2005.05.03.25
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【絵本】 ○日常と地続きのファンタジー 「あぶくアキラのあわの旅」いとうひろし作、絵 (2005,3 理論社) 絵本や幼年童話で定評のある作者が初めて書いた300ページものファンタジー。現在、書店の書棚を席巻しているハイ・ファンタジー(異世界を舞台にお話が完結する)ではなく、ねずみやモグラがしゃべり、考えを持って行動する次元に入り込んだ形の物語。一読して懐かしいような感じで、何でも魔法や超能力でことが済んでしまう本を読みなれた子たちが、どういう印象をもつのか、聞いてみたいなと思わせる。 異想の作家らしく、物語は、ふつうの男の子が石鹸の泡にまみれて、体があわでできたあぶく人間になってしまい、下水に流されるところから始まる。そんな人間なんて……と思うところを、自分の絵で見せてしまえるところが作絵を手掛けられる役得。妙に説得力のあるイラスト。「マンホールからこんにちは」を思わせる生き生きとした下水管の中の描写はなんともへんてこでユーモラス。物語の文章が奇妙なリズムを持っていて、登場動物たちの言い種や口調がおもしろい。とくにモグラのオオブロシキのキャラクターや口調は読んだ後も、身に残ってしまうのですら。 ストーリーの結末や冒険の目的は初めからはっきりと語られ、わかりきっているはずなのに、登場人物(動物)たちの歩みは遅々として進まず、ストーリーから外れるような事件に遭遇し、それで得たものがラストシーンで結集する。モグラやどぶねずみ、ふくろうなど出てくる動物たちは、何も特別の能力を発揮することなく、それぞれの動物的特性にのっとって動き、あぶく人間だって、泡を蹴散らされて、手がもぎ取られたり、力なく横たわったただの固まりでしかなかったり、非力なことこのうえない。練り上げられた机上の空論は、事実の前に呆気無く失敗し、みんなの賛成を得た行動はちょっとした道具の手違いで上手くいかない。失敗ばかりで、なんだよう、しっかりしろようと言いたくなる時分に、やっと今まで何の役に立つのかわからないような些細な行動が、突破口を開く。おおよそ目的となることは、自分がらみで、大上段に構えた目的というものに絡み取られないよう気をつけて、周到に作家は物語っているように思える。 これはまさに変わらない日常の姿。ファンタジーという形の中だからこそ、取り留めのない日常の意味が、意味を持って立ち現れるのを見せてくれる。それをつかんだからこそ、アキラは実際の毎日へと帰っていけるのだ。まっとうな「(子どものための)子どもの本」を書くという姿勢は長篇を書いてもゆらいではいない。 ○その他の絵本、読み物 「ダンデライオン」ドン・フリーマン作 アーサー・ビナード訳 (1964/2005,2 福音館書店) ライオンのダンディさんはあたまもしゃもしゃでセーター姿の気取らないお方。でも、キリンのジラフさんのお誕生会に誘われたので、ちょっとは素敵にしていこうと、髪にカールをかけたり、オシャレな服を新調して行ったのに、「どなたですか?」と尋ねられ、中に入れてもらえない……。フリーマンのペン先から流れだしたような生き生きとした線画。少ない色数を効果的に使った60年代の傑作絵本だが、たぶん、今までたんぽぽとダンディライオンをかけたタイトルといい、ラストのライオンの締めのセリフといい、言葉落ちになってしまうのが気になって訳されてなかったものと思われる。でも、本来の自分を大事にするというテーマが、現代ほど大きく扱われる時代はなく、そういう文脈で読まれることで、ラストの落ち着かなさを救っている 「リュック、コンクールへいく」いちかわなつこ作絵 (ポプラ社 2005,2) パン屋さんに看板犬リュックのシリーズ3作目。