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【絵本】
○詩人と絵本
「悲しい本」マイケル・ローゼン作 クェンティン・ブレイク絵 谷川俊太郎訳 (あかね書房 2004/2004.12)
「くうきのかお」アーサー・ビナード構成・文 (福音館書店 2004.10)
詩人と絵本はなかなかに相性がいい。絵本の翻訳で独特の存在感を表わすのが詩人の訳に多いし、絵本の創作を手掛ける詩人もいる。今月はそんな詩人の絵本とでもいうべきものが2冊あった。
「悲しい本」はイギリスの詩人が手がけたテキストにブレイクが絵をつけ、谷川俊太郎が日本語にしたもの。この絵本のテキストが物語ではないことは、ページをめくるごとにこぼれてくる言葉がそれぞれに独立しているのに、引きずり、いくつもの断絶をはらみながら、つながっているところでわかる。これを絵本として成立させているのはブレイクのページ構成のうまさとユーモアと絶望の両極をつむぎだす線の自在さだ。子どもを亡くした男のうつろいやすい感情の起伏によりそい、たまには違う視点を加えて、立体的に描き出していく。そのことでひとりの男の心が、すべての人のものへと広がり、またひとりの姿へと帰っていくのだ。詩の言葉はモノローグでありながら、ポリフォニックでもあるから。
「くうきのかお」は<びじゅつのゆうえんち>シリーズの中の一冊。けれども、他のものとずいぶん感じが違う。絵の中の空気を見るということは、描かれる対象そのものではなく、周囲を感じるということだ。絵を見るというと、描かれる対象に焦点を合わす解説がほとんどなのだから、それだけでもこの絵本の目指す方向が違っていることがわかるだろう。ゴッホの糸杉の絵につけられたテキストは「だれもいないと おもったら くさも きも とおくの やまやまも みんな くものかおを みあげている」というものだった。ゴッホのうねるような短い筆のタッチを「脈」打っていると感じ、そのダイナミックな動きを見上げていると表現したのだろう。見立てとはまた違った、絵画への没入のしかただと思う。どの絵からも詩人は、空気を読み、空気を読むことで描かれるものたちの関係性をあらわにし、そこに自分の呼吸をあわせることで絵の中に入っていこうとしているかのようだ。こういう絵へのアプローチの仕方は刺激的だ。短いセンテンスの積み重ねに、身をゆだねると、思ってもいなかった場所につれていかれる。それは、詩を読むことの醍醐味でもある。(ほそえ)
○その他の絵本、読み物
「ちいさなもののやすらぐところ」(マーティン・ワッデルぶん ジェイソン・コックロフトえ 小川ひとみ訳
評論社 2004/2004.10)
キリスト生誕のお話を次々と納屋にやってくる動物達をメインにして描き出した絵本。大判の絵本いっぱいに描かれる動物達の絵が迫力。納屋で一夜をすごす動物も、納屋で生まれるキリストも小さなものとして同様に見ている目がある。それがきちんと伝わってくる。(ほそえ)
「パパとママのたからもの」(サム・マクブラットニイぶん アニタ・ジェラームえ 小川仁央訳
評論社2004/2004.9)
かわいい3匹の子クマたちが、パパとママは皆の中でだれが一番好きなのだろう、と思いをぶつける。みんなのなかで鼻のまわりの色が違うお兄ちゃん、ひとりだけ女の子だと気にするお姉ちゃん、一番チビ助だってことが気になる末っ子。でも、それをあたたかく受けとめて、皆がそれぞれに一番大事な宝物だと伝えていく。子どもには何度聞いても安心の絵本。(ほそえ)
「ミラクル ベイビー」(サイモン・ジェームズさく 小川仁央訳 評論社 2004/2004.11)
超天才赤ちゃんがしゃべり、読み、学校にいき、お医者さんになり、とうとう宇宙飛行士にまでなってしまう! でも、宇宙でひとりぼっちになった時、やっぱり、赤ちゃんは赤ちゃんだった。なんとも人を食ったような展開のお話だが、嫌みじゃないのは、サイモン・ジェームズの絵の力。オチもふふっと笑えるし、親の目で読めば、そうだわねえとしんみり。でも、子ども達は小さな赤ちゃんの活躍にびっくりしながらも応援し、なりたい気持ちを育てます。(ほそえ)
「ゆきだるまのかぞえうた」ひろかわさえこ作、絵 (あかね書房 2004.11)
もりのうさぎのうたえほんも3作目。雪だるままつりで皆で雪だるまを作る時、数え歌が出来上がります。うたは広場中に広がって、愉快な雪だるまがたくさん。うたいやすくてシンプルなメロディー。うたとおはなしの結びつきがスムーズでうたがお話を引っ張る力になっているところが良いなあと思います。(ほそえ)
