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2006.11.25

       

クリスマス!クリスマス!
「馬小屋のクリスマス」アストリッド・リンドグレーン文 ラーシュ・クリンティング絵 うらたあつこ訳(2001/2006.11  ラトルズ)
「ラ−バンとラボリーナのクリスマス」インゲル・サンドべリ作 ラッセ・サンドベリ絵 きむらゆりこ訳(1991/2006.10 ポプラ社)
「ちいさなもみのき」ファビエンヌ・ヌニエ文 ダニエル・エノン絵 河野万里子訳 (2005/2006.9 ほるぷ出版)
「ようこそ クリスマス」市川里美絵 マリアン・クシマノ・ラヴ文 森山京訳 (2005/2006.10 講談社)
「メルローズとクロック きみとであったクリスマス」エマ・チチェスター・クラーク作 たなかまや訳(2005/2006.10 評論社)
「クリスマスのまえのばん」クレメント・ムーア詩 リスベート・ツヴェルガー絵 江國香織訳 (2005/2006.10 BL出版)
「ニッセのポック」オーレ・ロン・キアケゴー作 スベン・オット−絵 ひだにれいこ訳 (1982/2006.11 あすなろ書房)
「すばらしきかな、人生!」ジミー・ホーキンズ作 ダグラス・B・ジョーンズ絵 片岡しのぶ訳(2006/2006.11 あすなろ書房)
「サンタの最後のおくりもの」マリー=オード&エルヴィール・ミュライユ作 クエンティン・ブレイク絵 横山和江訳 (1992,2003/2006.10 徳間書店)

 今年のクリスマス本は絵本から読み物までとりどり。
 まず、リンドグレーンの語るある誕生の物語。「馬小屋のクリスマス」はキリスト生誕の物語を、遠い国の昔のお話とせず、今お話を聞く子どもの目線で描いているところが興味深い。ワイズ・ブラウンとクーニーが組んだ「うまやのクリスマス」にも少し似ているけれど、おかあさんからクリスマスのお話を聞くという入れ子の構造を持つことで素直に入っていける。リンドグレーンの文章がとらえた、人の誕生の尊さとそれを讃える暖かさを存分に表わしているクリンティングの絵が本当に素敵だ。見開きいっぱいに描かれた冬の星空の下に雪におおわれた大地と小さな馬小屋。画面のリズムがこのテキストを絵本たらしめている。
 「ラ−バンとラボリーナのクリスマス」はスウェーデンの人気絵本作家夫妻が描く「おばけのラ−バン」シリーズのなかの一冊。まつげぱっちりのおばけたちが愛らしく、コラージュとユーモラスな線画で描かれるイラストのデザイン感覚溢れる楽しさが特徴。ラボリーナはクリスマスが待切れなくて、アドベントカレンダーを全部開けてしまうような女の子。ラボリーナにふりまわされる家族ですが、さいごはみんなで楽しいクリスマスが過ごせます。クリスマスの前に祝うルシア祭がでてくるのが、日本の子どもにはちょっとわかりにくく、少し説明が欲しかったなと思う。
 「ちいさなもみのき」はフランスのお話。丘から遠くに見える大きなもみの木の森を憧れる小さなもみの木が主人公。クリスマスのために、中くらいのもみの木とともに町で売られることになってしまう。あまりに小さいので最後まで売れ残るが、とうとう、小さな小さなおじいさんとおばあさんに買われていき、クリスマスツリーとして飾られる。そして、カサカサになって居心地が悪くなった頃、ちいさなもみのきに思いがけない奇蹟がおこる。その鮮やかさがとても洒落ている。
 「ようこそクリスマス」はお父さんくまと子ぐまのセリフで物語が進んでいく絵本。ふたりの様子を生き生きと描くイラストを読んでいけば、クリスマスの前の日だとだんだんわかるようになっていて、ぬいぐるみのくまさんたちの世界を自分の暮しを重ね合わせて読むだろう子どもに、安心でうれしい時間を与えてくれる。
 「きみとであったクリスマス」は犬のメルローズとワニのクロックのシリーズ3冊目。でも、この本ではふたりの出会いを描いている。ひとりぼっちのさびしんぼうどうしが、クリスマス・イブの晩に出会って、本当に欲しかったものを得る。それは、ともだち。ふたりの心の動きが丁寧に描かれ、にぎやかな町の様子と対照的なふたりがどんどん変わっていくのがほほえましい。
「クリスマスのまえのばん」は何度も絵本化されるムーアの詩がもとになったもの。ツヴェルガーらしい繊細で美しいイラストと金色で押された雪の結晶が華やか。サンタクロースの造型が、他の絵本とちょっとちがい、小さいけれど恰幅の良い妖精のような感じ。北欧で紹介されるニッセ(後の本でもでてくるが)に似た様子で、アメリカのサンタさんとはひと味ちがう。
「ニッセのポック」は前述のいたずら好きの妖精と男の子とおじいさんのお話。都会から田舎の農場暮しをするおじいさんの家でクリスマスのおやすみを過ごそうとやってきた男の子。アドベントカレンダーのように1日づつ、短いお話で毎日の暮しを物語ってくれるのが楽しい仕掛け。オットーのイラストがとても良く、田舎の暮しぶり、ニッセの佇まいなど物語を広げてくれる。
「すばらしきかな人生!」は映画「素晴らしき哉、人生!」を元に語り直された物語。映画で末っ子のベイリー役を演じていた人が、もとの話のサイドストーリーのような形で絵本化。家出して、消えてしまいたいというトミーに、過去を遡り、もし、ここに君がいなかったら、デイヴィスさんにも、カーターさんにも幸せは訪れなかっただろう、と守護天使が語る。ノスタルジックなイラストに、オーソドックスなストーリーの展開が良く合っている。自分もまた人を支え、支えられて生きていることを実感させてくれる物語。
「サンタの最後のおくりもの」はフランスの作家の物語にイギリスの絵本作家が絵をつけたもの。そろそろサンタクロースの存在をいぶかしく思いはじめているジュリアン。彼のところに、見たことのない列車のおもちゃがやってくる。サンタさんが小さな子野ために作ったおもちゃを落としてしまったからなのでは、パパいうけれど……。落とし物なら、かえさなくては、と手紙を書いてアプローチをするところがまだまだ子ども。最後の贈り物がなんだったか、どうして、それが最後だったのか、小さな絵本だけれど、不思議に引き込まれれる。(ほそえ)

○その他の絵本
「せーのジャンプ!」深川直美 (2006.9 福音館書店)
お祭りでママにふうせんを買ってもらったゴンちゃん。でも、ふうせんってひゅっと手から逃げていってしまうものなのよねえ。ママもポチも慌てて追い掛けてくれたけど、つかまらない。タコヤキ屋のおじさんもお店をひっくり返しながら、警官隊も、サーカスのライオンも、公園の鳩も、宇宙飛行士まで、風船を追い掛けた! 日常からどんどん逸脱していく過剰な展開をおもしろがるのは絵本のお得意のジャンルである。このての古典的な人気絵本といえば「わごむはどこまでのびるかしら?」があるけれど、この絵本も、どんどん宇宙にまでいってしまう途方もなさが売り。ただ、この人は他の切り口で絵本を作り続けられるかどうか、この1作ではちょっとわからない。(ほそえ)

「シマフクロウとサケ〜アイヌのカムイユカラより」宇梶静江 古布絵制作・再話(2006.9 福音館書店)
以前「母の友」に掲載されていたものが絵本になって、適切な解説とあとがきを伴って1冊になりました。アイヌ伝統の文様の刺繍と古い布をアップリケして描かれる<古布絵こふえ>は作者が生み出した技法です。シマフクロウとサケの物語は日本語とアイヌ語の言葉のリズム(音)でシンプルな形で再話され、藍染の布に様式化されながらも勢いのある糸で描かれます。アイヌの文様が古布のアップリケと出会い、波や風を表現する時、文様のできてくる様を追体験するような心地がした。(ほそえ)

「ぼくはだれもいない世界の果てで」M/T/アンダーソン作 ケビン・ホークス絵 柳田邦男訳 (2005/2006.10 小学館)
誰もいない世界の果てでひとりぼっちで暮していた少年。古い地図をたどって宝探しをしたり、恐竜の骨を拾い集めて組み立てたり、風の音を聞いたりして、1日1日をゆっくり過ごしていた。そこにやってきたのがシマーさん。この世界の果てにレジャーランドを作るという。そこにやってきた子どもたちに、少年は化石掘りの場所を教えたり、口笛をふくこと、風の音を聞くことなどを教える。いったんはジマーさんの経営するホテルのやり口に浸ってしまう少年だが、やはり、ひとりの場所を探して出かけてしまう。楽しみを追って、お金と時間をかけるやり方を良しとするのか、自分の身の回りでなにげない楽しみを見つけるくらしを大切にするか、生き方の根本を問う。(ほそえ)

