No.60  2002.12.25日号

       
【絵本】
『トレボー・ロメイン こころの救急箱』全6巻(トレボー・ロメイン 上田勢子+藤本惣平:訳 大月書店 1998/2002)
 全巻めでたく完結。
 子どもの様々な悩みをシミュレートして、わかりやすく解説。
 もちろん、翻訳書ですし、個々の悩みは微妙に違うわけですから、ズバリ当てはまることはまずないでしょう。
 自分が今悩んでいることを、もう一度見直す作業かな。その役に立ちます。
 子どもが直接買って読むというより、学校図書館で、読むケースが多いでしょうから、さり気なく目立つように置いてくださいませ。(hico)

『バートさんとバート』(アラン・アールバーク:ぶん レイモンド・ブリックス:え 山口文生:訳 評論社 2002/2002)
 これはもう、「ぶん」以前に、レイモンド・ブリックスのファンが飛びつく絵本。
 「巧い」絵描きから、自分だけの画を描ける絵描きになってます。
 物語は、バートさんとその愛犬バートを巡る小さなエピソードで構成されています。それは、何ほどのことでもないのですが、レイモンド・ブリックスの画に注目ですかね。(hico)

『ミラクルゴール』(マイケル・フォアマン:作 せなあいこ:訳 評論社 2002/2002)
 サッカ−選手になることを夢見ながら、バイトで生活し小さなクラブでプレイする。そしてやがて、彼はイングランド代表に・・・・。
 という夢物語が展開しますが、たくさんのサッカー少年が思い描くプロセスそのものが率直に描かれていて、気持ちのいい仕上がりです。(hico)

『わたしはバレリーナ』(ピーター・シス:さく 松田素子:やく BL出版 2001/2002)
 バレリーナを夢見るテリー。学校から帰ると、鏡の前でいろんな役の練習練習。
 シンプルな画が躍動感溢れ、画面いっぱいに広がります。
 なりたいものに精一杯あこがれてみること。その楽しさと喜びが伝わってきます。画は好き嫌いが分かれるところ、かな。(hico)

『ぼくパパになるんだよ』(エルベ・ル・ドフ:絵 ジュヌビエーブ:文 おかだよしえ:訳 講談社 1999/2002)
 うさぎのパタシューは、モープが妊娠したとわかって大喜び。さっそくねこくんに報告すると、おっぱいもやれないパパなんてといわれ、ふくろうからもおふろにいれるのもへただから、おかちゃんに嫌われると言われてしまう。
 おちこむパターシュ。
 ここからが面白くなるはずなんですが、パタシューもモープもなーんもしなくて、物語は赤ちゃん誕生ですべて解決します。この限界は、懐かしい言葉でいえば「童心主義」。(hico)

『ぼく、ムシになっちゃった』(ローレンス・ディヴィッド:文 デルフィーン・デュラーンド:絵 青山南 小峰書店 1999/2002)
 カフカの『変身』をパクリつつ、子どもの不安を描いています。朝起きるとムシになってて、でも両親も妹もそのことに全然気づいてくれない。しょーがなく6本足に服着て、学校へ。ここでも気づいてくれるのは、親友だけ。
 変身して驚かれもしないことは、驚かれるよりもっと怖い。アイディンティの揺れですね。(hico)

『びりけつのビッケ』(山口理:作 矢島眞澄:絵 文研出版 2002)
 悪魔のビッケはいいややつなので、悪魔世界ではいつもびりっけつ。
 一念発起したビッケは、自分の命を惜しむ度が高い人間を見つけようとする。そういう人の魂を得られれば、悪魔として株が上がるから。で、臆病者の男を見つけるが、
 ストーリーはシンプルですが、オチも含めて良くできています。でも、画が弱い。いい人が描いた、いい人って感じかな?(hico)