「くりの木のこと」(島本一男作 ひろかわさえこ絵 アリス館 2004,10)
50年もの間、園庭で子ども達と共にあったくりの木。それを切らなくてはならなくなった時、子ども達と園長先生がしたことを順々に描いています。切ることを最後まで反対していた子、うたを作る園長先生、くりの実を植木鉢にうえて、育てようとする子ども達。状況と子どもたちから目を放さずに、きちんと向かい合ってきた様子がよくわかります。その分、お話としては淡々とはしていますが、丁寧に読んでいけば子どもに伝わるでしょう。そういう時、うたは良いなあと思います。(ほそえ)
「ちいさなしろいさかなの 10ぴきみーつけた」(ヒド・ファン・ヘネヒテンさく ひしきあきらこ訳 フレーベル館 2004/2004.11)
カウンティングブックとめくってさがすフラップブックが合体しているのが、おもしろい。カウントするときも小さな子では一つ一つ指でさすという行動が伴うのだが、そこに水の中の生き物がどこにいるのか探すという行動も追加されるため、楽しめる年齢の幅を広げられたように思う。(ほそえ)
「ベルベットうさぎのなみだ」(マージェリィ・ウィリアムズ原作 ルー・ファンチャ−文 スティーブ・ジョンソン&ルー・ファンチャ−絵 成沢栄里子訳 BL出版 2002/2004.11)
「ベルべティーンラビット」は日本でも早くから翻訳され親しまれてきた絵童話(この絵は強い印象を残すのだが、やはり挿画としてであり、本の造りも絵本とはいいがたい)だ。これを幼い子どもに向けてお話を短くして絵を豊富に入れて絵本化したのが本書。オリジナルがきちんと今も手に入るのに、どうしてリライト版を出すのかしら?と不思議に思い、手にとったが、ファンチャーのあとがきを読んで、そうだよなあと思った。この子供部屋の不思議を心から信じられる年齢の子ども(まだファンタジーに生きる子ども)には、オリジナルのままでは、むずかしすぎるのだ。こういうことは古典作品を幼い子どもに読んで聞かせたい時にはよくぶちあたる問題。そういう時、私は適当に読みながら、言葉をかみくだいて説明したり、絵に沿ってお話したり、文章を飛ばしながら読んだりしていた。いわゆる良識的と(自分で)思っている読み聞かせの人が聞いたら、ぶっとんでしまう読み方だろう。でも、目の前の子どもの興味や発達に合わせて、少々変型しても、その時期に読んであげたい本というのは実際にあるのだからしょうがない。だからこそ、「長くつしたのピッピ」が絵本のかたちで出た時に大喜びしたのだし、本書も一緒に読んでなるほどなあという思いを深くしたのだ。(ほそえ)
「おひさまホテル」(エーリッヒ・ハイネマン文 フリッツ・バウムガルテン絵 石川素子訳 徳間書店 2000/2004.12)
ドイツの古典絵本の復刻版を絵を生かした形で翻訳出版した絵童話。原本は絵本の形だけれど、テキストとても長いので、読みやすくするために日本語版では絵童話の形になっているのだと思う。お話は野原にすむ小人のトリーが小さな動物達や虫達が気持ち良くすごせるためにと野原にホテルを建てるところから始まる。アリに手伝ってもらったり、ねずみのコックさんにごちそうを作ってもらったり、生き生きと小さなものたちの暮しを描き出す。ドイツのむかしのお話らしく、作中でうたもいくつも歌われて、ファンタジーの中に自然の営みがとけこんだお話になっているのがいい。どのページもおひさま色でイラストも全てカラー。少し長いけれど、小さな子から読んであげたい。きっと野原に出かけた時に小人のトリーやおひさまホテルを見つけだすと思うから。(ほそえ)
「こねこのチョコレート」(B・K・ウィルソン作 小林いづみ訳 大社玲子絵 こぐま社 1964/2004.11)
長い間お話会でストーリーテリングとして語られてきたお話を絵本化したものという。語りつづけられ、多くの子ども達に愛されてきただけのものがある。それは子どもの気持ちの真実が形になっているからだ。弟の誕生日のプレゼントに小さな猫のチョコレートが8つ入った箱を買ったジェニー。自分の部屋にかくしておくうちに「ひとつだけ…」と思いながら、どんどん食べてしまう様子に、わくわくしたあとの、翌日の情けない気持ち。そして、それがストンと、きれいにおさまってしまう絶妙なラストに安心して、心からあ〜よかったあと、安堵する。この動きの見事さ。絵本という形にしてはさっぱりとした絵で物足りないかしらと思ったのだが、これだけの強さのあるお話だと気にならないもの。(ほそえ)
