2003.01.25日号

       

【絵本】
最近のしかけ絵本2冊と気になった絵本2冊

 本屋さんでのしかけ絵本の位置付けが大きくなったのは「木村裕一の赤ちゃんの遊び絵本」シリーズと「メイシーちゃん」シリーズのおかげでしょう。単純なフラップ(型抜かれたページ)をひらいたり閉じたりすることで登場するキャラクターがずんっと変わる。小さな子には楽しい驚きです。メイシーちゃんのシリーズはもう少し大きい子向き。矢印をひっぱったり、窓をひらいたり、お家で遊んだり……。もうこうなるとお人形遊びと変わらなくなってしまい、メイシーちゃんがついたおもちゃが作られるという風になってきました。
 さて、メイシーちゃんを生んだルーシー・カズンズの最新作は『ベイビー・ジャジーのかくれんぼジャングル』(なぎともこ訳 偕成社 2002.11)。ワオキツネザルの男の子ジャジーをページをめくって探していくストーリー。しかけは単純なフラップと型抜き。大判のページいっぱいに描かれたジャングルにはいろんな動物の目が隠れていて、ページをめくるとその動物が姿を表わし、一言いう。色鮮やかに登場する動物たちがかわいらしくのびのびしている。また、ページの型抜きが非常にうまく使われていて、ジャジーの母さんがジャングルの奥へ奥へと進んでいくように見えるのがすごい。
 でもね、メイシーちゃんでも思ったんだけど、英語と訳文を並記するのはわたしはすきじゃありません。今は、それが珍しいことではなくなってきましたが、ちっとも英語を残す必然性がないんだもの。偕成社はわりと英語を並記する絵本を平気で作っていますが(アリキの絵本3冊や復刊した『よかったね、ネッドくん』)、絵本自体の作りとしてはきれいじゃないと思います。英語教育の面でも、きちんとした音声と結びつかない英語の文字は意味がないでしょう? 幼児や学童に向けたこういうやり方は流行りになっていますが、貧乏臭くて考え直してもらいたいものです。
 欧米でルーシー・カズンズのあと、注目のしかけ絵本の作家といえばメラニー・ウォルシュ。『おおきいちいさい』『まえとあと』(ブロンズ新社、これも英語と並記していますがストーリーになっておらず、単語で見せていくスタイル)などで紹介されているが、親しみやすく、はっきりした色使いの絵で人気。カズンズより人間(こども)を愛らしくかけるのでこれからもたくさん紹介されると思う。最新作『かいぶつ かいぶつ』(いとうひろし訳 徳間書店 2002.11)はシルエットになっているところがフラップで、めくると「なーんだ!」と正体がわかるようになっているしかけ。単純だけど、造型が楽しく、見る方を刺激するので、めくった時の落差がうれしい。ラストに探していた本物のかいぶつが出てくるのだが、あはは、とわらっちゃう。シンプルでほんとにストーリーを追いはじめたばかりの小さな子が何度も何度も楽しみ、セリフを覚えてしまいそうな絵本。ラフに塗った色鮮やかなバックが手仕事の暖かみを伝えてくれます。(ほそえさちよ) 

気になる新刊絵本
『わたしのうちは5にんかぞく』(エミリー・ジェンキンス:文 トメク・ボカツキ絵、木坂涼訳 講談社 2002.12)はトメク・ボカツキのやさしいあわあわとした絵がテキストによくあっている。わたしのいえはおかあさんとおとうさん、わたしとねこが2ひき。けいととあそぶのは3にん、やねにのぼるのは3にん……と5人の家族の暮しの中のこまごまとしたシーンがいくつも展開される。絵の中に流れる風のようにテキストがゆうらりとレイアウトされ、訳文もうたうようにやさしい。ことばと絵とレイアウトにきちんと心を配っているあたたかな絵本。
『おっと合点承知之助』(齋藤孝 文、つちだのぶこ 絵 ほるぷ出版2003.1)これもことばの絵本といっても良いかもしれない。『声に出して読みたい日本語』(草思社)でベストセラーになった齋藤先生の絵本。「驚き桃の木山椒の木」「その手は桑名の焼きはまぐり」などの付け足し言葉だけでストーリーを作っている。齋藤人気もとうとう子どもの本まで来たか、とあぜんとしたが、おじいさんと孫の遊びという舞台を設定したつちだのぶこの力技をあっぱれと思う。この手の言葉遊びは絵本でもちょいちょい使われては来た。中川ひろたかは『うみちゃんのまど』(長新太 絵、偕成社)などことばの調子を整えるような感じで良く使っている。中川は歌手でもあるので、ことばの流れ、リズムに敏感だ。でも、さすが齋藤孝。臆面もなく、こういう本を作ってしまうところが教育界に身を置く人だと思う。もの作りの感性ではないのだね。(ほそえさちよ)

『おたまさんのおかいさん』(日之出の絵本制作実行委員会 長谷川義史:絵 エル・クラブ 2002)
 「おかいさん」とはお粥のこと。
 おたまさんのおかいさん鍋は不思議なお鍋で、おかいさんが減ると、「おかいさん おかいさん ぐつぐつ ふつふつ こーい こーい」とおたまさんが唱えると、あら不思議、増えてます。
 というベースに乗せて、日之出まちの日常風景が描かれます。夫婦げんかも、おたまさんがおかいさんを持ってくると、あらら、収まってしまう。
 長谷川の画は力強さとユーモアに溢れ、この世界を巧みに描き出しています。
 絵本の最後には、この大阪市東淀川区にある日之出まち(今は町名が変わっているそうです)の歴史が過不足なく書かれていて、いい仕上がりです。(hico)