「柿の木」宮崎学(2006,10 偕成社)
伊那谷の寒村にたたずむ柿の木の2年を追った写真の本。一本の木を追った写真絵本には「はるにれ」や「ふたごのき」などあるけれど、この柿の木は人と共にあった木だというところが、今までの本とちがうところだ。木を見つめることが村の歴史、人の暮しを見つめることになる。これは宮崎が動物をおいながらもやってきたことと重なっている。コンパクトは判型に、たたずみ柿の木の写真ページをぱらぱらとめくると、映像がうごくように見えてくる。小さいけれど、時空の広い世界を閉じ込めた重い本。(ほそえ)

「もしもママとはぐれたら……」カール・ノラック文 カトリーヌ・ピヌ−ル絵 石津ちひろ訳(2004/2006.9 講談社)
ママとはぐれてしまったら……というのは小さな子の大きな不安です。ぞうの男の子クレオはぼくだったら、おさるさんみたいに木に登ったり、チョウチョみたいに飛んでママを探したり、雲を飛ばして合図したり、お星さまみたいに光って見つけてもらうんだと想像します。アメリカ古典絵本の傑作「ぼくにげちゃうよ」の反対版みたいな感じ。想像に合わせ、イラストにも飛躍が欲しいところですが、そういう表現にはならず、愛らしいイラストで母子の愛をうたいあげます。(ほそえ)

「とうさんはタツノオトシゴ」エリック・か−ルさく さのようこ訳(2004/2006.9 偕成社)
お腹に卵を産みつけられたタツノオトシゴのお父さん。大きなお腹で海の中をお散歩します。すると、海草や岩やサンゴの影に隠れているいろんなお魚に出会うのです。透明なフィルムに印刷された海草や岩などの下から透けて見える魚たちがぺラッとめくることで、姿をあらわすのがおもしろいのだろう。さいごはぶじにタツノオトシゴの赤ちゃんが生まれ、おめでとう。(ほそえ)

「めんどりとこむぎつぶ」小出正吾文 安 泰絵 (1969/2006、9 フレーベル館)
イギリス民話の絵本化。めんどりが小麦の粒をまくのを手伝って、と猫や犬やぶたにいうのだけれど、みんな、嫌だよ、と断ってしまう。小麦が育って刈り取る時も、小麦の粒を粉に引く時も、みんな手伝ってくれない。さいごにパンを焼いて食べる時に、やってきても、きっぱりと断わるめんどり母さん。繰り返しがおもしろいけれど、内容的にはちょっと厳しいこの話を、温かみのある絵で中和させた画家の力。(ほそえ)

「灯台守のバーディ」デボラ・ホプキンソン作 キンバリー・バルケン・ルート絵 掛川恭子訳(1997/2006.9 BL出版)
灯台守りの妻となったり、灯台守りとして暮した女性たちの日記や資料をもとに、バーディーという少女を造型し、自然と対峙し、人の生き死にを左右するような仕事をする暮しの有り様をしっかりと描いている。家族との絆、小さな島での限られた毎日。お父さんの体の具合の悪くなった日に、嵐が接近し、バーディーひとりで燈台の灯を守らなければならなかった時の心細さとこの仕事への強い思いが、心を揺さぶる。時代的にも、空間的にも、なかなかイメージしにくい世界を端正なイラストで描き出し、わかりやすくしてくれている。(ほそえ)

「うちのママってすてきなの」アンソニー・ブラウン 久山太市訳 (2005/2006.10 評論社)
「うちのパパはかっこいい」に続く第2弾。ままはすごいコックさんでちからもち、偉大な画家さんだからお化粧もお上手。イラストと言葉の奇妙なつながり具合がアンソニーらしく、おかしい。(ほそえ)

「おたんじょうびのひ」中川ひろたか文 長谷川義史絵 (2006.8 朔北社)
入園の不安を吹き飛ばす「きみたちきょうからともだちだ」に次いで、巻末に楽譜のついた歌から生まれた絵本第2作目。園でお誕生会をするので、おかあさんに生まれた日のことを聞いてきましょう、ということになる。未熟児で生まれてきたよしふみ君のはなしや、1歳のお誕生日の時に、えいと立ったひろえちゃんのこと、なす先生の生まれた時のことを話してくれた園長先生。それぞれの誕生を楽しく、ことほぐ会の始まりに、「おたんじょうびのひ」のうたをうたいます。(ほそえ)

「学校つくっちゃった!」エコール・エレマン・プレザン 佐藤よし子 佐久間寛厚 文、写真 (2006.9 ポプラ社)
ダウン症の人たちのためのプライベートアトリエとして使われるマンションの一室で繰り広げられる様々な形や色や気持ちのやりとりを、たくさんの写真や作品でまとめて見せてくれる絵本。真っ白な箱のような部屋や机にカラフルな絵が描かれ、棚も壁もトイレも素敵な色や形で満たされる。ベランダには食べるものが育てられ、その成長はスケッチされる。みんなでつくる時もあれば、ひとりひとりの時間の中で形になるものもある。生き生きと手や目や心を動かす子どもたちの姿に、豊かな時間や空間がいかに必要であるか、それを見守る人の存在の大きさを思った。(ほそえ)

「やねの上にさいた花」インギビョルグ・シーグルザルドッティル作 ブライアン・ピルキントン絵 はじあきこ訳 (1985/2006.8 さ・え・ら書房)
アイスランドの作家による絵本。田舎で動物たちの世話をしながら暮していたグンニョーナおばあさん。病気したのをきっかけに、都会にひっこすことになりました。町中の暮しは楽しいものもいっぱいあるけれど、やっぱり寂しくなってしまう。鉢植えをし、鶏を部屋の中で飼い、屋根にまで芝をはって、とうとうマンションの中に、田舎を作ってしまう。その一部始終をマンションにすむ都会育ちの男の子の目線で描いている。いろんな楽しみを気軽に手に入れられる町暮しの楽しさと、生き物の世話をすることで生き甲斐を得る田舎暮しの充実感。どちらも大事でどちらも手にしたいという現代の人の有り様も見せてくれる。(ほそえ)

「ちびうさにいちゃん!」ハリー・ホース作 千葉茂樹訳(2006/2006.9 光村教育図書)
兄弟の中で一番ちび助で困らせやさんだったちびうさもとうとうお兄ちゃんになります。赤ちゃんが生まれてみると三つ子でした。お世話の大変さはひとりに比ではありません。でもちびうさは、乳母車を押したり、だっこしたり、一緒に遊んであげようとします。でも、うまくいかず、反対におかあさんにしかられてしまい……。兄弟の増えた子どものうれしいうきうきした気持ちや思ってたのとちがうなあという不満がうまいぐあいに絵本化されています。ちびうさのお家はおにいちゃん、お姉ちゃんもいたのではなかったっけ? 他の子が出てこなかったので、ちびうさのお兄ちゃんぶりに焦点があたっていて、わかりやすい反面、良くある感じの展開になってしまったかな。(ほそえ)

「こぶたのブルトン あきはうんどうかい」中川ひろたか文 市居みか絵 (2006.9 アリス館)
スキー、お花見、プールと続いた「こぶたのブルトン」シリーズ、秋は運動会です。やはり、だるまのたかさきさんがイニシアチブをとって、がんがんお話を進めます。最後の大玉転がしならぬ、だるまころがしでの大車輪な働きぶり。びっくり、圧倒されました。(ほそえ)

「おへそのあな」長谷川義史作 (2006.9 BL出版)
赤ちゃんがうまれるまでの間、家族の待ち望む気持ちを描いた傑作絵本に「あかちゃんのゆりかご」があるけれど、本作は赤ちゃんがおへその穴から、家族の様子を見ているという構図にしているところが今までの絵本とちょっとちがう。描かれる家族の様子は今までこの作家がいろんな絵本で描いてきた3世代同居のあたたかみのある、ちょっとおとぼけさんなところもある家族。この絵本は今までの絵本とちょっと語り口(文体)がちがっていて、慎ましやかな感じ。それは生まれてくるということへの敬虔さが表れているように思われた。(ほそえ)

「パラパラ山のおばけ」ライマー作、絵 中由美子訳 (2003/2006.9岩崎書店)
台湾の人気作家ライマー、日本で翻訳されるのはこれで2作目。鮮やかな色使いとユーモラスでかわいらしいキャラクターで人気なのでしょう。本作もパラパラ山でおばけを見たといって転がり落ちてきた白ぶたさん。大けがをして、村のみんなにおばけの話したからたいへん。村のみんなは塀を作ったり、隠れたり、落とし穴を作ったりと大騒ぎです。でも、ほんとうは……という展開。お話としてはよくあるものだけれど、丁寧に描かれる村の人々のそれぞれのあわてぶりがおもしろいし、オチもあって、楽しめる。(ほそえ)

「つりはもういいんだけどな、パパ!」クロード・K・デュボワ作 原光枝訳 (2005/2006.8平凡社)
ハムスターの女の子ノラの絵本「だいすきっていいたくて」(ほるぷ出版)のシリーズでよく知られているデュボワの作絵の絵本。カエルの父子のユーモラスなやり取りがおもしろい。パパとつりに出かけるのが大好きだったのに、今はそんなに好きじゃない。そのわけは、友だちができて、一緒に遊びたいんだけれど、そう言ってつりを断ったら、パパ、かなしむだろうな、と子ガエルは悩みます。でも、思いきって話してみると、パパだって……というオチがなかなか洒落ています。(ほそえ)