「みんな ぼうしをかぶってた」ウィリアム・スタイグ作 木坂 涼訳 (セーラー出版 2003/2004.10)
96才で亡くなったスタイグの遺作となった自伝的作品。8歳の子どもの目でみた両親、不思議な御近所さん。ヨーロッパでは第一次世界大戦がおきていて、両親の故郷からは時折悲しい知らせが届く。子どものスタイグにはどうしたらいいか、わからない。かすれても気にしないペンの線に水彩の太い筆跡の残る色。ラフで子どもの絵みたいなデフォルメで、でも的確に描かれた人やものたち。どんどん自在になってゆく。これが最後の絵本になるのかと思うと、なんとも寂しい反面、多くの絵本を描いた後に自分の子ども時代を振り返ったものが書けたのは幸せだったのだろうなとも思う。(ほそえ)
「ポップコーンをつくろうよ」(トミー・デ・パオラ作 福本友美子訳 光村教育図書 1978/2004.11)
パオラにはちょっと実用的なテイストの絵本もたくさんある。「ぼくときみのねこの本」(ほるぷ出版)ではいろんな猫の種類や神話、伝説をコンパクトにまとめ、猫を飼ってくれる人を探すサイドストーリーもきちんとおさえていたし、本作でもポップコーンを作っている間に、手際良く歴史や民話や神話、ちょっとしたお助け情報を教えてくれる。親しみやすい鉛筆のやさしい線と淡彩で懐かしいような感じ。(ほそえ)
「ロッテ おひめさまになりたい」(ドーリス・デリエ文 ユリア・ケーゲル絵 若松宣子訳 理論社 2004/2004.11)
保育園にいく前に着ていくお洋服でごねるのは、女の子にはよくあること。それにつきあうイライラは仕事をしているお母さんならだれでもわかる。たいていは女の子はお母さんにいいまかされ、言いくるめられて渋々いわれたお洋服を着ていくはめになるのだが、この絵本のロッテは手強い。とうとう、お母さんもお姫さまの格好でお仕事に。ラストのオチでふふっと笑えるのは一緒に読んだ大人の方かな。でも、そこにいたるまでの攻防とその成果にもう、こどもはくらくら。トンガリの効いた絵と子ども本位のテキストは最近には見られない生きの良い感じ。(ほそえ)
「こぶたのブルトン ふゆはスキー」(中川ひろたか作 市居みか絵 アリス館 2004.11)
冬はやっぱりスキーでしょう、とのんびりお部屋でいっていたこぶたのブルトンが、あれよあれよというまにジャンプ競技に出てしまう、そのとんでもなさに大笑い。わきを固める「なんとかなるって」というばかりのいたちのアンドレ、列車の中で突然こたつを組み立てるだるまの高崎さん、おこりんぼなのに小心者のこうていペンギン。それぞれのキャラクターにのっとってドンドコお話が進んでいきます。表情豊かで、のびのびとしたイラスト。文章との呼吸も見事にきまっていて、ページ構成も緩急自在。(ほそえ)
「わにのスワニー なぞなぞえほん」(中川ひろたか作 あべ弘士絵 講談社 2004.11)
わにのスワニーシリーズ番外編。おなじみのキャラクターわにのスワニーとしまぶくろさん、いわだぬきくんが新しくできたというなぞなぞランドに出かけてみると……。お話のまん中くらいから見開きに5つか6つくらいのなぞなぞがあり、動物、虫、魚、植物にちなんだなぞなぞランドと、迷路が載っています。なぞなぞをこたえたあとも、しまぶくろさんの珍回答を見て、2度楽しめます。(ほそえ)
「ターちゃんのてぶくろ」(大島妙子作 ポプラ社 2004.12)
お母さんが作ってくれたターちゃんの手袋。右手は男の子で、左手は女の子の顔をしています。うれしくって、うれしくって、一緒のベッドにねるくらい。そうしたら、夜中にこっそり手袋たちがお散歩に出ていってしまったのです……。雪の中の手袋たちの絵がいい。雪明かりの夜の薄明るい夢みたいな感じが伝わってくる。お話はここからが急展開。あれあれ、ひゃあ〜とびっくりさせられますが、すてきな助っ人が出てきて安心のラストへ。雪がつれてくる不思議の時間があたたかく描かれ、こんなことあったらいいな、楽しいな、という小さな子の思いがふくらむ絵本。(ほそえ)
「最後のおさんぽ」(大島妙子作 講談社 2004,12)
