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西村醇子の新・気まぐれ図書室(3) ――「むかし」を訪ねるさまざまな方法──

 あっというまに2013年も終わろうとしている。年末特大号となった今回の原稿は、途中で中断していたせいで気が抜けた箇所もあるが、そのへんはお目こぼしを。 
某局の番組中に、特定の表現が通じる世代と通じない世代があることに注目し、世代間の境界を意識させるミニコーナーがあった(もっとも最近は見かけない)。印象に残ったのは、ズボンやスカートを「寝押し」するという言葉だ。筆者から見ればなんの変哲もない表現と思ったが、現にこれが通じない世代が存在していた。
「寝押し」は敷布団の下にスカートやズボンを置き、一晩眠っている間に折り目やひだをよみがえらせる手軽な方法だった。うろ覚えだが、同番組中の解説によると、洋服の生地の変化(昔はアイロンをかけすぎると、生地がてかてかする、つまり光ってしまう特性があった)や、プリーツ加工そのほかで折り目やひだの保持が容易になったことに加え、人々の生活様式が変わり、ベッドが普及したこと、そのためベッドではできない寝押しという表現も忘れられたようだという。
表現に一種の寿命とか、賞味期限があることは、文筆に携わる者なら誰もがひしひしと感じていることだろう。手前味噌で恐縮だが、今年の春に出版された徳間文庫版のダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』および『アブダラと空飛ぶ絨毯』も、訳文を見直し、もはや通用しなくなっていると思われた表現などを修正した。もっとも、「シャッポを脱ぐ」つまり、自分より優れていると認めた相手にシャッポ(帽子)を脱いで敬意を表す動作表現だけは、残した。死守(!?)したおもな理由は、物語中でハウルがソフィー・ハッターの苗字、帽子屋にかけて口にしていたからだが、廃れたからといって、なにもかも排除することにちょっぴり抵抗したいというのもあった。排除を続けていくと、どうなっちゃうのか。
 それはとりもなおさず、昔の生活に由来する文化芸能が、そのままでは通用しにくい状況にあるということだろう。言葉が通じなければ、面白さは半減どころか、まったく見向きもされない可能性すらある。
 本題にはいろう。まずは古典芸能とどう向き合うか。歌舞伎を題材とした嶋木あこ作のコミック『ぴんとこな』(小学館)は、2013年7−9月期に全10話でテレビドラマ放映された。物語は歌舞伎界の若手役者――名門御曹司の息子と、養成所出身の若者ふたりを対照させ、そこに歌舞伎に詳しい女の子を絡めた<恋ばな>で、ドラマでは玉森裕太や中山優馬、川島海荷らが演じていた。2010年に始まった原作のシリーズは2013年現在10巻まで刊行されている。でもドラマ終了とともに、筆者のコミックへの関心は半減している。興味を持続できなかったのは、やっかいな人間関係を描く原作のストーリー展開にあまり共感できなかったこともあるが、肝心の歌舞伎世界への紹介としては物足りなかったこともある。いうなら、部外者が歌舞伎の板(舞台)を見上げている感じで、深く世界に引き込まれるに至らなかった。
それに比べると、ライトノベルに属する、榎田(えだ)ユウリの『カブキ!』(角川文庫)には強く惹きつけられた。主要登場人物が歌舞伎を痛いほど熱く語るこのシリーズは、1冊目が2013年8月、2冊目は10月に発行されている。高校一年生の来栖黒悟(くるす・くろご)は歌舞伎好きの祖父の影響を受け、高校で大好きなカブキを自分たちで上演したいからと、部の設立を狙う。
