No.65-2003.05.25

       

【絵本】
○絵を読むということ/アンソニー・ブラウンの「どうぶつえん」
 「子どもはどのように絵本を読むのか」(柏書房)を読むまで、イギリスの子どもたち(5、6歳ぐらいか?)にアンソニー・ブラウンの絵本がこんなに親しまれているとは思わなかった。まだ字の読めない子どもにとって、身近なリアリティあふれるイラスト、ひとつ見つけるとつぎからつぎへ探し出したくなる不思議なもの、感情を直裁に表現した見立て……。作家の力量は認めるが、くせがあって絵本好きの大人向けのものと思っていたわたしはびっくりした。懇意にしている絵本専門店のオーナーからも「いやいや、はまっちゃう子ははまっちゃうのよ。子どもから親に伝染しちゃったりね」とうかがって、ほーうと感心したのだった。そうか、見方がわかると簡単なんだな。描かれているものをそのままに受け取っちゃえばいいんだ、と。絵を読むことと文を読むことがぴったりあっているから、安心なんだなと思った。同じイギリスの絵本作家であるバーニンガムでは、そうはいかない。絵と文の行間(?)を読まなくっちゃいけないから。
 ということで「どうぶつえん」(藤本朝巳訳 平凡社 1992/2003.5)。本書は代表作といわれながら、なぜか今まで翻訳がでていなかったものだ。おやじギャグを連発するお父さんと楽しみにしていたのになんかつまんないなあ、思ってたのと違うなあと感じてるような子ども。死んださかなのような目をしているお母さん。こういう感じある、あると思う人もいるだろうし、いたたまれないと思う人もいるかもしれない。それが未邦訳だった理由かしらと思う。でも、描かれた時よりも今の方が、この絵本の持つ気分を共有しやすいだろう。白と黒のシャープなデザインの表紙、太い枠に囲まれた中に描かれる動物たち、マグリットの絵のようにだまし絵的に描かれるお父さん、怒っているゴリラのような人、動物たちを見物する動物じみた人、ラストページの檻の中でうずくまる男の子のイラストに作家のシニカルな悲しみを感じてしまう。でも「みてみて、この人しっぽ生えてる、鶏みたいな頭、猫さんだ……」探し絵みたいにぺらぺらページをめくって楽しむ子どもを見ていると、こういう読み方もありなんだなと笑ってしまった。
 アンソニー・ブラウンは今年10月に来日する。横浜美術館で10/4〜19に原画展も開催される。これを機会に多くの人にブラウンの絵本が読まれるだろうと思うと楽しみだ。どういう風に読まれていくのかとても興味がある。
 
○その他の絵本

「おしりをだして」ヒド・ファン・ヘネヒテン作 のさかえつこ訳 フレーベル館 2000/2003.4
おまるに座る男の子の表紙。うんちでないもん、とがんばる男の子に、ほら、とぞうやきりん、ぶたなど動物たちがおまるに座ってみせる。さいごは男の子もおまるにぽとん。よかったね。イラストは新聞紙に色を縫って切り抜いたものをはりつけたコラージュ。ラフな手仕事の跡のある絵が小さな子どもの本にふさわしい暖かみを与えている。訳文が書き文字で印刷され、絵にあっていて楽しい。

「あかちゃんのさんぽ1」いとうひろし作 徳間書店 2003.5
元気に歩く赤ちゃん。赤ちゃんの出会う動物たちとの小話4話がはいった絵本。赤ちゃんがでてくるけれど、書店などの赤ちゃん絵本のコーナーにある絵本とはちょっとちがう。そうねえ、あんまりべたべたしてない感じ。赤ちゃんはちょうちょやねこやさるやにわとりと全身でお話している。びっくりしたり、よろこんだり、何だろうと思ったり……。単純な線で描かれているのに表情豊かな赤ちゃんのからだと顔に、人間の赤ちゃんもにっこり。赤ちゃんは赤ちゃんを見るのがすきなんだ。そして、大人は機嫌の良い赤ちゃんを見てるとにっこり、元気になる。

「かめのヘンリー」ゆもとかずみ作 ほりかわりまこ絵 福音館書店 2003.4
ぬいぐるみのかめと女の子のお話。ちょっと「ビロードうさぎ」を思わせる展開なのだがさすがに妖精はでてこない。古くなって物置き部屋にしまわれてしまったかめのヘンリーは、女の子に会いたい一心で自分でお風呂場にいってからだを洗って、湯舟にどぼん! 気がつくと物干にぶら下がっていました。わかっていても、ラストのヘンリーと女の子の再会のシーンはうれしくて、ほっと息をついてしまう。絵本にしてはテキスト量が多いのだが、大判のページをうまく使って、印象的なシーンは大きな絵でたっぷりと、サラッと説明するところは小さなカットで変化を押さえるように描き、動きのあるページ構成になっている。画家の工夫が冴えている。


「ピクニックにいこう」パット・ハッチンス作たなかあきこ訳 徳間書店 2002/2003.4
パット・ハッチンス久しぶりの新作だ。パッチワークみたいな装飾的でスッキリした絵。めんどりとかもとがちょうはピクニックに行こうとお弁当をかごにつめて出かけます。ここはだめ、あそこはどう?とお弁当を広げる場所を探すのですが、とうとう家へ戻ってきてしまいます。そして、かごを見てみるとからっぽ。落としたのかな?いえいえ、お弁当を食べたのは……。絵を読み、サブストーリーをうふふと笑って見届ける楽しさは健在。