銅版画で描かれた小さな言葉少なな絵本。背中に小さな天使の羽をつけた愛犬と天国へ向かって最後のおさんぽにでかけるわたし。シンシア・ライラントは「いぬはてんごくで」(偕成社)で、犬だけ先に天国で暮らし、後から来る飼い主を待っている様子を描いていたが、この絵本では、天国まで一緒にいく、その道中を描いている。思いは過去をいったり来たりし、ゆっくりゆっくりのぼっていく。てれたような線の小さな絵に、あふれてくる思いをぽろぽろとした言葉にして置いてある。いなくなるということをこんなにあたたかくとらえ直した絵本があったかしら。(ほそえ)
『ラマレラ・生命の物語 クジラにいどむ船』(小島 曠太郎写真・文 えがみ
ともこ写真・文 ポプラ社 2004.08 1300円)
くじらを捕獲するラマレラ村の人々の暮らしを追う、シリーズ3巻目。
今回は、プレダンと呼ばれる漁船に焦点を当てています。それは命の次に大切なもの。なのに2船が失われました。村人は新しい船を造ることに。
その過程と、初船出までの儀式などが伝えられます。
前2作より地味ですが、村の暮らしの大事な一部が、切り取られています。(hico)
『悲しい本』(ローゼン作 ブレイク絵 あかね書房 2004.12 1400円)
愛する者を失った悲しみ。
深い絶望が、静かに描かれています。
その正直な描かれ方は、ときにユーモアをも生み出し、生きることへの愛おしさを感じさせてくれます。(hico)
『どこ? もりのなかの さがしもの』(山形明美:作 講談社 2004.11 1400円)
前作『つきよの ばんの さがしもの』に続く第2弾。
今回も丁寧につくられたジオラマが見事です。
ジオラマは本物に近づけば近づくほど、凡庸になり、かといって荒唐無稽ではジオラマにあらず、その作り込みのセンスが問われるものですが、たった一つのジオラマではなく、それで絵本を作ってしまえる作者の腕は確かです。
単純に見ているだけで、ありそうでなさそうな不思議な世界が楽しい。
ああ、そう言っている場合ではない。探さねば!
そいつがまた、散歩しているようで楽しい。
時間を掛けて眺め続けることができます。
あきないんだわ。(hico)
『さみしがりやのサンタさん』(内田麟太郎:作 沢田としき:絵 岩崎書店 2004.10 1300円)
子どもたちにプレゼントをし終えたサンタさん。家に帰って、ほっと一息。プレゼントに喜ぶ子どもたちを想像するのは楽しいけれど、いつもプレゼントするばっかりは、チト寂しいような・・・・。
仕事を終えたサンタさんにスポットを当てたのが、内田の勝利です。
画は、クリスマス的な華やかさからは遠い沢田ですが、それがストーリーに合っています。(hico)
『おい、カエルくん』(ピエト・フロブラー:さく ごうど まち:やく オリコン・エンタテインメント 2002/2004.11 1500円)
NHKの『夢りんりん丸』で紹介された絵本を、朗読CD付きで出版するシリーズの中の一冊。
というと、「なんだ企画物、おまけCD付きか」と思う方もいるでしょうが、どうしてどうして、なかなかいい作品がそろっています。表紙に「『夢りんりん丸』世界の絵本シリーズ」って書かれているのは要らないと思います。この情報は帯で十分伝えられているので。そのためにせっかくの表紙がきたなくなってます。絵本は表紙が命です。
さて、絵本の中身。
舞台はアフリカ。あんまりあついので、カエルくんは水を飲む。飲む、飲む、飲む。で、みーんな飲んでしまった。水ぶくれカエルです。
水が無くなって困った動物たち。カエルくんになんとか水をはき出させようと試みる。
んなあアホな、ですが、カエルが水ぶくれまで飲んでしまうのは、想像すると、あってもいい状況だし、またそれをはき出させようとするのも、切実なだけになんだかおかしいし、この荒唐無稽さが、画面にはじけています。
子どもは喜びますよ、これ。いや、私も喜んだ。(hico)
『サンタさんがサンタさんになったわけ』(スティーヴン・クレンスキー:さく S・D・シンドラー:え ごうど まち:やく オリコン・エンタテインメント 2002/2004.11 1500円)
『おい、カエルくん』と同じシリーズ。季節物です。
『さみしがりやのサンタさん』は仕事を終えたサンタさんの物語でしたが、こちらは、彼が、サンタという仕事に何故就いたのかを描いていて、そんなにどんでん返しがあるわけでもなく、極めて真っ当に、その道筋をたどっているのが、逆に笑わせてくれます。
子どもたちはサンタさんを好きなので、そのサンタさんがどうしてサンタさんになったかという道筋を知りたいのは当然で、この絵本はそこに応えてくれています。