 来栖とその幼馴染で親友の村瀬が最初にぶつかる関門は、「高校生にかぶきは無理」という周囲の偏見で、それと闘いつつ、部を立ち上げるのに必要な部員や顧問集めなくてはならない。結局、「部」ではなくカブキ同好会に落ち着く。そして二人に誘われてメンバーとなる高校生は、元金髪ロッカーから演劇部のスター、日舞の家元の息子…と多彩だが、それぞれに屈託を抱えていた。来栖や歌舞伎と関わることで、彼らが明確になったおのれの屈託を乗り越えていく展開は、正統的な青春成長小説だ。
もうひとつの魅力は、上演にこぎつけるまでのプロセスの面白さである。適材適所を心がけ、歌舞伎について知識もなければ関心もない観客(高校生)を相手に、どうやれば歌舞伎をわかってもらえるか、という困難な課題をクリアしようと、必死に知恵をしぼり、工夫を重ねている。それが、伝統芸能を漢字ではなく、カタカナで「カブキ」と表記している意味でもある。
 このシリーズにたいして不満があるとすれば、通常なら各巻ごとのクライマックスで終わりそうな箇所で肩透かしされ、微妙に次につながっていることだ。2014年夏に刊行されるらしい3巻目が待たれる。
 さて、「過去」という素材を現代に活かす方法をめぐって。最近、授業でローズマリ・サトクリフの歴史小説『第九軍団のワシ』などを取り上げる機会があった。紀元2世紀ごろ、古代ローマに支配されていた時期の英国ブリテン島というのは、想像も及ばないほど昔に感じられるだろうし、学生がどこまで共感を寄せられるのかと思っていた。しかし、授業後のコメントをみると、歴史をどちらの側に立ってみるかで「正しさ」が反転してみえることに気づいた学生がいたし、学生の多くが人間ドラマとして受け止めていることもわかった。
そういえば、一般読者を対象とし、映画化もされたヤマザキマリ作のコミック『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン、全6巻)もまた、タイムスリップを通し、風呂文化にかかわる西暦130年頃の古代ローマ世界人と現代人を交流させ、ふたつの世界を関連付けていた。過去を身近にさせられるかどうかは、作者の工夫次第というわけだ。もっともこのコミックでは、過去と現代を行き来する現象がどうして起きるのかについては終始あいまいなままで、装置を使う「タイムトラベル」ものとはなっていない。
 これにたいし正統派のタイムトラベルものといえるのが、ケルスティン・ギア作の「時間旅行者(タイムトラベラー)の系譜」3部作(遠山明子訳、東京創元社刊)だ。1冊目『紅玉(ルビー)は終わりにして始まり』(2013年2月)、2冊目『青玉(サファイア)は光り輝く』(同5月)、3冊目『比類なき翠玉(エメラルド)』(同8月)はそれぞれ320頁、340頁、406頁と分厚い。ヤングアダルトを離れて久しい筆者には、恋愛問題でたえず一喜一憂するヒロインについて行かれない箇所もあり、いったんは挫折しかけた。また筋が複雑なので読むのには覚悟がいるが、謎解きの要素に惹かれて読み進めることができた。(最後まで読んでから改めて読み返す羽目になる、筆者のような読者もいるだろう。)
物語は、女子高生グウェンことグウェンドリンが16歳のある日、タイムトラベルを体験して焦るところから始まる。いきなり経験する羽目になったのは、娘を守ろうという母親の思いが裏目に出たもの。母親が周囲にほんとうの誕生日を偽った結果、同居する親族をはじめ関係者はみな、グウェンより一日早く生まれた(と思われていた)いとこシャーロットこそがタイムトラベラーの遺伝子を受け継いでいると考えてきたのだ。だからさまざまな準備をしてきたのはいとこであり、グウェンは心の準備はおろか、知識や習慣といった予備知識もなく、某組織の活動に巻き込まれてしまう。そして知りたいことはほとんど教えてもらえず、誰の言っていることが正しいのか、親友の助けを借りて、真実を見つけようとする。それは、もし自分を含む12人のタイムトラベラーの血がクロノグラフに読み込まれたなら、周囲のおとなが言うように世界を救うことに繋がるのか、それともある人物の野望に利するだけなのかということだった。謎めいた予言の解読では、携帯電話やネットを駆使して、親友レスリーが手助けする。いっぽう、グウェンのタイムトラベルのパートナーでハンサムな大学生のギディオンとは、一族との代々の確執もあり、ふたりの恋愛問題の先行きはなかなか見えてこない。