『ヒピラくん』(大友克洋:作 木村真二:絵 主婦と生活社 2002)
 子どもの吸血鬼ヒピラくんの物語。絵本とも絵物語ともいえない場面構成はおもしろい。だだし、物語は絵本の尺では収まらない要素を無理矢理絵本に仕立てていて、読後感が不満足です。もう一工夫欲しい。(hico)

『スーザンはね・・・・』(ジーン・ウィリス:文 トニー・ロス:え もりかわみわ:やく 1999/2002)
 車いすの子どもをどう描くか?
 それはつまり、どう見ているかなんだけど、この作品、最後の最後まで、スーザンが車いす乗ってるコなのを見せないの。ブランコ乗ったり、歌を歌ったり、絵を描いたり、そうしたスーザンの日常が活き活き描かれ、スーザンがどんな子かわかったあとで、車いすをだす。
 実にうまい工夫です。
 が、同時に、そうした工夫が必要なのか? は疑問。(hico)

『おへそまる』(山崎朋絵:文 山崎克己:絵 ビリケン出版 2002)
 おへそにはおへそまるがいて、それが「ぼく」を応援してくれている。でも、「がんばれたいそう」に合格しないと、おへそまるは「ぼく」から離れて、もう一度テストを受けないといけない。「ぼく」と離れたくないおへそまるは、「ぼく」にがんばって欲しい。
 このおへそまるってキャラ立てはいいです。おもしろい。
 でも、なんだか作品全体が「がんばれ」モードで、いいんだろうか?(hico)

『マウンテンタウン』(ポニー・ガイザート:文 アーサー・ガイザート:絵 久美沙織:訳 BL出版 2000/2002)
 元金鉱の町だったマウンテンタウンの一年を、細かく繊細なエッチングと文で描いた一品。
 ページを繰るごとに、この町がリアルに迫ってきます。
 でもそのおもしろさが子ども向けかはわかりません。
 じっくる見るコなら、はまるでしょうし、それ以外にはまだるっこしいって辺りでしょう。
 絵本好きの大人はOKです。(hico)

『おてては ぴかぴか』(いとうひろし 講談社 2002)
 「えほん・はじめのいっぽ」シリーズ4。
 外から帰ったら手を洗う。でも手の汚れ一つ一つは今日どう遊んだかのシルシ。
 黄色は蝶々の羽の粉、茶色はチョコレートの、緑は葉っぱをしぼった色。
 手は洗うけど、大切な汚れ。作者は子どもの心を丁寧に描いています。(hico)

『いそがしいって いわないで』(カール・ノラック:ぶん くろーど・K・ヂュボア:え 河野万里子:やく ほるぷ出版 2001/2002)
 ハムスター、ロラのお家が引っ越しすることに。
 なもんだから、パパもママもかまってくれない。
 さびしいロラ。引っ越し先の新しい自分の部屋の片づけをして、
 下へ降りると、パパもママもぐったり。
 二人をロラの方から抱きしめてあげる。のが、ほんわかと良いです。子どもが親を抱きしめてあげるのがね。画は「カワイイ」路線ですが、しっかりと描き込んであるので、「カワイイ」に頼ってばかりのその手の絵本と違って、好感です。(hico)

『いもいも おいも』(レオネル・ル・ヌウアニック:さく 栗栖カイ:やく ブロンズ新社 2002/2002)
 男爵イモの土地にサツマイモの一家がやってきたもんだから、追い出そうとするけれど、男爵イモの女の子とサツマイモの男の子が恋をして・・・・。
 ストーリーは、だからまあフツー。でもイモたちの顔がユーモラスですから、ちっちゃな子は、そこでおもしろがるかもしれません。(hico)

『のみのリュース』(A・クリングス:作 奥本大三郎:訳 岩波書店 1996/2002)
「にわのちいさななかまたち」シリーズの一冊。今回はノミです。
 みつばちのミレイユんチから追い出されたのみのリュースは、こびとのバンジャバンに拾われ、二人でサーカス巡業。
 一つのキャラをたてて、話を進めていく絵本。ですから、小さな話はしっかりとしています。
 シリーズのそれぞれのキャラを集めると楽しいでしょうね。(hico)