「はるになったら」シャーロット・ゾロトウ文 ガース・ウィリアムズ絵 おびかゆうこ訳 徳間書店 1958/2003.4
福武書店で出されていたものを新訳で復刊。おねえさんがちいさなおとうとにしてあげたいことを一つ一つあげている。淡彩をほどこされたウィリアムズの絵は、今の4色絵本を見慣れた目からは古風でパンチに欠けるように思うかもしれないが、ゾロトウの詩的でやさしい文章には合っている。懐かしい感じ、少し悲しい感じ、誰かを思って行動することの切ない感じが今読んでも新鮮に思う。

「こわがりのかえるぼうや」キティ・クローザー作、絵 平岡 敦訳 徳間書店 2002/2003.4
「ナイナイとしあわせの庭」でとても好きになったクローザーの新作。よる、ひとりで寝られないよとお父さんたちと一緒に寝るところまでは「おやすみなさい、フランシス」みたいねって思っていたのですが、反対にお父さんが眠れなくなるとお話は急展開。お父さんのキャラクターがほほえましく、スイレンの葉にくるまって眠る姿には自然に微笑んでしまいます。色鉛筆で描かれた夜は暗いけれど重たくありません。ぱちくりしたかえるたちの目は思ったよりも雄弁で表情豊か。ベッドサイドストーリーにぴったり。

「こけ子とこっ子」よさのあきこ文 つよしゆうこ絵 架空社 2003.4
与謝野晶子の文章の絵本化は「きんぎょのおつかい」以来かしら。前作ではレトロを全面に出した絵づくりで、ナンセンスなお話に色を添えていましたが、今回はほわんとした幸せな感じでまとめています。つよしゆうこの絵はほわほわしたあたたかな空気が広がっていくような絵で人気ですが、その拡散していく感じが本にした時の弱さになっていたような気がしていました。それが今回はしっかりとした文章でつなぎ止められ、うまく生かされているように思います。若干、書き込み過ぎてバランスの悪いページもありますが。それにしてもこのセリフの言い回し、こけっこ、こっこと雄鶏が鳴いて、それがひなの名前になるというオチ、どれもなんだかのんびりと不思議なおかしみがあって、晶子っておもしろいなあと思います。

「カマキリ」今森光彦文・写真 アリス館 2003.4
去年、たくさんの人の印象に残る絵本となった「ダンゴムシ」に続く、今森光彦の生物記第2弾。カマキリの動き、からだの不思議を自然の中でとらえ、家でも観察している。やはり、カマキリは形態が独特で写真映りが良い。どういう風にとられても絵になってしまう。自在な動きを保証する首の造りや、腕と鎌の間の小さな節など、なるほど良く出来ているものだと感心してしまう。「ダンゴムシ」に比べるとその写真映りの良さが、わたしにはちょっと物足りなさを感じさせる。けれども、このシリーズは写真とともに読む文章の誠実な視点が魅力になっている。そこのところは、本書でも堪能できる。(細江)

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『てくてく あるく』(松原ゆうこ ポプラ社 2003.03 1200円)
 『もりになったライオン』でイケイケ・デビューした松原の2作目。
 そうか、今度はこう来るのか。
 今回は(も)移動が、物語を進め、その過程が松原の奔放な画によって、力強く描かれていきます。
 異形の者が村から移動し、神社、千畳敷と、てくてく歩き、ついには街にまでやってきて、キングコングもどきになり、そうして帰って行く。
 ここには前作同様「意味」も「意図」もない(というか感じさせないように作ってある)。ただただ、てくてくの快感を描いている。
 ためについつい、画の細部を見逃してページを繰ってしまいますが、最初はそうして、二度目からじっくりと。
 気がかりは、今回採用された様々な日本の風景が、子どもたちに情報としてアプリオリに入っていないだろうこと。
 でも、相変わらずのがの勢いが、子どもを引きつけるのでは。説明は、読んで、子どもに聞いて頂く人の力量しだい。
 大人は、好き嫌いだけです。
 私は好き。(hico)

『かあちゃんのせんたくキック』(平田昌弘:文 井上洋介:絵 文化出版局 2003.04.14 1300円)
 ようするに、電化製品の調子が悪くなると、かあちゃんのキックが炸裂して、何でも直してしまうのだ。TVにはチョップもあるぞ。
 井上のはねている画と、平田のパワー全開の文が、タッグを組んで、強引に進んでいく。これがまたアホらしくて、おもろい。
 ノリでナンボの絵本ですので、大いに乗ってくださいな。(hico)

『こおりの くにの シロクマおやこ』(写真・文:前川貴行 ポプラ社 2003.01 1000円)
 「親と子の写真絵本」シリーズ10冊目。このシリーズ、様々な動物の親子の写真集です。から、一歩間違うと危険な落とし穴が待っています。
 つまり、彼らを擬人化して「人間」の親子(母子)の姿とリンクしてしまうこと。これは、「嘘」を伝えてしまうのですから、危険です。
 シリーズの中に出来不出来があるのもそのためです。
 今作は、写真家自身が文を書いています。これ大事。というのは、自分で観察して、撮影してますから、嘘は書けません。厳しい条件下での撮影。本気で生きているそれぞれの動物の親子。それを人間的に解釈などしてはいけません。
 前川の文は時々擬人化に流れかけますが、ギリギリのところでとどまっている。
 いいショットが多いですが、カワイイ、穏やかな、仲の良いのが多いのはチト、不満かな。
 ちょうど先日岩合さんのシロクマ写真展にでかけたのですが、そこにあるのはこちらの感情ではなく、観察と発見。お花畑のシロクマ写真など圧巻で、「な、なんでや?」という岩合さんのうろたえまで写真から漂い、心地が良かったです。(hico)