今回はパンコンクールに出場するジーナさんの奮闘ぶりがクローズアップされたお話でリュックが活躍する場面が少ないような。でも、のびのびとした明るい画風は、パン作りのあたたかな場面にぴったりで、一番になれなかったけれど、一生懸命、自分の力を出せたわ、というジーナさんの誇らしい様子がきちんと伝わる。 「ぼくじょうにきてね」星川ひろ子 星川治雄写真・文(ポプラ社 2005,2) 5歳の女の子が家業の牧場の仕事に少しづつなじんでいく様子を丁寧に写真と子ども目線の文章で描いていく。世話をしていた雄の子牛が売られてしまい、お父さんから理由を聞くところがクライマックスになるのだが、ここで人間は生き物の命をいただいて生きているのだということをとつとつと語られる。それがきちんと言葉だけでなく、心象として伝わるといいのだけれど。オーソドックスな造りの写真絵本。 「ぼくらのむしとり」柴田愛子文 伊藤秀男絵 (ポプラ社 2005,2) 目の前の子どもたちの様子からお話が紡がれていく「あそび島シリーズ」の最新作。異年齢の男の子たちが群れて、野外に飛び出していき、生き物たちと交感する様子がセリフだけで表現される言葉少なな絵本。弱ったセミをアリのえさにしたり、気持ちわる〜いと言いながら、ぶちぶちちぎったり。男の子世界が存分に描かれる。 「だっこ だっこ ねえ だっこ」長新太作(2005.3 ポプラ社) ねこやぶたやいぬが「ねえ だっこ」といって、だっこされている様子が見開きごとに描かれる。にゃあにゃあ、わんわん、ぶうぶうなどと鳴き声や繰り返しのセリフが楽しい赤ちゃん絵本。そこにだっこするボールやらくつやらタコやらアイスクリームやらが入ってくるのが長ワールド。ラストはおかあさんにだっこされる赤ちゃんの姿できれいにまとめる。「ちゅーちゅー こいぬ」を思わせる展開。繰り返しと音と身近な生き物やもので構成した、赤ちゃん絵本の王道。 「ポッケのワンピース」つちだのぶこ作 (2005,2 学研) おあかさんにポッケが10個もついたワンピースを作ってもらった女の子。うれしくなって森におさんぽに出かけると、動物たちがポッケに入りたーいとやってきました。最後にやってきたのはこぐまさん。一番大きなポッケが空いてるよ、というのですが……。ポッケ好きな子ども心と大らかなおかあさんの姿が優しく描かれたあたたかな絵本。 「ゆきのひのチムニーちゃん」たんじあきこ作(2005,2 学研) ショートアニメで人気の作家、初めての絵本。紙を貼り込んで作った絵柄は今風でおしゃれ。主人公の女の子も出てくる動物たちもキャラクターグッズにすれば人気が出そうなイラスト。お話は雪の日に一人で遊んでいたチムニーちゃんが動物たちをさそって、楽しく遊ぶという展開。それぞれの動物たちの家ではお仕事のお手伝いをして、それが済んだらみんなで遊んでおやつを食べて……。他愛無いかわいらしいお話なのだが、もうひとつ、作家の思い入れみたいなもの、こだわりみたいなものをストーリーの中に入れられたら。 「おんぶはこりごり」アンソニー・ブラウン作 藤本朝巳訳 (1986/2005.3 平凡社) 表紙にはお父さん、息子ふたりをおんぶしたおかあさんの姿。うちの仕事もして、外でも仕事をして、それが当然と思っている家族に「もうこりごり!」と手紙を置いて出ていってしまうおかあさん。その後がブラウンらしい展開。なれない家事に戸惑って、家はよごれ、姿はぶたみたいになってしまう。その直裁な表現がおかしくて、あ〜あ、というストーリーに笑いを与えてくれる。 「どうぶつだいすき」ヨゼフ・ラダ絵 イジー・ジャーチェク文 飯島周訳 (1987/2005,3 平凡社) チェコの国民的画家のラダの生誕100年を記念して作られた絵本。もとはラダがつくったイソップ童話などの絵本からイラストをもってきて、絵に合わせて詩人が言葉をつけたもの。