【創作】

『黄色い目の魚』(佐藤多佳子 新潮社 2002年10月)
 新潮文庫の『新潮現代童話館』(1992)は、子どもの文学が単純に好きだった大学時代に読んで、じつにおもしろかった。その1巻の最初に収められていた「黄色い目の魚」が、時間を経て、よりふくらみのある長編に。たぶん、私の今年のベスト5に入る。本気で寸暇を惜しんで没頭できる本と出会えるのは、幸せなことだ。
 しなやかな感受性をもちながら、とんがって、へこんで、苦しんで、負けない村田みのりの物語。心の底から好きなことを、不器用にでこぼことぶつかりながら自分のものにしていく木島悟の物語。二つの声は重なり合い、響きあい、同級生や家族も巻き込みながら展開していく。そして結果的に、青春を形作る。悟の妹の玲美が抱える物語も、傍流だが強烈で、彼女にこそ幸あれと強く思ってしまった。
 佐藤多佳子は、語りのおもしろさや、複数の視点や、質感のある表現など、作法(さくほう)の巧みさを言われることが多い。だけど、実際は、外的な巧みさ以上に、人間の心の内面をより深く掘り下げていくことでエンターテイメントを生む作家だと思う。表面ではなく、その底にある心の凝視。そして、その求心力には、愛とかひたむきさとか絆などを信じられるという観方があり、子どもの文学の特質と呼応している。
 絵を描くこと、見ること、スポーツ、仲間関係、家族関係などの外的な積み重ねが、感覚豊かに、読み手の想像力を刺激してリアリティを生む一方で、一人称で語られる子どもたちの心の中は、わがことのように迫ってくる。行方知れずだった父親と過ごした最初で最後の一晩。最悪のことを告白した後の後悔。大好きな叔父さんから飛び立つときの不安感。かっこ悪くて一生懸命で、たった一言をしぼりだすまでに心の中であわ立つ大きな渦も小さな渦もすべて抱き取った、すてきな恋愛児童文学?である。  (鈴木宏枝

『ミラクルボーイズ』(ジャックリーン・ウッドソン:作 さくまゆみこ:訳 理論社 2000/2002)
 ラファイエットはタイレー、チャリーと3人兄弟。
 両親はなく、長男のタイレー(22歳)が保護者の家族です。
 次男チャーリーは少年院を出てきてから変わった。不良っぽくなって「ぼく」(ラファイエット)なんて相手にもしてくれない。「ぼく」はだからニュー・チャーリーと呼んでいる。
 「ぼく」の心にある傷は、ママが糖尿病で亡くなったとき、側に居合わせたのに、助けられなかったこと。もっと早く病院に連絡すれば、ママは助かったかもしれない。タイレーはそんな事はない。おまえのせいではないっていっているけど。一方タイレーは、パパが目の前で亡くなったことを抱え込んでいる。氷張る池でおぼれた子どもを救ったのに、自分が死んだのだ。
 こうしてふたりは親の死を目の当たりにした。けれど、チャーリーはそのどちらの現場にも居合わせなかった。それがチャーリーを苦しめている。
 今度またチャーリーが問題を起こしたら、タイレーの保護者責任能力が問われ、兄弟は別々の親戚に預けられ、家族はバラバラになってしまう。タイレーのもっかの心配はそこ。
 作者は3者の心の傷や揺れを巧みに絡ませながら、愛おしく描いている。こうした個別の傷や悩みを、誰だって抱えている。そこがストレートに伝わってきます。(hico)

『レイチェルと魔導師の誓い』(クリフ・マクニッシュ:作 金原瑞人・松山美保:訳 理論社 2002/2002)
 ついに完結。
 子どもの力(魔法)と大人の無力さとの設定を徹底した本作は、ファンタジーのターニングポイントとなるでしょう。
 大人はより文明化しており、子どもはより自然に近く、彼らは教育や体験・経験によって社会化されていく。それが成長の軌跡。
 であったはずですが、本作ではそうした道筋が消えてしまっています。魔女や魔導師もまた子ども力を頼りにする。地球を救うのは子どもたちが結束した魔力。(hico)