『ケロコレ』(内山りゅう:撮影 碧典舎 2003 1800円)
 世界中65種のカエルを撮った、写真集。
 ホント、それだけの写真集。
 よけいなことは一切なしです。カエル大嫌いの人にはオススメしませんが、好きから、好きでも嫌いでもない辺りの方は、ごらんあれ。
 カエルにだけ絞ることで、その多様性が前面に提示されて、一つの世界を伝えてくれます。
 こーゆーの、子どもは好きでしょうね〜。
 私も好きですが。(hico)

『ロージーのおひっこし』(ジュディ・ヒンドレイ:文 ヘレン・クレイグ:え まつかわまゆみ:やく 評論社 2002/2003.04.20 1300円)
 子供にとって、自分だけの部屋はほしいものの一つですが、ロージーは人形や毛布を抱えて、それを探しに。
 あったあった、大きな木のうろ。
 ごっこ遊びが始まります。
 ロージーの想像力を楽しんでください。(hico)

『ワニくんのカンづめ』(あべ謙治:作・絵 ポプラ社 2003.03 1200円)
 いつか何かになりたいという夢を持つ子どもは多いでしょう。
 この絵本のワニくんもそうで、彼は恐竜になりたい。
 なんでもカンづめにするのが大好きな彼は、恐竜の絵を缶詰に。
 そうして、恐竜になるたみに、筋トレしたりの努力。でも、なれません。
 怒ったワニくん缶詰をゴミ箱に捨てるのですが・・・。
 なんとも素朴な絵と、色遣いが、和ませてくれます。
 でも、ラスト、恐竜になれたって結末は、どうなんでしょう? それなら、もう一工夫いると思うのですが。(hico)

『ちびむしくん』(ビル・マーチン・マイケル・サンプソン:作 パトリック・コリガン:絵 木坂涼:訳 岩崎書店 2001/2003 1400円)
 1945年にアメリカでかかれた物語を2001年に絵本にしたもの。
 今風に言うと自分探し系の絵本。名前も針も羽もないちびむしくんが、それらを求めて旅に出る。
 出会う人(虫)たちはとても親切で、なんとか願いを叶えてあげるために、色々な工夫をするところが、見せ所。
 ところがもちろんそれは本当の自分ではない。ことを批判してもつまらない。今なら、アイデンティティとはこんなものと読み変えることができるでしょう。
 画は、虚構性に満ちており、よいです。(hico)

『ぼくのくるま』(岡本順 ポプラ社 2003.01 1300円)
 作者自身が「これはぼくのために描いた絵本です」とあるように、ここには広がる夢と、冒険と想像力が、どこまでも続いています。
 ミニカー大好きな少年が、フト目覚めると、床のミニカーが段々おおきくなり、少年は乗り込めるように。と、ミニカーと一緒に少年も小さくなって、家の中を冒険。ネコに見つかった、ヤバイ。と、カーチェイスならぬ、キャットチェイス。水陸空兼用車ですから、それはもう逃げるわ逃げるわ。しかしとうとう追いつめられて・・・・。
 「ぼくのため」に描いたからこそ、この作品は例えばひこという僕のための絵本にもなっている。楽しいよ。(hico)

『子どものホ・ン・ネ辞典』(クロディーヌ・デマルト:さく 石津ちひろ:やく ブロンズ新社 2001/2003.03.25 1300円)
「この本を『ぼく』からはじめるのは/すーごく だいじなことなんだ/だってここにでてくる/とびきり役に立つことは みんな/ぼくが 書いたんだもん。」で始まる、「ぼく」の視点でみた、パパやママ、そうして社会のことが語られていきます。好きだけど、パパとママのヤなところとかね。で、大きくなったら、何になりたいかというと、さっきのワニくんと違って、「ない!」だって。(hico)

『クローバーのくれた なかなおり』(仁科幸子:さく・え フレーベル館 2003.04 1200円)
 白いネズミと黒いネズミは仲がいいから、ついけんかもしてしまいます。
 今回はなかなか仲直りできず、四つ葉のクローバーを先に見つけた方に、見つけられなかった方が「ごめん」という取り決め。
 う〜、なんだかクラーイ規則だな〜。
 幸せの四つ葉のクローバーが別の目的で使われること。
 そこから作者は、「ごめん」と仲直りすることの気持ち良さを描いていきます。(hico)

『ゆきゆき どんどん-こぎつねダイダイのおはなし』(西内ミナミ:作 和歌山静子:絵 ポプラ社 2003.03 1300円)
 冬、誰かと遊びたいダイダイ。でもクマもリスも冬だから遊んでくれない。やっとウサギを見つけて、いっしょに遊ぶことになるけれど、妹が付いてきて、ま、しょーがないかで、3匹でソリ滑り。ドンドンドンドン滑っていって、どこまできたかわからなくなってしまう。
 極めてフツーの物語展開です。
 喜びから不安、そうして安心へ。故桂枝雀さんがよく言ってました。「緊張と緩和」と。
 キツネとウサギが仲良く遊ぶなんてのは、いくら絵本でむ、「どーだかな〜」と私は思います。だって、子どもに間違った情報を与えてしまう。いい話だからそれでいいとはならないでしょう。
 もちろん物語とはそういうものだというのを巧く伝えられるのならOKですが。(hico)