「シイイイッ!」ジーン・ウィリス文 トニ−・ロス絵 いけひろあき訳 (2004/2006.8 評論社)
小さな小さなトガリネズミが世界の人に聞かせたい大事なことを話したいっていってるよ。でも、世界はとっても騒がしくって、誰の耳にもトガリネズミの声が聞こえない。それでもトガリネズミはめげずに山の上から叫んだり、ひとりひとりに話し掛けたりしてみせる。地球が平和になるための秘密を知っているんだよ、と。小さなトガリネズミと動物たちのせわしない生活が対比して描かれるページの後に、世界が耳をすました瞬間がぱっとあらわれる。それがとっても絵本らしい。世界中の人がみなこうしてじっと座って耳をすませたら……きっと地球は平和になるんだって。耳をすませば、そよぐ風や鳥の声や雲の流れる音まで聞こえるだろう。その中から静かに相手を見る目も育つだろう。同じ花を見つけ、目配せしほほえみあう時間もうまれるだろう。そういうものが平和を作っていくと、小さな人の心の底にイメージを植え付ける絵本という形が素敵だと思う。(ほそえ)

「ママがおこるとかなしいの」せがわふみこ作 モチヅキマリ絵 (2006.8 金の星社)
仲良しの男の子とけんかをしてしまったメグちゃん。「おともだちとはなかよくしなきゃ」とか「はやくあやまっちゃいなさい」と言うママに、メグは怒る。パパの言うことにもお兄ちゃんの言うことにも心が動かない。おばあちゃんだけはメグちゃんの言葉に出てこなかった気持ちを言い当てることができた。「けんかして悲しいんだね」「なかなおりしたいんだね」「どうやって仲直りしたら良いのかわからなくて困っているんだね」と言葉にしてくれた。この態度こそ、大人の態度であると作者は言っている。親業というコミュニケーション方法だと言う。子どもの思いを言葉にして聞き返すことで、共感されて安心し、話を聞いてもらって自分で解決できるようになる助けをするのだ。この絵本は一種のHOW TO本であり、コミュニケーションの智恵を大人にむけて解説しているものである。こういう智恵を本来なら、物語の中から読み取っていくのが読書の一つの魅力であるのだけれど、もっと手軽に端的に伝えたい、教えてもらいたいという需要があるのだろう。(ほそえ)

「ぼくの町に電車がきた」鈴木まもる文絵 (2006,7 岩崎書店)
静岡県の伊豆半島の伊東から下田までには31ものトンネルがあります。山や崖が多くて線路を敷くことが難しかった様子をおじいちゃんから話を聞くと言う形で絵本にしたのが本書。のりもの絵本のおおい作家らしく工事で活躍する車を紹介したり、昔の作業の様子と今、電車が走っている様子を見開きに対比してい見せたり、工夫をこらしています。車好き、電車好きの子には、モノとしての興味から、時代、人への関心を引き出してくれる本となるのではないかしら。(ほそえ)

「おばあちゃんのはねまくら」ローズ・インピ文 ロビン・ベル・コーフィールド絵 佐藤見果夢訳 (1997/1997.2006.9 評論社)
1997年に刊行された絵本の新版。亡くなったおばあちゃんの話を大人たちがしている中、ちっちゃなジェイクとお姉ちゃんのサラは退屈。外で遊んでおいでとふたりは出されてしまう。お庭にいるとちょっとしたことでもおばあちゃんを思い出す。小屋の中でおばあちゃんとママと三人で羽まくらを作った日のことを。楽しかった日を思い出したのに、なぜか涙が出てきて……。淡い色彩の中に亡き人を思う穏やかであたたかな幸せを描く。(ほそえ)

児童文学書評 2006。11
ベン・シャーンと第五福竜丸
「ここが家だ〜ベン・シャーンの第五福竜丸」ベン・シャーン絵 アーサー・ビナード構成・文 (2006.9 集英社)
ベン・シャーンの「KUBOYAMA and the Saga of Lucky Dragon」という本を持っている。福竜丸をラッキードラゴンと漢字の意味のままに当てはめている様がなんともいごごちの悪い気がしたものだが、ベン・シャーンの連作をきちんと見たくて手に入れた本だった。リチャード・ハドソンの文章をきちんと読むのは時間がかかり、シャーンの連作は文章を分断し、本のなかにぶつぶつと組み込まれていて、順番におかれていることだけが流れをよみとるよすがとなった。
「ここが家だ」を手にした時、「KUBOYAMA」とはレイアウトも本の作り方もちがうけれど、ストンとこの連作の流れが胸におさまったのはたしかなことだった。時系列で絵がならんでいるというわけではない。どこに視点をおき、この惨劇を読み解こうとしているのか、本書ははっきりしているからだ。今、ここに生きている人たちすべてに起こりうる惨劇として、この事件を語り直しているからだ。核武装するということがどういう事実を伴うことなのか、今、この絵本を世に出す意味がさらに重くなっているのが、悲しい気がする。
絵を選び、流れを作り、言葉をのせるという作業は、画集を作る時とはちがい、絵本に似ている。ベン・シャーンはラッキー・ドラコンの連作を絵本として出すことは考えなかったかもしれない。彼が活躍していた頃の絵本は、もっと子どもに近いものだったが、そのなかでも、彼は詩をテキストに絵本を描き、物語に絵をつけていた。今、生きていたら、この絵本を見て、絵本が表現する対象の広がりにきっと驚くだろうと思う。(ほそえ)

○その他の絵本
「まってる。」デヴィット・カリ文 セルジュ・ブロック絵 小山薫堂訳 (2005/2006.11 千倉書房)
お兄ちゃんとよばれる日やママのケーキが焼けるのを待っていた男の子が、彼女に出会い、戦争にいき、戻ってきて家族を持ち、けんかをしたり、子どもを心配したり……と成長していく。その穏やかな暮しも妻の病気、別れ、と老年の寂しいものへ変化するが、ラストにはほのぼのとした明るさがある。いつも何かを待っていた男の子の一生を軽やかなペンのタッチと象徴的な赤いヒモのコラージュであらわし、言葉少なに人生の大切な一こまを切り取ってみせてくれる、いかにもフランスらしい洒落た絵本。「待つ」という行動が、実はとても心の強さを伴う行動であることを静かに教えてくれる。横長のページが人の持つ時間の流れを表現するのによく合っていて、絵本というものの形をきちんと考えている作家の作品だなと思った。それゆえ作家紹介などきちんとのせてほしかった。(ほそえ)

「オリビア バンドをくむ」イアン・ファルコナ−作 谷川俊太郎訳 (2006/2006.11 あすなろ書房)
なんでもできちゃうおしゃまな子ブタ、オリビアの絵本の第4弾。本作では家族で花火を見にピクニックにいくのですが、オリビアはバンドなしの花火なんか、しんじられな〜いと、ひとりでバンドをすることにします。おあかさんはひとりバンドなんかありえないというのですが……。でも、立派に(?)ひとりバンドを作ってしまうところがオリビアらしい。その愉快な(迷惑な?)いでたちが子ども心に火をつけてしまいそう。他にもファルコナーらしいキッチュなコラージュやグラフィックがおもしろい。(ほそえ)

「トリクシーのくたくたうさぎ」モー・ウィレムズ作 中川ひろたか訳 (2004/2006.10 ヴィレッジ・ブックス)
お気に入りのぬいぐるみとお出かけするのは、小さい子の日常。でも、ぬいぐるみが行方不明になっちゃった時、それは、まわりを巻き込んだとんでもないことになってしまいます。(けっこう、あることなんだけどね)この絵本でもトリクシーはくたくたうさぎをつれて、お父さんと一緒にコインランドリーへいくのだけれど、やっぱり、うさぎをなくしてしまって、大騒ぎ。コインランドリーはいろんなものをなくしやすいところなのかな。「コ−ちゃんのポケット」もコインランドリーのお話でしたね。アニメーションを作っていた人らしく、写真と人物を組み合わせ、コマの大小やフキだしの効果など、リズムよく構成された画面が楽しく、現代の家族らしさを表現しています。お父さんが子どもと洗濯に出かけるのも、ジェンダー・フリーで良い感じ。ラストのオチが子どもを持ったことのある人なら、そうなのよねととろけてしまう、おとし方がうまいなと思います。(ほそえ)

「いがぐり星人 グリたろう」大島妙子作 (2006.9 あかね書房)
柿ノ木になっていたイガグリは、小さな不思議な人がのっていた宇宙船だった。栗みたいな顔をして、イガグリから生まれたからグリたろう、と命名された小さな人は、ぼくん家で一緒に暮すことになったんだ。話はできないけれど、何でも食べるし、おふろも入る。楽しく暮していたと思ったのに、やっぱりお家が恋しいらしい。雪がふってきた夜、とうとう、仲間が迎えにきて……。不思議なものと心を通わせる日々を丹念に、ユーモラスに描き、別れたくない、でも寂しいのもよくわかる、と心引き裂かれるようなぼくの気持ちも丁寧につづる。だからこそ、このなんともユニークなものたちがほんとうのものとしてこの絵本のなかに存在するのだ。(ほそえ)

