2004.08.25
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【絵本】 『海を歩く 海人オジィとシンカの海』(西野嘉憲 ポプラ社 2004.07 1300円) 絶好調、ポプラ社の写真絵本最新刊です。 石垣島の海人、七七歳のとくしょうオジィを中心としたシンカ(仲間)たちの追い網漁の様子を、活き活きと撮っています。 背景説明から、シンカたちの紹介など、文に無駄はなく写真を殺していません。 写真はといえば、漁を伝えるだけではなく、海の中にいる海人の呼吸も伝えます。ユーモアが心地よく漂っています。 美しい海、大切な自然、などといった紋切り型はここにはなく、ただ生きていることだけがあります。(hico) 『オスカーとフー』(テオ:ぶん マイケル・デュドク・ドュ・ヴィット:え さくまゆみこ:やく 評論社 2002/2004.07) いつも空を見上げて、ただ幸せなオスカー。 両親と旅行に出かけたのに、ボォーッとしているから、迷子に。 彼を助けてくれたのは雲のフー。 お話もほんわかしてますが、なんと言っても画が気持ちを柔らかにしてくれます。 色遣いもクオリティ高いですよ。(hico) 『ピーナッツくんのたんじょうび』(つつみあれい:作 小峰書店 2004.08 1300円) シリーズ三作目。 あほらしくもおかしい物語展開の妙。 二宮由紀子のような驚愕はないのですが、あほらしいことがあほらしいまま読み手に受け入れられていくであろう展開です。 そして、半拍遅れたように、のめりそうな言葉のリズムが結構はまります。 きのこの母子が船に乗るのを手伝ったエピソードでは、 「それから みんなを えっせこ えっせこ/ふねの なかまで おしこんで おりょと したら/もう ふね でてた」 この「もう ふね でてた」が置かれるのがいいですね。(hico) 『めんどりヒルダのこわいよる』(メリー・ウォーメル:ぶん・え ほんじょうまなみ:やく 新風舎 1996/2004.08 1300円) シリーズ第二作。 夜の庭を歩くヒルダ、あ、あれは! ページを繰るごとに、おそろしい物が現れ、でもそれはヒルダの誤解なのが読者には判って、という安定した繰り返し展開が楽しい一品。 なんて言うか、変に力が入ってなくて、素直な描き方なんです。(hico) 『田んぼのきもち』(森雅浩:作 松原裕子:絵 ポプラ社 2004.04 1200円) 里山の田んぼが感じ、伝える四季という趣向。 基本的には里山の良さをアピールしています。それが前面に出るのでないところが好感。 でもやはり、「伝えたい」系の匂いはあります。 松原の画は、アップには彼女の力があふれ出ていますが、ロングは弱い。動いていない。 やはりオリジナルで勝負の方がいいと思います。(hico) 『犬的正しい寝方の研究』(でんよういちろう&さべあのま 小峰書店 2004.08 1000円) これはもう、なごみ系。 作者たちの愛犬をモデルに、粘土で作った人形で、犬の愛らしい寝姿を再現。 あるある、こーゆー寝方。 と楽しんで下さい。(hico) 『わらべきみかの ことばえほん』(わらべきみか:作 ポプラ社 2004.04 1200円) ことば絵本。 一四五〇語がイラストと共に収録されています。 日常風景の一つ一つのそばにそれを指すことばが添えられていて、世界がことばで出来ている、ことばに満ちていることを幼児にも判りやすく提示しています。 それはいいのですが、ジェンダー・バイアスがかかりまくっています。服の色から職業(役割分担)まで。 イマドキちょっとこれは驚きです。 幼児にことばを伝える絵本であるならば、それは最も注意する必要のある事項の一つです。(hico) 『うんちのえほん』(福田紘一郎:文 上野直大:絵 岩崎書店 2004.07 1300円) うんちに関する知識絵本。 説明は判りやすいです。基礎知識を子どもが得るにはいいでしょう。ただ、イラストと文の置きにはもう少し工夫を。一目で画面が目に入って来にくいです。活字のポイントがやたら変わるのも、見にくいです。 もうひとつ、そろそろ「うんち」は止めませんか?