物語世界で読者を楽しませてくれるのが、訪問のためにスタッフによって時代考証されて用意される、豪華な衣装の数々だ。素材だけは、現代のものを使って、コルセットなどを着やすくしているという。歴史や風俗にかんする予備知識の少ない英国の高校生に、英国とヨーロッパの歴史的つながり、さらには女性蔑視を含む過去の価値観を意識させるには、タイムトラベルは有効だと、つくづく思う。ドイツの作家が英国を舞台にしたことは不思議な気がしないでもないが、グウェンが通う高校に居ついている18世紀の幽霊や、教会のガーゴイルといった超自然的生きものはロンドンという舞台によく似合う。
つぎの本は松本祐子の『ツン子ちゃん、おとぎの国へ行く』(小峰書店、2013年11月)。年齢は一挙にさがり、小学3年生の女の子が満月の夜に訪れたおとぎの国での冒険を語った作品。おとぎの国で女の子は「3びきのくま」や「ヘンゼルとグレーテル」といった昔話をはじめ、過去のさまざまな作品や場面を連想させる登場人物やできごとを経験する。それまで正しさだけを振りかざすような、尖った態度のせいで、「ツン子」という不本意なあだ名をつけられていた女の子は、このおとぎの国で無我夢中で行動するなか、他人のことを心配したり、その気持ちを考えるような子どもへとちょっぴり変わる。有名作品へのオマージュいっぱいの作品からは、(作中に引用があるわけではないが、)メーテルリンクの『青い鳥』の舞台世界といった印象を受けた。
松本祐子の作品は、過去の昔話や児童文学、文化の影響をじゅうぶん感じさせるものだった。上橋菜穂子の場合は、『物語ること、生きること』(講談社、2013年10月)まるごと1冊かけて、物語作家の素顔というか、作品世界の裏側を明かしている。
「どうやったら作家になれるのか」「どうやって話が生まれてくるのか」という読者の問いに真摯に答えるためにまとめられたこの本で上橋は、幼いころにまでさかのぼって、その体験と物語や読書との出会い、また、仕事や人との出会い体験、そのおりおりに考えたことを語っている。この本の読みやすさは、内容の軽さとは無縁だ。たくさんの引き出しをもち、また上手な上橋の語りを再構成して1冊に仕上げたインタビュアー、瀧春巳氏の腕もまたよかった(と、読めばわかる)。
どこをとっても興味深いエピソード満載ではあるが、今回の図書室にぴったりだと思った箇所を最後に紹介し、締めくくるとしよう。それは作家と文化人類学者の二足のわらじをはくようになったいきさつである。サトクリフの『第九軍団のワシ』に触発され、歴史小説を書きたいと考えていた上橋は、史学科でギリシャ史を学べば、はるか昔の匂いや光、空気の質感までもが描けるようになると期待していた。ところが、日常生活について質問をぶつけた教授の答えは、ギリシャに留学し、古代ギリシャ語まで勉強した暁には知りたいことに関する資料がみつかるだろう、というものだった。それを聞いてアレキサンダー大王を描く歴史小説を諦め、挫折を味わった上橋は、「知識と知識を単純につなぎ合わせるだけでは、過去に生きた人たちの、本当の現実には至れない」と気づく。そして当初の目的を見失ったかわりに、文化人類学に興味を抱く。「すでに書かれてしまった文献で歴史を学ぶのではなく、いま、生きている人間と触れ合うこと」。文化人類学のフィールドでそれを体験し、自分を形成した上橋は、やがてそれを創作にもつなげたのだった。
ではみなさま、また来年に。