「ブチョロビッチョロはどこ?」大島妙子作 (2006.10学研)
ブチョロビッチョロはお家が嫌い、名前が嫌いで家出をしてしまう。女の子は大泣きで近所を捜しまわるのだが、ブチョロビッチョロは、ちゃっかり似たような猫のニャンコロビッチの家でのんびりすごしていた。家出をしていたニャンコロビッチは、ブチョロビッチョロのお家にいって……。入れ代わって、お互いに一時良い気持ちになるのだけれど、やっぱりもとへと戻っていく。猫たちの会話がおもしろく、愛されるものの苦しみもなんともおかしく、わらってしまう。(ほそえ)

「マーブルひめのりっぱなおしろ」長谷川直子 (2006.9 ほるぷ出版)
「もうすぐここにいえがたちます」石井聖岳 (2006.10 ほるぷ出版)
おうちの絵本シリーズ。絵本の巻末にペーパークラフトがついていて、お話にでてきた家を実際に作って楽しめるという趣向。趣向自体はおもしろいけれど、それも絵本のおもしろさがあってのこと。「マーブルひめ」はイラストと物語のテイストが合った、いかにも子どもに受けそうなつくりなのだけれど、お話が単調で発見がないのが困った。「もうすぐ」は、この作家らしい素頓狂さと家族が一つのものを作るというあたたかさがひとつになって、なかなかよい味わいの絵本となっている。(ほそえ)

「しあわせなブタ」パトリク・ルーカス作 若松宣子訳 (2006/2006.10 ほるぷ出版)
食べられるのが嫌でプロの歌手になろうと町にやってきたブタのおじょうさん。オペラで重要な役を演じ、たくさんのCDをつくり、お金持ちになったものの、わたしのしあわせはこういうものではないのだといいます。ブタの私をきちんとみてくる人がいないというのです。そこへあらわれたのが、音楽のことなど何も知らぬオオカミでした……。この寓話はある突出した才能を持つ人の物語なのでしょうか。それとも、本当の幸せはただひとりの人と出会い、暮すとことなのかしら。いかようにも読める余白のあるテキストと物語性の強いイラストの力が魅力。ラストページの羊の画家の姿が、ブタと重なって、終わらない物語を語りかけてきます。(ほそえ)

「ハンタイおばけ」トム・マックレイ文 エレナ・オドリオゾーラ絵 青山南訳 (2006/2006.10 光村教育図書)
あるひ、とつぜん、ハンタイおばけと出会ってしまった男の子。ハンタイおばけがいると、注いだミルクは天井へふき上がり、画用紙に絵をかこうとすると、それ以外の場所へ絵の具が飛び散ってしまいます。なんてこと! でも、ハンタイおばけのこまることを思いついたから、大丈夫。男の子はことなきを得ます。くり返されるテキストが、おもしろく、スペイン生まれという画家の独特なイラストの魅力が、このお話をさらにふくらましてくれます。(ほそえ)

「ベルのともだち」サラ・スチュワート文 デイビッド・スモール絵 福本友美子訳 (2004/2006.9 アスラン書房)
このコンビの絵本にはいつも子どもをきちんと見てくれている大人がいる。この絵本ではベルの友だちビーがそうだ。お父さんにもお母さんにもかまってもらえないベル。ベルはいつも、ビーのそばにいて、ビーのお仕事のまねをして(じゃまをして?)、一緒に過ごす。洗濯物をぐしゃぐしゃにしても、ほうきと一緒に踊っていようと、どんなに困ったことをしていても、一緒にいさえすればビーは、ベルをしかったりしない。でも、ある日、ベルはひとりで海に出かけていって、大きな波にさらわれてしまう。それに気がつき、助けてくれたのはビーだった。しみじみと語られる幼き日々を包んでくれた大きな愛。それが両親からでなくとも、身近でいつも見てくれる大人がいてくれるということが、子どもの心と存在を生かしてくれているのだと伝えてくれる。(ほそえ)

「ぼく、ふゆのきらきらをみつけたよ」ジョナサン・エメット文 ヴァネッサ・キャバン絵 おびかゆうこ訳
(2006/2006.10 徳間書店)
雪が積もった夕方のこと、生まれて初めて雪を見たモグラがいました。雪の森はしんとしていてきれいです。そこで、モグラはキラキラした不思議なものを見つけました……。初めての冬のおどろきをモグラのあわてぶりや小さな動物の友だちの思いやりとともに、美しいものを発見する喜びで描き出した絵本。(ほそえ)

「おぞましいりゅう」デイヴィット・ウィーズナー&キム・カーン再話 デイヴィット・ウィーズナー絵 江國香織訳 (1987,2005/2006.10 BL出版)
イギリスのジェイコブズが収集した民話のなかから、ウィーズナーが絵本化にあたり再話した物語。魔女のまま母によって、おぞましい竜に変身させられ、いうことを聞かねばならなくなったマーガレット姫。兄の王子から1年以内に、3回キスをされないと永遠に竜の姿でいなくてはならないという。端正なイラストで中世のイギリスを描き、見事に絵本化している。(ほそえ)

「おばあちゃんのちょうちょ」バーバラ・M・ヨース文 ジゼル・ポター絵 ふくもとゆきこ訳 (2001/2006.10 BL出版)
メキシコの少女がおばあちゃんとの日々を思い起こして語ってくれる。オオカバマラダチョウは春、卵から幼虫、チョウと育ちながらメキシコから北へ移動し、北アメリカやカナダへ到着する。また半年かけてメキシコに戻ってくる不思議なチョウだ。このチョウを亡くなった家族の魂を運んでくるものと信じているメキシコの人たち。この少女も、おばあちゃんとともにみたチョウチョに思いを寄せて、亡くなったおばあちゃんにきちんとお別れをすることができた。死を受け入れていく時間のつみ重ねを丁寧に描いて心に残る。(ほそえ)

「子リスのア−ル」ドン・フリーマン作 やましたはるお訳 (2005/2006.11 BL出版)
1978年に亡くなったドン・フリーマンの机のなかから発見されたという幻の絵本。フリーマン独特のスクラッチを思わせる手法で描かれたスミ一色のイラストに、赤い指し色が鮮やか。子リスのア−ルが初めて自分の力でどんぐりを手に入れるまでを描いているのだけれど、なかなか大変。最初は仲良しの女の子ジルにもらったどんぐりとクルミ割り機を持って帰って、母さんに怒られ、返しにいって、かわりに赤いマフラーをもらってきては、また怒られ……。でも、とうとうどんぐりのいっぱいなった木を探し出し、なんとか自分の力でどんぐりを手に入れることに成功します。小道具や登場する動物たちがきちんと物語のなかで居場所を持つオーソドックスな展開と、小さな子リスの活躍に、幼い子はどきどき、入り込むことでしょう。(ほそえ)

「いつだって長さんがいて……」今江祥智文 長新太絵 (2006.11 BL出版)
1960年から2004年までの長さんのイラストを主体にして、そこへ折々の交流や言葉をちりばめて、一種の伝記ともいえるような絵本になっている。ここで明かされる作家や画家の思いは時を自在にかけて、変化に富んだイラストのさまざまに、いくつもの本が見えてくる。こういう形の絵本ははじめてだ。(ほそえ)

「おとうさんの庭」ポール・フライシュマン文 バグラム・イバトゥリーン絵 藤本朝巳訳 (2003/2006.9 岩波書店)
板に描かれたフォーク・アートのような味わいを見せるイラストと語り上手なフライシュマンの物語が実によい雰囲気で組合わさっている絵本。農場を営む父と3人の息子たちは、ある年干ばつに見舞われ、家畜や農場を手放す羽目になってしまいます。意気消沈する家族。でも、また雨がふり、緑が戻った頃、父は、生け垣を動物たちの形に刈り込み、生き生きとし始めます。父は成人し家を離れる年頃になる息子たちに、生け垣を見せ、そこに自分の答えを見つけるように伝えます。生け垣を見つめることで自分の心のなかの願いをかたちにしていくのでした。そして、自分に似合った仕事を持った3人の息子たちは、最後に父の心からの願いをかなえようとします。その語り口がスムースで、ページの変化に驚きがあり、落ち着いた画風がしみじみとつつみ、まっすぐなメッセージを暖かく伝えてくれる。(ほそえ)

「ベスとベラ」アイリーン・ハース作、絵 たがきょうこ訳 (2006/2006.10 福音館書店)
雪の日、ひとりぼっちで遊んでいる女の子べスのところにやってきたのが、南に行きそびれた小鳥ベラでした。ベラと一緒にいると、トランクから何でもでてくるし、いろんな動物たちともお友だちになれるし、とっても楽しいの。その日から、ベスとベラはいつも一緒、お部屋で宿題をしたり、テレビをちょっと見たりして過ごします。いつしか、春になるとベラは自分の巣へもどり、ベスは人間のお友だちと遊びます。これは子どもの空想でしょうか? 細やかに描かれる存在感あふれるイラストに、淡々としたテキスト。一時、絵本のなかではどんなことも真実であると感じさせる濃密な空気があります。それがアイリーン・ハースの絵本の独特なところ。(ほそえ)

