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■「国際ペン東京大会2010」──各プログラムの事前登録、始まる

9月23日の文学フォーラムからスタートする「国際ペン東京大会2010」まで、あと1か月と少し。各プログラムごとのオンラインでの事前登録も始まりました。人気のプログラムには、すでに多数の人が登録しています。
(事前登録はこちら)
https://www3.convention.co.jp/pentokyo2010/
(プログラムの詳細はこちら)
http://www.japanpen.or.jp/convention2010/

入場は無料ですが、プログラムごとに事前登録された方が優先です。登録希望者多数の場合は申込み順となります。定員に限りがありますので、事前登録をおすすめします。
どのプログラムも期待に違わないはずです。お早めにご登録ください。
プログラムは、開会式・文学フォーラム、記念講演・記念式典、セミナー、国際環境文学者会議、詩の朗読会の、6つに分かれています。どれも登録が必要です。
そのほか、登録の必要のないものとして、環境映画祭、展示会もあります。

★国際ペン大会2010東京 文学セミナー
「子ども・環境・文学 −そして未来へ!」
日時 2010年9月23日(木・祭日) 午後6時開演 午後6時半開場 (終了午後8時予定)
場所 早稲田大学 大隈小講堂 
入場無料(英語・韓国語・日本語 同時通訳付)
主催: 日本ペンクラブ 子どもの本委員会
講師 ジャクリーン・ウィルソン イ・オクベ 上橋菜穂子 ひこ・田中・田中(司会)

★ジャクリーン・ウィルソンさん イ・オクベさんのサイン会があります!
日時 2010年9月24日 午後3時〜(金)
場所 クレヨンハウス


【YAの世界3 読売新聞2010.07】
社会は、あなたが大人になるまで面倒をみます。身も蓋もない言い方ですが、大人になってくれないと社会が維持できなくなるので先行投資をしているのです。その主たる現場が家庭ですね。
YAのあなたはもう、自分が世界の中心ではなく、一員であるのを強く自覚し、社会全体について考え始めているでしょう。ところが親は、愛しているあなたの幸せを優先的に考えています。そんな考え方がエゴに見えてあなたはイライラするかもしれません。親は、その反応にとまどうばかり。
そんな時は距離を置くのも良いのですが、実行はリスクを伴い過ぎるのでお薦めしません。まずは、主人公が自分の世界を飛び出す物語を読んでみて、問題を整理してみるのはいかがでしょうか?
『ロビンソン漂流記』(デフォー:作 吉田健一:訳 新潮文庫)は、無人島での暮らしぶりが有名ですね。ロビンソンが遭難したのは実は、親が幸せを考えて敷いたレールに乗るのを拒否した彼が、海へと出て行ったからなのです。三百年前の作品ですが、彼の気持ちに結構共感できるのではないかな。倫理観は古いですから、今との違いも楽しんでください。
『はみだしインディアンの物語』(シャーマン・アレクシー:作 さくまゆみこ:訳 小学館)アーノルドは保留地で暮らすスポーケン族の虚弱な少年。貧しさ故に家族も含め荒れている閉鎖的な世界の中で暮らしています。いじめられっ子でもあった彼は、このままではいけないと考えて、保留地外にある高校に転校。やっぱりそこでもいじめられますが、バスケの才能を見出されてレギュラー選手になります。初めて自分に自信が持てたアーノルド。でも保留地の友人たちは、出て行った彼を裏切り者だと非難します。彼はこれからどういう選択をするのか? キツイ話ですが、それが心に響くYAは多いと思いますよ。(ひこ・田中)

【児童書】
『くじらの歌』(ウーリー・オルレブ:作 母袋夏生:訳 岩波書店 2010)
「アメリカではマイケルとよばれていたが、イスラエルにきてミハエルとよばれるようになった」。年を取った祖父の側で暮らそうと、アメリカ在住のユダヤ人一家がイスラエルへとい移住するところから始まります。
 ゲットーを体験し、生き延びたイスラエル人として、パレスチナ人へのイスラエル政府の対応に心を痛めているオルレブ。
今作は少し趣を変えて、祖父が持つ「夢の力」を幻想的に語ります。祖父は人を夢の中に導き、ときにはそれを操縦する力を持っています。どうやら先祖から受け継いでいるようです。残念ながらミハエルの父、祖父の息子はその能力を持ちませんでしたが、ミハエルにはありそうです。
ミハエルは祖父の力を借りて、将来を見ます。そのことでミハエルは、成長するうれしさと、十一才のままでいたい(それなら祖父は元気なままでいられる)気持ちの間で揺れます。それから、祖父の「暗いがわ」も知ります。人には明るいがわと暗いがわがあることを。
 祖父を一人占めにしたい、家政婦であり「公認の人」であるマダムの存在感は、大人の世界をミハエルに垣間見させてくれます。
 オルレブは今作で、イスラエルが抱えている問題を直接語ることはありませんが、夢の力の中に様々なメッセージを読みとることも可能です。
 下田昌克の絵の良さも指摘しておきます。(ひこ)

『ぼくとリンダと庭の船』(ユンゲン・バンシェルス:作 若松宣子:訳 偕成社 2010)
 なんとも据わりの悪い邦題ですが、それで手に取るのを止めるとちょっと勿体ない作品です。
 ぼくの母親は、包装紙デザイナー。でも父親のDDが木から落ちて亡くなってからは、そのことを受け入れられず、心ここにあらずな状態が続いています。もちろんぼくだって、十分悲しいし寂しいけれど、そうも言っていられない。このままでは生活が成り立たない。だからぼくは母親を慰め励ましデザイン画を書かせ、取引先とは自分が交渉し、家のお金の管理もしています。
 かわいそうな子どもではなく、彼にとってはそれが普通の日々であるのが大切。
 でも、そんなぼくの学校にリンダが転校してきます。彼女は奔放に見え、クラスでは引かれますが、何故かぼくは好かれ、ぼくも惹かれます。
 こうしてぼくの日々に、リンダへの恋心が性欲とともに加わっていくのです。
 すかっとする展開はなし。でも、ちゃんと立って、誇りを持って生きていこうとする子ども、でも、うろたえもする子どもが、リアルに描かれていて、これは本当に小説でしかできないことです。
 読んで欲しいなあ。
 邦題の据わりの悪さも、格好良く決められない日々を描いていることを反映しているわけですから。(ひこ)