『敬虔な幼子』(エドワード・ゴーリー:さく 柴田元幸:訳 河出書房新社 1966/2002.09.30 1000円)
 まるで19世紀に描かれたような、子どもが天に召されるまでを描いた20世紀末の、絵本。
 神への信仰あついヘンリー・クランプは、いつもいつも自分の罪深さを嘆き、神に許しを請う。カモメをみて、「ぼくも死んだら、鳥になるんだ」と、死を視野に入れているヘンリー。「両親を心から愛し、自分に何か出来ることはないかと、朝に夕に訊ねておりました」。でも絵には金槌をもったヘンリーが描かれているから、チト怖い。小説の中で、みだりに神に触れる部分を墨塗りなんかもします。
 そして、4才5ヶ月のとき、貧しい人にプディングを届けた帰り道、雪に遭い、病にかかり、あっけなく昇天。
 ピュアな幼子の死。
 でも、19世紀風の絵本を再現したかったワケではないでしょう。
 したかったのは、敬虔な幼子という、子どもへの大人の視線を、露わにすること。でしょうね。(hico)

『テディ そよかぜ さわさわ』(マイケル・グレイツ:作 ほその あやこ:訳 ポプラ社 2003.04 880円)
 テディ・シリーズ第4作。これで四季完結です。
 うららかな春の訪れ。テディはさかなつりに。何を着て、何を持って遊びにでかけようかな、と思案が続きます。ページを繰るごとにどっちの靴?どっちの服? と、選んでいくのがグイズみたいになっていて、楽しいです。
 で、最後に、ちゃんとオチをつけてくれるし。
 すごくも、あたらしくもないのですが、出来のいい小型絵本。これでいいのです。(hico)

『ブターラとクマーラ・ベッタベタ』(高畠純 フレーベル館 2003)
 ブターラとクマーラ・シリーズ第3作。ブターラとクマーラ(もちろんブタとクマね)がそもそもベタなネーミングですので、今回の『ベッタベタ』も、もろベタです。
 二人はペンキ屋を始めます。
 そこにシマウマがやってきて、白と黒だけの部屋は飽きたので塗り替えてくれと注文。白と黒の縦縞だらけの部屋をカラフルに塗り替える。というのをヒョウとか、モグラとか繰り返していきます。
 発想もベタでしょ。
 これでいいのです。
 わかっているのにおもしろい、ってタイプですよ。(hico)

『ぼくは いかない』(柴田愛子:文 伊藤秀男:絵 2003 ポプラ社 1200円)
 『けんかのきもち』からもう4巻目です。
 いつも現場のパワーを物語化してくれる、おもしろさが、このシリーズにはあります。今回絵が伊藤秀男に戻っています。
 絵本の舞台でもある「あそび島」と同じような運営をしている「ペガススの家」に遊びにいくことに。で、「ペガススの家」にでかけてからのドタバタが描かれるかと思いきや、そうではなく、母親と離れてお泊まりで出かけたくない、でもみんな行くって行ってるし・・・。しんちゃんは悩みます。
 ってことが中心。この寸止めが、いつもリアルなんですよね、このシリーズは。(hico)

『いつもたのしい』(ワイルズ 一美:作 アスラン書房 2003.05 1400円)
 作者が自分の子どもたちに、残しておいてあげたい「子ども時代」の風景と日々を描いた絵本。
 絵は見ていて楽しいし、文は文でおもしろいのだけど、そのバランスが悪い。絵本であるとしたら、この文字情報は多すぎる。そのために、絵と文に同時にアクセスしながら楽しむことができない。
 作者の気持ちは後書きでよくわかるけれど、それはあくまで作者の思い入れであり、そこから一歩離れて、フィクション化がはかられてもよかった。
 読者とこの絵本を共有するためには、文章がもう少し広がった方がいい。三分の一でいいと思う。
 残念。(hico)

『ちょっと そこまで』(かべや ふよう:作 アスラン書房 2003.05)
 『だったらいいな』(http://www.hico.jp/ronnbunn/mag/020125.htm#da)の続編。
 今回は大判で、かべやの画の活きの良さを楽しめます。
 妹のサクラとおかあさんと一緒に公園に。おかあさんは友達と話しに夢中。
 そこでハナはサクラを乗せた乳母車を押して、「ちょっと そこまで」、お散歩に。
 これがどんどん遠くへとすすみ広がっていき、風景の無国籍(ヨーロッパ風)さによって、よりいっそう遠くまでの感じがします。
 もちろん、ちゃんと帰ってくるのですが、この「ちょっと そこまで」のお散歩(冒険)は前作から彼女の気持ちを一歩強くしてくれているのがわかるので、うれしい。
 続編をリクエスト。(hico)

『トゥートとパドル なんてたって せかいいち』(ホリー・ホビー:作 二宮由紀子:訳 BL出版 2002/2003.05 1500円)
 仲良しトゥートとパドルのシリーズ最新作。「すぐ帰る」ってメモを残したままトゥートは帰ってこないので、パドルは探しに出かけることに。
 トゥートの性格を熟知しているパドルはその跡をたどっていくのですが、たどりついたのはプロバンス! それで帰ると思いきや、ネパールまで出かけてしまう二人。
 仲良しであることと自由であることが巧くミックスされて、今回もいい読後感。(hico)

『なかよしこぐま まんなかに』(おの りえん:作 はた こうしろう:絵 2003.02 ポプラ社)
 これも仲良し物の一作。
 ふたごのくまの、くまやとくまふ。なぜか喧嘩が多い。
 親の留守に喧嘩しないようにと部屋の線が引かれ、お互いがお互いに場所に行かないことにされる。二人は、絶対に線の向こうに入るもんかと、一緒に、部屋を出て、家を出て、一本の棒を二人で持って、どんどんどんどん、川も坂道も、線を引いていきます。
 そう「二人で一緒に」ね。
 引かれた境界線を共有することで、だんだん仲良しになっていく二人。これは「世界」にも通用します。国境にね。
 もちろんそんなことを作者が考えていたかはわかりませんが、なるほどと感心しました。(hico)