(hico) 『ジョイバルー』(ハーウィン・オラム:文 きたむらさとし:絵・訳 小峰書店 1983/2004.07 1300円) ネッドが大好きなのは彼の想像上の生き物ジョイバルー。 そいつがきっと居るはずだと、金曜日は家中を探し回ります。 そしてついに現れたジョイバルー! 楽しい時間が流れます。 これで毎週金曜日は彼と遊べるはずですが、ネッドは、毎日一緒に遊びたくて・・・。 ネッドの気持ちと読み手の子どものそれとがシンクロするかどうかで、面白さは分かれそうです。 画は、切れ味も、表情もいいです。(hico) 『はだかのおうさま』(アンデルセン:作 竹下文子:ぶん 西巻茅子:え 岩崎書店 2004.07 1300円) おなじみの物語を、西巻の画で楽しめます。 奇をてらうではなし、重厚でもなく、かといって爽やかでもなく、一枚一枚の画が、物語の重要なシーンを印象深く切り取っていきます。(hico) 『古代ローマ入門 「知」のビジュアル百科』(サイモン・ジェイムズ:作 坂本浩:監修 あすなろ書房 2004.08 2000円) シリーズ九作目。 無駄なく、判りやすく。 相変わらずの質の高さです。(hico) 【創作】 『ホエール・トーク』(クリス・クラッチャー:作 金原瑞人&西田登:訳 青山出版社 2001/2004.03) こんないい男っていないなーとドキドキしながら、水泳チームの成り行きにドキドキしながら、そして途中からは不吉な予感にドキドキしながら少しずつ読み進めた。作者の心には、タイトルの<クジラの会話>が強くあるのだろうが、そのような一種の理想的な比喩を出してこなくても、人間の語りだけでも十分読ませる。 日系とアフリカ系と北欧系の混血で、麻薬中毒だった母親のもとから幼児期に白人夫妻に引き取られたTJが主人公。幼少時のトラウマを克服するために、心理療法家のジョージアのところへ通っていた。現在の両親は、社会的立場も背負っている過去も違うが、軽薄な理想を唱えるよりも、現実を引き受け、1対1の人間同士としてTJに接する魅力的な二人である(特に養父の存在感は大きい)。 TJは、体格はいいし、スポーツ万能、成績優秀で、完璧。だが、わが道を行くタイプ+アフリカ系ということで、人種差別主義者の敵もいれば、スポーツバカの集うカーター高校のコーチ連に疎ましく思われることもある。 ひょんなことから、団体競技を避けてきたTJは、水泳チームを結成することになる。彼自身はオリンピックにも手が届くかという水中の猛者だが、集まった面々は、一癖も二癖もある連中ばかり。 TJは、チームの一員クリスのヒーローであり、アフリカ系の少女ハイディのヒーローであり、カーリーの素敵なボーイフレンドであり、そして今の養父の息子である。 水泳チームの仲間の、また、養父の背負う過去には、虐待や死や麻薬や差別がある。大人の身勝手な事情に翻弄された子ども達。深い傷とそれを語ることを軸に、交錯する物語を、それぞれが引き受けていかなくてはいけない。 スタジャンをめぐる攻防については、『チョコレート・ウォー』を思い出した。自由なようでいて意外にがちがちなところのあるアメリカの高校生活や、求められる「愛校心」の窮屈さ。そこにいかにノーというかについて、数十年を経て、アメリカの少年はどう変化したのだろう。 迫力があるのだけど、ある部分では静かで、ある部分ではくすくす笑ってしまうほどのユーモアに満ちている。上半期のベスト10。(鈴木宏枝/bk1) 『モギ―ちいさな焼きもの師』(リンダ・スー・パーク:著 片岡しのぶ:訳 あすなろ書房 2001/2003.11) 12世紀の韓国の、高麗青磁の名産地チュルポに住む少年モギとトゥルミじいさん。モギはみなしごで、同じく天涯孤独のじいさんと一緒に、幼児の頃から橋の下で、ゴミ捨て場からの収穫物と野草などを食べて暮している。だが、盗みと物乞いは決してしない。じいさんはモギを心から愛し、かわいがり、生きる知恵や「山を読む」すべを教え、おもしろく含蓄のある話をたくさん話して聞かせてくれる。 ひょんなことから、村で随一の陶芸家のミンの下働きになったモギ。たきぎ運びや粘土漉しなどの地味な重労働をこなしながら、親方ミンの手元をこっそりのぞき、いつか作ってみたい陶磁器を空想する。