No.89                2005.05.25日号

       
【絵本】
児童文学書評2005,4
○オルファースの代表作の復刻
「ねっこぼっこ」ジビュレ・フォン・オルファース作 秦 理絵子訳 (1906/2005.4 平凡社)
1916年初版のこの絵本は不思議だ。ドイツで刊行されてから、1930年には英訳されて出版、スイスでは小さなメロディーを伴って刊行されている。さして有名でもない女流画家が作った1冊がこのように広く世界で読み継がれるようになったのはなぜだろう。小さなものたちが生き生きとうごめく様、身近な自然の移り変わりの不思議を幼い人の心が受けとめることのできる物語の形で描き出したからだろうか。
 以前、福武書店で翻訳刊行された時のタイトルのまま、新たな訳で今回復刊された「ねっこぼっこ」は、より親しみやすく、口ずさみやすいリズムとやさしさにあふれている。2003年に童話館出版で翻訳された絵本は1930年の英訳版をもとにしており、オルファースの原文の持つ、歌うようなリズムや簡潔な表現の良さが失われてしまっていたため、今回のドイツ語版からの訳出は本当の意味での復刊となり喜ばしい。オルファースの絵本が今なお新鮮に読まれるのは、その端正なイラストの力と共に、詩の形で語られる物語のシンプルな美しさが強く心をつかむからにちがいない。
 本書の巻末にはドイツ語版から転載されている、オルファースや「ねっこぼっこ」の魅力を語るヴォルター・シェルフの解説は、ドイツ絵本や美術の歴史の中でのオルファースの位置付けや絵を読むということ、絵本を読むということをきちんとなした、絵本批評としてもお手本になるような文章になっている。このような批評のもと、オルファースの絵本は今もなおドイツで何度も復刊され、広く読者を獲得しているのだ。
 子どもの心象にぴったりとよりそい、そこに真実の光をそそぎ、心浮きたてるリズムと安心のストーリーを与える絵本。それはやすやすと創りだせるものではないだろう。とくに現代のような子どもを子どもとして過ごさせてくれない時代においては。子どもに向けて、子どもの目や心によりそい、世界の成り立ちのもともとの形を知りたいという欲求に誠実に向かい合う ことができる人こそが真の子どもの本の作者なのだ。オルファースは、ひざまづき、美を発見し、それを求めようとしてきた。そういう心の在り方が、子どもの心象と重なって稀にみる幸せな絵本となったのだと思う。

○その他の本 
「それは すごいな りっぱだね!」いちかわけいこ文 たかはしかずえ絵 (2005.3 アリス館)
子犬があおむしやおたまじゃくしやひよこに「おおきくなったら なにになる?」とたずねると、それぞれちょうちょやかえる、にわとりに成長するのを「それは すごいな りっぱだね」と目を見はる。前作で「なにたべてるの?」と動物たちに聞いて歩いたねこの登場の仕方が上手い。このねこさん、おおきくなったらトラになるの? ライオンになるの?ときかれたら、「ぼくはうまれたときからねこだから、これからも いっぱなねこさ」とにやり。それまでのリズムを壊す猫の登場でこの絵本が生きた。

「そっとしておいて」井上よう子作 ひだきょうこ絵 (2005.1 佼成出版社)
空き地に家をたてようとやってきた家族。みみをすますと小さな生き物たちの声がきこえてきました。「そっとしておいて」 それはちょうちょうの声。かえるの声。小鳥の声。空き地はいろんな生き物たちの子育てする家でいっぱいだったのです。さて、どうしたものか。パパが考えた家というのは……。淡い色使いのデザイン化されたかわいいイラストで春らしい1冊。

「ぷかぷか」石井聖岳さく (2005.4 ゴブリン書房)
気持ちの良い日に、ぷかぷかと波間をただようタコくん。もし、空を飛べたらどうやってとぼう? 気球みたいにふくらんで? それともヘリコプターみたいに足をぷるぷるまわして? 雲にのっていろんなところにいってみたいな……と愉快な想像をふくらませます。たくさん考えて遊んでいるうちに、ざば〜んと船がおこした波にのって、ひゅ〜んと空へ。のんびりした雰囲気の心広がる絵本。

「はなちゃん すべりだい」中川ひろたか文 長 新太絵 (2005.5 主婦の友社)
赤ちゃん絵本「おとうさんといっしょ」シリーズの第2弾。今回はお父さんと一緒に公園に出かけたはなちゃん。お父さんに抱えてもらって、すべり台をひゅーんとすべると、ひこうきに。空から見ると、お家は小さい。どんどん広がる空想の世界。一緒にいるうれしさが、空想の大きさによく現れている。

「ドドとヒ− こぶねのぼうけん」おだしんいちろう作 こばようこ絵 (2005.3 金の星社)
絵本の公募展で最優秀賞をとった作品をもとにして刊行された、新人の絵本。ウリの村を舞台に、ドドとヒ−という動物やいろんな登場人物を配したつくりになっている。絵本の中では、そんなにも大きく扱われてはいないが、それぞれにきちんと名前をもらい、そでで紹介されていたり、見返しに村の細かな地図をのせているところを見ると、この絵本のストーリーはほんの一部を表わしているに過ぎず、もっと大きな世界をうしろに持っているのかな、と思わせる。うまくその物語世界を絵本のストーリーにとかし込めばもっと登場人物たちが生きるのに。そこが本書のストーリー展開の落ち着かなさになっているような気もして残念。絵は外国の絵本みたいに洒落ていて、今風。川の水があふれてベッドが流れ出してしまい、流れていく先々で、村に住む人たちに出会い、海まで出たら、また戻るというストーリー。途中、水がひいて、こぶね(ベッド)を引きずって歩くということになるのだが。行って帰ってくるという流れの中に、もう一つ必然があるといいのに。
こういう姿の主人公だからこその展開や登場人物との絡みなど、本当はもっと書き込んだテキストがあったのかなあ。

「うたうしじみ」児島なおみ作 (2005.4 偕成社)
1984年にリブロポートで刊行された絵本に一部描き直しを加え、復刊された絵本。鉛筆のやわらかな線で描かれた魔法使いと猫のトラジとしじみのかもし出す、そこはかとないユーモア。上質な笑い話を読むような、都会的でありながら、ほっこりとした落語のような読み口の絵本。また、手に入るようになってうれしい。
「どろぼう夫婦」も復刊されるといいなあ。