『歌うねずみウルフ』(ディック・キング=スミス:作 三原泉:訳 杉田比呂美:絵 偕成社 19997/2002)
 ディック・キング=スミスだから、おもしろさは保証付きなんですが、歌うねずみとはね〜。
 出だしからいい。13匹の末っ子は体も小さく、兄弟にも馬鹿にされるけれど、母ねずみメアリーはそんな彼だからこそ、いい名前を、と考えます。グランドピアノの足に隠れて見えにくい穴から彼女は出入りしているのですが、子どもたちのベッド用にと、ピアノに置いてあった譜面を失敬してきて、細かくします。とそこに、「ウルフガング・アマ ウス・モーツァルト」の文字が。メアリー、「マウス」の文字に目がいき、この名前に決定!
 立派な名前をもらったモーツァルトくんですが、家人のおばあさんが弾くピアノを聞いてメロディを覚え、歌えるように。この声の美しいこと。それをききつけたおばあさんは、ねずみくんだというのにはおどろきますが、なんとか友達になろうとする。
 で、そこから楽しく、友愛溢れるおばあさんと、モーツァルトくんの交流が始まります。
 ストーリーの楽しさとはこういうことなんですね。
 たっぷりご賞味あれ。(hico)

『魔女が丘』(マーカス。セジウィック:作 唐沢則幸:訳 理論社 2001/2002)
 家が火事になってしまったジェイミーは一時的にジェーンおばさんといとこのアリスンのところへ預けられる。彼らが住むその村は王冠の丘ともよばれている。丘には昔、石灰で王冠が描かれていたらしい。ジェーンおばさんはそれを復活させるべく、村人たちをくどいて、丘の雑草をを抜いて石灰の地面を昔のマークどうりにむき出しに。がそこに現れたのは王冠ではなく、老婆の姿だった。そしてそれは、火事の恐ろしい記憶を引きずっているジェイミーが見る悪夢にでてくる魔女とそっくりだ・・・。
 村の伝説と、ジェイミーの心の傷を絡めて、物語は謎を解き明かしていく。その手腕は確かなもの。『ふくろう模様〜』を思い出させるが、子どもの心の傷が、やはりこっちの方が今的です。(hico)

『トロルとばらの城の寓話』(トールモー・ハウゲン:作 木村由利子:訳 ポプラ社 1980/2002)
 邦題が示すように、寓話です。なんのかというと、夫婦、親子、家族の。父親は、自分の幻想の子ども像を子どもに押しつけて、それがお前のためだというのですが、もちろんこれは嘘で、自分の支配欲。母親は夫の権力に立ち向かえず、かといって自分を生きようともせず、結果父親に荷担、と子どもには見える。そうして長女が反逆し、長男が反抗し、二人はこの両親の視野からはずされてしまい、残った次男エルクに、その困った愛情を注ぎ込む。これって完全に虐待なんだけど、それを二人は思い至らないし、エルクもどう対応したらいいかわからない。という閉塞状況からエルクがどう抜けていくのかが物語。
 と書くとコテコテリアリズムなんですが、ハウゲンはそれを昔話風に寓話として描いています。その寓話度についてけないと読めない、かなり敷居が高い物語。でも、寓話化することで、かなり厳しい状況を描けているのも事実。子ども読者がどこまでついていけるかが、カギです。(hico)

