No.150 Copyright(C), 1998〜

       
【YAの世界3 読売新聞2010.07】
7月 戦争を知っておく
 戦争は遠い国の出来事のようですが、残念ながらそれを保証できる人はいません。だから戦争になる予兆を見逃さない知識、戦争になったらどんな状況が待っているかの知識を持っておくことは自分を守るためにも大事です。だって、最初に兵士にされるのは若者、あなたなのですから。
 『あのころにはフリードリッヒがいた』(リヒター:作 上田真而子:訳 岩波書店)はユダヤ人の友人の死までをドイツ人少年が語ります。二人は同い年で家族ぐるみの付き合い。少年の父親も失業した大不況の中、ナチスが台頭。その青年団に憧れた二人は集会に出席し、ユダヤ人排斥が主張されているのを知ります。少年の父親は職を得るために支持はしていなくてもナチスに入党。情報を得て、ユダヤ人家族に亡命するよう忠告しますが彼らは従わず、友人だけが逃れます。ある日、防空壕に逃げた少年は扉を開けて欲しいと懇願する友人の声を聞くのですが、入れてもらえません。空襲が終わり外に出た少年は、友人の死体を発見します。助けられなかった痛み。それを一生背負っていかなければならないのが戦争なのです。少年は作家となり、この物語を書きました。
『機関銃要塞の少年たち』(R・ウェストール作 評論社)の舞台はイギリス。大人たちは防衛訓練をしていますが、子どもたちには臆病な大人としか見えません。国を守るのは俺たちだ! 墜落した敵機から機関銃を盗み出した彼らは豪を築き、ドイツ軍兵士も捕虜にし、英雄気取りです。プロの軍人である捕虜は、子どもたちの行動が危なっかしく、心配です。彼らを一番気遣っているのは、親たちではなく、この敵兵なのです。援軍を敵と勘違いした彼らは機関銃を向けてしまうのですが…。戦争になれば大人は子どもを保護する余裕が無くなる場合もあるのです。YAも、そんな大人は見たくないでしょ。(ひこ・田中)

【児童書】
『赤い髪のミウ』(末吉暁子 講談社 2010)
 航は小学六年生。不登校の彼が、南の島、神高島で運営されている「留学センター」へとやってくるところから物語は始まります。
 留学センターに日本中から集まってきた子どもたちの日々が描かれていくわけですが、その中の一人、赤い髪をしたミウは祖母がこの島の出身。それ故か、島の樹木の精霊キジムナーを見ることができます。キジムナー自身が赤い髪なので、それで見ることが出来るのかもしれない。いやミウ自身がキジムナーである可能性もあります。
人間、それも日本人としてのミウの赤い髪は、彼女がダブルであることを示しており、南の島の住民はともかく、島へやってきているヤマトンチューの子どもたちにとっては、自分たちに属すのか属さないのかがわかりません。ましてやキジムナーとアクセスできるとあっては。
従ってミウは、島の来訪者である子どもたちの集団が生活する留学センターでは異人となってしまいます。
ミウに課せられた事の多さと複雑さは、視点者である航の立ち位置を、どうしても当事者ではなく観察者にせざるを得ませんが、それは航が抱える問題が不登校と括られるだけではすまない(もちろん、殆どの不登校と括られる子どもがこれに該当するでしょう)こと、当事者としての自己解決は難しいことをほのめかしています。航は物語の始めに、自分はリセットしたいと思っていますし、ラストの言葉は「もう一回生き直してみよう」です。
物語はミウを死の危険にまでさらしながら航の心を揺さぶります。こうした方法は、古くは『若草物語』でも、エイミーの氷の池への落下や、ベスの猩紅熱(共に、ジョーのために用意された出来事)などのように使用されています。が、ジョーと違って航は何か具体的な野望を抱いているわけではありません(ジョーは、十九世紀において女にあるまじき自立の野望を抱いていました)。なにかぼんやりとした不安と怒りが暴走し、前の学校と家で暴力事件に近いこと、つまりはキレてしまったのです。
物語はその克服のきっかけを、ミウと、南の島に賭けています。とはいえあくまでそれはきっかけに過ぎず、島から家に戻ってからの日々こそが航の本当の一歩となるでしょう。(ひこ・田中)