『おくれてきたクリスマス』(ノルベルト・ランダ:文 マルリス・シャリフ=ムーニーマイヤー:絵 山口文生:訳 評論社 1997/2002)
 はい、おくれてきたクリスマス絵本の評です。
 毎年、遅れてすみません。
 発想がいいのね。主人公はこぐまのテディ(ネーミングはちょっとあれですが)。クマなものだから、一度もサンタクロースを見たことがない。春冬眠から目覚めると、プレゼントが置いてあるだけ。
 ってことでテディくん、今年こそ、起きていようと、冬前に寝だめ。
 心配する母クマ。
 はてさて、テディくんはクリスマスにサンタと出会うのか?
 画も含めて、別に難しいことや新しいことをやろうとしている作品ではありません。けれど、クリスマスなるイベントを子どもが、見直す契機になるでしょう。(hico)

『たまねぎあたまのたまねぎこぞう』(二宮由紀子:ぶん スズキコージ: え ポプラ社 2002)
 たまごあたまのたまごこぞうと決闘すべくたまねぎこぞうは今日も行く。でも会うのはいつも本物のたまごばかり。
 ・・・説明してもしょうがないや。
 たっぷり笑ってくださいませ。(hico)


『ぶくぶくしげみをくるーり』(フィリス・ルート:ぶん クリストファー・デニス:え 山口文生:やく 評論社 2002/2002)
 この物語、迷子になった子どもの不安を結構リアルに描いてます。もちろん最後には親に発見されて、ハッピィーエンドですけどね。
 黄色い枯れ葉を追っていって迷子になるオリバー。ひとりぼっちの森の中。どうしていいかもう分からない。
 でも、親はちゃんと探してくれますよ、なんて姿勢でのブックトークはパス。
 そうじゃなくて、この不安を、聴いている子どもたちにどう共感させるかが、ツボです。(hico)

『わたしの いえは ごにんかぞく』(トメク・ボガツキ:絵 エミリー・ジェンキンス:文 木坂涼:訳 講談社 2001/2002)
 このウチには大人の男一人と、大人の女一人と子どもの女が一人と、オスネコとメスネコがおります。「ごにんがぞく」ね。
 つまり、ネコたちも含めて家族という視点から、このごにんを様々なカテゴリーで分けていきます。ボタンをとめることができるのは3人、わたし(女の子)のベッドで眠るのは3人(わたし+ネコ)てなぐあいに。
 そうすることで、彼らが家族であることと、それぞれが個々に生きていることを同時に伝えてしまうのね。
 巧いな〜。
 画もけれんなく素朴でOK。(hico)

『クマがくれたしあわせ』(イルマ・ラウリッセン:文 イェンス・アールボム:絵 中田和子:訳 広済堂出版 1994/2002)
 デンマークの絵本。
 人嫌いのおじさん。怖い番犬にしようと飼い始めた犬の名はクマ。
 でも、小型犬だったもんでもちろん大きくもならないし、愛想のよさで、かえって人々にかわいがられ、家の前にはいつもたくさんの人だかり。
 ここからの展開は読めますが、読めるところが安心感。物語世界が完成されています。(hico)

『となりのモモゴン』(玖保キリコ:作・絵 岩崎書店 2002)
 玖保キリコの初絵本です。
 っても、いつもの玖保キリコ作品です。
 私はこれを別に絵本だとはおもいませんが、それでOKだとも思います。
 モモゴンのキャラ立てとその背景は、ありきたりですけれど、それでもモモゴンの「やれやれ」的魅力はでています。
 おそらくシリーズとなるでしょうから、モモゴンの今後と、これがどう絵本化していくかを楽しみにしています。(hico)

『ぼくたち ゆきんこ』(マーティン・ワッデル:ぶん サラ・フォックス=ディビーズ:え 山口文生:やく 評論社 2002/2002)
 これは母子共依存ギリギリの作品。「母子共依存」絵本とはっきり言わないのは、この作品はおそらくそんなことは視野に入りらないまま描かれているからです。
 生き物は人間ではなくクマにずらされています。そのことで、問題は隠される。クマの母子ですから。

『もう こわくない』(マリー・ウァブス:作 安藤由紀:訳 金の星社 2002/2002.11)
 児童虐待又はイジメをテーマにした絵本です。ということを最初に言ってはいけません。
 裏表紙に「ゆうきをもって」と題された文章があるのですが、原本をしらないので何ともいえませんが、これはいらないと思います。だって、そーゆー「児童虐待又はイジメをテーマにした絵本です。」という先入観なしに読んで欲しいから。
 ぬいぐるみのこぐまミューと、「仲の良い」おおかみさんの物語。
 出だしは本当に仲良く、大きなおおかみさんがミューと遊んでいるのですが、徐々にそうでもない部分がでてきます。それが読ませます。(hico)

