No.64            2003.04.25日号

       

【絵本】
○オルファースを知っていますか?
 スウェーデンの絵本作家ベスコフの絵本が、近年たくさん翻訳されているのにはびっくりさせられます。北欧ブーム、復刊ブームとかたづけるほど簡単なことではないような。子どもに対する大人たちの姿がとても安定しているところ、暮し方がシンプルで子どもの目で追える範囲にかかれているところ、絵本の中の子どもがこうあってほしいという願望を身にまといながらも、実際の子どものしたたかさやあっけらかんとした強さ(弱さ?)が描かれてしまっているところなどが、現代の作家では出せない味になっているのかなあと思います。
 さて、ジビュレ・フォン・オルファースは、ベスコフがデビューしてから8年後、1905年に最初の絵本を刊行しました。生まれたのは1881年と7年ほど若いのですが、ほぼ同時代の作家といっていいでしょう。彼女もまた、ここ2、3ヶ月で次々と翻訳出版されました。『森のおひめさま』(秦 理絵子訳 平凡社 1909/2003.2)『うさぎのくにへ』(秦 理絵子訳 平凡社 1906/2003.4)『根っこのこどもたち 目をさます』(ヘレン・ディーン・フィッシュ英訳、石井桃子訳 童話館出版 1906.1930/2003.3)の3冊です。
 うち、『根っこのこどもたち〜』は以前、福武書店で『ねっこぼっこ』というタイトルで刊行されていたので、記憶にある方もいるかもしれません。けれども、今回は1930年にアメリカで英訳出版された本を日本語にしたものなので、オルファースのオリジナルとは言えない造りになっています。原本や『ねっこぼっこ』のテキストは詩に近い、リズミカルで短いものですが、童話館版はすっかり説明的なお話に作り替えられているのです。こういうことは英訳版にはよくあることらしく、現代の本でも英訳版と原本を比較すると文章が説明的に補足されていたり、ラストシーンがきっぱりと明るく書き換えられているのを発見して、愕然とした記憶があります。翻訳文化の違いなのかしら。『ねっこぼっこ』は四季の変化を大地母神をおもわせるおばあさんとその子らの働きを、具体的な生活の中の仕事になぞらえて絵解きしていく絵本です。大きな自然のサイクルをゆったりとしたファンタジーでくるみ、それが身近に想像できるような仕掛け(絵解き)で語られます。オルファースの代表作でもあるこの絵本をオリジナルの形でどうして刊行できなかったのでしょう。福武版はとうに絶版になっていて手に入らないというのに。表紙もちがうし、テキストもちがう。残念でたまりません。これでもう、オリジナル・ドイツ語版からの翻訳が難しくなります。翻訳物の辛いところは早い者勝ちであるところ。どんな造りの本でも、どんな訳の本でも先にでてしまえば、それが日本での定本となってしまうのです。どうにかならないでしょうか。
 『森のおひめさま』と『うさぎのくにへ』は初めての翻訳となります。これらはドイツで復刻されたものをもとに作られました。ベスコフもそうですが、何度も出版社を変えて(そのつど発見されているのかも)復刻、復刊されて読みつがれているのがオルファースの不思議な強さを思わせます。どちらもアール・ヌーボーの影響を大きく感じさせる絵柄、シンプルなストーリー。リズミカルな短いテキスト。どうも小さな子どもにはリズムと短い言葉の連なりがストンと胸におちるのだとオルファースは知っていたみたい。
 『森のおひめさま』はごはんをたべて、したくをして、お勉強して、あそんで、おはなしをきいて、夜になったら眠ります、というシンプルだけどとても贅沢なゆったりとした毎日を1冊に描き出しています。茂みの間からお姫さまの様子をそっとのぞき見しているような造りの絵。どきどきします。これも英語版だと絵の処理がちがいます。解釈の違いかなあ?
 『うさぎのくにへ』は森でまいごになった子どもをしっかり者のうさぎのお母さんが育てる話。浮世絵みたいな色面処理の絵がおもしろい。カラーとモノクロの絵で同じシーンを違った目線で見せている構成も巧みです。森でまいごになって妖精に育てられたり、魔女にたべられそうになったり、というのはあるけれど、うさぎの子になってしまうのはなかなかないですね。子だくさんだから、また増えても平気なの、というお母さんの表情、まいごのためにうさぎの洋服を作ってやるかいがいしさ、ふわふわの着ぐるみみたいな子どもたちの愛らしさ。おもわずふふっと口元がゆるんでしまいます。こんな太っ腹なお母さんになりたいなと思います。まいごになってもちゃんと愛されて、また戻ってくるお話だから安心。こんなまいごならなってもいいなと思ってしまうかもね。
 オルファースは34才の生涯で8冊の本しか残せませんでした。長い作家生活の中で30数冊を出したベスコフとは比較にならない寡作の人といえるかもしれません。でも、亡くなるまでの10年で8冊の絵本を刊行し、今もなお、その表現が古びず、生き生きと現代の子どもにもきちんと受け取れるものであるのが素敵だなと思います。声を出して読むと、オルファースの瑞々しい感性がダイレクトに伝わってきます。ぜひ。