画はいかにもアメコミっぽくて軽く、すんなりと読めます。(hico)
『歌う悪霊』(ナセル・ケミル:ぶん エムル・オルン:え カンゾウ・シマダ:やく 小峰書店 2001/2004.10 1800円)
北アフリカの昔話を絵本化。
昔々、貧しい農民。父親は一家を救うため、ある土地を耕すことを決心。そこは、悪霊が住んでいて、災いをなすという伝説があるのだが・・・。
ところが、耕そうとすると、悪霊が出てきて手伝ってくれます。悪霊は頼み事をするたびに倍々に増えてはいくのですが、手伝ってくれるのだから、そんなに悪くないかも知れない。
もちろんそんなことはありません。
むき出しの昔話。迫力いっぱいで、すばらしい! 画もそれに応えてます。いいぞ。(hico)
『まっくろけ』(北村想:作 荒井良二:絵 小峰書店 2004.11 1300円)
小学校2年生のたっくんのおとまだちは、大人のグウさん。墨絵師です。たっくんに留守番を頼んだグウさん。絶対に使ってはならない墨があると言われると、使ってしまうんです。
当然。
その墨の謎とは?
そこには寓意がありますが、それはあまり気に掛かりません。ただただまっくろけを楽しめば吉。(hico)
『パンタのパンの木』(そが まい・さく 小峰書店 2004.9 1300円)
パン好きのパンタくんが「パンの木」の種を植えたら、木が生えてきて、メロンパンがいっぱいなっている。でも、カラスがやってきてみんな取っていってしまう。
というパターンの連鎖です。色々なパンが実って楽しいです。でも、展開がリズミカルでなく残念。カラス、イタチ、オオカミ、二人の女の子、ネズミというのはちょっと読みが止まってしまう。
ラストも、もう一工夫。(hico)
『ようかいアニミちゃん』(荒井良二 教育画劇 2004.07 1800円)
ポップアップ絵本ですが、ポップアップのためのポップアップ物ではなくて、物語の展開上、自然にポップアップなのが、買い。
妖怪でしょ。だから、
ポップアップで、恐い恐い、なんですよ。
わかりやすい!(hico)
『ボサいぬくんの かゆ〜い いちにち』(ディビッド・ベッドフォード:ぶん グウィネス・ウィリアムソン:え きむらゆういち:やく くもん出版 2001/2004.12 1400円)
とにかく、かゆい、かゆい。けれど、シャンプーなんかしたくない。杖やブラシや色々な物でかいてもらうけれど・・・。
かゆい。かいてもらう。まだかゆい。の連鎖物です。
言葉のリズムがいいので、ほんとうにかゆいです。
画は、物語をはみ出すでなく、その通り。そこが不満ですが、この仕上がりならOK。(hico)
『おおきくなりたい ちびくまくん』(ディビッド・ベッドフォード:ぶん ジェーン・チャップマン:え まつなみふみこ:やく くもん出版 2001/2004.11 1400円)
早くおおきくなりたいし、でも、いつまでもママの子どもでいたい。そんな気持ちが、動きのある画とともに実にリアルに描かれています。
しかし、たとえシロクマの子育てが母熊によってなされるからといって、それを擬人化して描いてしまうと、そこには見えにくいジェンダーバイアスがかかってしまうことは、意識しましょう。
この辺り、擬人化絵本トータルで考えたいです。(hico)
『ロッテ おひめさまになりたい』(ドーリス・デリエ:文 エリア・ケーゲル:絵 若松宣子:訳 理論社 2004/2004.11 1400円)
またまた、強情な女の子の登場。
朝、おかあさんが着なさいという服が気に入らない。どう言っても、気に入らない。今日はおひめさまの服装がいい。
おかあさんは仕事に行く時間が迫っているし・・・。困った困った。
ここからがいいのですよ。親子が同志になるの。
画もロッテの想像をもっとひろげた感じで、楽しいこと!(hico)
『絵描き』(いせ ひでこ・作 理論社 2004.11 1500円)
絵描き、いせの旅と思索をたどる画集。
静かです。熱いです。穏やかです。あふれています。
子ども向けではない絵本ですが、絵本好きの子どもがフト読んでしまったら、その子は、絵本作家になりたくなる仕上がりです。(hico)
『わにのスワニー なぞなぞえほん・どんなもんだい!の巻』(中川ひろたか・作 あべ弘士・絵 講談社 2004.11
1400円)
シリーズ4作目。
アホくささが、相変わらず好調です。
