217

       
【児童文学評論】 No.217
 http://www.hico.jp
   1998/01/30創刊

*以下三辺律子です。
『チェルノブイリの祈り』スベトラーナ・アレクシエービッチ著 松本妙子訳 岩波書店

 言わずと知れたノーベル賞受賞作家のアレクシエービッチ。本書は、1986年の原発事故から十年経過した時点で書かれはじめた。それ以前では書けなかったと、アレクシエービッチは言っている。被災者へのインタビュー形式で綴られ、登場する人々は五十人ほど。事故処理作業員、消防士の妻、汚染地に住みつづける老婆、学者、母親……。ごく普通の人々の声がひたすら積みあげられていく。
 ノーベル賞受賞や、アレクシエービッチが来日したこともあり、こういった概要はすでに目にした人も多いかもしれない。わたしもそのひとりで、そのため、内容はなんとなくわかった気になって、読むのを後まわしにしていた。とうぜん、猛省することになった。
 どの本もそうだが、筋だけでは決して拾いあげることのできない「なにか」があるし、それが多ければ多いほど、深く印象に残るのに。
 でも、それだけでない。そもそもこの本は、大きな物語を語ったり、解釈や分析を試みたりするものではないのだ。だからこそなおさら、味わうには、実際読むしかない。個人的にふと思い出したのは、『断片的なものの社会学』(岸政彦著)。社会学者である著者が膨大に集めたインタビューの中で、論文には使えずにこぼれ落ちた「断片」を集めた本だ。「論文には使えない=解釈できない」普通の人々の声を読み続けていると、次第に「なにか」が立ちあがってくる。
 最近出た『屋根裏の仏さま』(ジュリー・オオツカ著 岩本正恵・小竹由美子訳)も、名もない人々の声をひたすら綴っていく形式をとっている。こちらの声の主は、百年前、写真だけのお見合いで渡米し、開戦で収容所送りとなった日本人女性たち。物語が一人称複数の「わたしたち」で語られることで、具体的な断片の連なりから、やはり「なにか」が浮かびあがる。
 「なにか」=真実、と書きそうになったけれど、一言で括ってはいけないのだと思う。そんな把握の仕方もあるのだということを、上記の三冊は教えてくれる。(三辺律子)

〈一言映画評〉 三辺律子 *公開順です

『リリーのすべて』
 1930年代、世界初の性別適合手術を受けたデンマーク人画家、リリー・エルベを描く。映画では、次第に「夫」を失っていくゲルダの苦悩と献身的な愛が描かれているけれど、こんな見方もあるそう。
http://girlsartalk.com/feature/20798.html
 それにしても、荒俣宏の博覧強記ぶりときたら!

『ヘイル・シーザー!』
 コーエン兄弟監督脚本、出演はジョージ・クルーニー、ジョシュ・ブローリン、スカーレット・ヨハンソン、チャニング・テイタム……見るなと言う方が無理。50年代の黄金期のハリウッドを舞台にしたサスペンスコメディ。チャニング・テイタムの、ミュージカル・スターばりのタップダンスが見事すぎて爆笑。

『すれ違いのダイヤリーズ』
 タイの過疎地――「地」というか水上生活地域に小学校教師として赴任した男女。となれば、二人の恋物語だと思うし、実際そうなのだが、予想とちがうのは、二人は会ったことがないこと! 赴任時期が違うふたりを結びつけたのは、教師としての悩みや喜びを綴った日記。タイの美しいけれど一筋縄でいかない自然と、かわいいけれどやっぱり一筋縄でいかない子どもたちにも注目。

『素敵なサプライズ ブリュッセルの奇妙な代理店』
 タイトルにある代理店とは、「あの世への旅行代理店」。つまり、事故に見せかけた自殺幇助を手がける会社。そこへ客として訪れたオランダ貴族ヤーコブとかつて孤児だった女性アンナは恋に落ちてしまい……。オランダ貴族の暮らしぶりを見るという楽しさもある、ロマンティックコメディ。