「絵本 アンネ・フランク」ジョゼフィ−ン・プール文 アンジェラ・バレット絵 片岡しのぶ訳 (2005/2005.5 あすなろ書房)
「絵本ジャンヌ・ダルク伝」に続くバレットの伝記絵本。アンネ・フランクの誕生の日からアムステルダムの隠れ家から連行されるまでを淡々と描いている。アンネの日記でかかれる隠れ家での様子よりもそれまでの暮しがだんだんと押しつぶされていく様を描く方にページが割かれているため、アンネの成長とともにきな臭くなる時代の流れをより強く感じる構成になっている。戦後、ただひとり戻ってきた父オットーにアンネの日記を手渡すミ−プの姿で絵本は終わっているが、その後、日記がどのように広まっていったかはきちんと解説されている。歴史や人物を絵本で描くという意味は大きな情報の固まりを解きほぐし、人物に寄り添った形でかたり直すことで、身近に感じ、共感し、興味を持ってもらうことだと思う。それは、何を描き、何をかかないかという、取捨選択のセンスにかかっている。作家も画家も、その難しさに負けていないところがえらい。

「騎士とドラゴン」トミー・デ・パオラ作 岡田 淳訳 (1980/2005.3 ほるぷ出版)
パオラのずいぶん前の絵本。騎士とドラゴンは戦うものときまっていますが、なんともやる気のないお二方に、お姫さまが良いアイデアを授けました。それぞれの得意技を使って、あら、やるじゃない、とにっこりできそう。ユーモラスで、牧歌的。こののんびりさ加減が、今の絵本にはない良さか。

「くまさんはおなかがすいています」カーマ・ウィルソン文 ジェーン・チャップマン絵 なるさわえりこ訳(2003/2005.4 BL出版)
「くまさんはまだねむっています」に続く第2作目。今回は春が訪れ、冬眠からさめてお腹がぺこぺこなくまさんが、ともだちの動物たちと一緒に、イチゴを食べたり、魚を食べたり……。最後はみんなでパーティーなのだけれど、くまさんばかりが食べていて、みんなは全然お腹いっぱいになりませんでした。春の森の様子がとてもきれい。

「三つの金の鍵〜魔法のプラハ」ピーター・シス作 柴田元幸訳 (1994/2005.3 BL出版)
プラハ出身の作家シスの渾身の1作ではないか。緻密なエッチングを思わせる絵、幻想的で、イメージを重層化した構図、一つの絵の中にいくつもの絵を溶け込ませ、在るものや亡いものも感じさせようとする。プラハからロンドンへ行き、アメリカにたどり着いて絵本を描き始めたシスが、もう一度、自身を回復するためにこの絵本を描いたように思われてならない。このあと、シスは小さな息子のためのシンプルな「マットくん」シリーズやさまざまな暮しに生きる人々とかかわっていく「マドレンカ」のシリーズなど新たな境地を示す絵本を輩出しているのだから。プラハの町に息を潜めている伝説を一つ読む度に、金の鍵を一つ得る少年。それを3つそろえた時、幼い頃に過ごした家の中に入ることができるのだ。引用される絵。語り継がれる物語。幼い日々に戻るのに、こんなにも手をつくさなくてはならないシスという人は、どういう日々を送ってきたのだろう。

「ミミズくんのにっき」ドリーン・クローニン文 ハリー・ブリス絵 もりうちすみこ訳 (2003/2005.3  朔北社)
ミミズが主人公の絵本はアルバーグ夫妻の「大地の主の物語」というユーモラスなものがあるけれど、本書もなかなかおもしろい。ミミズの男の子の日記の拾い読みという体裁で描かれている。人間の暮しのパロディのような面もあるので、おもしろがるのは比較して、差の判るちょっと大きな子たちだろうと思う。ミミズの基本的な暮しは押さえてあるので、虫や生き物に馴染めない子どもに、こういう絵本で親しみを持ってもらうにはいいだろう。

「にっこりねこ」エリック・バトゥー作 石津ちひろ訳 (2003/2005.2 講談社)
色鮮やかなコラージュ?で描かれた絵本。今までのバトゥーの画風とはちょっとちがっていて、エリック・カールのように紙に色をぬりかさねたものを、ざくざく切って貼って、作ったような絵にみえる。お話もそのタッチにあった大胆なもので、なんとも人をくったような感じで民話のような大らかさ。

「かわっちゃうの?」アンソニー・ブラウン作 さくまゆみこ訳 (1990/2005.3 評論社)
ブラウンお得意のシュールに変化するものたちを描く絵本。毎日の暮しの中で目にするものが、なんだかちょっと変わって見える、そんな日。それには、理由があったのです。ラストに明かされる理由を見て、もう一度、最初から絵を見直してみると、変化して見えるものたちのなかに、男の子の心境が暗喩としてイメージ化されているのが判るはず。深読みしてもいいのだけれど、単に変化を楽しんでもOK。

「ひよこをさがして あひるのダック」フランセス・バリー作 おびかゆうこ訳 (2005/2005.5 主婦の友社)
めくっていく楽しさにあふれた仕掛け絵本。あひるのダックがひよこを探して歩くのだけれど、目の前にはちっともあらわれず、うしろにみんなそろっているのを発見するのが楽しい。カウンティングブックとしても素直で楽しめる造りになっている。

「バニーとビーの みんなでおやすみ」サム・ウィリアムズさく おびかゆうこ訳 (2003/2005.5 主婦の友社)
うさぎとみつばちのきぐるみを着た小さな子、バニーとビーのお話第2弾。今回はおやすみなさいの絵本。夜になって寝ようとしてるのに、動物たちが遊びに来てしまい、困ってしまうふたり。やさしい繰り返し、かわいらしいラストシーン。ベッドサイドブックとして。

