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【絵本】
『ワンガリの平和の木』(ジャネット・ウィンター:作 福本友美子:訳 BL出版 2010)
 副題に「アフリカでほんとうにあったおはなし」とあるように、ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイの伝記絵本です。
 伝記物ですから、自由に創造するわけもいかずフラットになってしまう危険があるのですが、砂漠化したアフリカの大地に住民たちと共に苗木を植えていったというシンプルで迷いようのない行為を描いていますから、これ以上フラットになりようもなく、しかもその行為そのものは、身近で地道で、しかし困難でもあり、それをそのまま絵本にしても十分説得力があります。
 『ニューヨークのタカ』のジャネット・ウィンターですから、画面割りもドラマチックにせず、事実をどう伝えるかに力を注いでおり、好感が持てます。
 濃い画面に疲れている人もどうぞ。(ひこ)

『ようちえんに いきたいな』(アンバー・スチュアート:文 レイン・マーロウ:絵 ささやまゆうこ:訳 徳間書店 2010)
 時期物です。
 幼稚園に初めて行く子どもの気持ちをアヒルの雛の姿で表現しています。
 アヒルですが、「幼稚園とはどんな所か?」に関しては人間のそれが理解しやすく描かれており、幼稚園デビュー児のための準備絵本としては十分機能しています。
 この作者コンビはいつも子どもの安心を誘うための作品作りをしていて、そこが好感度高いと同時に、それは作者たち自身の安心でもあるのかなと思います。(ひこ)00.

『チョコレートが おいしいわけ』(はんだのどか アリス館 2010)
 カカオの実から始まってチョコレートができるまでを丁寧に描いています。
 こういうことって案外知らないのではないでしょうか。
 そのおいしい食べ物がどのようにして作られていくかを知るだけでも、そこから世界を眺めることができます。チョコレートから世界を考えるとでもいいましょうか。
 その意味でこの絵本は作者がよく取材していて、興味を引かせるに足る出来となっています。
 ただ、作者のあとがきにも少しあるように、カカオ農園の厳しい現状などにアプローチした作品も欲しいです。
 何故ベルギーが有名なのか? ココアは何故オランダか? そして何故チョコレートを砂糖で甘くしたのか(つまり砂糖とはヨーロッパで何であったのか)など、そこには近代ヨーロッパ資本主義による搾取の歴史や奴隷制度、薬用から嗜好品への移り変わりという文化の変化など、多くの話が隠れています。
 そう、チョコレートから世界を見せることが出来るのです。
 この辺りは、はんださんの方がよくご存じでしょうから、そうした絵本もぜひお願いします。(ひこ)

『クリストファーのしあわせないちにち』(バレリー・ゴルバチョフ:作 三原泉:訳 偕成社 2010)
 子ウサギのクリストファーくんは学校で数の数え方を教えてもらいます。
 うれしくなったクリストファーくん、足跡から階段までありとあらゆる物を数えはじめます。
 そう、全く違うカテゴリーの物も数えるという行為は同じであるのを知った喜びが、この絵本には満ちています。
 こういう風にして育っていくんだよね。
 絵はチト古めですが、それもまたいい味になっています。(ひこ)

『変わり者ピッポ』(トレイシー・E・ファーン:文 ポー・エストラーダア:絵 片岡しのぶ:訳 光村教育図書 2010)
 絵本で歴史を学ぶ、などとやぼなことは申しません。ここに描かれるのは近代の夜明け前、ルネサンス期に一人の職人がなしえた仕事です。
 フィレンツェといえばフィオーレ大聖堂ですが、あの大きなドームを何の支えもなく煉瓦の重量バランス力学によって作り上げることができることを証明し、その後の建築に革命的変化をもたらした人間の物語。
 誤解と偏見と嫉妬と欲望とに阻まれながら、自分の理性的考えを信じて成し遂げていく姿は、「やり甲斐のある仕事」だとかそういう甘いレベルとは別次元の「仕事」の姿を見せてくれます。
 近代を準備したものの一つは、こうした職人魂であったのです。ミケランジェロだって今や大芸術家ってことになっているけど、実は大職人ですものね。労働者としてメディチ家と戦ったりもしているし。
 あ、だからこの絵本、やっぱり歴史への興味がわいてくるのではないかな?
 ポー・エストラーダアの絵は、精密であると同時に時代の香りに満ちていて、人物はほどよくデフォルメされ、性格が強調されていますからマンガに似て入りやすいです。(ひこ)