『小さな王さまとかっこわるい竜』(なかがわちひろ 理論社 2010)
 小さな王さまのお父さんもおじいさんも代々、みんな良い人で、領地も宝物もみんな領民に分け与えて、小さな王さまが王になったころは何にも残ってはいませんでした。けれど、全然気にしていない彼。友達の竜も小さな竜で、およそ強そうでもありません。
 なんにもない王様は、それでも領民になにかをしてあげたくて母親に相談すると、洗濯物が乾くように、空の穴に詰め物ができればいいなと言われます。そこで王様、空に詰め物をしているという国を探して、竜と一緒に船に乗り…。
 別世界のシーンは紙の色を変えたり、丁寧な作りがうれしいし、そうした丁寧な作りは、丁寧な作品だからこそ生まれてくるのでしょう。
 絵ももちろん作者が描いているので、隅々まで落ち着きがあり素敵。(ひこ)

『なぞなぞうさぎの ふしぎなとびら』(やえがしなおこ:作 ほりかわりまこ:絵 岩崎書店 2009)
 学校の帰り道、不思議な声に誘われて「わたし」はいつの間にか現れた、木の幹の青いドアを開けて入ります。そこにいたのはテーブルセッティングをしているうさぎ。なぞなぞうさぎでした。「わたし」はなぞなぞを出されてしまいます。
こうして、なぞなぞうさぎの世界と、「わたし」」の世界の行き来。どうやら「わたし」の家は、昔からなぞなぞうさぎとは縁があるようです。
 堀川の楽しげに描いた挿絵と、やえがしのなぞなぞ遊びを楽しんで下さい。大人にはちょっと簡単かもしれませんが、それはね。(ひこ)

『ムカシのちょっといい未来』(田部智子:作 岡田千晶:画 福音館書店 2010)
 あまり流行っていない通称ユウレイ通り商店街でパン屋を営む家の息子武蔵、ニックネームがムカシ。父は普通のパンをちゃんと焼く職人だが、毎日妙なものを入れたパンを焼く。タクアンを入れたりね。で、それはちっとも評判がよろしくないし、おいしくない。ところがナスの味噌炒めを入れたのが大ヒット。行列のできる店に。でも何故か父は雑誌もTVも取材を断り、ついにナスミソパンも止めてしまう。クラスの一員で、おしゃれなベーカリーの息子三上に、いつもバカにされていたムカシとしては、最近気分が良かっただけに、腹が立つ。三上の家がナスミソパンを発売し、TV中継させたのを自慢しているのに、ついに切れたムサシは三上に襲いかかるのだが…。
 「ユウレイ通り商店街」シリーズ一作目。商店街の地図も詳しくできていて、今後それぞれの店の子どもたちの物語が始まります。
 当然毎巻、子どもたちが被ってでてきますから、親しみもわいてくることでしょう。
 ただ、表紙や挿絵もそうなんですが、全体の世界観がこれまでの児童書からあまり出ておらず、それが安定感になるのか、古くさく感じられるかは五分五分。今後を楽しみに。(ひこ)

【小説】
『よろこびの歌』(宮下奈都 実業之日本社 2009)
音大附属高校受験に失敗した御木元玲。彼女は誰も何も望んでいないかのような校風の明泉女子高校に入学します。
その他、様々な理由で同じ高校に入学したYAたちの心を、章ごとに視点を変えて作者は丁寧に語ります。
やがてそれらの心は音楽を通して、つまりは御木元を軸に柔らかく繋がっていく…。
一見YA小説ですが、作者はこれはそうではないと明確に意識して書いています。YA小説とそうでない大人の小説の違いを考えるにもおもしろい作品です。(ひこ)

【詩集】
『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』(受刑者:詩 寮美千子:編 長崎出版 2010)
 寮が講師を務めている奈良少年刑務所受刑者の詩集。
 あとがきにも述べられているように、自分を表現すること、そして受け入れられることをしてこなかった、する機会の無かった、させてもらえなかったのかもしれない彼らの伸びしろは随分ある。寮は詩でそれに気づいてもらうのだが、そのことによって彼らが変わっていくのは、とてもよく理解できる。
 これは受刑者の子どもたちだけの問題ではなく、多くの子どもがまだ気づかされていない伸びしろでもあるだろう。
 この本のタイトルになった詩の題名は「くも」。(ひこ)

【絵本】
『ぬすみ聞き 運命に耳をすまして』(グロリア・ウィーラン:文 マイク・ベニー:絵 もりうちすみこ:訳 光村教育図書 2010)
 綿花栽培をしている家で働く黒人奴隷の物語。子どもたちの仕事後の役目は、お屋敷に忍び寄って、窓の下でこっそり「ご主人様」たちの会話を盗み聞くこと。彼らなら見つかりにくいし、見つかっても遊んでいたとごまかせるからです。
 そうして情報を得たからと言って、何が変わるわけでも、できるわけでもありませんが、親子が引き裂かれる運命などに心を備えることはできます。
 マイク・ベニーは、子どもたちの仕草や表情をリアルより少し強調気味に描きながら、彼らが過酷な状況の中でも力強く生きている様を示しています。(ひこ)