○その他の気になる絵本
『アマガエルとくらす』(山内祥子文 片山健絵 福音館書店 1999/2003.3)
 たくさんのふしぎ傑作集の1冊。いま、うちにはアマガエルが2匹いる。伊豆の苺畑からやってきた。東京に来てそろそろ2ヶ月。ミールワームをやったり、蠅やクモ、小さな甲虫をやっている。きっとすぐ死んでしまうと思っていた。でもね、この本を書いた山内さん家では14年も一緒にくらしていたの。一緒に読んでいた子どもが「えっ、そうなの。カエルってすぐ死んじゃうんじゃなかったの?」と目をキラキラさせる。きっと、いつも家のカエルのことを心配していたに違いない。カエルが人に慣れていくところ、脱皮をして、自分で皮を食べてしまうところ……。山内さんの小さな発見を我が事のように喜ぶ目の前の子ども。淡々と書かれた文章の奥深さ、しみじみと愛らしく、湿り気を帯びた絵。読めてうれしかった。

『てんのくぎをうちにいったはりっこ』(神沢利子作 堀内誠一絵 福音館書店 1985/2003.3)
 こどものとも傑作集の1冊。これも再び出会えたうれしい本。小さな小さなはりねずみのはりっこが大きな大きな天の天井をとめている釘を打ちに行くというお話。神沢さんらしい勇壮なお話。この絵本はとにかく声に出して読んでみてほしい。リズムがよくて、読みやすい。お話の色と文章のリズムがあっていて、ストーリーの高まりに合わせ、口調もどんどん強く、高くなる。そして、ぽ〜んとふっとんで、ちゃんと安心の着地が待っている。ざっくりとした絵もリズムにあっている。

『ぼくたち1ばんすきなもの』『あいうえおはよう』(西巻茅子さく こぐま社 2003.3)
 西巻さんの絵本にはしあわせの風が吹いている。ちょっと困ったふうになっても、しあわせそうにしているとしあわせの風がやってくる。この2冊はかわいいパッチワークで作られた絵本。ただの手作りかわいい絵本ではなくて、きちんと読んで楽しい絵本になっているのがさすが。あいうえおや数字をモチーフにした絵本がどうしても身につけてしまうお勉強の空気を、手仕事のあたたかさ、つたなさがうまく救ってくれたようだ。
目配りの効いたデザイン処理、鼻歌みたいに歌えるテキスト、きちんと営まれている日常。安心して読める。

『ロンパーちゃんとふうせん』(酒井駒子作 白泉社 2003.3)
 酒井駒子は気になっていた。でも、ヤングアダルトの作家かな?と思っていたのだ。凄みのある『赤い蝋燭と人魚』(偕成社)や奇妙な味の短編集によく似合う挿画、パルコのフリーペーパーの表紙などを見ていて。ヤングアダルトの作家というのは、(まだうまく自分の中で言葉が熟していないのだが)乱暴にいってしまうと子どもの目線に降りられない人。この子どもは大体3、4歳くらいのことかな。今、降りた風を装って絵本を出している人がたくさんいるけれど、そういう人はわたしの思う狭義の絵本作家の中に入らない。酒井さんはちょっと微妙な存在だった。この絵本を見るまでは。
 ロンパーちゃんの絵はいわさきちひろをおもわせるざっくりした粒子の荒い鉛筆のタッチが生きている。幼い子の身体が見せる表情の豊かさをきちんと描き出している。これはとっても大事なこと。ロンパーちゃんがお外でふうせんといっしょに遊ぶシーンのやわらかさ。エッツの『わたしとあそんで』みたいなあたたかな光で満たされている。ふうせんといっしょにごはんをたべたり、ねたりできなくなったロンパーちゃんの思いをどう昇華させるか、難しいところだなと思ったが、わりと素直な見立てをつかうことでうまく納めている。『おーい まてまて』(福音館012)で見せた小さな子への寄り添い方が、この絵本でより確実になったと感じさせられた。

