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【絵本】
11月児童文学批評
○クリスマス!クリスマス!クリスマス!
「クリスマスのうたの絵本」H・A・レイ (あすなろ書房 1944/2003.11)
「うまやのクリスマス」マーガレット・ワイズ・ブラウン文 バーバラ・クーニー絵 松井るり子訳 (童話館出版 1952/2003.10)
「クリスマス・イブ」マーガレット・ワイズ・ブラウン文 ベニ・モントレソール絵 矢川澄子訳 (ほるぷ出版1961/2003.11)
「ねずみくん、どうするどうするクリスマス」ドン&オードリー・ウッド作 ドン・ウッド絵 今江祥智訳 (BL出版 2002/2003.11)
「サンタクロースのしろいねこ」スー・ステイントン文 アン・モーティマー絵 まえさわあきえ訳 (2001/2003.10)
11月になると書店の児童書の棚はすっかりクリスマス一色になってしまいます。毎年毎年並べられる定番の絵本、新刊の絵本に目移りしてしまうほど。今月は懐かしい古典絵本とユニークな新作絵本のクリスマス本の紹介をします。
ワイズ・ブラウンの絵本が2冊。「うまやのクリスマス」はクーニーが「チャンティクリアときつね」と同じ画風でえがいている4色+1色の絵本。キリストの生誕を思わせるストーリーですが、描かれるのはベツレヘムではなく、開拓農民の作ったうまやでの情景。マリアやヨゼフになぞらえた夫婦もともに若く、むかしむかしのおはなしではあるけれど、遠い国のおはなしではないのだとしたところにクーニーとワイズ・ブラウンの工夫があります。質素だけれど静かなよろこびに包まれた1日を端正にして敬けんな詩情をたたえた訳文で読めるのもうれしいこと。
ふたりのコンビのクリスマス絵本に「ちいさなもみのき」(福音館書店)という楽譜のついたものがあります。クリスマスといえば歌をうたって祝うのが欧米の、キリスト教徒の過ごし方。町中に響くクリスマスソングのひとつひとつにはこんな歌詞と曲があったのねえと感心してしまったのが「クリスマスのうたの絵本」です。「ひとまねこざる」で良く知られるH・A・レイのあたたかくのびのびしたクリスマスの絵が楽しい。賛美歌や民謡の楽譜が付き、タイトルだけでは「聞いたことないなあ」という曲も、確かめてみるとどこかでいつか耳にしたものばかり。イラストに合わせて音符がグラスやひいらぎベルに変身しているのがレイのお茶目なところでしょうか。見て楽しい、うたってうれしいお得な1冊。
ワイズ・ブラウンの絵本の最近の再評価はどうしたのかなあと思うくらい、アメリカでもどんどん復刊されたり、新しい画家の絵で再刊されたりしています。日本でもやっと「クリスマス・イブ」が復刊されました。「ともだちつれてよろしいですか」(冨山房)などで知られるモントレソールの代表作ともいわれている絵本。オレンジとスミの2色の画面に黄色の星やピンクの炎。こんなに明るい、きつい色を使っているのに画面は静かにおだやかです。真夜中の子どもたちの冒険は降りしきる雪と大人たちのクリスマスの歌声に包まれて、守られて在ることの幸せを感じたところで終わります。それはどんなプレゼントにもまさる贈り物でしょう。
「サンタクロースのしろいねこ」はサンタクロースのポケットに忍びこんだ猫がプレゼント配りの旅の途中で転がり落ちてしまうお話。大きな町で本当のサンタクロースを探すのですが、なかなか出会わずあきらめかけたところでやっとあえて安心安心。猫好きにはこたえられないモーティマーのイラストがなければ、成立しなかっただろうなあ、この絵本は。
「ねずみくん、どうするどうするクリスマス」は「おふろじゃおふろじゃ」などで人気のドン・ウッドの絵本。たくさんのプレゼントを抱えて大喜びのねずみくんに、もりの腹ぺこぐまがやってきたらどうする、とけしかけると、プレゼントを鎖でぐるぐるまきにしたり、家の窓やドアを釘で打ち付けたり……とどんどんエスカレートしてしまう様子がおかしい。で、どうするのかなあとおもったら、自分のプレゼントを持って腹ぺこぐまのところへ行ってしまうなんて!やはり、クリスマスにはなにはともあれシェアの精神というのが、アメリカなんだなあと感心しました。(ほそえ)
○その他の絵本、童話
「おいしそうなバレエ」ジェイムズ・マーシャル文 モーリス・センダック絵 さくまゆみこ訳(徳間書店 1999/2003.10)
