2005.02.25

       
【絵本】
児童文学書評2005年2月(ほそえ)
○シンプルで伝わりやすい形 マレーク・ベロニカの絵本
「もしゃもしゃちゃん」マレーク・ベロニカ作 みやこうせい訳 (福音館書店1965/2005.2)
「ゆきのなかのキップコップ」マレーク・ベロニカ作 羽仁協子訳 (風涛社 1984/2005.2)

 今年は「ラチとらいおん」が翻訳出版されて40周年になるという。この2月にはハンガリーからマレーク・ベロニカさんをよんで、講演会、サイン会などが大阪、東京で行われました。それにあわせ、新、旧の絵本が翻訳されたのがこの2冊。
「もしゃもしゃちゃん」は日本でなじみ深い「ラチとらいおん」と同じ年に描かれたもの。原題では「みにくいおんなのこ」という顔も洗わない、歯も磨かない、髪もとかさない、お風呂にも入らない女の子が主人公。この設定は「もじゃもじゃペーター」を思わせるが、ペーターが悲惨な感じなのに対し、こちらはいたって鷹揚で、いけませんと叱る大人は出てこないし、友だちだって一緒に遊んでくれたりします。仮装パーティーで妖精になりたいな、といって、そんなもしゃもしゃの頭なのに、と笑われて、家出をしてしまうところから、お話は急展開。最後は森の木や鳥やハリネズミたちに助けられ、きちんと体をきれいにして、妖精のドレスを身にまとい、みんなで楽しくパーティーです。「ラチ」と同様にシンプルな線と様式化された風景、すっきりとした画面にシンプルなテキスト。1ページ1ページが人形劇の舞台みたい。ラストの妖精のドレスにうっとりし、森への道で示される優しい気持ちに心を添わせ、もしゃもしゃちゃんが自分だというようにとりこにしてしまう、その魅力は何なのだろう。幼い子どもが人形や動物に自分を近しいと思ってしまう心象にぴったりする形を持っているのかしら。ハンガリーでも復刊され、多くの子どもに愛されているという本書には子どもという存在が確固としている安心が感じられます。
「ゆきのひのキップコップ」は西洋とちの実でできたお人形が主人公のシリーズ第1作目。6冊まで刊行されていて、季節に合わせ、物語が進んでいきます。こちらの絵本では自然の描写が写実的で、色面で構成された水彩に色鉛筆で細かなタッチをつけたあたたかみのあるイラストになっています。キップコップの表情などは愛らしく、アンパンニシリーズ(風涛社)に近いタッチ。テキストのページは色がしいてあり、右ページの絵と一体となるように原本では工夫されています。日本語版はイラストと文字ページの色の対比が鮮やかすぎて、カラフルではあるけれど、お話の流れを見開きごとに切ってしまうように感じ、ちょっと残念。
キップコップは雪の日に弱って飛べなくなったシジュウカラを見つけます。お家に連れて帰り、クルミや水をやろうとするのですが、他の友だちに食べさせてやってほしい、と頼まれ、雪の中、クルミを持って出かけます。氷の池で滑ったり、吹雪にあったり……。キップコップの目線でみる雪の野原の広いこと、小鳥たちと仲良くなれるまでそっと見ている様子、幼い子に自然への思いをふくらませてくれるストーリーと構成になっています。物語の形だから、ストンと入っていくものがあるのです。リアルなものこそ、幼い子に受け取りやすい形で、ほんわり伝えたい。その術を、みごとに持っているのがこの作家の魅力なのでしょう。
ハンガリーの他の作家の本も日本で読んでみたいです。幼い子の心に伝わりやすい形のお話が、ほかにもたくさんあるようですから。そういう物語を生み出し、大切にしていくということが、子どもの文化が豊かなことになるのだと思います。(ほそえ)