強引です。
そこに笑いが生まれます。(hico)
【創作】
『チューリップ・タッチ』(アン・ファイン作 灰島かり訳 評論社 1996/2004.11)
暴力と絶望しかない家庭で育った少女チューリップの心の傷の深さと、それに由来する邪悪さを、8歳で転校してきてから彼女に「とりつかれてしまった」ナタリーの視点で描く。題の「チューリップ・タッチ」は、絶対的悪意のあるふるまいをするときのチューリップ流のやり方、程度の意味になるだろうか。
チューリップは、人の気持ちを傷つけ、トラブルをひきおこそうとたくらむとき、そして炎を見つめるときだけ目を輝かせる。炎は、あらゆるものを燃やし尽くす力、殺す力だ。それに惹かれるチューリップの内面は、真っ黒な中に浮かび上がる目玉によって表現され、その「自画像」が表紙絵になっている。
チューリップは、凝視され、監督され、通過される。チューリップの問題はチューリップだけに還元され、彼女に根本的に介入しようとする人間は登場しない。問題児ゆえに注意を引くが、その底知れぬ心の闇の深淵に分け入ろうとする者はいない。チューリップは据え置かれ、周囲の人々は彼女を通過していくだけである。チューリップは、裏切られた思いにいっそう悪意を募らせていくだけである。ナタリーもまた結果的にチューリップを通過した一人であるが、そのことによって、一生罪の意識を抱え込むことになった。
大人たちは、ナタリーが叫んでいるように、ナタリーをいつのまにかチューリップの専門家にしている。ナタリーの声に目を伏せ、自分の場を侵食されるのを拒む彼らの姿もまたリアルである。
読み終わった後にも、読者の頭の中にチューリップがとどまり続ける。出版当時に原書を読んだときも衝撃的だったが、8年経って、成人したはずのチューリップは、子ども時代とどう折り合いをつけただろうか。
(鈴木宏枝/bk1)
『おわりの雪』(ユベール・マンガレリ作 田久保麻理訳 白水社 2000/2004.11)
<父と子、死と記憶、季節のうつろい――メディシス賞受賞作家による胸にせまる小説/「トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ。そう、ぼくは、その鳥がどうしてもほしかった」>というのが帯の文句である。トビというのは鳥のトビのこと。
雑多な品々を売るディ・ガッソの店で、鳥かごに入れられて売られていたトビを見てから、「ぼく」はそのトビが欲しくてしかたなくなり、毎日、アルバイトの帰りにブレシア通りに寄り道するようになった。
「ぼく」は、養老院で老人たちと一緒に散歩をするアルバイトをしていて、空いた時間には、養老院の管理人のボルグマンとコーヒーを飲むのが好きな少年である。老人たちにもらったお金の半分は母さんに渡す。3人暮らしのアパートでは、死期のせまった父親が一日中寝ている。
子ども時代の、本人にしかその重要さが分からない「細部」と、終わりゆく子ども時代の節目という「大局」が、同じしんとした白い静けさの中で語られる。その中で、「ぼく」の空想は、とても饒舌だ。
冬になってから「ぼく」は、老人との散歩とは別の「仕事」をして、トビを買うための大金を手に入れる。その「仕事」の、誰が悪いのでもないかなしさと、白く寒い雪原と、犬の足跡と、歩き続けたその足の痛みがとても印象的だった。
淡々とした物語は、語りと空想によってリズムを持つ。「ぼく」が空想を織り交ぜて作り上げたトビ捕りの物語は、病床の父親に語り聞かされ、父子の時間をつなぐ。
「仕事」だけでなく、発作時の父を見る怖さや、夜にそっと家を出て行く母の気配など、親の知らないところでいろいろなものに傷つきながらも、「ぼく」の大切なものは損なわれない。「仕事」で得たお金で「ぼく」が買ったトビは、ともしびのようにアパートで生命力を輝かせる。おそらく母が、厄介な雑事を引き受けているのだろうが、父子のおわりの日々が純化され、それをトビがつぶらな瞳で見続けていたことに、なんだか安堵してしまった。
あのころぼくが語った話は「ほんとうの話」の影とか、鏡像のようなものだった。つまり、「ほんとうの話」とよく_似たなにか_(傍点)だった、と。(p.18)
いまでもときどき考えることがある。あれはぼくが実際にしたことなのか、それともしたいと思っただけなのかと。どちらでもおなじことだ、そう思うのがぼくは好きだ。そして、そう思って満足する。(p.150-151)
(鈴木宏枝)
