No.104    2006.08.25日号

       
 絵本編 2006,8
○夏は虫本!
「くものニイド」いとうひろし作 (2006.7 ポプラ社)
「野はらの音楽家マエストロ」ドン・フリーマン作 みはらいずみ訳(2004/2006.6 あすなろ書房)
「むしプロ」山本孝作(2006.6 教育画劇)
「うんちレンストラン」新開孝写真 伊地知英信文 (2006.7 ポプラ社)
 今年の夏の新刊はオバケと虫の絵本が目立っていました。オバケの絵本は先月紹介したので、今月は虫。
 くもは気持ち悪いという子も多いですが、お話の主人公や名脇役に欠かせない存在。何よりもあの見事なくもの巣が昔から、人びとのお話心をくすぐっていたのだなあと思います。アフリカのアナンシしかり、「シャーロットのおくりもの」しかり……。この「くものニイド」はひさびさの大風呂敷、ほら吹き絵本だなあ。民話や伝説に通じるような趣で、ちっぽけな存在からグーンと目線が広がっていくところがおもしろい。なんてことない始まりから、いとう流の逸脱ぶりで、飛行機やらUFOまでとらえてしまうくもの巣のへんてこさ。それが、風との戦いに変わり、今もなお、ニイドは空で生きて、くもの巣ならぬ、雲を作りつづけているというオチまで、お話に身を任せ、わくわく読んでいく。絵本から目をあげると、空には絵本とシンクロするような入道雲。「あそこにニイドがいるんだねえ」と指差す子の胸には、ニイドが住み着いてしまうのだ。お話を楽しむということの自在さを久しぶりに感じさせる絵本だった。
 「野はらの音楽家マヌエロ」は音楽好きのカマキリのお話。コオロギのように羽を震わせても音は鳴らないし、ガマの穂でフルートを作ってみてもダメ。ラッパの形をした花をふいてみてもダメ。ハープを作ってもカマで切れてしまうし……。そこに現れたのが、クモだったのです。マヌエロの奮闘ぶりが小さな虫の世界サイズによく合っていて、それぞれの虫や生き物たちの様子もその存在のままにお話に取り込んでいるから、安心して次々とページがめくれるのだ。こういう安心感が現在の日本の絵本に少ないのはなんでだろう。お話というものを絵本作家(とくにビジュアル重視の人たち)自身が見くびるようになってしまっているからではないか。それは本当に見当違いだなあと思う。ラストまでしみじみと良い絵本だ。1978年になくなったドン・フリーマンの新作を今、手に取ることができるなんて思わなかった。フリーマンの死後、机から見つかった絵本もアメリカでは刊行されているし、何冊かは未邦訳の絵本もあるし、そのなかの1冊なのかなあと思っていたが、英文奥付に数ページ、フリーマンのスケッチよりジョディ・ウェーラ−が描いたと注釈がついている。未完の作品だったのかしら? もう少しこの絵本の刊行のいきさつなどわかるようにしてもらいたかったなあと思う。
 「むしプロ」は夏のお楽しみ、カブトムシとクワガタの蜜争いをプロレス仕立てで描いたもの。こってりとした画風がこの世界に似合い、ホタルのライトアップやコガネムシのマイクパフォーマンスも楽しい。ムシキング全盛の時代ですからしょうがないのかもしれないけれど、コーカサスやネプチューン、ヘラクレスなどッ出てくるのは、この舞台(日本の雑木林だよねえ)では反則なのよね。でも、ラストマッチに起こった驚愕の出来事をきれいにオチへとまとめたところに、この作家の確かな成長を感じる。
 「うんちレストラン」はうんちを食べる虫たちを追った写真絵本。センチコガネやダイコクコガネは有名だけど、他の虫だってうんちが好きだってことがこの絵本からわかった。おなじみのハエやアリ、アゲハチョウだって、うんちに寄っていくのだ。はぎれのよいシンプルなテキストと低い視点でとらえられた虫たちの生態が、大きな輪のとじ目の微妙なところをきちんと見せてくれる。(ほそえ)

○その他の絵本
「フラニー・B・クラニー、あたまにとりがすんでるよ!」ハリエット・ラーナー&スーザン・ゴルドール文 ヘレン・オクセンバリー絵 ふしみ みさを訳(/2006.7 PHP研究所)
赤いちりちりの髪の毛のフラニー。髪の毛のせいでお着替えが大変だったり、ひっかかっちゃたり、困ったこともたくさんあるけれど、フラニーは決して切ろうとはしません。でも、パーティーに出るために、髪の毛をまとめられた時、事件は起こりました! 小鳥が赤いこんもりとした髪の毛の束に舞い降りたのです。まるで鳥の巣で卵をあたためているみたいに。小鳥を連れたまま暮すフラニー。でも、さいごはばっさり切ってしまいます。そして、その理由はきちんと裏の見返しに書かれています。さいごまで、フラニーの目線でかれるのが楽しい。タイトルでひょいと心をつかんで、そのまま髪の毛を結びたくないとごねる女の子の何気ない日常から、あり得ないけどあったら楽しいシチュエーションにはいっていくテンポがいい。フラニーの<わたしはわたし>ぶりに、子どもは拍手するのでしょう。(ほそえ)

「かいじゅうじまのなつやすみ」風木一人作 早川純子絵(2006.7 ポプラ社)
子供達が喜びそうな設定。世界中であばれまわっているかいじゅうたちが、年に一度、夏休みには帰ってきて、果物がりをしたり、パーティーをしたり、恋をしたり、おはかまいりをしたり……。元気の良いイラストと親しみやすい語り口が楽しい。ラストのオチは、かいじゅうたちの自慢話が実は……という発想のおもしろさ。なるほどね、こんなかいじゅうだったら、世界中で活躍してほしいなあ。(ほそえ)

ろばのトコちゃん「おかたづけ」「きがえをする」「はをみがく」ベネディクト・ゲティエ作 ふしみみさを訳(2002/2006.6,7 ほるぷ出版)
なんでもじぶんでしてみたいさかりのろばのトコちゃんを主人公にした小さな絵本。「おかたづけ」ではじぶんでするよ、といいながら、ちょこっとやっては疲れてしまい、最後の仕上げはママにお願いするのだし、「はをみがく」では、歯まで磨いてピカピカになったのに、朝ごはんを食べたらまたぐしゃぐしゃのどろどろになってしまうおかしさ。「きがえをする」では、楽しくたくさん着込んでみたけれど、しまった!今は夏だった。ぬいでぬいでプールにじゃぽん。どの本でも状況が困ったことになっても、だいじょうぶのトコちゃんが描かれているのがおもしろく、作者の子ども観がよく表れているように思う。でも、この展開をくふふ、と笑えるのは、実は読んでもらっているトコちゃん世代の小さな子ではなく、読んでいる大人の方なのではないかしら。そこんところが、こういう絵本のむずかしいところだと思う。(ほそえ)

「ねこのパンやさん」ポージー・シモンズ作 松波佐知子訳 (2004/2006.7 徳間書店)
パンやで働くねこの受難を助けれくれたネズミたちとのお話。シモンズお得意のコマ割りを多用した展開でお話は細やかに進んでいく。小さい絵、大きい絵、ふきだしや地の文、いろんなレベルで言葉が使われ、それがきちんと読み取りやすく作られている。人間と猫やネズミは決して話はできないのだが、言っていることは動物にはわかるらしいし、ねことネズミは会話を楽しみ、一致団結、協力して、ひどい人間たちをおっぱらうのだ。ああよかったねえとにっこりして読み終えられる。(ほそえ)

