2004.02.25

       
児童文学批評(一月分が遅れました。すみません)


『くまさんとことりちゃん』ウルスラ・デュボサルスキー文、ロン・ブルックス絵
今江祥智訳 1998/2003.11 BL出版
『くまさんとことりちゃん、また』 2002/2003.12 BL出版
 
『子供の本 持札公開a』で紹介されていたデュボサルスキーの幼年童話が2冊そろった。のほほんとしたくまさんとしっかりもののことりちゃんのコンビはローベルのがまくんとかえるくんのようなと訳者は書いていたが、私にはくまのアーネストおじさんとねずみセレスティーヌを思わせた。くまさんはアーネストおじさん程、保護者然とした落ち着きを持ったキャラクターではないけれど、ことりちゃんの向こう気の強いところや、空想好きなところなどが小さなセレスティーヌと重なって見えた。
 この小さなお話たちはどれも他愛のない毎日の一こまを舞台にしている。けれども、そこには一遍の詩のようなふっとした心の動きが切り取られている。二人でいることの喜びと胸苦しさ。とべるものととべないものの対比。ちょっとした心遣いと割り切れなさ。微妙な、微細な心のゆれを小さなお話に仕立て上げ、小さな人にそっと差し出す意味はなんだろう。そう思いながら、読みはじめた時、台所の流しの穴にビー玉を全て落としてしまうくまさんに「いけないんだあ」と笑い、ことりちゃんが取り出してくれたことに安堵し、決して自分が落としたとはいわないくまさんに「ふふふ」と納得するこの目の前の小さな人の何ものにも寄り添う自在な心の動きにはっとした。お話の意図や意味を求めようとはせず、そのときどきの二人の気持ちを自分のものとしていく姿に、こうやって人は感情を学習していくのかもしれないなと思ったのだ。ストーリーを伴って心にひっかかっていく様々な感情。それがまた、その子の日常にとかされ、何かのきっかけで立ち上がる時がある。そういう物語もあるのだとこの2冊を読んでわかった。そして、それはゆっくりと読み進んだ私の中でも立ち上がったのだった。(ほそえ)

その他の気になる絵本
『おひさまあかちゃん』高林麻里さく 2004.1 主婦の友社
ボードブックの赤ちゃん絵本。赤ちゃんが目覚めるまでの様子をあたたかく描き出す。おひさま、小鳥、子犬……が起きる様子を見開きで展開し、最後はママのだっこでおはようと起きる赤ちゃん。穏やかな目覚めのひとときに唱え歌みたいに読まれるといいと思う。(ほそえ)

『いいおかお』どいかやさく 2004.1 主婦の友社
ボードブックの赤ちゃん絵本。フェルトで描かれた三角や四角がリズミカルなテキストに合わせてねずみになったり、子犬になったり……。ページをめくり、変化する楽しさと調子の良いテキストがお絵書き歌みたい。手仕事のあたたかさがうれしい。(ほそえ)

『てがみはすてきなおくりもの』スギヤマカナヨさく 2003.12 講談社
はがきは葉書とかきます……と葉っぱに便りを書いて送ったものが写真になったページから始まります。これでつかみはOK。こんなものも送れるんだあ、と紙皿やがちゃポン玉のてがみにびっくり。あはは、と笑ってうれしくなりました。変わり種でびっくりさせて終わりという絵本ではなく、きちんと気持ちを形にして届ける楽しさ、届いたうれしさを読み手に伝えたいという姿勢がきちんと見えるところが素敵。ステーショナリーのデザインもしている作家ならではの絵本。いろんな消印も楽しく、隅々まで遊び心が息づいています。(ほそえ)

