195

       

☆以下、三辺律子です。
『「死」の百科事典』 デボラ・ノイス著、 千葉 茂樹訳、荒俣 宏監修 あすなろ書房
 「死ぬのって、きっとすごい冒険なんだろうな」と言ったのは、永遠の少年ピーター・パン。そのセリフと死神の絵で幕が開ける本書は、死に関する古今東西のテーマを集めた異色の「百科事典」だ。
 項目の選び方が面白い。Aの欄だけでも、「暗殺(assassination)」の次に「無神論(atheism)」がきたり、「護符(amulet)」があると思えば、「検死解剖(autopsy)」が出てくる。死や魂の象徴である「鳥」の項目では、エジプトやアステカの伝承が紹介された後、ハゲワシの減少によりインドの風葬の習慣が廃れつつあること、ハゲワシの減少は解熱剤を飲んだ死体が原因であることまでもが記される。
 エジプトの「死者の書」、未婚のまま死んだ若者のために行うルーマニアの「死の結婚式」、古代メソポタミアの時代から綿々と続く不老不死への渇望、ハロウィーンからユダヤのシバに至るまでの様々な儀式。死に関連するテーマのいかに多いことか。
さらにアメリカで起こった殺人事件の動機の26.1%が三角関係など恋愛の口論がきっかけであることや、詩人のロセッティが妻と共に埋葬した詩を取り戻したくなって、墓を掘りかえしたこと、遺体コレクション市場では、頭がい骨、目、指、脳、血が人気で、「大統領、映画スター、ナチス党員、犯罪者」のものが高価であることなど、死にまつわるトリヴィアも、ついつい読みふけってしまう。
ふつうは調べ物に使う百科事典だが、本書は幅広い項目が純粋にアルファベット順に並べられているため、一見?がりのない知識が次々提示され、読み物のように飽きることなくページをめくってしまう。一冊を通読したあと、ひしひしと感じるのは、誰も経験したことのない死に対し、人間が巡らせてきた想像の豊かさだ。人間の想像力をもっとも刺激するのが死であることは当然と言えば当然だが、そこから生み出されたあらゆる宗教や儀式、芸術から日々の些細な習慣までが生を成立させていることに、改めて思いを馳せずにいられない。(翻訳家 三辺律子) 2014.5.11 産経新聞掲載

追記:この本はタイトルを見たとたんに開き、読み始めたら最後、やめられなくなって、かなりの大きさのある本なのに通勤電車にまで持ち込み、前の席の人に変な目で見られた(タイトルのせいだと思う)。今回の「死」はどまんなかだし、「魔女」とか「呪い」とか「幽霊」とか「海賊」とか「龍」などというキーワードに、わたしは弱い。よく「三辺さんって魔女とか海賊のイメージ」と言われるのも、そんな本ばかり訳しているからだと思う(まさか、見た目じゃないよね?)。
 そのうち、「三辺さんは女子(ガールズ)物とか恋愛小説ムリ」とかいうデマ″まで飛び交うようになった(言い出した犯人は某編集者で、うらんでいる)。でもまあ、たしかに、そもそも今まで訳した本は圧倒的に男の子が主人公の作品が多いし、恋愛を扱ったものにいたっては数えるほどしかない。それも、主人公が呪いをかけられていたり(『さよなら「いい子」の魔法』、幽体離脱してたり(『ミアの選択』)、近未来の荒廃した地球の奴隷女闘士だったり(『ブラッドレッド・ロード』)、恋愛小説″というよりはファンタジーだったりSFだったりする。
 先日も、歌会でめずらしく恋愛の歌を作っていったら、みんなに怪談短歌だと「誤読」された・・・。
 
 そんなわたしに共感(?)してくださる方もしない方も、ぜひぜひこの本は手にとってほしい。「死」といえば、わたしの原体験は植木屋の山さんだったわけだが【*2013/03/25児童文学評論181参照】、子どもはみな、一度は「死んだらどうしよう」とか「死んだらどうなるんだろう」と、死に畏怖したことがあるのではないか。一冊を読み通すと、その「死」への畏怖こそが、生者の世界のありとあらゆるものを生み出してきたということを、改めて実感できる。加えて、書評にも書いたように、死にまつわるトリヴィアがまた面白い。バラ色の恋愛もいいけれど、たまにはダークな死の世界もいかがでしょう? (三辺律子)