○その他の絵本、読み物
「くまさんはねむっています」カーマ・ウィルソン文 ジェーン・チャップマン絵 なるさわえりこ訳(BL出版 2001/2005.1)
クマの冬眠する洞穴に動物たちが次々とやってきて、ポップコーンをつくったり、紅茶を飲んだりして、大騒ぎ。とうとう、クマが目をさまし……。愛らしく、生き生きとした動物を描くのがうまいチャップマンとどんどん登場するものが増えていくという定番のストーリーを冬眠のクマにぶつけたところが、この絵本の楽しさ。大きなクマがエーンエーンと泣いてしまう展開、ラストのオチなど、まとまっている。アメリカでは、このコンビ、シリーズで刊行中。(ほそえ)

「アティと森のともだち」イェン・シュニュイ作 チャン・ヨウラン絵 中 由美子訳 (岩崎書店 2003/2005,1)
台湾のグリムプレスの絵本。以前、グリムプレスは台湾の出版社であるが、アンデルセンやグリム童話などヨーロッパの子どもの本のテキストに、台湾の細密画を得意とする画家たちのイラストをつけてた豪華本をたくさん作って輸出していた会社だった。そこがオリジナルのテキストの絵本をだし、そんなに間もおかずに出版されたというのが驚き。お話は台湾のツォウ族の伝説や自然観をテキストにとかしこんだもの。画家はフィールド調査や考証などに力をつくしたという。自然への畏敬の念を感じさせるストーリーは、普遍的な型にのっとり斬新さはないけれど、なるほどと納得させ、イラストにいろんな神の形を見つけては、いろんな想像をよびおこす。(ほそえ)

「まりーちゃんとおまつり」フランソワーズ作 ないとうりえこ訳 (徳間書店 1959/2005,1)
「まりーちゃんのくりすます」「まりーちゃんとおおあめ」などで知られるフランソワーズのまりーちゃんシリーズの中の一冊。ほかにも「パリ」に遊ぶ絵本や何冊か翻訳されていないものがある。
春の日、おまつりにでかけ、クッキーを買ったり、お友だちとジュースを飲んだり、ダーツをして景品を当てたり……。途中、ひつじのぱたぽんがいなくなったりと事件もありますが、無事、楽しい一日をすごしました、というもの。フランソワーズの絵の型抜きクッキーみたいな愛らしさとなんてことないストーリーの安心にひたる。(ほそえ)

「あいにいくよ、ボノム」ロラン・ド・ブリュノフさく ふしみみさを訳 (講談社 1965/2005,1)
1994年に福音館書店から翻訳出版された絵本の新訳復刊。ぞうのババールを生み出したブリュノフの長男にあたる作家のオリジナル絵本。この作家は父亡き後、ババールシリーズの作画をになってもいます。
ボノムは頭に長い棘をつけた不思議な生き物。ひとこともしゃべらず、山まで会いに来てくれた女の子と共に一時、人間界にやってきてはまた山に戻っていってしまいます。大人といるのは居ごごちが悪いのでしょうか。黒いペンの線と淡い朱色の2色で描かれた余白の多い絵が自由な読みを提示しています。(ほそえ)

「うんちっち」ステファニー・ブレイク作、絵 ふしみみさを訳(PHP研究所 2002/2005,1)
「フランチェスカ」(教育画劇)では、絵の感じがアンゲラーに似ているし、お話の展開はスタイグの「ロバのシルベスターとまほうのこいし」によく似ていて、う〜ん、自分の好きな作家たちなんだろうけれど、どうなのかなあ、とおもっていたステファニー・ブレイク。本作は日本で紹介される2作目になります。イラストの感じがアンゲラーやソロタレフに似ているのはしょうがないけれど、お話は、彼女らしさが出てきたような。何を聞いても「うんちっち」としか答えないうさぎの男の子。おおかみに「きみをたべてもいいかい」ときかれても「うんちっち」としかこたえません。ぺろりとひとのみしたおおかみは、おなかがいたくなっちゃって……。おもしろがって変な言葉しかいわない時期ってあるなあ。お話の展開も昔話っぽくてシンプルで強く、オチもえへへとわらっちゃう。ひとりで読んでも、子どもと読んでもうけました。(ほそえ)