『おたまじゃくしの降る町で』(八束澄子 講談社 2010)
 『明日へつづくリズム』でクリーヒットを飛ばした八束の新作です。舞台は同じく中国地方。タイトルは、以前TVでも話題になった、どこからかおたまじゃくしが降ってきた怪奇(?)現象が主人公たちの小さな町で起こったという設定から来ています。
 物語はスタンダードな青春恋物語です。おさななじみですからなおさらに。もちろんそれぞれの背景は今の彩りで、リュウセイの母親はシングルマザーであったり、ハルの母親はしっかり働いていたりします。シカトも、そこからの回復もあります。
「真剣に生きる。(略)そう心に決めた。その真剣さが、いつか人の心にも届くことを信じて、まっすぐに自分の道を進もうと思った」といったシンプルな言葉を最後に置くために、八束は現代にスタンダードな青春恋物語を描いていくのです。(ひこ・田中)

『天使の吹くとき』(福明子 国土社 2010)
 小さな街に都会から祖父の元で夏休みを過ごすべく、林子がやってくる。男の子たちは大喜び。川遊び、お祭りの踊りの練習。秋の「風の祭」まで残って、参加すればというけれど、実は林子は白血病で、秋からの厳しい治療前に祖母の元へ遊びに来ていたのでした。治療と向かい合う気力を得るために。
『ゆりあが出会ったこだまたち』(竹内もと代 佼成出版社 2010)
 ゆりあは毎年夏休み、祖父と暮らすためにこの村にやってくる。この夏、森でこだまの精たちと知り合い、村が自然破壊的開発をしようとしているのを知る。子どもたちは協力して阻止に動く。
 どちらも夏休み物ですからパターンとしてにてしまうのは致し方ないところ。事件を起こすために前者は病気を、後者は森の精と自然破壊を採用しますが、もっと夏休みの方に焦点を当ててもいいのでは?(ひこ・田中)

【絵本】
『マグナム・マキシム、なんでもはかります』(キャスリーン・T・ペリー:文 S.D.シンドラー:絵 福本友美子:訳 光村教育図書 2010)
 フランス革命の後、その近代化のいっそうの推進とヨーロッパでの権威を高めるために新政権が行ったことの一つが、地球を測ることでした。メートルという現在の世界標準単位は、このときの計測を元に決められています。
 つまり、事物を正しく測る行為とは、それを支配したい欲望に他なりません。時計による生活時間の統一もまた、労働時間の支配に必要なものでした。
 そうした計測による標準化は曖昧さを排除していきますから、それへの反動として、計測不可能な事物への愛着や称揚も始まっていきます。自然の賛美や、「愛」の絶対化などです。
 この絵本は、そうした近代の動きを、測るの大スキおじさんマクシマスに託して描いています。どう猛なライオンがマクシマスに測られることでおとなしくなる。でもマクシマスは眼鏡を無くし、測れなくなったとき、自然との交流に目覚めるというわけです。
 シンドラーのイラストもまた、遠近法が見えやすいような線を駆使し、測ることをの意味を明確に描き出し、同時に自然の風景を、近代絵画が発見したままに示します。(ひこ・田中)

『エイモスさんが かぜをひくと』(フィリップ・C・ステッド:文 エリン・E・ステッド:絵 青山南:訳 光村教育図書 2010)
 動物園で働いているエイモスさんは、いつも時間を見付けて動物たちとゆったりと付き合っています。ゾウとはチェス。カメとは駆けっこ。ペンギンには寄り添って。みんなエイモスさんの友達です。
 ところがエイモスさん風邪を引いてしまって動物園をお休み。
 心配した動物たちはエイモスさんをお見舞いに。
 色つけ木版画に鉛筆で輪郭を描き込んだエリンの画は、刷りによるぼかしと鉛筆による明晰さが程よくて気持ちの良い仕上がりです。(ひこ・田中)