『ローワンとゼバックの黒い影』(エミリー・ロッダ:作 さくまゆみこ:訳 あすなろ書房 1999/2002)
 フツーの男の子ローワンを描いたシリーズももう4巻目。
 なんといっても魅力は、ローワンのフツー度にあるのですが、それでも巻を追うに従って、村人は彼の能力を知っていきますから、彼は「選ばれし者」になっていってしまいます。でも、それでも、ローワンはフツーの男の子として描かれる。作者の腕前のよさです。
 今回など、いよいよ海の彼方の大国ゼバック(3巻目に出てきた種族ね)が攻めてきます。妹を奪われたローワンは仲間とともにゼバックの国に潜入。物語のスケールは大きいのです。だから、ローワンを強い男の子として「成長」させてしまえば、物語展開は簡単なのですが、それをしないのが、すごい。自力だけで、世界を救う英雄なんていない。と、作者は言いたいのかもしれません。(hico)

『Sieste・シェスタ』(天羽沙夜 電撃文庫 2002)
 恋愛アドベンチャーゲームのノヴェライズ。
 ノヴェライズってだけで馬鹿にする人も多いけど、そんなことはなく、というか、だめなのもあるしいい物もある、ってことは、書き下ろしと同じよ。
 物語は、両親が結婚記念日で旅行にでかけ、主人公の里緒が一人暮らしを始めるところからスタート。そこに研修医として家をでていた涼兄が保護者として登場。
 この無理矢理の設定(あ、私は「無理矢理の設定」否定論者ではありません。むしろ支持派です)からしてすでに、物語のネライは読みとれるでしょう。
 イケナイ恋心です。それがどう成就するかはネタバレなのでパスしますが、成就させるために里緒が飛びこんでしまう未知の世界に注目。そこはまるでRPGの世界にようで、彼女はそれは夢だと思いこんでいるのですが、やがて、彼女に恋しているクラスメイトも同じ夢を見て、彼女が知っている登場人物であり、涼兄らしき人物も現れ、といった具合に、リアルの側が、そのリアルさの足場をはずされていきます。有り体に言えば、別世界では彼女と涼兄は血縁関係になく、結ばれることも可能です。
 はてさてどうなりますか。(hico)

【研究書】
『子どもと大人が出会う場所 −本のなかの「子ども性」を探る』(ピーター・ホリンデイル著 猪熊葉子監訳 柏書房 2002年9月)

 「子ども性」という言葉を軸に子どもの文学を考える批評書であるが、ホリンデイルの子ども性には、大人中心社会における他者性や逸脱性などの意味はなく、きわめて柔軟に用いられているので、混乱しないようにしたい。
 ここでいう子ども性とは、子ども観や、子ども時代/子どもについての見方が総合されたものである。子どもは、メディアや本や社会生活から、「子どもとは〜である」という子ども観を、それぞれに構築している。同様に、大人も、様々な社会通念や自分の経験から、自分なりの子ども観を構築している。子どもの子ども性、大人の子ども性は、主観・メディア・環境・周囲の価値観によって左右される複雑な構築物であり、個々人によって異なる。
 映画・テレビ・本などのフィクションにも、子ども性はある。作り手の意識、作り手が過ごしてきた子ども時代の思い出、社会状況の価値判断。子ども性を構築する諸要素は無限にあるのだ。

  現代の子ども性を子どもたちがとらえ得るために、子どもの文学は現代のさまざまなイメージを含むように、最善を尽くさなければならない。(p.246)

 フィクションの子ども性と、読者/視聴者の子ども性が触れあうところに相互作用が起きる。子ども性は、フィクション―受け手、作家―読み手、大人―子ども、などの間でやりとりされながら変動していくものであり、この「可変性」が、ホリンデイルの独創性になるだろう。
 また、ホリンデイルは、子どもの文学が「自伝」であるという。子ども読者と大人の作家の間には、時間的なギャップがあるけれども、それを踏まえてなお、大人の作家は、子どもの文学を書く。それは、自分の本当の経験を語るだけでなく、生きられなかった別の人生を再構築するという意味での「自伝」を書くためなのである。

  子どもたちは、欲しいもの、必要なものを物語(ストーリー)から取るのだ。そうしながら、架空の経験を通して、彼ら自身のなかで生きられなかった子ども時代の欠落感(ポケット)を満たし得るのである。(p.170)