『愛 考える絵本』(落合恵子:文 ワタナベ ケンイチ:絵 大月書店 2010)
「愛」などという困難なテーマを、落合がためらいつつも決然と語ります。答えなんかない問い。一生わかることのない課題。でも考え続けたい「愛」。様々な「愛」を繰り出す落合に、若いワタナベの画が奔放に共振。
編集していて、本当にスリリングな時間を過ごせました。お二人に感謝!(ひこ)

『あいつは トラだ! ベリゼールの はなし』(ガエタン・ドレムス:作 のざか えつこ:訳 講談社 2010)
 パン屋のベリゼールは、人気者。パンがおいしいのはもちろんだけど、夜、舞台で楽しい芸を見せてくれる。
 ある夜、舞台に上がったベルゼールは服を着ていなくて裸。それはトラでした。
 とたん、みんなは、あんなにおいしいといっていたパンも買いにいかなくなり…。
 移民などへの偏見・差別への痛烈な批判をユーモア込めて画く腕はすごい! と思ったらデビュー作ですって。すごいなあ。
 絵も、イラストレーターらしい、線を活かした画と、おしゃれな画面構成の数々が素敵。
 キツイはなしだからこそ、これくらいおしゃれじゃなくっちゃね。(ひこ)

『ヒヤシンスひめ そらに うかんだ おんなのこの あっと おどろく おはなし』(フローレンス・パリー・ハイド:文 レイン・スミス:絵 野坂悦子:訳 光村教育図書 2010)
 放っておくと何故か浮いてしまうお姫様が、両親の過剰な心配から逃れて、どうして外で遊べるようになったかという愉快なお話に、レイン・スミスがダイナミックな構図をどんどん切り替えながら、あちこちに遊びを散らし、楽しい絵を付けています。色遣いも、突飛な物語を活かすべく、落ち着いた選択。センスいいなあ。(ひこ)

『あいうえおばけのおまつりだ』(うえのあきお:文 美濃瓢吾:絵 長崎出版 2010)
 七三体もの日本の妖怪たちが、画面狭しと登場しまくります。
 それを案内する文は、「あいうえおばけが あつまって、かきくけこんやは おまつりだ」と、ご機嫌なリズムを刻んでいきます。
 美濃の絵が良いわ。アートなんか全然する気がないもの。どっちかっていうと紙芝居や映画の看板かな。その方がぜったい怖いから、大正解。(ひこ)

『おうちをつくろう』(エマ・クエイ:作 アナ・ウォーカー:絵 まえざわあきえ:訳 ひさかたチャイルド 2010)
 パンダとフクロウとヒツジの子どもが、家を作って遊びます。
 なんのこともない、ほのぼの系絵本です。
 ですが、イスを二つ支えにして、そこに布をかぶせて屋根にしてという過程が、いつの間にか妙な方向にってのが巧い。
 それとアナの、布地を使ったコラージュの温もり度はなかなかです。(ひこ)

『あか きいろ あお』(もとのぶ きみひさ:さく くもん出版 2010)
 リンゴの赤、ヒヨコの黄色と、何ほどのこともなくいかにも赤ちゃん絵本的に進んで行くようですが、さにあらず。右ページにリンゴ、左ページはリンゴの赤。そしてリンゴはページを少し越境していますから、左ページにかかったリンゴの部分は白く表されています。
 色とは何か? が問いかけられているのです。
 残念なのは、色にいちいち英語が添えられていること。作者の意図ではないかもしれませんが、なんでこんな余計なことをするのかなあ。それで売れると思うのかなあ。まあ、売れるのでしょうけれど。
 せっかくの日本語の色が壊れてしまう。(ひこ)

『さよならをいえるまで』(マーガレット・ワイルド:ぶん フレヤ・ブラックウッド:え 石崎洋司:やく 岩崎書店 2010)
 ハリーは犬のジャンピーと仲良し。いつも一緒に遊んで、一緒に眠って、学校から帰ってきたら抱き合って。
 でも、ジャンピーは事故で死にます。
 認めたくないハリーは土に返してやるのにも参加しません。
 夜、ジャンピーの声が! ハリーは毎夜ジャンピーと遊ぶのですが、ジャンピーの姿は段々薄くなって…。
 ジャンピーはいるよって主張するハリーを否定しない父親がいいですね。父子家庭でしょうか、父親しか出てこず、家事もこなしています。
 フレヤの絵は、泣きを入れず勢いのある線で、ハリーとジャンピーの感情を絶妙に表現しています。ですから、「今年いちばん泣ける本」というキャッチでの売り方は疑問です。特にこれは子どもの絵本ですうから(大人が読んでもいいけど)、泣くために読む絵本ってのは違うでしょう。(ひこ)

『こわーいおつかい』(内田麟太郎:文 こいでなつこ:絵 あかね書房 2010)
 うっかりやのこぶたのとんちゃんが、ママに頼まれお使いにでかけることに。おばあちゃんにお薬を届けるのです。オオカミには気をつけて。
 ところがとんちゃん、お薬を忘れてしまいました。それでもダッシュで大好きなおばあちゃんチへ。
 忘れ物を持って追いかけるママ。
 それをオオカミだと勘違いして、猛ダッシュとなって逃げるとんちゃん。
 それを見たオオカミ。これはおいしいものがこちらにやってくると思い立ちふさがるのですが、オオカミから逃げているつもりのとんちゃんは、口を広げたオオカミなど気付かず踏んづけて言ってしまうのであった。
 アロハにおしゃれなスニカーのとんちゃんなど、こいでなつこの遊びも楽しい一品です。(ひこ)

『ラプンツェル』(内田也哉子:文 水口理恵子:絵 フェリシモ出版 2010)
 グリム童話と呼ばれているものの一つの絵本化です。性の匂いに充ち満ちた物語はやがて漂白されていくのですが、この絵本ではそこに触れられています。文と絵、二人の相性もいいので、他の作品(グリムでなくても)も見たいです。
 ところで今年公開予定のディズニー版は、どう描くのでしょうね。(ひこ)