『ヤドカシ不動産』穂高順也文 石井聖岳え 2003.11 講談社
穂高順也は視覚的な人だと思う。『さるのせんせいとへびのかんごふさん』(ビリケン出版)もそうだったが、見立てや重ねがお話を動かす原動力になっているみたい。今回はお家を野原の小さな生き物たちに見立ててあげて、お話が進んでいる。チョウチョ奥さんのチューリップの家はなるほどねえ、ホタル兄弟からあれれれという展開。さいごの不動産屋の告白にいたってはへえそうでしたか、とちょっと引いてしまいました。ユーモラスで小さな遊びがいっぱい描かれた絵の楽しさがお話を支えています。(ほそえ)

『フリフリ』サラ・マクメナミーさく 石井睦美やく 2003/2003.11 BL出版
これがデビュー作のマクメナミー。貼り絵と筆の線画を組み合わせ、なかなかおもしろい質感の絵にしています。おはなしはシンプル。お父さんが連れてきた子犬に女の子が名前をつけようと一緒にいろんなことをして過ごします。くつやくずかごで遊んだり、庭の土をほったり……。子犬の好きなものを名前にしようとするのですが、最後に思いついたのがフリフリ。しっぽをフリフリ動かすから。展開も絵に似合ったあたたかさで次の作品も見てみたいなあと思わせます。(ほそえ)

『ドロップ』シルヴィア・オメンさく 横山和子やく 2002/2003.12 竹書房
シンプルな線画だけでつづられた絵と文。ウサギとネコのなんてことない日常を描きながら、死んだら天国にいくのかしら、そこでまた君という友だちにあえるのかしら、といふうに今、ここに一緒にいることの不思議に心が動いていく。とても自然に。それがおもしろい。これがデビュー作というオメンの本作はちょっと昔のゴフスタインみたいだ。「おばあちゃんのさかなつり」とか「いもうとはクレイジー」を描いてた頃の。本文の手書き文字のような文字はこの絵本のために組まれたフォントであるらしい。ここまでできるようになったかとびっくり。(ほそえ)

『3びきのくま』古藤ゆず文 スドウピウ絵 2003.12 学研
人気イラストレーターの初めての絵本。それが昔話というのはなかなか手堅いデビューだと思う。お話の骨格がはっきりしているから。それにどんな色をのせるかを考えれば良いだけだから。ロシア民話のうっそうとした深い森でもなく、バイロン・バートンのアメリカのカラフルな森ともちがいます。シックで平べったい小花がちらちらと咲く森。女の子はおっとりと邪気がなく、くまさんたちはお洒落に森の生活を楽しんでします。スドウピウのイラストセンスそのままに。昔話はこのように去勢されて消費されていくのだなあ。それでも伝わっていくだけの骨格を持ち続けるのが昔話の偉いところ。(ほそえ)

『ねえ、わたしのことすき?』カール・ノラックぶん クロード・K・デュボアえ 河野万里子やく 2002/2003.12 ほるぷ出版
ハムスターのロラの絵本5冊目です。弟がうまれて不安定な気持ちのロラ。うれしくてたまらない気持ち、早く仲良くなりたいのにうまくいかなくて困ってしまったり、ママもパパも私のこと好きじゃなくなったのかも……と心配になったり、一生懸命のロラに惹き付けられます。幼い弟にそおっと気持ちを伝えられて、よかったねえと安心する一冊。(ほそえ)