「メネッティさんのスパゲティ」ケース・レイブラント文 カール・ホランダー絵 野坂悦子訳 (BL出版 1964/2004.11)
オランダで40年もの間読みつがれてきた童話。劇化され上演されたり、90年には復刻されたり、とオランダ児童文学の傑作として知られてきた作品がようやく翻訳された。その語り口は少し時代がかってはいるが、なんでもひょろりと細長い、住んでいる人も細長い、不思議な町が舞台なのだから、その独特な世界に入っていくには良い仕掛け。細くて長いおいしいスパゲティを作って売り始めたメネッティさん。それを食べはじめるととまらなくなって、どんどんふとって、終いには家から出られなくなる人もでてくるしまつ。となると、メネッティさんがスパゲティを売るのが悪いんだ、と町の人たちから追放されてしまい……。このお話から集団心理の愚かしさを指摘するのは簡単だけれど、まず、お話の舞台のユニークさ、それを視覚化することでさらに、お話を身近に、そして少し優越感を持って読み進むことができるよう、工夫されたおもしろさが長く子どもたちに支持された要因だと言える。おいしくて、おかしくって、今の子どもたちにも魅力ある本になっていると思う。(ほそえ)
「となりのこども」岩瀬成子作 (理論社 2004,12)
麻智も久美も由希も美樹も愛も理沙も竹男も沢田君もあずさちゃんも、この短編集に出てくる名前のだれもが私の中にいる。そういうふうに思えてくる。それがこの本のすごさだ。こどもというのはいろいろなのだけれど、でも誰にでも共通する空気があって、それを様々なシチュエーションで描き出してくれているように思えた。この子どもたちはそれぞれに生活を営んでいるのだが、作品ごとに微妙にそれが重なり、連なって、一冊の本の世界として、子どもという存在のやるせない感じ、寄る辺ない感じが立ち現れてくるのが、深い。なかでも「あたしは頭がヘンじゃありません」は老人ホームに入った一人暮らしの花井さんのモノローグで綴られる短編が特に印象的だった。この話だけ大部分、老人の独り言になっているのが他のものと違うのだが、でも、語り口に違和感がない。子どもと老人は近しい存在なのかもしれないけれど、ここでの竹男くんとのやりとりはとても美しく、安心感がある。すきだ。竹男くんのおばあちゃんのサワノさんもいい。機転がきいて、よく見ていて、きちんと行動する。老いの人たちの存在感にくらべ、親たちの軽さはどうだろう。子どもよりも軽くしか生きていないように見える。子どもたちの寄る辺なさはここからくるのだろうか。自分の心をのぞくだけでなく、その在り方がどういうふうに子どもやまわりに関わっているか、それを見ていきたい、と思わせてくれる本だった。(ほそえ)
『ジャッコ・グリーンの伝説』(ジェラルディン・マコーリアン作 金原瑞人訳 偕成社 1999/2004.11 1600円)
お姉さんにいつもやりこめられているフェイリム。ネコが飼いたいのに、飼わせてもらえない。フェイルムは心の中でネコを飼う。想像の中で楽しむ。と、想像の中にしか存在しない不思議の住人達が現れる。彼らは言います。
「わしらを救えるのは、おめえひとりなのだ、ジャッコ・グリーン!」
自分はフェイリム・グリーンであって、ジャッコ・グリーンではないと怖じ気づくフェイリムですが、「生まれくるもの」から世界を救う旅にでることに。
「どうしてぼくなんだよ?」って疑問と不安の中でフェイリムがどう、ジャッコとなっていくかが読みどころ。」
神話・伝説・昔話の住人たちが活き活きしています。濃いです。「冒険」は、痛快ではなく、むしろ重い。そこがリアルなんです。(hico)
『おわりの雪』(ユベール・マンガレリ:作 田久保麻里:訳 白水社 2000/2004.11 1600円)
とてもピュアな物語。フランスの小さな町。寝たきりの父親の年金で生きている父と息子。少年は、少しでも生活費を捻出するために、養老院で散歩の付き添いをしている。
古道具屋で出会ったトビに少年は魅せられる。でも買うことはできない。欲しい。
少年はトビの物語を父親に聞かせる。それを好きになる父親。話はどんどんふくらんでいく。でも、寒さが近づき、早くトビを買わないと死んでしまう。
少年は、本当はやりたくはない仕事を引き受けることに。
と、ストーリーを説明しても仕方がないのかもしれません。この静かな物語を読んでもらわないことには。
ミニマリストっぽくみえますが、そうではありません。濃密な父と息子の時間を描くために採られた手法です。