『エラと「シンデレラ」』(ジェイムズ・メイヒュー:作 灰島かり:訳 小学館 2010)
 バレエ物は今たくさんありますが、これは絵本。
 バレエ大好きな女の子エラは先生に「シンデレラ」のお話しを聞きます。そして「シンデレラ」のレッスンをしていると、その世界へと入っていきます。
 バレエ版の「シンデレラ」にエラちゃんが加わりますから、ちょっと楽しい変化があります。
 ペロー版、グリム版とバレエ版を比べて見るのもおもしろいでしょうね。(ひこ)

『富士山に のぼる』(石川直樹 教育画劇 2009)
 登山家&写真家である石川による、最初の写真絵本。真っ当に、富士山から始めました。
 富士山という存在の感動を伝えようとするのはわかるのですが、本人が写真に登場したり、空からの写真があったりと、見る側が富士山に集中しづらいのも確かです。
 本人は言葉だけでいいのです。富士山に登っていく石川に見えている世界を切り取って、絵本としてどうレイアウトしていくか。
 今後に期待します。(ひこ)

『なつのあそび 季節・行事の工作絵本1』(竹井史郎:作 笹沼香:絵 岩崎書店 2010)
 これから四冊、四季の工作絵本が展開されます。楽しみ、楽しみ。
 ちょっと残念なのは、掲載される順番。自然での遊びから始まっています。でも、今、笹舟遊びやふきで柄杓を作る子供が、作れる環境にいる子どもがどれだけいるでしょうか。
 気持ちはとてもわかるのですが、やはり今の子どもに身近なもの(描かれていますよ)から始めた方が、子どもも入りやすかったのでは?(ひこ)

『ホネホネ すいぞくかん』(西澤真樹子:監修・解説 大西成明:しゃしん 松田素子:ぶん アリス館 2010)
 好調ホネホネシリーズ最新刊です。とにかくホネだけで見せていくというコンセプトが素敵なのですが、それだけにネタを繰るのが大変です。今回は基本で攻めてきました。最初にホネを持った生物から順に見せていく直球です。
 ただ、それだけだと図鑑になってしまうので、泳いでいるような姿をとらせてみたり、顔だけを見せてみたりと、苦労の程が偲ばれます。
 そうか、ナマコにもホネはあったのだ。知らなかった。(ひこ)

『モモのこねこ』(やしまたろう・やしまみつ:作 やしまたろう:絵 偕成社 2009)
 やしまたろう生誕一〇〇年復刊作品。
 娘のモモのために飼った子ねこの一年を描きます。子ネコも大きくなり子どもを産みといった、人間と比べて短い命の愛おしさと、子どもへの愛しさ、そして子どもの懸命な喜びが見事に伝わってきます。(ひこ)

『おめでとう』(もたいたけし:え ひろまつゆきこ:ぶん 講談社 2010)
 もたいの一枚画「おめでとう」(1956)を、ひろまつが分割して、絵本化。
 なるほど。こうした二次創作もあるのだ。
 群像画は、群像であることの意味があるのは、様々な絵画で明かでしょうが、例えば、ピーター・ブリューゲルの多くの画の面白さを伝えるのは、個々の細かなシーンを語ることが必要でもあります。
 この作品は、もたいが込めたそれぞれの「ありがとう」を、ひろまつが細心の注意を払って伝えようとしているわけです。
 実際、眺めていると、もたいの力がより鮮明になってきます。
 危険な方法であることもまた確かですが、腕の良い人なら、効果はあるのです。(ひこ)

『コブタくん もうなかないで』(かとうようこ:作 みやにしたつや:絵 金の星社 2010)
 誰にもわかってもらえない、孤独なコブタくん。ある日、木の下で泣いていると、なんと木も一緒に泣いてくれています。
 友達を見付けた!
 それからコブタくんは悲しいことがあると木と一緒に過ごします。
 ところが冬の日、木にしゃべりしすぎて疲れたコブタくんは眠ってしまいます。凍えてしまうのを心配した木は、自らの葉を落としてコブタくんを包んでいく。
宮西は、ええ話を描くことで人気の絵本作家ですが、今作ではかとうのええ話とコラボです。
しかし、そろそろ次の展開が欲しいな。(ひこ)

『ブルオはいぬごやのした』(山西ゲンイチ 岩崎書店 2010)
 しげちゃんは、向かいの家の犬、ブルオが怖い。通るたびにうなられます。なのに野球をしていたらボールがブルオの犬小屋に! ああどうしよう。勇気を出して犬小屋を覗くと、ブルオはいない、しめしめ、そして…。
 ファンタジーワールドと言えばいいのか、山西ワールドと言えばいいのが、全開しとります。子どもに受けますよ。(ひこ)

『ちゅうしゃなんか こわくない』(穂高須也:作 長谷川義史:絵 岩崎書店 2010)
 こわくないったって、あんた、長谷川の絵なんだから、表紙からして、もう怖いよ。
 今日は予防注射の日だ。怖い子、怖いのに怖くないフリをしている子。みんなドキドキソファーに並んで座って待っている。
 いよいよ来たぞ。ぼくの番。
 痛くなくなるのかな? ねええ。(ひこ)

『クマよ』(星野道夫:文・写真 福音館書店)
 「たくさんのふしぎ」傑作集の一冊。亡くなった星野の残された文章と写真で仕上げています。
 星野の小さな頃からのクマへの思いと、季節季節の自然への畏敬が、画面から伝わってきます。
 本当に好きだったのだ。
 おそらくそれは、クマの親子の中に家族の風景をも見ていたからだと思います。
最後はオーロラ。星野はそこにいるのでしょう。(ひこ)