『イギリスの野の花えほん』(シャーロット・ヴォーク:絵 ケイト・ペティ:文 福本友美子:訳 あすなろ書房 2010)
 イングリッシュガーデンは、フランス式庭園の幾何学的装飾に対して、いかに自然に花を配置するかに気持ちが注がれていますが、「自然であるってことは、なんて不自然なことだろう」(吉田拓郎「イメージの詩」)というように、それは見立てに過ぎず、実際はかなり無理をした花々の配置となっていて、ですからこそその育成にはまると夢中で楽しめるものなのでしょう。オタク世界です。
 さて、この絵本は真性、野の花をスケッチし、短い文章を付けています。図鑑とは違って、作者の手触りが伝わってきます。センスがいい仕上がりです。
 88種出てきますが、私は20種ほどしかわかりませんでした。庭をいじっていた頃はもっと知っていた気がするのですが、植物って愛でてないと忘れてしまうのか、歳なのか。(ひこ)

『心をビンにとじこめて』(オリヴァー・ジェファーズ:文・絵 三辺律子:訳 あすなろ書房 2010)
 女の子はいつも大好きなおじいちゃんと一緒です。周りの様々な事物に興味を示し、胸を躍らせ、自分の世界を豊かにしていくすばらしい毎日。
 ところが、おじいちゃんが亡くなってしまい、彼女は心をビンに閉じ込めてしまいます。そんなことをすればもう、何にもときめかないのに。でも、そうしておけばもう、傷つくこともありません。
 そうして時は流れ、心を解放しようにも、ビンから取り出せなくなってしまっていました。
 その先は読んでのお楽しみ。
 オリヴァー・ジェファーズの才能は、すでにこれまでの作品で十分に示されていますが、心理描写が必要な今作では、大胆な構図やコラージュ、そして色遣いによって、深いテーマを鮮やかに明示しています。(ひこ)

『おじいちゃんと テオの すてきな庭』(アンドリュー・ラースン:文 アイリーン・ルックスバーカー:絵 みはらいずみ:訳 あすなろ書房 2009)
 おじいちゃんの家を、ぼくは大好き。何故ってお庭が素敵だから。
 でも、おじいちゃんはアパートに引っ越して、庭がなくなってしまった。ベランダだと風が強くて本物の植物は大変。そこで二人が考えたのが、キャンバスに描くこと。ここから魔法が始まります。絵の中の植物たちはまるで本物のよう。それは二人の気持ちが引き起こす魔法なのです。
 アイリーン・ルックスバーカーの絵自身が、おじいちゃんとぼくの絵と重なって、それも魔法みたいですよ。(ひこ)

『ひみつだから!』(ジョン・バーニンガム:ぶん・え 福本友美子:訳 岩崎書店 2010)
 ジョン・バーニンガムの新作です。
 マリーは大好きな猫のマルコムが毎晩外に出かけていくのが気になってしょうがありません。いったいどこへ出かけるの?
 ある夜、マリーはマルコムが真っ赤なコートで今にも出かけようとしているのを発見。なんとマルコムは一緒に行こうっていってくれます。
 さて、ネコの夜の世界へ大冒険!
 絵はすっかり枯れて、まるで水墨画に色を付けたよう。でも逆に、初期の頃の雰囲気にも思えます。
 ああ〜、やっぱりいいわあ〜。(ひこ)