以下、ひこです。
【児童書】
『15の夏を抱きしめて』(ヤン・デ・レーウ:作 西村由美:訳 岩波書店)
 語り手のトーマスは自動車事故ですでに死んでいる存在です。彼は遺された人のその後を見ているのですが、恋人だったオルフェー、ママ、おじいちゃんには、彼の存在が見え時に会話も交わします。彼らはまだトーマスの死を受け入れられないでいるのです。
 ですから、他の人からすれば、彼らの言動は奇妙な物に映ります。とても親しい人の死は忘れ去ることも、その痛みを乗り越えることも難しい、というか、受け入れることしかできません。
受け入れがたいことを受け入れる過程で抱く思いの集中力の強さ。
この物語はそこに焦点を当てて、3世代3人の心を私たちに語っていきます。
 結果、彼らの人生と思いがしっかりとした輪郭で浮かび上がってくる。
 親子、恋人の愛憎。語ることで癒やされること。物語の力に取り込まれる姿。
 邦題からイメージするほど甘いYA作品ではありませんが、トーマスの祖父から恋人まで、年齢が違っても抱えているYA心(踏み出す前の心)が痛いほど描かれていますよ。

『負けないパティシエガール』(ジョーン・バウワー:作 灰島かり:訳 小学館)
 母親の恋人が暴力男で、一緒に逃げ出したフォスター。彼女の夢はパティシエ。その才能はあります。が、彼女は失読症であり、そのことで心に深い傷を負っているために、克服するより問題から逃げてしまいます。
 でも、やっぱり、お菓子作りの腕はいい。レシピは読めないけれど。
 そんなフォスターがまっすぐに夢に向かう姿が描かれています。
 人を幸せにするお菓子を作れるフォスターは幸せになれるかな?

『クリオネのしっぽ』(長崎夏海 講談社)
 中2の物語です。
 美羽の両親は父親が浮気で別居しており、母親の精神は安定していません。ミウは母親を気遣いながら中学生活を送っています。一年生の時水泳部に属していましたがいじめにあいます。ついに、キレて彼女たちに怪我を負わせてしまい、今では怖い女とみなされ、友人だったはずの真帆とも疎遠。唯一変わらぬ距離で接してくれているのは唯だけ。
 ミウは、中学生活をこのままやり過ごそうとしているのですが、そんなところに、隣の中学から転校生サッチが。どうやら暴力事件で移動させられたらしい。かかわりたくないミウですが、なぜか気に入られ、ミウとサッチと唯の日々が始まります。
 「友達」という概念に不信感があるミウとサッチ。気にせず友達を続ける唯。
 物語はミウの家族の物語を重ねながら、「友達」と、その距離感について語りかけます。

『ヨハネスブルクへの旅』(ビヴァリー・ナイドゥー:作 もりうちすみこ:訳 さ・え・ら書房)
 末に妹が重い病気になり、ナレディは弟のティロと共に、無一文のまま母親が働くヨハネスブルクに向かって歩き出す。そこは300キロも離れた都市なのに。
 アパルトヘイト下、南アフリカで発禁となった児童書です。
 南アフリカの当時の現状が、子どもの目を通して描かれていきます。疑問を持つことが子どもの仕事。それが力。

『チャーリー、ただいま家出中』(ヒラリー・マッカイ:作 富永星:訳 田中六大:絵 徳間書店)
 お兄ちゃんばっかりかわいがられて、自分は叱られてばかりだと不満を持つチャーリー7歳は、ついに家出を決意。友達のヘンリーの助けも借りて、実行に移すのです。
 ところが、なんだか家族は全然気にしていないみたいだし、それどころか、ほっとしているような様子。なんでだ!
 子どもは大人にしっかりサポートされているよというのがベースにあって、そこで大展開するユーモア。

『りんごの花がさいていた』(森山京:作 篠崎三朗:絵 講談社)
 かあさんが亡くなり、サブロはかあさんのイスを形見にもらい、それを背負って仕事場のある街へと帰りますが、休職中に別の人が雇われてしまい、彼は途方にくれますが・・・。
 人が休むために、ゆっくりするためのイスを媒介にして、愛を描いています。