 子どもをめぐる様々な物語に触れるとき、私たちのポケットも満たされ、フィクションの子ども性との相互交流が起きて、子ども性は、さらに活性化される。
 そして、そのような自伝としての子どもの文学の持つ大きな意味とは、子ども時代の「エピファニー(喜びの啓示)」(=意味ある瞬間・その人にしかわからないような、子ども時代から大人時代への区切り)をきらめかせ、描き出すことができるという点だと指摘される。挙げられているのは、ピアスの「アヒルもぐり」(『真夜中のパーティー』)や、ランサムの『海へ出るつもりじゃなかった』だが、日常/非日常の様々に「そのような瞬間」があること、子どもの文学はそれを切り取ることができる形式であるという意見は、たやすく心に入ってくる。
 「子どもである」と「大人である」の間にある「大人になる」時を捕らえる子どもの文学という考え方も示唆的である。重要なのは成長ではなく、啓示の瞬間だ。ホリンデイルは、子ども時代と大人時代が一人の人間の中で共存しあっている長い時期としての「青春期」に着目しているのだが、青春期の文学は、まさにエピファニーをとらえようとするものであり、作品の幅も、幼年童話から海洋小説まで幅広く考えられる。
 本書には、「子ども」という人間のもつ本来の複雑さを示した上で、様々な連想も誘い、子どもの文学に限らない示唆がある。また、この本のどこかに、それまでの児童文学観が少しでも変わるような「エピファニー」の一行があれば、全体を読んで理解するにまさる出会いになるのではないか。

  物語を好み、ファンタジーを楽しむことは、「想像することを通して知る」ことの一部であり、テクストのなかで「作家」「大人の読者」「子どもの読者」が出会える場所を作り出す。同じように、子ども時代の意義について共通の認識をもっていることも、三者の出会う場所を作り出す。子ども時代へのさまざまな関心は、子どもの文学のなかで出会うのだ。(p.80)

 私は訳者のひとりとして本書に関わったけれども、研究書を一度読んで内容を理解するというよりも、ふと読み直すたびに違う箇所が目にとまる。それは、詩集を読む経験にも似ているかもしれない。(鈴木宏枝


『日本子ども史』(森山茂樹・中江和恵 平凡社 2002年5月)

 時代時代の子どもの生活をたどっていくことで、縄文時代から現代までを概観しなおした労作である。記録に残る子どもの生活を、統計や文学作品などからも拾い上げ、「大きな歴史」ではなく、個々人の「小さな歴史」を積み重ねて、時代・事象を見直すニューヒストリシズムの視点に立っている。その意味で、「大きな歴史」の区切りとなる○○時代という枠が決定的にならず、過去の時代に自在に親近感が持てるのが楽しい。
 土偶から『徳川慶喜家の子ども部屋』(榊原喜佐子・草志社)まで、子どもが内在する史料は数多いし、そこにある「子どもの生活」は、たどるだけでも魅力的である。また、「現代」は、「明治」や「昭和」ではなく、60年代頃からの高度成長の時代以降の均質的かつ劇的な変化以降であるというのは、直感的に理解できる。
 子どもの暮らしの変化が「なぜ」そうなっていったのかという点は、より綿密な研究書にあたることにしても、史料じたいのもつおもしろさは、私のような一般読者にも刺激的だった。また、子どもに向ける庶民のベビー・フレンドリーなまなざしや、妊娠・出産・幼児の生死についての感情は、興味深くかつ共感できる。
 長い長い時間をたどった後、著者は、現在、子どもが子ども時代を過ごす空間があまりに狭く絶対的なもの(たとえば学校)になっていることを危惧し、「大人たちのすべてが、子どもとともに過ごすその時間の中で、子どもに、少しずつでも生きていくための心の糧を与えることができるならば、大人冥利に尽きる」(p.327)と結んでいる。子どもの文学もまた、大きな部分では同じ立脚点にあるのだと思う。心の糧&エンターテイメントとしての子どもの文学を考えるのもよし、外からの視点から改めて子どもの文学を見直してみるのもよし。(鈴木宏枝