『あっちむいて ほいぞう』(矢玉四郎 ポプラ社 950円)
 矢玉の「あいうえほん」シリーズ4作目。
「あいうえほん」なんてシリーズのネーミングからして、トホホ。でいいのだ。
 今回は、「あっち向いて、ほい!」遊びを動物たちでいたします。
 ほいぞうという象さんが親で、ウサギやクマや、いろんな動物が挑戦。
 ページを繰るごとに、こんどこそ勝てるか! なんて、見る方がなんだか意地になってきてしまう始末。
 矢玉世界に、またはめられた。(hico)


【創作】
『ナルニア』シリーズ論。(堀切リエ)
 この論文は長いので、ここには掲載できません。すでにアップされているサイトで読んでくださいませ。おもしろいよ。(hico)

『蟹塚縁起』梨木香歩・作/木内達朗・絵 理論社 03.2
 心の中に沈潜している、本人でさえ気づかない深い憤りや無念の思いを、民話風の物語に投影して幻想的に昇華させた奥行きの深い絵本である。
真夜中に眠っていると、男の枕の下でザワザワと異様な音が聞こえる。外に出ると、家の前の小川から床下を通って、蟹の大群が移動している。男の前世は、人質に取られた家臣を救出しようと数千の兵を率いて敵陣に討ち入り、無念の戦死を遂げた武将だった。蟹の大群を見ていると、兵を率いて山野を移動した前世の光景が蘇る。「…あなたがその恨みを手放さぬ限り…」という呪文のような言葉が、殺戮の悪循環を予兆させ、無気味にも世界の現在を照射する。
 名主の息子が沢蟹を捕まえ手足をむしっているのを諭し、蟹を全部逃がしてやったことから、名主は仕返しに男が飼っていた牛を連れ去った。蟹は報恩にと思ったのか、押しかけ嫁になって男のところに来るが男は優しく断る。その蟹たちが、名主に捕らえられた牛を助け出そうとして無残にも数百の屍をさらし、それでもなお名主を襲おうとする。
 多くの家臣を敵に殺された前世の深い恨みが、男の思いを超えて無数の蟹たちの怨念に投影していることに気づいた男は、蟹たちに呼びかけて復讐をやめさせる。蟹たちは動きを止め屍が地面に山となり、死んだ蟹がつぎつぎと蛍になって空に舞い上がっていく。月明かりに照らし出された静謐で夢幻的な心象の光景を、橙と墨を基調に油彩で表現した絵も印象的だ。(小学上級から)野上暁

『盗神伝1 ハミアテスの約束』(M・W・ターナー:作 金原瑞人・宮坂宏美:訳 あかね書房 1996/2003.03 2000円)
 盗人の家系(?)に生まれたジェスはただいまソウニス王の牢獄にいる身。ある物を持ち帰れば牢獄から出してやると、言われ、助言者メイガスと共に旅にでる。旅の仲間はメイガスの他にメイガスの弟子のソフォスとアンビアデス。ソウニスの兵士ポル。
 物語が進むに連れてそれぞれの身分が実は美繞に違うのが判ってきます。
 しかし、ま〜、これほど仲間意識のないメンバーも珍しい。旅の間の諍いの多いこと、多いこと。ついには死人まででてしまう。が、それでも彼らは王の命令を果たすべく、一緒に旅をしなければならない。旅の目的をなかなか教えないメイガスに、ジェスはイライラしっぱなし。彼の技なしには目的は達成されないのを知っているので、わがまま勝手もはなはだしい。
 どないなっていくんやと読む方が心配になってきます。それでもたどり着いた目的地、いよいよジェスの盗人としての技が試される時が。ここから物語はどんでん返しをやってのけるのですが、それは読んでのお楽しみ。
 タイトルはチト濃いのでは?(hico)

『HOOT』(カール・ハイアセン:著 千葉茂樹:訳 理論社 2002/2003.04 1380円)
 フロリダへ引っ越してきたロイ(中学一年生)は転校先の学校では目立たないようにしている。父親の仕事の関係で転校ばかりしてたから、それが一番いいと経験上しっている。
 でも、スクールバスでダナってワルガキにさっそくちょっかいを出されてしまう。受け身のままバスの窓から外を眺めると、裸足で駆け抜けていく少年。バスよりも速く。
 誰?
 何故かどうしても確かめたくなって、ロイは思わずダナにパンチを加え、バスから降りてしまう。最悪・・・。
 町には、大手チェーンのファミレスが新店舗オープンの準備中。でも、測量のための杭が全部、抜き取られる事件(?)が発生。これでは、整地することができない。土木管理のカーリーは警察を呼ぶが、これを犯罪と言えるのかどうか? 簡易トイレにワニが泳いでいる事件(?)も起こる。
 誰がいったい何のためにこんなことを?
 ロイは、ダナをもぶっ飛ばす力の持ち主(当然学校では恐れられている)ベアトリスと偶然知り合い、謎の少年が彼女の義弟と知る。が、彼女は彼の本当の名前を教えようとしないし、近づくなと警告も与える。
 実はファミレスの建つ場所にはアナホリフクロウの巣があり、それを毀させないために、先の事件は、少年によって引き起こされたのだった。
 それを知ったロイも、この反対運動に参加することに・・・。
 いじめっ子からどう逃れるか、フクロウの運命は、などがユーモアたっぷりに巧く組み込まれ、読み飽きさせません。
 痛快、がぴたりの言葉かな。(hico)