『仕立屋のニテチカさんが王さまになった話』(コルネル・マクシンスキ:再話 足達和子:訳 ボグスワフ・オルリンスキ:絵 偕成社 2010)
 ニテチカさんは針の穴を通ることができるほどのやせっぽち。西に行けば王様になれると聞いて旅立ちます。冒険を経てたどりつき、王様になれる条件とは、雨を止めることでした。
 さて、ニテチカさんがしたこととは?
 ポーランドの民話を再話。
 荒唐無稽なお話をオルリンスキは、まるで見てきたように描きます。(ひこ・田中)

『ちっちゃくたって つよいんだ!』(マラ・バーグマン:文 ニック・マランド:絵 おおさかあきら:訳 ほるぷ出版)
 『ぜったいぜったい ねるもんか!』のコンビが送る、おやすみなさい絵本の2作目です。
 オリバーはお風呂にあんまし入りたくない。けど、勇気を振り絞って湯船につかると、泡は高波になって、大航海に出発だ!
 大きな波に驚いて、大きなクジラにびっくりして、でもなんだか段々勇気がわいてきたぞ。海賊船がやってきたけど、思い切りどなってやったら逃げちゃった!
 と、空想は次々拡がって、風呂の心地よさにいつのまにかウトウト。それを両親が回収して、おやすみなさい。
 前作同様、ニックの、青を基調にした原色の色遣いもほどよく、母親ではなく両親である点も、注意深い絵本です。(ひこ・田中)

『おやすみ、ぼく』(アンドリュー・ダッド:文 エマ・クエイ:絵 落合恵子:訳 クレヨンハウス 2009)
 おやすみ絵本。
 オランウータンの子どもが、ベッドに横になって、足先から口まで、自分の体に、今日はお疲れ様でしたとねぎらいの言葉をかけていきます。
最後の唇は、おかあさんのキス。で、おやすみなさい。
エマ・クエイの画は、ああこんな色使いもOKなのだと感心。そして、どうしてくれようかと思うほどかわいいです。(ひこ・田中)

『トムとことり』(パトリック・レンツ 主婦の友社 2009)
言葉が一切無く成立させた絵本です。
少年は、木に一杯吊された鳥かごから、お気に入りに一羽を買います。
大切に、大切に飼育するさまが、言葉がないだけに読者が読み込んでいけるようになっています。特に小鳥を飼った人ならとてもよくわかるでしょう。
でも少年は、鳥が籠にいることが幸せか? と感じ、鳥を空に放ちます。
さみしい時間。窓辺にその鳥が置いていったのか、羽根が一枚。
少年は夢の中、小鳥に乗って空を飛びます。
当たり前ですが、静かな絵本で、静かに入ってきます。
ただ、言葉がないだけに、その小鳥は、この地域の空に放してよいのかが(外来種だとかの問題です)妙に気になってしまいました。(ひこ・田中)

『いない いない いるよ』(近藤薫美子 アリス館 2010)
 感動的に細密な画の近藤が、画風を変えたのか? と思ったほど、シンプルな絵。だと最初は驚いたのですが、さにあらず。自然の風景の中に隠れている生き物たちを、上手に隠すための方法でした。いたずらっぽくて楽しいです。でもやはり近藤、隠す数が半端ではありません。見開きに四,五十の生き物が隠れています。
 みんな、探して、探して。(ひこ・田中)

『くさをはむ』(おくはらゆめ 講談社 2009)
 しまうま、ただひたすら草を食む。その日々が、時間が、ゆったりと流れていくさまが、計算されたリズムのなかで展開していきます。
 おくはらの画は手法は軽くないのですが、描き込むのではなく、その情景をクリップする感じによって、軽やかさを醸し出しています。(ひこ・田中)