センダック、久しぶりの新作。といっても絵だけですが。バレエの舞台装置の仕事も多いセンダックが絵本でバレエを手がけたのははじめてではないかしら。(「くるみわりにんぎょう」は絵本より舞台の方が先ではなかったか)腹を空かせたオオカミがぶたのバレエダンサーを食べようとチケットを手に入れて劇場に走ったのに、バレエの魅力にはまってしまうところがおかしい。友だちとの共作だからか、絵も軽くてあちらこちらにバレエの蘊蓄をちりばめた遊びもあって、愉快な本になりました。(ほそえ)
「ゆきのともだち」イアン・ホワイブロウ作 ティファニー・ビーク絵 木坂 涼訳
(理論社 2001/2003.10)
「ともだちからともだちへ」(理論社)でのびやかなイラストで人気を呼んだビークの絵本。この絵本でも動物たちがやさしい気持ちを伝えていきます。本を読むのがすきなこぶたがでみつけたことば。ねがい、ともだち、かわること。この言葉の意味を探して行動を始めると、新しい友だちや言葉にまた出会っていきました。言葉をストーリーの核にすると展開がむずかしいのですが、この絵本はラストのおさまりもなかなかきまっていて、ほのぼのとあたたかい気持ちにさせてくれます。(ほそえ)
「カプチーヌ」「小さな魔女のカプチーヌ」タンギー・グレバン作 カンタン・グレバン絵 江國香織訳 (小峰書店 2000.2001/2003.10)
魔女の真珠をお父さんが盗んでしまい、それを食べてしまったことで小さく小さくなってしまったカプチーヌ。元に戻るために動物たちの力を借りて、魔女の館へ行く第1作目。魔女の見習いとなったカプチーヌが失敗した魔法を解くために苦労する第2作目。同時2册の刊行。ストーリー自体は他愛無いものだが、やわらかで親しみやすいイラスト(ツヴェルガーがちょっとアニメっぽくなった感じ)で人気がでそう。シリーズ化か?(ほそえ)
「ゴールディーのお人形」M・B・ゴフスタイン作 末盛千枝子訳 (すえもりブックス 1969/2003.10)
長い間、翻訳を待ち続けた絵本。絵本というより絵童話といった感じか。今まで紹介されてきたゴフスタインの作品の中では一番長いテキスト。人形造りのゴールディーがどんな思いで人形を作って暮らしているか、もの造りの人の暮しと思いが丹念にしっかりと描かれている。丁寧に根気良く人形造りを続けるゴールディーには良い友だちもいるし、人形を愛してくれる子供達もいる。ある日、古道具屋で出会ってしまった中国製のランプを人形18体分の値段でかってしまうゴールディー。それを手に入れることで、「まだ見ぬ友だちのために私はものを作るのだ」ともの造りの人間の性が強くなる思いの深さには頭が下がる。ゴフスタインの本にはささやかなでも大切な思いの揺れて在るところをきちんとすくいとって形にしてくれるすごさがある。すごく好きだ。(ほそえ)
「きりかぶ」「きりかぶのともだち」「きりかぶのたんじょうび」なかやみわ作 (偕成社 2003.10)
自分には何のとりえもないと思って暮らしているきりかぶがまわりとのかかわりあいを通して、自分を認めていくお話。どれもかわいい動物たちが関わって、素直にきりかぶの心の変化によりそっていけるようストーリー化されている。小さな子どもには手にとりやすく、心に伝わりやすい作りになっている。それだけに、こぼれおちてしまうきりかぶの(年を経たものの)思いもあるなあと思う。(ほそえ)
「こうさぎピピンのたんじょうび」やまだうたこ文と絵 (偕成社 2003.10)
音を聞いているといろんな気持ちになるよというこうさぎピピン。そんなピピンにぴったりなお誕生プレゼントを作くろうと集まった友だち。それはたいこでした。たいこにあわせておどったり、うたったり。お楽しみのパイは食べられちゃったけれど、ラストはピピンのお誕生会にみんなで出席して大満足。音と気持ちの関係はお話をすすめるためのちょっとしたアクセントというところかしら。なんだかもったいないような。(ほそえ)
「いぬのおばけ」長新太作 (ポプラ社 2003.10)
みちのとちゅうでみつけたしろいいぬ。病気なのか死んでいるのかとおんぶしてやると、どんどん大きくなって……。こんなことってあるかしらの長ワールド全開。でも、それがなんだかさびしくて、今までとちょっと様子が違います。おばけだからじゃないんです。月の光に照らされて、すうーっときえてしまったからじゃないんです。「かわいそうないぬ……」娘が目をうるうるさせていいました。こんな気持ちになる絵本もいいです。(ほそえ)