「こいぬのパピヨン そらへいく」エルウィン・ヴァン・アレンドさく 石津ちひろ訳 (平凡社 2005,1)
オランダ生まれ、ベルギーで美術学校へいき、現在は南フランス在住の作家、初めて日本に紹介された絵本です。落書きみたいなラフさで描かれたこいぬのパピヨンはユーモラスでかわいい。えんぴつを見つけて、自分で絵を描いて、おひさまやお花を登場させます。飛行機を描いて乗り込んだら、空のむこうまで出かけていって、帰ってきました……。えんぴつやクレヨンで描いていって、お話が進んでいく絵本といえば、ドン・フリーマンの「くれよんのはなし」(ほるぷ出版)やクロケット・ジョンソンの「ハロルドとむらさきのくれよん」(文化出版局)をすぐ思い出します。それらに比べると場面展開もアイデアのいかし方もちょっとお粗末。この2冊よりも幼い子を対象にしている絵本なのだろうけれど、もうすこし、場面場面をきちんとストーリーに生かしていっても良いはず。見開きごとで絵が完結し、それが先へ進む原動力とならない構成は最近の若い作家にありがちな絵本の作り方だなあと思う。外国でも日本でも。(ほそえ)

「バニーとビーの あそぶのだいすき」サム・ウィリアムズ作 おびかゆうこ訳 (2003/2005.3)
英米では安定した人気のある絵本作家、サム・ウィリアムズが初めて日本で翻訳紹介されました。バニーとビーは愛らしいうさぎやみつばちの着ぐるみをきた小さな子ふたり。小さな子の毎日にていねいに寄り添ったつくり。朝起きてから、外で遊んで、おやすみまでを柔らかいタッチの線と水彩で描きます。イギリスではふたりのぬいぐるみまでそろっている人気キャラクターです。(ほそえ)

「時計職人ジョン・ハリソン」船旅を変えたひとりの男の物語 ルイーズ・ボーデン文 エリック・ブレグバット絵 片岡しのぶ訳
18世紀のイギリスの田舎に住んでいたひとりの時計職人が海の上での経度を知るために、精密な時計を作ったという史実を緊張感のあるテキストと当時の様子を彷佛とさせる細かなペン画でえがきだしたノンフィクション絵本。なじみのない人物の評伝ではあるが、自分の信念に基づいた不屈の人生は心を捕らえる。もの造りの人の典型として、子どもにも印象深く読まれるようだ。(ほそえ)

「きみどこへゆくの?」スウェーデンの子どものうた アリス・テグネール作詞作曲、エルサ・ベスコフ絵 ゆもとかずみ訳詩 (徳間書店1922/2005,2)
外国の絵本にはきれいなイラストと楽譜がコンビになった楽譜絵本がおおい。古くはドビッシーの作曲の「おもちゃばこ」の物語と絵を担当したアンドレ・エレの本。プーテ・ド・モンヴェルの「こどもたちのうた」など。原書で手に取ることは多いけれど、それを翻訳するのは並み大抵のものではない。ただ、日本語に訳すだけではだめで、歌えることばにするのがすごく大変だからだ。それを楽しげにやり遂げた絵本が本書。音楽大学卒業後、オペラ作りの手伝いをしていたという「夏の庭」の作家湯本香樹実の訳詞が甘くなり過ぎず、うたいやすい。スウェーデンでのこの本の成り立ちやテグネールとベスコフの交流を、ベスコフの絵本を多数翻訳している石井登志子が、コンパクトにわかりやすく解説している。うたは子どもの毎日になじみぶかい、遊びの様子をうたにしたものや季節の行事に根ざしたものなど。曲調も楽し気なものから短調で物さびしい感じのものまでいろいろあり、日本のわらべ歌のようにシンプルで一度耳にしたら、すんなり覚えられるような感じがした。ふたりのかけあいで歌いたい「どこへゆくの?」やリズミカルな「おかあさんごっこ」など、うちでは子どもの鼻歌レパートリーになってしまった。本書にある歌たちはリンドグレーン原作のスウェーデン映画などで耳にした歌や音楽にとっても似ていた。それほどにスウェーデンの人のなかに溶け込んだ楽曲なのだろう。子どもの歌は子ども文化の大事な土台ということ、思い知らされる1冊だった。(ほそえ)