『ありがとうのきもち』(柴田愛子・文 長野ヒデ子・絵 ポプラ社 2003)
 『けんかのきもち』『ぜっこう』に続き早くも第3弾。
 このもの遊び場「りんごの木」運営の経験の中から生まれたエピソードたちですから、子どものきもちによりそっています。今回は、引越することになった女の子が、お別れに、一人一人の友達に自分の気持ちを書いたカードをプレゼントするところから「事件」は始まります。
 このシリーズの良さは、子どもがちゃんとけんかしてしまうことにあり、今回もそういう展開となっています。ただ、素材が「ありがとう」ですから、「けんかのきもち」ほどのインパクトはありません。まとまりがついてきたというか、書き手の物語化が巧くなった感じです。ここは難しいですよね。絵が長野ヒデ子に変わった理由はわかりませんが、今作には長野の絵の方がいいとの判断でしょうか。だとしたら、それは正解ですし、そのことが、今度の物語の性質を現しているといえるでしょう。(hico)

『ポピーとマックス おおきくなったらなんになる?』(リンジー・ガーディナー:作 石津ちひろ:訳 小学館 2001/2002.12)
 ポピーがなりたい職業が、ページを繰るごとに、色々でてきます。画がユーモラスで勢いがあるから、ポピーは何にでもなれそう。絵描きやサッカー選手や、それぞれがポピーの夢として、読む側にも楽しい。オチも決まっていい出来です。(hico)

『いつも だれかが・・・』(ユッタ・バウアー:作・絵 上田真而子:訳 徳間書店2001/2002)
 孫におじいちゃんが語るその一生。どんな危機の時も、おじいちゃんは切り抜けてきたのですが、彼の側にはいつも天使がいてたすけてくれている。おじいちゃんはそんなことは知らない。読者だけにわかる仕掛け。そこが愉快。
 もちろん、戦争時代、ユダヤ人の友人が消えてしまったことも作者は描き逃しません。
 この絵本そのものの持つユーモアが、心を少し暖かくしてくれます。(hico)

『ネコのだいくさん』(鈴木タカオ ポプラ社 2002.12)
 非常にシンプルな物語が、シンプルな画と共に描かれています。
 アリから始まって、最後はゾウの家まで、次から次へと、どんな家が建てられて行くかが、おたのしみ。
 子ども読者にとって、今度は何かな? が、読み手の腕。
 前作『チミ』から、力が抜けて、軽やかに仕上がっています。元々が安定した画を描く作者ですから、どんな素材を取り上げているかが今後、楽しみです。(hico)

『人はなぜ争うの?』(岩川直樹:文 森雅之:絵 大月書店 2002)
『平和ってなに?』(大野一夫+中村裕美子:文 石橋富士子:絵 大月書店 2002)
「ジェンダフリーの絵本」「人権の絵本」に続いて、「平和と戦争の絵本」シリーズが始まりました。全6巻です。総合学習向けですね。
『人はなぜ争うの?』は詩のような短い文が抽象的過ぎ。生徒が「考える」ためにそうなっているんでしょうが、なんか先に答えがある感じです。一方『平和ってなに?』は、様々な身近で具体的な出来事を扱っていますので、入りやすい。でもそれぞれの生徒の答えはさまざまでしょう。それでいいのです。(hico)

『はなくそ』(アラン・メッツ:さく ふしみ みさお:訳 パロル舎 2000/2002)
 ジュールとジュリー。ま、一応友達なんですが、風呂にも入らない、いやなにおいのするジュールをジュリーはちょっといや。一方ジュールはジュリーが大好き。
 きょうこそこの想いを告げよう、としたら、おおかみに二人とも捕まってしまいます。
 さてそこから汚さを活かしたジュールの活躍が始まり、最後はアムールであります。どうせなら、おおかみを追い出した後、その汚さのままでアムールなら良かったのですが、きれいにすると美男子・・・。アムール。(hico)

『どうぶつアイウエオ』(かすや なみ:さく・え 赤木かん子:企画 ポプラ社 2003)
 赤木かん子のよるお勉強絵本の第3弾。今回はカタカナ。ひらがなではなくカタカナから入る理由の赤木の説明は、ナルホド。
 とにかくごらんあれ。(hico)

『遠くからみると』(ジュリー・ゴールド:文 ジェーン・レイ:絵 小島希里:訳 BL出版 1998/2002.09)
 jule goldのヒット曲『from a distance』の歌詞を文に、絵本化した作品。
 遠くから見ると美しいこの星で、何故争いがあるのか? といった歌詞の短いセンテンスにジェーン・レイが想像力をふくらませて画を乗せていきます。
 Bette Midlerが歌っている『from a distance』を聴きながらこの絵本を眺めていると、歌のストレートなメッセージと、それを絵本にしたときの穏やかさの違いがよく分かっておもしろいです。Bette Midlerだからかな? と思ってThe Byrdsのも聴きましたが、感想は同じでした。
 「平和と戦争の絵本」シリーズと併せて読むと吉。(hico)

『魔女になりたかった妖精』(ブリジット・ミンヌ:文 カルル・クヌート:絵 目黒実:訳 ブロンズ新社 2002)
 ベルギーの絵本です。
 まず、画が濃い。いいです。子どもが取っつきやすいかどうかは意見の分かれるところでしょうが、飛びつく方に私は一票。
 日本語のフォントは工夫なしで残念。せっかくこの画なんだから、それとタイマンせねば、なんのための日本語訳か。です。
 お話は、親の言いつけに従わない女の子を描きます。妖精なのに魔女志望なんですから。その辺りの痛快さをストーリーは巧く導き出しています。オチは、ブリジット・ミンヌが子ども側から書いていることがよく分かりますよ。(hico)

