる。
兄として守ってやれなかった妹を思い、50年以上心の中に哀しみを潜ませていたのに、信じられないことに、見知らぬ日本に妹の大切なカバンが展示されているなんて!
こうして、ハンナの死は取り返せないものの、兄の心を開かせ、日本の子どもたちに、アウシュビッツがリアルになります。
半分ノンフィクションのこの作品、ストーリーの描き方などはさして巧くなく平板ですが、そんなことを事実の力がフォローし、読ませます。涙腺弱い人はご用心。(hico)
『ゲーム・ジャック 危機一髪』(2000)『ゲーム・ジャック 絶体絶命!』(2002)(ひろた みお:作 タダ ユキヒロ:絵 講談社青い鳥文庫)
これは読みのがしていて、TVゲームを素材としているので、興味あり、でした。TVゲームたちを乗っ取ったドジャって悪者によって主人公たちがゲーム世界に入ってしまって、ドジャの難問・難題を突破して、現実世界に戻ってこれるか? がシリーズの骨子。
物語展開自体は、良くも悪くもなく、こんなものでしょう。ライトノヴェルズとしては。
気になるのは、このシリーズがTVゲームを素材としていながら、TVゲームに興味などないようであること。主人公たちはゲーム世界に引き込まれるわけですが、そこで展開される物語はTVゲーム的な物でないのです。この作品に描かれるゲーム世界はクソゲーでしかありません。それはドジな悪者ドジャが作ったからではなく、やはり書き手の側に原因があるでしょう。
素材がTVゲームなのは、呼び込みのための看板かな。(hico)
『寿司屋の小太郎』(佐川芳枝 ポプラ社 2002)
家が寿司屋の小太郎の日々を描いています。
各エピソードの終わりに、寿司だけでなく色んなレシピが載っていて、これで、子どもたちが食べ物の興味を持ってくれれば嬉しい。ジャンクフードではなく、ちゃんと食べるための一歩ですね。
ストーリーは全体を通してあるわけでなく、どちらかというとエピソード集。統一を欠いていて、でもそれぞれのエピソードは切れがいいかというと、むしろ作者の人の良さが出てしまってでしょうか、お決まりの枠をはみだしていないのが難点。小太郎をもっとキャラ立てする必要があります。
シリーズ物になりそうなので、その辺り一工夫欲しいです。小太郎さえ立っていれば、あとは色んなお客などを出してきて、シリーズの物語をつくれるのですから。(hico)
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甲木善久・毎日新聞子供の本新刊紹介
2002年07月分
「うちにかえったガラゴ」
旅のかばん売りガラゴが久しぶりに帰宅すると、たくさんの友達がやってきた。「かばんうりのガラゴ」の続編にあたる本作は、島田ゆかファン必見のオールスターキャスト! 物語を楽しんだあとは、背景に描き込まれた家具で小物で脇役で、またまた楽しめてしまう絵本です。(島田ゆか作・絵/文溪堂、本体1300円)
「わたしおてつだいねこ」
「ああ、いそがしい、いそがしい。ねこの手もかりたいくらいだわ」というお母さんのひとりごとを聞きつけて、ねこのおてつだいさんがやって来た。失敗ばかりのねこさんとの一日の生活をとおして、ねこという可愛い生き物の本当の存在価値を再発見させてくれる作品である。(竹下文子・作、鈴木まもる・絵/金の星社、本体1100円)
「海のやくそく」
ひろいひろい海の上で、ちいさな飛行グモと、おじいさんクジラは出会った。南への旅の途上で、ちいさなクモは大きな希望を語り、クジラもそれを聞きながら、ささやかな安らぎをふともらす。おじいさんクジラのおだやかな夢を叶えた、クモの友情があたたかい。(山下明生:作、しまだ・しほ:絵/佼成出版社、本体1600円)
「こわくないこわくない」
ちょっと反抗期の"まーくん"は、このごろ反対ばかりを口にする。「ねんねしよ」「ねんねしない」いちじが万事この調子。夢の中でおばけに会っても、「こわくないこわくない」なにがなんでも「こわくない」。自意識を持ち始めた幼児の、いじらしい心を写したステキな絵本です。(内田麟太郎・ぶん、大島妙子・え/童心社、本体800円)
「麦ふみクーツェ」
とん たたん とん。「ぼく」の部屋の天井裏で小さなクーツェは麦ふみをする。音楽について、自分であることについて、クーツェの靴音を基調音としながら「ぼく」の語る断片的なエピソードが物語を進めていく。生きることはリズムを重ねることだって、この作品は歌っている。(いしいしんじ・作/理論社、本体1800円)
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