○絵本じゃないけれど
『中川ひろたかグラフィティ 歌・子ども・絵本の25年』(中川ひろたか著 旬報社 2003.4)
 子ども関係の仕事をしていて中川ひろたかを知らない人はもぐりだ。子どもの歌の作曲家で歌うたいの人で、最近生きの良い絵本をたくさん作っている絵本作家でもある。童心社ででている「ピーマン村のなかまたち」シリーズは村上康成とのコンビで大人気だし。
 で、彼がなぜ歌を作り、歌い、絵本を作るに至ったかを書いているのがこの本。徹底的に個人的なことなのだが、それがなんともおもしろいのだ。子どもに魅せられた大人たちのさまざまが様々に描かれる。今では幼児教育の分野で名前がでてくる人たち、人形やおもちゃづくりの人、幼稚園、保育園の先生などいりみだれ、なんかみんなでわさわさ楽しそうにしているのが見える。伝説の人気バンド・トラや帽子店のこと、絵本づくりに至るまで、おかしく、誠実に語られていく。そうねえ、ひとくちでいうと子どもという現場に身をさらし続ける<現場主義の男>のお話といってもいいかしら。現場主義は楽しい。現場主義は大変。でも現場を持ちづつけるのは、もっと大変。それを25年やってきたという自負が「子どもに憧れる大人と、大人に憧れる子どものすむ場所で」という言葉にも見える。
 でも、みんな多かれ、少なかれ現場を持っているんだよね。それぞれに。ものを作る現場。向き合う現場。売る現場……。それにどうつきあっていくかで、出来てくるものも、現場自身もすぐに変わってしまうのだけれど。こういう人がそれぞれにたくさんいるのが豊かな社会というものなのだろうなと思う。
 中川さんの作る歌は歌いやすい。子どもが生まれて、いまのNHKのみんなのうたのつまらなさを実感したわたしにとって(小林亜星のぶたまんのうたやおーなり由子のおばけのハオハオなど好きな歌もあるけれど)、トラや帽子店やその後のケロポンズやクーヨンの毎月の歌は毎日の生活の中でかかせない。歌が生活を引っ張ってくれることが、子どもがいるととっても多いのだ。その毎日もわたしにとっては大切な現場なのだけれど。
(細江幸世)

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『ペットになりたい ねずみ』(ローレン・チャイルド:作 木坂涼:訳 フレーベル館 2002/200303 1300円)
 あ〜、またやってきました、ローレン・チャイルドの新作が。
 もちろん、今度も濃いです。
 でも、恐怖の妹ではなく、どぶねずみくんが主人公で、ホッ。
 画はいつものように、ベタベタとコラージュで、楽しいです。
 主人公はペットになりたくて、ペットになっているネコとか他の動物と知り合いで、何故、自分だけがペットになれないかに、イライラ。でも・・・。
 この人、本当に落としどころが巧い。(hico)

『ウォーターハウス・ホーキンズの恐竜』(バーバラ・ケアリー:文 ブライアン・セルズニック:絵 千葉茂樹:訳 光村教育図書 1900円 2001/2003)
 恐竜の原寸大の標本を作るのに生涯を捧げたウォーターハウスの伝記。
 表紙から中身まで作り込まれた絵本です。
 19世紀ロンドン。万博で評判となった、メイン会場は水晶宮と呼ばれた総ガラス貼りの建物(エッフェル塔に負けじと作ったのね)。当時の建築技術と、天井までガラスで作られたそれは、まさにこれまで観たこともない物でした。
 それを万博後に、ロンドンの南に移築、博物館とし、原寸大の恐竜を置くことになったのです。化石はまだそれほど揃っていず、彼は科学者と協力し、原型を想像してつくったのです。てな辺りは、読めばいいことなんですが、そうした物語のバックボーンに19世紀から大恐慌時代までの歴史がちゃんと組み込まれていて、歴史と科学への興味をかきたてます。
 子ども時代夢中でなんども読んだ図鑑なんかを思い出して、ドキドキ読みましたよ、私は。(hico)

『ちびうさ まいご!』(ハリー・ホース:作 千葉茂樹:訳 光村教育図書 2002/2003.03 1400円)
 『シロクマをさがしに』の作者の新訳。『シロクマ』は結構ボケかましてましたが、今作は真っ当な「絵本」。
 今日はちびうさの誕生日。ちびうさのリクエストでラビット・ワールドって遊園地出かけます、が、どれもこれも、またちいさなちびうさには乗れない物ばかり・・・・。
 タイトル通りに物語は展開していきますが、遊園地の隅々まで作者の画は視線が届いていて、見飽きません。
 もちろん、幸せな結末であります。(hico)

『フォルケはチュッツとしたいきぶん』『フォルケはプッとしたいきぶん』(オーサ・カシーン:作 ひしき あきらこ:やく くもん出版 2003 800円)
 うん。シンプルで、だから、「読み聞かせ」・・・ってなんだかヤな言葉だと思わない? 「読むから聞いてね」の方がいい。
 で、その「読むから聞いてね」には、これ、結構使えます。
 両親や、飼い犬や、大好きな女の子、みんなに「チュッツ」「プッ」したい気分が描かれているから、もうしょーがないフォルケの真っ直ぐさに、好感、かな。(hico)