『シュークリーム』(小泉吉宏 幻冬舎 2002)
 シュークリーム・ブームだからでもないでしょうが、生きているオスのシュークリームを買ってしまった人のお話。一人では寂しかろうと、メスのシュークリームも買ってくる。当然二人にはミニシューが生まれ、でも生きているのは少ないから、そいつでシュークリーム屋を始める私。
 もの悲しく癒し系。
 ジューちゃんは人気キャラになるかも。(hico)

『おかえりなさい キリンさん』(遠藤邦夫:作 近藤理恵:絵 ポプラ社 2003)
 帯に「ほんとうにあった やさしいお話」というのがいけません。
 ほんとうにあったから、やさしい話なの? じゃないでしょ。
 おもちゃ専門店をやっている著者とある保育園の子どもたちの「物語」。
 ドイツ製のキリンのぬいぐるみ。嬉しくて子どもは乗って遊ぶ。遊びすぎて、キリンの足が折れる。で、著者がドイツのおもちゃやさんに出かけて直してもらう。
 「たかがぬいぐるみのために!」ではおそらくないでしょう。例えばおもちゃを仕入れに出かけるときに。本文に「ちょうど、しごとで、ドイツにいくので」とありますから。
 ちょっとした親切、それはする側にとって心地いいでしょうし、子どもたちも喜ぶでしょう。それでかまいません。が、それではベタすぎます。だから、補強のために「ほんとうにあった やさしいお話」が、付加された。
 素材としては悪くないのですから、ご本人より、別の書き手が「物語」に仕立てた方が良かった気がします。(hico)

『ぼくはオニじゃない!』(福田岩緒:作 童心社 2002.09)
 す、すごいタイトルだ! と思った方も、この絵本を手にとって表紙絵を見れば、納得。
 オニ歯を抜きたくない、というか歯医者嫌いの男の子の物語。
 「歯医者大嫌い!」だけでもう、シンパシーな人は大人子ども問わずたくさんいるでしょうから、この絵本は非常に敷居が低いです。
 それだけで、もう、作者の勝ちですけどね。
 画もいいし、ストーリーもとても巧い展開です。この単純な設定で絵本一冊にまでストーリーを膨らませるのは結構たいへんですから。
 難点は、母子共依存っぽく、母親とこの男の子が描かれていること。
 しかたないのですよ。だってこの男の子本当に歯医者恐怖症なんですから。
 でも、もう一ひねりはできるはず。(hico)

『だって ぼくは 犬なんだい!』(アラン・ブラウン:ぶん ジョナサン・アレン:え 久山太市:やく 評論社 2002/2002.09)
 この作品、画はたいしたことありません。
 と最初に書いておくのは、絵本の場合ちょっと見で画がつまんないと捨て置く事が多いからです。
 ストーリはいいですよ。
 妹ができて、かまって貰えない少年は、犬になると宣言して、犬のように振る舞う。犬になってしまうことで、自分の不安や不満を一時棚上げにし、ペットとしてかわいがってもらおうとするわけ。なるほどそーゆーサバイブもあるのか〜と感心。
 ラストはもちろん至福です。(hico)

『ウーリーのわたあめ』(よしむらあきこ:さく 学研 2002.10)
 仕掛け絵本。
 羊のウーリーがわたあめを作るとそれがどんどん大きくなって。
 が、小さな絵本から紙面がはみ出して大きく展開していく段取りです。
 これは、「いも」でもう大傑作があるので、いいかなとは思いますが、今の子にさつまいもは古いだろう、と思うなら使えます。
 でも、パワーでは「さつまいも」に負けてます。
 残念。(hico)

『りかちゃんがわらった』(鹿島和夫:文・絵 ポプラ社 2002)
 鹿島が受け持つ一年生のクラスで、一人誰とも話さない(話せない)りか。
 鹿島は子どもたちのドキュメントとして担任クラスの子どもたちの写真を撮り続けているのですが、その中からクラスのキーパースンになったりかを巡る風景をチョイスして、まとめた写真絵本です。
 りかがどうクラスに受け入れられていくか、ではなく、りかがどうクラスを受け入れていくかが、見所。(hico)

『窓をあければ』(井出孝:絵 NORIKO:文 青心社 2002)
 窓(心のも)をあければいろんな事が見えてくる、感じられる。まずあなた自身の窓から開けてみよう。
 といって、癒し系の詩に画を乗せた作品。
 サイズはコンパクトで、画も軽いスケッチで、手に取りやすい一品。
 「あなたの窓をあけてみて。」「しあわせ運ぶ、流れ星が」「ほら、あなたにも見えてくるよ。」
 ってノリは結構自閉的だとおもうんですが?(hico)

『ぼく、おつきさまが ほしいんだ』(ジョナサン・エメット:文 ヴァネッサ・キャバン:絵 おびか ゆうこ:訳 徳間書店 2001/2002.09)
 この素材は、落語から名作絵本まで、使い古されたものですよね。
 ま、そんだけ、月が魅力的なんだけど。
 ならば2001年の本作はそれをどのように料理するのか、が見所です。
 表紙にあるように、モグラが月を取ろうとし、毎度いろんな動物が「ムリムリ」という
展開。
 採るのは無理だけど、遠くに眺めていて心躍る、月。
 そんな風にモグラの心境が変化していくわけです。
 成長というより、眺める月が楽しいんだというみんなの気持ちとモグラの気持ちがシンクロするのが、ホカホカしますね。(hico)