だから、お話を読むというより詩画集としてぱらぱらめくって楽しむ、という感じの体裁になってしまっている。 「ちびうさ がっこうへ!」ハリー・ホース作 千葉茂樹訳 (2004/2005.2 光村教育図書) 人気絵本「ちびうさ まいご」に続編ができました。今回、ちびうさは学校に出かけます。仲良しのおもちゃ、おうまのチャ−リーをつれて意気揚々と出かけたのですが……。初めての学校に戸惑い、お友だちともどうつき合えばいいのか判らないちびうさ。それをあたたかく見守る先生や両親。自分できづき、つかんでいく様を丁寧に、お説教くさくなく描いているのがいい。 「ウィリアムのこねこ」マージョリー・フラッグ作 まさきるりこ訳 (1938/2005,3 新風舎) 「こいぬのアンガス」シリーズで有名なフラッグの絵本。絵本にしてはテキストが多いので今まで紹介されてなかったのかしら。まいごのこねことウィリアムはなかよしになりました。でも、誰かが探しているかもしれないと警察に連れていかれます。すると、3人の人が子猫を探していました……。こねこはウィリアムがお世話することになったのですが、その後子猫が生まれて、3人の人それぞれにもらわれることに。理にかなったストーリー展開でだれもがハッピーになるのが古典絵本らしい丁寧なつくりです。 「がーこちゃん あそぼ」ユー・ロン作 たがきょうこ訳 (2004/2005,3 徳間書店) なんともかわいらしいあひるのがーこちゃん。貼り絵で描かれた絵本です。愉快な音にあふれ、シンプルなストーリー。貼り絵ならではの単純ですっきりとした造形がお話によく合っています。なんてことない1日なのだけれど、「ぴょっこ、ぴょっこ、ぺった、ぺった」と声に出して読んでいくと、ゆたかで幸せな気分になるのが不思議。 「うさぎのチッチ」ケス・グレイ作 メアリー・マッキラン絵 二宮由紀子訳 (2003/2005,2 BL出版) かわいらし気なイラストにだまされてしまった。何でも不思議に思ううさぎのチッチ。「どうしてパパもママもぼくみたいにぴょんぴょんはねないの?」と聞いたらば、ふたりの答えはこうでした。「だって、わたしはうさぎじゃないから」パパはうまで、ママはうし。姿形は違っていても(血はつながっていなくても)、わたしたちはほんとうにチッチを大事に育ててきた、パパとママですよ。同じになってほしいなんて思ってないし、今のままのチッチが一番。こんなデリケートなことを小さな子にも判るような手順や場面を使って伝えるとは、あなどりがたしケス・グレイ。 「パパがサーカスと行っちゃった」エットガール・キャロット文 ルートゥー・モエダン絵 久山太市訳 (2000/2005,1 評論社) イスラエルの作家コンビの絵本というのが珍しい。サーカス好きのパパが家族とサーカスを見に行ったらば、そのまま巡業についていってしまい、世界中から葉書が送られてくるというのがおかしい。奇妙なお話に妙な説得力を発揮するイラスト。最後は家に戻ってきてくれるのだけれど……。 「ごほん!ごほん!ごほん!」デボラ・ブラス文 ティファニー・ビーク絵 おがわひとみ訳 (2001/2005.3 評論社) 水彩の伸びやかなイラストが人気のビークの絵本。おやすみの間、子供達と牧場で楽しくすごした動物たちは、子供達が町に戻ってしまうとがっくり。することをさがしに、みんなで町に出かけることにしました。町に行くと、子供達が幸せそうに出てくる場所が。そこは図書館でした。動物たちが図書館に入っていくと……。鳴き声の繰り返しが楽しく、司書さんの振る舞いや図書館の様子などをイラストで見るのは愉快。テキストはちょっと弱いかな。 「むく鳥のゆめ」浜田廣介作 網中いづる絵 (2004,12 集英社) ひろすけ童話絵本のシリーズ刊行がはじまった。