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以下。ひこです。
【児童書】
『14歳、ぼくらの疾走』(ヴォルフガント・ヘルンドルフ:作 木本栄:訳 小峰書店)
 クラスでいじめられるでもなく、つまらない人として扱われているマイク、14歳。そこに転校してきた風変わりなチック。学校では完全な問題児としてある彼がなぜかマイクに近づき、親しくなる。そして二人はチックが盗んだ車で(もちろん無免許だ)旅を始める。それは、無謀な行為なのですが、そこで現実のリアルさをようやく手にする彼らの気持ちは、多くの若者の共感を呼ぶでしょう。
 私自身は、「おいおい、無茶だよそれは」と思いつつ、ちょっと嫉妬したのでした。

『テラプト先生がいるから』(ロブ・ブイエー:作 西田佳子:訳 静山社)
 新任教師テラプトと生徒たちの日々を、一つの視点ではなく次から次へと生徒一人一人の言葉で綴っていきますから、人間関係の変化が当事者同士の問題として描かれていきます。
 そのためテラプト自身は前面に出てこず、彼は生徒たちをほんの少し押してあげるだけで、生徒自身の心が動いていく様子がリアルです。
 もちろん、これは理想の教室ではあるのですが、その理想から現実を照射すればとても役立ちます。

『いろいろのはなし』(グレゴリー・オステル:作 毛利公美:訳 東宣社)
 メリーゴーランドの木馬たちに毎日お話をしてあげている園長。とうとう最後の話になりました。
 残念がる木馬たち。そこで最後の話の登場人物たち一人一人について細かに尋ね始める木馬たち。すると話の枝葉がどんどん分かれていき、絡まっていき、果たしていったいどうなるのか?
 木馬たちが聞きたいエピソードを次々とシフトして語っていく様は、まさに子どもへに寝物語そのものです。そして一見行き当たりばったりな展開がやがて物語として形成されていく喜びを味わってください。

『ゾウと旅した戦争の冬』(マイケル・モーパーゴ:作 杉田七重:訳 徳間書店)
 モーパーゴは『戦火の馬』もそうですが、戦争に動物を配置することで、人間をより明確に描いていきます。本作の舞台はドレスデン。戦争末期、ドイツ一美しいとされたこの町は数日間の空襲で焦土と化します。
 老人ホームで暮らすリジーはいつも、ゾウと暮らしたことがあると言う。看護師の誰もがそんなことは信じない。老いによる妄想だと思っています。
 ところが一人の看護師の息子カールはそれを信じます。
 やがてリジーは心を開き、カールとその母親に、ゾウと暮らした顛末を語り始めます。
 ドレスデン空襲から逃げ惑う被害者としてのドイツ国民の姿を描いています。果たして子象の運命は?

『悪い子のすすめ』(グレゴリー・オステル:作 毛利公美:訳 東宣社)
 子どもは大人の言うことに逆らうので、悪い子になるように勧めれば、いい子になるのではないかということで書かれた警句集。
 という仕掛けは子どもにもわかるようになっていますから、本気でいい子になるようにもっていこうとしているわけではなくて、世界の幅を子どもにも示すための戦略です。
 特に政治的問題に対しての警句はなかなか強烈です。

『マッティのうそとほんとの物語』(ザラー・ナオウラ:作 森川弘子:訳 岩波書店)
 フィンランドの湖の畔で、大きなトランクを置いたまま、これから言って移動すればいいのかわからない家族。わかっているのは、こんな事態になったのは「ぼく」の小さなうそのせいだってこと。
 マッティは無口なフィンランド人の父親とドイツ人の母親、弟と4人家族。バスの運転手をしている父親は携帯ゲームの開発を夢見ています。フィンランドから兄が遊びに来たとき、彼が社長になると聞いたのでライバル心から、ノキアに雇われてスイスの湖畔に家を提供されたとうそをつく。てっきり信じたマッティは学校でも発表し、転校手続きの書類まで持って帰ります。そんな親に頭にきていたマッティは、母親が応募した、家が当たる宝くじが当選したように装うのですが・・・。
 よく考えてみればものすごく深刻な事態に追い詰められていく一家なのですが、妙におかしいのは、大人たちの意地の張り合いなどの方が子どもじみていることと、まあ、たぶんなんとかなるのではなかろうかって雰囲気(これは作者の腕)が常に漂っているからでしょう。

『レッド・ドラゴン号を探せ!』(ジェームズ・A・オーウェン:作 三辺律子:訳 評論社)
 前作『インディゴ・ドラゴン号の冒険』で、主人公の三人が、あの三人だとわかってしまったので、続編はどう展開できるのかしらんと、心配していましたが杞憂でした。
 わかっている三人は、その内面を深く描き、後の大きな仕事へのヒント(あくまでフィクションですよ)がちりばめられています。
 バリとピーター・パンの関係も、パンの笛も、笛吹き男も、オルフェウスも、ロジャー・ベーコンも、みんなみんな絡んできて、「なるほど、そうだったのか!」(もちろんフィクションですよ)とうなりつつ、物語まみれになれます。