短気で職人気質で芸術家肌の気難しい親方に対して、奥さんは、おいしいお弁当を作って食べさせ、寒い冬には死んだ息子のために作った綿入れの服を着せてくれる。 チュルポの陶芸家はみな、宮廷御用達の焼き物師になるという、めったにないチャンスを夢見ている。あるとき、都から目利きのキム特別官が訪れるという噂が流れる。親方のミンももちろん、すばらしい作品をつくり、展示する。一方、人々の目をひいたのは、「象嵌」を焼き物に応用したカンの斬新な意匠だった……。 正しい生き方を示すじいさん、陶磁器一筋の親方、優しい奥さん、公正なキム氏など、モギをとりまく環境に悪意がないのがいい。モギがおそらくは天性の才能を、見習い修行の中で開花させていくすがすがしさと、すばらしい芸術品がひとの心を打つ真実とがたくみに組み合わさった、読後感のさわやかな、まっすぐに読者の心に響いてくる作品である。 いくつかのサイトで、後日談に出てくる「青磁象嵌雲鶴文梅瓶」を見てみた。写真では細かいところまでわからないのが残念。だが、希代の陶芸家の子ども時代を想像するのに、この梅瓶から強いインスピレーションを得たことはよくわかる。(鈴木宏枝/bk1) 『ロラおばちゃんがやってきた』(フーリア・アルバレス:著 神戸万知:訳 講談社 2001/2004.03) 子どもの頃にドミニカからアメリカに来たパパとママが離婚し、ミゲルとフアニータの兄妹はママと一緒にヴァーモントで暮らすことになる。アーティストのパパはニューヨークで一人暮らし。 肌の色も様々でヒスパニック系がたくさんいたニューヨークに比べ、ヴァーモントでは「ネイティブアメリカン?」なんて聞かれるし、なかなか友だちもできないし、冬は灰色で寒い。 冷えたミゲルの心を溶かし、おいしい料理と独特の人なつっこさと明るい愛情表現で生活を一変させたのは、ママのふるさとドミニカからママを心配して来てくれた大叔母さんのロラおばちゃんだった。素材も香辛料も違うドミニカ料理も、スペイン語と英語との飛び交う会話も、ドミニカ流の人付き合いも、ミゲルとフアニータの生活の中で魔法のようにじんわりと効いていく。 まず、当然、ロラおばちゃんの造形がとてもよい。「じゅうたん製のバッグ」から次々にいろんなものが出てくるところや、オウム型のお菓子入れなど、訳者の神戸さんもおっしゃっているが、メアリー・ポピンズを彷彿とさせる。 同時に、自分は結婚せずに幼い頃のママの面倒をみ、今またミゲルとフアニータをケアして大好きなドミニカから遠く離れているおばちゃんの心の奥底も想像してしまう。そして、ミゲルもそれを想像するからこそ、おばちゃんに「大好き」といい、おばちゃんへの愛情を見せるのだろう。 ママとパパの離婚。いつしか友だちもでき、リトルリーグに入団したこと。いくつものビックリパーティ。ニューヨークとヴァーモントのどちらもがふるさとになっていく感覚。絶対に変わらないことなんてないから、逆に大切なものは心から取りこぼす心配はないこと、心の中に生き続け、変化していくことを感じ取っていき、だけど、今はまだまだロラおばちゃんに一緒にいてほしいミゲルとフアニータの心の動きもていねいだ。何より、太陽のように明るいドミニカ文化がいいスパイスになっている。 アメリカ児童文学の中でも、ちょっと新しい、そしてどんどん出てほしいタイプの作品。(鈴木宏枝/bk1) 『家守綺譚』(梨木香歩:著 新潮社 2004.01) 明治時代を少し過ぎた頃が時代設定だろうか。場所は京都。疎水のほとり。大学卒業後に売れない物書きになった青年が、友人の父が引き払った後の家守を頼まれ、その家の手入れをしながら過ごしていく連作短編集。最初の筆致に夏目漱石を感じた。 その家に住んでいた友人は高堂。ボート部時代に湖で亡くなり、死体は上がってこなかった。彼の実家であるその家に、高堂青年もまた、掛け軸を道にしてしばしばおとのい、家守である綿貫と軽口をたたきあう。 綺譚の名の通り、ちょっと異界のものたちが日常生活の中でごく自然に家守の綿貫とふれあう。庭のサルスベリには好かれ、池に河童がいることもある。しかし、それがすべて「自然」。