「メルヘン・アルファベット」タチアーナ・マーヴリナ作 田中友子訳、文 (ネット武蔵野1968/2005,2)
ロシア絵本の至宝、マーヴリナの豪華絵本。ただのアルファベット絵本ではなく、メルヘン(昔話)に登場するものたちを選んで描かれているのが特徴。テキストだけでは理解不足になってしまうため、巻末に詳細な解説がつき、お話のあらすじがついた昔話事典としても楽しめる造り。金や銀などの特色インクを使い、なんとも贅沢。マーヴリナの踊るような筆のタッチ、鮮やかなコントラストの色彩、文字と絵が一体となったグラフィック、見事な1冊。(ほそえ)

「つみきでとんとん」竹下文子文 鈴木まもる絵 (金の星社 2005、1)
「せんろはつづく」についで、子どもの遊びを展開させた絵本第2弾。今回はつみきあそび。最初はたった3つでベンチにニコニコ座っていた小人さんたちが、どんどんつみきを積み重ねていって、きりん、恐竜……といろんな形を造りだす。パット・ハッチンスの「なににかわるかな」(ほるぷ出版)では文字なしで、緊迫感のあるシーンを造型していて、絵本としての強さを感じるが、同じようなアイデアでも、テキストがあるぶん、絵本になじみのない人にはこちらの方が手に取りやすいかな。子どもの遊びの楽しさ、広がりを支えてくれる絵本。 (ほそえ)

「はなちゃんおさんぽ」中川ひろたか文 長 新太絵 (主婦の友社 2005.3)
はなちゃんはおとうさんといっしょにおさんぽに。すると、ピンクのゾウが!みどりのわにが!ライオン!……でもお父さんと一緒なら大丈夫。ぐいぐいと元気のいいイラストに、リズミカルなテキスト。お散歩で見かけたものたちが、ほんのちょっとの想像でぞうやわにやライオンになってしまうのは、子どもの一緒にいると日常のこと。見立てのおもしろさはやりはじめると止まりません。そんな子どもとの楽しみ方を絵本の形で提示しているのがおもしろい。(ほそえ)

「たんじょうびのやくそく」ハリネズミとちいさなおとなりさん2
「おはようの花」ハリネズミとちいさなおとなりさん3 仁科幸子作(フレーベル館 2004,12、2)
「なんにもしないいちにち」でおなじみになったハリネズミとヤマネのコンビの小さなお話集。あいかわらずハリネズミの思いつきや行動にふりまわされてしまう、ちいさなおとなりさん。でもふたりはなかよしで、森の中の小さな素敵やなんてことない日にかくれている愉快な時間をみつけては、わたしたちにほらね、と見せてくれる。お話に合わせ、自在にイラストを入れて、見ても楽しい本にしてしまっているのは、絵もテキストもひとりの作家で手がけているから。亡くなった子の心を抱えているという「かげろう」、木枯らしにのって最初に木から離れる葉っぱを勇気づけようと見に行く「さいしょのはっぱ」など、1作目には見当たらなかった感じの思いをのせたお話も。2作、3作と続けたことで、ありがちなお話のアイデアを着地させる地点が作者らしい場所になってきているように思えました。(ほそえ)