「でんきがまちゃんとおなべちゃん」長野ヒデ子作(2006,7 学研)
「おさじさん」とか「ふらいぱんじいさん」とか、台所道具が主人公になるお話は、食べるという小さな子の最大関心事がテーマになってくるから、手に取りやすく、印象に残るものが多い。といっても電気がままで主人公になるとは思わなかった。あさごはんにごはんをたいて、味噌汁を作ったのに、誰も起きてきてくれないからと散歩に出かけたふたり。そこで、猫やうさぎなどの動物に出会い、中身をふるまっていく。順々に出てくる動物の数が増えるのも、リズミカルで歌みたいなテキストがくり返されるのも楽しくて、どんどん読んでしまう。ラストはおじいちゃん、おばあちゃんに助けてもらい、元気元気の大合唱。朝ごはんの大切さを説く人や本は多いけれど、こんなふうに楽しく子どもに伝えられるのも良いなあ。(ほそえ)

「こんやはどんなゆめをみる?」工藤ノリコ作(2006.7 学研)
言葉少なで絵を楽しむ絵本。おやすみなさいをした後に、こんな夢はどうかしら?と順々に問いかける小ブタの5兄妹。ジャングルあり、昔話の世界あり、動物たちの楽園あり、海賊冒険ものあり、遊園地ありと次々見開きで描かれる。でも、みんなが見た夢は……というオチがなかなか。日常を描いたページと夢のページの温度差が絵からはあまり感じられないところが気になるけれど。(ほそえ)

「さんすうくんがやってくる」五味太郎 (2006.8 学研)
顔が数字で頭が定規で服には÷とか+とか書いているのがさんすうくん。彼がやってくると何でも算数の問題になってしまい、何人で遊んでいるでしょうとか、10歩で何センチでしょうとか、イチゴをわけると何個になるでしょうとかいうのです。いろいろ考えたり教えたりしてくれるさんすうくんをすごいなあという子もいれば、数えてどうすんのよという子もいたり、そのあしらい方が五味太郎。決して、公式をぽんと出しておしまいということではなく、算数という考え方のもともとを絵本で伝えようとしているのです。それはむずかしいけれど、ぶっきらぼうな物言いでしっかり描き出しています。さっぱり、きっぱりしていて、ちょっとかっこいいさんすうくんというキャラクターを造型したところでほぼ完成というところでしょうか。こんなアプローチで1冊作ってしまうのはさすが!(ほそえ)

「どろどろ」せなけいこ (2006,7 ポプラ社)
どろどろと鬼火が飛んでいる表紙なのに、中身は「ど」の字のつくものが次々描かれる。ドロップ、ドーナッツ、どじょうにどんぐり、どら猫……。ぽんぽんとイメージの流れるままに展開し、いつのまにかお話が始まって、表紙の「どろどろ」が結びついてくる。この自在な感じがこの作家の本領発揮。(ほそえ)

「わたしはレナのおにんぎょう」たかばやしまり作 (2006.7 朔北社)
女の子とはぐれてしまったお人形が無事、持ち主のもとに帰るまでを色鮮やかなタッチで描いている。森で目をさましてみたらひとりぼっちのお人形。うさぎやクマやはりねずみなどに出会いながら、ちょっと怖い目にあったり、親切心に涙したり……。原案は作家の長女が6歳の時に書いた絵本だという。なるほど、シンプルでてらいのない展開が子どもの一途な心持ちを思わせる。(ほそえ)

「海べのふしぎな生きものたち」よしざきかずみ写真 とりないけいこ文 (2006.7 岩崎書店)
干潟に集まる生き物たちのとらえた写真絵本。海辺で遊んでいると、放射線状に小さな丸い粒つぶが散らばっていてきれいだったり、ぐんにゃりした得体のしれない物体におどろいたり、どうしてこんな形になってしまうのかと呆れるようなものに出会ったりしたことがある。そういうものたちが一堂に会して見られるこの絵本は本当におもしろかった。説明しようとすればどんなにも細かく難しくなってしまうものだろうに、見せること、興味を引くこと、写真に語らせることに重きをおいた、構成やデザインの妙に感心した。前見返しのうまい導入、後ろ見返しの工夫をこらした使い方。きちんと丁寧に作られた絵本の確かさを感じさせる。(ほそえ)

「南極がこわれる」藤原幸一写真、文(2006.7 ポプラ社)
南極が舞台になっているが、図鑑的な写真絵本ではなく、ノンフィクション絵本。著者は生物学を専攻し、研究生活を経た後、写真家として活動を始めたという。地球最後の未開の大陸といわれる南極に魅せられた著者が見たものは、動物たちの楽園ではなく、ゴミにうもれ、それに傷つけられた生き物たちの姿だったという。そこから<南極ゴミ問題プロジェクト>がはじまるのだが……。圧倒的な事実を写真で伝えられ、切々とした文章でことの重大さを語りかける本。遠くの知らない土地の問題ではなく、地球の今を生きる人たちすべてに関わることなのだと強く訴えかける。(ほそえ)

「ぼくとバブーン まちへおかいもの」ベッテ・ウェステラ作 スザンネ・ディーデレン絵 野坂悦子訳 (2002/2006.7  ソニー・マガジンズ)
お気に入りのクマのぬいぐるみ・バブーンといっしょにママとお買い物に出かけるヤン。自分のものを買ってもらえるのはうれしいけれど、すぐ、つまらなくなってしまうのが小さな子。お店のプレイフロアで遊んでいたら、やっと帰ることになりました。ところが、バスに乗り込む時に、バブーンがいないと気がついて……。うちの子も何度「あ、コアラちゃんがいない!」と目を真ん丸にして、唇をぷるぷる震わせたことでしょう。一瞬で全世界が止まってしまったかのような表情になってしまうのです。この子も無事、バブーンを見つけ、抱き締めることができて本当によかった。何気ない絵本だけれど、小さな子の暮しをよくよく見つめて描かれている。(ほそえ)

「ぜつぼうの濁点」原田宗典作 柚木沙弥郎絵 (2006.7 教育画劇)
この絵本を開いたとたん、これ、読んだことあるって思った。これを絵本にするなんてなんて力技な……。この寓話を絵本の形にできたのは、ひらがななどの文字をそのまま擬人化して形にしてしまった画家の造形力の強さによるものだ。画家の師匠であった芹沢けい介は文字を見事に文様に仕立て、型染めのデザインの新たな境地を開いた人であったから、ある意味ひとつの技法の展開の図と言えなくもない。このような伸びやかな図を得たお蔭で、物語は文字たちの暮す国に奇妙なリアリティを持つことになったのだ。それはなかなかに幸せなことといえる。(ほそえ)

「でも すきだよ、おばあちゃん」スー・ローソン文 キャロライン・マガール絵 柳田邦男訳 (2003/2006.8 講談社)
認知症にかかっていると思われるおばあちゃんの元ヘ出かける少年の姿を左ページに。右ページに友だちのいろんなことのできるおばあちゃんを描き、「ぼくのおばあちゃんはできないんだ」とくりかえす。けれど、ぼくにとっておばあちゃんは、たとえぼくのことを忘れてしまったとしても、いつまでもぼくがおばあちゃんのことを覚えているのだから大丈夫と言い切るのだ。その境地にいたるまでのことは何も描いてはいないけれど、この水彩のタッチを見る限り、スムーズであったとは思い難く、この表紙のおぼろな少年の表情をのぞきこまずにはいられない。(ほそえ)

「アフリカの大きな木 バオバブ」ミリアム・モス文 エイドリアン・ケナウェイ絵 さくまゆみこ訳 (2000/2006.8 アートン)
アフリカの草原にそびえ立つバオバブが、いかに生き物たちのよりしろとして大きな存在であるかを詩的な文章で描き出す自然絵本。根、木の皮、幹、花、実、どれも有用でアフリカの生き物、人間にとっても大切な存在だということがよくわかる。バオバブを中心に1日の様子を描き、自然の循環を感じさせるところがいい。単なる図鑑的な絵本ではなく、アフリカの生態系のひとつの輪をきちんと描き切っているところが本書の特色。巻末にバオバブについての解説もついていて、より詳しくその有用性を示している。(ほそえ)