狸に化かされて狼狽することもあるが、そうでなければ飄々と「ふしぎ」を懐におさめていく綿貫である。かといって、必ずしもかっこいいキャラクターではなく、自分を客観的に見るたいそうユーモラスな目に思わず笑いがこぼれる場面もあった。 ストイックで、早世しながらも湖の姫のきっと御傍で心願成就なのだろう高堂、とぼけた和尚、不思議な味のある長虫屋、なんといっても、高堂が招き入れ、仲裁の名人かつ徳をよく積む犬のゴローなど脇役も名役ぞろい。 死後の世界への行きて帰りしは、大げさではないのにしんとした重みがあり、綿貫を現世につなぐ家のありかたと、すべてを見据えた高堂の視点がなんとも染み入ってきた。その俯瞰するまなざしは、多分に作者に通じる。(鈴木宏枝) 『村田エフェンディ滞土録』(梨木香歩:著 角川書店 2004.04) トルコのフリゲート艦が和歌山沖で座礁したさいに日本の警察や漁民が献身的な救助にあたってくれたことに感謝して、トルコ皇帝が日本の学者をひとり招聘してくれることになった、時代はたぶん明治。選ばれたのが考古学者の村田で、エフェンディというのは「学を修めた人」を敬するトルコ式の呼び方である。 とはいっても、村田はかちこちの学者ではなく、文献学オンリーだった当時の日本の考古学にあって、遺跡や古代の遺物との対話を楽しみ、現場を見ることを何にもまして喜びとするタイプである。ときに抜けていることもあり、ときに本当に人間らしく苦悩することもあり、好感のもてる明治のエリート。彼のトルコ滞在の間の話が、エピソードで次々に語られていく。 村田が滞在しているのは、ディクソン夫人というイギリス人女性が切り盛りする下宿で、他にドイツ人のオットー、ギリシア人のディミィトリス、料理人のムハンマドがいる。名脇役の鸚鵡、限られた人間語の語彙の中から、ひとの営みを熟知したような絶妙の合いの手を、(腹ただしいほどに的確に)下宿人たちの会話の中に、あるいは思索にふけるひとに叫ぶ。この鸚鵡が、村田の帰国後にディクソン夫人から来た手紙の中で、大戦の悲劇の中叫んだことが語られる場面では胸が打たれる。 この世ならざるものとの不思議な共存の感覚に、『家守綺譚』に通じる梨木さんらしさを思ったら、このような形で村田と綿貫と高堂が通じ合っていくところに、感動さえ覚えた。 ラテン語の引用句の的確さは、哲学を語ることばへの思いを感じる。『春になったら苺を摘みに』を彷彿とさせる夫人はいるが、しかし、englishnessではなく、やはり東西の交錯するトルコの土地柄や風土気候が感じられる書き方がいい。幸せな村田の学究時代が、トルコが大きく動く歴史のひとこまと重なっていく、そして、そこに、人間ひとりひとりの思いや行動があってこそその歴史が作られていくのだという確固とした視点がある。 とはいえ、(たしか、トルコはアタチュルクによって西欧化への大きな無血革命をした…ように記憶しているのだが)、時代の転換点の少し前に村田エフェンディが見たもの、血肉としたものは、歴史とか時代とか大風呂敷を広げる話ではなく、やはり、オットーとの、ディミィトリスとの、鸚鵡との、そして自分自身との対話という、ごく私的な物語の「織」であったのだろう。(鈴木宏枝) 『四国へGO! サンライズエクスプレス』(高森千穂:著 国土社 2003.11) 『レールの向こうへ』『ふたりでひとり旅』と、鉄道の旅と少年の成長を絡めた作品を書いてきた作者の3作目。鉄道や時刻表というモチーフが、よりバランスよく活かされている。 名字が同じ「大杉」で同じマンションに長く住んでいた親友の翼と翔。4年生になる前の春休みに翼が突然高知に引っ越してしまってから、いくら連絡をしても、翼から冴えない返事しか返ってこなくなった。気がかりでたまらない翔は一大決心をする。翼にもらった時刻表を読み、寝台特急「サンライズエクスプレス」で高知に行って自分たちと同じ「大杉」駅で再会しようと……。 「東京と高知、はなれているけど、ずっとレールでつながっているんだよ。」(p.13) 時刻表とにらめっこをしながら計画を立てること。旅支度をすること。初めての寝台特急に、一人旅、不安と興奮が交互にあらわれながらやりとげていく翔から翼への友情がすがすがしい。