『あなたのことがだーいすき』ヒド・ヘネヒテン作・絵 菱木晃子訳 2003/2003.10 フレーベル館
大判の絵本で小さなふわふわ(ほんとにふわふわの毛並みみたいなシールを貼っています)のシロクマくんが魚をとったり雪の坂を滑ったり、お月さまをながめたり、思う存分動いている様を見るとにっこりしたくなります。何ごとにも満足していたしろくまくんが「どうしてゆきはしろいの?」と不思議に思い始めてから、お話が急展開。おかあさんは今のぼくでなくなっても、ぼくのことが好きかしら?と思うのは小さな子のほんの小さな、でも重大な疑問です。それにはいつも「大好きよ」と答えたい。そういう気持ちに素直にさせる絵本。(ほそえ)
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○待ってたよ!絵本のピッピ
「こんにちは、長くつ下のピッピ」アストリッド・リンドグレーン作 イングリッド・ニイマン絵 いしいとしこ訳 (1947/2004.2 徳間書店)
 4歳の娘は自分が何ものにでも成れると信じています。だから、魔法使いにでも、お姫さまにでも、王様にでも、犬でも、みみずにでも成れると言いはって、私を楽しませてくれます。空を飛んだり、速く駆けたり、海の底でお茶を飲んだり、自在に自分を操って、どこへでも行き、どんなこともやり遂げることができるのだと胸を張って。どんなにへんてこなことを言ったとしても、この子にとってはそれは真実なのだし、確かな心の動きなのです。できるわけないでしょと笑ったりすれば、じだんだふんで泣き怒る。その時、この子は、<子ども時間>を生きているんだなあとしみじみしてしまいました。この万能感を人はいつ失ってしまうのだろう。
 リンドグレーンはこんな、<子ども時間>を描くのがとてもうまい作家です。丸ごとの子ども。ピッピやロッタちゃんはその代表的なキャラクターではないかしら。自分の万能感をすり減らし、すぐに子どもでいられなくしてしまう現代では、リンドグレーンのお話は、書かれた当時よりも確実に対象年令を下げているとおもうのですが、そうなると岩波書店版では手に取るのが苦しい。ピッピのお話の強引さをそのまま楽しみ、うらやむ目の前の子どもにあったかたちの本が欲しい、と思っていた時、偶然ニイマンのピッピ絵本を手に入れました。ニイマンの描くピッピは頭が大きくて、手足がひょろ長い。目はアーモンド型で、ブスかわいい顔。色使いがキッチュではっきりしている。岩波書店版のおねえさんっぽいスマートさとは全く違った、エネルギーにあふれたピッピの造型にこれだ!と思いました。四苦八苦して英語を訳し、子どもに読みながら、どうしてこれが翻訳されないのかなあ、絵がばつぐんにいいのに、とぶつぶつ、2、3年言っていたら、やっと出ました。うれしい! ニイマンのピッピによって、お話の世界がよりくっきりと身近で親しみ深いものになりました。ピッピの話って荒唐無稽よねえなんて思う人は絵本版を見てほしい。子どもの万能感の発揮できる空間がどんなものか。これなら、思う存分、勝手にできるし、したくなるねと思うはず。
 ニイマンの絵で、「公園のピッピ」という絵本もあるし、ピッピのコマ割りマンガ絵本も何冊か出ているので、こちらもぜひ日本語で読みたいもの。
 
○その他の絵本、童話
「てん」ピーター・レイノルズ作 谷川俊太郎訳 (2003/2004.1 あすなろ書房)
お絵書きなんて大ッ嫌いと白紙の前に座る子に、先生が「吹雪の中のシロクマね」と言ったのがはじまり。これは<する>ことではなく<見る>ことを示していると思う。マーカーでしるした点を見て、それにサインしてと言ったときも、やっぱり先生は<見る>こと、それを<知る>ことを示したのだと思う。かくことは、試して、見ること。何度も何度もかいて、見て、かいて、見て……最後にサインする。そして、その後は、ずうっと見られている。それが絵なんだね。そのもともとのところをこんなストーリーに仕立てているのが洒落ている。なかなかの才人、ものごとの切り取り方、見せ方のうまさにピタゴラスイッチの佐藤雅彦に似てるなあと思った。

「もぐらくんとゆきだるまくん」ハナ・ドスコチロヴァー作 ズデネック・ミレル絵 木村有子訳(1998/2004.1 偕成社)
クルテクというタイトルのほうが知られているかしら。チェコの国民的キャラクター、モグラくん。アニメの上映や放映で子どもから若い人たちにまで人気が出て、グッズもたくさん出ています。ボードブックで4冊出ていたけれど、今回は大判のストーリー絵本。ほんわかとやさしく、懐かしい感じで安心して読めます。雪だるまが主人公だととけてしまってあ〜あ、という展開が多いのですが、そこからひとひねりしているのがおもしろい。山のてっぺんまで連れていき、次の冬が来るまで、分かれて過ごす、モグラくんと雪だるまくん。再会し、元気に遊ぶ二人ににっこりしてページを閉じることでしょう。ソリで遊ぶシーンやとけていく雪だるまくんを運ぶシーンなど、アニメーションならきっと、もっと楽しいだろうなと思ってしまったけれど。