「ロッテ ニューヨークにいく」ドーリス・デリエ文 ユリア・ケーゲル絵 若松宣子訳 (1999/2005.3理論社)
「ロッテ おひめさまになりたい」に続く第2作。刊行年を見ると、本書の方が先に描かれているようなのだけれど。今回、ロッテはお気に入りのひつじのまくらを持って、ママと一緒に、おばさんの住むニューヨークにやってきました。ホテルにまくらをおいて、出かけたロッテ。戻ってみると、きれいにベッドメイキングされた部屋にはひつじのまくらはなかったのです。泣いて、さがして、頼んでみると……。旅行する時にも、お気に入りのものがないと落ち着かないのは、小さな子の常。そういうものほど、行方不明になりがちなことも事実。幼い子に身近な不安な状況を、ちょっとしたファンタジーでくるんで、安心のラストにもってくる手際がみごと。

「くんくまくんとバケツおに」今村葦子作 菊池恭子絵 (2005.4 あすなろ書房)
「くんくまくんときゅんまちゃん」「くんくまくんとおきゃくさま」につぐ、シリーズ3作目。こぐまの兄妹の日常を切り取った小さなお話をおさめる。今回は子どもの小さなポケットの秘密を見せてくれる「たからもの」、なんともおかしな一人遊び「バケツおに」、わさわさとうれしい気分の「おおそうじ」の3話。どの話も、気持ちの安定した両親に愛され、自分を疑うことなく子どもという存在を思いっきり生きている子が描かれる。兄妹のやり取りのおかしさや落ち着いた両親の佇まいが安心の読後感を与えてくれる。

「ゆうびんやさんとドロップりゅう」たかどのほうこ作 佐々木マキ絵 (2005.4 偕成社)
1991年クロスロードで刊行されたものの改訂版。だるまさんみたいにお腹の突き出た郵便屋さんが主人公。
つりに出た小舟が故障して、たどり着いた不思議な島。どこからか「だるまさん」「ゆうびんやさん」という声が聞こえ、それにつられて歩いていくと水玉模様の不思議な動物に出会う。不思議で愉快なものの出てくる話といえば、この作家のお手のもの。心の奥に沈んでいた記憶が、その不思議なものたちと出会うことでしっかりと刻み込まれる様子を丁寧に穏やかに描いています。小さな子たちには愉快な冒険話として、おじさんの年齢になるものには、一緒に心の奥底をのぞきこんでみているような切なくなるようなお話として、読めてしまう。幼年童話というものの幸せな形を感じる。

「くまざわくんのたからもの」きたやまようこ作 (2005.3 あかね書房)
いぬうえくんとくまざわくんシリーズの4冊目。今回はたからものをかしてあげる、かしてもらう、だいじなものって何かしら……とくまざわくんがいぬうえくんとの暮しの中で、考えたり、思ったりすることが中心になっている。すごく微妙な気持ちの揺れや思いをきちんとすくいとって、毎日の暮しの中でおいてきぼりにされがちな疑問を小さな子にも伝わる言葉とストーリーでかたちにしているのがすごい。一言でいうとものを所有することの重さ、ということになるのかもしれないけれど、自分のもの、他人のもの、かす、かりる……自分と他者との関係性をものを通して考え直すということかしら。自分というものを認識しはじめるのは、自分を人から呼ばれている名前ではなく、「ぼく」「わたし」と呼びはじめる時期、5〜7才頃としたら、この本を手にする子どもにも、このテーマは十分過ぎるほど身近なものなんだ。おもしろい!

「ふしぎな笛ふき猫」北村薫文 山口マオ絵 (2005.2 教育画劇)
千倉の民話「かげゆどんのねこ」をもとに、それを膨らました形でストーリー化された童話とよべばいいものか。いわゆる民話、伝承の再話というのとも違うし。笛好きのかげゆどんは村の庄屋さま。年貢米のお知らせのために泊まった宿で猫たちの集う不思議な光景を目にします。次の日、集まりが終わり、心重く自宅に帰ると、可愛がっていた猫がいなくなり、愛用の笛もなくなっていました。その後……という部分からが作者のふくらましになるという。この後日談があることで、物語としてはオチもつき、めでたしめでたしとなるのだが。巻末には作家、画家の対談がつき、猫についての思いやこの民話のもともとをさぐる様子がみえてくる。

「私の絵本ろん」赤羽末吉 (2005.4 平凡社)
1983年偕成社より刊行されたものの再販。副題に中高生のための絵本入門とあるが、雑誌「飛ぶ教室」や「絵本とおはなし」(現在の月刊MOEの前身にあたる雑誌)や「母の友」や「びわの実学校」などに寄せられたエッセイや絵本時評、国際アンデルセン賞画家賞を受賞した時のスピーチ、自作の絵本のできるまでを描いた文章など、著名な絵本作家の自在な文筆の才を存分に感じることのできる本となっている。こんなにも絵本を作ったり、描いたり、読んだりすることについて、真摯に向かい合い、その姿を文章にして示した人であったとは。子どもを単に消費者としか考えていないものが横行し、真に子どもを対象とする文化に対して評価の低い今だからこそ、子どもが手にするものを作ることの喜び、自負、願いを作り手の側からきちんと伝えてくれる本書が、この機会に広く読まれてほしいと思う。黒沢映画や「ジョーズ」や「E.T.」や蜷川幸雄の舞台に心踊らせ、対抗心を燃やす絵本作家であったこと、中国の少数民族の姿や日本の風土を絵に定着させるために、どれほどの取材や文献探索をしていたかを本書で読み、改めてその感覚の自由さと厳格さを思い知った。
(以上ほそえ)