ひろすけ童話を今、手に入れようとしても難しいし、それに現代人気のイラストレーターを組ませた企画が目をひいた。アンデルセンの生誕200年記念で絵本がたくさん作られたり、童話を絵本化するのが流行っているみたい。一応、本の形にはなるし、ストーリーも読めるし、悪くはないと思うのだけれど、今一つ、絵本って何だろうかとひっかかってしまう。日本の現代の児童文学は、こういう土壌からはなれようとして、それぞれに作品を書いてきたのではなかったのかしら? なんか保守への揺り戻しのような感じ。 網中のイラストは情感があって、ひろすけ童話の雰囲気をつかんでいるように思われる。ただ、それが、小さな子にどのように伝わるのかは、わからない。 「もぐもぐとんねる」しらたにゆきこ作 (アリス館 2005,2) 初めて、自分だけでトンネルとほったモグラの子がどんどんどんどんほり進むと……。池の底に穴をあけちゃったり、下にほりすぎて南極に行っちゃったり、横にほりすぎてキリンの国(アフリカ?)に行っちゃったり。掘る方向がそのまま画面で表現されるため、絵本をさかさまにしたり、たて向きにしたりと、自在な構成になっている。それをおもしろいなあと思う子と、なんでだかわからないと思う子でずいぶん印象が変わってしまう。そういう時はちょっと読んであげる方も手助けを。見返しに描かれた全体の地図を頼りに、自分でトンネルをたどらせて、全体を認識させてから、また本文に戻るなどすれば良いかと。部分と全体を区別して、その関連をきちんと頭の中で結び付けるのはなかなかに高度な認知行動なので、それをおもしろがらせて 何度でもページを開きたくなる方向に持っていければ○。お話自体はよくある感じなので、この画面構成を楽しんで、絵に描かれた細かなお楽しみを見ていけるビジュアル指向の子にはうれしい絵本でしょう。 「ホットケーキいいん?」二宮由紀子作 にしむらかえ絵 (ポプラ社 2005,2) 「アイスクリームごっこ?」に続くめんどりのメアリーさんとそのなかまたちのお話。洗濯をしようとしたら、誰が一番に洗濯機に入ったかでもめる洗濯物たち。あらら、またしてもメアリ−さんは困惑してしまうのですが、そこへやってきたのがトンボ。テキパキみんなの言い分をまとめあげ、洗濯機をまわせるようにしました。ありがと、ってメアリ−さんが言ったら、「ぼくはせんたくいいんですから」ですって。この「いいん」は委員ってこと。音と意味が一瞬むすびつかなくて、えっどういうこと、と混乱してしまうところが、このお話の眼目です。そこをうまくクリアすれば、その後でてくる「ホットケーキいいん」や「メープルシロップいいん」「フォークいいん」だとかの言い分に、ふむふむと耳を傾けることができるでしょう。それが小さい子にはちょっと難しかったみたい。「委員」という言葉に触れられるのが4、5年生になっちゃうから。「かかり」ならすぐわかるのだけれど、それだと、最初の「えっどういうこと?」感があんまり出ないんだよねえ。 「庭の小径で」ロウラ・ストダート絵 きたむらさとし文 (2005,1 BL出版) イギリスでは画家がセレクトした古今の詩やことばをちりばめた詩画集のような形で出た絵本だったように記憶している。日本では、絵に絵本作家のきたむらさとしが文をつけたのが本書。端正なイラストや絵に寓意を込める書き方は、サラ・ミッダを思わせる。イギリスのイラストレーターの一つの型といってもいいだろう。きたむらの文は、絵をこわさぬよう、絵からの寓意をそれとなく言葉に置き換えてしめしてくれる。 「だれかののぞむもの」岡田 淳作 (2005,2 理論社) こそあど森の物語シリーズの第7巻。おなじみの面々が集う森に、新たなものがやってくる。今回はフ−。誰かが望むものの姿形になって、その望みに合わせて言葉を発し行動してくれるという。こそあど森の人たちにも、それぞれの望みの形を見せてくれるが、バーバさんの手紙により、それがフーという存在だと皆に知れる。