「ともとものいないいないばあ」「ともとものぱくぱくぱっくん」「ともとものころころぽこっ」きたやまようこ作 (主婦の友社 2003.12)
久しぶりの赤ちゃん絵本。ともともはチョウチョみたいなはちみたいな不思議ないきもの。かわいいです。いないいないばあは赤ちゃん絵本の定番ながら、椅子のかげやくまくんのかげなどからばあとでてきて、工夫しています。「ころころぽこっ」はボールの弾む音を楽しむ。「ぱくぱくぱっくん」はバナナを食べて黄色い羽に、さかなを食べて青い羽にと変化するのが楽しい。赤ちゃんの毎日の楽しいことに寄り添って、それを確かめられるような絵本造りがあと9冊続きます。楽しみ楽しみ。(ほそえ)
「おちばがおどる」いとうひろし(ポプラ社 2003.11)
落ち葉だけで描かれた絵本。葉っぱの形そのままのものもあれば、いろんな葉っぱを組み合わせ、無気味なもの、へんてこなもの、ゆかいなものに変身しているのもある。落ち葉ってこんなにいろんな色があるのか、こんなにいろんな形があるのかとびっくり。かさこそかさこそ、足下を走っていく落ち葉をながめるにつれ、この絵本の中で笑っているへんてこな生き物が走っているみたいな気分になる。この絵本を手にした子たちは、自分も自分だけに見える落ち葉の生き物を作ろうとするにちがいない。やってみたくなる絵本。(ほそえ)
「おんどりボルケ」谷川晃一さく、え(福音館書店 2003.10)
村のじゅうの人の朝のめざめをささえているおんどりボルケ。彼の時の声で、みんな一日のはじまりを知るのです。ところが、ある日、声が出なくなったボルケ。みんなが心配していろんな音を出したり、大声で呼んだりしますが、声はでません。ボルケがこえを取り戻すには……。出すばかりではダメなのねえ。良いなあと受け入れたり、素敵だなあと受け止める心がなくなると出せなくなるんだなあ。これは画家の心のそのままを昔話のスタイルにした絵童話なんだなあと思う。(ほそえ)
「ちゃっかりクラケールのおたんじょうび」レンナート・ヘルシング文 スティグ・リンドベリ絵 いしいとしこ訳 (プチグラパブリッシング 1957/2003.9)
北欧デザインの雄、スティック・リンドバーグの絵本。日本で紹介されるのははじめてかも。お話はスウェーデン児童文学の王さまとよばれるヘルシング(ちなみに女王はリンドグレーンです)。洒落とナンセンスにあふれたヘルシングのお話はなかなか翻訳が出なくて、久しぶりの訳出はうれしい限り。おはなしはたった5クローネでぺろぺろキャンディーばかりでなくお店ごとかってしまうというへんてこぶり。たくさんのお菓子を食べて大喜びのクラケールの姿は古風な子どもの本という感じで懐かしいのですが、小さな子には受けるかも。でも、そこに至るまでのおかしさは小さい子には分かりにくいのがむずかしいですね。(ほそえ)
『はっぴぃさん』(荒井良二:作・絵 偕成社 2003年9月 1300円)
荒井6年ぶりの新作とのこと。
そうなんだ。
荒井の画は何度も見ているけれど、それはあくまでコラベレーションで、荒井自身の絵本はなかったのだ。
若い男と女が、それぞれ別の願い事を叶えてもらうために、山の頂上にある大きな石の上に現れるという「はっぴぃさん」に会い出かける。
絵本がそれを交互に描きながら、やがて二人を出会わせ、いっしょに「はっぴぃさん」の元へ。でも「はっぴぃさん」はあらわれそうもなく、やってくる動物たちがそうかもしれず、結局わからないまま。でも二人は出会えた。
それぞれが一つの目標に向かって、目標地点で出会うのではなく、その途次でそうなっていくのがいい。
画は、力強く、でも柔らかな色合いで、荒井ワールドです。(hico)
『どろんこどろちゃん』(いとうひろし ポプラ社 2003年7月 950円)
コップ5杯の土と2杯に水でできる、「どろちゃん」。
どろんこ遊びの楽しさを、作者は、どろんこ自体の楽しさとして、描いています。
こうしたちょっとした視点の動かし方がおもしろいですね。(hico)
『どこ? つきよのばんの さがしもの』(山形明美 講談社 2003 1400円)
月夜、愛猫のクロが「ぼく」の部屋を出て行く。それを追って「ぼく」も月夜の町にとびだした。
様々な素材を使ったジオラマが見開きに溢れています。それを見開きごとに眺めていると、その不思議な空間に魅せられてしまいます。
クロを探しながら「ぼく」が探して部屋まで持ち帰った、たくさんの物達。どのページから?