○「ちびくろさんぽ」復刊
 「ちびくろさんぼ」瑞雲舎 (2005.5)
 岩波版「ちびくろさんぼ」が復刊された。どの書店にいっても平積みにされ、新聞にも復刊のニュースが社会面に出た。あの17年前の騒動はなんだったのだろう? あの時、声高に非難した人たちは、今、どうしているのだろう? それだけが、私の疑問。瑞雲舎は「支那」という言葉が使ってあることで問題になった「シナの5人きょうだい」も復刊している。今回の復刊も、そのながれにあるのだろう。
 「ちびくろさんぼ」は絶版問題が出てからも、違う表現を求めて、日本でもアメリカでも何冊も絵本になってきた。もともとはインドの話なのだから、インド風の装束や名前に改めるべき、とアメリカでは新たな画家により刊行され、それも翻訳出版されてきたのだが、これほどまでに読者を獲得したとはきいていない。
「ちびくろさんぼ」の場合、幼児を引き込むストーリーの展開の見事さを本の評価にする人はたくさんいたのだが、結局日本人は、ヴィジュアルとして、岩波版を好むということが、今回はっきりしたように思う。それは、いったいどういうことなのか? 絵が変わっても、ストーリーが生きてさえすれば、他のイラストの絵本でも読者を獲得するはずではないか。でも、日本では、だっこちゃん人形や旧カルピスのマークや、イギリスで一世を風靡したゴリウォーク人形と同じように、ひとつのキャラクターグッズとして、この絵本を見ているのだと思う。
グッズはものであり、それが生身の人間とつながって認識はされない。この絵本で描かれる主人公は、アフリカ系の人間でも、インド系の人間でもなく、ちびくろさんぼという記号でしかない。それは絵本にとって、かなしいことではないだろうか。子どもにかかれる登場人物や動物は、幼児向けのものほど、キャラクターグッズ化されやすい。ミッフィー、ババール、おさるのジョージ……。グッズになったキャラクターは今の日本でとても人気がある。安心だからだ。グッズはなにもこちらに変化も求めてこないし、気持ちを逆なでさせられることもない。手元においておきたいという欲望を増幅させるものでしかない。登場人物をキャラクター化することで、より強い印象を残し、物語に親密さとシンプルな美しさを与えるという幼児に向けた絵本作りの工夫がストーリーを廃することで(イラストのみの記号となることで)、かわいい、親しみやすい、なつかしいという商品になるのだ。同じような作り方が絵本に対しても行われることが最近多いように思われる。グッズとしての絵本。かわいい、なつかしい、親しみやすいキャラクターを全面に出して害にも益にもならないようなつまらない筋でページを埋めたもの。伝えたい思いやこぼれ落ちてしまうような感情や別の視点を用意する意図など、読者に用意する気概もないもの……。読者がそのようなものを必要と思わなくなっているのかもしれないのだけれど。
今回の復刊で気になること。岩波版の復刊ということで表紙などのデザインもそのままなのだが、せめて、作者、訳者、画家の紹介や元本となったアメリカ・マクミラン社の書誌情報などはのせるべきだと思う。1934年のマクミラン社版では岩波版の表紙になっているイラストは入っていない。初版の1927年版を見ていないので判らないが、この表紙は日本でドビアスの絵をまねて、かきおこされたのではないかと想像される。今回の復刊にはいらなかった、もう一話のイラストは日本人の画家がドビアスのタッチのまねをさせられているのだから。
手持ちのマクミラン社版(資料画像)は、小ぶりの正方形の絵本で、イラストと文字のはいりかたも、きちんとデザインアップされ、ページをめくって見るという動きも計算された、丁寧に作られた絵本だ。岩波版では割愛されているドビアスの絵もこの中で見ると、とても良く考えられて描かれており、力のあるイラストレーターだったのだなと感じる。他にも自分で作絵をこなした絵本も作っているし。でも、このマクミラン社版はもうアメリカでは販売されていないし、図書館でも手にとれないはず。
そんなこと関係ないよといわれたら、そうなのだけれど、わたしは「ミスター・インクレティブル」で描かれた、あの慇懃な上司の東洋系のカリカチュアされた表現に嫌な気がしたことを思い出す。やっぱり、アメリカ人って日本人をこう思ってるんだなあって。だって、アニメだよ、アニメとしてこういうキャラクター化した記号で表現することはお約束だし、一種の表現の進歩でしょう?と言われることは重々承知の上。でも、今回の「ちびくろさんぼ」の復刊に関して感じたのは、そういうこと。17年前、私たちはそれを知ってしまったのではなかったか?

○その他の絵本、読み物
「もどってきたぜ」
ジョフロワ・ド・ペナーヌ作 石津ちひろ訳(2000/2005.4 評論社)
昔話では悪者で有名のオオカミがふるさと(童話の森?)にもどってきたところからお話ははじまる。やぎ、こぶた、ピーターにあかずきん、うさぎ……と訪ねていくと、みんなで集まっておおかみにおそいかかった!
わるいことはしない、こわいはなしをたくさんしてくれるってやくそくするなら、一緒に夕御飯食べてもいいよだって! 昔話のパロディはたくさんあるけれど、オオカミ話をみんな集めてしまったところが、この絵本のミソ。

「モルフ君のおかしな恋の物語」カール・クヌー作 今江祥智訳 (2002/2005.4 BL出版)
サーカスの曲芸犬として、真面目にお勤めしてきたモルフ君。まわりを見回してみると、ぼくだけひとりじゃないか……。寂しくなって相棒を探す旅に出かけました。なんとも奇妙な味のイラストと物語。とぼけているようで、愛おしくて。ラストのオチににんまり。

「マドレーヌのメルシーブック〜いつもおぎょうぎよくいるために」ジョン・ベーメルマンス・マルシアーノ作 江國香織訳 (2001/2005.5 BL出版)
おなじみ、かわいくて人気者のマドレーヌがごあいさつからごめんないまで、毎日の中でどういう風にみんなとつき合っていくかをひとつひとつ、説明してくれます。それはシンプルで、まっすぐに小さな子に伝わるよう、状況を吟味して描かれています。ユーモラスに、ウィットに富んだことばで。こういう本を見ると、欧米流のマナーというのは侮れないものと思います。お説教くさくならず、おしつけがましくなく、スマートに伝えられるのは、ベーメルマンスの絵本にあふれるほがらかさと子どもという存在への信頼があるからでしょう。

「ぼくとくまさん」ユリ・シュルヴィッツ作 さくまゆみこ訳 (1963/2005.5 あすなろ書房)
「よあけ」や「ゆき」「あるげつようびのあさ」で知られる作家のデビュー作。細い線に淡く彩色された絵。今までに翻訳された絵本よりも、ささやかで子どもに寄り添った目線にシュルヴィッツの繊細な感覚を強く感じさせる。詩的なことば。白い空間が生かされた絵。大人のいない子どもだけのスモールワールドがいかに豊かにあるか。幸せな子どもである<ぼく>を絵本に見ることで、読者もまた、小さくても自分の思いで満たされた空間にあった幸福を思い出す。小さな子には、ノスタルジィではなく、現在進行形の自分の物語としてアピールするはずだと思う。