『アラスカたんけん記』(星野道夫:文・写真 福音館書店)
 「たくさんのふしぎ」傑作集の一冊。星野の中期作品の一つ。
 アラスカに惚れ込んだ想いにあふれた文章は、いささか過剰ですが、クマやオーロラ。好きな物への気持ちの露出は、それを見る物にも豊かさを与えてくれます。
 『クマよ』と二冊並べてみると、上がった技量より、変わらない情熱の方がやはり感動に値します。(ひこ)

『うさぎのうさぼうと きょーふのママだいおう』(ケイト・クリス:文 サラ・クリス:絵 主婦の友社 2010)
 ママは、部屋を片付けなさいとうるさい。やってみるけど、却って散らかってしまう。もう頭に来たうさぼうは、家出をしてサーカスに入れてもらうことに。でもチケット一〇〇枚売らないと入れてあげないだって。だから恐怖のママ大王が出ますって宣伝してチケットを売った。本当にママは恐怖のママ大王だもん。ママを連れてステージに上がったけど、どうやらみんなにはママは恐怖大王に見えないらしくてブーイング。そこでママは恐怖の部屋を見せますとお客さんを連れて、うさぼうの部屋へ…。
 へたするとやな仕付絵本になるところを、上手く処理しています。そしてたぶんうさぼうは、また自分の部屋を…。(ひこ)

『シーカヤックで いこう -ゆうたの しれとこ たんけん』(関屋敏隆 「かがくのとも」08月 福音館書店 2010)
 ゆうたが祖父と一緒にカヤックで知床岬を巡ります。
 乗り付けることができる場所には乗り付ける自由な探検です。
 キツネ発見! イルカ発見! クジラ発見! イワシ発見! ワシ発見!
 関屋の知床好きは、そうか、「知床旅情」が好きだったからなのか。知らなかった。(ひこ)

『海をわたった折り鶴』(石倉欣二 小峰書店 2010)
 禎子の折り鶴が、9.11のニューヨークへと運ばれ、平和の祈りのために展示されていることの物語。
 禎子のエピソードそのものがもう余り知られていないということからか、そこにページが多く割かれています。その気持ちはわかるのですが、この話は「9.11のニューヨークへと運ばれ」の方に力点を置いて欲しかったです。禎子の物語は、解説側に回して。
 というのは、そうでないと、子どもの感心を引きにくくなると思うからです。(ひこ)

『かちかち山』(広松由希子:ぶん あべ弘武士:え 岩崎書店 2010)
 これも日本昔話絵本。このシリーズは文を広松が担当し、絵を様々な絵描きが務めます。
 この、残酷話をあべの絵はちゃんとウサギ側とタヌキ側から描いています。不穏さが充ち満ちて、読み応えアリ。
 ただ、どこもかしこも東西の昔話絵本ばかり出すのはいかがなものか?
 オリジナル欲が出版社も失せてきているってことでしょうか?(ひこ)

『もじのカタチ』(祖父江慎:文・絵 「たくさんのふしぎ」08月 福音館書店 2010)
 祖父江による、文字を形から徹底的にアプローチする試み。「ふ」でも教科書の「ふ」と新聞の「ふ」とマンガの「ふ」では、よく見ると形が違うところから始まって、象形文字の話、そして、フォントの話にまで行っちゃいます。子ども向け絵本で、これだけフォントの話を展開したのは始めて(ひょっとしたら祖父江がどこかでやっていたかもしれませんが)でしょうか? こうした話をちゃんと展開すると子どもは興味を持つのね。自分がなめられていなくて、ちゃんと扱われているのがわかるから。(ひこ)

『じゃがいもポテトくん』(長谷川義史 小学館 2010)
 テーマソングのあるおはなし絵本だそうで、最後に作詞長谷川、作曲中川ひろたかの曲がついています。
 八百屋さんに家族一緒にやってきたじゃがいも一家。ところがみんなバラバラに買われてしまって、悲しい別れ。みんな調理にされてしまいます。でもね、でもね、
 最後は秘密。
 長谷川によると、すき焼きにじゃがいもは入れてはいかんそうです。なぜなら、それは肉じゃがになってしまうから。
 勉強になるなあ。(ひこ)

『だっだぁー 赤ちゃんのことばあそび』(ナムーラミチヨ 主婦の友社 2010)
 色々な色の粘土で作ったお団子のような顔が、様々な表情をして、そこに、「ほっほー ほほー ほー ほー ほー ほーーーん」「へげへげの へげへげへげん へげへのへ」「たらんた らんた らんた らんた らんた らぁーん たらぁーん」といった擬音が添えられています。それらの擬音が赤ちゃんの物かはともかく、こうした音の連なりは誰しも楽しい物です。粘土の顔たちの表情もとても豊かでいいです。
 久保田カヨ子の「赤ちゃんの脳をはぐくむ絵本です」との帯の言葉は、いけませんが。(ひこ)

『おしりとり かたち絵本』(本秀康 長崎出版 2010)
 しりとりと、影絵当てをミックスした絵本です。幼児物として、このアイデアはおもしろいと思います。ただし、二つの要素を累乗的に兼ね備えるのですから、それを混乱されないように幼児に見せるのはとても難しいです。この絵本の場合も、まず影絵があって、次にそれが「おしりとり」という鳥だというところで躓かないかな。まあ、「おしり」って言葉に反応はするかもしれませんが。しりとりに、影絵のために物語性を加味するわけですが、やはりいささか強引です。
 でも、おもしろい試みではありますので、もっとやってみてください。(ひこ)

『ただしい??! クマのつかまえかた』(クレア・フリードマン:作 アリソン・エッジソン:絵 しらいすみこ:訳 ひさかたチャイルド 2010)
 ウサギの子どもが、クマを大好きなもので、なんとか捕まえたいと思い、本を買ってお勉強し、実践するのですが、この本がまあ、ほんまかいなな内容だし、だいたいウサギがクマを捕まえようなんて考えるんじゃありません。
 といった、妙なおかしさのあるお話しです。
 アリソン・エッジの絵は、一見さしたる特徴は見えませんが、これがなかなか。仕草や表情のベストショットを描くのが巧み。それに今回は、絵の中にクマを捕まえるノウハウ本を描き込みますから、そのメタ性も良くできています。(ひこ)