人の心を読み、人の望む形に変身するのは、身近な人に愛されたいと願い続ける幼い子に重なって見えた。今どきの子ども。「自分のなりたい形におなり」と自分に声掛けできるようになったフーは、どんな姿になったのだろう。本シリーズはいつも、在ることの不思議を描き出してくれる。 「六つのルンペンシュティルツキン物語」ヴィヴィアン・ヴァンデ・ヴェルデ作 齋藤倫子訳 (2000/2005,2 東京創元社) グリム童話の「ルンペンシュティルツキン」がモチーフとなって6つのお話になった短編集。訳者あとがきにある「ルンペンシュテルツキンのテーマによる6つの変奏曲」という見立てが本当にしっくりくる作品たちだ。いろんなタイプの父親や娘、王様が描かれ、それぞれに筋にそって動き出すのだが、ちがっていく様がおもしろい。それにフェミニズム批評的な作家の視線を感じることもあるし、現代の目で焼き直されてもなお崩れない物語の型の強さを感じるものもある。こういう作り方があったのか、と目からウロコの短編集。 「読む力は生きる力」脇 明子著 (2005、1 岩波書店) 今年一月に刊行されて、すぐ重版になっている。それだけ多くの人に手に渡っている子どもの本の読書論、読者論。余りにもストレートなタイトルになかなか手をのばせなかった本なのだが、一読して、著者に対する今までのイメージを大幅に書き換える本となった。私にとって、脇は、センダックの絵本やマクドナルドの訳者、大学の英文学の先生が、子どもの本でも訳してみました、というイメージでしかなかったから、赤ちゃん絵本から読み物までトータルに子どもの本の世界に目を通し、本と子どもの関係をこんなにも真摯に考えている人だとは思わなかった。目の前の学生の姿から、その幼い日の姿までを想像し、それを今まさに子どもをしている存在に心寄せて、提言を行おうという姿勢に心打たれた。 読むということの意味を共同体の変遷と共に考え、赤ちゃん絵本とブックスタートの意義をきちんととらえ、現代、興隆する絵本の罠をこんなにもはっきりと言葉にした本は今まで見たことがない。物語性を失い、見開きごとのイラストレーションの視覚情報の楽しさを追求してしまいがちな現代絵本の弱点を、読む力の低下とからめて論じているのが目新しい。毎月絵本をよんでいて、どうしても苦言を呈したくなってしまう点は、こういうことだったのよ、と声を大にしていいたいことが書いてあった。 ただ、本書で紹介される本があまりにも古典然としたものばかりで、これを読んだ人が「やっぱりねえ、岩波と福音館の本を読んでればいいのよねえ」なんて思ってしまいそうなのが困る。こういう本をベースに、今の子どもにも積極的に伝えたい思いを持っている作家を正当に評価し、紹介していく仕事が肝心。これから刊行という絵本のガイドブックなどに期待したい。(以上ほそえ) 『うさぎのチッチ』(ケス・グレイ:文 メアリー・マッキラ:訳 二宮由紀子:訳 BL出版 2003/2005.02.25 1300円) 子うさぎのチッチは、うさぎなんであるからして、両親もうさぎだと思いこんでいる。それはもうしょうがないことで、チッチがうさぎなら、両親もうさぎなのだ! が、ある日両親は告白する。母親は牛で父親は馬だと。子どもが多すぎてチッチを育てきれない親が、この二人に預けていったのだ。牛の母親と馬の父親はそれはもう一生懸命、子うさぎがすくすく育つように、うさぎ向きの環境を整えて親業をやっていたのだ。 とてもユーモラスではありますが、アイデンティティクライシスですから深刻でもあります。物語はそこを暖かく掬い取って、大事なのはこれまで積み重ねてきた関係性なんですよってことを、わかりやすく提示してくれます。 訳者が二宮なのは大正解。二宮の描こうとしている世界と、この作品はリンクしています。