「おじいちゃんちでおとまり」なかがわちひろ作 (2006.8 ポプラ社)
初めてのおとまりをテーマにした絵本は数あれど、おじいちゃんとふたりきりというのは見かけないような。不安そうなぼくの表情と仏頂面のおじいちゃん。だいじょうぶかしら?と読者はきっと思うはず。日の高いうちからおふろやさんに出かけるところから、作者お得意の日常に潜む不思議ワールドへとどんどん引っ張りこまれるのだ。やわらかな色彩とぽよぽよのおなかをした子どもの姿がいとおしい。いつもの暮しのなかにひょこっと不思議が入り込んでくるのは、じつは子どもの毎日と同じ。見立て、勘違い、思い違い……子どもの頭や心のなかはフル回転し、想像は実際をやすやすと越えて、どんどんわくわくするしまつ。その様子が無理なく絵本に取り込まれ、それは子どもの生理によりそって、とてもなじみが良いみたい。おじいちゃんと一緒にさかなつりをしたり、わにをいけどりしたり、クジラと友だちになったり、ぼく同様わくわくできるのは、細部まで丁寧に描かれ、読む楽しみに満ちた絵と見返しまでいっぱいに使って語られる暮しの確かさによっている。(ほそえ)

「モーリーのすてきなひ」マイケル・ローゼン作 チンルン・リー絵 きたやまようこ訳 (2006/2006.8フレーベル館)
「悲しい本」や「きょうはみんなでくまがりだ」で知られるローゼンの新作。リーの淡いやさしい絵で小さな子の心の大きな動きを丁寧に描いている。おばあちゃんからもらった小さな青い石をたからものにしていたモーリー。その宝物を持って学校ヘ出かけてみると、最初はみんな珍しがって集まってくれたのに、ほんのちょっとしたことで、さあっと別の方へいってしまい、ひとり取り残されてしまいます。そんな時、モーリーの心は世界中で自分がいちばん不幸だと思ってしまうのでした。そんなことで?どうして?と大人は思うでしょう。でも心のキャパシティーが小さければ小さいほど、ちょっとしたことで、ずんと固く、暗くなってしまうものなのだと子どもを見ていて思います。そのかわり、ちょっとしたきっかけで、ぽんと明るくはずんでしまうことも。その動きの鮮やかな軌跡をローゼンはきちんと描こうとしています。小さな子の心のキャパシティーに寄り添って。この教室の先生の見事なこと。静かな言葉で、すーっと子どもの心に残る大切なものを届けます。そこが素敵。(ほそえ)

「馬の耳に念仏」齋藤孝編 はたこうしろう作 (2006.8 ほるぷ出版)
声に出す言葉絵本第8弾はことわざ。ラーメンやさんの兄弟がおばけマンションにラーメンの出前に出かけると、とんでもない住人たちに追いかけられて……というストーリー。頼りなさそうな兄ちゃんに、ことわざを連発する弟と黒猫。こんな時、なんていう?とばかりに、どんどんことわざを口にして、こんな感じのことかなあと思わせる展開になっているのが、おもしろいところ。テンポがよくて、ポップで表情豊かな絵だから、想像で類推できるんだけどね。挟み込みでことわざの意味が一覧になっているので、ちゃんと確認したければ、すぐできるようになっている。(ほそえ)

児童文学書評 読み物編 2006.8
○落ちこぼれ女の子のしなやかな心
「天山の巫女ソニン 1黄金の燕」菅野雪虫作(2006.6 講談社)
 講談社児童文学新人賞受賞作。この原稿を初めて読んだ時、新人離れした物語の構成の巧みさにびっくりした。それぞれの登場人物のキャラクターがたっていて、主人公のみならず、脇を固める人たちもしっかり造型してあり、読み終えた後もそれぞれの行く末が気になってならないほどなのだ。満場一致で新人賞を受賞したと聞き、これはシリーズ化してくれないと……とあつく期待をしたのだった。
 韓国を舞台に、まだ人びとが王をまつり、何かしら大きな出来事におおののく時には、巫女に助けを求めるような古い時代の物語。勘が鋭かったり、正夢をよく見るという小さな女の子が巫女に見込まれ、天山に連れてこられるという説明から物語ははじまる。天山という異界と人びとの暮す世界(下界)とは一本の道でつながっているだけだ。主人公の少女ソニンは、巫女にと見込まれながら、夢見も何も満足にできず、12歳という年になって、村にかえされる。異界と下界の両方を知る彼女は、家族のもとに戻ったのもつかの間、王子の侍女としてお城のなかで働くこととなり、自分の意志とは関係なく大きな陰謀に巻き込まれていく……。
 無力を思われる少女が、その機知や人望や性格で出来事を納めていくという物語は今までもたくさん書かれている。酒見賢一のデビュー作「後宮小説」もそうだった。燕の姿になった王子たちを探すソニンのやつした姿はグリムの物語を思い起こさせる。だぶるいろいろな物語のイメージがこの落ちこぼれ巫女の物語に厚みと訴求力を与え、巧みなエピソードの重なりがシンプルな物語に奥行きを与えているのだ。物語に引き込む楽しさ。登場人物を物語のコマとしてではなく、実際の人間の有り様に引き寄せて、生き生きと描くタッチ。それぞれの人たちのまっすぐで人生の機微を織り込んだ言葉。それがこの作家の持ち味だし、さらにこれから磨きがかかると思われる。シリーズが進むにつれ、人の世を知らなかったソニンの無垢なまなざしを作家は手放さざるを得なくなるだろう。そうなった時、また別の視点を得ることができるかどうか。それがこれからの課題だと思う。(ほそえ)

○その他の読み物
「本朝奇談 天狗童子」佐藤さとる著 村上豊絵 (2006.6 あかね書房)
天狗と人間のかかわりがすごくおもしろい伝奇物語だった。大らかで、ひょうたんの中に広い天地を入れてしまうようなふしぎな力を持つ大天狗の有り様やその下に使える木っ端天狗たち。その生き生きとした様子がまさに、人と天との間で司るものの実体かのように目に浮かび、その存在を好きになってしまう。作者が描き出したコロボックルをどうしてもいるもののように思えてならなかった小さかった頃のように。大部ではあるが、展開がきちんと練られているため、ずんずん読み進められる。お話に出てくる人はみなきちんと活躍の場を与えられ、納まるべきところへと納まっていく。(ほそえ)

「牡丹さんの不思議な毎日」柏葉幸子作 ささめやゆき絵(2006.5 あかね書房)
引っ越し先は、今は廃業したホテル。温泉付き、広くて、家賃は格安。そこには幽霊が住み着いていました。何ごとにも動ぜず、我が道を行くおかあさんの牡丹さんと素直な(?)中学生の菫、犬とおとうさんがいて、幽霊のユキヤナギさんとの奇妙な同居生活が始まります。一話完結の短編連作を読み進むうちに、人の心の不思議を実感させる出来事がつづられ、ほのぼのとした心持ちにさせられるのです。ストーリーの妙を楽しむもよし、出てくる幽霊たちのキャラクターににっこりするもよし。するすると読みながらも、しっかりとした思いを受け取ることのできる作品。(ほそえ)

「いたずらニャ−オ」アン・ホワイトヘッド・ナグダ作 高畠リサ訳 井川ゆり子絵 (2003/2006..6 福音館書店)
「ひげねずみくんへ」で下級生にお手紙を書いて、返事をもらってやりとりをする学校のお話を書いた作家の2作め。同じ学校を舞台にした物語。日記を書くことで学校の友だちやあまり親しく感じられないおばあちゃんとの関係が変化していく様を丁寧に描いている。前作同様エスニックのインド系少女を主人公とすることで、異文化との接触や受容などを子ども目線でとらえることができるのがいい。(ほそえ)