「ぼくとバブーン〜はじめてのおとまり」ベッテ・ウェステラ作 スザンネ・ディーテレン絵 野坂悦子訳(2001/2005.5 ソニー・マガジンズ)
オランダのやさしい色使いが印象的な絵本。画家はこれが初めての絵本という。作家は「おじいちゃんわすれないよ」で高い評価を得ているひと。はじめて、ひとりでおばあちゃんのうちにおとまりする男の子の不安な気持ちをシンプルに描いている。男の子の本当の気持ちを表現するのは、ぬいぐるみのくまのバブーン。はしゃいであそんでいても、きれいに夕御飯を食べても、素敵なベッドを用意されても、バブーンはうかない様子。それは男の子のぬぐえない心持ちなのですから。くまさんに託することで伝えられるほんとの気持ちをわかってくれるのはやっぱりおばあちゃん。何気ない展開だが、安心の絵本。

「せかいで いちばん つよい国」デビッド・マッキー作 なかがわちひろ訳 (2004/2005.4 光村教育図書)
自分の国の暮しが一番良いと思っている国。その暮しを広めるために、戦争をするという、ああ、これってあの国のことかなと思ってしまう設定。まわりを征服しつくして、最後に残った軍隊も持てないような小さな国をせめることに。すると、その国では、兵隊たちがそれぞれの家に迎え入れられ、一緒に食事をしたり、うたを歌ったり、大統領も一番大きな家を与えられ、まわりを行進する他は家に手紙をかいたりして過ごすことに。帰ってみると大きな国では小さな国のファッションや遊びや料理が流行っていて……。イギリス人らしいウィットにとんだ展開。小学5年生のクラスで読んだ時、「これって大きい国が負けてるってことじゃない?」「せいふくしてないね」とこどもたちが口々に話しはじめるほど、印象的なラストだったみたい。マッキーの絵のラフさが、この物語をひょうひょうとした明るさに導いてくれる出色の絵本。

「はなちゃんおふろ」中川ひろたか文 長 新太絵 (2005.6 主婦の友社)
おとうさんといっしょシリーズ3作目。ボードブック。はなちゃんはおとうさんといっしょにおふろにはいります。すると、石鹸がすべって、お風呂の中に。はなちゃんはあひるさんにのって、おいかけていって……。楽しいファンタジーがゆかいな絵本。おふろはお父さんと一緒という子が多いと思うのだけれど、お風呂につかっているのをいやがる子でも、「いーち、にーい、さんぽのしまうま、ごりらのろけっと……」とこの絵本で歌われているようなへんてこ数え歌をうたったり、ぶくぶくあそびをしたりしたら、きっと、はなちゃんみたいに「たのしかったね、おふろ」といい時間が過ごせるのではないかな。

「ねこはどこ?〜1から20までどうぶついっぱい」グレア・ピートン作 (1999/2005.6 主婦の友社)
ボードブック。フェルトのアップリケにビーズの刺繍をちりばめた愉快なカウンティングブック。日本で紹介されるのは初めての作家ではないかしら。こういう手芸派(勝手に名付けました……)は60年代くらいからいて、面と線のバランスがおもしろい絵本や細かな刺繍でうめつくされた絵本や布の素材感でタッチを出した絵本など、さまざまなパターンの絵本が作られてきた。ピートンの絵本はあかるくてにぎやかで、ど〜んとしているのがおもしろい。手仕事に精を出しはじめると、絵がちまちましてしまいがちなのだが、本作は適度にラフで、それが大らかな味になっている。親しみやすい動物の形、ページでかくれんぼする猫の姿。猫をさがすという視点をプラスすることで、単に数えるだけではなく、ラストのオチにきちんとつなげてあるところがなかなか。

「どうぶつえんでまねっこ パッ!」「まきばでまねっこ メエメエメエ!」ハリエット・ジィファート文 シムズ・タバック絵 木坂涼訳 (2003/2005.5 フレーベル館)
ボードブックにカバー付き。「ヨセフのだいじなコート」で人気のタバックの絵本。この本には切り抜きなどの仕掛けはないけれど、鳴き声をまねっこしたり、走り方をまねっこしたりして、絵本を読みながら、体もつかって遊んでみようというもの。小学校や幼児の教師経験のある作家ならではのアイデア。カラフルで愉快な動物たちの姿が楽しい。訳文も声に出しておもしろく、擬音語や形容詞を駆使して、工夫してある。音楽をつけてリトミックにしてもよさそう。

「くさのなかのキップコップ」マレーク・ベロニカ作 羽仁協子訳(1980/2005.4 風涛社)
トチの実で作られた人形キップコップのシリーズの2作目。キップコップは野原に遊びに出かけます。バッタやアリやとかげ、てんとうむし……。小さな生き物たちが生き生きとくらす様をあたたかみのあるナチュラルな絵でつづります。低い視点で描かれる親しみ深い自然の豊かさを、シンプルに伝えてくれる。

「おやすみなさい」リーヴ・リンドバーグ文 ジル・マックエルマリー絵 なかがわみちこ訳 (2004/2005.4 アリス館)
ベッドサイドブックは数限り無くあるけれど、宇宙にまで思いを馳せて、生き物すべて、星や海にいたるまで、おやすみなさいと告げる絵本はみたことがない。おだやかで様式化されたイラスト。それぞれの休む巣をめぐっていく導入部から、川、海、宇宙に休むものをあげていくクライマックス、またしずかに小さな家の小さなベッドに眠る子どものところへともどってくる展開が素敵。リーヴ・リンドバーグの絵本のテキストにはいつも大きな視点と時間が流れているように思われる。

「でておいで、ねずみくん」ロバート・クラウス文 アルエゴ&デューイ絵 まさきるりこ訳 (1987/2005.5 アリス館)
小さな子の感覚にぴったりする絵本作るライターであり、敏腕編集者であり、イラストレーターでもあったロバート・クラウス。この人の絵本は、なぜだか、小さな子の皮膚感覚に合うようなのだ。アイデアかな? 展開なのかな? 本作でも猫とねずみの追いかけっこがメインになるのだが、それにいたる毎日のやりとりがおもしろい。戸口から突き出される手やしっぽ。目だけがぎょろりと見える日もある。なかなかひっかからないおにいちゃん、すぐにでてきてしまう弟。たいへ〜ん!と急展開しても、安心のラストが待っている。