『きょうから飛べるよ』(小手鞠るい:作 たかすかずみ:絵 岩崎書店)
 四年生になる新学期を楽しみにしていたさくらですが、病気になって入院。落ち込んでいるさくらは、食事のプレートに置かれている手紙を見つけます。手紙をくれたのはなぞの花咲じいさん。彼の指示に従って、病院のある場所から見える木を探すと、小鳥が巣をかけていました。
 それからさくらは、小鳥の種類を知り、雛がかえるのを楽しみにし、育ちと巣立ちを見守り、元気になっていきます。
 花咲じいさんとの手紙の交換も続けますが、彼は謎のまま。
 やがて、彼のことがわかりますが・・・。
 少しずつ回復していく弱った心と、それを支える心の物語。

【絵本】
『てんぐのがっこう』(やぎたみこ ぶんけい)
 もう、やぎたみこったら。天狗の学校なんて思いつかないでくださいよ。
 人間に飼われている小鳥もみんなてんぐさんのスキルを身につけて、困った人を助けるのですよ。
 擬人化ってならつまらないですが、カラス天狗が先生だもんなあ。なんか違うなあ。妙にリアルだなあ。
 画面も色々遊びがあって楽しいぞ。

『かみなりなんてこわくない』(ジェイミー・A・スウェンソン:ぶん D.ウォーカー:え ひがしかずこ:やく 岩崎書店)
 「ぼく」はかみなりなんか、全然怖くないのですが、色んな動物が次から次へと、怖がって「ぼく」のベッドへやってきます。「ぼく」は入れてあげるのですが、その重さにベッドは大丈夫?
 「かみなり怖い」の1設定で、次から次へと集まってくる楽しい連鎖絵本です。

『パパはわるものチャンピオン』(板橋雅弘:作 吉田尚令:絵 岩崎書店)
 とっても素敵な物語絵本『パパのしごとはわるものです』の続編です。パパはプロレスのヒール。興行を観に行ったら隣の席が友達のマナちゃん。当然マナちゃんはヒーローのチャンピオンを応援しているわけで、でもぼくはゴキブリマスクであるパパを応援したいわけで・・・。
 そして、パパはヒーローに勝ってしまうのだ。ラストがいいよ。

『ないしょのかくれんぼ』(ビバリード・ドノフリオ:文 バーバラ・マクリントック:絵 ほるぷ出版)
 『ないしょのおともだち』の二作目。
 相変わらず細部まで行き届いた絵、遊び。
 マリアとネズネズはママを探すのですが、どこにもいません。お互いに探して探して、やっと見つけたら・・・。
 なんて楽しい絵本の世界!!

『ぜんぶわかる! タンポポ』(岩間史朗:著 芝池博幸:監修 ポプラ社)
 新シリーズ「しぜんのひみつ写真館」の1巻目。
 タンポポに関してありとあらゆるアプローチをして伝えようという熱意が前に出ています。本当に刻々と観察した流れ。在来種と外来種の、花びらの数から花粉の形の違いを教える解説。歴史。
 おそらく、タンポポ博士を育てたいのではなく、たとえばタンポポを素材として、自然をつかみ取る面白さや、その術を伝えようとしているのです。
しかし、その故に「タンポポ」そいう対象に関しては、印象がばらけてしまうのも事実です。
この辺りの見せ方の整理をどうするか。今後を楽しみに。
 写真絵本でも図鑑でもないおもしろさがどう発展するか。

『世界のともだち カンボジア』(古賀絵里子 偕成社)
 最初の12巻がそろいました。壮観です。というか、愛おしい。三〇年前とは別の風景が拡がっていますが、どれもが子どもの力にあふれています。
 日本の子どもたちが、他の国の子どもたちと文化に、もっともっと興味を持ちますように。
 先日まで梅田のM&Jで十二巻の豪華写真展がありました。すてきでしたが、キャプションの文字を大きくしたり、見に来た子どもが興味を抱くようなキャッチやポップがもっと必要だと思いました。今後の展開に期待します。