『ぼくの!』(マチルデ・ステイン:文 ミース・ファン・ハウト:絵 野坂悦子:訳 光村教育図書 2010)
 メレルが自分の部屋で眠ろうとすると、ベッドに子どものおばけが。このおばけくん、何でもかんでも「ぼくの!」って一人占めするわがまま少年です。
 そんなおばけくんも、メレルと親しくなっていくうちに段々、「ぼくの!」より、一緒の喜びに気づいていきます。
 このおばけを何と見るかは、読者それぞれにおまかせとなっていますけれど、「育つ」ということが、「コミュニケーション力」の意味であるのを巧く伝えています。
 ミース・ファン・ハウトの絵は、まず、表紙の琺瑯のような質感の赤が素敵。中はメレルとおばけの関係性の変化がわかるように、丁寧に二人を配置しています。(ひこ)

『はじまりの日』(ボブ・ディラン:作 ポール・ロジャース:絵 アーサー・ビナード:訳 岩崎書店 2010)
 ディランの「Forever Young」の歌詞にポール・ロジャースが絵を付けて仕上げた絵本です。「Forever Young」は子どもや若者への励ましの歌としてあるので、絵本化は素敵すね。
 ポール・ロジャースは絵一枚一枚に様々な先人への敬意を込めていて、絵本の最後にその説明もしてありますから、興味のわいた子どもはそれを調べていけば楽しく教養を深めることができます。(ひこ)

『まんまるがかり』(おくはらゆめ 理論社 2010)
 ちょっと太り気味のオスネコ、ハナマルです。
 元々ネコというものはまあるくなりがちですが、ハナマルくんはよりいっそうま〜るくなりまして、家の人、近所の人を和ませています。
 フクフクとして春にふさわしい絵本です。
 あ、ネコ嫌いの人はダメね。(ひこ)

『四角いクラゲの子』(今江祥智:文 石井聖岳:絵 文研出版 2010)
 今江童話の絵本です。
 クラゲの赤ちゃんの中に、何故か頭というか胴体が四角いクラゲが生まれます。みんなからはのけものにされたユラは、自分と似ている生き物を求めて海の中をさ迷う。
 みにくいアヒルの子のクラゲ版ですが、ユラの場合は本当にクラゲですから、どうなりますか。
 四角いクラゲを発想した時点で、童話は成立しています。それ以上のひねりがあるわけではありませんが、今江の言葉の巧さ、心地よさを楽しんで下さい。(ひこ)

『ベベベん べんとう』(さいとうしのぶ 教育画劇 2010)
 『あっちゃんあがつく』のさいとうの新作です。
 主人公の男の子が思い描く様々なお弁当が楽しい絵本です。
 それぞれの弁当も丁寧に描き込まれていて、見ていて食べたくなります。
 ですから、それだけで展開できるはずですが、この作品では、母親の作るお弁当が、いや料理が一番ということの方に力点が置かれてしまっています。一年で一番おいしいお弁当はおせち料理という次第です。
 また、アフリカの弁当の絵(アフリカの動物が弁当箱に入っている)も、アフリカに様々な民族がいることを考えれば疑問です。私は笑えません。
 もちろん語り手の男の子の視点ですので、これがこの子の見方だとして良いのですが、小説と違って絵本の場合、彼の視点でしか見ることができない度が高いので、本そのものがそう見ているように思えてしまいます。
 せっかくたくさんのおいしそうな弁当が描かれているのですが、物語のスタンスが不味いと思います。
 残念。(ひこ)