訳文もいいのでしょう。しみます。(hico)
『秘密の道をぬけて』(ロニー・ショッター:作 千葉茂樹:訳 あすなろ書房 2000/2004.11 1300円)
カナダへの逃亡奴隷脱出ルートを舞台にした、物語です。
良心的アメリカ人を中心に組織された奴隷解放組織を描いています。そこに家族の物語が絡んで、奥行きを作っています。主人公アマンダの活きのいいこと。
この歴史はぜひ押さえておいて欲しいところです。(hico)
『じいちゃんのいる囲炉裏ばた』(高橋秀雄作 宮本忠夫絵 小峰書店 2004.11 1300円)
浩太に家族は、共稼ぎの両親と、父親のおじいちゃんとおばあちゃん。このごろ、母親とおじいちゃんはなんだかうまくいっていない。
浩太は浩太で学校の野球クラブでプレイが上手にならなくてちょっと悩んでいる。
庭にじいちゃんが家を造り始めた。囲炉裏を切っただけの小さな一部屋の家。じいちゃんは誰にも相談せずに作った。なんかまたいっそうぎくしゃくしそう。
というところから始まった物語は、家ができあがっていく過程、囲炉裏端での話などで、家族の緊張がほどけていくまでを描いています。
囲炉裏のシンボルはわかりますし、浩太とその友人の心の動きもわかります。ただ気になるのは、今のじいちゃんって、こんなに「じいちゃん」か? です。(hico)
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ドジで鈍感で、気持ちがすぐに読まれてしまうほど単純で、気が弱くて、物事を後ろ向きに考えてしまう。そして、「僕」は自分でもそんな奴なのがわかっていて、でもそこからなかなか向け出すこともできない。唯一のスキルといったら、幽霊が見えてしまうこと。そんなの誰にも言えないし、言ったら馬鹿にされるの決まっている。そして「僕」が今一番近づきたくないのが、隣の席に座っている、佐藤さん。だって、彼女には背後霊が取り憑いているから。『佐藤さん』(片山優子 講談社 千三百円)は、「僕」と佐藤さんの、まっすぐなラブストーリーなのだ。
幽霊が見えてしまう男の子と、背後霊がいる女の子のラブストーリーなんて、異様だと思う人もいるかもしれないけれど、そうじゃなくて、そうした特殊な設定にしたからこそ、二人のピュアな気持ちが際だって見えてくる。
「僕」の特殊能力を知った佐藤さんは、教室ではしとやかな女の子を演じていたけれど、本当の自分を「僕」に見せる。やっと自分の悩みをわかってくれる人が現れたからって。でも、「僕」は、佐藤さんのイマージが急に変わってしまったから、ちょっとビビる。と、佐藤さんは、「ごめんね、清楚で可憐で優しい女の子じゃなくて。でもいまどきそんな子いないよ」
いいでしょ、この出会い。
よくない? いいよ!
読売新聞2004.11.08
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夏休み、パパの提案でハワイ旅行! この頃けんかばかりのパパとママ。仲良くなってくれればいいけれど。『ちなつのハワイ』(大島真寿美 教育画劇 千三百円)は家族が再構築されていくまでを描いている。パパが仕事人間だったのは、お金を稼いで家族に喜んで欲しいと思っていたから。ママが自分のしたいことをしないで子ども優先だったのは、自分の楽しみはみんなが幸せでいてくれることだけだったから。二人とも、子どものことばっかり考えて、自分を忘れていたわけ。そのために、子どもがしんどくなってしまう。
同じ著者の『空はきんいろ〜フレンズ〜』(大島真寿美 偕成社 千円)のアリサの場合。小児科の先生が出してくれていた腹痛薬が、実はにせものだと知る。でもアリサは怒れない。「だまされていてあげないと」ってわかっているから、気を遣っているの。
アリサのクラスメイトのニシダくんは、朝ご飯を食べられなかったことがある。母親が働いていて、朝ご飯を作る暇もなく仕事に出かけたから。でも、そのことをニシダくんは黙っている。だって、みんなはきっと、「お母さんのくせに起こしてくれなかったのかって」思うし。
アリサはお父さんの転勤(シンガポール!)で引越しすることに。本当はしたくない。でも、「まあ、しかたないけどね。子どもだから」。
子どもって大変!
読売新聞2004.12.06 |
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