『どうして ないているの?』(ディック・ブルーナー まつおかきょうこ:やく 福音館)
 指を怪我した。お豆が嫌い。髪の毛がカールしていない。子どもは次々と、自分が泣いている理由を述べていきます。
 どれもが、誰かには思い当たる事であり、と同時にそれで泣くという子どもにストレートさに心動かされてしまいます。
 ブルーナーの、フックと結論の間(プロセス)を抜いた方法は、小さな小さな子どもの共感を呼ぶのです。

『悟空、やっぱりきみがすき!』(向 華:作 馬 玉:絵 施 桂栄:訳 ポプラ社)
 悟空は学校でみんなに怖がられています。力が強すぎるからとゾウさんから。度胸がありすぎなので無茶をするとカエルさんから。如意棒が大きく伸びすぎるとオオカミさんから。
 しょんぼりの悟空。
 ウサギから、如意棒といい子の袋を交換しようと言われた悟空は、ついにそれに応じるのですが、するとみんなはここぞとばかりに悟空をいじめ、しかも今度はウサギが怖くなり、ウサギの悪さで悟空の頭の金の輪は締まって、痛い痛い。
大変な事態。
 向は、みんなが知っている悟空を使って、権力や、怖れや、コミュニケーションについて語っていきます。巧いなあ。
 馬の中国画をデザインに落とし込んだ画風も絵本にぴったり。
 もっともっと出して下さい。ポプラ社さん。

『かしこいウサギと はずかしがりやの 大きな鳥』(パスカル・マレ:文 デルフィーヌ・ジャコ:絵 平岡敦:訳 徳間書店)
 ミャンマーの昔話をヒントにした愉快なお話絵本。
 陸の王様は優しいライオン。海の王様は怖いドラゴン。ライオンとドラゴンが闘うことになって、最初から負けるとわかっているライオンは落ち込みますが、陸の動物みんなが協力します。できればドラゴンを食べてしまうと言う大きな鳥ガルーダに助けて欲しいのですが、それは無理。そこで一番大きな鳥をガルーダに仕立てます。さて、作戦は巧くいくでしょうか?
 細密でありながら、わざと表情を消したジャコの絵が、読者自身に物語を語らせていきます。

『いもむしってね』(澤口たまみ:文 あずみ虫:絵 福音館書店)
 まあ、とにかく丁寧に丁寧に、蝶になるまでを、蝶にまで育てるまでを描いています。
 昔、山椒とか柑橘系も庭で育てていた私にとって、アゲハチョウの幼虫は天敵であったりはするのですが、でも嫌いではありません。だから、こうした描かれ方はうれしい。
 あずみ虫の画法がとってもいいですよ。

『あるいてゆこう』『あそんでゆこう』(五味太郎 ポプラ社)
 「五味太郎のおさんぽえほん」として刊行されていた作品の小さい版です。
 主人公の子ども二人が、ワヤン・クリの人形のように付属していて、それを頁の上で動かして、歩いたり、お散歩したりします。
 これ、思いつくのも五味太郎なら、この企画が通るのも五味太郎。
 子どもたち、いっぱいいじくって、絵本で遊んで下さい。

『イヤムシずかん』(盛口満:文と絵 ハッピーオウル)
 虫好きと虫嫌い。まあまあ、とにかくじっくり眺めてみましょうよ。という企画。
 比べ方など、もう少し工夫があってもいいと思いますが、好きな人も嫌いな人も、堪能できます。でも、やっぱり、ゴキブリはだめだなあ。襲ってくるのは、襲ってくるのではなく、方向をすぐに変えられないからだというのは知って、ほっとしたけど。

『どうぶつえんのみんなの一日』(福田豊文:写真 なかのひろみ:文 アリス館)
 見開きもしくは4頁で、1種類の動物園での一日をコマ割写真でじっくり見せていきます。
 そんななものだから、文字が小さくて、私には読みづらいですが、これは年のせいでしょう。
「一日」という括りで動物園の生き物を知ることは観客には難しいので、楽しい企画です。
 「裏側見せます」がはやっているのは、リアルの強度が落ちてきたからですが、それはまた別の機会に。

【その他】
『「場所」から読み解く世界児童文学事典』(藤田のぼる・宮川健郎・目黒強・川端有子・水間知恵:編・著 原書房)
 「場所」とは地域だけではなく、環境も含めています。様々な条件を決めてそれで作品を読み解いてみることは面白いし時に有益です。ただ、事典と言われると「?」。事典の一項目・部門かな。