「かっぱの虫かご」松居スーザン作 松成真里子絵 (ポプラ社 2005,1)
人間の男の子が持っているプラスチックの赤いあみの虫かごがほしくてたまらなくなってしまったかっぱのこ。とうとう、ある日、投げ出されていた虫かごをつかんで、木のうろに隠してしまいます……。小さな子の心の揺れを丹念に描いている。子どもの様子を気にかけるかっぱのおかあさん。一緒に遊びたいというカメの子ども。何かの気配をかんじる人間の子ども。小さな童話なのだが、それらが緊密につながりあい、それぞれの得心のいく結末が用意された構成がうまい。にじんだ絵の具の表情が愛らしい絵がいい。かっぱの子がうたう小さなうたがかわいくて、その時の気持ちを端的に表わしていて、ストンと小さな子の胸におさまりやすい。いいうたが入っている童話はとてもきもちがいい。うたと子どもはとても近しいから。(ほそえ)

「クマは「クマッ」となく?!」おもしろ動物生態学 熊谷さとし(偕成社2005,5)
え、そうなの?とページをくって、タイトルになった章をまず、みてしまう。これでつかみはOKでしょう。フィールドワーカーとしての実際の体験や見聞きしたことを、2ページから4ページくらいのスペースでコンパクトにまとめ、項目別に書き下ろされている。ソフトカヴァーでぱらぱらと読める軽い造りであるけれど、描かれていることや作者の思いはずっしりと重い。専門的になり過ぎぬように、でも根本の考え方はずらすことなく、具体例をあげて、動物の生態についておもしろく小学生くらいに伝えるのは、とても大変。それをきちんとやり遂げている。作者は実際に自分で見たことや不思議に思ったことを、自分の体験から類推し、自分の言葉で考えていく道筋を本書で見せてくれている。そこがいい。図鑑などではおうおうにして学術的な結論をそのままひきうつし、見せるだけだが、その考えが引き出された根拠や道筋がおもしろいのだと思う。トリビア的な体裁の裏に、自分で見て、自分で想像し考えるという姿を見せているのがたのもしい。(ほそえ)

「ハッピー ノート」草野たき作 ともこエヴァーソン画 (福音館書店 2005,1)
今時の塾に通う小学校6年生って、こんなに大変なのかなあ。大変なんだろうなあ。今の自分でいるのがいやで、新しい学校にいったら、塾にいったら楽しい別な毎日が……と夢見てがんばって勉強してしまう女の子。どこかのグループに入ってないと居場所がない。心にもないことを一生懸命言って、友だちに気を使って、その必死さが、塾で出会った風変わりな子とすごすことでちょっとづつ、変わっていく。前作の「猫の名前」では親ではない、大人の女性がきちんと描かれていて印象的だった。現代の10代前半の子を描く他の作家のものと草野の作品が大きく違って見えるのは、大人を描く描き方だ。本書でも働きに出だした母親の変化をきちんと見据え、それが主人公の行動へとつながっていく様が物語に強さを与えているように思えた。子どもの心の動きを見極めたい、よりそいたいと願う大人がそばにいるということ、大人自身もまた、自分を変えていく意志と行動をもっていることなど、物語の中で知り、その目線を獲得することで、現実の自分のまわりを見る目も変わっていくのではないか。(ほそえ)

『海時計職人ジョン・ハリソン』(ルイーズ・ボーデン作 エリック・ブレッグバッド絵 片岡しのぶ訳 あすなろ書房 2004/2005.02.20 1300円)
 近代、当たり前のように思っていることも、どこかに始まりはありました。
 この歴史絵本は、経度を調べるための正確な時計を作り出した職人のお話です。
 緯度は、星の位置で割り出せるから、経度さえわかるようになれば、船がどこにいるかがわかるようになる。しかしそのためには、何日航海していても、出発地の時間がわかる正確な時計が必要。しかし、航海に耐え、なおかつ正確な時計となると、案外難しい。18世紀、一人のイギリスの職人がそれに挑む。
 40年かけてたった5つの、しかし優れた時計を作った男の生涯が、丁寧なペン画と、無駄のない語りで伝えられています。
 この物語に相応しい、隅々まで行き届いた場面がいい。
 大げさに言えば、「世界」というものが、どのようにして成り立っていくかを魅力的に伝えている絵本です。(hico)