「クロリスの庭」茂市久美子作 下田智美絵 (2006.6 ポプラ社)
クロリスの庭という名の花屋を舞台にした短編連作童話。1話毎に登場する花が変わり、その花にちなんだ物語が語られる。不思議な存在を不思議なままに受け入れられる人だけが、この花屋の主人に成れるのだろう。見習いを経て、店主と成るまでの1年間を描く。丹精こめられた花のように、物語にも周到になぞが用意され、それが解かれたり、受け入れられたりする様が丁寧にストーリーに織り込まれ、読んだ後ほっと息をつく。しみじみとページをめくりたくなる物語。(ほそえ)

「ハーフ」草野たき作(2006.6  ポプラ社)
ぼくは犬と人間のハーフだという六年生の真治。父さんは人間で母さんは犬のヨウコ、だといわれて大きくなってきた。物心つく頃から、父さんと犬のヨウコの三人家族で生きてきたのだ。それは父さんが言い張るおとぎ話だと知っているのだけれど、本当の人間の母さんのことは怖くてきけなかった。そんな毎日のなか、ぼくへのいじめがひどくなり、犬のヨウコがいなくなり、父さんの様子が前にもましておかしくなる……。犬をめぐる物語なのだが、ぼくが父さんや友だち、おばさんなどとの関係を作り直していく修復の物語なのだろう。いつも、誰かの思うような態度ばかりとって、自分に楽をしていたぼくの。(ほそえ)

「おばけ美術館へいらっしゃい」柏葉幸子作 ひらいたかこ絵 (2006.7 ポプラ社)
小学5年生の夏休み、弟の世話に明け暮れるのかとうんざりしていた少女まひるが、ひょんなことから美術館の館長のアルバイトをすることになる。美術館を閉めるにあたり、昔の館長が大事にしていた絵だけ引き上げたいというのだ。それがどれだか調べてほしいとまひるが頼まれていってみると、なかでは絵から抜け出してきたものたちが好き勝手に動き回っていた。「おばけ美術館だ〜」とびっくりするものの、みんなと仲良くなったまひるは美術館存続のために動き始める……。柏葉ワールドの女の子たちは、不思議に出会って、びっくりしても決して逃げ出さない。自分のおかれた状況を冷静に判断し、次の一手を考え出す。失敗してもへこたれない。そこが読んでいてすきっとする理由か。ドタバタと元気よく進んでいく物語だけれど、いつもたしかなことをきちんと描いているのがこの作家なのだ。名作といわれる絵画ばかりがお宝と珍重されるのではなく、どんな絵にも、それを描かずにはいられなかった思いがあり、残したいと思ってきた人たちの思いがこめられているのだと教えてくれる。あとがきにかかれたように、自分の好きな絵が展覧会にひとつでもあったら、そこに自分の思いを残していけるのだ。(ほそえ)

「べラスケスの十字架の謎」エリアセル・カンシーノ作 宇野和美訳 (2006.5 徳間書店)
スペイン発ミステリアス・ファンタジー。べラスケスの名画『侍女たち』をめぐり、語られる異形のものたちの跋扈する王宮の姿。読みすすめながら、同じく名画をテーマにした『ジョコンダ夫人の肖像』を思い出していた。その時代に入り込んだかのような濃密な描写。史実と作家の幻想とが分かち難く、目の前で繰り広げられているかのような会話。物語世界に入り込むまでにはすこし時間がかかるかもしれないが、いったんこの絵の成り立ちのどこが不思議なのかを見てしまってからは、ページを繰るのが止められない。べラスケスという人の細心でどん欲なところなど、おもしろかった。(ほそえ)

「なんでもやのブラリ」片平直樹作 山口マオ絵 (2006.7 教育画劇)
白い大きな袋に顔が現れてしゃべりだすのが、まさに不思議な袋然としていておもしろい。この袋に何かを入れれば、お願いしたものがでてくるという仕組み。サーカスの団長はお金でゾウを出してもらい、すいか作りのパウルはすいかでトラックを出してもらった。そこへやってきたのが悪者クロッコダイル兄弟。彼らが入れたものは……。オールカラーの挿絵が、お話の雰囲気をふくらませ、次は次はとめくりたくなってしまう。何を入れても、欲しいもの(その時に必要なもの)がでてくるというのがいいけれど、そういう時ばっかりでもないのではないかしらんとちょっと思う。(ほそえ)

「ミロとチャチャのふわっふわっ」野中柊作 寺田順三絵(2006.6 あかね書房)
三毛猫のミロとちゃとらの猫チャチャがすてきなものがあるはずとねこのアンテナを働かせて、出かける物語。繰り返しのリズムを多用し、かわいいイラストを用意して、ラブリーな雰囲気の童話に仕立てている。きれいなもの、素敵な音、不思議なこと、おいしいもの……。いろいろでてくるけれど、わくわくしたり、心が動いたり、という感じはしない。かわいいけれどなんだか表情の固まった猫たちのせいなのか、綿菓子の雲がフワフワという、ベタなイメージのせいなのか。幼年童話の形をかりて、どういうものを打ち出したかったのかうまくつかめなかった。
幼年の子どもを対象とする物語や絵本は、今あるこの世界というものを、まだ言葉を自由に操れない(語彙の少ない)年頃の子どもの視点で眺め直し、そこから、またちがった感覚で世界をとらえ直してみたらどうなるだろうと思考する大人の作家が、子どもの手にとれる範囲の言葉で表現したものだ。それには対象とする世界に対するおずおずとした新鮮な感覚というものが、どうしても詩的な表現で表わすしかない、というぎりぎりのかたちででてくるものなのだと思う。それが大人の読者にとっても印象的なフレーズになったりするのだろう。そういう思考のなかで出てくるものが、小さな子どものための本なのではなかったか。そのために、作家たちは、言葉を削り、視点を自在にして(何者にもなって)、その心や体の動きに寄り添った物語を作っていったのではなかったか。そういう突き詰めた工夫が、最近の幼年もの(何人かの作家の本以外は)には足りないように思う。かなしい。(ほそえ)

「おれはレオ」佐々木マキ作 (2006.6 理論社)
「なぞなぞライオン」でなぞなぞだらけに挑んだ後は、回文です。それはもう、たいへんでしたでしょう。ただただ回文を並べるだけではなく、回文が連歌のように、つながって、ひとつのお話の流れをつくっていく、なんてところまで挑んでいるのです。ひとつ、二つの回文を作り出すだけでもへろへろしちゃうのに、そこにテーマの縛りまで入れていくとは……。へびにもライオンにもサイにも勝った女の子は、意気揚々と帰ります。(ほそえ)

「タイの少女カティ」ジェーン・ベヤジバ作 大谷真弓訳 日置由美子絵 (2003/2006.7 講談社)
タイの作家の児童文学はめずらしい。昔話ではなく、今のタイに生きる女の子のお話ならなおさら。カティは祖父母と一緒に村の小さな家にすんでいる。けれども、弁護士の仕事をしていた母さんは都会にいて、今は病因で不治の病と戦っている。母さんが亡くなった後、おじさん、おばさんに教えてもらいながら、おかあさんの過ごしてきた人生や自身の出生の秘密を残されたアルバムなどから知っていく過程を、端正な文章で綴っている。タイから飛び出し、ロンドンで仕事を始める母さんの姿は作者にも重なるのだろうし、経済成長を遂げつつあるタイのエリート層の姿なのだろう。どんなにもドラマチックに描ける人生なのだが、大仰にならず、慎み深げに穏やかに物語っているのが独特の雰囲気。カティの村の友だちである寺の息子トングのたたずまいもいい。タイの文化がそれとなく、食べ物やお寺の風習などの形で伝えられ、それをとても大事に思っている様子など読んでいくうちにわかってくる。伝統とグローバル化のはざまを今生きている子どもをしっかりと見つめている誠実な物語だ。(ほそえ)