「ぼくのしろくま」さえぐさひろこ文 西巻茅子絵 (2004.1 アリス館)
しろくまがほしいなあというぼく。大きくて守ってくれるやさしい存在をしろくまに投影して願うぼく。そんなぼくのところにさきちゃんが連れてきたのは小さな白猫。この小さなあったかい生き物に居場所を与えたのはぼく。名前をつけたのはさきちゃん。ぜったい「しろくま」だって。そこでぼくの願いが違うかたちになって立ち現れてくる様がいい。逆転がすんなりと腑に落ちて、よかったねと声をかけたくなる。シンプルだけどうまく構成された展開と色鉛筆のやわらかなタッチが印象深い絵本にしている。

「ずいとん先生と化けの玉」那須正幹文 長谷川義史絵 (2003.12 童心社)
和ものイラストレーターとして一気に認知されてしまった長谷川義史とストーリーテラーである那須正幹ががっぷり組んだお話絵本。テキストの多さを逆手にとって、アングルを遊び、自在なレイアウトでページの変化を表現した長谷川のデザインセンスをまず楽しみたい。きつねとちょこっと性悪なお医者との智恵比べ。口調のおもしろさやテンポ良い展開にむふふとわらってしまうはず。

「元気なグレゴリー」ロバート・ブライト作・絵 なかつかさひでこ訳 (1969/2003.12 徳間書店)
ロバート・ブライトというと2色使いの絵本ばかり思い出すが、これは4色と2色ページが交互に出てくる構成でオール4色になる前の60,70年代によく見られる作り方。やかましくて元気でおっちょこちょいの男の子グレゴリーがおばあちゃんの家で引き起こす騒動は何とも大袈裟で、あらら、大丈夫……とびっくり。最後は井戸に落っこちて、やっと静かになりました。そこからがブライトらしい。グレゴリーはおばあちゃんの行動をじっくり眺めて、自分のものとします。「くんちゃんのはたけしごと」みたい。こういう押し付けがましくない手本の見せ方に古き良き時代のアメリカの余裕を感じます。

「パパはジョニーっていうんだ」ボー・R・ホルムベルイ作 エヴァ・エリクソン絵 ひしきあきらこ訳
(2002/2004.1 BL出版)
遠く離れた町に住むパパがぼくに電車にのって会いに来る。その1日を描いた絵本。ママがパパと顔をあわせないところを見ると、はっきりと書かれてはいないが、もう夫婦ではないのだろうと想像できる。でもぼくにとってはパパで、パパにとってもぼくは自慢の息子であると、この1日で痛い程伝わってくる。ふたりはどんな風に過ごしてもいい1日なのに、通りでホットドックを食べたり、映画館でアニメを見たり、図書館で本を借りたりする。まるでいつもの週末のように。何気ない日常が、一緒にいられないということだけで、かけがえのない時間になっていく。淡々としたテキストがエリクソンの暖かみのある絵でいじらしく、震えるような心持ちを伝えてくれる。

「ともだちになって」アレクシス・ディーコン作・絵 いずむらまり訳 (2003/2004.1 徳間書店)
不思議な耳の長い生き物が空を見上げている。宇宙人らしい。まいごらしい。小さくて言葉が通じなくてかたちが変わっているから、どこでも相手にされない。人間の子どもたちとは言葉無しでもいっしょにいられたよ。だきしめられて、気持ちが通じたよ。シンプルなストーリーと独特なタッチのイラストが印象的。子どもたちの描き方にセンダックが好きという作家の嗜好がよくわかる。リアルなタッチとキャラクターのポップな造型の対比が不思議な雰囲気をかもし出していて、心にしみる。他の絵本も見てみたい新人絵本作家。