『おはよう! メイシーちゃん』『メイシーちゃんのおいしゃさん』『メイシーちゃん レモネードをつくります』『メイシーちゃんのおかたずけ』(ルーシー・カズンズ:作 なぎ・ともこ:訳 偕成社 2001/2003.03 各1000円)
 先の『フォルケ』と基本的には、同じノリです。ネズミのメイシーちゃんが、それぞれのタイトル通りの行為を行います。一作一設定で、相手を変えて繰り返す。
 リズム感が命。
 いいんですが、英語表記の間に翻訳文が入っているのは、???。各国このやり方なのかしらん?あ、でもそれだと本国イギリスでは成立しないから、やっぱり、こっちで、こうしたのかしらん。
 それで、すごく読みにくい。英語が気になって仕方ない。(hico)

『どいてよ へびくん』(五味太郎:作 偕成社 2003.03 800円)
 一作一設定なのはこれも同じです。ただし五味ワールドの場合、そこに「一タイトル」が付いてきます。メイシーちゃんの場合だと、相手を変えることで、興味を広げるのですが、五味ワールドは、変えません。徹底的に「どいてよ へびくん」なのです。どんなケースで「どいてよ へびくん」が生じるか、それだけに絞られます。そして、それにそったオチ。
 もちろんこれによって、量産も可能になっているのですが、それは結果であって、五味は何も量産のためにそうしてるのではないでしょう(ためにでもいいけど)。幼児にコミュニケーションのとば口を提示するためにですよ。(hico)

『きみとぼく』(みやもと ただお・さく&え PHP 2003.02)
 なんでもちゃんと出来るロボットのぼくが観れば、Hロボットは故障している。
 ボーってしてるし、木登りなんかするし、むかしの食べ物ばかりつくるし。
 でも、読んでいくと、完全なロボットのつもりの「ぼく」はそう思っていることそのものが、すこし故障している感じに見えてくる。そうして、「ぼく」とHはそれぞれの個性を受け入れつつ、新しい星に向かう。
 ここにはみやもとの社会に対する目がよく出ている。(hico)

『森のおひめさま』(ジビュレ・フォン・オルファース:作 秦理絵子:訳 企画・編集:細江幸世 平凡社 1909/2003.02.18 1500円)
 一世紀前の絵本です。従って、今はもう、描けない世界だと考えるのが妥当でしょう。
 色遣いなど、原本をどこまで再現しているかはわかりませんが、色調のシンプルさなど、時代を感じさせるに充分の仕上がりです。
 森のおひめさまの一日を描いているのですが、その幸せな一日は、「朝起きて、眠るまで」の子どもの満足感をくっきりと、伝えています。
 子供観が揺らいでいない時代の作品です。(hico)

『しろねこくん』(べつやく・れい:作・絵 小学館 2003 900円)
 ナルホド、絵本にはコーユー手があったんだと、脱帽しました。
 「ねこ」という単語の次に様々な助詞をつけて、「ねこがあたる」なら、何かの景品としてしろねこが当たった、てな具合。で、それに見合った画が描かれている。こうして主人公とこのしろねこの日々が、次々と明らかになっていく。もちろん、強引な展開になるのは当然で、そこがまたユーモアとなる。(hico)

『三つのお願い・いちばん大切なもの』(ルシール・クリフトン:作 金原瑞人:訳 はたこうしろう:絵 あかね書房 1992/2003.03.30 1200円)
 お誕生日に1セント玉を拾ったら、三つの願いが叶う。さてゼノビアはどんなお願いを?
 一つ目は、雪の日だったので、思わずお天気になったらいいな、で使ってしまいます。
 二つ目を言うとオチが判るので、パス。
 教科書に載せられていた文章に、はたが絵を描いた絵本です。
 目新しい工夫はありませんが、このパターンを未だ知らない子どもなら、「ナルホド」と思うでしょうね。(hico)

『カピバラくん』(たなかしんすけ:作 理論社 2003.03 1000円)
 戦前、日本にも食料、皮のために輸入された、世界一大きなネズミ、カピバラの子どもが主人公。
 遊んで欲しいのに、パパもママもおばあちゃんも、すぐに眠ってしまう。
 そこで彼、床にお花畑を描く(落書きとももうします)。目をさました大人たちの反応は?
 色々あったが、一家は仲良く、です。
 カピバラくんのキャラが、もう少し輪郭はっきり立てれば、これはシリーズに出来ますね。(hico)

『わたしたちは平和をめざす・平和と戦争の絵本5』(黒田貴子:文 石橋富士子:絵 大月書店 2300 1800円)
 「平和と戦争の絵本」シリーズもいよいよラス前。五巻目です。今作は子どもからの平和への取り組みとメッセージ。戦争体験を直接祖父母から聞ける最後の世代として、その記憶を次の世代に橋渡しすること。
 祖父母ではなく両親から体験を聞くことの出来た世代(1953生)の黒田は、今の子どもたちへの橋渡しとして、文を書いています。
 そうであっては欲しくなかったけれど、タイムリーな企画絵本シリーズ。
 最終巻が上梓される時には、戦争が終わっていますように。(hico)