『くわずにょうぼう』(二宮由紀子:文 下谷二助:絵 フェリシモ出版 2010)
 二宮による、日本民話です。もちろん、そのまんまではなく、二宮流味付けになっていますのでお楽しみ下さい。
 ちょいと懐かし目の下谷の画は、ページを繰るごとに、もう奔放な構図で、怖がらせてやろう怖がらせてやろうとしていて、こういうの好きです。(ひこ)

『絵すがた女房』(二宮由紀子:文 石井聖岳:絵 フェリシモ出版 2009)
 二宮による、日本民話です。あんまりカワイイ女房に、ごんべいは仕事になりません。そこで女房の絵を持って畑に。それを眺めながらのお仕事です。ところが、その絵をお殿様が見た物だから、大変。(ひこ)

『ヤッピーのふしぎなおもちゃ』(すまいるママ 教育画劇 2010)
 画面からほんわか質感が漂うアップリケ絵本。
 ヤッピーも妹のはなちゃんもおもちゃが大好き。でもはなちゃん、お片付けが好き出ない。それでとうとう、お仕置き島からこわ〜〜いのがやってきて、はなちゃんのおもちゃを全部持って行ってしまった。
 ヤッピー兄ちゃんと一緒におもちゃを取り戻すぞ!
 単なる仕付絵本でなくていいですね。(ひこ)

『こやぎがめえめえ』(田島征三 福音館書店 2010)
 こやぎが、めいめい。ひょうちょうが ひらひら。こやぎがぴょんぴょん。と こやぎが楽しそうにしている様が描かれていきます。最後は、母やぎのお乳を飲む。
 リズム良く読んで見せていく赤ちゃん絵本ですが、田島の画もやさしくなりました。(ひこ)

『うごく はう、のぼる、ゆれる くずの おはなし』(たかはしきよし 福音館 2010)
 植物だって動くのだ! という。考えればうなずけるけど、普段はあまり気にしていないことを、くずを主人公に、テントウムシを狂言回しに、絵本にしています。和紙、切り絵、本物の枯れ葉、絵の具などを駆使して、地べたの世界を活き活きと描いていく画面はザワザワとして楽しい。惜しむらくは、くずといわれても今の子どもにはわからない可能性が高いのと、植物の動く様がわかりにくいこと。
 絵のセンスの高さと、絵本としての見せ方にギャップありです。(ひこ)

『おやおや、おやさい』(石津ちひろ:文 山村浩二:絵 福音館書店 2010)
 やさいたちのマラソンです。「にんきものの にんにく きんにく むきむき」「ラデッシュ だんだん ダッシュする」といった言葉のリズムで進んで行きます。
 山村は、やさいたちの必死さと、マラソンを楽しんでいる様子を、読み聞かせの大人と、見ている子どもが会話しやすい小さな遊びを添えて描いています。(ひこ)

『がたん ごとん がたん ごとん ざぶん ざぶん』(安西水丸 福音館書店 2010)
 あかちゃん絵本。がたんごとんと走る列車。こんどは「ざぶん」がありますから、緑地、砂の下の部分に青い波が描かれています。後ろ二両にはなにやらすでにお客が乗っていますが、ページを繰るすいかととうもろこしが乗り込んで、つぎは犬とカニ。何、何。最後はみんなが降りて意味がわかってきます。お楽しみ。(ひこ)

『ミーアキャットの家族』(内山あきら:しゃしん 江口絵里:ぶん そうえん社 2010)
 そういえば、ミーアキャットの写真絵本ってありませんでした。
 ミーアキャットは動物番組などで何度も見ているわけですが、母系はわかっていましたが、娘が子どもを産むことも許されないのは知りませんでした。産むためには、独立して群れを形成していかなければならない。かなり厳しい条件です。
 江口の文は擬人化、物語化が少し強く、もっとドキュメントっぽくても良かったのでは?
 写真は、どの姿でも絵になってしまう動物なので、どう構成するかに苦労の跡が偲ばれます。(ひこ)

『かん かん かん』(のむらさやか:文 川本幸:制作 塩田正幸:写真 福音館書店 2010)
 「かん かん かん」は鉄道の信号の音です。そうして「んまん ままん」列車はスポーン、ナイフ、フォークなどで荷台が作られ、ポットが湯気を出して牽引します。乗っているのがスパゲティにオムライス、おいしいもの一杯。お次は「ぶうぶう」列車。帽子でできた色んな車が乗っています。発見の楽しさを味わう絵本。(ひこ)

『めかくしおに』(もとしたいづみ:文 たんじあきこ:絵 ほるぷ出版 2010)
 季節物、お化け物の怪関係です。
 子どもたちが神社で遊ぼうとやってくると、お面屋さんがいる。きつねのお面をもらって、それを被ってめかくしおにをするのですが、おにになった子は物の怪の世界に紛れ込み…。
 たんじの画は、和風にせずメルヘン寄りなのでそんなに怖くはない、かと思ったらそうでもありません。ただ、ページを繰ると流れが止まってしまう部分があって勿体ない。ここは紙芝居のように、どんどん進めていって欲しかった。(ひこ)

『こんがらがっち あっちこっち すすめ!の本』(ユーフラテス:さく 佐藤雅彦:総合監修 小学館 2009)
流行の迷路物です。
いるかともぐらがこんがらがった、いぐらと、もぐらとたこがこんがらがった、もこが迷路に突入だ。
二つに分かれた道、どっちに行っても色々なるんですから、どちらを選んでもいい感じですけど、たどるのが楽しいわけ。後半のしりとり迷路はすこしややこしくこんがらがるぞ。(ひこ)