「うさぎのおうち」マーガレット・ワイズ・ブラウン文 ガース・ウィリアムズ絵 松井るり子訳 (1956/2004.2 ほるぷ出版)
これはもう一つの「しろいうさぎとくろいうさぎ」だ。こちらは茶色のうさぎだけれど。春になって自分の家を探すうさぎ。こまどりやかえるやグランドホッグの家を聞き、入っていいと尋ねるうさぎ。断られて、走って走って、白いうさぎに出会った時、やっと居場所を見つけます。ワイズ・ブラウンのテキストはリズミカルで、すっと耳になじむのが特徴だ。それを意識したやわらかな日本語にほっとする。以前、文化出版局で刊行されていた絵本の新訳、復刊。鮮やかな色合いで春の景色を楽しめるのもうれしい。

「どこどこどこ」長谷川義史作 (2004.1 ひかりのくに)
えさがし絵本。「ウォーリーをさがせ」みたいな本ですな。さがし絵は子どもがとっても好きな分野。もう勢いがとまらない長谷川義史のごっちゃり感がそでや、見返しにまではみだして、遊びのテンコモリ。遊園地や銭湯、盆踊り、回転寿司……最後はタイガースの選手がはなったホームランボールをさがすんやて。どこどこどことさがす文章ももっと遊んでもよかったんちゃう?

「おれはティラノサウルスだ」宮西達也作・絵(2004.1 ポプラ社)
「おまえうまそうだな」でどう猛なティラノサウルスに母性を重ね、意外な展開で新境地を見せた絵本の第2弾。今回は幼いプテラノドンとティラノサウルスのお話。お父さんに強さと逞しさを教えてもらい、お母さんには優しさを教わって一人立ちの日を迎えた幼いプテラノドン。自分を食べようとしたティラノサウスルが火山の爆発で重傷をおいました。それを助けようと、嘘をついて……。今回もまた、食う食われるの関係がずれていき、食われずに別れていく。互いの誤解を解かないままに。前作でも見せ人情路線は本作でも健在。ティラノはなかなか良い奴だときっとページを閉じてもしみじみするだろう。
 でも、なんだか、展開に驚きがないんだよな。父さん、母さんの描き方も、2匹の別れ方も。それに、最近、食う食われる関係をテーマではなく、ストーリーの設定に用いるお話(「あらしのよるに」シリーズや「ゆらゆらばしのまんなかで」など)を見るにつけ、お話がお話として完結し、読み手がお話世界の傍観者であるような、そういうものが受けているのではないのかなという思いが強くする。「ねこはしる」や「ねこと友だち」を読んだ時にのこる小さな棘みたいな感触、それはお話が読み手に否応もなく、自分に目を向けさせるきっかけとなったと思うのだが。それが物語を読むということだと思っていたのだが、どうも今はそうではないらしい。

「世界のなかで、ひとりといっぴき」高山栄子作 はまのゆか絵 (2003.12 ポプラ社)
「ゆうやけカボちゃん」シリーズで小学校に上がったばっかりのどきどきした子どもたちの揺れる気持ちをユーモラスにあたたかく描いた高山だが、本作では4年生という微妙な学年の女の子を主人公にしている。はまののひりつくようなイラストが少女のぴりぴりとした心象をすくいあげ、前半はちょっと痛いような展開だ。でも、ありのままを好いてくれるペロを軸に少しずつ女の子の心も周囲の雰囲気も変わっていき、中々に気持ちの良いラストにうまく着地している。世界にひとりだけの私。世界に一匹だけのペロ。それを自分自身も周囲もきちんと受け止めて、生きていくことのよろこび。だれかが(自分が)味方でいてくれる、その安心があるからやっていける。それを象徴的に描く絵本はあるけれど、物語で、しっかりと届くように描くのはむずかしい。それを逃げないでやっている。