『ダークエルフ物語1・故郷、メンゾベランサン』(R.A,サスバトーレ:作 笠井道子:訳 アスキー/エンターブレイン 1990/2003.01.01 2400円)
 RPGのD&D系(ダンジョン&ドラゴンズ)から生まれたダークファンタジーが、ファンタジーブームに乗って翻訳されました。500ページ、全3巻。うー。腰巻きには「映画『ハリー・ポッター』『ロード・オブ・ザ・リング』ファンにおすすめ!!」。うー。なんでもありか?
 それで売れるなら、いいけど。結構いけてる物語だからネ。
 地上界から追い払われたダークエルフたちは地下に逃れ、そこで何千年も暮らしています。「正義」のエルフたちに否定された彼らは、地下世界で、別の倫理観を持つ世界を作り上げています。
 裏切り、殺戮こそが「正義」である世界。「蜘蛛の女王」と名乗るルロスが君臨し、その下には10の分家があり、それぞれ慈母によって統括されている。女たちは男たちを殺戮のための道具として支配しています。
 分家が仲がいいかというとそうではなく、いつも上位の分家をほろぼして、その座を乗っ取ろうとしています。それは悪しき行為ではないのです。完璧に上の分家を滅亡させたとき、自分たちの地位はあがり、滅ぼされた側への同情などありません。
 ドゥアーデン家が上位のテヴィーア家を滅ぼそうと動き出した日、主人公ドリッズトは生まれます。
 そうそう、裏切りは何も他の分家にだけでなくその一家のなかでも平気で行われます。
 この日、第2子であったディニンが騒ぎに乗じて、兄のオルフェインを殺害し、一家の継承権を得ます。第3子は殺される運命にあるのですが、このことが幸いし、第2子に繰り上がったドリッズトは命を奪われずにすむ。
 見事テヴィーア家を滅ばしドゥアーデン家は地位を上げ、そのことで蜘蛛の女王の信頼も得る。が、テヴィーア家でたった一人生き残ったアルトンは、顔を硫酸で焼き、別の人物として生き延びていた。自分の一家を殺した分家をいつか突き止め、復習をしようと・・・。
 ドゥアーデン家の第2子ドゥアーデンは慈母マリスの夫の子ではなく、剣術指南役ザクネフィンが父親。実はザクネフィンは慈母の元夫ではあるのですが。
 ザクネフィン自身は、このダークアルフの世界観を嫌悪していますが、知られれば殺されるので、戦に赴き人を殺し、また戦士を育てている。
 父とは知らず、ドゥアーデンもまた訓練を受ける。彼の中にザクネフィンは自分と同じ、平和を求める心があるのに気づく。けれどそれは知られてはならない。また、寄宿舎学校に入れられればきっとこの子も殺戮を愛する戦士になってしまうだろう。
 戦士の腕はザクネフィン以上の資質を持つドゥアーデン。果たして彼は変わってしまうのか? 不安なままザクネフィンは送り出すのだが・・・。
 正義が悪で悪が正義、この不思議に転倒した世界構築がおもしろい。と同時に、そこを主人公がどう切り抜けていくのかも読ませどころ。
 あと2巻、結末はどうなる?(hico)

『どろぼうの神様』(コルネーリア・フンケ:著 細井直子:訳 WAVA出版 1999/200205 1800円)
 ヴェネティアを舞台とした冒険活劇子ども版。
 弟のおおボーだけがエスター叔母さんに引き取られ、自分は孤児院へ送られると知ったプロスパーは、弟を連れて、逃亡。ヴェネティアに隠れているとの情報を突き止めた叔母は、この町で評判の探偵ヴィクトールに捜索を依頼。
 一方、プロスパーたちは、ヴェネティアの閉館された映画館で家なしの子どもたちと暮らしていた。彼らの生活費は、スキピオという謎の人物、自称「どろぼうの神様」によって支えられている。彼が盗んできたものを、怪しげな古道具屋に売るのだ。しかしこのどろぼうの神様は、どう見ても大人ではなく、プロスパーたちと同じ子どもだった。
 はてさて、プロスパーたちは見つかってしまうのか、どろぼうの神様は誰なのか?
 一言で言えば、「子どもであることの困難さ」を描いた作品。
 舞台がヴェネティアなもんで、物語の不可解さは否が応でも増してきます。それぞれのキャラも立っている。
 もちろん、ストーリーはめちゃくちゃおもしろいです。オチもいいしね。(hico)

『秘密の手紙0から10』(シュジー・モルゲンステルン:作 河野万里子:訳 白水社 1996/2002.12 1500円)
 十歳のエルネストくんはフレシューズっておばあちゃんと、お手伝いさんのジェルメーヌおばあちゃんと暮らしている。彼が生まれたとき母親が亡くなり、父親は彼をおばあちゃんに預けて消えてしまったのだ。
 だから彼は、つましいおばあちゃんの暮らし方が、フツーだと思っている。彼の部屋は「部屋というよりクロゼットか、むかしの牢屋の独房のよう。おいてあるのはベッドと机といすと、たんすだけ。しかもすべてがきちんと、完璧にならんでいる」わけ。
 学校から帰って昼食は毎日青リンゴとあまくないラスクが一つ。
 午後八時にはラジオを聞く。八時半夕食。それはスープだけ。朝起きると朝食はミルクとラスク二枚とマーマレード。
 服装もおばあちゃんの子どもの頃のようなデザインのを仕立屋がつくる。
 学校では彼に友人はいません。いじめられているわけでもなく遠巻きに眺めている。
 成績は抜群。

 こんな単調な暮らしに変化が起きる、転校生のヴィクトワールが彼の席の隣に座ったから。
 家も近く、この元気のいい女の子はヴィクトワールがこれまで全く知らなかった世界を教えてくれる。そして、お手伝いのジェルメーヌおばあちゃんが病気になり、若いアンリエットがやってくる。彼女はあまりに陰気な家を大改造、もちろん食事もね。