【小説】
 児童書・YAでは、ファンタジーが一時の勢いをやや失ったように思えるが、映画の世界では、今年も児童文学を原作とした大作の公開が目白押しだ。『かいじゅうたちのいるところ』から始まって、現在、公開中の『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』、3月には『ダレン・シャン』、4月に『アリス・イン・ワンダーランド』。『ナルニア国物語』第三章も、ディズニーから20世紀フォックスに引き継がれ、今年末に公開される予定だ。
 パーシー・ジャクソンは、『ハリー・ポッターと賢者の石』のクリス・コロンバスが監督。子役から成長したローガン・ラーマン(パーシー役)をピアース・ブロスナン(ケンタウロス役)やユマ・サーマン(なんと、メドゥーサ役!)らベテランが支えている。
原作では、パーシーは強気で、皮肉屋で、ユーモアにたけ、ちょっとひねくれたところのある魅力的な少年だが、映画では、素直で勇敢なヒーロータイプとして描かれ、原作ではちょっと頼りなかった相棒のグローバーのほうが、ユーモアある皮肉屋の役を引き受けている。原作を映画化する場合、原作をただなぞっても、あらすじ紹介のダイジェスト版になりがちなので、映画としての面白さを追求するには、映画版パーシー像が必要なのだろう(たとえば、年齢設定もちがう。原作では12歳だが、映画では17歳)。でも、個人的には原作のひねりのきいたパーシーのファンだったので、少々残念。原作も、映画顔負けのスピード感とユーモアにあふれる作品なので、ぜひこの機会に手にとってほしい。
 児童書・YAの映画化が目立つ中、大作と同様―――いや、もしかしたら大作以上の魅力を放っているのが、今回紹介するファンタジー・アニメ『9<ナイン> 〜9番目の奇妙な人形〜』だ。『アリス・イン・ワンダーランド』のティム・バートン監督が見出したという新人シェーン・アッカーが監督・原案の、まったくのオリジナル作品だ。
舞台は人類滅亡後の世界。廃墟と化した研究室の片隅で、麻布を縫い合わせて作られた人形〈9〉が目を覚ます。しかし、〈9〉は、自分のいる時代も、場所も、そもそも自分が"何"なのかもわからない。やがて、〈9〉は背中に1から8までの番号をつけた仲間たちと出会い、巨大な機械獣と戦って、とらわれた仲間を助け、自分たちの役割を見出していく。
 独特で斬新なキャラクターは、監督本人も言っているようにクェイ兄弟やロイエンシュタイン兄弟らの影響を感じるが、機械獣やオーソドックスなテーマはどこか宮崎アニメを彷彿させる。そのぶん日本の観客や若いファンにもなじみやすく、原作本映画やこれまでのアニメとちょっとちがうテイストのものを探している人には、かなりお勧めの一作だ。2010年5月8日から新宿ピカデリー、恵比寿ガーデンシネマ等で公開予定なのでぜひ!

 本では、『とむらう女』ロレッタ・エルスワース 代田亜香子訳 作品社(2009.11)と、『ライオンとであった少女』バーリー・ドハーティ 斉藤倫子訳 主婦の友社(2010.2)が印象に残った。

『とむらう女』は、十九世紀半ばのアメリカ、ミネソタ州を舞台に、母親を亡くした少女イーヴィが、母親代わりの叔母を受け入れていく過程を描いている。叔母は、死者を清め、納棺の準備をする「おとむらい師」をしている。そうきけば、映画『おくりびと』を思い出す人も多いだろう。イーヴィは最初叔母の仕事に嫌悪感を覚えるが(『おくりびと』の大悟も最初、納棺師の仕事をしていることを妻に隠している)、やがて「死者をとむらう」儀式の美しさと崇高さを知ることで、母の死を乗り越え、成長していく。
 この作品は、〈オールタイム・ベストYA〉シリーズの一冊目。金原瑞人さんが選者となり、「作品の古い新しいに関係なく、海外で売れている売れていないに関係なく、賞を取っている取っていないに関係なく、読みごたえのある小説のみを出していく」とのことで、今後も楽しみだ。

『ライオンとであった少女』はタンザニアの少女アベラと、イギリスの少女ローザの物語が交互に語られる。エイズで両親と妹を失ったアベラは、イギリスの永住権を得ようとしている叔父にだまされ、イギリスに連れてこられてしまう。一方ローザは母と二人、幸せに暮らしていたが、ある日母がいきなり養子を取ると言い出したことから、動揺と不安の日々を送ることになる。
 健気で芯の強いアベラと、幼さも残るが率直で賢いローザという魅力的な少女二人を通して、アフリカの抱える諸問題を正面から取り上げ、なおかつ、最後の最後まで読者をはらはらさせる物語を生み出した作者ドハーティの力量を感じる。(三辺律子)