『わたしの て』(ジーン・ホルゼンターラー:ぶん なんしー・たふり:え はるみ こうへい:やく 童話館出版 1978/2002.09.25 1300円)
 手がさまざまに使われることを、描いていきます。当たり前のようなことだって、改めて描かれると手の役割を、距離感を持って知ることができます。
 オチはチト恥ずかしいが、これでいい。(hico)

『かわと小物』(太田恭治他:文 中川洋典:絵 エルくらぶ 2003 2200円)
 皮・革の歴史やそのなめしか方、加工法、それによる小物の作り方まで、詳細に描かれた絵本。『太鼓』(http://www.hico.jp/ronnbunn/mag/010825.htm#taiko)の続編というか、番外編です。
 知らないことを知るのは、とっても楽しいことです。これから「革」製品の見方も変わってきますよ。
 で、なんで「革」なの?
 は、『太鼓』と併せて読めば判ります。(hico)

『こぶしのいえの こもりうた(もりのうさぎのうたえほん)』(ひろかわさえこ:さく・え あかね書房 2003.03)
 シリーズ第一作。絵本とその最後に、ひろかわ作詞、島本一男作曲の譜面が付いています。
 絵本を読んで貰ったあと、歌を教えて貰って唄うという、流れですね。絵本と子どもとのつながりが巧くできます。
 森の中、大きなこぶしの木の下に家を建て、子育てをする若いうさぎカップルの物語。
 これからどう展開していくのでしょう?
 ジェンダー・フリーであることを希望します。(hico)

『ともだちから ともだちへ』(アンソニー・フランス:作 ティファニー・ビーク:
え 木坂涼:やく 理論社 2003/2003.03 1300円)
 ともだちは待っているものじゃなくて、自分から作るもの。
 そんな簡単なようでいて、ちょっと勇気もいる行動を、この絵本は描いてます。
 ディス・コミュニケーションな時代に必要なメッセージ。
 ハジャマを着て、家を出たくないスナネズミくんの元に、友達からお手紙。でも差し出し人が判らない。で、彼は手紙の出し手を探しに出かけるという寸法。
 画の温もりが、物語のそれと共鳴しています。(hico)

【創作】
『ガールズ アンダー プレッシャー』(ジャクリーーン・ウィルソン:作 尾高薫:訳 理論社 1998/2003 1200円)
 エリー、マグダ、ナディーン。あの三人組が帰ってまいりました。
 語り手は前回同様、エリー。前回はマグダとナディーンにカレシが出来たので、自分もいると、気に入ってもいなかった男の子の名を挙げて、勝手にイケメンでとかでっち上げて(アメリカの子なので、他の二人は会ったことがない)、そりゃもう大騒ぎでありましたが。今回は、モデルに応募したナディーンをみるにつけ、自分は太っていると思いこみ、、エリーは摂食障害へまっしぐらになってしまいます。
 このシリーズがおもしろいのは、大親友である3者が、結構ジコチューであったりして、それでもうまくバランスを保っていること。それでもではなく、それだから、かな。
 もう、言いたいことはっっきり言うし。
 ポップな物語が、深刻な摂食障害をよりいっそう際だたせます。もちろんちゃんと救済してますけど。(hico)

『オスティア物語・古代ローマの謎ときアドベンチャー』(キャロライン・ローレンス:作 田栗美奈子:訳 PHP 2001/2003 1600円)
 2000年前のローマの小都市オスティアを舞台としたアドベンチャー・ミステリー。シリーズ第一作です。すでに17巻でているそうです・・・・。
 舞台設定でまずつかみはOKですね。その小都市の地図もちゃんと付いているし、それを眺めながら、謎解きを楽しみというのは、ミステリーの常道。
 主人公フラビア・ジェミナは船長の一人娘。母親を亡くしてます。お隣は医者で、そこの息子ジェナサンが相棒。そして、救うためにフラビアが買い取った奴隷のヌピア。最後は、舌を切られて話せない、ホームレスだった孤児ルーパス。
 この4人がパーティとなって、事件を解決していく段取りです。
 今作は、第一巻目なので、4人が出会う経過や、舞台背景の説明が多くて、謎解きはたいしたこと有りません。ただ、境遇の違うこの4人が今後、どうパーティを組んでいくかには、結構期待できます。
 でも、ハードカバーにしなくてもいいのにな〜。(hico)

『クジラのウォルドーとココナッツ島の魔女』(アラン・テンパリー:作 ニック・マランド:絵 子安亜弥:訳 ポプラ社 1999/2003 1100円)
 はずかしがりやで、臆病な若いマッコウクジラ、ウォルドー・リアンダー・フルークの活躍を描く短編集。
 このクジラ、事件に出会ったとき、臆病を克服して、がんばって、解決していく。 
 とてもシンプルな物語です。
 大人には物足りないかもしれませんが、海底に捕まった友人のお月様を救い出すなんてノリは、子どもにはワクワクですよ。捕まったときは三日月で弱かったけど、助けるときは満月で、パワー持ってたりがね。(hico)