『本を読む少女たちーージョー、アン、メアリーの世界』(シャーリー・フォスター&ジュディ・シモンズ著 川端有子訳 柏書房本体3800円)
研究書の翻訳は割が合わない仕事だ。時間と手間がかかるのに、それに見合った発行部数は期待できない。児童文学の分野でも事情は同じで、出版後は片隅で読者との出会いをひっそりと待つことになる。柏書房の「子どもと本」シリーズは、そんな境遇の研究書に、もっと陽を当てたいという出版者の願いから生まれた企画ではないだろうか。『本を読む少女たち』は同シリーズの1冊で、英米で愛読された古典的な少女小説を対象とした1995年の研究書である。
広く愛読された子どもの本の研究といえば、ジェリー・グリスウォルドの『家なき子の物語』(原著1992)が思い出される。同書はアメリカ児童文学の黄金期に出版された12冊の孤児物語を考察したもので、アメリカ文化研究という側面も持ち合わせていた。それにたいし本書は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて英米で出版され、絶大な人気を誇った8冊の「少女小説」が対象である。少女小説は児童文学のなかでも周縁に追いやられ、研究対象にもなりにくい「マイノリティ文学」だった。だがマイノリティ文学を再評価する最近の風潮のなかで、少女小説にも読み直しが及ぶようになった。
著者は、女性文学の再評価と発見に力を注いだショウォルターの手法に学び、少女小説とその書き手である女性作家に注目し、「もうひとつの文学史」として少女小説を論じている。対象作品は、キャサリン・スティンプソンの言葉を借りれば、パラキャノン(異正典)、――「愛すべき気持ちをかきたてうるがゆえに存在価値をもつ文学作品」である。筆者のように少女小説に思い入れがある者にとって必読書であることはもちろんだが、少女小説を女性専科だと思いこんでいる男性諸氏にも読んでほしい。ジェンダー構築の過程を再検証するに好適な示唆に富む一書だからである。『若草物語』論や『赤毛のアン』論といった各論レベルではほかにもさまざまな研究書や評伝がある。だが本書の意義はその総体にある。言い換えれば、各章の作品分析を通観したとき、女性作家たちに共通する自己表現の戦略や葛藤、限界などが浮かび上がるところが面白い。
たとえば、家庭小説ときくと一般には『若草物語』(1868)が頭に浮かぶが、スーザン・クーリッジの『ケティー物語』(1872)もこのジャンルに貢献した作家だ。オールコット同様、クーリッジも『天路歴程』を手本とした。そして同じく個人的な体験をもとに、典型的な教訓物語の枠組内で、同時代の理想像を追求しながらそれに挑むという、修正主義的な見解を示した。じつは本書に登場するほかの作家たちも、経済的必要性からペンをとり、家計を支えていた。そこで、作家たちは社会の求める規範を無視して作品を書くことはできなかったのである……。このように著者は、先行する作品と比較しながら背景にある社会の様相と文学・文化的動向、女性作家たちの置かれていた状況、そして読者への影響を語っている。とはいえ、誰もが順に読むべきだとは思わない。ひとつには差異と反復に注目する研究の常として、途中で既視感におそわれることがあるからだ。さらには分析対象の物語をよく知らないと、理解しにくい個所もある。(筆者は原書のぐうたら読者だったので、未読の本を扱った数章を飛ばして読んだ。だから翻訳されたことで恩恵を受けた一人だ。)訳者は各章冒頭にあらすじ・主要登場人物紹介をつけているが、物語を読んだうえで目を通すに越したことはない。そこでなじみ深い『若草物語』や『赤毛のアン』の章を先に読み、そのうえでイントロから順に読むやり方も可能だろう。各章には原書にない小見出しがあるし、丁寧な訳注、索引や作品の年表も加わっている。訳文の読みやすさも加わり、結果として訳書は原書よりも格段に値打ちがある。(西村醇子)
週刊読書人11月1日付7面