「ちいさなふゆのえほん」ヨレル・クリスティーナ・ネースルンド文 クリスティーナ・ディーグマン絵 ひしきあきらこ訳 (2005/2006,10 福音館書店)
リズミカルな文章に愛らしいイラスト。雪や冬の自然の不思議をやさしい言葉で紹介しています。雪だるまを作ったり、水たまりの氷を踏み割ったり、小さな子どもになじみのある日常のシーンに、ちょっとした科学的な目をもちこんでいるところがおもしろい。科学絵本のようなかたくるしさがなく、歌うような言葉に誘われて、一緒に冬の1日を過ごしたくなるようなつくりになっているのがいい。スウェーデンではこのコンビでベリーの本も出たらしい。このテイストで自然の様々を本にしていったら、おもしろいシリーズになるだろう。(ほそえ)

「ファーディとおちば」ジュリア・ローリンソンさく ティファニー・ビーク絵 木坂涼訳 (2006/2006 理論社)
にじんだような愛らしいイラストで人気のティファニー・ビークの新作。大好きなともだちの木が葉っぱを茶色にして元気をなくしているようで心配する子ぎつねが主人公。深まる秋の森の風景のなか、小さなファーディが心をいためる様子がいじらしく、風に舞う木の葉が奏でる音が耳にやさしい。ラストのページのキラキラはファーディと一緒で、読んでもらう子どもにも驚きで、言葉にならない木の返事としてストンと胸に落ちる仕掛けとして有効だったようだ。(ほそえ)

「忘れても好きだよ おばあちゃん!」ダグマー・H・ミュラー作 フェレーナ・バルハウス絵 ささきたづこ訳 (2006/2006.10 あかね書房)
「わたしの足は車いす」など障碍のある子どもや人とともにあることを絵本にしてきたバルハウスが描いた、アルツハイマー病のおばあちゃんのお話。孫の女の子の視点で描かれています。新しいことから忘れてしまうこと、自分がどこにいて何をしているのか、ときどきわからなくなってしまって、いらいらしてしまうこと……。小さな子どもにもわかる表現で、物語のなかで教えてくれます。少し不思議な雰囲気を持つバルハウスの絵が、おばあちゃんの心持ちを表現するのにとても合っていて、絵からも気持ちが想像できるのがいい。おばあちゃんの過ごしてきた時間を大きな木とあらわし、それぞれの記憶が葉っぱだとしたら、人生の秋である今は、記憶の葉っぱが上の方から散ってしまうのね、と話す母子のシーンはとても印象深い。絵本でアルツハイマーのおばあちゃんが描かれることはこれが初めてではないけれど、子どもにもこの病気のイメージをはっきりと伝えようという意志で描かれているのはこの絵本が初めてではないかしら。(ほそえ)

「はらのなかのはらっぱで」きゅーはくの絵本4針聞書 アーサー・ビナード文 長野 仁監修 (フレーベル館)
16世紀に描かれた医学書である「針聞書」から病気の原因と考えられていた虫の記述と人間の体を描いた体内の解剖図とを組み合わせて、紹介してある絵本。このような書物が存在するなんて初めて知った。肚の虫がおさまらない、なんて表現があるけれど、昔の人たちは比喩でなく、ほんとうに、このような虫の存在でもって病気や心持ちを説明し納得していたのだろう。このユニークな姿形を見るだけでもおもしろい。絵本としては「針聞書」からの図像を切り抜き、重ね合わせて構成してあり、がんばってみせる工夫をしている。巻末の解説を読むことでより、図像など、絵本部分を楽しむことができるだろう。(ほそえ)

【絵本】
『ハンタイおばけ』(トム・マックレイ:文 エレナ・オドリオゾーラ:絵 青山南:訳 光村教育図書 2006/2006.10 1400円)
 ネイトくんの元にハンタイおばけが現れる。驚いて、パパに「てんじょうに ハンタイおばけが たっているんだ!」って教えたけど、ハンタイおばけですから、消えてしまいます。それからハンタイおばけは色々いたずらをするのですが、みんなネイトくんのせいになってしまう。さて、どうする?
 ユーモアたっぷりのお話が、印象深いオドリオゾーラの絵とともに描かれていきます。こうした軽いおもしろさの絵本ってたくさん欲しいんだよね。(hico)

『いつだって 長さんがいて・・・・』(今江祥智:文 長新太:絵 BL出版 2006.11 1500円)
 『飛ぶ教室』復刊1号に掲載されたものに加筆して絵本化された、今江による長に捧げる一品。
 長が描いた今江作品の挿絵を主に構成されているそれは、今江が長に寄せる思いに満ちている。
 どの絵もどの絵も、これが長さんだって思える物ばかりだし、添えられた文は、今江らしい眼差しがあふれている。
 長新太ファン必見の絵本です。(hico)

『ぬすまれた月』(和田誠 岩崎書店 2006.10 1300円)
 和田誠が40年前に描いた絵本を基礎に、98年にプラネタリウム用に描きなおした物を絵本化しています。
 そうは言っても物語展開が懐かしいとか、時代を感じさせるとか全くないのが驚きです。
 月の満ち欠けの説明の間に小さな物語が挿入されているのですが、その寓意が効いています。見せ方の巧さにも注目。
 もっとも、過去に書かれた寓意が今も有効であることは、嬉しい事態ではないと言えますが・・・。(hico)

『二度と』(脚本・絵:松井エイコ 童心社 1600円)
 これを絵本として見せても、それほどのインパクチはないかもしれない。が、紙芝居である、これは。前半は原爆の写真。そして真っ黒な画面があって、その次から松井による平和に向けたシンプルな画たち。これを紙芝居語りしながら、画面をサッと繰っていく効果を想像してみて欲しい。紙芝居にしかできないダイナミックな訴え方です。
 紙芝居はすごい。(hico)

『ほーら、これでいい!』(ウォン=ディ・ペイ&マーガレット・H・リッパート:再話 ジュリー・パシュキス:絵 さくまゆみこ:訳 2002/2006.10 1500円)
 アートンのアフリカの絵本シリーズです。今作はリベリア民話。
 ひとりぼっちの頭。食べるのはべろが届く範囲のものだけ。でもさくらんぼが食べたい。腕と出会います。目が見えない腕は、頭の耳の上について、さくらんぼを食べることが出来ました。
 という具合に、体の一部が次々やってきてだんだん人間になっていく。
 なんともおかしな、奔放なお話です。
 無駄のない画がいっそう軽味を出して、民話を現代的にアレンジしてくれています。
 アートンのアフリカシリーズ、みんな趣が違って、そこもいいですね。10冊20冊とまとまってくれば、おもしろい固まりとなります。(hico)

『ベルのともだち』(サラ・スチュワート:文 デイビッド・スモール:絵 福本友美子:訳 アスラン書房 2004/2006.09 1600円)
 両親が仕事で忙しく、さみしいベル。でも彼女には住み込みの家政婦ビーがいました。
 ビーとの毎日が、愛おしい毎日が描かれていきます。子どもにとっての大人の大切さというのかな、それがよく伝わる物語。
 今こそ読んで欲しい絵本です。
 画はもちろん文句なしにいいですよ。(hico)

『学校つくっちゃった!』(佐藤よし子 佐久間寛厚 ポプラ社 2006.09 1200円)
 ダウン症の4人が、みんなのために自由な学校を作ろうと、佐藤よし子、佐久間寛厚と共にマンションの一室で活動している記録写真絵本。
 机にはまず絵を描いてしまおう、から始まって、植物作りからカフェまで、やりたいことを自由に自由に。
 これは学校の基本のはずなんだけど、現実はなかなか難しい。でも、この写真絵本を見ていると、ヒントは見つかると思うな〜。(hico)

『ほっきょくが とけちゃう! サンタからのSOS』(イーサン・キム・マツダとマイケル・マツダ:さく たむらともこ:やく ポプラ社 2005/2006.10 1200円)
 地球温暖化でサンタが大変だ!
 8歳の子どもが作ったお話の絵本化。そんなこと無理だとか考えない子どもの真っ直ぐさが良いですね。
 こうした願いに大人がどれだけ応えられるか、ですよ、やっぱり。(hico)

『おさんぽえほん1 あるいてゆこう』(五味太郎 ポプラ社 2006.09 1400円)
 まず、最初のページにプラスチックの棒についた男の子と女の子があるのね。で、この二人をはずして、手に持って、次のページからお散歩するの。
 いや〜、五味のアイデアは尽きること知らずで、これ一発芸ですが、楽しいの。子どもにも楽しいはず。トコトコおさんぽさせるのは。(hico)

『魔女のワンダは新入生』(メーク・スペリング:作 ザ・ポウプ・ツインズ:絵 ゆづきかやこ:訳 小峰書店 2004/2006.09 1400円)
 初めて学校に行く魔女のワンダはドキドキ。で、やってきた学校はどうも違うような。なんか、魔女というより妖精の学校のような・・・・。
 おもしろおかしく展開するのですが、学校を、授業を楽しめ、クラスメイトとも楽しい時間を過ごせたのなら、それが最高なんだ、という、今こそ伝えたい、基本の基本が、爽やかに描かれています。
 絵のポップさもすてきだよ。(hico)