「ニコルの塔」小森香折作 こみねゆら絵 (2003.11 BL出版)
もやのかかったような塔のまわりを自転車に乗った少女が走っている。黒い裾の長いマントを翻して。修道院の寄宿舎という閉ざされた空間は、その言葉そのままの時空にあって、そこからの脱出劇と、なぜというミステリーの解決がこの物語の軸となっている。地球のマントという暗喩は今の私達に切実であるし、何も見ないし、何も知ろうとしない少女たちの姿や監視するカラスたちは、きな臭い現代の風潮を思わせる。今と中世のシンクロはそのまま、物語の骨格へとスライドするのだ。巧みな構成と細部のイメージの確からしさがこの物語の魅力になっている。繊細なイラストがその魅力をさらに深めている。
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『てん』(ピーター・レイノルズ:作 谷川俊太郎:訳 あすなろ書房 2003/2004.01 1300円)
 絵を描けない、描きたくもない、ワシテがいかに絵に目覚めていくか? の絵本です。
 白紙の点が一つのまま。ワシテに先生は、その画用紙にサインをさせる。そして次の日。作品として額に飾る。
 もっといい「てん」を私は描けると、ワシテは次々と「てん」を描いていくわけ。
 その物語の流れが、スムーズでとても説得力があります。(hico)

『ぼくのしろくま』(さえぐさひろこ:文 西巻茅子:絵 アリス館 2004.01 1300円)
 「ぼく」はしろくまが欲しい。頼りになるしね。でも手に入れたのはしろねこ。
 そこで、「ぼく」は守られるのではなく、「守る」ことの喜びを覚えていく。
 小さな、暖かいお話です。(hico)

『イングリッシュ・ローズィズ』(マドンナ:文 ジェフリー・フルビーマーリー:絵 江國香織:訳 集英社 2003/2003.11 1900円)
 仲良し4人組の女の子、ニコル、エイミ、シャーロット、グレイスは、「イングリッシュ・ローズィズ」と呼ばれています。趣味も一緒だし、もうとにかく仲良しで、周りからも一目を置かれる存在。でも彼女たちでも嫉妬してしまう女の子がいました。ビーナは可愛いし頭が良いし、完璧な女の子。だから、無視、無視。
 そんなある日、妖精が現れ、みんなをビーナにして、彼女の日々を体験させます。すると、彼女は、父と二人暮らしで、とでも大変で、変身前の「シンデレラ」状態なのがわかります。わかって、彼女たちは、反省し、ビーナの友達になります。
 おーい。イマドキ、こんな話でいいのか?(hico)

『カプチーヌ』(タンギー・グレバン:作 カンタン・グレバン:絵 江國香織:訳 小峰書店 2000/2003.11 1400円)『小さな魔女のカプチーヌ』(タンギー・グレバン:作 カンタン・グレバン:絵 江國香織:訳 小峰書店 2002/2003.11 1400円)『しつれいですが、魔女さんですか』(エミリー・ホーン:作 パヴィル・パヴィラック:絵 江國香織:訳 小峰書店 2002/2003.10 1300円)
 「江國香織・訳 魔女の絵本」ってシールが貼ってある、「シリーズ物」?
 原作者より翻訳者が前面にでているのが、すごい。村上春樹訳の『ライ麦畑〜』でも、そんなことはなかったが・・・。(hico)

『こっち おいで クレオ』(ステラ・ブラックストーン:さく キャロライン・モックフォード:え 俵万智:訳 教育画劇 2001/2004.02 1000円)
 シリーズももう4冊目となりました。
 素朴で親しみやすい画と俵による、テンポ良く無駄のない訳文は今回もOKです。
 ファーストブックに近い、この辺りの絵本は難しいけれど、猫のクオレの視線で語られるので、猫嫌いはだめでしょうが、でなければ入りやすい作品です。
 ただ、これも帯には俵万智の名があるばかりで、帯を取らないと作者たちの名前がでてこないのね。ま、子どもはんなこと気にしないけど・・・。(hico)