『ボリボン』(マレーク・ベロニカ:ぶん・え みや こうせい:訳 福音館書店 1958/2002.09)
 古い作品です。画がシンプルというよりダサく見えるのは仕方のないことです。つまり、そんだけ、作品は発表された時代を呼吸していたってことですから。
 ガビって男の子はなんでも壊す。おかあさんからもらったクマの縫いぐるみも遊んでいるうちにおなかを破ってしまう。
 で、そのクマが消えて、ガビは必死で探すために、家の外へ。でも見つからず、帰ってみると、
 の後は想像がつくでしょうからパスしますが、各画面の画の配置の的確さは注目。そんなにすごい配置ではありませんよ。そうでなく、スタンダードには、こう見せれば、言いたいことが伝わるのだという典型をチェックしてくださいな。(hico)

【創作】
『僕にお月様を見せないで』全10巻(阿智太郎:作 宮須弥:イラスト メディアワークス 2000〜2003)
 電撃文庫。シリーズ完結。
 駒犬銀之介は、気が弱くて、運動神経ゼロな、お人好しの高校生の男の子。引越し歴23回、高校だけで4校を数える銀之介の目標は、新しい転校先の飯波高校で無事卒業すること。なぜなら、銀之介は狼男で、正体がばれる度に引越しを余儀なくされてきたからだ。目玉焼きでさえ変身してしまう銀之介にとって、正体を隠し通すことは不可能に近い。転校初日、仲良くなったうどん屋の娘でクラスメイトの七味唐子の目の前で、月見うどんを見て変身してしまうのだが…。
シリーズは銀之助の卒業と友達以上恋人未満の唐子との関係の行方を軸に展開しますが、本シリーズの魅力は物語そのものに加えて、物語体験の「心地よさ」にあると思う。「心地よさ」の正体は、作者と読者の間に結ばれた契約、すなわち「お約束」にあります。作者は読者を裏切らないように配慮して、そのように配慮された「安心」を読者は買っている訳ですね。これって、児童書に期待されている社会的機能の一つなのですが、ライトノヴェルの場合、「お約束」として洗練されているだけリードしていると言えるかも知れません。(meguro)

『さみしさの周波数』(乙一:作 羽住都:イラスト 角川書店 2002)
 スニーカー文庫。短編集。
「未来予報」は、小学生のときに、未来を予報できるという親友に「お前ら、いつか結婚するぜ」と言われて、コミュニケートできなくなる男女の物語。自分がデザインした腕時計を商品化したいがために、外壁に穿った穴から金品を盗みだそうとした青年がアクシデントからある女性の手を握ってしまう「手を握る泥棒の物語」。「フィルムの中の少女」は、フィルムを再生するたびに、振り向く女の子の物語。そして、「失われた物語」は、交通事故で右腕以外、感覚を失った男とそのパートナの物語である。
 乙一の作品はコミュニケーションの物語であるというのが持論なのだが、本作もまたコミュニケーションの物語として読むことができる。「手を握る泥棒の物語」と「失われた物語」がコミュニケーションを象徴する「手」という身体部位をモチーフにしていることからも明らかだと思う。『GOTH』(角川書店 2002)の「リストカット事件」(「手」に取り憑かれた男の話)を思い浮かべる読者もいるかも知れない。とりわけ、「失われた物語」で、パートナーが夫の右腕を鍵盤に見立て演奏するシーンは美しい(パートナーの指先から与えられた刺激によって、主人公は演奏を右腕で「聞く」ことができる)。加えて、羽住都のはかなげなイラストは、「せつない」系列の乙一の作品集になくてはならないアイテムでしょう。「暗黒」系列の『GOTH』と「せつない」系列の『さみしさの周波数』の距離は、意外と近いのかも知れません。(meguro)

『レンアイ@委員 ブラ・デビュー・パーティ』(令丈ヒロ子著,理論社フォア文庫、2002年11月)
小学五年生のワコが、ひょんなことから始めてしまったケイタイメールの相談員「レンアイ@委員」。『レンアイ@委員 ラブリーメールにこたえます』(2002年1月刊)に始まった、かなり楽しくも実用的、かつほろりとくる場面も欠かさない「お値打ち」なライトノベル・シリーズ、第二弾も快調。
今度は、小五ともなればかなり切実、女の子の「ブラ・デビュー」の悩みにこたえるため、ハハの「ぞうさん」ブラにからまれながらも(?)奮闘する。親友ナツメとふたりで、なぞの美少女「レンアイ@委員」を名乗って(騙って)いるワコだが、今回は正体がバレそうになる一幕もあってハラハラ。
小学校高学年女子の生活密着型コメディなのだが、一昔前の「リアリズム風生活童話」(というジャンルがあるかは不明だが)とはだいぶテイストが違う。なぜか女ばかり四人家族のワコ一家、働くハハと専門&高校生のアネ大・小はみな、豪快でおおざっぱな「男前」。ちょっとオクテのワコも友情と人情にあつい体質だ。で、女性中心のストーリーで「レンアイ」を扱っても、実にさっぱり・はっきりしている。恋愛小説でいうと山本文緒かな、って感じのジャンルを超える魅力がある。もうひとつ、お笑いセンスも買い! 「あとがき」の「うっかりフェアリー」(著者が小学生時代書いていたマンガ)の話は必読だ。著者の徹底的エンタテイナー体質がうかがえる。(seri)