『ミャオ! おおきな はこを どうするの?』(セバスチャン・ブラウン:作 山本和子:訳 ひさかたチャイルド 2010)
 くろねこミャオによる、色々お遊びシリーズ絵本です。
 今作は、はこを持ってきて、さて何して遊ぶ?
 まず大好きな赤い色に塗って、はさみで入り口を作って、イスを持ってきて……。
 ナレーション遊んでいるミャオへの声かけになっていますから、読み聞かせはしやすいですね。
 色遣いは原色主体でわかりやすく、まん丸の目がカワイイミャオですから、人気者でしょうね。
他に、「ちいさな いすを どうするの?」が出ています。(ひこ)

『ゆきのたまご はるのつかい』(よこたみのる 理論社 2009)
 シリーズ「ゆきのたまご」二作目。ゆきのたまごのイメージがもう一つ上手く掴めないのが(私がアホだからです)残念ですが、絵のクリア度は高いです。一点物の絵として、どのページも素敵です。ただ、文章がリズムをつけようとする余り、その心地よいリズムに乗ってしまい、頭に残っていきません。意図はとてもよくわかるのですが、もっと物語性の高い文章にした方がいい気がします。(ひこ)

『マックスが どうしても あげたいものは……』(マーサ・アレクサンダー ジェームス・ランフォード:作 もとしたいづみ:訳 ほるぷ出版 2010)
 先生は、絵の勉強にでしょうか、用意した花の塗り絵に色を入れて、ママへのプレゼントという授業を始めます。ところが、マックスは拒否。というのは、彼はママにプレゼントするならオリジナルの花の絵を画きたいからです。
 断固拒否のマックス。わけがわからない先生。
 ついにマックスは教室を飛び出し、もらった塗り絵に×をしてその裏に自分だけの絵を描きます。
 先生の授業方法が間違っている訳ではないし、マックスの気持ちも本物。でもそのズレで生じる問題。
 って辺りを考えられる絵本。
 もちろん幸せな結末ですが、そっちに喜んでいてはもったいない素材。(ひこ)

『なみとび』(八百板洋子:ぶん 荒川暢:え 「ちいさなかがくのとも」08 福音館書店 2010)
 山育ちの八百板が、子どものころに体験した海での遊びの感動が元となっています。だからきっと、海育ちが思う以上に、子どもたちは興奮してはしゃいでいます。
 でもそれがフィクションが持つ現実より少し強い緊張度と良い具合にマッチ。
 荒川の絵は少しレトロな雰囲気を漂わせて、夏の思い出を伝えます。(ひこ)

『しょうちゃんとちきゅうくん ずっといっしょにいたいね』(さとうかしわ ポプラ社 2010)
 今絶好調のアートデレクター佐藤可士和による、各企業協賛エコロジー絵本。
 しょうちゃんとちきゅうくんはおともだち。いつも仲よくしていますが、どうしても大きなちきゅうくんに頼りがち。とうとう疲れたちきゅうくんを救うには?
 という展開です。
 予め、価値観は決まっていますので、大人には面白くはないでしょう。子どもにわかりやすく伝えようとしています。
ただし物語化することが本当に子どもにとってわかりやすくなるのかは、改めて考える必要があるでしょう。(ひこ)

『ねこがおしえてくれたよ』(たからしげる:作 久本直子:絵 教育画劇 2010)
 大好きなおじいちゃんが亡くなって、夏。ぼくの前にぼくにしか見えないネコが現れる、そいつはぼくとおじいちゃんしか知らないことを知っていて、おじいちゃんだと思うのだけど。
 喪失感がソフトランディングしていく絵本です。
 おじいちゃんがどんなイメージかが最初に出てこない(意図的でしょう)ので、ネコ=おじいちゃんが、巧く心に入ってこないのが残念。(ひこ)

【ノンフィクション】
『どうしてアフリカ? どうして図書館?』(さくまゆみこ:著 沢田としき:絵 あかね書房 2010)
 「アフリカ子どもの本プロジェクト」(http://www.hananotane.com/index.html)を主宰する翻訳者さくまゆみこによる、アフリカの様々な国の状況、文化、誤解、子どもたちと本、それを結ぶ施設である図書館の状況、さくまたちによる図書館作りなど、これまでの歴史が書かれています。 まだまだ途上のプロジェクトですが、どうぞ知って下さい。また、図書館の原点を考え直すきっかけにもなります。(ひこ)