『おじいちゃんちでおとまり』(なかがわちひろ:さく・え ポプラ社 2006.08 1100円)
 もう、タイトルからしていいわ。そのまんまだし、ちょっとドキドキ、でもウキウキするし。なかなかこうシンプルにはタイトルはつけられませんよ。
 おとまりに行って、おじいちゃんの人生における大冒険(ほんまかいな)の話を聞くんだけれど、その話に一緒になってノッて、大冒険しちゃう男の子がいいな。もちろんおじいちゃん最高なんだけど。
 楽しく生きようよ! なのだ。(hico)

『まってる』(デヴッド・カリ:著 セルジュ・ブロック:イラスト 小山薫堂:訳 千倉書房 2006.11 1500円)
「待ってる」ことが、決して受け身の仕草ではなく、積極的な「愛しさ」に満ちた想いであることが、巧く伝えられた絵本。
子どもはもちろん、大人も楽しめます。ってか、絵本は子どもだけのためのメディアではないのです。(hico)

『オリビア バンドをくむ』(イアン・ファルコナー:作 谷川俊太郎:訳 あすなろ書房 2006/2006.11 1500円)
 おなじみの子豚オリビアちゃんシリーズ4作目。
 今回、家族で花火大会に出かけるのですが、なぜかオリビア、花火大会ならバンドが出るはずだと主張。出ないとママに言われると、なら私がバンドになると。っても一人では出来ないとパパの正しい指摘。でもそんなことにめげるオリビアのはずもなし。一人でバンドをするのだ!
 で、いよいよ花火大会の日。
 オリビア初登場の時のインパクトはなくとも、オリビアは相変わらずオリビア。大健在です。(hico)

『くものニイド』(いとうひろし ポプラ社 2006.07 1200円)
 いとうひろしらしい、小さいけれどちょっと楽しい物語です。
 ニイドはりっぱなくもなので、たいていのものはその糸で捕まえてしまいます。が、風だけは困った。でもそこはりっぱなニイド。風を捕まえる蜘蛛の巣を作ります。見事捕まえた風。でも蜘蛛の巣がいっぱいにふくらんで、ニイドごと飛んでいってしまう。
 それから仲間のくもたちは、雲を見るたびに、あれはニイドが作った蜘蛛の巣が風を捕まえてふくらんだ物だと思う。
 楽しいオチですよね。(hico)

『カミさま全員集合』(内田麟太郎:作 山本孝:絵 岩崎書店 2006.11 1200円)
 出雲に神様たちが集まってくる。ただそれだけの設定のお話なんですが、それぞれの神様のあつまり方の個性など、内田ならではのユーモアにあふれています。内田さん、なんでも来い! 無敵状態ですね。(hico)

『だあれだ』(まつおかたつひで ポプラ社 2006.10 1100円)
 かべの向こうから覗いているのはだれだ? の連鎖物です。
 ただそれだけなのですが、当然ながら、ただそれだけなのがいいのです。バアーと姿の見せ具合、驚き具合を楽しみます。ちっちゃな子はしつこく喜ぶかな。ただ、バアーのだれかをもう少しバラエティ豊かにしてもらった方がもっと楽しかったかと。(hico)

『つぶらさん』(菅野由貴子 ポプラ社 2006.10 1200円)
 とぶのが嫌いな赤い鳥のドリルは、りゅうの子どものような者を拾って、つぶらと名付けて育てていた。というんだけど、ホント?
 ページを繰るごとに少しずつ広がっていく想像力。ホントかウソかはもはや関係なし。想像力はここにいたと教えてくれるのだから。(hico)

『もうすぐここに いえがたちます』(石井聖岳 ほるぷ出版 2006.10 1300円)
 おうちの絵本シリーズ第2弾です。
 新しい家が建つので「わたし」はおおはりきり。たくさんのお風呂があって、布団もいっぱい、おばけもいっぱい・・・。でももちろん本当の家はそうではなくて。
 そこで、作ってもらいましょう。いろんな部屋がある家を読者に。という趣向。夢の家のイメージをもう少しふくらませて欲しいですが、企画としてはおもしろいです。(hico)

『おやつのじかん』(軽部武宏 長崎出版 2006.11 1300円)
 きょうのポッコちゃんのおやつは大好きなミルクとイチゴ。でも手を洗いに行っている隙に、ミルクがイチゴを食べようとして、でも手を洗っていないとイチゴに叱られて・・・。
 軽いタッチのユーモア絵本。あ〜可笑しかった、で終われます。(hico)

『ペペがたたかう』(ヒサクニヒコ 草炎社 2006.10 1200円)
 シリーズ5作目です。肉食恐竜を戦い、どう逃げたかが描かれています。主人公を生かしておかなければいけないので、甘いといえば甘い展開になってしまってはいますが、肉食恐竜=悪者って見方にはなってはいません。その辺りのバランスの取り方が、やはりこのシリーズの良さでしょう。(hico)

【創作】
『本朝奇談 天狗童子』(佐藤さとる あかね書房 2006.6)
 コロボックル・シリーズで、日本のファンタジーを切り拓いてきたベテラン作家の久々の長編作品であり、待望の歴史ファンタジーでもある。
 若い頃諸国を巡り歩き、そこで覚えた横笛が巧みな山番の与平。そこに、子どもカラス天狗の九郎丸を従えた大天狗が現れ、天狗にならないかと誘う。仲間になって、素晴らしい笛を毎日聞かせろというのだ。与平が断ると、大天狗は九郎丸に横笛を仕込んで欲しいと置いていく。
九郎丸は熱心に笛を習い、日毎に上達する。そんな九郎丸を、再び天狗に返すことにためらいを覚えた与平は、九郎丸が天狗に戻るときに必要な"カラス蓑"を焼いてしまった。そこから事態は意外な転換をする。
半分人間化してしまった九郎丸に、天狗に戻りたかったら与平の首を取って来いと大天狗はいう。困惑する九郎丸と、裁きのために天狗の館に連れて来られた与平は、大天狗から意外な秘密を明かされた。九郎丸は、三浦半島を根城にする三浦一族の嫡流だというのだ。九郎丸を兄と慕う弟分の茶阿弥も、九郎丸と同様に天狗に拾われて育てられた関東公方の血を引く少女だった。与平は大天狗の命で九郎丸と茶阿弥の守役となり、二人を連れて鎌倉に行く。二人は無事に親に出会うことができるのか。
戦国乱世の関東を舞台に、権力者の権謀術策に翻弄された幼い命を、天狗という超能力を持った影のネットワークを巧みに絡ませて救済するとともに、随所に天狗世界の不思議を克明に描き込んで、三浦一族の趨勢に歴史には刻印されないもう一つの物語を重ねてみせる。そのあたりの、ファンタジー作家ならではの卓越した手腕が堪能できるのだ。子どもばかりか大人も楽しめる傑作だ。(野上暁 産経新聞)

『ピリカ、おかあさんへの旅』(越智典子・文 沢田としき・絵 福音館 06・7)
 ピリカは日本で生まれた四歳のメスのサケ。群れをなして北の海を回遊している。ある日、ピリカは目をあいたまま夢を見る。それって、ヘンだなと思うし、魚がどうやって眠るのか一瞬考えさせられる。でも、魚は海中で泳ぎながら眠るのだろうから、目を開いたまま夢を見るのも当然だ。
夢の中で、くるりくるりと回っている。それは赤ちゃんのときの夢だ。なんだか懐かしい匂いがする。誰かが呼んでいるような気がして、群れはその呼び声に応えるように果てしない大海を母の故郷をめざして移動する。
サケの一生を描いた絵本は、これまでもたくさん作られてきた。しかしこの絵本はメスのサケに憑依するかのようにその心象に寄り添って擬人化し、不思議な生態を幻想的に表現してみせる。ファンタシカルでありながら、科学的な正確さを外さないところに作家の魂胆があり、無数のサケの群れの中に擬人化されたピリカを特定化することも無く、徹頭徹尾リアルな絵で描ききるところに画家の企みがある。
母の匂いに誘われて、傷だらけになりながら故郷の川をさかのぼり、産卵にいたるまでのドラマティックな場面転換が圧巻だ。そして、ピリカはたくさんの卵を産み終えて、残った力をふりしぼり、卵をまもりながら息絶える。
選び抜かれたわかりやすい言葉とそれぞれに工夫を凝らした場面構成が補いあい、生き物が命をつないでいくことの神々しさをみごとに歌い上げて感動を呼ぶ。
ピリカとは、アイヌの言葉で「美しい」という意味だという。自然と生命を美しく描いた科学絵本の傑作がまた一冊誕生した。(野上暁 産経新聞)

『時間のない国で』(ケイト・トンプソン:作 渡辺庸子:訳 東京創元社 2005/2006.11 上下巻 各1700円)
 アイルランド、音楽をこよなく愛する町。でも、時間がなぜかどんどん少なくなっきているような・・・。
 JJは、母親へのプレゼントに時間を買おうとするけれど、どこへ行けば?
 妖精の国へと入り込むJJ。時間のないはずのそこは、時間がどんどん入り込んできて、「死」が存在し始める。
 軽く楽しめるファンタジー。でも結構しっかりと、アイルランドの伝承も楽しめる一品です。(hico)