をまた探しに戻るのも楽しいです。
隅々まで丁寧に作り込まれた世界がすごい。(hico)
『リュックのピクニック』(いちかわ なつこ:作・絵 ポプラ社 1200円)
パン屋さんの犬、リュックの物語。今回は、お休みの日にピクニックに出かけます。お昼ご飯用のサンドイッチの材料を買いに市場へ出かけます。
そこから始まって、ちょっと事件があって、楽しいお昼ご飯。
画自体の風合いもそうなんですが、とっても和める出来です。
どういえばいいかな? 生活の匂いがして、そうした日常から、少しだけ離れたピクニック。この、日常があってこそ成立するピクニック、がいいのですよ。(hico)
『エリザベスは本の虫』(サラ・スチュワート:文 デイビット・スモール:絵 福本友美子:訳 アスラン書房 1995/2003 1600円)
『リデアのガーデニング』の作者たちの新作です。今回もすてきな結末にむけて、物語は始まります。
本こそ命、読書好きのエリザベス。といってもその好き度はとんでもなく、子どもの頃から、本以外にはいっさい興味をもっていません。でも画面にはいつも猫がいて彼女を孤独にはみせません。この辺り、物語と画の息が合っていて気持ちがいい。
学生時代、寮生活も、本のみの日々。
で、一人旅しているとき、帰り道がわからなかったので、そこで家を買い、家庭教師になって暮らす。
という展開もすごい。その先も、本本本で、家中本だらけ。
う〜、人ごととは思えない。
本好きの人には、たまらない絵本かな。
エリザベスの最終結論は、ないしょ。(hico)
『あんどうくん』(のぞえ咲:作・絵 ポプラ社 2003 1200円)
ビルの窓拭き屋さんを主人講師したことで、この絵本はまず、町の風景を手に入れます。
魚眼レンズで見ているような風景の切り取り方もおもしろいです。風景が動きます。
そして、仕事を終えて地面に降り、自分の住む町に帰っていくと、そこはどこか懐かしい下町の風景。それに違和感を覚えないのは、都会を見下ろす視点との対比からです。(hico)
『つきよのプレゼント』(くすのきしげのち:文 清宮哲:絵 岩崎書店 2003 1300円)
『もぐらのサンディー』シリーズ最新刊です。
仲良しのサンディとマンディは満月の夜、地下からでてきてお散歩。
っても、モグラには大冒険。「ひかりのおしろ」や「かぜのトンネル」、不思議な物を発見しながら、楽しいお散歩は続きます。
最後にみつけたのはなつみかん。でも満月のたまごだというサンディ。
それでマンディが打ち明けたのは、二人にもうすぐおかちゃんができること。
ほのぼの幸せ絵本ですが、その前に冒険が入っているので、幸せが引き立ちます。(hico)
『クレオのゆきあそび』(ステラ・ブラックストーン:さく キャロライン・モックフォード:え 俵万智:訳 教育画劇 2003 1000円)
ファーストブック、『クレオ』シリーズ。
初めてのゆきあそび。クレオのドキドキが描かれます。
無駄のない文。
犬のキャスパーが出てくるので仕方ないですが、クレオをもう少し登場させたかったかな。(hico)
『ホンドとファビアン』(ピーター・マッカーティ:作・絵 江國香織:訳 岩崎書店 2003 1200円)
犬のホンドと猫のファビアンの物語。画の色合いというより風合いののどかな暖かみが、まず素晴らしい。まるで夢の中のようです。
犬と猫、2匹それぞれの一日の過ごし方が、ゆっくりと描かれていきます。(hico)
『また! ねずみくんとホットケーキ』(なかえよしお:作 上野紀子:絵 ポプラ社 2003 1000円)
このシリーズはもう、説明はいらないでしょう。
しかも今回は『また!』ですからね。
テンポ良く進んでいく話は、幸せな結末まで一直線です。(hico)
『オリビア・・・と きえた にんぎょう』(イアン・ファルコナー:作 谷川俊太郎:訳 あすなら書房 2003/2003 1400円)
シリーズ三作目。
マイペースなオリビアですが、今回は、大事な人形がなくなって、チト弱気?
ユニホームの色に関して、なんやかや文句を言って作り直してもらっている間に、注意が反れ、大事な人形が消えてしまう。
見つからない人形に、最初は怒りまくっていたオリビアも落ち込んできます。もちろんここにも幸せな結末が用意されていますからご安心。今回はオリビアの別の側面を見られました。(hico)
『テーブルモンキーのココモ』(ミヤハラヨウコ:作・絵 理論社 2003 1000円)
ココモ兄妹はカフェをやっていて、そこで大人気ケーキが作られるまでのお話。
なのですが、前半が兄妹に紹介に割きすぎていて、肝心な話を圧迫しています。いきなり入って(11人と犬一匹がお客としてやってくるところから)、その中で各キャラを立てた方がもっと引き締まったのでは?
画は隅々行き届いていて画面構成も良いです。(hico)
『ゆきのともだち』(イアン・ホワイブロウ:作 ティファニー・ビーク・え 木坂涼:訳 理論社 2001/2003 1300円)
本好きのこぶたピッグは、本の中から3つの言葉をみつけます。
「ねがい」「かわること」「ともだち」。
そこからピッグは「ぼくの ねがいは かわること、ともだち いっぱい つくること」という文を作り上げ、それを実現すべく、本漬けの毎日から脱出します。
この出だしがいいですね。
ピッグは最後に素晴らしい「みんなのひろば」を作り上げますが、それまでの過程は読みどころ。
でもそれより、言葉があって、それが文になって、意味になって、そうして行動という言葉への信頼が、好きです。(hico)
『くうちゃんと かんたの おまつり』(芭蕉みどり:作・絵 ポプラ社 )
お祭りにでかけたくうちゃんとかんた。二人ははぐれてしまいます。さあ、くうちゃんを、かんたを探せ!