【研究書】
「もの」から読み解く世界児童文学事典
本書は、百科事典を兼ねた一種のブックガイドである。
児童文学作品に登場する印象深いさまざまな「もの」から二〇〇を選び、「食べもの」「身につけるもの」「道具」「植物」「生きもの」「乗りもの」「家の中のもの」「家の外のもの」というテーマ別に八分類し、五十音順に配置してある。また作品のあらすじや短い引用だけでなく、絵や写真図版なども駆使して各項目をまとめている。
評者はこれまでのブックガイドにはある種の限界を感じていた。というのも、特定のテーマに沿って作品を探すときや忘れかけていた作品を思い出すには便利だが、通読には向かないため、物足りないものを感じていたからだ。ところが本書は、一項目に見開きページという物理的制約を、項目間の関連を示す「クロスレファレンス」(相互参照)という手法で克服している。そこで本書を読むことは刺激にみちた楽しい逍遥となった。
例をあげよう。ル=グウィンの『影との戦い』は有名な作品だが、ゲドの杖が「イチイ」製であったことを覚えている人は、評者を含めてどのくらいいるだろうか。ローリング作のハリー・ポッター・シリーズでは敵役がイチイの杖でハリーは魔除けに用いられるヒイラギ製の杖だったことはどうか。イチイという和名の由来や、神職などの道具として古くから使われていたことまで知っている人はさらに少ないことだろう。
薀蓄あふれるこうした記述の楽しさを、関連項目が補強する。「イチイ」から「トピアリー」に跳ぶと、ボストン作『グリーン・ノウの子どもたち』の庭園の話になる。グージの『まぼろしの白馬』にもイチイのトピアリーが登場していたそうで、末尾の関連項目「サフラン・ケーキ」をあけると、グージの同作品がより詳しく紹介されている。
本書は「もの」と作品の橋渡しをするだけではない。作品世界への理解を深めてくれる。たとえばアンデルセンの有名な短編童話「マッチ売りの少女」の「マッチ」を取り上げた項目では、マッチの種類と歴史に加えて製造過程での危険性が情報として提供され、誰もが知るこのマッチ売りの少女の境遇の陰に、マッチ工場で働く子どもたちがいたはずだと、見えない部分にまで触れている。こうした想像力にみちた批評的記述は、通常のガイド本とは異なる本書の魅力である。
 ひとつひとつの項目の記述が充実しているのは、執筆者五人の特性を生かした分担に負う所も大きい。遠藤純は日本児童文学が専門だけあって、有島武郎の短編「一房の葡萄」をはじめ、芥川龍之介や坪田譲治など古典を含む日本の児童文学作品の考察に長けている。児童文学の翻訳者こだまともこは、みずから翻訳した作品を何冊か取り上げており、たとえばシルヴィア・ウァフ作『ブロックルハースト・グローブの謎の屋敷』の「乾燥戸棚」の項目では原作者との親交を活かし、原作者直筆のイラストを用いて彼我の文化の違いを浮き彫りにしている。
本書のあちこちで『ガールズ・オウン・ペーパー』誌のイラストが効果的に使われていたが、川端有子が復刻版『ガールズ・オウン・ペーパー:一八八〇年―一八八三年』の監修と解説をしていることを思えば、それも不思議ではない。またロビンソン変形譚で博士論文を執筆した水間千恵が受け持った「海賊旗」「頭蓋骨」の項目や、サトクリフの歴史小説の翻訳もしている本間裕子の、「ワシの旗印」の記述など、それぞれに説得力があったことをつけ加えておく。 (西村醇子)
*週刊読書人2010年2月12日付け3面掲載

『長新太の絵本の不思議な世界 哲学する絵本』(村瀬学 晃洋書房)
 一九七八年、長は「絵本なのに批評するのはストーリーが主、(略)絵本を批評している人は、絵を勉強してください。自信が無ければ、いっさい絵本の批評はおやめなさい」と書き、村瀬は「この注文に応じられているものになっていることを願いつつ」この本を書きました。
作家として申せば、このような注文をする権利が作家にあるとは考えていないので、これに批評が応える必要があるとも思いませんが、村瀬は果敢に挑みました。
『ぼくのくれよん』で長は、そこに描かれたものは描いたものとみなす「お約束」があるけれど、本当は絵に過ぎないことであり、「それ自体をテーマにして絵本を作ろうとし」た。『もじゃもじゃしたもの なーに?』の絵にはただ描かれたものしかなく、「「描かれたもの」をみてそこに「描かれたもの」をみるのを楽しむ作家なのであ」る。つまり長は絵本で、絵とは何か、そして描かれた物とは何かという問立てを行っていたというわけです。だから、『ちへいせんのみえるところ』で「彼は絵本は「お話し」より「絵」であると考えてきた。絵本のページをめくらせるものは、「文(お話し)」ではなく「絵」だと考えていた」という風に分析されていきます。
絵というメディアの特性を様々な角度から問い返し、突き詰め、そのリアリティもまた絵であるに過ぎず、しかしそこにこそ絵の力があることを絵本として提示していったとなるでしょうか。
確かに長の作品はそうしたメタ絵本でもあるでしょう。が、長が選択した表現場所が絵画ではなく絵本である限り、やはりそのテーマですら、連なる絵として、つまりは物語として眺められることは受け入れるしかないのです。
村瀬は文を「文(お話し)」と記述し、そのあとそれを「物語」にまで拡張して、長の絵本は、「絵本には物語が欠かせないと考える「絵本+お話し派」の人たちとはかみ合わない」と述べるのですが、絵本は、絵と文(文と絵)でもって物語る本だと私は思うので、絵と物語を分離させるのはうなずけません。というかもしそうなら、長に「いっさい絵本はおやめなさい」と言うしかなくなってしまいます。
長の作品の多くは、既成の意味や論理を解体するのではなく、それを徹底的に貫くことで生じる転倒や不穏さを、絵と文(文と絵)で作り上げています。ですから、長の作品群は、本人がどう思っていたかはともかく、間違いなくナンセンス絵本、つまり物語絵本です。そして、それが芸術家というより、職人のような愚直さでなされていったのは、個々の作品の特徴を語る時、村瀬が、エッシャー、チュコフスキー、印象派、テニエル、マグリット、「三匹のやぎ」、レオ=レオーニなどの先行作品を示していることでもわかります。オリジナリティなどしゃらくさいのです。
村瀬は、読者は「だまされている」「作者のわなにはまっている」「全く気づかない」「短い言葉の術にはまっている」「作者の術にはまってしまう」といった言葉をさかんに使いますが、それは長が意味や論理を言葉ではなく絵に落とし込んでいるからであって、物語っていないのではありません。というか、わなや術にはめようとする仕草は物語る行為そのものです。ならばそのわなにはまってエヘラエヘラ笑うのも一興だと私は思います。
そうせずに果敢に挑んでしまった村瀬もまた他の読者とは違う意味で、作者の術にはまったのかもしれません。
まったく長新太ったら。(週刊読書人2010年07月 ひこ・田中)


【児童文学評論】 No.149 Copyright(C), 1998〜