『おいで、フクマル』(くどうなおこ:さく ほてはまたかし:え 小峰書店 2009)
 一つの命が生まれてきた意味を、世界が「ぼく」を呼んでくれたという喜びで表現しようとする作品。
 おとうさんは「ひとめぼれ」、おかあさんは「てつがくしゃのようだ」。ありさんも、小鳥も、雲も、空も、みんなが「ぼく」を呼んでくれた喜びに遊び回り、疲れて安心しきって地球に抱かれて眠り、また元気に遊ぶ。
 それはまさしく命の愛おしさを描いています。
 でも「ぼく」が人間ではなく子犬なのは何故でしょう?
 ほてはまが表現力豊かに描く子犬の表情が、子どものそれではなく、やはり飼い主を見る訴える目、すがる目、おねだりする目なのは、何故でしょう?(ひこ・田中)

『もしゃもしゃ あたまの おんなのこ』(サラ・ダイヤー:作 石井睦美:訳 小学館 2009)
 彼女はママに髪の毛をすかせない。すると小鳥がやってくる。これはなかなか居心地が良い。
 それでも女の子はママに髪の毛をすかせない。小鳥も鳥も、どんどん、どんどんやってくる。追いかけるママ、逃げる少女。
 カモから七面鳥までやってきて、ついにクジャクで、降参!
 仕付け絵本ではありません。娘とママの楽しい、楽しい大騒ぎです。(ひこ・田中)

『ふしぎなガーデン』(ピーター・ブラウン:作 千葉茂樹:訳 ブロンズ新社 2010)
 パリに「Promenade Plantee」という場所があります。これは元高架鉄道だったところを壊さずに、とてつもなく細長い公園にしていて、散歩にはうってつけ。高いところにあるわけですから階下の眺めも素敵です。
 そのマンハッタン版「ハイライン」ができるまでを、一人の少年の興味から始まった物語として仕立てています。
 美しい夢物語としてではなく、少年の地道な努力として具体的に描いているのが好感度高いです。
 画面構成もわかりやすく、アップは抑えて引き気味にしています。(ひこ・田中)

『さあ、ひっぱるぞ!』(ケイト・マクラクラン:ぶん ジム・マクラクラン:え さくまゆみこ:やく 評論社 2010)
 ちっちゃなタグボートの一日。その大活躍振りを、ケイトの文とジムの絵が活写します。
 ああ、こういう風にしてタグボートは何十倍、何百倍もある船を、係船まで持って行くのだ。というのが科学絵本でもないのによくわかります。タグボートと気持ちが一つになって、一緒に力が入ってしまう感じかな。(ひこ・田中)

『むしのかお』(新開孝 ポプラ社 2010)
 虫の顔のドアップ写真絵本ですから、虫嫌いの方は近付かない方がよろしい。虫好きの人はなめるようにご覧下さい。
「こんにちは!」や「やあ!」や「かっこいいでしょ?」などのコメントを読むと、本当にそう言っているように見えてくるから、人間の感性は当てにならなくて楽しいです。
 スミナガシって、本当に格好いいなあ。(ひこ・田中)

『コンスタンス、きしゅくがっこうへいく』(ピエール・ル=ガル:ぶん エリック・エリオ:え ふしみみさお:やく 講談社 2010)
『コンスタンスとミニ』の続編。今作では、いよいよ両親がコンスタンスをもてあまして、しつけの厳しい寄宿舎へ入れてしまいます。頭に来ている彼女。あんなにかわいい(ん? んん、カワイイ)、ネコのミニと逢えない寂しさ。
でもコンスタンスはちゃんと知恵を働かせますよ。(ひこ・田中)

『わ』(元永定正:さく 「こどものとも012」9月号 福音館書店)
 輪を伸ばしたりつるしたり、輪を並べて、輪を作ったり。「わ」という音と、色んな色の輪の表情で、リズムを刻んで渡し見ます。同時に輪の概念も。
 シンプルでいながら奥深く、楽しい優れもの。(ひこ・田中)