『おおかみかめんときつねどん』(のぶみ:絵と文 教育画劇 2005.01.06 1000円)
 「正義の味方」に目覚めたおおかみくんの物語。「おおかみ」を巡るイメージや言説を踏まえたパロディ物はたくさんありますが、その中にもう1作品加わりました。
 おおかみくんのがんばりが、楽しくおかしい。
 これはシリーズ化してください。そうして初めておおかみかめんのキャラクターが膨らんでくる作り方ですから。(hico)

『もぐもぐ とんねる』(しらたに ゆきこ アリス館 2005.02.01 1300円)
 いよいよあしたから、穴掘りの練習を始めることになっているもぐらのもぐもぐ。でも、早くやりたいものだから、夜中にこっそり一人で穴を掘り始め・・・。
 非常にスタンダードな設定です。名前だって、もぐもぐだし。ですから、あとはどう展開し、どう見せるかが腕の見せ所、絵本の楽しみ所。
 もぐもぐの、一人で自由に冒険し穴掘りをしたい気分に乗せて、物語はあちらこちらへと広がっていきます。絵本という機能を存分に使って、色合いから場面の見せ方までやちたいことを思い切りやった感じです。散漫に見えてしまうのも確かですが、勢いだから、いいでしょう。
 画そのものに、もう少しクセというか味が欲しい。
 デビュー作でここまで描けるのはたいしたもの。(hico)

【創作】
『ヒットラーのむすめ』(ジェッキー・フレンチ作 さくまゆみこ訳 すずき出版 1999/2004.12 1400円)
 魅力的といってはなんですが、「おっ」と乗り出してしまうタイトルです。
 物語設定はタイトル通りにシンプル。
 スクールバスを待つ間に、お話をしようという提案で、アンナが話し始めたフィクションが、ヒットラーの娘の日々を語った物。いないはずの少女の物語ですから、そこで何が起ころうとも聞き手の友人は興味津々、聞くことであの時代を知っていくようになります。
 この持って行き方が旨いので、読む側も、聞き手の少年たちと一緒にアンナの話に引き込まれていくわけ。
 最後のオチもいいです。
 とてつもなくユニークだとか、新しい世界を描いただとか、本読みの快楽を満たす物語ではありませんが、敷居の低さが、伝わって欲しい内容にアクセスしやすくしていて、そこが買いです。(hico)

『バスの女運転手』(ヴァンサン・キュヴェリエ作 キャンディス・アヤット画 伏見操訳 くもん出版 2002/2005.02.10 1000円)
 ベンジャマンたちが通学に使っているバスの女運転手は大きくて、怖そうで、男みたいで・・・。ある日、ベンジャマンは風邪をひいていたのでバスの中で眠ってしまう。気付けば終点で、女運転手と二人きり。家に帰りたいけど・・・。
 ここから、女運転手とベンジャマンの楽しい一日が描かれます。見かけではない女運転手の素顔が見えてきて、その実に温かいこと。
 短い物語。もう少しヴォリュームが欲しいですが、画の自由な雰囲気といい、楽しい一品になっています。(hico)

『ワン ホット ペンギン』(J・リックス作 若林千鶴訳 むかいながまさ絵 文研出版 2001/2005.0215 1200円)
 海も魚も嫌いな少年フェラン。彼の父親は漁師でなのですが・・・。
 動物園に行ったとき、ペンギンが隠れてついてきてしまいます。ペンギンが言うには動物園はもういやだ、冷たい所へ行きたい。そういえば、おとうさんは南極まで漁に出かけていると言っていたっけ。一緒に船に乗って、ペンギンをこっそり帰してあげたい。
 でも、おとうさんの自慢話は嘘で、本当は近海でしか漁をしたことがない。
 さてさて、フェランとおとうさん、どうなりますことやら。
 ユーモアたっぷりで楽しい家族物語です。
 ただ、フェランが漁師に目覚めるところまでは描きすぎです。そこまでうまくオチをつける必要はありません。フェランとおとうさんのトンチンカンぶりが暖かいのですから、それでOK。まとめてしまうのは、児童文学らしくあろうとすることで落ちる罠。(hico)
 