「のんきなりゅう」ケネス・グレアム作 インガ・ムーア絵 中川千尋訳 (1898,2004/2006.7)
昔は「プーさん」の画家シェパードがモノクロのイラストをつけていたのだが、インガ・ムーアが新たにふフルカラーのイラストをつけ、大判の絵本として刊行されたものが原本。日本語にするとテキストが長くなり読みにくくなるので、日本語版は縦組みの童話の形で刊行された。
あらそいごとがきらいなりゅうと仲良しになった男の子。龍退治の騎士がやってきても、戦いたくないな〜といいはる龍のために、騎士と話し合い、一芝居打つことになった顛末など、今読んでもウィットに富んだ展開と、グレアム流の人間観がおもしろく、こんな龍がいたっていいじゃないのさ、とニコニコしてしまう。以前の訳本が手に取りにくくなっている現在、カラフルで時代の様子もきちんと描いていあるムーアの絵で読めるようになったのはうれしい。(ほそえ)

「算法少女」遠藤寛子作 (1973/2006.8ちくま学芸文庫)
小学校の時に手にとった本に、また出会えるなんて! 江戸時代に大人の男の人に混じって、算術の勉強をし、本まで書いてしまった女の子が主人公のこの本は、子どもの頃、単純にこんな子がいたのかとびっくりして、どんどん読んだ記憶がある。今読み返すと、時代のなかでよりよくありたいともがく人たちの姿や人と人のつながりの不思議な細やかさなど、しみじみと心に残る部分がおおい。江戸時代にも算数があり、真の姿を求める思いがあったことなど、丁寧に真摯に描かれた作家、渾身の一作であったことがよくわかる。文庫の形で蘇ることになったいきさつをつづったあとがきにも、人のつながりの頼もしさを感じる。算数本のブーム(?)のなかで、こういう本を主人公の同年代の子どもに手渡す意義を強く思う。(ほそえ)

「キルディー小屋のアライグマ」ラザフォード・モンゴメリ作 バーバラ・クーニー画 松永ふみ子訳(1949/1971/2006.7 福音館文庫)
町で石工をしていたジェロームじいさんがリタイアして山のなかの一軒家に越してきた。となりとは何キロメートルも離れた小さな小屋で一人、誰にも煩わされずに暮していこうと決めたのに、もともとの山の住人であるアライグマやコマダラスカンクの家族と暮すことになってしまったり、動物好きの女の子と一緒に世話をすることになってしまったりする。動物と共に暮すことで、いろんな人とのつながりを改めて感じ大事にするようになるのがジェロームじいさんの変化だ。それぞれの動物たちの様子や、山のなかで工夫をこらしながら暮す様子など、地味だけれど確かな物語で自然の美しさや強さなどを描いている。クーニーの描く動物たちも愛らしく、生き生きとしていて、作家のもつ平明な自然観は今もなお子どもに伝えていかなくてはと思った。(ほそえ)

「レクトロ物語」ライナー・チムニク 上田真而子訳 (1962/2006.7 福音館文庫)
チムニクの絵と詩のような文章が合わさった短編連作集。ヨーロッパには大人のメルヘンと呼びたくなるような文学のジャンルが確かに在るような気がする。ヤーノシュが書いたグリム童話のパロディや、チムニクの描くユーモラスでありながら、少々シニカルで実はこわくて美しい絵童話のかずかず。なかでも手に入れるのが難しかった(原本でも)「レクトロ物語」が完訳で読めるようになったのは本当にうれしい。ペン画のイラストとテキストの入りぐあいが原書のようにきれいにできないのは、横のものを縦にするからなのだけれど、それでも、多数のイラストをきちんと配置して、絵と文の人チムニクの世界を届けてくれたのがうれしい。この奇妙な味の寓話は寝る前にひとつづつ読んでいくのがにあっている。(ほそえ)

「ちいさな人形とちいさな奇蹟」レイチェル・フィールド作 安野玲訳 (1929/1964/2006.5 ランダムハウス講談社文庫)
Hitty このちいさな人形の名前はヒッティ。今なお、アメリカで人形文学の傑作と読み継がれている本書はコルデコット賞を受賞し、ちいさな冒険者の一代記として、以後、人形を主人公とする児童文学のひとつの頂点として扱われてきた。日本では1964年に翻訳されて以来、手に入りにくい状態が続いており、これでやっと手軽に読めるようになったことを喜びたい。ななかまどの枝で作られた木の人形であるヒッティが生まれ、100年の間に何人もの人の手を経て生きてきた様子を自分で記したという構成になっている。川に落っことされたり、火事の船中にころがっていたり、いまにもあわや……という状況を切り抜けてきた、幸運をたんたんと書くヒッティ。時代を感じさせるものいいや社会の描かれ方は、今読むとちょっとまだるっこしいようなところもあるけれど、たっぷりとした分量の読み物だから、この文庫サイズでの刊行ができたのだろうと想像できる。ただ、子どものためにと書かれた本書が、今回の訳出ではちょっと子どもには手にしにくい造りになってしまっているのが残念。(ほそえ)
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【絵本】
『パイレーツ図鑑』(ジョン・マシューズ:著 前沢明枝:訳 岩崎書店 2006/2006.07 2300円)
 もちろんこの夏のあの映画の勢いに沿って出された一冊です。って、悪いか? 悪くない悪くない。
 豪華じゃ!!
 表紙のドクロの眼窩にはちゃんと宝石が埋め込まれているし、中も仕掛け本らしく、海賊免許状(これ映画にも出てきましたね。イングランドが発行してたやつ)の入った封書が貼り付けてあったり、財宝の地図が封入されているのなんか当たり前でしょ。とにかくワクワクもんで楽しいったらありゃしない。
 こーゆーのは、DVDとかではダメで、やっぱり本でないと!(hico)

『写真が語る ベトナム戦争 「知」のビジュアル百科29』(スチュアート・マレー 赤尾秀子:訳 日本語版監修:村井友秀 あすなろ書房 2005/2006.08 2000円)
 日本軍の敗退の後フランスは再びイントシナを植民地にしようとする。そこからこの百科は語り始める。ボリューム的に、「ベトナム戦争」を語るには少なすぎるには違いない。けれど、時系列に沿って淡々と事実を写真と共に語っていくこの一冊は、とりあえず全体を見えやすくする地図といった役目は果たす。時代のまっただ中で、見聞きしてきた世代には軽く見えるかもしれないが、知らない世代にとって、「初めの一歩」としてこれはとても役立つ。歴史を実態として把握するための一歩として。
 もう一つ言えば、この『「知」のビジュアル百科』の一冊であることがいい。「ベトナム戦争」は必要な『知』の一つだと言っているのだから。(hico)

『ベンジーとはずかしがりやのフィフィ』(マーガレット・ブロイ・グレアム:さく わたなべてつた:やく アリス館 1988/2006.08 1400円)
 『ベンジーとおうむのティリー』に続く第2弾です。
 いぬのベンジーにははずかしがりのフィフィって友達がいます。彼女がいぬのコンテストに出ることになり、飼い主が、フィフィが落ち着くためにベンジーにもついて行ってもらいたいと申し出ます。コンテスト会場で怖いことがありフィフィは逃走。ベンジーは必死で探します。
 子どもの不安とそれを救う友達の温かさなどを、作者はベンジーたちを使って優しくそして分かりやすく描いてくれています。何度も何度も読みたくなるタイプです。(hico)

『バオバブ』(ミリアム・モス:文 エイドリアン・ケナウェイ:絵 さくまゆみこ:訳 アートン 2000/2006.08 1500円)
 アフリカの大地にドンと根付くバオバブ。そこに集まる生き物たち。ゾウ、キリン、トカゲ、蜂、カメレオン、人・・・。木陰に、身を食料に、バオバブが生き物たちの与える恩恵が、活き活きと描かれています。
 とても簡単な構成の絵本なのですが、画面一杯に描かれたバイバブにギュッと集められた生き物たちという構図はありそうでないもので、非常に力強い。世界を一枚の画の中にという意味では、曼荼羅のようでもあります。(hico)
 かないません。