『おうじと たこと きょじんのくに』(牧野夏子:文 殿内真帆:絵 「こどものとも」09月 福音館書店)
 『キリンとアイスクリーム』で見事にこちらの関節を外してくれた牧野と、『とけいのあおくん』で過去から今へと、画をリフレッシュして届けてくれた殿内のタッグ作品。
 原話は中国の昔話だそうですが、今の時代を響かせるないようとなっています。
 王子は大きな大きな凧を作り、空へ上げるが糸が切れ飛んで行ってしまう。たくさんの兵隊と凧を探しに行く王子。巨人の所に落ちたと言うが、彼らにとって巨人と思えた人物に会うたびに、もっと大きな人がいると言われ、旅が続いていく。
 アイデンティティをまたまた牧野は脱臼させてくれました。(ひこ・田中)

『フェドーラばあさん おおよわり』(K.チュコフスキー:作 V.オリシヴァング:絵 田中潔:訳 偕成社 2010)
 チュコフスキー作品に、オリシヴァングが絵を付けた絵本。
 日本でのチュコフスキーはどうしても『2歳から5歳まで』の著者のイメージが強いですが、フクションの絵が来てとしての腕の確かさはこの絵本からもわかります。
フェドーラばあさんの家からカトラリーや什器や家具が逃げ出します。もういやだ、もういやだ、と。
おいかけるばあさん。という愉快な展開です。
二世代若いオリシヴァングは、逃げていく様を本当に楽しそうに描いています。フェドーラばあさんへの視線も優しい。(ひこ・田中)

『カフェバスくんが いく』(あんどうとしひこ:さく 「ちいさなかがくのとも」09月 福音館書店)
 カフェバスと言われても、まだ知らない子どもの方が多いかもしれませんね。しかもそれが「車+お店」であることは、やってみたい感を高めるでしょう。だって、おままごとの大人版みたいに見えるのですから。
 カフェもピザ屋も、イタリアンもフレンチも、最近では焼きドーナツもなんでもあります。
 あんどうは、絵画ではなくイラスト的な軽妙さを活かして、活き活きと描き出します。線が良いです。
しかし、まず最初に思い浮かべたのがロバのパン屋である私は、十分に年寄りですね。(ひこ・田中)

『こんた、バスでおつかい』(田中友佳子 徳間書店 2009)
 こんた、またまたおつかいであります。
 こんどは、赤いバスに乗れと言われたのに、青バスに乗ってしまって、それは妖怪村行だから、当然妖怪さまたちが乗っているわけで、満員になってきて、もう大変。
 次作も楽しみ、楽しみ。(ひこ・田中)

『新幹線と車両基地』(モリナガ・ヨウ あかね書房 2009)
 こういうのは、もうたまんないっすね。好きな子どもにも、よだれものでしょう。
 車両基地なんて、普段見られないところでの作業などがわかるのですから。
 N700系ですよ、あなた。もう、700が分解されとりますですよ。
 何を私は興奮しているのだろう。(ひこ・田中)

『このすしなあに』(塚本やすし ポプラ社 2010)
 欠片と化して、シャリに上に乗っている寿司ネタの元の姿は? という嬉しくなるほどわかりやすい発想の転換で見せる絵本。
 「このすしなあに」と見開きで勢いよく職人が握った寿司を出す画。次の見開きはその答え、の繰り返しでリズムもいいですね。
 繰り返しなんですが、「このすしなあに」での職人のポーズや画面構成は微妙に変えてあり、とても丁寧な作りです。
 しかし、しかし、子ども向け絵本で「うに」を出しちゃあ、いかん。子どもが「うに」を好きになったら親が困るではないか。
 昔、姪っ子が小さい頃、彼女、卵が好きだったので、「おっちゃんの卵と、そのうにを替えてあげよか」と言っていた最低の人間は私である。(ひこ・田中)