『よかったね かかしくん』(マリー・ジョゼ・サクレ:作・絵 保富康午:訳 学習研究社 2003.11 1200円)
 長い間働いてきた、かかしが役目を終え、捨ておかれる。風雨にさらされるかかし。
と、彼を子どもが家に連れて帰る。そして、
 用がなくなったら、捨てられてしまうかかしの運命は、悲惨ですが、それを幸せな結末にどう持っていくか。
 話が甘いですが、子ども読者がホッとするのも確か。(hico)

『きつねのかみさま』(あまんきみこ:作 酒井駒子:絵 ポプラ社 2003.12 1100円)
 りえちゃんは、なわとびを置き忘れて帰ってきます。弟とあわてて、取りに戻ると、そこでは10匹のきつねたちがなわとびのれんしゅうをしていて、
 小さな小さな物語が、ちゃんと世界を作っています。
 とても安心して、小さなファンタジーの中に入れます。そうして読み終わったときの心地よさ。(hico)

『結晶・宝石図鑑』(R.F.シムス&R.R.ハーディング あすなろ書房  1991/2004.01 2000円)
 様々な結晶に関して、詳しく書かれています。こういう情報物は、どのような流れで読ませていくかがポイント。っていうか、そうでないとその件に素人な人は、どう読んで良いかわからない。この図鑑は、本文を読みやすくし、細かなエピソードは注釈に回す、オーソドックスな方法を採用していて、そのために、結晶・宝石をじっくり眺めることができます。(hico)

【創作】
『零崎双識の人間試験』(西尾維新:作 竹:イラスト 講談社 2004)
 講談社ノベルス。戯言シリーズの外伝的作品。
 殺人鬼の一族、零崎一賊の長兄にして「二十人目の地獄」の通り名をもつ零崎双識(ぜろざきそうしき)は、行方不明の弟を探している途中で、零崎に変異しつつある女子高生の無桐伊織に出会う。双識は、大鋏「自殺志願」を手に、「家族」のため、零崎一賊をつけ狙う早蕨一族に単身挑む。
 「自分から逃げたりしない! わたしは否定しない、全部まとめて肯定してやる! わたしは自分の人生如きに、才能如きに絶望なんかしない!」という伊織の台詞は、象徴的だ。双識によれば、殺人鬼にとって殺人は才能ではなく性質であるということだが、だとすれば、「殺人」とは、自分ではどうにもできない性質が発露した結果を意味する。その結果が「殺人」という反社会的行為であってみれば、「人生」に絶望せざるを得ないだろう。にもかかわらず、伊織は「自分の人生如きに、才能如きに絶望なんかしない」と言い切っているのである。戯言シリーズのキャラの魅力は、一見派手な異能であることにあるのではなく、異能であることの結果を引き受ける潔さにあるのだと思う。
ところで、「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」をうたった『ファウスト』(講談社)が2003年10月に創刊され、2004年2月には2号が刊行された。「イラストーリー」という用語に示されているように、『ファウスト』は「イラスト」と「ストーリー」が融合した小説、すなわちキャラクター小説の地平を拓こうとしているようだ。
戯言シリーズの西尾維新と竹は、「イラストーリー」をもっともよく体現したコンビであろう。言葉遊びの域を逸脱して、文字=キャラクターそのものに執着を示す戯言遣いの西尾と『ファウスト』の表紙イラストを担当している竹は、マンガでもなければ、アニメでもない、キャラクター小説の可能性を垣間見させてくれるように思う。キャラクター小説については、拙稿「マルチメディア時代における児童文学の変容」(『子どもと本の明日』新日本出版社、2003年)で、清涼院流水を事例に論じているので、興味のある方はどうぞ。ちなみに、『活字倶楽部』(2004冬号)で、西尾維新の小特集が組まれているので、そちらも要チェック。(meguro)