『かいけつゾロリのじごくりょこう』(原ゆたか著,ポプラ社、2002年12月)
すでにシリーズ31作目の定番エンタテインメント。地獄に送られてしまったゾロリは無事、生還できるか! 舌抜き、血の池、針山などゾロリたちが遍歴する七つの地獄を、どうクリアするかが見ものの、一大冒険巨編? なかでも圧巻は「おやじギャグじごく」で、大人読者は懐かしさに身もだえすること必至だ。お楽しみ・恒例になった「せこいふろく」は、自分で製本する「おやじギャグブック」。ちゃんとバーコードがついている(ポプラ社のものという指摘も)のも、お見逃しなく。この手抜きのなさが魅力。
そして、みょうに「宗教くささがない」地獄だが、やはりこれは平安時代の浄土教の他界観をえがいた『往生要集』の世界なのでは? じゃあ天国は? という具合にパロディの出典は要チェック。ぬかりないなあ。
前回の『てんごくとじごく』(2002年7月刊)とは独立しても読めるが、え、あれもこれも、ここで使うためだったの、と前作からの複線が利きまくっている周到さにまたびっくり。(seri)

『ねこぐち村のこどもたち』(金重美=キム・ジュンミ著,吉川凪訳、廣済堂出版、2002年12月/初2000年・改定2002年)
韓国の出版社が公募した「こどものための良書のための原稿募集」創作部門大賞をとって出版され、ベストセラーに。仁川の海岸近くの埋立地にできたバラック地帯「ねこぐち村」に暮らす貧しい子どもたちの物語だ。そう聞いて、訳者あとがきのいうかつてのベストセラー『ユンボギの日記』を連想して、オビにあるよう「あの頃を、涙とともに思い出してください」のフレーズにひかれ手に取る、のは何歳くらいの読者だろうか。それらの惹句に「引いて」しまう世代のほうが、この現実がモデルの物語の読者として、より求められているようにも思えるのだが。
ここにえがかれる貧困の様相は、おそらく日本や韓国の五十年代、六十年代とはだいぶ異なる。一家全員が貧しさを共有し支えあって耐えていた、あるいはそうとは限らないかもしれないが、そうであるかのように回顧されがちな、貧しさではない。親に置き去りにされた子どもたちを包む共同体の暖かさもなく、自身も生きることに必死な隣人たちのボランタリーな行為しか、子どもたちへの援助の手は期待できない。さらにこれは、茶髪やケータイのいきかうマクドナルドのすぐそばにある貧困であり、それを直視しないように少年が薬物にのめりこむ貧困である。そのあたりの背景を、自身もモデルになった地域でボランティアにはげむ著者は、きちんと描きこんでいる。
性格のまったく違うふたご姉妹、淑子と淑姫のおさないながらに屈折した心情が、ていねいに描かれていることに好感がもてた。みずからも「ねこぐち村」出身ながら、貧困からの脱出をめざす上昇志向の小学校教師が変化していく姿も、リアルだ。たんなる「泣ける」話ではなく、新しい隣人愛への希望を述べた小説。(seri)

『きいてほしいの、あたしのこと』(ケイト・ディカミロ:作 片岡しのぶ:訳 ポプラ 2000/2002.12)
 あたしは引っ越してきたばかりの牧師の娘。捕まりそうになっていたノラ犬に見かねて、自分の犬ってことにしてしまう。ウィン・ディキシーと名付けられたこの犬が媒介となって、あたしの世界は広がっていきます。
 あたしのママは家を出て行ってしまい、今はパパと二人暮らしだけど、パパは取っつきにくく、あたしは牧師さんって呼んでいる。
 小さな出来事と出会いの一つ一つが丁寧に描き出されていて、冒険も大事件もないですが、あたしに身を寄せて読めます。
 終わりの方で、パパはやっとあたしに心を開いて、ママを失った悲しみに涙します。大人だからって、娘の前だからって、悲しい時には遠慮無く泣けばいいんですよ、って教えてくれる。(hico)

『クリスマスの天使』(アヴィ:作 金原瑞人:訳 講談社 2000/2002.11)
 今頃、クリスマスですみません(なんだか恒例になっている・・・)。
 クリスマスの四日前、害虫害獣駆除業者が来ることに。ママは仕事で留守だからエリックが相手をする。が、この業者アンジェが妙な男で、生き物を殺すためのこの職業を選んだという。ネズミが発見され、アンジェはエリックを、そいつを殺す仲間へ引き入れる。退屈していたエリックは、つい承諾するのだが・・・。
 アンジェは、正式名はアンジェラ・ガブリエル。エリックの住むアパートの名はエデン。
 くどいほど、そんな名前に意図がかくされているのですが、しだいにアンジェについていけなくなった、エリックの恐怖が迫ってきます。
 クリスマスだからこそのサスペンス。ですが、イマドキ読んでもOK。楽しめますよ。(hico)

『魔女の血をひく娘』(セリア・リーズ:作 亀井よし子:訳 2000/2002)
 17世紀、祖母が魔女として殺されたメアリーは清教徒たちと新大陸を目指す。素性がばれればどううな目に遭うか分からない。
 物語はそうしたスリリングな設定にすることによって、入植者の生活ぶり、彼らを支配する狂信的な牧師の姿、メアリーと先住民との交流などをリアルに描き出します。
 物語の作りも凝っていて、これはメアリの日記なのですが、それがキルトに1ページずつ織り込まれていたのを研究者が発見し発表したと。つまりこれは亜種の枠物語です。本当にあった話かそうでないかが曖昧なまま、先ほど述べたような設定によって、リアルになる。
 これはちょっと驚きでした。
 もちろんここにもマジックリアリズムが作動しているのですけどね。
 読ませますよ。(hico)