前からと後ろから、どっちからも読めるようになってます。
真ん中で二人は出会うのね。
そうした楽しい仕掛けが買い。
しかし、そのため物語がわかりにくいのも確か。
ヴァージョンアップを!(hico)
『こわいドン』(武田美穂:さく・え 理論社 2003 1000円)
武田のマンガっぽい画は好き嫌いがわかれるでしょうが、ここには武田ワールドがフルスロットルしてます。
寝るときがこわい、トイレがこわい。
要するに、いつも怖がっている男の子。
もうその怖がり方は、殆どビョーキみたいなんですが、自分の子ども時代を思えば、リアルです。
で、それがどんなオチに進んでいくかで、武田ワールドが炸裂!(hico)
『おおきさくらべ』(川村たかし:文 遠山繁年:画 教育画劇 2003 1200円)
「日本の民話」シリーズ9巻目。このシリーズ、一巻一巻個性があるので、セット売りじゃなく、単体売りにして欲しいです。
今作も自分が世界でいちばん大きいと信じているツルの、とてつもない物語。
雄大です。
川村の文は、これまでの山のような作品で明らかなように、簡潔で無駄がありません。それが、まとまりすぎることになってしまうときもありますが、こうした民話を素材にしたときは、とてもいいです。
このシリーズは、文と画のバトルでもありますから、今回も遠山の画も文に寄り添うのではなく、奔放です。
バトルの場合、寄り添う形でのバトルもありますし、一方こうしたやり方もあるのです。(hico)
『野菜とくだもののアルファベット図鑑』(ロイス・エイラト:絵・文 木原悦子:訳 あすなろ書房 1989/2003 1500円)
タイトル通り、頭文字がA〜Zまでの野菜とくだものを描いています。
ただそれだけ。
だからいいのです。あきないもん。コラージュも楽しいし。カラージュはコリ過ぎると、散漫になりますが、これは引き締まっています。
最後には、描かれた野菜とくだものの解説もちゃんとありますしね。(hico)
『ミーノのおつかい』(石津ちひろ:ぶん 広瀬弦:え ポプラ社 2003 1000円)
猫のミーノはおつかいに出かけます。買い物はなんとミーノの大好きな魚!
はたしてミーノは誘惑に負けずに無事買って帰ることができるのか?
猫と魚と買い物。これらを組み合わせて、物語はユーモラスかつドキドキに進展していきます。非常に分かりやすい、けれど、あんまし気付かない設定。
読み始めると、最後が気になって、やめられない。
広瀬の画は、物語の強度を壊すことなく、ページごとの構成を工夫しています。(hico)
『おいしそうなバレエ』(ジェームズ・マーシャル:文 モーリス・センダック:絵 さくまゆみこ:訳 徳間書店 1999/2003 1600円)
ダメおおかみの情けなさが、さすがに巧くでています。
腹ぺこのおおかみくん、「白ぶたのみずうみ」なるバレエの上演があるのを知って、潜り込みます。まあ、なんておいしそいなこと。でも、バレエそのものにも魅せられてしまったおおかみくん。夜の部のチケットも買ってでかけます。どうなりますことやら。
ユーモラスなドタバタ喜劇。とても質の高い、しかし敷居はちゃんと低い作品です。(hico)
『しゅくだい』(宗正美子・原案 いもとようこ:文・絵 岩崎書店 2003 1300円)
先生の出した宿題は、かぞくにだっこしてもらうこと。
このたった一つの行為を絵本世界に拡げていきます。
紙質もトーンも秋を意識していて(11月に紹介して、どうすんねん。すみません)、熱いのではなく、ほんの少し暖かい。
宿題をかぞくに言い出すまでと、ひとりひとりがだっこしてくれるシーンが、巧く切り替わって「だっこ」の暖かさが伝わってきます。(hico)
『ねこた ププピピ 海のなか』(菅野由貴子:さく・え ポプラ社 2003 1200円)
なんといったらいいのでしょう、もう、アホくさくておかしな絵本です。
ねこたのププピピが魚に食われるのですが実はそれは船でもあって、いろんな生き物が、腹の中にいます。
それはもう快適な日々で、気付けばププピピは最年長。
でも、こんな怠惰ではいけない!
でも、どうすればここから抜け出せる?!
答えは簡単。ウンチとなって、お尻からでること。
とてつもなさが楽しさを呼ぶって意味では、勢いのある作品です。(hico)
『シエラレオネ』(山本敏晴:著・写真 アートン 2003.07 1500円)
「5歳までいきられない子どもたち」というショッキングな副題を持つこの写真集は、「国境なき医師団」のメンバー山本が、現地に乗り込んで福祉活動をしながらのレーポートと子どもたちの写真で構成されている。
1961年に独立したこの国の人口は現在450万。16の部族、イスラム教7割、キリスト教2割と、まず具体的な数値でシエラレオネについて語っていく。女の子はおしゃれが好きだとか、主食は米とイモといった日常についても。その間の子どもたちの明るい表情が写真で示される。そして、ダイアモンド原産国であるがために、1990年隣国リベリアがシエラレオネの反乱軍と手を結び、侵略ではなく内戦に見せかける戦争。反乱軍に誘拐され麻薬によって、戦争兵器と化した子ども達。腕を切り落とされた人々(殺すより、そうする方が、家族の労働力が介護に回され、製産力が落ちる)。飢餓。それらが語られ、写真が補足する。そうした現場で「国境なき医師団」がどのように動いたかが、これもまた事実だけを写真と言葉で提示していく。
怒りや悲しみの以前に、まず、シエラレオネの今を知って欲しい。そんな思いが静かに熱く伝わる。(hico)
『そんなのいらない』(リンデル・クロムハウト:脚本 福田岩緒:絵 野坂悦子:訳 童心社 2003 1400円)
ヨーロッパ発の紙芝居です!