『はみだしインディアンの物語』(シャーマン・アレクシー:作 エレン・フォーニー:絵 さくまゆみこ:訳 小学館 2010)
 YA作品はエンタメであろうとなかろうと、子どもが感じ始めた自分と世界との間の違和感を描きます。その意味でアレクシーの今作はしごくまっとうなYAといえます。
 主人公は保留地で暮らすインディアン(ネイティブアメリカンとも呼ばれています)の少年。生まれた頃から脳に髄液が溜まる疾患を抱えていて、言語障害もあるし、友人たちからはアホと言われてきました。いじめまくられていたのです。唯一の友人ラウディは、世界を憎んでいて、すぐに切れてしまう奴。それでもオレのことは絶対に守ってくれる。
 保留地はまあ、貧乏の塊みたいなところで、オレのおやじは飲んだくれ。悪い人ではないけど、どうしようもない飲んだくれ。
 そんな先行きのない保留地から、ある時オレは飛び出すことにします。保留地の外、白人の高校に転校するのです。それで何かが変わるかはわからないけれど、このままはいやだ。
 もうビビリまくりで白人のそれも一流校へと出かけるオレ。差別迫害の嵐にも耐えてみせる覚悟です。が、そんなことは全然無くて礼儀正しい生徒がほとんどで少々拍子抜け。保留地の学校の方がいじめはひどかった。
 しかも学校でも人気者の女の子が何故かオレを気に入ってしまうし。
 そして、マンガを描くしか興味の無かったオレは、バスケのコーチにその才能を見いだされ、入部。シューターの切り札となる。
 一方、保留地の学校では、オレは裏切り者とされ、親友だったラウディもオレを憎んでいる。
 なんと初めてのバスケの試合は保留地の高校だった。どうなる?
 アレクシーは、『カラーパープル』のような逆転の発想で、インディアンの抱える痛みをどんどんどんどん描いていきます。容赦ないユーモアで。
 もちろんこれは、アレクシー自身がインディアン(ネイティブアメリカンとも呼ばれています)であるからこそ描けた設定なのですが、もう大丈夫。最初の物語は当事者以外書けないとしても、一度書かれてしまったら、次からは誰でもOKです。なぜなら物語は参照によって生まれるのですから。
 予定では今年来日してもらうつもりでしたが、叶いませんでした。会いたかったなあ。残念!(ひこ)