『ねたふり』(小泉るみ子:作・絵 ポプラ社 2006.07 1200円)
 夏、夏休み。一杯遊ぶ夏。
 ではなく、家が野菜農家の「わたし」の場合、収穫期のお手伝いで大忙し。
 みんながうらやましい「わたし」。
 ついつい納屋で眠ってしまう「わたし」。仕事をサボった・・・。
 それぞれの家庭にはそれぞれの事情があり、子どもはそれぞれそこで生きています。この絵本はそんな一人を色濃く描いています。
 まず、その活き活きとした画が買い。小泉の絵本にはいつも季節があるが、夏が一番印象深いのは、北海道の夏がそうだからでしょうか?(hico)

『まるごと たべたい』(山脇恭:作 小田桐昭:絵 偕成社 2006.09 1000円)
 ネコのとらくんがベーコンの固まりを拾う。交番に届けると、落とし主が見つからないときは自分の物になるとのこと。とらくん、交番を見張りながら、落とし主が見つかりませんように。でもついに・・・・・。
 食べたい。食べられるかも。食べられないかも。
 このじらしが良いです。子どもにとって、いや子どもでなくても、この辺りはドキドキです。
 もちろん最後は食べられるのですけれど、どう食べられるかが、落としどころが、暖かくて気持ちいい。(hico)

『カシオペイア』(松本典久:ぶん レイルマンフォトオフィス:しゃしん 小峰書店 2006.06 980円)
 寝台特急カシオペイアの図鑑です。
 上野駅から札幌駅までの旅を描いていきます。カシオペイアの解説はもちろん、通る路線ごとに、そこを走る列車の写真もあって、情報が線でなく面になっており、好き者心をくすぐります。もう少しデータの方を充実して欲しい気もしますが、楽しかったからいいや。(hico)

『なつのかいじゅう』(いしいつとむ:作・絵 ポプラ社 2006.08 1200円)
 虫取りに連れて行ってくれなかったおにいちゃんにぼくは怒っている。でも、夜、おにいちゃんは窓に蛍光灯の明かりを向けて、それに集まってくる虫たちを見せてくれた。それはまるでかいじゅうたちだった。
 子どもの目線から見た世界が活写されています。
 確かに、窓に集まった虫だと顔を近づけて観察できるし、それはかいじゅうだよね〜。(hico)

『海べのふしぎな生きものたち』(よしざきかずみ:写真 とりないけいこ:文 岩崎書店 2006.07 1400円)
 「ちしきのぽけっと」シリーズ。
 イソギンチャクやアメフラシから、私にとって未知の生きものまで数多く写真で眺めることができます。なんて知らないものがたくさんあるのでしょう!
 形状の不思議、色の鮮やかさ、怪しさ。世界の多様さを反芻します。
 ていねいな作りで、わかりやすい。情報絵本はこうでなくっちゃ。(hico)

『あさの絵本』(谷川修太郎:文 吉村和敏:写真 アリス館 2006.08 1400円)
 『あさ/朝』の絵本版です。パワーアップしとります。2年前のコンパクト版(あ、そうじゃなかったですが、これが出たので相対的に)は朝がぎゅっと詰まっておりましたが、今回は全開です。(hico)

『ミルクのおふろ』(アラン・メッツ:さく 石津ちひろ:やく 長崎出版 2005/2006.07 1400円)
 『ぼくのパンツがぬすまれた!』で強烈な印象を残したメッツの新作です。
 ねこのコランがあさごはんをたべようとしたら、ミルクの入ったボウルの中にはねずみのいもうとベアが使っていて、ミルク風呂だとか言っている。
 よくわからない展開である。で、物語はこのノリのまま二人が家中を汚しながら遊んでいる姿を描き、そこにオオカミが出てきて、二人を食べてしまう。
 脈絡のない展開である。
 しかし、考えてみれば、子ども時代のごっこ遊びは、このような物であったのではないか?(hico)

『ぐうぐう ぐっすり』(アーリ−ン・アールダ:作 とみたれいこ:やく アスラン書房 2005/2006.07 1300円)
 アシカ、フラミンゴ、ネコ、イヌ、ヒト。様々な生き物の赤ちゃんたちの寝姿を撮った写真絵本。それだけの1設定物。単調といえば単調。でも、やっぱり、こいつはあきない。無防備に愛しさを覚えてしまうのは仕方なしか。(hico)

『ぼくの町に電車がきた』(鈴木まもる:文・絵 岩崎書店 2006.07 1400円)
 「ちしきのぽけっと」シリーズ。
 著者自身の祖父から聞いた、伊豆急行鉄道工事の話を元にしている。
 前半は、左に当時の工事の様子、右に「いまはこうなっています」とキャプションがついた現在の線路風景。ただそれだけの構図ですが、この「いまはこうなっています」に結構グッときてしまいます。そこには40数年の時間が流れているのですから。後半は、トンネル掘りから試走までの流れが丁寧に描かれていきます。ここは素直に楽しい。(hico)

【創作】
『きりんゆらゆら』(吉田道子:作 大高郁子:画 KUMON 2006.02 1100円)
 転校してきたぼくは、クラスの中でも不思議な雰囲気を持つクワガタくんが気にかかる。クワガタくんはしゃべらない「だまっている人」だ。
 ぼくの家は父親の仕事の関係で引っ越しが多いから、友達つきあいも軽くしておくようにしている。なのになんだろ? クワガタくんは事故でお兄さんを亡くしているらしい。それが関係あるんだろうか? みんなはクワガタくんに気を遣っているみたいだし、ぼくがクワガタくんのことを知りたがるのを喜んでいるようにも見えない。ぼくのいとこで、カワガタくんのお兄さんの友人だった高士にいちゃんは、ぼくを「一八番頭目のラクダ」だと謎のようなことを言う。
「今まで、ぼくが身につけたこと。それは、からだ全体で人の気配を知ることだった。転校するたび、全身耳になる日がつづいた。(略)そのくせ自分からは、積極的にはうごかない」というぼくがどう動き、何を知っていくのか?
 ちょっと大島弓子を思い出させるストーリー展開。だから、最後はもちろん幸せが降りてきます。
 良い出来。(hico)

『トモ、ぼくは元気です』(香坂直 講談社 2006.08 1300円)
 『走れセナ!』で子どもの日常の輪郭を巧く捉え、いいスタートを切った香坂のデビュー第2作。
 松本和樹、6年生の夏。彼は中学受験を控えているにもかかわらず、父親の実家である大阪へとやってくる。少し家族と離れて過ごすために。彼には一歳年上の兄トモがいるのだが、知的障害児で、カズはずっとよく世話をしてきたのだが、それに疲れてトモと別の中学に入りたくて受験生となり、でもそんな自分をちょっとイヤでもありしているとき、ある事件をきっかけに母親からトモと同じ中学に行ってくれないかと言われ、誰への、何へのかはともかく怒りがわき起こり、つまりは「キレ」て母親が創ったキルトを切り刻んで荒れたのだ。
 カズが飛び込んだ大阪は異世界。反発しつつもしだいに巻き込まれていく。夏の重要なイベントに子ども金魚すくい大会があり、カズはメンバーに入れられるのだが、そこで出来事達が起こっていく。
 70年代に見られた「障害児」賛美の罠にギリギリ陥ることなく描いている。それはおそらく、トモ(兄)と距離なくつきあわざるをえなかったカズ(弟)という位置づけが良かったからだ。
 最後のピークに金魚すくい大会を持ってくるのは物語作法上そうなるのはわかるのだが、ベタすぎるとは思う。でもその後敵役のタクにまで視線が行き届いているのは、香坂の子どもを見る目の確かさだ。
 いい新人の登場が、とてもうれしい。
 あ、それと大阪は、架空の大阪です。(hico)