「やあ、出会えたね!クモ」今森光彦文、写真 (2005,4 アリス館)
出会えたねシリーズも4冊目。クモというあんまり人気のない生き物だけれど、この写真絵本を見れば、どんなに美しく繊細な生き物であるか、わかるでしょう。緑の中にうかぶ丸いきらきらした巣。それがどうやって張られるのかを、じっと観察する目。外では見られず、家での実験。どうしてなのか、想像し、考えて、目的を達するという姿は待つこと、見ることの意味を読者に強く印象づけます。このシリーズの特徴である、写真にはうつせない、作家のその時の感情、感覚を端的に表現する文章が、やはりいい。

「くりちゃんとピーとナーとツー」どいかや作 (2005,4 ポプラ社)
小さないとこたちが遊びにやってきて、ハムスターのくりちゃん大忙し。部屋中散らかして大騒ぎ。外で目一杯遊んでへとへと。でも、マッサージしてもらって元気になったら、大好きなメニューでお料理。みんなで一緒に食べるとおいしいね。小さな子のうれしい一日をかわいく描く。

「ペンちゃんギンちゃん おおきいのをつりたいね!」宮西達也作(2005,4ポプラ社)
ペンギンの仲良しふたり組がつりをしに行くと、サカナやタコやイカがハリにかかるのですが、もう一息で逃げてしまって、そのたびに「ぼくのはこんなに大きかった」と言い合うのです。良くあるパターンなのだけれど、こんなに、というところをイラストで表現したページが、ばかばかしくておかしい。前の恐竜シリーズのおセンチなかんじより、このばかばかしさの方が絶対、良質だと思う。

「はくしゅぱちぱち」中川ひろたか 村上康成絵 (2005.3 ひかりのくに)
「こちょばこ こちょばこ」といっしょにだされたあかちゃんあそぼシリーズ第2弾。小さな子がはくしゅぱちぱちできるようになるのは、すごく大変なことなの。両手を合わせて、音を出すことのむずかしさ。だから、ぱちぱちできた時、まわりの大人も子ども自身も、ほんとうれしくて、何度も何度もしたくなる。この絵本はそのうれしさ、はれがましさをよくとらえているとおもうな。ねこがうたをうたって、くまがごろごろして、ぞうが片手立ちして、おかあさんがたいそう。さいごにのりちゃんが……。読んだ後、まねっこして遊びたくなるよ。

「カクレンボ・ジャクソン」デイヴィット・ルーカス作 なかがわちひろ訳(2003./2005.6 偕成社)
恥ずかしがりやでめだつのが嫌いなカクレンボ・ジャクソン。ひっそりかくれるようにくらしています。イラストの中でも背景と一体となった服を着ているジャクソンをさがす、一種のさがし絵の楽しみも。出かける先に似合った服を作るジャクソンがさいごになったものは……。イギリスのイラストレーター、初めての作絵の絵本。装飾的なテキスタイルみたいなイラストがかわいらしい。おはなしとアイデアとが見事に合わさった幸せな絵本。

「ぼくの鳥の巣絵日記」鈴木まもる作絵 (2005.5 偕成社)
鳥の巣研究家として、もう何冊も著作がある絵本作家の最新作。本書では自宅の山での暮しとともに一緒にくらす鳥たちの生態を四季を追って描き出している。大きなイラストでは定点観測のように家を中心とした周囲の自然の変化を描き、となりのページでこまかな鳥たちのその時の生態をうつす。大きな目と小さな目の両方がないと見えないものがあることを、この絵本の構成は教えてくれる。また、動かない目も必要。ナチュラリストの目だ。

「ローラ〜うまれてくるあなたへ」ベネディクト・ゲティエ作 ふしみ みさを訳 (1994/2005.4 朔北社)
片手におさまってしまうくらいの小さな絵本。でもあたたかい思いであふれています。ローラに向かってやさしく歌うのはパパ。ママのお腹の中にいるローラには、パパの声が良く聞こえるのです。お腹の中のローラがとてもキュート。だんだん大きくなって、パパのうたにあわせて踊れなくなった時、大きな声で名前を呼ばれ、ローラは外へ。誕生です! ママと赤ちゃんの絵本はたくさんあるけれど、マタニティ・パパの絵本は、この絵本が初めてではないかしら。作家の実生活から生まれた、ユニークな絵本を丁寧にかたちにした日本語版。お誕生のプレゼントによさそう。

「見えなくてもだいじょうぶ?」フランツ=ヨーゼフ・ファイニク作 フェレーナ・バルハウス絵 ささきたづこ訳 (2005/2005.4 あかね書房)
「わたしの足は車いす」で障碍を持つ子とそうでない子の出会いをクールにかっこよく描いたコンビの2作目。本作では、まいごになった小さな女の子と泣いていた様子にただひとり気がついて助けてくれた目の不自由な男性。このふたりの道行きを絵本は丁寧に追っていきます。みんなが本当に全部見えているわけではないこと、音でまわりの様子がわかること、盲導犬のこと、スキーだって楽しめること、時計だって読めること……女の子と一緒に目の見えない生活の様々を知らず知らずに知っていくつくりになっている。これもさり気なく子どもの手の届くところにおいておきたい絵本。

「あめあめ ふれふれ もっとふれ」シャリー・モーガン文 エドワード・アーティゾーニ絵 なかがわちひろ訳 (1972/2005.5 のら書店)
雨の日は実はお散歩日和なのに、大人ときたら、よごしちゃうから、かぜひいちゃうからと外で遊ぶのを許してはくれません。雨の日は草も木々も瑞々しく美しい姿、いろんな音も楽しくて、いろんなにおいも強くかんじるのだけれど。雨の日に外で遊びたいなと熱望する子供達のすがたが、広がる想像とともに静かなイラストと詩的な表現でつづられる。ラスト近く「そとであそんでいらっしゃい」といわれた後の子どもたちのうれしそうなこと。2色刷りの地味な絵本だけれど、描かれる世界はきらきらと豊かで、子どもの目を持った大人の作家の作品の良さを存分に感じる。梅雨の時期にぜひ、子どもと一緒に読んで、実際に外に出かけ、雨の日の豊かさを大人も共に感じてほしい。それが子どもと共にあることの喜びだと思う。