『ふしぎな動物たち』(大村次郷:文・写真 「たくさんのふしぎ」09月 福音館書店)
 大村が撮りためた世界の異形動物オブジェを集めています。魔除けであったり、支配の象徴であったり、用途は様々ですが、動物たちのキメラとしての形状が割と似ているのが面白いですね。肉食獣に猛禽類の翼。
 やはりその二種は、どの文化の人間にとっても畏怖の対象であったのが、子どもたちにも一目でわかります。
 人間の想像力の同一性に親しみを覚えること。案外これは、人間の想像力の雄大さに感動するより大切かもしれません。(ひこ・田中)

『うがいライオン』(ねじめ正一:作 長谷川義史:絵 すずき出版 2010)
 動物園のライオンくん。自分はライオンだから、ライオンらしくあらねばといつもがんばっているけれど、とうとう疲れて、わざとライオンらしくないことなどをしてみるけれど、それで受けすぎると、それもなんだか困ってしまって、またがんばってライオンらしくあろうとするけど、それだと受けなくなってしまって…。
 ねじめの「笑い」を長谷川がどう「笑い」絵に仕立てているかを堪能してくださいね。(ひこ・田中)

『ふねがきた!』(笠野裕一 福音館 2010)
 定期船が入ってくるページと出て行くページ以外は、停泊している船の場面に固定して、人の乗り降りやコンテナの積み降ろしの様を見えやすく描いていきます。
 簡単なことのようですが、動かしたいんだよね、つい。(ひこ・田中)

『かめだらけ おうこく』(やぎたみこ エースト・プレス 2010)
 もうタイトルまんまのお話。
 なにがすごいかというと、そう言ってもなんだかちっともわからないであろうこと。
 でも、まんまです。
 きいちゃんがネコに捕まっていたかめを助けます。
 助けたかめがお礼に連れて行ってくれるのが、かめだらけ おうこく。ここは、木も鳥も水たまりもみんなかめなのであった。
 ああ、どうしましょう!
 やぎたみこのユーモアあふれる想像力に乾杯!(ひこ・田中)

『はるばるえんの あたらしい ともだち』(戸田和代:作 村田エミコ:絵 すずき出版 2010)
 村田エミコの木版画が良いですね。
 カバの幼稚園に新しく入ったカバオくん、でもなんだか元気がない。という、新入学の不安を描いた物語ですが、カバオくんの不安を戸田は実にわかりやすい表情をつけて描き出します。どうしても木版画はどっしりとしてしまうのですが、柔らかい線だから優しい画になるのですね。(ひこ・田中)

『いつまでも そばにいてね』(エリサ・ラモン:作 ロサ・オスナ:絵 星オキラ:訳 ひさかたチャイルド 2010)
 子どもが死と向かう系統の絵本。最近多いですね。
 子リスのロハは母親を亡くします。大切なマフラーを握ったまま、ロハは悲しみを繰り返します。そこから少しずつ回復する様を描くのは、「死」を巡る物語のスタンダードな展開です。
 パパがロハにどう話かけ、どうすくい上げていくか読みどころ、見所。
 「死」を巡る物語が子どもに提供されることは良いことです。
ただし、この絵本がそうだとは言いませんが、そうしたテーマが大人の癒し、号泣のためにだけ使われるのではないかと気がかりです。(ひこ・田中)

【ノンフィクション】
『私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった』(サラ・ウォリス&スヴェトラーナ・パーマー:編著 共訳 文藝春秋 2010)
 第二次世界大戦当時の連合軍と枢軸国十六人の若者の手記によって構成された、セミドキュメント。同時代を生きている若者が、別の場所、別の立ち位置でこの戦争のただ中、何をどう考えていたかが、伝えられます。
 日本語訳は、各国語からの直訳にするため、現在一線にいる訳者が結集しました。
 映画にして欲しいなあ。(ひこ・田中)

【児童文学評論】 No.150 Copyright(C), 1998〜