*西村醇子の新・気まぐれ図書室(17)――読める喜び、読みなおす愉しみ──
 子どもの頃は本をつぎつぎにたくさん読めることが嬉しかった。最近はめったに本漬け(?)とまではなれないが、熱中できる本が見つかれば、それは「お宝」だ。面白い物語に引きこまれると、先が気になってページをめくる手がとまらなくなる。このように読みだしたらやめられない本のことを、英語では「ページ・タナー」(page turner)と呼ぶ。
 富安陽子の『天と地の方程式』(あめとつちのほうていしき)3部作は、ページ・タナーという言葉がぴったり当てはまるファンタジー作品だった(1巻2015年8月、2巻2015年9月、3巻2016年3月、3巻とも五十嵐大介画、講談社)。もっとも1・2巻を購入したのも読んだのも、春休みになってから。完結するという3巻目の刊行を待ちわび、購入してすぐ最後まで読みきった。うーん、急いで読んだのはもったいなかったかも。
 物語の舞台は、栗栖台ニュータウンにできたばかりの小中一貫校の栗栖の丘(くるすのおか)学園。一戸建の家へ転居し、それとともに新学期からこの学園の8年生(中2)となった田代有礼(アレイ)。入学早々アレイが驚いたのは、1年から9年まで合わせても生徒は71名しかいないことだ。しかも同学年は、数字に強く変わり者という評判の男子厩舎修(きゅうしゃ・おさむ、通称Q)と、他県からの転校生で無愛想この上ない女子岡倉ひかる(ヒカル)だけ。3人の担任は国語の教師伊波先生。完璧なほどの記憶力をもつアレイは、これまで目立つことを恐れ、また誰ともつながりも持たないように努めてきたが、栗栖の丘学園ではそれは最初から無理だった。当人も知らないうちに、特別な使命をもつ生徒たちがこの学園に集められていたからだ。  
 アレイがQと廊下の角でぶつかった直後、ふたりは異空間(この世界そっくりに作られたカクレド)へ迷いこむ。まわりの教室には人気がなく、泡から立ち上がった一つ目の黒い影と、目のついた不気味な無数の土蜘蛛の群れとが廊下のふたりを襲う。必死に逃げながらもアレイは自分が感じた違和感の正体をさぐり、本当の学校にあるはずがない教室の中へ逃げこむ。床の模様が魔法陣になっているこの教室で、ひとつだけ違いがあるパネル(Qがそれに気づく)を踏むと、ふたりは元の世界に戻っていた。
この事件後、ふたりは自分たちのほかにも神子(カンナギ)がいるので、そのメンバーを探しあてること、そして7人の(7柱と数えるらしいが)カンナギで力を合わせて黄泉ツ神(よもつかみ)を黄泉へ送り返すことが、天の神から与えられた使命だと知らされる。とはいえ自分たちの都合に関係なく使命を与えられたアレイたちは、使命とどう折り合いをつけようか、もがく。その間にも黄泉ツ神側からの攻撃はどんどん変化し、グレードアップするので、それにも対応しなければならない……。
物語の下敷きになっているのは『古事記』である。大昔、神々の淘汰があったとき、地の底に追いやられた黄泉つ神が、ニュータウンが開発されたときに偶然、黄泉つ国への出入り口の封印が破られたせいでこの世に現れ、こっそり増殖を始めたのだという。だからこそ、黄泉つ神の「繭」(まゆ)が破裂し、地上への侵入が本格的におこなわれるまえに、黄泉つ神とその軍勢を地底へ追い返し、封印をする必要があったのだが、アレイたちにはそれぞれ、どんなふうに役割を果たせばよいのかも、よくわからない。。
1巻は同学年の女子ヒカル(音楽の才能がある)と1学年下の大石春来(ハルコ、怪力の持ち主)が新たにカンナギだとわかり、4人がともにカクレドから帰還するところまで。
2巻ではさらに2人のカンナギがわかる。敵の力が増大するとともに、異空間のカクレドの領域も街へ拡大していき、罠まで仕掛けられるので一同の苦労が増える。
3巻ではカクレドから黄泉つ神の隠れていた手提げ袋をヒカルが知らずに持ち帰ったことで新たな問題が生じる。そしてXデーに備えて、それぞれが果たすべき役割を模索し、最終的に力を結集し、ついに使命を果たすまでが描かれている。
 じつは、2巻3巻のあらすじもいったんは書いてみた。でも、いつにもまして、ネタバレがこれから読もうとする人の興をそぐ気がして、やめている。そこで、面白かったことを振りかえると、ひとつは物語のスピード感である。1巻の1章こそ前置きとしてゆっくりしているが、それ以降は事件が矢継ぎ早に起こり、飽きさせない。もうひとつは、「敵」のもつパワー。神さまレベルと闘うって、けっこうすごい。それに、Xデーという期限があること、つまり黄泉つ神の繭がいつ破れるか、それまでに謎が解けるのかという緊張感が物語内にみなぎっている。また土台は日本の『古事記』だとわかっているが、途中でさりげなく西洋のハーメルンの笛吹きやストーンサークルの話が持ち込まれ、広がりがみられる。こういったことに加え、カンナギたちの個性も見逃せない。それぞれ家庭や過去に事情があるだけでなく、理解力に差があり、相互にコミュニケーションをとることもうまくいかない。そのなかで、おたがいの関係がつくられていく。また、特別な能力の活用もなるほどと思わせる。
物語から伝わるメッセージは、(カンナギたちレベルの天才的能力はなくても)「まだ使い道のわからない、使いこなすことのできない道具[自分の能力]を抱えて、みんな、右往左往している」(3巻197-8)、つまり、与えらえた個性や能力の使い道がわかるようになるのはこれからだから、焦る必要はない…といったことだろう。 