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『パーティミアス・ゴーレムの眼』(ジョナサン・ストラウド作 金原瑞人&松山美保訳 理論社 千九百円+税)
 魔法が存在する世界。邪悪なものがいて、なにがしかの運命を背負った主人公が、世界を救うためにそれと立ち向かう。これは、ファンタジーの典型的な基本設定の一つだろう。
 『バーティミアス』の主たる舞台はロンドン。とはいっても、私たちが知っているロンドンではなく、魔術師が政治権力を握っている、どこか別のロンドンだ。主人公の本当の名前はナサニエル。それを知られては誰かに操られる危険があるので、普段はジョン・マンドレイクと名乗っている。年齢は一四歳。前作での活躍を首相に認められ、現在は国家保安庁に所属するエリート魔術師。ロンドンでは今、魔術師の支配に抗するレジスタンスによる爆破事件が続いている。ナサニエルはその捜査を任されているのだが、ある日、大規模な破壊事件が起こる。国家保安庁を疎ましく思っている警察庁側は、これはレジスタンスの仕業であると主張し、事件を解決できない国家保安庁を非難し、保安警備のための権力を奪取しようとする。国家保安庁はなんとしてでも解決することをナサニエルに命じる。が、この事件は今までのとは違う。とても人間業では出来ない。かといって、魔法が使われた形跡はない。一体何が起こった? 悩んだナサニエルは、追いつめられ、前作で彼を救ってくれた魔神バーティミアスを召喚することにする。二度と呼び出さないと約束していたはずなのだが・・・。
 と、物語の始まりを記せば、いささかハードではあるけれど、スタンダードな冒険ファンタジーに見えるだろう。優秀な魔術師の少年が主人公で、ロンドン中を震撼とさせる事件の謎を解くべく相棒の魔神を召喚するというのだから。
 が、ここにいるのは、正義のために戦う少年でもなく、彼を守り、共に戦う魔神でもない。ナサニエルにとって大事なのは、権力。レジスタンスとの戦いも、職務命令に従っているだけだし、個人的には前作で彼らレジスタンスにやりこめられたために、「復讐しなければ気がすまない」だけ。年齢的に似合わないと思われる服を身につけ、値段が高ければかっこいいファッションだと思っている、スノッブで、こっけいな少年(ガキ)だ。魔神とも信頼関係で結ばれているのではない。あくまでも契約であり、より上位の魔神を従わせることができれば、魔術師としての権威が高まると思っている。当然のことながら魔神バーティミアスも、主人であるナサニエルを慕っているわけではないし、言われるままに従おうなどとは全く考えていない。召喚されたときの感想は、「まさかこないだと同じタコとはな!」だ。バーティミアスは、魔術師との契約に縛られるしかないが、その契約の穴をついてやろうといつも考えている。
 語りは、主にナサニエルを追う三人称と、バーティミアス自身によるものの二種類が使われている。ナサニエルの行動、考え方などがありのまま三人称で記され、バーティミアスの語りがそれを批評する構造だ。つまりこれは、一四歳の少年ナサニエルが、その行動と考えをいちいち批評される物語として読める。だからといって魔神バーティミアスは、彼自身もまた、物語の一員なのだから、物語と距離を置いて批評家になることはできない。彼はナサニエルに命じられるまま、事件のまっただ中で生死を賭けて戦うしかないのだ。
 バーティミアスのこの奇妙(気の毒)な位置付けが、彼には悪いが、とてもおもしろい物語。(hico 読書人 2004.01)