『ドラゴンキーパー 最後の宮廷龍』(キャロル・ウィルキンソン:作 もきかずこ:訳 金の星社 2003/2006.09 2200円)
 名前を与えられることなく、宮廷の龍使いの奴隷として生きていた少女がいる。
 皇帝の不老長寿薬の材料にと龍が狩られそうになったとき、少女は龍を連れて逃げる。龍の名前はタンザ。龍がそう言ったのだ。少女は龍と話ができる! 龍は少女の名前も教えてくれる。ピン。
 ピンとタンザの逃走劇!
 オーストラリアの作家が書いた、中国を舞台にしたファンタジー。はでなバトルはありませんが、ピンの成長物語として楽しめます。(hico)

『こども哲学 いっしょにいきるって、なに?』(オスカー・ブルニフィエ:文 フレディック・ベナグリア:絵 西宮かおり:訳 朝日出版社)
 タイトルが質問文になっていますが、その答えがこの本の中に書かれているかというと、そうでもありません。
 私たちはついつい、大事なのは答えだと思いがちですが、実際の生活では、次から次へと問いが生まれてくるし、答えが簡単に見つかるとは限りません。むしろ、あーでもない、こーでもないと考えていることの方が多いと思います。でも、答えを出していないからこそ、色々自由に発想しているともいえます。
 この本は、そんな自由度を引き上げてくれる一冊。
「ひとりっきりで、生きてゆきたい?」に、「ひとりじゃたいくつしちゃう。」と答えたとすると、「そうだね、でも・・・」と続きそして、「たまには、たいくつとつきあってもみるのも いいんじゃない?」と、答えをいったん横に置いて、別の発想に誘ってくれます。
 『こども哲学』となっているけれど、大人もこの本で頭を柔らかくするのは悪くないと思いますよ。(2006.11.13読売新聞)(hico)

【評論】
『もしかして妊娠・・・そこからの選択肢』(キャロリン・シンプソン:著 冨永星:訳 大月書店 2006.10 1500円)
 「10代のセルフケア」シリーズ最新刊。
 タイトルがいいですね。妊娠ってついているだけで、買いにくいとか借りにくいとかあるとは思うのですが、10代にはこのシリーズ、基礎知識としてぜひ読んで欲しいです。(hico)

『絵本があってよかったな』(内田麟太郎 架空社 06・7)
 絵本の楽しさは、絵と文章が響き合いせめぎ合いながら、絵だけ文章だけでは表現しきれない豊穣な世界を演出してみせるところにある。絵のかわりに写真が使われていたり、文章が全く無い絵本もあるが、その場合でも構成の妙が肝要だ。この本は、絵本のテキストと構成に絶妙な才を発揮してみせる自称絵詞(えことば)作家、内田麟太郎の初めての自伝的なエッセイ集である。
 戦前は特高に追われたこともあるプロレタリア詩人を父に持ち、四歳のときに生母を失い、「万引き家出少年」だったという著者が、いかにして絵詞作家となったのか。その苦難に満ちた道程が、独特なユーモアを交えながら哀切に語られていて胸を打つ。
「私が背負わなければならなかった一番の辛さは、万引きや、暴力や、家出ではありません。突然襲ってくる自死の荒々しい暴力です」と著者は言う。継母の冷たい眼差しに晒され続けて、自己否定的な傾向を内面に育んできた著者が、十九歳の春に母を殴り倒し、故郷の大牟田から逃げるようにして上京する。
その後、川崎でマルクス・レーニン主義の文献を販売する書店に勤め、日本共産党にもかかわるが、その「唯一真理主義」から離れて精神的にもきつい時代を迎えたという。しかし、それに耐え続けたことが、笑いやナンセンスを生み出す源になったと著者は述懐する。
この作家に固有で魅力的なナンセンスな感覚や、突き抜けたような宇宙観や、独特なユーモアが醸成された淵源が、こういった半生の中に垣間見られるようで興味深く読ませる。
巻末の「絵本・テキスト作法」も、内田作品の創作の秘訣が具体的に披瀝されていて刺激的である。(野上暁 産経新聞)

『実録!少年マガジン名作漫画編集奮戦記』(宮原照夫 05.12 講談社)
 東南アジアはもとより、近年は欧米にも急速に浸透しつつある日本のMANGA文化である。このところやや停滞気味だとはいえ、出版物の売り上げだけでも国内で約5千億円強。マンガを原作にしたテレビアニメや映画化による収入のほか、世界中で展開するキャラクター商品化権の売り上げまで含めたら、今やその数十倍の市場を創出しているともいわれている。この巨大マーケットはどのように構築されてきたのか?
 これまで、文芸編集者の回想録はたくさん書かれてきたが、マンガ編集者のものはきわめて少ない。著者は、世界に類を見ないほど多様で豊富なビジュアルコンテンツを蓄積してきたマンガ編集の現場に、半世紀近くも関わり続けた。それだけに、文芸編集者とは全く違った、当事者でなければわからないマンガ作品誕生の秘話や悪戦苦闘が随所に滲み出ていて貴重である。とともに、それ自体が現代マンガ史を現場から補強する証言ともなっている。そして、マンガがMANGAとして世界に雄飛していくプロセスでの、作家と編集者の熱い信頼関係と切磋琢磨や雑誌相互の熾烈な競争が鮮やかに浮かび上がってくる。
 著者は一九五六年に講談社に入社し、二週間の研修の後に『少年クラブ』編集部に配属されるのだが、その日のうちにいきなり手塚治虫邸へ原稿催促に行かされる。筆者もほぼ四〇年前、雑誌編集部に配属されて二ヶ月後に手塚担当となったから、著者の困惑はよくわかる。今日、手塚治虫は漫画の神様といわれているが、編集者にとっては時として畏敬すべき荒ぶる神でもあった。それだけに担当編集者は鍛えられ、大いに勉強もさせられた。
マンガがしょっちゅう悪書追放の槍玉に挙げられ、教育関係者や児童文学者からのマンガ有害論に対して、その最前線で闘ったのは、戦後マンガの旗手として走り続けていた手塚治虫であった。それを身近で見続けてきたからなのか、手塚担当者の多くは、マンガ論やマンガ史に対する関心が殊更に醸成されたようにも思える。著者もまた、日本のマンガ史を発生からたどりながら、自らのマンガ編集者体験に重ねていく。
圧巻は、一九五九年四月の『少年マガジン』創刊に参画するあたりからだ。相前後して創刊された『少年サンデー』との熾烈な部数競争が展開する。寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」、赤塚不二夫「おそ松くん」、藤子不二雄「オバケのQ太郎」を擁したサンデーに大きく水をあけられていたマガジンは、六五年に当時三〇歳の内田勝を三代目編集長に抜擢する。「ちかいの魔球」「紫電改のタカ」「ハリスの旋風」で、ちばてつやをスターダムに押し上げた著者は、マンガ班のチーフとして梶原一騎を原作者に起用し、川崎のぼる画で「巨人の星」を立ち上げる。
この大ヒットが引き金になり、マガジンは六七年に少年週刊誌として始めて刷り部数一〇〇万部を突破し、ついにサンデーを追い抜いた。さらに梶原原作の「あしたのジョー」の大ヒットによって、マガジンの黄金時代が始まる。大学生がマンガを読むと話題になったのはこの頃だ。巻頭カラーの大伴昌司プロデュースによる「大図解」は、子ども雑誌の枠をはるかに超えた高度で硬質なテーマを毎号取り上げて、当時駆け出しの編集者だった筆者などは、その贅沢さに羨望し剋目したものだ。しかし、それがマイナスに作用していたことに当時は気が付かなかった。読者対象年齢が上昇して、本来の読者が離反する。さらに「巨人の星」の終了と「あしたのジョー」の突然の休載が重なって、マガジンは一〇〇万部を超えた部数を半減させるという危機を迎えたのだ。
そういった状況で、筆者の宮原が第四代目のマガジン編集長に就任したのだから、前任者内田の編集方針に対してもなかなかシビアだ。それは内田の著書『「奇」の発想』の記述にも及ぶ。宮原は徹底したマンガ作品の強化により、再びトップ雑誌の座を獲得するのだが、後発の『少年ジャンプ』が瞬く間に追撃してくる。そして、今度はマガジンとジャンプの熾烈な部数争いが展開する。このように、つねにライバル雑誌が激しく競い合いながら、ということは編集者同士の激烈な闘いが伴うのだが、それがマンガというメディアを鍛え上げてきたのだ。
 著者は、〈少年性〉を呼び戻すことが、少年マンガを活性化させるとし、好奇心と向上心の必要性を強調する。好奇心が向上心を呼び、それがまた新たな好奇心を刺激する。その絶え間ない繰り返しによって、「少年は人間として成長していく」のだと。退職し現場を離れてもなお、少年マンガへの愛を熱烈に語る著者の激情が、五〇〇ページをはるかに超える著作の中にほとばしり、マンガ編集者たちのこのような情熱が今日のマンガ文化を作り上げてきたのだと実感させられる。現代マンガの草創期から関わった編集者による、渾身のマンガ論であり優れた編集者論でもある。(野上暁 図書新聞)