『花びら姫と ねこ魔女』(朽木祥:作 こみねゆら:絵 小学館)
 タイトルを一見して、姫と魔女ですから、たとえばディズニーアニメの眠り姫や白雪姫的な展開を創造される方もいらっしゃるかもしれませんが、さにあらず。姫が魔女となっていき、魔女がどのようにして姫として自分を、それも新たな自分を取り戻すかの物語です。
 物語のおもしろさに関してはお読みいただくとして、眠り姫や白雪姫のような物語が女性を善(姫)と悪(魔女)に分断することで、王や王子が実権を握ったのに対して、この物語がそうはなっていない点にも注目してよいと思います。

【絵本】
『このフクロウったら! このブタったら!』(アーノルド・ローベル:作 エイドリアン・ローベル:彩色 アーサー・ビナード:訳詩 長崎出版)
 ローベルの未刊行作品にエイドリアンが彩色し、アーサー・ビナードが日本語として愉快に訳した作品。
 どの絵もローベルが楽しんでいつのが伝わってきますし、訳者もまた大いに楽しんでいますから、もちろん読者も楽しめますよ。

『犬になった王子 チベットの民話』(君島久子:文 後藤仁:絵 岩波書店)
 王子は民のために蛇王が持っている麦という穀物の種を奪いに出かける。しかし蛇王に見つかり、彼は犬の姿に。自分をこの姿でも愛してくれる人が現れるまで、犬のままです。
麦の入った袋を首からぶら下げた犬はある貧しい村にたどり着きます。そこには3人の娘がいて、末娘は犬をかわいがり・・・。
シンプルですが、ダイナミックな展開の物語が、後藤の凜とした日本画で描かれています。どの場面もすばらしい構図と色調で、うっとりです。

『よるのとしょかん』(カズノ・コハラ:作 石津ちひろ:訳 光村教育図書)
 きました! カズノ・コハラの新作です。
 カリーナと三羽のフクロウが働く、よるのとしょかん。たくさんのどうぶつがやってきて、読書を楽しみます。もちろん、いろんなことが起こりますよ。
 子どもたちが自分のぬいぐるみを図書館に預けて、ぬいぐるみが夜の図書館に一泊するという楽しい企画が広がっていますが、そうした意外な喜びを、この絵本は本物の動物で楽しく実現しているかのようです。
リノリウム版画による、柔らかで優しいラインは、何度見ても本当に心を温めて、幸せな気分にしてくれます。
人も動物も、その仕草はしっかりとリアルでありながら、どこかに漂う浮遊感がウキウキ心を誘発します。

『あかい ほっぺた』(ヤン・デ・キンデル:作 野坂悦子:訳 光村教育図書)
 「わたし」は何の気なしにトムのほっぺたを指さして「へんなの。まっかだよ」と言ってしまう。そしてそれが、パウルを中心としたいじめへと発展していく。
ちょっとしたからかいが、いじめを誘発するのは、元々学校が内包している集団構造に加えて、社会全体に緩やかなつながりが喪失し、集団に入れるか外されるかになってしまっていることの反映もあります。
この物語は、いじめが簡単に発生してしまう様子と、そうであるが故に実はちょっとした緩やかなつながりを信じられればそれは排除できるところまでを描いていて、見えやすくていいですね。
登場する子どもたちの視線の描き方も巧いです。
『あの子』(ひぐちともこ エルくらぶ)とともにどうぞ。

『ぼくは』(藤野可織:作 高畠純:絵 フレーベル館)
 ぼくはミルク。ぼくは君が好き。君もぼくが好き。でも君はぼくを飲んでしまう。という繰り返しの後、本が出てきて、果たして本とぼくとの関係は?
 「物」の時代を、絵本の展開で、あっさりとひっくり返してくれる藤野の腕に脱帽。ぜひぜひ、これからも書いてください。