紙芝居という絵本とは違うメディアを海外に持っていって、知ってもらう活動をしているメンバーの一人野坂訳ででました。
リンデル・クロムハウトらしい、重いテーマをシンプルに描くことで、暗さを明るさに換えてしまうマジックがここにもあります。
というか、新しい表現方法を知ったリンデル・クロムハウトのうれしさが溢れています。
忘れられていた(教育画劇はがんばってますよ)紙芝居の魅力を世界中に伝えられたらいいな、って思うよ。
だって、紙芝居は、読み聞かせ(よませて頂いて聞いていただく)よりもっと、子どもの側に立ったメディアですから。
今後の動きが楽しみです。(hico)
『しろがはしる』(おぐら ひろかず:作・絵 ポプラ社 2003 1200円)
死を、生で描く絵本。
物語はいいです。おじいちゃんの思い出を知っているしろにつれられて少年は走る。
つまり、犬と一緒に「世界」をしるのです。
ただ、フォントがなぜ斜めにイタリックなのかがわかりません。読むとき、それが木に掛かってしまう。わかるんですよ、そうしたのは。でも、読者の多くはとまどうのでないでしょうか?
画は嫌いではありませんが、この物語に添えるには、あいまいです。この物語は少年がおじいちゃんを確認していくのですから、ページを繰るごとに、鮮明になっていく方がいいと思います。(hico)
【創作】
『むだに過ごしたときの島』 (シルヴァーナ・ガンドルフィ著、泉典子訳、世界文化社。2003年8月/1997年)
なんとも魅惑的なタイトル!
なにもしなくていい、すてきな島に行くためには、迷子になるだけでいいのです。なかよしのジュリアとアリアンナが鉱山見学の洞窟のなかで迷って、ぽ−んと飛び出したのが美しい火山島。家に戻りたくない迷子のテント村や、人がなくした物が埋まっている海岸があって、一日中すきにすごせばいい。もちろん危険な冒険もまちかまえています。人がなくした本でできた図書館もあって、そこではこんなことを言う場面も。
「いま日本では赤ちゃんでさえ一瞬もむだにしない、とこの本に書いてある。日本人の人生は生まれてまもなくプログラムに組み入れられてしまうんだ。のんびりしている時間などまったくないんだよ。」
そんな「島の外」の世界へもどる子がいるのはなぜ?
さらに、友だちの「正体」(彼女はほんとうに存在するの?)をめぐるなぞも出現して、人の心のふしぎへも誘われてしまう。
RPG系冒険譚よりも意表をつく美しさやこわさがたっぷり楽しめて、M・エンデの寓話のような教訓になりそうなところをちょっとハズしているところがとても魅力的な、イタリアのファンタジー。(seri)
『エドウィナからの手紙』 (スーザン・ボナーズ著、もきかずこ訳、金の星社。2003年7月/2000年)
公園のブランコがこわれていて小さい子が遊べない。そんなときどうすればいい? 少女が思いついたのは市長に手紙を書くこと。
主人公エドウィナは、老人ホームに入った、自分と同じ名前の大・大おば(ひいおじいさんの妹)の家を片付けているとき、昔書かれた手紙の束を見つける。それらは、市長や要職者にあてて汚れた公園や横行する駐車違反を辛らつなことばで指摘し改善を促す手紙。大・大おばは地域に目を光らせ行政に要望する活動を二十年以上続けていたのだ。なにげなく手紙とタイプライターを持ち帰ったエドウィナは、自分も同じことをしてみようと思い立つ。
でも、子どもの要望がそんなに簡単に聞き入れられる?