「あかいふうせん」ドゥブラヴカ・コラノヴィッチ作 野坂悦子訳(2004/2005,4 講談社)
初めて日本に紹介されるクロアチアの作家の本。パステルで描かれた暖かみのあるイラスト。でこぼこコンビのやり取りはありがちな展開なのだけれど、すんなり心に入り込む。安心して読める絵本。新進作家としてはもう少しストーリー展開やイラストで新規なところを見せてほしい感じもする。

「とくべつないちにち」イヴォンヌ・ヤハテンベルフ作 野坂悦子訳 (2001/2005,3 講談社)
オランダの新進イラストレーターが初めて文と絵を手がけた絵本。ラフに描かれた線、ざくざくときりとられたイラストをコラージュして、絵に微妙な強弱をつけている。この手法は最近のヨーロッパの絵本に良く見られるもの。すこうし影が出たりして、かすかな立体感がおもしろいのだ。本書では、転校してきて、初めて学校にでかけた男の子の1日の様子を淡々と描く。いわれた通りにしたくない気分、このまま家に帰っちゃおうかなと思っていた気持ちがちょっとしたきっかけで変わる様子をストンと切り取っている。このなにげなさがおもしろい。

「あっぱれ!コン助」藤川智子作(2005.4 講談社)
「むしゃむしゃ武者」でデビューした新進作家の2作目。すっかりひとつの分野となった時代物絵本。本作は九尾のキツネである父を助けるコン助の活躍ぶりをえがきだす。けれんみたっぷりに描かれるイラスト。物語の筋もわかりやすく、この世界に入っていくのはむずかしくない。ただ、声に出して読んだ時、テキストの調子がちょっと中途半端なのだなあ。ときどき、テンポがくずれて、わかりにくくなってしまうのだ。絵本の文章にももうすこし心配りを。

「いちばん星、みっけ!」長崎夏海作 佐藤真紀子絵 (2005、3 ポプラ社)
いつもコババンサメみたいにくっついてくる男の子。元気で強い女の子。男の子は低い目線でいろんなことを発見し、想像力で女の子を導く、ちょっと繊細でひ弱な存在として描かれる。いわゆる男の子らしい、女の子らしいと言うステレオタイプに属さない子どもをかきたいという思いは良くわかる。想像や発想が大人の考える小さな子のもの、という風に読めてしまうのがむずかしいところ。でも、こういう日常を舞台にした物語だからこそ、入り込める読者もいるだろう。

「震度7 新潟県中越地震を忘れない」松岡達英 (2005,4 ポプラ社)
中越地震に遭遇した著者の避難の記録と地震の前の川口町の様子やそれぞれの被災者の状況や地震の後の支援体制のようすなど、ナチュラリストならではの目線でしっかりと記録され、共同体としての人間の有り様を伝えてくれる。新聞などの記事よりも視点がはっきりしているので、子供にはしっかりと読み込めるのではないか。地震もまた大きな自然の営みのひとつ、という、自然と人間との関係を見つめ直す著者の目が心に残る。地震マニュアルも巻末に付され、丁寧な本作り。

「クッキーのおうさま そらをとぶ」竹下文子作 いちかわなつこ絵(2005、4 あかね書房)
身近なファンタジー童話として人気になった「クッキーのおうさま」続編。今回は、冒険好きなクッキーの王子様の捜索、救出大作戦。カラスの巣に落とされてしまった王子様。カラスの子に食べられないように、細い枝の先まで逃げて立ち往生。それを見つけた王様が家来たちといっしょに紙飛行機を作って、助けに行くところがクライマックス。無理なくファンタジーの世界に入り込めるところが楽しい。

「おともださにナリマ小」たかどのほうこ作 にしむらあつこ絵 (2005.5 フレーベル館)
なんてへんてこなタイトル!このなんとも人をくったようなタイトルと微妙に違う左右の男の子の絵が気になって、どうしても手にとってしまった。1年生になりたての子が主人公の物語。賢治の童話みたいな味わいで、山の中の小さな小学校も、もうひとつの小学校も愛らしく、登場するものたちも、素朴でまっすぐできもちがいい。初めてひとりで小学校にいく不安な気持ちやなかなか伝えられないくるしさ、なかよくなれたうれしさ。キツネ小学校の生徒と人間の小学校の生徒が出会うという設定はファンタジーなのだけれど、もとになってつづられる感情のたしかさがこの童話をしっかりと子どもへつなげてくれる。イラストもお話によく合っていて、特色の入り方もきれい。ラストの見開きイラストの楽しそうなこと。ひとりひとり指でさしながら、「この子とこの子がともだちね」「しっぽでてる」「かみのけ、ちょっとちがうよ」と絵の中に入り込んであそんでいる子どもの姿がこの童話世界の吸引力を表わしているなあと思った。

「ともだちいっぱい」工藤直子作 長新太絵 (2005,4 文溪堂)
リュックを背中に背負ってお出かけするからリュックのりゅう坊。龍の子どもが主人公のシリーズ第1作。小さな生き物たちと太陽と空と雲と月や星。みんなが同等にしゃべり、助け合い、くらす。この作家のおなじみの作品世界なのだが、やんちゃでさびしがりやであまえんぼうなりゅう坊がかわいくて、身近な子のあの時、この時の表情と重なって見えてしまう。元気なお話、静かなお話、とりどりで、ひとつづつ、おやすみ前に読んであげたくなる。