『これマジ? ひみつの超百科 危険生物超百科』(實吉達郎:著 ポプラ社)
 一〇〇種類の危険生物を紹介! という風なあおり方や、本の装幀も、いかにもチープで嘘くさいのは、そういうノリを子どもは結構好きだからです。昔の子ども雑誌にはよくこういうのがありました。
 そうであっても別にトンドモ本というわけではなくて、普通の説明が書かれています。
 要は、一冊で百種類の生物の基礎の基礎の知識を、がさっとつかみ取れればいいわけです。

【連載】
青春ブックリスト(読売新聞第四土曜日夕刊掲載)
第九回「死」(2012年12月)
近しい人が亡くなったとき、心の中には大きな穴があいた気持ちになります。それは、失った人が自分にとって、いかに大切であったかを示していますが、その気持ちを相手に伝える術はもうありません。一方、私たちは自分自身の死を、自分の言葉で語ることはできません。そう、死は誰にとっても、やり直しの利かない出来事です。死に目を向けない人が多いのはそのためでしょう。
今日は死が出てくる物語を二つご紹介します。
『ハードビートに耳をかたむけて』(ロレッタ・エルスワース:作 三辺律子:訳 小学館)は、亡くなってしまった少女イーガンと、彼女の心臓を移植されて命を永らえることができた少女アメリアの物語です。新たな心臓を得たアメリアは、ドナーがどんな女の子だったのかが、なんとなく分かるような気がしてきます。彼女はイーガンの両親にあう決心をしますが、それはアメリアとその両親の間に残された痛みを埋めてくれるのでしょうか? 死(イーガン)と生(アメリア)が交差する展開は、死について別の見方をするきっかけを与えてくれます。
『アニーのかさ』(リサ・グラフ:作 武富博子:訳 講談社)。お兄さんが病気で亡くなってからアニーは死を恐れるようになり、病気のことばかり考えるようになってしまいます。両親が彼女を気遣ってくれたらいいのですが、息子の死にショックを受けたままです。アニーたち家族は、死に束縛されてしまうのです。そこからアニーを元の日常に引き戻すのは、親戚でも古くからの知り合いでもなく、最近引っ越ししてきた老人です。それはどうしてなのか? に注目してみてください。
私たちは生まれ落ちたときから死に向かって歩みを進めており、死は平等に誰の元にも訪れます。時々で良いですから、死とは何かについて思いを巡らせてみてください。まだ何度でもやり直しの利く、あなたの生を、その手でしっかりとつかんでおくために。

第十回「言葉」(2013年01月)
言葉には考えを伝える力があります。様々な表現が様々なメディアを通して伝わり、私たちは互いの考えを知ることができます。その自由は、いつでも保証されているわけではなく、たとえば憲法第21条によって守られています。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」です。わざわざ守っているのは、この自由は言葉の力を恐れる為政者から簡単に制限されてしまう危険があるからです。憲法も人が作ったものである限り、人によって変えることができますから安心はできません。言葉の自由が犯されそうになったとき、それを最後に守るのは、私たち自身です。
今日の二冊は過去と未来のそんなお話です。
『印刷職人は、なぜ訴えられたのか』(ゲイル ジャロー:作 幸田 敦子:訳 あすなろ書房)は実際にあった話です。アメリカがまだ独立していなかった一七三〇年代。ニューヨーク総督に赴任したウィリアム・コスビーは、己の欲得のためにだけ動く男でした。それに怒った最高裁判官ルイス・モリスは、彼を非難して罷免されます。そこで新聞を発行し、コスビーの行状をニューヨーク市民に伝えるのですが、コスビーは新聞の印刷職人ゼンガーを扇動的文書発行の罪で逮捕。言葉の力を恐れる為政者と、それと戦う人々を描いています。
言葉を残し、流通させる優れた道具の一つである本を読むことが禁止された近未来の物語、『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ:作 宇野利泰:訳 ハヤカワSF文庫)。焚書官は本を見つけたらそれを焼き尽くす職業です。元々は消防士であったようなのですが、その記憶は封印され、ホースで撒くのは水ではなく石油。隊長は言います。「考える人間なんか存在させちゃならん」。それに疑問を持ち始めた焚書官のモンターグは、焼き尽くすはずの本をこっそり持ち帰るようになります。果たして本と彼の運命は?
 忘れないでください。守るのは、私たち自身です。