『江戸のお店屋さん』(藤川智子 ほるぷ出版)
 小間物屋、薬種屋、菓子屋など、江戸時代のお店を詳しく解説。店舗に軒先から店内、そして商品に至るまで。いや〜、おもしろいです。
 行商人まで触れているのが、なおうれしいです。
 明治で途切れてしまった文化風俗との出会いですね。

『祈りのちから 東大寺大仏縁起絵巻より』(寮美千子:文 長崎出版)
 『生まれかわり』に続く絵巻の後半部の一部を使った絵本化です。という言い方をするより、このようにして絵巻は語られてきたのだろうと、寮の想像力によって私たちは導かれます。
 表紙カバーから解説・資料まで丁寧に作られています。
 以前にも書いたかと思いますが、こうした作業で現代に、絵巻を身近な物にしていくことの大事さを寮は教えてくれたのです。
 ヨーロッパの教会にあるルネッサンス以前、中世の宗教がたちもこんな風に絵本化されたらいいのになあ。

『こんなかいじゅう みたことない』(藤本ともひこ WAVE出版)
 かいじゅうの両親は困っています。だって、我が子は絵本が好きだわ、部屋はちゃんと片付けるわ、靴はそろえるわ、ぜんぜんかいじゅうっぽくないんです。
 そこで両親は考えました。そうだ人間の子どものいる保育園へ入れよう!
 いますいます、保育園児という、かたづけない、服も汚す、かいじゅうが。
 そうして、かいじゅうのこどもは?
 藤本さん、展開が巧すぎ。絵の変化もいいです。

『ショベルカーがやってきた!』(スーザン・ステゴール:作 青山南:訳 ほるぷ出版)
 コラージュで作られた働く車絵本です。建物が変わられ、整地され、家ができ、引越が始まるまでを描いていきます。
 ドローでは出せない素材そのものによる質感がやはり魅力で、コラージュのおもしろさを伝えてくれています。

『チャーリー、おじいちゃんに あう』(エイミー・ヘスト:ぶん ヘレン・オクセンバリー:え さくまゆみこ:やく 岩波書店)
 子犬のチャーリー、新作です。
 ヘンリーはチャーリーとおじいちゃんを迎えに駅まで出かけます。実はおじいちゃんは犬はちょっと苦手。さて、チャーリーとおじいちゃんはどうなるでしょう。
 雪の積もった駅で展開されますから、余計に暖かい絵本です。

『よふかしにんじゃ』(バーバラ・ダ・コスタ:文 エド・ヤング:絵 長谷川義史:訳 光村教育図書)
 アメリカに忍者の絵本があるとは知らなんだ。原題は『NIGHTTIME NINJA』。忍者の行動時間はだいたい、そうでしょうが。というとことが、この話のツボ。で、「よふかし」と訳した長谷川のセンスもいいですね。
 懲ったコラージュをお楽しみあれ。

『おひるねけん』(おだしんいちろう:作 こばようこ:絵 教育画劇)
 ネルくんはおもちゃやさんで売っている「おひるねけん」を買いました。これを使うと、車の上でも、ベッド屋さんのベッドの上でも、ウエディングケーキの上でも、どんなところでもお昼寝ができます。
 いいなあ、この発想。
子どもたちが、いや大人たちも毎日お昼寝ができるようになったら、社会はもう少し柔らかくなるかもしれません。

『クッキーひめ』(おおいじゅんこ アリス館)
 クッキーの王様たちは娘をほしがり、クッキーでお姫様が作られます。それから、おもちゃやお皿や、必要な物が次々クッキーで焼かれ、お姫様は妹もほしがります。そこで、お姫様も一緒にクッキーの材料をこねて、次から次へと妹が・・・。でも大丈夫。おもちゃもお皿もまた焼けばいいんですもの。
 クッキーがクッキーを焼いていくのが楽しいなあ。