『行きて帰りし物語』(斎藤次郎 日本エディタースクール出版部 06.8)
 絵本や児童文学作品は、子どもを主要な読者に想定して書かれているのだが、大人の内面をも激しく突き動かす深い精神性が宿っているものも少なくない。この本は、改めてその奥行きの深さを認識させるとともに、昨今のファンタジーブームや子どもの文学の在り様についても痛切に考えさせられる。
周知のように、「行きて帰りし物語」とは、トールキンの『ホビットの冒険』の原書のサブタイトルで、訳者である瀬田貞二の講演をまとめた『幼い子の文学』の中でも、年少の子どもの喜ぶ物語の多くは「行って帰る」という形式が多用されているとのべ、随所でそのことに言及している。
著者は、この言葉に刺激され、「行って帰る」という物語の構造上のパターンをキイワードにして、「絵本と幼年童話」「昔話」「ファンタジー」「リアルな小説」など子どもの本の各ジャンルを横断的に分析し、その内奥に秘められた深甚な意味を摘出して見せる。現在を生きる子どもたちの様態に肉薄し、子どもの視点から長年にわたって様々な発言をし続けてきた著者だけあって、それぞれの作品の主要な読者である子どもたちの成長のエネルギーや感性に寄り添いながら、綿密な考察を試みていてなかなか刺激的である。
「絵本と幼年童話」では、マージョリー・フラックの『アンガスとあひる』シリーズやセンダックの『かいじゅうたちの いるところ』、中川利枝子の『いやいやえん』、古田足日の『おしいれのぼうけん』が取り上げられる。そして、大人が日常性の一部とみなす遊びであっても、子どもたちの魂はすでに「もうひとつの世界」に到達しているということも十分ありうるとし、「行きて帰りし物語」とは、「子どもたちの熱狂的な遊び体験の構造でもあるのだ」といい、作家が作品を創造することもまた、子どもが遊びに熱中するのと同じように、「行きて帰りし物語」なのであろうかと述べる。
「昔話」では、『桃太郎』『一寸法師』『こぶとり爺さん』を紹介し、そこにイニシエーションの儀礼と死と再生を読み解く。そして『ヘンゼルとグレーテル』からは、親殺しの主題を読み取るのだ。
「ファンタジー」の作品としては、『ホビットの冒険』『ふしぎの国のアリス』『ナルニア国ものがたり』などが分析されている。ファンタジー作品の中で「もうひとつの国」へ行く子どもたちには、「みな子犬よりはるかに深刻な斥力が働いている」「ファンタジーは子どもの不幸からはじまるのである」と著者はいう。しかし、「もうひとつの世界」と日常的現実を区切って、「ここだけが確かなものだと勝手に囲い込んだその境界の幻想を打ち破るために」、トールキンのいうところの「準創造」として「物語は書かれ、読まれる必然性があるのだ」と著者は述べる。「行く」ということは、「ここ」から「あそこ」へ移動するように見えて、「実はあらゆる場所に自らの足で立ち、その場所を「ここ」というひとつのよび名でよぶことなのだから」と。
この延長に「リアルな小説」を配し、"家出は「私さがし」"と題して、「来るべき真の自立の予行演習である家出」をテーマにした、カニグズバーグの『クローディアの秘密』と、山中恒の『ぼくがぼくであること』を読み解いていく。「子どもは子どもであるからこそ、おとなの期待や要求どおりには生きられないのだし、子どもであるからこそ、家を捨て切れない」。この「二律背反」が、「行きて帰りし物語」としての家出を成立させると著者はいう。
そして、「現状への不満が募り、状況の要求と自己の欲求の対立が明白になれば、その状況の枠組みを飛び出すしか道はない。が、このごろの子どもたちには家出というアイディアが生まれにくくなっているのではないか」と述べ、「その分だけ登校拒否がふえているのではないだろうか」ととらえる。「登校拒否というのは現象をとらえた命名にすぎず、あのようなつらいかたちで子どもたちが拒否しているのは、学校そのものではなく、学校を含む世界全体なのではないか」と鋭い。二作品を分析しながら、「おとなたちにそれとわからない銃眼のある城壁そのものとして自己を意識することから、子どもは子どもを超えていくきっかけを掴むのである」と結ぶ。
続いて、ナット・ヘントフの『ジャズ・カントリー』で、音楽を通して「語るべき自己を経験するという旅のしかた」を解読し、「再び絵本」と題した最終章に入る。シルヴァスタインの『ぼくを探しに』と、谷川俊太郎と和田誠の『あな』から、自己探求と自己解放を読み取り、林明子の『はじめてのおつかい』から柳田聖山解説の『十牛図』への展開は圧巻である。「私さがし」から「本来の自己」の探索に立会い、「行きて帰りし物語」は締めくくられるのだが、「子どもは「自覚」していなくてさえ、つねに究極をめざしているのである。究極をめざす方向以外に逸れようもなくひたすら生きる人たちをこそ、「子ども」とよぶべきなのだ」というところに、この著者ならではの気概がある。「子ども」とは年齢階梯を表すだけではなく、「いま・ここ」に錘を下ろした一つの生き様なのである。(野上暁 図書新聞)

『子どもの本を読みなおす 世界の名作ベストセレクト28』(チャールズ・フレイ&ジョン・グリフィス/鈴木宏枝・訳 原書房)
 著者は、いずれもワシントン大学で長年にわたって英文学を講じてきた研究者である。フレイはシェイクスピア研究などのほか、ヤングアダルト文学が専門で、グリフィスは聖書やキリスト教文学の研究者として著名だという。彼らは、子どもの文学の古典には、並外れて豊かな土壌があり、考えるべき多面的な主題があるという共通認識から、二八の作品と作家たちを取り上げた。そこには、「かわいらしさ、無邪気さはもとより、紋切り型の幸福さえ少なく、むしろ、破壊的なエネルギーや、激しく衝撃的な経験があり、個人、家庭、社会的生活の中核にある矛盾や奇妙さ」を絶えず明るみに出すものだという。グリム童話やマザーグースはもちろん、「若草物語」「宝島」「ピーターパン」などから、「大草原の小さな家」「荒野の呼び声」「シャーロットのおくりもの」などまで、どれも良く知られている作品ばかりだ。物語の解読とともに、作家の生涯と時代背景なども手際よく紹介されていて、それぞれが興味深く、しかも面白く読める。
ペローの童話に「性欲を食欲として表現する合成的描写」を、グリムの「いばら姫」に「若い娘の性的成熟と目覚め」を読み取る。アンデルセンが、無意識のうちに性や性愛を象徴的に作品に潜ませている点を生涯との関係で解説し、「童話は、彼が生涯悩んだ欲求不満のはけ口だった」とか、エドワード・リアのノンセンス詩にも性的な隠喩を見るなど、フロイド的な解読が少なくない。ルイス・キャロルについても、「まれには裸の少女の写真を撮ったり絵を描いたりすることもあり、このふれあいに性的な要素があったことは疑う余地がない。だが、猥褻行為や不道徳行為で告発されたことはない」などと紹介されるが、そこに嫌味はない。これらの作家たちは、失われた子ども時代への愛惜と、自由奔放な子ども時代への強烈な回帰願望が、空想物語の主役たちを招聘し、セイレインたちの呼び声に呼応する。そこにまた、子どもだけではなく大人たちも感応できるのだ。書名どおり、取り上げられている本をもう一度読み直したくなってくる。(野上暁 産経新聞)

『貸本マンガRETURNS』(貸本マンガ史研究会編・著06・3 ポプラ社)
 いまや世界に誇る日本のマンガ文化であり、近年は内外におけるマンガ研究も盛んになって大学での講座も増えている。しかし戦後の一時期を画した貸本マンガに対する研究は意外に未開拓であった。本書は、2000年6月に創刊以来、現在16号まで刊行している季刊雑誌『貸本マンガ史研究』の編集メンバーが、貸本業界の変転やそこで活躍した具体的な作家と作品を時代の動向に合わせて丹念に検証した労作である。
 貸本屋は最盛期に全国で3万店あったといわれる。この数字に検証の余地はあるとしても、それは現在の書店数をはるかに上回るものだからその影響力たるや甚大だった。貸本マンガから登場した作家としては、白土三平、さいとう・たかお、水木しげる、佐藤まさあき、小島剛夕、つげ義春など劇画作家が中心だったように思われがちだが、そればかりではない。巻末の「貸本マンガ家リスト1000+アルファー」を見ると、手塚治虫、石森章太郎、赤塚不二夫を始めとして、現代マンガを中心的に担ってきた作家たちの多くが貸本マンガに関わってきていることが判明する。
これまでテレビの普及が紙芝居を衰退させ、白土や水木などの紙芝居作家をマンガ家に転進させたと言われてきたが、それは経済的な理由が大きかったからだとか、版元が小規模で編集者不在だったから作家は自由に創作できて様々な実験が可能だったことや、貸本マンガの読者の半数近くが女性たちで、少女マンガの基盤もそこで養成されたなど新たな発見も多々ある。今日のマンガ文化の淵源を多様に照射してみせた貴重な証言であり資料集ともなっている。(野上暁 産経新聞)