『テムズ川は見ていた』(レオン・ガーフィールド:作 斉藤健一:訳 徳間書店 1986/2002)
 レオン・ガーフィールドって、かっこええ名前やな〜と初めて彼の作品を読んだとき思ったのですが、来日したら、容姿もかっこ良くてね、これが。
 ・・・・関係のない話でした。すみません。
 ヴィクトリア朝のロンドン。パーナクルは煙突掃除人の少年。いつも煙突にもぐってじって聞き耳を立てているのが好き。ある日のこと、なにやら曰くありげな会話を耳に。と、さぼっていたのを怒った親方に暖炉から棒で突かれ、落ちたところはその部屋の暖炉。危険を感じた彼は部屋中の物を投げ、テーブルにあったロケットと銀のスプーンを握って逃げます。で、この聖母子像が中に描かれたロケットには、恐ろしい秘密が・・・。
 登場人物は皆、濃いです。キャラ立ちっぱなし。読者を魅了する物語展開は、さすが。
 もちろん、めでたしめでたし、です。いいよ。(hico)

『おはなしは気球にのって』(ラインハルト・ユング:作 若松宣子:訳 早川書房 1998/2002.11)
 早川のハリネズミの本箱シリーズ第2弾の一冊。
 病気で体が小さいまま、何度も様々な主術も受けたのに、甲斐もなく、車いす生活で外にもでないでひっそりと暮らすバンバルト。
 彼にはそれでも物語を書く楽しみがあります。自分だけが持っている世界、です。でも、物語をそんな風に閉じこめておくのはかわいそうだと思った彼は、これまで作った10の物語と、まだ書かれていない白紙の物語り1通を、紙風船で飛ばします。主人公の名前や場所などは空けたままで。それらがどこかで拾われ、書き加えられ、戻ってきたときその作品集は完成するわけです。
 そんな彼の孤独と、様々な場所や時代から戻ってくる物語たちで、これは構成されています。
 ネタバレは書きませんが、10の物語も最後の物語も小さくまとまり過ぎてイマイチ。ネタバレになる部分は結構おもしろいのですが・・・。(hico)

『ほんとがいちばん?!』(エリーサ・カーボーン:作 岡本さゆり:訳 鈴木びんこ:絵 文研出版 2000/2003)
 本当の自分を出すことが他者とのコミュニケーションを一番スムーズにする。という、難しい課題が与えられた一品。
 やはり結構「正しい」が描かれています。けど、そんなに違和感がないのです。これが。
 別に偽ったわけではないのに、男子のサッカーチームの中心選手になってしまったサラ(の語りで物語は進みます)。義足であることを隠そうとするオリヴィア。エルサルバドル出身なのに、出身地レポートの発表会でメキシコ人のことを先生から、話せと言われているクリスチィーナ。この三人が互いを励まし叱りながら、ほんとうへと行動を移していく様がすがすがしく描かれていきます。(hico)

『大あばれ 山賊小太郎』『大あばれ 山賊小太郎・気球にのった少年』(那須田正幹:作 偕成社 2003)
 『大あばれ 山賊小太郎・気球にのった少年』出版に併せて、1982に書かれた『大あばれ 山賊小太郎』も再刊されました。
 この国の児童書に時代小説が少ないので、書かれたもの(作者あとがき)だが、確かに昔なら吉川英治も書いていたし、夢中で読んだもの。
 この物語は那須らしくサービス精神に溢れ、「んな、アホな」を堂々と描き小気味よいです。小太郎くんはお寺の鐘でも運べる力持ち。忍者のマメ太の素早さ。14歳の剣豪月形健之助は銃の弾をも一刀の元に切り裂く。この三人がズッコケ的に言えば3人組で、そこに『大あばれ 山賊小太郎・気球にのった少年』では商売の巧い銭八や、ダビンチの孫弟子である次郎丸(イタリアから気球に乗って帰ってくる!)も加わり、子ども山賊たちは、悪領主と闘い続けていきます。大砲は作ってしまうわ、敵方にはブーメランを操るのがいるは、陰陽師も出てくるわ、もう、サービスてんこ盛りなんです。
 ズッコケのような普遍的構造を持っているわけではないので、セールス的にはズッコケにはとても及ばないでしょうが、このレベルの痛快物語はもっと必要でしょうね。次作三巻目で完結です。(hico)
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毎日新聞子供の本新刊紹介(甲木)
2003年01月分

「さんぽ王子」
 さんぽ、さんぽ、さんぽは楽しい。プレゼントが付いて来る。手紙も付いて来る。お花だって付いて来るし、雪だるまも付いて来る。さんぽの途中で出会った出来事を楽しみつくす王さま一家の少しすました表情が愛らしい。絵と文と、絵の中の言葉のバランスが絶妙に面白い絵本である。
(きたやまようこ著/主婦の友社、本体1000円)