『よーし、よし!』(サム・マクブラットニィ:文 アイヴァン・ベイツ:絵 福本友美子:訳 光村教育図書)
 子グマのハンシは元気いっぱいに遊び回ります。ですから怪我もする。でも、おとうさんもおかあさんもいるからね。もっと、もっと、元気で遊んでね。
 おとうさんだってけがをすることがあるけど、ギュッを抱きしめ合えば暖かになって大丈夫。

『ドズワースの世界めぐり ニューヨークぐるぐる』(ティム・イーガン:作・絵 まえざわあきえ:訳 ひさかたチャイルド)
 『ピンクのれいぞうこ』で人生の楽しみ方を教えてくれたドズワースが、旅行を計画。ニューヨークへ出かけたはいいが、アヒルのダッくんが付いてきて、迷ってしまったからニューヨークをぐるぐる。そしてそれだけにとどまらず最後は、お〜いどこまで行くんだ。

『ビックリ3D図鑑 恐竜』(カールトン・ブックス:編 スタジオアラフ:訳 岩崎書店)
 『ビックリ3D図鑑 宇宙』とともに発刊。
 タブレットやスマートフォンに無料アプリをインストールして、画面の指定された部分をそれで見ると立体化されます。
 私は、『宇宙』の方がどきどきしましたが、恐竜も結構怖いです。
 今後、こうした絵本も出てくることでしょう。ただ、ときどき同じアプリの有料版を薦める掲示が出るのはいかがなものか? 子どもはOKを押してしまいそう。

【ノンフィクション】
『ぼくたちは なぜ、学校へ行くのか。』(石井光太 ポプラ社)
 マララ・ユスフザイさんの国連演説抄訳と、石井の言葉で構成されています。
 子どもを教育したくない大人。したくてもできない貧困。政治。女の子を教育したくない思想。そうしたものが世界中の子どもを学校から遠ざけています。いや、学び、考え、想像することから。
 

『戦争がなかったら 3人の子どもたち10年の物語』(高橋邦典 ポプラ社)
 『ぼくの見た戦争』、『戦争が終わっても』(ともにポプラ社)で、戦場を生きる子どもたちの姿を伝えた高橋による、リベリア内線から10年、彼らの日々を綴ったドキュメントです。少年兵にされたモモとファヤ。右手を失ったムス。アメリカ人家庭の養子になったものの、戦争によるPTSDに苦しみ続けているギフト。
 戦場で、つまりは死と鉢合わせをする現場で偶然巡り会った子どもと、戦場カメラマン。
 ここに描かれているのは、厳しい現実をカメラマンの目で見てきた報告書ではなく、戦場カメラマンとなることを選んだ高橋自身が、子どもたちのその後と10年間かかわりながら、自分の生き方を常に問い直していく、誠実さにあふれた心の記録です。
ですから、戦争とはいつも「絶対なる悪」だと信じているという高橋の言葉は本物として届きます。そして、戦争に巻き込まれた子どもたちとの記憶が、日本が今、「戦場に行ったこともなく、その悲惨さを知らない人々が、戦争への道のりを国民に歩かせているように見える。それをぼくはおそろしく思わずにはいられない」と書かせるのです。

『映画にもTVにもなった ファンタジー・ノベルの魅力』(井辻朱美:編 七つ森書館)
 タイトル通り、映像化された作品を集めた解説本です。映像化は当然のことながら原作とは別物になりますし、映像化された物の方がよく知られることも多い。それを踏まえて、児童書を問い返すための資料。
映像化は、昔話なら付け加えられますし、原作本がある場合は、主に削除が行われ、時に追加されます。そうした違いを分析することで、制作者の意図や、時代の要請が浮かび上がってきます。この本はあくまで解説ですので、そこまでは踏み込んでいませんが、そうした作業をするための基礎としては使えるでしょう。
私も、まだ見ていない映画がいくつかありました。

『猫語のノート』(ポール・ギャリコ 西川治:写真 灰島かり:翻訳 筑摩書房)
 ギャリコといえば猫。猫といえばギャリコですが、いかん。これはいかん。猫の言っていることがみんなわかってしまうではないか。私だって、かなり猫語をわかっているつもりでしたが、やはりギャリコには遠く及びません。猫を飼おうか迷っている方、これをお読みください。気がつけば猫がそばにいますから。
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