『(ふつうじゃない人をめざした)シーダー・B・ハートリーのまるきり嘘ではない話』マータイン・マレイ作 齋藤倫子訳 2002/2004.1 主婦の友社
オーストラリアの絵本作家が初めて書いたYA小説。手にとってぱらぱらページをめくって、ぽつんぽつんとはいった線画のイラストの愛らしさにまいってしまった。『あしながおじさん』のイラストみたいに。いたずら書きの延長にあるちょっと秘密めいた親密な感じ。大人でもなく子どもでもない中途半端なイライラした感じが新たな友だちと関わることで、一つの舞台を作り上げることで変わっていく。母親との関わり方も、いけすかないやつとの関わり方も。その様子が13歳の女の子の口調とちょっと背伸びした詩的な表現でとてもうまく伝わってくる。誰もが抱え込んでいる小さな棘みたいなものを見てしまう主人公の目のまっすぐさ。これはとても健やかな小説でそれがとても気持ちがいい。(ほそえ)

『ストラヴァガンザ 仮面の都』(メアリ・ホフマン:作 乾侑美子:訳 小学館 2002/2003.12 1900円)
 またまたベニスを舞台にしたファンタジーです。パラレル物。
 21世紀のロンドン、ルシアン少年は小児ガンに犯され、病の床にあった。ある手帳を手に入れた彼は、時空を越え、もう一つのベニス、16世紀のベレッツアへとワープ。そこはドウチェッサによって統治されている独立した町。が、タリア(こっちのイタリアね)王国は、虎視眈々とベレッツアを傘下に入れようとしている。その陰謀渦巻く中、ストラヴァガンザ(時空を旅するもの)となったルシアンはどんな活躍を見せるのか?
 何故かベレッツアにいるときの彼は元気な少年で、こちらに戻ってもしだいに健康を取り戻す。が、
 パラレルだとかベニスだとが魔法の鏡だとか、もうどの物語のことか混乱してしまいますが、この物語の場合、勧善懲悪ではなく、敵であるタリアの公使もなんだか頼りないし、ドウチェッサの中には冷徹さもあり、それぞれのキャラが立っていて、読ませます。
 またまた3部作なので、それを読まないとわかりませんが、この物語もまた、主人公が「行ったきり」物です。「往きで帰りし物語」の時代は終わりつつあるのかもしれません。(hico)

『恋するアメリカン・ガール』(メグ・キャボット:作 代田亜香子:訳 河出書房新社 2002/2004.01 1600円)
 もうコテコテのラブコメです。女の子が恋に目覚めるまで。もちろん、めでたしめでたし。
 サムは姉のルーシーほど男の子にもてるわけでもないし、妹のレベッカほど頭が切れるわけでもない、真ん中のめだたない女の子。しかもルーシーの恋人ジャックを好きに成っているから、最悪。ドイツ語の成績が悪かったりしたことで、罰として絵画教室に通うことに。ま、絵はジャックと同じように描くのが好きで、ソウルフレンドなんて思っているし、悪い罰じゃない。が、自信を持って描いた静物画を先生に批判される。あなたは知っている物を描いているだけで、目の前に見えている物を描いていないと。かなりイケ面の男の子のいる前で言われたし、頭にきて、次の時サボッてします。迎えに来る家政婦さんにバレたらこっぴどく叱られるのは間違い無いので、絵画教室の近くで待っていると、なんとそこに大統領が現れる。そして、自分の横にいた男が銃を抜き大統領にねらいを付ける。とっさにサムは男に飛びかかり、大統領を救う。
 なんだかもう強引な設定でしょ。
 しかも、お礼のパーティで紹介された大統領の息子とは、絵画教室のイケ面の男の子だった・・・。
 そこまでやるか?
 でしょ。
 でも、こうすることで、作者は、先ほどの絵画教室の先生が教えてくれたことや、人を本当に好きになるとはどういうことかに気付いていく様が描かれる。
 そんな、こっ恥ずかしいほどマジでストレートなメッセージも、それ以上にとんでもない設定によって、普通に見えてくるわけ。
 ま、今の話しだから大統領は、あの方だし、フィクションであるけれど、その辺りが引っかかってしまったけど・・・。(hico)