『天狗童子』(佐藤さとる あかね書房 2006.06 1600円)
 『鬼ヶ島通信』に連載されていた作品が書き改められ、ついに刊行されました!
 時は戦国時代。山番の与平は、大天狗から笛の腕を見込まれ、カラス天狗に笛を教えるように頼まれる。カラス天狗の名は九郎丸。まだ少年です。
 カラス天狗となる前は人間であった九郎丸。その出自もやがて明らかになり、戦国の時代に巻き込まれていきます。
 作者が本当に楽しんで書いているのがビンビン伝わってきます。展開のおもしろさで読ませていくタイプですから、読み損はありません。(hico)

『酸素の物語』(カレン・フィッツジェラルド:著 竹内敬人:監修 原田佐和子:訳 大月書店 2006.06 1800円)
 これはフィクションではなく子ども向けの化学の本。でも『酸素の物語』とあるように、人がそれを発見するまでの筋道を物語のようにして伝えてくれます。予めそこにある「酸素」を発見するのですから、それは認識の歴史でもあるわけで、そこがドラマです。図や絵も豊富で、読みやすい。(hico)

『デビルズドリーム』(長谷川集平:作 前田秀信:絵 理論社 2006.07 1200円)
 理論社のサイトでネット配信した作品の書籍化。
 小学6年生のアキは離婚した母親と共に、ふるさとの長崎に引っ越してくる、。「あんたのようなやさしい子には今の東京みたいなわけのわからない都会よりも、やさしいいなかの方がいいと思う」が、母親の理由。「長崎にいて、お母さんの言ったことがなんとなくわかったような気がしている」とアキ。「ここの人たちはアキと顔を合わせるとかならず「あはようございます」とか「よかお天気になったね」とかあいさつする。」しかし、そんな長崎で「二年前に」「子どもの殺人事件がふたつあった」。
 アキは友達とネット上で二人だけのチャットをしている。「現実だけでは息苦しいからさ」。
 その後物語はアキと母親の個々との揺れと交差、チャットが互いの心を傷つけることもある様、原爆、神様と様々な問題と問いを無駄を省いた言葉で描いていく。
 とても短い物語にたっぷりのメッセージ。(hico)

『オオカミとコヒツジときいろのカナリア』(ベン・カウパース:さく のざかえつこ:やく ふくだいわお:え KUMON 2002/2005.12 1000円)
 オオカミとヒツジが仲良しと設定されればもう、誰もが『あらしのよるに』を想起してしまうのは仕方のないことですが、もちろんこの作品はそんなことは知りません。
 比べてみればその湿度の違いがおもしろいでしょう。
 それはともかく、冬好きのオオカミと冬嫌いのコヒツジのクルスマスストーリーは、会話主体で、二人の仲の良さを描き出していきます。
「見てごらん、コヒツジ、ものすごくきれいだ!」
「きれいなものなんて、なにも見えないよ。ああ、さむい」
と二人の違いと、それでも大好きどうしであることが、どんどん伝わってきます。二人は好きだということを互いに伝えようとしています。「友達」とは? を巧く伝える物語。(hico)

『ローズ・クイーン』(M.E.ラブ:作 西田佳子:訳 理論社 2004/2006.06 1200円)
 軽めのテーンズ・ミステリー、シリーズ第一作。なのですが、設定がなかなかすごいです。
 場所はニューヨーク。ソフィア15歳とその姉17歳サマンサの父親が亡くなる。義母イーニッドはその財産を独り占めにしソフィアたちを追い払おうとしている。そこで、サマンサは財産30万ドルを失敬し、二人の偽のIDを手に入れ、ためらう妹を引っ張って逃走する。たどり着いた先はインディアナ州のヴェニス。出身地は州でも都会のベッドフォードということになっている。サマンサはソフィアの保護者もつとめなければならないので21歳ということになっていて、ソフィアはそのまま15歳だから学校に。もちろん名前は変えてある。ソフィアはフィオーナ、サマンサはサム。
 ニューヨーク出身であることも隠す必要があるのだけれど、これがなかなか難しい。しかもニューヨークで格好いいことはここでは格好悪い! フィオーナのクラスメイトは彼女を都会から来たと認めてはいるけれど、その都会とはニューヨークではなくベッドフォードだからややこしい。
 という風で、彼女たちは身元を隠した姉妹なのだ。
 そうした設定に時間を費やしているので、本巻ではミステリーはおまけ程度。でも設定がおもしろいので、そこだけで十分読ませます。(hico)

『天山の巫女ソニン 一黄金の燕』(菅野雪虫:作 講談社 2006.06 1400円)
 巫女としての資質を見込まれ赤ん坊の時から天山で修行をしているソニン。しかし一二歳の時、見込みなしとされ、下界へと降りる。ふるさとで普通に生きるつもりが、ひょんなことからこの国の末の王子に仕えることに。ソニンは宮内の陰謀に巻き込まれていく・・・。
 デビュー作。すでに続編が決まっています。
 非常に達者な展開で、心地よく読み進めます。大型新人登場!といったら、ありきたりでしょうか? でもそうだからいいや。
 ただし、達者故でしょうか、この物語特有の世界観があまり感じられません。もっとトンガッてもいいと思うのですが。そこが心残り。(hico)

『海賊の息子』(ジュラルディン・マコックラン:作 上原里佳:訳 偕成社 1996/2006.07 1600円)
 一八世紀。寄宿舎学校に通うネイサンは、父親の破産と死によって放校される。妹のモードと二人どうすればいいのか? そんなとき救いの手を差し伸べてくれたのはマダガスカル出身の友人タモ・ホワイト。海賊の息子であるタモととも海賊の島へと渡る二人だが・・・。
 ネイサンをトム・ソーヤー、タモをハックル・ベリーフィンと見れば構図が見えてきます。ただしこの現代小説はそこにモードという女の子を配します。そのことによって「冒険」のこっけい度が増して、「冒険小説」の時代と今がいかに隔たっているかがあぶり出されます。(hico)

『ラスト・ドッグ』(ダニエル・アーランハフト:作 金原瑞人・秋川久美子:訳 ほるぷ出版 2003/2006.06 1300円)
 ローガンは母親の再婚相手ロバートが嫌い。暴力で母を自分を抑圧しようとする。孤独なローガンの良き友になったのは、一匹の犬ジャック。血統書付きを飼えと言ったロバートへの腹いせに回収された野犬を飼うことにしたのだ。
 世界では犬を介した謎の病気が蔓延する。ワクチンはない。パニックとなる世界。ローガンとジャックは生き残ることができるのか?
 場面転換が早いハラハラドキドキのパニック物です。そこに家族問題を絡ませているのがとても現代的。
 ラストはこれしかないでしょうね。(hico)

『虎の弟子』(ローレンス・イェップ:作 金原瑞人&西田登:訳 あすなろ書房 2003/2006.07 1400円)
中国系ファンタジー・アクション小説です。舞台はサンフランシスコのチャイナタウン。考古学者であるトム・リーの両親は、マレーシアで行方不明になっていて、彼はおばあちゃんに育てられている。おばあちゃんは呪術を操ることができ、トムも習っている。おばあちゃんの弟子のミスター・フーは実は虎。ある伝説が動き出し、「悪」によりおばあちゃんが殺され、トムはフーの弟子となる。お宝は、「フェニックスのたまご」。それを求めて様々な妖しがトムたちを襲う。仲間に集うのは孫悟空以下ユニークな面々。
 おもしろさでナンボの展開です。タイトルがベタなのでキャッチは弱いかもしれませんが、読めば十分楽しめます。 (hico)