『ハッピ−・ボーイ』(ジェリー・スピネッリ:作 千葉茂樹:訳 理論社 2002/2003)
 『スター・ガール』のスピネッリの新訳。原題は「敗北者」ですが、前作とのノリの関係で、こうなったようです。けれど、「敗北者」=『ハッピ−・ボーイ』という関係性は確かにこの物語にはあります。
 なにをやってもドジで、字がヘタで、運動も苦手で、およそいいところが一つもないジンコフくんの、学校生活を描いています。もちろんいじめっ子はいるし、無視する子もいる。それでも彼は毎日毎日学校へ通います。
 作者は、クラスの中で見えにくい彼を詳しく追っていくことで、一人一人が違う人間なんだっていう当たり前なんだけど、忘れてしまう大事な原点を気づかせてくれます。
 ジンコフをみんなが発見していく物語。発見されたとき、そして発見したとき、敗北者はハッピ−・ボーイとなるわけです。(hico)

『リ・セット』(魚住直子:作 講談社 2003 1200円)
 この作家は、デビュー作からいつもいつも、その時々の「今」をどう掬い取るかに焦点を当てています。
 今作はタイトルからして、『リ・セット』ですから、例えば『インストール』(綿矢りさ:作 河出書房新社 2001)の先を描こうとしています。
 中学二年生の三帆は母親と二人暮らし。彼女の日々、彼女の周りの出来事は、イマドキごくごくフツーなもの。アパートの上の階には不登校で、呪いを解くために窓から物を捨てているし、三帆は四人グループの一員だし、別に直接いじめるのではないけど、ビミョーを呼ばれるクラスメイトをだしにして笑ったり。ね、ありがちな日常です。
 海岸にテントが一つ。なんとなく近づくと、出てきた中年男は、母親の元パートナー。つまり三帆の父親。といっても幼い頃に別れた彼女の記憶に彼はなく、写真で確かめたのですが。
 ここから物語が動き始めます。
 彼女の世界からは削除されていた父親が、社会からドロップアウトした人物として現れることで、これまでのフツーの日常が別の側面から見えてくるのです。
 見えたからと言って、何かが解決されるわけでもなく、物語は、ビミョーに展開してゆきます。この辺りの手触りが、決して明るい物語ではないのですが、心地よいです。(hico)

『死をはこぶ航海』(イアン・ローレンス:作 三辺律子:訳 理論社 1999/2003.03 1500円)
 帯にある「『宝島』のスティヴンスンの再来」はチト、無茶ですが、『呪われた航海』に続くジョン君の海洋冒険物語。
 父親は彼を貿易商人の跡継ぎにしたく、でも彼はやっぱ、船員に憧れてます。
 今作は有り金はたいて、新しい船を買い、貿易を再開しようとする父親と、馬車で港に向かう所からスタート。当然のごとく、盗賊が現れ、早くもピンチ。このお約束通りのオープニング。いいな〜。好きです。馬車に同乗していたこれも謎の人物ラーソンによって危機は回避されます。で、父親が買おうとしている船が「ドラゴン号」だと聞くと、あれだけは買うなとの忠告。いやいや、もう、謎と冒険の王道です。いいな〜。好きです。
 ジョン君の任務は、ケントからこのドラゴン号で、先にロンドンへ戻った父親の元に羊毛を届けるのこと。が、父親が雇った船長は殺され、船員として雇う予定だったクローを船長に。権力欲の強いこいつを、ジョンは果たして仕切れるのか?
 そこに密貿易が絡まってきて・・・。
 適度のダークさとテンポの良さ。敷居がそんなに高くない謎たち。怪しげな登場人物たち。心に残るってタイプの物語ではありませんが、楽しく読み終えれが、OK。
 けど、相変わらず、こーゆー物語は男の子が主人公なんだな。
 理論社のYAは翻訳と日本物で、粒が揃ってきました。一つの固まりができてきた。
 これって大切。いいぞ、理論社。期待してます。(hico)

『バドの扉がひらくとき』(クリストファー・ポール・カーティス:作 前沢明枝:訳 徳間書店 1999/2003 1600円)
 時は大恐慌時代。「子どもの家」から引き取られていったバド。が、そこの子のイジメに切れ、脱出。「子どもの家」にも帰りたくないバドは、母親の記憶と残された遺品から、自分の父親が誰かを推理している。母親が大事にしていた、ジャズ・コンサートのチラシ。そこに映っているハーマン・E・キャラウエイこそがそうだと。そこで彼は、父に会うため旅立つ。
 前半は、恐慌時代の失業者、ホームレスの生活が読ませどころ。後半はハーマンは父親か? です。
 孤児、大恐慌、なんだかクラ〜イ物語みたいですが、バド(誰にもぜったいにバディとは呼ばせない)の持ち前の明るさが、そんなの吹き飛ばしています。
 各キャラも立っていて、それぞれがおもしろい。(hico)