 こうしてエルネストは新しい世界を少しずつ知っていく。そして、父親がアメリカで別の家族を作っていることもわかってくる。彼の世界は広がり解放される。と同時に、心の弱い(妻の死から逃げ去った)父親を知る。
 エルネストの側から読んでいくことで、わたしたちは私たちの世界を改めて知ることとなる。(hico)

『ファミリー・ツリー』(J・ゴドウィン:作 幸田敦子:訳 ささめやゆき:絵 1999/2001 講談社 1500円)
 ハリエットは容姿も気だても男の子っぱい女の子。だからハリーって呼ばれているし、じぶんでもそれが気に入っている。
 母親が再婚した相手の息子がハリー。さて困った。ハリー・ハウスリーだから、男の子の方はダブルHって呼ぶことに。
 こうして物語は、二人のハリーの学校生活、家庭生活を、ドラマチックにではなく、普通に描きだしていきます。
 ハリーは母親の記憶が全くないし、ダブルHはある。そんな微妙な違いが二人を近づけたり遠ざけたり。父親が育てたバラを大切にしているハリー。それだけが父親につながっている。
 ある時、かれらの通っている小学校(5年生ね)が来年吸収合併されるとの情報が入る。そんなこと許せないと、ハリー。でもまだこの学校になじみのないダブルHにはその気持ちがわからない。なんてこともあった。
 彼らは、反対運動に立ち上がる!
 おりしも、家が狭くなったので、転居することに。
 学校を失うかもしれず、自分の居場所だった我が家を手放さないといけない状況。
 ハリーは何もかも失ってしまうのか?
 失っていくことで、自分自身を発見していく物語です。(hico)

『いとしのドリー』(風野潮 岩崎書店 2003.02 1200円)
 両親が死んだぼくは、大阪の祖父のところに。
 残された父親のケイタイに着信音。でると、父親の弟だという。
 父親に弟がいることなんか知らなかったし、勝手に待ち合わせ場所を指示されても・・・。
 で、出かけたぼくは、おじさんと連れのドリーに会うけれど、ドリーは誰?
 いつのまにか黒服の男たちが追ってくるし・・・・。
 大阪舞台の軽いサスペンス。(hico)

『闇王の街』(たから しげる:作 アーティストハウス 2002.08 1600円)
 母親愛子と妹美咲と暮らしている翔太は6年生。彼の友人拓也が新聞記者の父親から聞いた話では、そこだけ売れないのろいの家があるという。
 さっそく調べに行く3人。5歳の美咲は母親が仕事にでかけたので、連れてきたのだ。
 が、そこにあるのは六法小鳥店。店主にカワイイ文鳥のヒナを見せられ、美咲のための、思わずかってしまう。
 母親の許しもなんとか得て、買うことになったのだが、次の日に消えている。まだ飛べるはずもないのに。
 が、美咲は何も入ってない鳥かごを見て、ぴーちゃんと呼びかける。彼女にだけは見えているらしい・・・。
 闇王ですから、なんかすごいことになってしまいそう。
 作者はテンポよく物語を進めています。すごい話ではありません。読んで、「おもしろかった」で忘れていく、そんな物語。それでいいのです。読んでいる時間楽しく過ごせたら、それだけでリフレッシュですから。(hico)

『クー』(森山京:作 広瀬弦:絵 ポプラ社 2003.04 900円)
 アヤちゃんはぬいぐるみのクマ、クーが大好き。ですが、所有者はアヤの友達のハルナちゃん。
 アヤはハルナちゃんの家に遊びに行ってクーをだっこするのが、大好き。
 なのに、ある日ハルナちゃんは、新しい縫いぐるみをもらって、それを大好きに。クーは捨て置かれます。でも、それでもやっぱりクーはハルナちゃんの物だから・・・。
 短い話ですが、キャラがしっかりと立ってます。子どもの無意識の残酷さも、優しさも、寂しさも、ここにはみ〜んなあります。(hico)


【評論】
「絵本は小さな美術館〜形と色を楽しむ絵本47」 中川素子著 平凡社新書
 絵本学会等で精力的に活動する著者の絵本評論+ブックガイド。絵本に対する視点や書かれている内容は「絵本はアート」(教育出版センター)や「絵本の視覚表現〜そのひろがりとはたらき」(日本エディタースクール、共著)と重なる部分が多いのだが、新書という性格上、より一般の人に興味の持てるよう、技法やデザイン上の特性が分かりやすく述べられ、テーマを立てて絵本を読みとくために内容の紹介にも以前より多く筆がさかれている。なによりも、こういう絵本ガイドではいわゆる名作、ロングセラーの絵本をあいも変わらず、したり顔して載せているものが多いのだが、本書はさすがに選ばれている絵本に著者独自のものがある。今まであまり紹介されることのなかった絵本や新しい絵本が載っているのを見るのはうれしい。今まで著者の絵本に対するアプローチの仕方が美術論にあまりにも引きづられ過ぎていて、絵本の魅力を切り刻むような感じになってしまっているのではないかと読む度に少し辛い感じがしていたのだが、本書では余裕を持って絵本そのものに対している面も見えて楽しめた。
 絵本は美術とも文学ともつながっていて、でもどちらともちがう表現媒体だ。描かれた技法に注目する時、描かれなかったものや言葉にも同じくらい注目して読み込まないといけないと思う。それをしようとすると、わたしはとても不思議な気分になる。本そのものに相対しているはずなのに、何かもっと遠いもの、ぼんやりとひろがっている誰のものかわからない大きな意識みたいなものを感じる時がある。それをなんとか言葉でとらえたくて絵本や子どもの本の評を書く。描かれなかったものを見ようとすることもまた、絵本を読むことだとひとこと付け加えてほしかった。(細江)