『遠まわりして遊びに行こう』(花形みつる 理論社 2010)
 これは、子どもを巡る物語です。
 語り手の新太郎は大学2年生。カワイイ彼女もいて、彼女にええ格好するために、ファッションに気遣い、マンションを借りて、学生生活をエンジョイ!
 ・・・・・・だったのですが、そんな努力もむなしく、「あなたって、つまらない」とキツイ別れ言葉で振られてしまいます。なんだかもう自分の生き方そのものが否定されてしまったようで大学にも行かず落ち込んでいるところに、母親から電話。弟がサッカーの強い私立高校に通うので、これからは仕送りなしでがんばってくれとのこと。母親は、新太郎より弟を愛していて、それを隠さず素直に見せるような人で、だから新太郎も怒れず、今回も腹立たしく思いつつ、受け入れます。でも、失恋で学校に行っていない間に単位を落とし、来年度に当てにしていた奨学金ももらえなくなり、マンションから下宿に引越し、バイトに走り回る生活へ突入。
 そんな時に見付けたのが、五〇代のおっさん、正宗がやっている「遊び塾」。子どもと遊んで稼げるならと引き受けるのですが、なんだか学習塾の方も手伝わされて、これはちょっとだまされた? でも正宗は、何の悪気もないのでした。そして、新太郎を襲う受難は、「遊び塾」の方だったのです。そこには小学1年生から3年生までのガキ、あ、失礼、子どもがいるのですが、人間の子どもとはいえ、その年齢の、特に男の子は、ただのおサルなのでした・・・・・・。
 近代の子ども観には、無垢や残酷がありますが、無垢も残酷も大人が自分たちを大人と実感するための見方でもあります。児童書は主に前者便を、大人の小説は主に後者をついつい使用してきたわけですが、もちろんそれらに抗して、生身の人間として描く試みも数多くなされてきました。
 そんな中で花形は一貫して、子どもは無垢でも残酷でも生身の人間でもなく、おサルであることを描いてきた作家の一人です。それを教員として実践の中から報告していたのが名取弘文であり、おサルだと知っているであろうに、決してそうは描かなかったのが灰谷健次郎です。河合雅雄はもちろん知っています。
 「おサル」とは、己の欲望に忠実でありつつ、周りとの力関係を重要視し、両者のバランスを本能的に取っている生き物を指しています。
 そうした視線で小さな子どもを思い浮かべると、なるほどなるほどと、大人から見ると奇妙な行動も納得がいきます。
 もちろん人間の子どもはおサルではありませんが、近代の子ども観に惑わされないために花形は、そしておそらくいとうひろしもおサルに描くのです。
 さて、今作ではおサルを描くことが目的とはなっていません。だって主人公は語り手の新太郎大学2年生ですから。彼は恋人に「つまらない人」という全否定で振られるわ、実家ではあまり存在価値を認められていないことを改めて示されるわで、大変です。つまり、人間であったはずの新太郎は、その自己存在(近代が人間と認知するもっとも重要な要素)を確かめる術を失い、おサルの群れに放り込まれるのです。もちろんおサルたちは、この新参者の新太郎を人間どころか、おサル以下に遇します。あだなはキタロー(鬼太郎)です。
 そして、おサルを集めて商売(遊び塾)をしているおっさん正宗は、学生運動崩れのようですが、新太郎にとっての賢者としては一切機能してくれません。若者を育てる? 面倒臭い! ってわけですね。
 さて、新太郎はおサルの群れのボスになれるのか? 群れを脱して人間に戻れるのか? それとも?
 この物語は次時代のYAの可能性を秘めています。
 そうそう、今作ではおサルが主人公ではありませんので、彼らの心理描写は必要が無く、おサル観察はいつもより綿密でわかりやすいですよ。(ひこ)

『コブタのしたこと』(ミレイユ・ヘウス:作 野坂悦子:訳 あすなろ書房 2010)
 引っ込み思案のリジーは学校でも友達がいません。そんな彼女の前に現れたのが、小太りで自らコブタと名乗る女の子。まるで引きずられるようにしてリジーはコブタと友達になるのですが、コブタは人に悪意を持って接することしかできない子どもでした。
 コブタは、リジーの「友達」として、リジーをバカにしている男の子たちを懲らしめようと提案しますが、その内容はシャレにならないものでした。でも従ってしまうリジー・・・・・・。
 かなりきつい物語ですが、コブタが何故そんな性格であるかや、リジーの心の揺れ具合など細かな部分が具体的にではなく背景として巧く描き込まれているので、リアルに読めます。
 日本の子どものが抱えている状況とは少し違いますが、子どもが何か問題を抱えてしまった時の心細さや不安は同じですから、読んでもらえれば共感度は高いでしょう。(ひこ)