『レッドウォール伝説3・小さな戦士マッティメオ』(ブライアン・ジェイクス:作 西郷容子:訳 徳間書店 1989/2003.02 2800円)
 シリーズ3作目。今回は1作目の主人公マサイアスの息子マッティメオが大活躍! かといえばそうでもなく、彼も含めた子どもたちがキツネのスレイガー一味たちに誘拐されてしまいます。
 物語は、彼ら(マッティメオは仲間を励まし、一時は逃亡に成功します。が、また捕まる)と、それを救うべく旅立つマサイアスたちと、帰りを待つ修道院に攻め込んできたカラスたち、3つのエピソードがめまぐるしく入れ変わりながら、進んで行きます。そのサービス満点なこと。
 巻を追うごとに、この年代記は膨らんでいきます。
 戦闘の多さ、当然ながら死体の多さ、先号で西村醇子が指摘したジェンダーバイアスなど、気になることもありますが、次作は主人公が女の子なので、その辺りは、4巻目を読んでから。(hico)

『幽霊船から来た少年』(ブライアン・ジェイクス:作 酒井洋子:訳 早川書房 2001/2002.12 1800円)
 ブライアン・ジェイクスの新シリーズ。さまよえるオランンダ幽霊船、フライング・ダッチマン号に偶然乗り込んだベンと彼の相棒となった黒い犬ネッド。呪われた船は幽霊船になりましたが、ベンとネッドだけは助かる。が、彼らには成長しないという運命が与えられます。
 それから彼らは、同じ場所に長くとどまることなくさまようこととなり、シリーズはそれを描いていこうというわけです。
 今回は、村人を立ち退かせて、工場を建てようとする側に対して、これらの土地が村人たちのものである証拠を探すアドベンチャー。
 謎解きたっぷり、勧善懲悪、一気に読ませます。(hico)

『ノリー・ライアンの歌』(パトリシア・ライリー・ギフ:作 もりうち すみこ:訳 さ・え・ら書房 2000/2003 1500円)
 1854年から1852年までアイルランドをおそった大飢饉。生き延びるために多くのアイルランド人がアメリカへと向かう。物語はその時代をベースに描かれています。
 語り手は、ノリー。
 海辺で海草を拾って食いつなぐような日々。生き延びるために、恋人が、家族が次々とアメリカへ。妹を置いていけない彼女は、老女アンナに助けられながら、必死で毎日を過ごす。
 物語はそうした日々を追っています。
 アイルランド事情は北アイルランドのテロなどで日本のマスコミにも出てきますが、この国が抱えてきた苦難は、やはり、こうした物語化で伝えることも必要でしょう。
 笑えるストーリーではありませんが、ぜひ。
 そして、『ふたりの世界』(ジョアン・リンガード‖著  横山貞子‖訳 晶文社 1988)も、お読みくださいませ。(hico)

『魔法があるなら』(アレックス・シアラー:作 野津智子:訳 PHP 1999/2003.02)
 タイトルから、お、また、ファンタジーか? と思ったら違いました。原題は『The Greatest Store in the World』。こっちはそのままやんけではありますね。
 お金も家もないのでデパートで暮らそうとする母と二人の娘の物語です。
 語り手は姉のオリビア。しかも警察での尋問の答えているとの設定。
 美術館で暮らした姉弟を思い出しますが、こっちは親子。しかも、食べ物もおもちゃもみーんなあるので、どっちかというと借り暮らし(『床下のこびとたち』)かな。
 アイデンティティ探しでも、抑圧からの解放の話でもなく、デパートでいかにして気付かれず、迷惑もかけず暮らしていくかが、読みどころ。なかなかよく調べていて、なるほどな、これなら大丈夫かも(こらこら)と思ってしまいます。っていっても、もちろん「デパートでの暮らし方」なんていうハウツー本ではありません。どこか甘ちゃんの母親と、それに似た妹、この二人がトラブルを起こさないようにとオリビアの苦労は大変です。その辺りの母親像も、時代をちゃんと抑えています。
 警察の尋問ですから、当然かれらは捕まったわけですが、なんでそうなってしまったかというと〜。書くわけないでしょ。(hico)

『ぼくは、ぼく。』(大島あや:作 講談社 2003 1300円)
 体が自由に伸びるダックスフンドのビーノくんの物語。ノビルからノービで、縮んだりもするからひっくり返して、ビーノって名前。
 もちろんこれは子犬だったとき拾ってくれたおじいちゃんとビーノだけのヒミツ。
 で、おぼれかけた子猫を助けたりするんですが、両親がアメリカ人で日本生まれのジョーダン君に、そのヒミツがバレてしまう。そうして彼とも仲良くなるビーノ。見かけが「ガイジン」のジョーダンくんは学校でもちょっと疎外感あって、悩んでます。ビーノも近所の犬ブルに、お前は犬じゃないと言われてショック。
 体がどこまでも伸びてしまうなんて、すごいけど、その秘密を守りつつ、活躍するビーノ。ジョーダンの悩みと、ビーノのショックが重なって、大事な事に気付いていく二人。
 脇役のネコのミケや、おじいさんもなかなかいい味を出してます。
 楽しみな新人の出現です。(hico)