『赤ちゃんの本棚 0歳から6歳まで』(ドロシー・バトラー著 百々佑利子訳 のら書店)

 複雑で重い障害をもって生まれた少女が、母親による絵本の読み聞かせを通して、豊かな言葉を獲得していった『クシュラの奇跡』や、『5歳から8歳まで―子どもたちと本の世界』で、子どもの人生にとって本との出会いがいかに大切かを説き話題になった著者の近著である。八人の子どもを育てた後に児童書専門店を開き、孫娘クシュラの絵本とのかかわりを感動の記録にしるした著者ならではの自信や実感が、0歳から本に親しむことの幸せを、親と子の立場から熱っぽく語らせている。
赤ちゃんは、初めて目をあけた瞬間から、すべての感覚を全解放して学習し始めるのだと著者は言う。だから最初のブックリストは、「誕生から一歳まで」に出会わせたい本がリストアップされる。『ブライアン・ワイルドスミスのABC』や、ブルーナーの『ABCって なあに』『かぞえてみよう』などから始り、「一歳から二歳まで」「二歳から三歳まで」と、それぞれの成長年齢にあわせて、出会わせたい絵本のタイトルと解説が続く。こうして「赤ちゃんの本棚」に並べられた本は全部で六三〇冊。『ぞうのババール』や『100まんびきの ねこ』などのように、すでに古典とも言える名作から、日本でもベストセラーになった『ゆかいな ゆうびんやさん』や、ミック・インクペンの『こぶた いたらいいな』のような九〇年代に出版されたまで、じつに周到に選び抜かれた幼児のためのブックリストとして充実している。下段には、邦訳された絵本の表紙写真も掲載されていて、こういった編集者の本造りの配慮も泣かせる。(野上暁) 


猪熊葉子『児童文学最終講義 しあわせな大詰めを求めて』
バトンは確かに手渡された

 この本は、四十数年間にわたって大学で児童文学を講じてきた著者の、白百合女子大学での最終講義をまとめたものだ。研究者で、翻訳家で、JBBYの会長として子どもの本の国際交流にも精力的に関わってきた猪熊葉子は、自分という人間を作ったのは子どもの文学だったと言い放つ。このきっぱりとした言いっ振りが爽快で、読み手は先への興味をそそられるのだ。そして「人間を作った」という子どもの文学と著者との関わりが語られる。
まず最初に、イギリスのヨーク大学のピーター・ホリンデールという児童文学研究者が発表した刺激的な本を紹介する。ホリンデールは、大人になってもサバイバルして生き残っている「子ども性」(childness)が常に物語を要求し、内なる子ども性に突き動かされなければ書かれなかったタイプの作品が一般に児童文学として呼ばれるのだが、それは作者にとって自伝の一形態ではないかと述べているという。著者の中にも、かつて子どもだった自分が生き残っていて、それが彼女を児童文学研究家に仕立て上げたのだといい、研究もまた作品を書くのと同様に自伝を書くことに他ならないのではないかと、自らの生涯を振り返るのだ。
著者は、"おこちゃん"と呼ばれた幼児時代からの子どもの文学との関わりや、母の前衛歌人・葛原妙子と外科医の父との葛藤、幼児性の強い両親から厭なことをすべて押し付けられた体験などを率直に語る。家庭は暗く、体が大きいばかりに怪物とからかわれ、そんな著者の心を慰めてくれたのが物語の世界だったという。少女小説の類はもちろん、男の子たちが熱中した、冒険小説や剣豪小説まで読みふけったと、著者は語っている。文学少女の母と、講談や落語に入れ込む父の双方からの影響で、純文学からエンターテイメントまであらゆるジャンルを濫読したようだ。その後大学の卒論で児童文学を選び、大学院でも児童文学を専攻し、卒業後ブリティッシュ・カウンシルの留学生としてイギリスに渡って、オックスフォードでトールキン教授の指導を仰ぐことになるのだ。
児童文学とは何か、子どもの文学の「文学性」とは何か。それをはっきりさせたいというのが、著者の願いであった。その問いかけはまだ続いている。ホリンデールの著作を、大学院生と紐解いているのもその一環だが、八〇年代以降の英語圏の児童文学理論からの紹介はエキサイティングだ。『ピーター・パンのケース』という本を書いたジャックリーン・ローズという人は、「児童文学などというのは、成立不可能」だといっているというし、レズニック・オーバースタインという若い学者も、子どもの文学の不可能性に言及しているという。子どもの文学の根底に関わる問題提起でもある。それは、自明のものとされた、子どもという存在そのものを再照射する試みとも重なる。
子どもの文学成立の不可能性については、四半世紀以上前に吉本隆明が「宮沢賢治論」の中でも述べている。しかしそれを真正面から受け止めて言及した児童文学プロパーは、全くといっていいくらい目にしていない。子どもの文学に関わる批評家や研究者の、モチベーションの希薄さなのだろうか。
著者は言う。「残念ながら日本では、英語圏と違って、「児童文学とは何か」という本質的な問題を真っ向から攻めていこうというタイプの研究者はまだ少数ではないか、というのが、私の認識です」と。児童文学に関わっていながら、「児童文学とは何か」という本質的な問題に対する問いかけの弱さを指弾する著者の指摘は、真っ当なだけに鋭い。ホリンデールといい、ジャックリーン・ローズやレズニック・オーバースタインの著作の翻訳が待たれる。子どもの文学によって自己形成されたという著者ならではの、最終講義が仕掛けた問題提起は甚大である。それにどう答えるか、研究者や批評家にバトンタッチされた課題もことのほか大きいのだ。(白百合女子大)