ところが、人気取りに精を出す市長が、資産家でもある大・大おば本人からの手紙と思い込んですぐさま実行に移したから、事態はだんだん大きく広がって…。
90歳の大・大おばの元気ぶりも楽しい。身近な「政治」がテーマの、ちょっと変わりダネの物語です。(seri)
『チョコレート病になっちゃった』 (ロバート・K・スミス著、宮坂宏美訳、ポプラ社。2003年7月/1972年)
ヘンリーは朝から晩まで大好きなチョコレートを食べている男の子。ある日、腕にできたヘンな茶色のぶつぶつ(甘いにおいがする)が全身に広がり、奇病と診断されてしまう。好奇の目にさらされて病院から逃げ出したヘンリーは、大きなトラックに乗せてもらい、運転手といっしょにへんてこな事件に巻き込まれて…。
<だいすきなものばっかり食べていると、どうなってしまうか?>という教訓もさることながら、お菓子を食べることの(健康とはいえない)楽しみをこれでもかとばかり詰め込んだ、シンプルなホラ話として親しまれてきただろう、ゆかいな物語だ。(seri)
『わたしのねこメイベル』 (ジャクリーン・ウィルソン著、吉上恭太訳、小峰書店。2003年7月/2001年)
「死」を扱うやりかたは、ひとつではなく、時代や文化によってさまざま。そのことを知るのも、ペットと生きることをラクにするうえで大事なことかもしれない。中学年向きの、楽しい語り口のお話だが、そのへんをおさえた主題が珍しい。
語り手「わたし」は、ウェリティ(ラテン語で「真理」)という名をもつ女の子。母親が死んでしまったため、父と祖父母と暮らす家ではだれも「死」について語りたがらない。そんなとき、ペットの老猫メイベルが姿を消す。
おりしも学校の授業は、古代エジプトの死生観について。猫はエジプトでは特別な存在で、猫の女神もいればミイラにされた猫もいる。
というわけで、物陰で物言わぬメイベルを見つけた「わたし」はあることを試みる、というちょっとドキドキの展開に…。
いえ、だいじょうぶ。あぶないお話にはならないから。
古代エジプトの知識も増えて、ちょっとおトク感もある物語。(seri)
『レンアイ@委員 プリティになりたい』(令丈ヒロ子著、フォア文庫;理論社。2003年9月)
小学五年生のワコを主人公に、等身大の女の子の悩みをあつかう快調シリーズ第三弾。ケータイをつかって相談にこたえる「レンアイ委員」活動を、正体不明の美少女になりすまし秘密でしているワコたちが、今回受けた相談は、メイクアップや「プチ整形」などをめぐる美容モノ。
ぱっちりした二重まぶたになりたい。
まゆをととのえて、あかぬけたい。
「ミニモ二」以降ぐんぐん低年齢化する「おしゃれ」に、大人はどうしても警戒しがち。そこを女の子の本音に身を寄せてすんなり対応する姿勢の柔軟さ、そうしながらも(一度はそこを通った先輩の)大人としてすじをとおす見事さに、ともかく感服! でした。(seri)
『マールとまいごのサンタクロース』(二宮由紀子:作 渡辺洋二:絵 ポプラ社 900円 2003.10)
シリーズ3作目、去年よりちいさくなって、しっかりと成長しているマールですが、雪の日に遊んで体に雪が付いて、ちょっと大きくなったりの失敗もあります。
今回はサンタさんも登場して、大サービス。
冬の訪れ前に、毎年マールと出会えたら、楽しいでしょうね。(hico)
『満月を忘れるな!』(風野潮 講談社 2003.10.10 950円)
講談社の新シリーズ、「YA! ENTERTAINMENT」の一冊。「青い鳥文庫」卒業生辺りがターゲット。講談社は他にも夏から同じ層向けに、ミステリーシリーズも始めている。注目。
さて、舞台は東京だが、母親が大阪出身なので、大阪弁を使う主人公三池繁、中学生。
彼は不思議なというかやっかいな能力を持っている。満月の夜、ミケ猫になってしまうのだ。オスのミケは珍しい、なんて言っている場合ではない。
たった一つ、このことだけを注意しておけば、彼は男言葉を話す、幼なじみのまひろや、あこがれの上野さんたちとの、楽しい学園ライフ。
が、やがて満月と関係なく、彼は猫になっていってしまう。失踪したはずの父親もまた、そうだったのだ。
物語はその謎と、それを友人にどう隠すのか、誰に教えて協力してもらうのかなどを巡って、進んでいく。
今回は、理解者たちが出来、いよいよ謎を解いていく入り口までが描かれています。ただいま繁は完全に猫になっている。
続編は年内に書き上げられるもよう。(hico)
『ビートのディシプリン SIDE2』(上遠野浩平:作 電撃文庫 610円 2003.09)
シリーズ2巻目。というか、一冊では収まらないから、長編のとりあえず2巻目ね。
特殊機能を持った人造人間ビート・ピートは、自分が属している筈の統和機構から、追われる観になっている。「カーメン」を探せという謎の命令に従ったから。「カーメン」とは何か? はここでもまだわからない。
次々とおそってくる刺客との戦い、反統和機構「ダイアモンド」のサポートはあるもののその「ダイアモンド」も信用は出来ない。
おぼろげによみがえってくる、消された記憶たち。その断片達がどう集まり、「本当」はどう見えてくるのか?