『氷の上のボーツマン』(ベンノー・プルードラ:作 上田真而子:訳 岩波書店 2009)
 半世紀前の旧東ドイツ作品です。以前上田さんから「やっぱり訳しておきたくなった」と聞いていたので、私にとっては待望の作品です。
 凍り付いた冬の海。子どもたちは船長の子犬ボーツマンを借りて、一緒に遊ぶのですが、はしゃぎすぎてしまい、子犬は割れた氷に残され、流されてしまいます。
 もう遊びではすまない大変な事態。必死で助けようとする子、逃げ出す子。
 子犬の運命は?
 大人がちゃんと機能しています。子ども読者に、世界には大変な出来事は確かにあるけれど、大人は君たちを必ず助けるという強いメッセージがリアルに伝えられます。
 『マイカのこうのとり』を読めばわかるように作者は子どもに甘くはありません。それでもこれが書けた時代があったのです。
 ヴェルナー・クレケムの絵も今の絵描きには難しいシンプルさかもしれませんが、ぜひ参考にしてみてください。(ひこ)

『ヒックとドラゴン1伝説の怪物』(クレシッダ・コーウェル:作 相良倫子・陶浪亜希:訳 小峰書店 2009)
 まもなく映画も公開される、ファンタジーです。
 主人公ヒックは、ごくごく平凡な男の子。でも、バイキングの長の息子だからなんだかがんばらなければいけない立場みたい。
 このバイキングたちの特徴は、ドラゴンの言葉が話せることなのですが、であるからして通過儀礼的なことは自分のドラゴンを持つこと。大変ですね。
 ヒックになついたドラゴンの子どもは、これがまあ、言うことを聞かない。というかこの物語の設定では、ドラゴンたちはいやいや人間とコンビを組んでいて、よほど力のある人間でない限りドラゴンを操るのは難しい。にもかかわらず、凡庸なヒックとわがままなドラゴンのコンビですから、そりゃもう大変なのは想像が付くでしょう。
 実はこの物語は大人になったヒック自身が古ノルド語で書いたのを、クレシッダ・コーウェルが現代語に訳したという体裁になっています。小さな遊びですが、子どもたちには物語は構造があるというのを知る一歩となるでしょう。
 そうそう、映画化で思い出しました。今更映画化されてもなあ〜って人は多いと思いますが、美形ドラキュラ物ブームの流れで映画『ダレン・シャン』ももうすぐ日本公開です。
出来はそんなに悪くないですよ。(ひこ)

『ダイナソー・パニック1 恐竜キングがあらわれた』(レックス・ストーン:作 藤田千枝:訳 岩崎書店 2009)
 こちらは恐竜物の新シリーズです。
 ジェイミーは、恐竜博物館に努める父親と一緒に引っ越してきた男の子。さっそく地元のトムと友達になり、二人は岩穴探検を始めるのですが、そこで発見したのは、本物の恐竜たちが生息する世界でした。
 という、さして新しくない設定ですが、一巻1エピソードで軽く展開するノリは、物語入門の一冊としてはそこそこ良いできです。
 『デル・クエ』の大ヒット以来、この種の物語、そうですね、1スピンドルストーリーとでも呼びましょうか、そういったものの翻訳が盛んで、それなりのヒットをしています。ソフトカバーで軽さをより演出するそれらは、すきま時間を物語で消費するための商品として優れています。友達と語り合う作品としても、時間のない子どもたちには便利です。日本でそういう作品はあるかなと思ったら、案外ありません。1スピンドルだと幼年物になってしまう。一〇歳以下くらい向けだと、もう少し複雑になり2スピンドル、3スピンドルストーリーが多いですね。その辺り、考えてみてもいいのでは?(ひこ)

『マジック・バレリーナ1』(ダーシー・バッセル:作 神戸万知:訳 新書館 2009)
 神戸による新しいバレエ物シリーズ。
 今作は、前シリーズと違って、普通の女の子たちの普通のバレエ小説ではなく、魔法がかかっています。
 作者は英国ロイヤル・バレエの元プリマですから、この本はバレエを目指す子どものためのき入門者でもあります。貧しい家庭の女の子デルフィが、有名な先生に見いだされ無料でレッスンすることに。そして毎回有名なバレエの物語の中に飛び込んで大活躍! という趣向です。
 これも1スピンドル物語です。
 おまけとしてバレリーナシールが付いていますので、お好きなところにデコってください。私は・・・・・・秘密。(ひこ)