第十一回「原発」(2013年2月)
チェルノブイリ原発事故には確かに衝撃を受けましたが、それでも心のどこかで他所の国の出来事と感じていました。しかし二年前、私たちは原発事故の当事者となったのです。「私は福島やその近郊には住んでいないよ」と言う人もいるでしょうけれど、海外から見た場合、あなたも私も原発事故を経験した国の人間です。事故が起こると、あらゆる生物に深いダメージを与え、原状回復が非常に困難であり、いつ終わるともわからない恐怖と、住み慣れた土地に帰れないかもしれない不安に包んでしまう原発について、当事者としてあなたがどう考えているのかは、世界の人々にとって重要なメッセージになるのです。政府の方針は関わりなく、あなた自身の見解を聞きたいと彼等は思っています。支持不支持、どちらであれ、持っている知識と想像力、そして他者を思いやる心をフル動員して、あなたの言葉を紡いでください。
『いつか帰りたいぼくのふるさと 福島第一原発20キロ圏内から来たねこ』(大塚敦子:写真・文 小学館)は原発事故で現地に残されたペットと、その飼い主を巡る写真絵本です。現地取材を続けていた写真家の大塚さんは一匹のネコを引き取ります。キティを名付けられたこのネコの背後には、事故によって疎開した人々の無念さが横たわっています。そして、思わぬ出来事が・・・。
『発電所のねむるまち』(マイケル・モーパーゴ:作 ピーター・ベイリー:絵 杉田七重:訳 あかね書房)。マイケルは半世紀ぶりに故郷へ帰ります。彼が子どもの頃、原発建設の話が持ち上がりました。最初は反対意見で結束していた住民も一人一人と賛成に回っていき、最後まで反対を貫いたのは建設予定地に住むタイ人女性とマイケルの母親だけでした。その後、母親はマイケルを連れて町を去ったのです。帰った町でマイケルは、原発は廃炉となり、安全確保のためにこれから長い時間が費やされることを知らされます。
原発の建設は、何百年先の未来までを決めてしまうことなのです。

第十二回「学ぶ」(2013年3月)
みなさんは学校に通っています。もちろん、行かない選択をした人も、行けない人もいるでしょうけれど、それでも何らかの場所や方法で学んでいるでしょう。授業なんて退屈だ、遊ぶ方がいい。スポーツなら楽しいのに、考えるのは面倒くさい。といった本音もきっとあるはずです。授業が面白くないのは教え方が上手でない可能性があります。その場合、どうすれば面白く感じられるかを先生に伝えてもいいし、「ひょっとしたら、こういうことを私に伝えたいのではないだろうか?」と推理力を働かせて楽しんでもいいです。就学は、あなたに与えられた特権ですから無駄にせず活かしてください。学びの放棄は愚かな行為です。自分が感じ、考えていることを正確に、そして説得力を持って相手に伝えるための技術は学びによってしか得られません。ですからその放棄は、あなたの長い人生を豊かさから遠ざけてしまいかねないのです。数学が嫌い、英語は苦手といった個々の問題で思考停止する前に、もう少し大きな視点で学びの重要さをとらえてみるのもいいと思いますよ。
『ハンナの学校』(グロリア・ウィーラン:作 中家多恵子:訳 スギヤマカナヨ:絵 文研出版)。19世紀末アメリカ、視覚障害児ハンナは「かわいそうな子」として家族に大事にされています。目が見えないので学べないと思われて、彼女は学校に通っていません。しかし新しく赴任した先生は、目が見えなくても学べるし、学ばないとハンナ自身が自立できなくなると考え、両親とハンナ自身を説得します。
私たちの日常生活を見渡せば、学ぶための素材はいくらでもあります。出汁を取るために使われる煮干しを解剖の授業に使ってしまったのが『煮干しの解剖教室』(小林眞理子 仮説社)です。煮干しはカタクチイワシを丸ごと乾燥したものですから、脊椎動物の特徴を知るための絶好の教材となります。解剖も学びですが、こうした柔軟な発想に興味を抱くのも大事な学びです。