「大あばれ山賊小太郎」
 ときは戦国、八雲の国。鍛冶屋の息子の小太郎は、小さいなりで力持ち。ところが悪い殿様に、村全体を襲われて、命からがら逃げ延びる。旅の道連れ忍者のまめ太、少年剣士の剣の助。おはちばばの庇護のもと子供だけの山賊となった3人の爽快、痛快な時代劇! 2作目も必見!
(那須正幹・作、小松良佳・絵/偕成社、本体1200円)

「やまのむにゃむにゃ」
 「そだてておる」の一言だけで、無表情に荒地に水をまく麦わら帽子のじいさんの育て上げたものがとんでもない。一方、その行動に振り回される、どんばらタヌキといたちの豊かな表情がたまらなくいい。抑制の効いた言葉と躍動する絵筆の織りなす、ナンセンス絵本の傑作である。
(内田麟太郎・作、伊藤秀男・絵/佼成出版社、本体1300円)

「海へでる道」
 アスカのお気に入りの、ペンギンの腕時計が止まってしまった。それは、なかよしだったシホちゃんの冷たい言動でアスカが心をこおらせたから。降る雪は宇宙の時間――雪の砂時計を見たアスカは「時間屋」の扉を開け、店主のシロクマと出会う。詩情あふれるファンタジーだ。
(山下明生・文、はらだたけひで・絵/あかね書房、本体1200円)

「ペンキや」
 しんやという、ひとりのペンキ職人の人生が、静かに、濃厚に語られている。ペンキの色を調合し、空間を染め上げるということは、人の心を感受して表すということ。まっすぐな言葉で綴られた物語と、ペンキの質感をも表現した絵がみごとに溶け合った、珠玉の寓話である。
(梨木香歩・作、出久根育・絵/理論社、本体1300円)

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『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』(J・K・ローリング:作 松岡祐子:訳 静山社 2000/2002)

 さて、シリーズもいよいよ半ばの第四巻。十一歳だったハリーたちも、十四歳。無邪気でいられるわけもありません。
 物語はクイディッチのワールドカップで、新しい登場人物や伏線を置いて、学校にたどり着くまでに260ページほど費やしています。正直チト長い気がしますが、これもファンには嬉しい番外編的おもしろさかもしれません。
 本筋に入ると三大魔法学校対抗試合が行われることになり、十七歳以上が条件だったはずなのに、ホグワーズからはもう一人ハリーも選ばれてしまい、どうやらそれは「あの人」の陰謀らしい。で、対抗戦でハリーは勝てるのか、それとも死か? 
 そして「あの人」の手先の先生は誰か? とのお約束の謎解きも仕組まれています。
 でもやっぱりそれらは、読ませるための設定であって、描きたいのは十四歳になったハリー、ロン、ハーマイオニーの関係が微妙に変化し始める点でしょう。
 実は私、この物語をファンタジーだと思って読んだことはありません。なるほど魔法は出てきますし、架空の生物も出てきます。けれど、それらはあくまでストーリーを盛り上げるためのアイテムです。ファンタジーごっことでも言えばいいのか。例えば今作でハリーが第二の課題に挑戦する術がないまま迎えた当日、妖精のドビーが「鰓昆布」なるものを持ってきてくれる展開などは、おいおいそれはないだろうと力が抜けそうになるけれども、「鰓昆布」なんてかなりベタな小道具にニヤリとすることも確かです。そのほかのアイテムたちも、魔法世界にあったらいいな的、ドラエモンのノリで登場してきます。今作でいえばフレッド&ジョージが作り出すチト、アブナイお菓子などですね。
 あってもなくてもかまわない。しかしあることで、その世界の楽しさと、ファンタジーっぽさを彩ってくれる小道具や大道具たち。それを生み出すのがこの作者はとても巧い。
 ではファンタジーでなければ、『ハリー・ポッター』はなんなのか?
 学校物語です。
 子どもの読者にとって、この物語がおもしろい理由の一つは、これが全くの別世界ではなく、ごくごく身近な世界と繋がっているからだと私は思っています。魔法を取り払ってみれば毎年の学校生活をつづっているのです。「あの人」というごっこ遊び、新しく赴任してきた先生、寮対抗の点数争い、人気のスポーツ、そして授業。子どもたちの実際の学校生活は楽しいものとは限りません。でも、『ハリー』は、そこにちょっとだけ魔法を振りかけることで楽しく、冒険にも満ちた、活き活きとした場所に変貌させているわけです。キングズ・クロス駅9と3/4番線はもっとも象徴的ですね。魔法学校に行く手段などもっと空想広げていくらでも考えられるでしょうが、そうはしない。現実にある駅を使い、番線だけを少しズラすわけです。存在する駅にある存在しない番線。軽い目眩です。
 今作では、ロンのハリーへの嫉妬、それに対するハリーの怒り、二人の間で気をもむハーマイオニー。ハリーの恋。ハーマイオニーのかわいらしさに今頃気づくロンとハリー。子ども同士から大人同士へと変わる境目の心の揺れ。これは、リアルに描くと結構危うく大変なテーマです。それが『ハリー』なら、現実世界からほんの少し魔法世界にズラすことで、わかりやすく描けるわけです。案外多くの子どもたちは選ばれし者ハリーより、ロンやハーマイオニーに身を寄せて読んでいるのじゃないかな。
 子どもたちが夢中になるのはファンタジーだからではなく、ごく身近な出来事をファンタジーっぽく見せてくれるくれる作者の「魔法」にあると思いますよ。(ひこ・田中)
(moe200301号)