同時に、見知らぬ土地の子ども社会の中で、自分の立ち位置を模索していた翼にも共感できる。 離れている二人、つながっている二人、変わる関係を予期させながら、変わらないかもしれないものをありのままに大事にしたいという二人の意志そのものが尊重されている。 同世代の小学校中学年くらいの男の子に向くかもしれない。鉄道の旅や時刻表を読む楽しさを「読書」するというのはとてもおもしろいのではないか。綿密な数字できわめて精巧に組み立てられていながら、どこかファンタスティックな空想と楽しさも広がっていくからだ。(鈴木宏枝/bk1) 『魔法の声』(コーネリー・フンケ:作 浅見昇吾:訳 WAVE出版 2003/2003.12 1900円) 『どろぼうの神様』のフンケ作品。 今度は本を巡るファンタジー。 メギー12歳には母親がいない。本の修理人である父親モーによれば、消えたとのことだし、ずっと父親と二人だったからあまり気にも止めていない。が、ある日ホコリ指と呼ばれる男がやって来る。彼は父親を魔法指と呼ぶ。一体どういうこと? 父親は、本を読むと、物語の中から登場人物が出てくる不思議な力を持っていたのだ。ただし、その代わりに誰かが本の中に消えていく。母親もまた・・・。 本、そして物語の力が、冒険ファンタジーの中で語られていく。メタフィクションになるかと思えば、そこはフンケ、地に足付いた波瀾万丈であります。 本から抜け出てきた悪漢たちも含め主要登場人物の描き方は、かなり紋切り型なのですが、これは物語が物語を語ろうとするための軋みです。 物語の中に戻ることだけを願っているホコリ指は、その欲望だけで動きますから、この人はなかなかおもしろいです。 ストーリー展開の巧みさは改めて言うまでもありませんね。(hico) 『サトウキビ畑のカニア』(フレデリック・ピション:作 ダニエル遠藤みどり:訳 くもん出版 1999/2004.07 1300円) カリブの小さな島が舞台です。 様々な人種で溢れる中で、両親が黒人種なのに、肌が白っぽい人を「シャバン」と呼び、ます。主人公のジョエルは「シャバン」です。彼は学校でも差別を受けて孤独です。 物語はそんなジョエルがサトウキビ畑で見付けた捨て犬の面倒をみることで動き出します。この犬は、クレオール犬と呼ばれる、様々な地の混じった雑種です。ジョエルはこの犬にシンパシーを感じています。 物語はシンプルですが、この島の歴史的な背景も描きこまれていて面白いです。(hico) 『宇宙からやってきたオ・ペア』(エミリー・スミス:作 もりうちすみこ:訳 文研出版 1999/2004.08 1200円) 宇宙人の(あ、地球人から観たときね)アスリッドは、研究素材として、地球を選びます。この文明の遅れた惑星の生き物、人間を観察し分析し、リポートするつもり。 どんな方法で? 一方、ハリーの母親は、子守を募集中。海外からの留学生が住み込みでやってくることに。 もちろん、ハリーは、ゲェ!なのですが、やってきた子守はなかなか面白い女の人で・・・。 これが例の宇宙人です。 物語の中にも引用される『メアリー・ポピンズ』(と言っても原作ではなくディズニー映画)の宇宙人版です。 こうした、とてつもないわけではなく、ほどよく突飛な物語は、物語を好きになるための最初の一歩としていいものです。 大人が読んでおもしろいわけではありませんが、それは関係ありません。(hico) 『カンペキの味』(ローラ・ラングストン:作 亀井千雅:訳 ポプラ社 2002/2003.12 1300円) カナダ発の物語。 体に対するコンプレックスを持つのは思春期にはよくあること。エリンもまたそうで、毛深い足や背の高さに悩んでいます。「正しい」母親は、その悩みを理解してはくれません。自分に与えられた体を受け入れればいいと。けれど、エリンにしてみれば、これはかなり深刻です。そのことでいじめられてもいますし。 エリンはブリーダーをやっている祖母の所に行き、ドッグショーへ出場することとなるのですが、短いスカートで出なければならないなんて! 親友のキャシーが「徹底改造計画」を錬ってくれて、カンペキを目指すエリン。この辺りの10代の女の子の風景などなかなか巧いです。 