『キサトア』(小路幸也 理論社 2006.08 1500円)
 父親は風を読むエキスパートのフウガ。息子の少年アーチは色を識別できないが様々なオブジェを創るアーティスト。双子の妹のキサとトアは相手が起きているときは眠っているという不思議な体質を持ってしまっている。
 彼らと、彼らが住む海辺の町の人々に起こる出来事の物語です。
 事件は起こりますが、優しさと理解と、穏やかな時間に彩られています。この家族のキャラ設定からもわかるように、この物語はどこかしら寓話めいています。ただ、この物語故の色のような物が感じられないのが不思議。抜き差しならない物や事がないように思います。アリスにも賢治作品にも好き嫌いはともかく、そういうもの、う〜ん、不穏さとでもいえばいいのかな、それがあるのですが。(hico)

『おれはレオ』(佐々木マキ 理論社 2006.06 1000円)
 女の子とサイ、ヘビ、ライオンの回文対決だ!
 はい、それだけです。
 が、それだけだが、それだけで一冊の本を仕上げているわけでもある。すごいぞ。読んでいて疲れるほどに回文だらけだ。この力業に思わず笑ってしまうのだ。(hico)

『なんでもやのブラリ』(片平直樹:作 山口マオ:絵 教育画劇 2006.07 1200円)
 ブラリが持っている大きな袋はなんでも叶えてくれます。サーカスの団長はたくさんのゾウを出してもらい、農家のおやじは大量のスイカを市場に運んでもらいます。ところが、ワニの兄弟がやってきて袋をよこせと言ったものだから・・・。
 別に新しい発想ではないにしろ、希望を叶えてくれる袋という設定は楽しいです。でも、エピソードが二つなのは少ない。もっと様々なパターンの願いとそのユニークな叶え方があってもいいのでは?
 山口マオの絵は物語の雰囲気と合っています。(hico)

『ロボママ』(エミリー・スミス:作 もりうちすみこ:訳 村山鉢子:絵 文研出版 2003/2006.05 1200円)
 ロボット研究をしているママは毎日が忙しくてジェームズをかまってくれない。家事もだめ。大きなプロジェクトが入りママはしばらくお留守。そこでロボットママを借りてきてくれたのだが・・・。
 融通が利かないといえば利かないロボットママとジェームズのおかしな日々。やがてジェームズはロボットママに愛着を抱くようにもなります。
 働く母親をその子どもの生活をどうするか?が描かれているのですが、ジェームズが嫌がっていても、働く母親は働き続けることもさり気なく示していて、今の物語です。(hico)

『菜緒のふしぎ物語』(竹内もと代:文 こみねゆら:絵 アリス館 2006.03 1300円)
 建て直される前の田舎のおじいちゃんの家に菜緒は遊びに行く。仲良しは、ひいおばあちゃんになるさよさん。菜緒は彼女に教えられて、古い屋敷に住まっている不思議な者たちと出会っていく。
 ぼっこ物です。9歳の菜緒と88歳のさよ。このコンビが実に息もぴったりで良いです。古い屋敷にいかにも存在しそうな不思議な者たちが、この世界にふくらみを与えてくれます。愛おしくなりました。(hico)

『アキンボとアフリカゾウ』(アレグザンダー・マコール・スミス:作 もりうちすみこ:訳 文研出版 1990/2006.05 1200円)
 動物保護管の父親を持つアキンボ。密猟で殺されたゾウを見て、密猟者を捕まえる決心をします。子供のアキンボがそんなことをしたら反対されるに決まっていますから、彼は内緒で決行します。その方法とは?
 子どもの知恵と勇気の物語です。その素材がゾウの密猟者逮捕ですから、スケールが違います。実際命を賭けていますし。日本ではこのスケールは無理なのですが、じゃ、知恵と勇気の物語は不可能なのか? という地点から発想すれば、きっといい物語ができます。困難さを自覚しながらね。(hico)

『虎よ、立ちあがれ』(ケイト・ディカミロ:作 はらるい:訳 ささめやゆき:絵 小峰書店 2001/2005.12 1400円)
 南部。ガンで母を亡くし、父と二人、貧しい暮らしのロブ。彼はある日隠すように置かれた檻の中にトラを発見します。それは父親の雇い主がどこかから借金の形にもらってきたのですが、ロブは餌やりの仕事を任されます。ロブの友達システィンは父親が消えてしまった女の子。さみしさとさみしさが、反発しつつも二人を結びつけています。システィンはとらわれのトラを逃がしたいと思い、ロブに迫ります。ためらっていたロブですが、ついに決心して檻の扉をあけるのですが・・・、もちろんそれですむはずもなくトラは殺されてしまいます。囚われのトラは、心を抑えている二人とシンクロしており、トラが解放されたとき、二人の心は一時であれ解放されます。妻を失って生気を失っていた父親もまた、その事実と向き合うようになります。
 トラという異物によって心の内部を外在化させる手法はスタンダードですが、作者は急がずゆっくりゆっくり語ることで、細やかに悲しみからの解放を描いていきます。(hico)

『ランプの精 リトル・ジーニー1』(ミランダ・ジョーンズ:作 宮坂宏美:訳 サトウユカ:絵 ポプラ社 2004/2005.12 800円)
 おばあちゃんい買ってもらったアンティークのランプを磨いていると、中から女の子のジンが現れた! 名前はリトル・ジーニー。3つお願いを叶えてくれるんだけど・・・。
 ありがちじゃん。
 とか言わないの。おきまりの展開をきちんと外すことなく、それなりにワクワクドキドキさせながら物語って行く腕は認めましょう。幸せの結末でちゃんと終わっているのも良いです。
 これならいつ読んでも楽しく時間をつぶせるのだ。
 続刊もでました。(hico)

『水妖の森』(廣嶋玲子:作 橋賢亀:絵 岩崎書店 2006.04 1200円)
 森で水に棲む人ナナイに出会ったタキ。タキがナナイをある湖に無事送り届けるまでの冒険を描いています。悪い人ではないが故あってナナイを捕まえようとする女狩人、黒い影の手先たち。
「これはもう、誰が悪だとか誰が全だとか、かんたんに分けられることではないのかもしれない」とあるように、登場人物の配置はふくらみを持っています。唯一絶対悪のように登場するウラーにも作者はある種の悲しみを描き込んでいます。
 大団円まで非常にスムーズに無理なく進み、なかなかの腕前に感心しました。物語のヴォリュームが、描かれている世界に比べて小さいのですが、それは今度改善していくでしょう。
 こうした物語を読むと、上橋や荻原の娘(妹)たちが確実に育ってきているのが実感できます。(hico)

『ろばのじいさん』(阿部正子:作 ひだきょうこ:絵 岩崎書店 2006.05 1000円)
 保育園で、友達の輪に入れないしゅう。みんなに誘われて、加わろうとしたとき、世界が変わって、保育園でいつも見ていたろばのぬいぐるみが大きくなり、背中に乗せてくれます。みんなも加わって、動物たちも加わって、楽しい時間が流れていく。
 気づくといつの間にかみんなと一緒になれていました。
 物語としてだけ読むと、うまくいきすぎなのですが、不安を抱いている子どもにとっては「大丈夫」というメッセージが心に響くのでしょう。(hico)

【ノンフィクション】
『共依存かもしれない・他人やモノで自分を満たそうとする人たい』(ケイ・マリー・ポーターフィールド:著 水澤都加佐:監訳 大月書店 1991/2006.04 1400円)
 『10代のセルフケア』の3巻目。共依存はそこで閉じたり、そこで納得したり、成立したりしてしまうので、なかなか脱却できないのですが、そうしたややこしい絡まり具合を、多くの、しかし分かりやすく短い例を示しながら、見えるようにしていきます。研究書ではなくあくまで10代の理解のためですから、わかりやすさは基本。
 自己否定からどう変わっていくかはポイントとなるわけだけれど、自己否定しているのにそうは思っていないことを、それが自己否定なのだと考えていけるようになることから始める必要がある辺りのやっかいさも、巧く説明できています。
 インナーチャイルドの欠落や未認知といった指摘もおもしろい。(hico)