(hico) 『ADDとADHD』(ジュディス・ピーコック 上田勢子訳 大月書店 2005.02.15 1800円) 10代のメンタルヘルスシリーズ最終巻。 注意欠陥・多動性障害に関する理解のための役に立つ1冊です。理解のないところでは、本人のシンドサはなかなか伝わらないのがADHDです。そこがまた本人の苦しみともなるのです。 ぜひ、お読みください。 このシリーズは、日本ではまでそれほど話題にもなっていない10代が抱えるシンドイ病を、わかりやすく教えてくれました。 図書館・学校の職員室、保健室には常備して欲しいのですよ。(hico) 『さかなのかたち』(ともながたろ:え なかのひろみ&まつざわせいじ:ぶん アリス館 2005.02.28 1400円) シリーズ2作目。今作では、いきなり、魚キットを組み立てます。つまり、プラモデルのパーツに仕立てて、魚の「部品」を提示し、そこから魚を「かたち」で分類していくのです。 とてもわかりやすい導入です。子どもたちがどう食いついてくるかを考えています。 一つのまとまりとしての魚が見えてくると楽しさも倍増。 おまけもあって、うれしいですよ。(hico) 『アティと森のともだち』(イェン・シュニュイ:作 チャン・ヨウラン:絵 中由美子:絵 岩崎書店 2003/2005.01.27 1300円) おばあちゃんと約束したこと。いつかアリ山の森へ二人で行こうって。でも叶わなかった。 アティは一人旅立つ。おばあちゃんの形見、さくらの花びらを持って。 幻想的手神話的な物語。画もそれによく応えています。深みがあり、幻想がリアルです。 台湾の絵本を見る機会はあまりなかったので、うれしい。(hico) 『ぼくじょうにきてね』(星川ひろ子・星川治雄:写真・文 ポプラ社 2005.02 1200円) 「ふしぎいっぱい写真絵本」というシリーズの4巻目なのですが、皆越ようせいいと、星川ひろ子・星川治雄が交互に発表しています。虫一筋の皆越と、子どもの営みを描く二人。作風は違うのですが、命への愛おしさは同じです。 今作は、牧場で生まれたオスの子牛と少女の交流を描いています。 もちろんかわいいし、かわいがるけれど、乳牛のオスですから売られていく。そんなことも含めて、静かに、そして力強く写真は撮られていきます。(hico) 【創作】 『鏡のなかの迷宮 ガラスの言葉』(カイ・マイヤー:作 遠山明子:訳 あすなろ書房2002/2004.06) ついに完結です。舞台は水の都からエジプトへと移り、すべての謎が解き明かされていく快感を味わえます。 母と娘を巡る物語でもあり、欲望の物語でもあり、友情の物語でもあります。 鏡の目、石のライオン、スフィンクスと魅力的な道具立て満載で、それだけで堪能できます。この作者の美意識に乗ることが出来れば、大満足でしょう。 完全なハッピィエンドではありませんが、そんなことを求めるのは贅沢です。(hico) 『父親になったジョナサン』(ロバート・サンチェス:文 クリス・シュナイダー:写真 上田勢子:訳 大月書店 2005.02) 人がただ生きていることの愛おしさがストレートに伝わってきます。ジョナサンは輸血によってエイズ感染した子どもとして、13年前『ぼくジョナサン・・・エイズなの』で日本でも紹介されました。彼は象徴的存在になったのですが、であっても私たちと同じく日常は続きます。差別による抑圧と、病気への不安を抱えながらも。 そんなジョナサンも父親になりました。 ただそれだけのこと。だから大事なこと、です。(hico) 【宣伝】 4月に『大人のための児童文学講座』(ひこ・田中 徳間書店 1500円)が出ます。どうぞよろしゅうに。(hico) |
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