とてもスタンダードな青春物語。 この挿絵はいらないです。(hico) 【研究】 『英語圏の笑いとユーモアの児童文学』(児童文学における笑い・ユーモア・ナンセンス研究会:編 2004.03) 白百合女子大学の「児童文学における笑い・ユーモア・ナンセンス研究会」による英語圏児童文学作品の解題集。「愉快」「笑い」「ユーモア」が児童文学に不可欠の要素であることは、誰でも直感的にわかるが、その「笑い」の多様性や受け取る読者の側の心性などと掛け合わせると、研究の領域が広がり、あるいは深くなり、児童文学の本質のひとつを探る試みになりうる。 この解題集では、研究会のひとつの成果ということで、はじめにユーモア・笑い・ナンセンスのカテゴリーありきではなく、5人のメンバーが選んだ作品の中のそれらを個別的に探っている。アルバーグ、リア、ドクター・スース、A.A.ミルンらの王道から、パターソンや「マインド・スパイラル」シリーズなどひねったものまで、取り上げられ方も興味深い。どの作品を選択するかではなく、そこに様々な形で潜む笑いやユーモアやナンセンスを考えることで、やがて大きな芯が見えてくるのかもしれない。笑いに限らず、作品紹介として読むのもおもしろい。(鈴木宏枝) 『少年たちのアメリカ―思春期文学の帝国と<男>』(吉田純子:著 阿吽社 2004.02) 『アメリカ児童文学―家族探しの旅』(1992)では、孤児を軸にアメリカ児童文学の少女たちが論じられた。本書では、アメリカの男らしさの神話、すなわち「地位と権威を認められ、それにふさわしい富とふるまいを身につけ、『女性的』なもの(生身の女性、いわゆる『女性的』属性、その他『男性的』なものから閉めだされたすべてのもの)に支配されず、かえって支配する、独立独歩型の男の属性」(pp.2-3)から、アメリカ児童文学の少年たちがいかにその形成に与したか、あるいはいかに不安を感じてそこから逃げようとしたり苦闘したりしてきたかを論じる。 第一章「オズの悩める男たち」(『オズの魔法使い』) 第二章「ぼくの母は猿でした」(『類猿人ターザン)』 第三章「影を殺した少年」(『ともだち』) 第四章「宇宙をかき乱す」(『チョコレート・ウォー』) 第五章「パワー・ゲームの喜び・哀しみ」(「ゲド戦記」) 第六章「チーズになった少年」(I Am the Cheese) 第七章「アジア、女と和解する」(『もう一つの家族』) 第八章「スラムで生きる」(Scorpions) 第九章「『アメリカの物語』を脱ぎすてる」(Fallen Angels) 個人的に特におもしろかったのは、男性性を何度も脱中心化し、時代と呼応して書き継がれてきたという「ゲド戦記」論である。ゲドが『影とのたたかい』で一体化した「影」はゲド自身のネガティブな側面であるだけでない。「古い『男らしさ』を体現する実の父親やヒスイの顔」であり、「彼らの顔に表される忌むべきものこそ、ゲドが自己イメージから排除し抑圧してきた影にほかならない」(p.131)という指摘と、同時代のホールデン少年の結末との比較は新鮮。「女性性を恐れていたゲドは、こうして、『母語』による物語の行為をつうじて、バランスのとれた男性性を再構築する」『こわれた腕輪』(p.135)、ゲドと共に旅をするアレンに新しいタイプの男性像の萌芽をみる『さいはての島へ』、女性的なものと和解し、男が作り上げてきた文明の埒外におかれた者たちの目から自らの男性性を再構築した『帰還』。『アースシーの風』では、個人レベルで自己矛盾を昇華してきたゲドが目にするのは、アメリカン・アダムたちが作り上げてきたものの解体と、いわば世界のリバイズである。おそらく、『ゲド戦記外伝』の個々の物語も、その延長・補完として考えられるだろう。フェミニズムの文脈ではよく読まれてきたゲド戦記を、そこからではむしろ一面化して考えがちな「男性性」によって見直すと、その時代時代の像や、アメリカが国家として抱える悩みや矛盾までも炙り出されてくる。 同様の、「男性性」からのアメリカ児童文学の各少年・青年たちの物語の読み解きは、この分野で<女性>がしばしば論じられるのに対して比較的少ないことからも、きわめて示唆に富んでいる。