『ふつうの学校』(蘇部健一:作 羽住都:絵 講談社青い鳥文庫 2003.04)
 5年生からの新しい担任、学校1美人の先生になるか、だとか、クラス替えでは、学年1美人のナナちゃんと今度こそ同じクラスになれるか、だとか、ばっかり考えてる、フツーのガキ、アキラが主人公の新シリーズ。
 レンタル屋で、AVコーナーではなく一般コーナーにあるエッチなビデオをドキドキしながら借りようとしていたアキラ。と、そこに怒鳴り込んできたおっさん。ロリコンビデオ借りたのに、主人公はどうみても25才くらいじゃないかと、店員に文句。
 そして、このおっさんが、アキラの新担任だったのだ。
 『ふつうの学校』とタイトルし、この設定ですから、このシリーズはこれまで描かれた子ども世界を、リアルでないとみなし、挑戦しているわけです。
 一巻目ですから主要登場人物の紹介をかねたエピソードと、「いじめ」をテーマとしています。
 確かに、描かれなかったような世界が描かれています。
 でもなんだか古くさい。一つには、アキラの語りに「年端もゆかぬ」なんてのがあるのですが、そういう言い方(ものの見方)をこの小学校五年生のアキラができるコなんだろうかってことがわからない。二つ目は、ジェンダー。なるほど、この年齢らしく女の子は元気だし、勇気もあるが、彼女たちへの男の子たちの視線が性差別的。これもまた「ほんとう」なのかもしれませんが、物語がそれに気付いてないわけではなく、しかしそれをどうするかといえば、おちゃらけることで、曖昧にしてしまう点。例えば、女子のいない間に担任は、席替えをする。男子を五班に分け、好きな女子を自分の班に入れるドラフトをする。アキラたちは、戦略を練り見事ナナちゃんをゲット。どうしてゲットしたかは面白いのだが、もちろんこの席替えは女子の物扱いを露呈している。で、女の先生や女子にバレて、担任は女の先生に蹴りを入れられ、この席替えは中止に。中止にはなるが、露呈した問題は解決されないままあいまいに終わる。それが男子や男の本音(ふつう)だよといいたいようなのですが。三つは、担任の稲妻先生が一応型破りなんですが、そのスタイルは男気であり、バンカラな点です。
 勢いのあるストーリー展開できる作者ですから、この辺り、次作から修正できないもんだろうか?(hico)

『アースシーの風・ゲド戦記5』(ル・グウィン:作 清水真砂子:訳 岩波書店 2001/2003.03)
 ファンにとっては、「待望久しい、新作」というより、「3部作で完結したはずなのに、4が出て、それはまあ意図は分からないでもない。でも、え、まだあったの? う、うれしい!」かな。
 だもんで保証は出来ませんが、今度こそ本当に完結編でしょう。たぶん。
 『帰還』の出来がいいと私は思いませんが、完結したはずの3部作がジェンダー・バイアスがかかっていると考えて、彼女がその修正として書いたのはわからないでもありません。3部作を読んでそれをフェミニズムで修正するとこうなるのよ、という、たたき台としての3部作って考え方をして・・・・。
 私にとって、その続編が書かれてしまうのは、驚くことでもありません(そのためには、4と5の間にある「外伝」を先に訳した方が良かったと思うけど。なおその一部が『伝説は永遠に』(ハヤカワ文庫 FT 282)に載っているようです)。「本当」に完結するためには。
 5では、ジェンダー+マイノリティへと視点は広がっています。
 主要人物たちは、収まるところに収まり、帰るところに帰り、この先に『ゲド』的物語は存在しないように見えます。でも、そのためにまた、新しい人物を登場させなければならず、彼らとゲドやテナー、テハヌーとの関連を記さなければならずで、しかも『帰還』出版から11年、忘れている人物も多いので、読んだ印象では、なんだか物語が散乱しています。それはさっ引いても、完結のために、説明が多すぎ、物語は進まず、そのままラストに突入し、これがまた抽象的すぎて、だからまた説明に費やし、勝手に終わってしまいました。懐かしい言葉で言えば「宙づり」のママ。
 この世界は「王国」ですから、その制度そのものにあらかじめジェンダー・バイアスがかかっていたのなら(3巻目まで)、その転覆は無理があるのかもしれません。「制度」を変えずに「個人」を描き変えるだけでは(だからそこにマイノリティへの視線が入ってくるのは必然なのですが)。「個人的なことは政治的なこと」なら。(hico)