今回もそれはまだまだ明らかにされません。
けれど、バトルのリアルさ(凄惨さ)と、記憶達の優しさのバランスが巧くとれていて、謎は深まるばかりですが、読ませます。
この世界にある、何かちょっと冷めていて、それでも熱い関係性は、読者とビートを刻むのでしょう。
『ブギーポップ』世界の色はここにもありますが、もう一歩先をを描きそうで楽しみです(hico)
『ルナティック・ムーン』(藤原祐:作 電撃文庫 590円 2003.09)
デビュー作です。
世界が荒廃し、ケモノが跋扈する世界。前時代の「過学」(「科学」ではなく)によって人類は生き延びていた。「純血種」と呼ぶ彼らとは別の、「変異種」と呼ばれる人々は、体のどこかに変異があり、その特殊能力によって、ケモノを排除するウェポンとして「純血種」の配下にあった。
主人公は父親からも名前を教えてもらっていない「変異種」の少年は姓であるイルで呼ばれるか、「名無し」で通っている。外見は「純血種」と変わらず、奥に秘めている力はまださして目覚めていない。どんな怪我でも早々に治る以外は。
ウェポンとしての能力がない、またはまだ発芽していない「変異種」は、最下層に住んでいる。イルの父親はそこを仕切るボス。
物語は、イルが否応なしに目覚めていく特殊能力と、彼自身の心のズレ、彼と知り合いになるウェポンたちの姿などを描いていく。
この作でも多くのシーンはバトルに割かれていますが、根幹では疎外されたコミュニケーションについてが描かれています。(hico)
『盗神伝2&3』(M・W・ターナー:作 金原瑞人&宮坂宏美:訳 あかね書房 2000/2003 各1300円)
2と3になっていますが、前後編です。
エディスの女王の盗人、ジェス。今回彼は、隣国アトアナの女王の元に忍び込むの出すが、捕まり右腕を落とされてしまうという、ショッキングな出来事から始まります。右腕がなくなった盗人! けれど彼が盗むのはブツだけではありません。
小国であるエディスとアトリアの政治的駆け引き、両者を利用しようとする大国たち。そこでジェスはどんな活躍をするのか? はお楽しみ。
アトリアの女王の国を守るための戦略、その心根が読みどころ。(hico)
『セブンスタワー1&2』(ガース・ニクス:作 西本かおる:訳 小学館 2000/2003 共1500円)
全6巻のシリーズの内、2巻です。1が「光と影」、2が「城へ」。
『ルナティック・ムーン』や前号でご紹介しました『ダークエルフ物語』と同じく、この世界では階層があります。
ファンタジーには地図が付き物で、それがまた想像力を刺激することになってます。旅は、次々と世界を拡げていってくれる。
ところが、物理的であれ、社会システムであれ、階層構造になっている世界の物語(ファンタジー)は、広がりではなく階層の移動が主たる動きとなり、それはその層を破ることでもあります。地図を持つ多くのファンタジーが王制を採用(必要と)しているのは、この階層を予め既製の物として、問いを立てずにいることで、旅へシフトし易くするためですが、階層を前に出すこれらの物語は、閉塞状況を自然と引きつけ、登場人物たちの内面をより細かく(深くかは別として)描きだします。
太陽の届かなくさせた闇の国。選民たちは城に住んでいる。「この闇の世界で光を放つのは、ゆいいつ、巨大な城だけ。七つの塔に囲まれた城。七つの階級の選民たちがくらす、光と影の城。紫、藍、青、緑、オレンジ、赤、七つの色があざやかにきらめく、七色の城。(略)選民はけっして、城の外に出ることはない」
選民のめしつかいとして、地下民がいます。
主人公タルはオレンジ階級に属します。選民では低い方の位置。そして、ある日父親が死んだと聞かさる。母親、妹と三人で残されたタルは、大人になるために必要なサンストーンを探す。もし見つからないと、彼らは、選民の地位を剥奪されてしまう。
といったプロローグ。
彼は地下民や彼が存在を知らなかった氷民と出会って行くのですが、「選民」意識を逃れることは出来ません。彼は生まれついてからずっと「選民」として生きていたのですから。タルのそうした差別の眼を、物語は批判するではなく、そのまま描いています。ですから、タルになかなか共感出来ないかもしれませんが、そこがやはり、この物語の面白みの一つです。そこからタルがどう変わっていくかが。(hico)
『蹴りたい背中』(綿矢りさ:作 河出書房新社 2003 1000円)
ベストセラーとなったデビュー作『インストール』に続く第2作。前作からかなり腕があがりました。たいしたものです。
肥大化した自我を持った「私」から観た学校世界、クラスでの関係性がとてもリアルに描かれています。
「私」は今高校一年生。クラスでははじかれています。というか、「私」がはじかれたかった、同年齢の「仲間」「グループ」的な友人作り方、コミュニケーションのあり方が鬱陶しいので。これは「私」の発言ですから真実かはわかりません。どっちも真実かもしれません。とりあえず、中学で大親友だった絹代が別のグループに入ってしまったことだけは確かです。
「私は」常に、考えている「私」のことを考えています。語りの人称そのものが、必然的にそうしたスタイルを取らせるのもまた確かではあるのですが、
「さびしさは鳴る。(略)私はプリントを指で千切る。(略)耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてもくれたりするしね。(略)あなたたちは微生物を見てはしゃいでるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス」
この冒頭の一節から早くも漂うのは、「私」から剥離した「私」を、彼女は意識していること。
それは、述べられているように「孤独」ではあるのですが、そこから抜け出したいのかそうでないのか、「私」の感性のママでそれは可能なのか? も、わかりません。
そんな非決定のままの私は、クラスでもう一人のはじかれ者「にな川」に興味を持つ。実のところそれは、彼が非決定な「私」と違って、モデルのオリィへの興味しか持っていないこと。それを「おたく」と呼んでもいいのですが、すくなくとも彼は、自分の世界を構築しています。が、そうは思わない「私」だと思いたい「私」は、にな川への攻撃的な感情を抱きます。
そこから物語は、安易に進展も発展もすることなく、ただ出来事だけが並べられ、最後に動き出します。それもにな川によってなんですが。
「癒し」の顔を見せないまま、それが「癒し」のように感じられるのは、物語の方がそれを求めているからでしょうか?(hico)
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