(鈴木宏枝) 【評論】 『きむら式 童話の作り方』(木村裕一:著 講談社現代新書 2004.03) 自作をまないたに乗せながらのエッセー風な童話論。もとの童話を知っていても知らなくても、その創作過程を聞くだけでもひとつのものがたりだ。「童話の書き方」といいつつ、書き方のハウツーではない。他者を意識したとたん、持てる力が出せなくなるエピソードなど、人生や仕事全般にあてはまる文言がたくさんあり、様々なアクティビティに応用できる。作品を読んでいれば、もちろん、ガブとメイが作者でどんな位置にあるのか、たくさんのあのヒット作がどこから生まれたのか深くうなずいて知ることができる。まるで飲み会で秘密の話を聞いているよう(に感じさせる)おもしろさ。(鈴木宏枝) 『ライトノベル完全読本』(日経BP社 2004)刊行に寄せて 近年、ライトノベルへの関心が急速に高まりつつある。大塚英志のライトノベル論『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書)が刊行され、「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」をうたった雑誌『ファウスト』(講談社)が創刊されたのが2003年。後者は、投稿資格が1980年以降の生まれであることからもわかるように、ライトノベル世代をターゲットにしている雑誌だ。芥川賞候補になった舞城王太郎をはじめ、西尾維新など、今をときめくライトノベル系の作家が目白押しである。 児童書業界もまた、ライトノベルを意識していると思われるレーベルを立ち上げている。たとえば、「YA!entertainment」(講談社)が2003年(はやみねかおる「都会のトム&ソーヤ」シリーズなど)、「カラフル文庫」(ジャイブ)が2004年に(風野潮『森へようこそ』など)、それぞれ創刊された。児童書業界にとっても、ライトノベルは無視できないジャンルになりつつあるようだ。 このような状況のもと、ライトノベルのガイドブックである本書がようやく刊行されるに至った。日経BP社は雑誌『日経キャラクターズ!』を刊行している出版社(本書は「日経キャラクターズ!別冊」)。Web上では、『このミステリーがすごい!』(宝島社による年度別ミステリー・レビュー誌)にちなんで、「このライトノベルがすごい!」(http://www.maijar.org/sugoi/index.html)というホームページが2004年4月から立ち上がっていたが、季刊誌『活字倶楽部』(雑草社)等のレヴューを除けば、冊子体ではおそらく初めてのライトノベルのガイドブックだと思う。 さて、コンテンツだが、「2003年度ライトノベルランキング」についてのみレビューすることにしたい。 1位の今野緒雪「マリア様がみてる」シリーズ(コバルト文庫)は、百合系(姉妹愛を基調とした女の子同士のラブストーリー)の少女小説を押さえる上で必読書。10位以内に、「キノの旅」シリーズ(電撃文庫)と「アリソン」全4冊(電撃文庫)の2タイトルがランクインした時雨沢恵一は、男女を問わず人気がありそうだ。5位の西尾維新「戯言」シリーズ(講談社ノベルス)、20位のうえお久光「悪魔のミカタ」シリーズ(電撃文庫)は、「萌え」て「痛い」タイプの作品だ。読者を選ぶかも知れないが、ライトノベルのエッジを形成しているシリーズで目が離せない。個人的には、2位にランクインした秋山瑞人「イリヤの空、UFOの夏」全4冊がお勧め。ボーイ・ミーツ・ガールが好きな方はどうぞ。読ませます。 ちなみに、秋山瑞人は児童文学評論を盛り上げてくれている金原瑞人の創作ゼミの出身者(本書所収の金原「小説創作ゼミとは」に詳しい)。実際、書評子が非常勤先で担当している児童文学のゼミでも創作はありなのだが、小説志望の学生の多くがライトノベルをモデル(スニーカー文庫、富士見ファンタジア、コバルト文庫など)に創作に励んでいる。創作志望の若い世代のライトノベル指向は思いのほか強いようだ(meguro)。 |
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