「11の約束〜えほん教育基本法」伊藤三好・池田香代子著 沢田としき絵 (2005,4 ほるぷ出版)
子どもの権利条約や憲法の読みときの本が刊行されたことがあった。流行りみたいに。教育基本法はそれらにくらべると認知が低く、どういうものなのか、この本を手に取るまで考えたことがなかった。でも、基本法の改正を主張する一派がいて、なし崩しに進んでしまいそうだということは知っていた。絵解きや読みときであらわれてでてくるものは、固い言葉の中に息づく、生き生きとした思いだ。その思いは、巻末の著者ふたりの対話でも語られるが、「われら」がどういう存在でありたいかと希求するのが教育であり、それを保証するのが基本法であるのだと初めて納得した。教育が危ういとか、子どもが危ないとか巷ではいいつのる人がいる。いいかげんにしてくれよ、渦中にある親や教師や子どもは思っている。わたしもそのひとりだ。本当に子どもや未来を大事にするのであれば、こんなふうにはしないはずだということばかり、行政はしてくる。合理化や省力化というお題目のもとに。ものごとのもともとを見直し、つめていく作業は、目指される高みを設定しているからこそできるのではないか。それが基本法であり、憲法であり、子どもの権利条約などであるのだと思う。国語教育から人間教育への広がりと持っていた大村はまの実践や最近の苅谷剛彦のとなえる教育や学ぶことの意味の再構築など、この本を読んで思い起こされるものがたくさんあった。ひろがり、つながっていける1冊だと思う。
(以上ほそえ)
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【創作】
『ハリーポッターと賢者の石』(J.K.ローリング 松岡佑子訳 静山社)
 主人公ハリー・ポッターは、赤ん坊の時から選ばれし者です。最強の闇の魔法使いであるヴォルデモートは、ハリーの両親を殺害したのですが、ハリーにだけは呪いが効きませんでした。それどころかにヴォルデモートは力を失いどこかに隠れてしまいます。「あの子は有名人です--伝説の人です」とマクゴナガル先生。「魔法界の子どもは一人残らずハリーの名前を知っている」とハグリッド。
 最初からこんなに持ち上げられている主人公はめったにいません。その後も物語はことあるごとにハリーの優位さを描きます。
 魔法界の人々はヴォルデモートを恐れていて、その名を口にすることができず「あの人」と呼んでいます。名前を口に出せるのは、ホグワーツ魔法魔術学校校長ダンブルドアとハリーだけです。
 学生寮でハリーは生徒たちの注目の的です。
 箒に乗ってする飛行訓練では、先生の言いつけを守らずに勝手に空を飛びますが、罰は与えられません。その飛行を見ていた寮監のマクゴナガル先生は、クィディッチという空を飛ぶ球技の有力メンバーにハリーを推薦し、みんなが憧れている最新型の箒、ニンバス2000までプレゼントします。
 ここまで特別扱いの存在であっては読者の共感が得られないように思います。しかし、この物語はファンタジー仕立てにすることでハリーと読者を近づけます。まず人間界と魔法界を分ける。そして、人間を「マグル」と繰り返し呼ぶことによって、まるで人間界の方が異世界であるような印象を読者に与えます。そして魔法界を見渡すと、魔法を除けば普通の寄宿舎学校の日常が広がっています。そのことを印象付けるために物語は、入学用品を買いにいくところから細かく語ります。制服はローブに三角帽。いかにも魔法使いの姿ですが、「衣類にはすべて名前をつけておくこと」という注意書きは人間界らしいものです。教科書も列記されます。「魔法史」(バチルダ・バグショット著)と、ご丁寧に著者名も書かれています。魔法界だから教科書のタイトルが「魔法史」なのは当たり前です。しかしそれは「歴史」が「魔法史」になっているだけで、むしろ新入学、制服、教科書、学用品と、人間界の学校そのままであることに注目したいです。つまり、魔法界の子どもの生活も、主たる読者である子どもたちのそれとほとんど同じであることが強調されているのです。
 同じであるなら、「子ども」から「魔法が使える子どもへ」の飛躍も、物語の中なら、それほど難しくはありません。そして魔法が使えるハリーになりきったとき、彼が選ばれし者である方が楽しいのです。
 この物語はファンタジーというより、ファンタジー的な小道具や要素を付加することで、子どもたちがよく知る日常を冒険空間に描き変えているのです。(hico)(徳間書店「子どもの本だより」2005.03)

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 ずっと本当の両親だと思っていたら、実は違っていた。『うさぎのチッチ』(ケス・グレイ文、メアリー・マッキラン絵、二宮由紀子訳、BL出版、1300円)は、ショックなシーンから始まる絵本。でも、暗い話ではなく、とても温かいです。
 チッチは子うさぎ。だから当然、親もうさぎだと思いこんでいます。ピョンピョン跳(と)べるようになったチッチは、親が同じように跳べないのを不思議に思う。
 絵本ですから、ここで次のページを開きます。と、そこに描かれているのは、牛と馬。彼らは、子どもが多すぎて育てきれないうさぎからチッチをもらって育てたのです。トンネルをうさぎの巣穴(すあな)にみたて、毎日ニンジンを食べて、チッチがうさぎとして育つように配慮しながら。
 家族一緒に川面(かわも)に立ちそれぞれの姿を水に映(うつ)して眺(なが)めたとき、チッチは自分が両親と全く違うことを知ります。自分だけが白くて、耳が長くて、シッポが短いのを。
 家出をするチッチ。必死で探す父親と母親。
 戻ってきたチッチは、体を泥(どろ)で茶色に、耳を洗濯(せんたく)ばさみで短く丸め、シッポには枝を結びつけて帰ってきます。
 そんなことしなくてもいいのに。そのままのチッチでいいのに。
 血のつながりではなく、一緒に過ごした日々が家族を作っていくことが、わかりやすく描かれています。(hico)(2005年5月2日 読売新聞)

【ノンフィクション】
 身体障害者の友人が、同じ郵便ポストを、1枚は立ったままの姿勢から、もう1枚は車いすから撮った写真を見せてくれたことがあります。同じ風景を見ているつもりだったのに、実は見え方が違っていたのを、わかりやすく教えられました。
 「ぼくがこの本を書いた理由の一つは、人生ってASの人の目には(略)どんなふうに見えているのか、みんなにわかってほしいからだった」。『青年期のアスペルガー症候群』(ルーク・ジャクソン著、ニキ・リンコ訳、スペクトラム出版社=(電)03・5682・7169、1900円)の中の一節です。まずは当事者の話に耳を傾けること。

 ルークによれば、AS(アスペルガー症候群)は「コミュニケーションの不具合」があり、彼の場合だと「ことばづかいが堅(かた)苦しくて」、「自分がしゃべりだしたら、相手が退屈してても気がつかない」。大好きなコンピューターの話になると、もう止まらないわけ。そんな自分を隠さず紹介することで、AS以外の人たちからの返事を待っているのです。
 ASに限らず子どもが何かの障害を持っているとき、大人はそれを隠さずに教えて欲しいともルークは書いています。何かがわからず不安なままでいるより、「自分で自分のことはようく知って」おきたい。隠すのは「たとえ善意で考えたことにしても、やっぱりそれはまちがっていると思う」。了解!(hico)(2005年5月17日 読売新聞)