どんなときでもその作家が亡くなれば、もう新作を読むことはできない。作家の死後に出版されることもあるが、それは、出版できる原稿が存在していることが前提だ。たとえば英国のジョーン・エイキン(1924-2004)の場合。多作だったが、「ダイドー・トワイト」をヒロインとするシリーズがことのほか気に入っていたそうで、最晩年にThe Witch of Clatteringshaws(クラッタリングショウズの魔女、未訳)を執筆した。シリーズを締めくくるこの本は英国では(エイキンの死後の)2005年に出版されている。冨山房刊のシリーズの訳者こだまともこによると:

「最終巻[クラッタリングショウズの魔女]は他の作品より短いと編集者に言われたそうですが、「厚い本を書きはじめて未完で終わるのと、薄い本でシリーズを完成させるのと、どちらがいいか」とぎゃくにたずね、編集者をへこませたとか。(『ダイドーと父ちゃん』あとがき、519頁)」

エイキンの話を持ち出したのは、生前エイキンと交流のあったダイアナ・ウィン・ジョーンズ(1934―2011)は、果たしてこの言葉を耳にしていたのだろうかと思ったから。じつはジョーンズの場合、ある物語を最後まで書きあげることなく、旅立っている。だから今回翻訳が出版された『賢女ひきいる魔法の旅は』(田中薫子訳、徳間書店、2016年)はダイアナの妹アーシュラ・ジョーンズが物語を完成させた共著。英国では2014年に二人の名前で出版されている。
2014年9月5日から6日にかけて、"A Fantastic Legacy:Diana Wynne Jones"(ダイアナ・ウィン・ジョーンズの素晴らしき遺産)が、ニューカッスルの児童文学専門図書館「セブン・ストーリーズ」で開催された。ご存じかもしれないが、ジョーンズは生前、同館に自分の原稿を寄贈していた。だから二日間の会議中、参加者はグループにわかれてジョーンズの生原稿を(白手袋をはめて)見たり触わったりすることができた。そしてこの会議のゲストだったのが、妹の女優で作家でもあるアーシュラ・ジョーンズ。アーシュラは基調スピーチのとき、家族会議で自分が指名されたことや、さんざん悩んだ末に物語を完成させたエピソードを語り、さらに物語の一節を朗読した。誰もが、どこまでがダイアナでアーシュラはどこから書きついだのか興味津々だったが、さすがにそれは秘密のまま、明かしてはくれなかった。アーシュラによる朗読は、(声がしゃがれていた亡き姉とは大違いで)、聴きやすかったことを覚えている。
物語は架空のチャルディー連合王国のひとつ、スカア島の少女エイリーンが、賢女になる儀式で失敗したところからはじまる。直後にエイリーンは賢女のベック叔母と、10年前にさらわれた連合王国の大王の息子を探すため、東の島ログラへ行くことになった。10年前にログラを目に見えない障壁が取り囲んで以来、国同士の交流が途絶えている。だが、噂では、スカアの賢女が島を離れ、バーニカとガリスのふたつの島でそれぞれの島の男を一人ずつ連れて障壁を越えてログラ国に入ることができれば、王子の救出がかなうという。息子の救出を望む大王に依頼され、ベック叔母はアイリーンやスカアの第二王子アイヴァーを連れて、船でバーニカに渡る。船上で叔母が見つけたのは、アイヴァー王子を殺そうとする母親の企みだった。さらに船は浅瀬でいったん停泊するが、このとき、エイリーンは大きな雄ネコになつかれ、自在に姿を消せるらしいこのネコと旅をともにする……。
物語は国めぐりの構造をとっているし、政治的陰謀に加担する邪悪な魔法使いや悪巧みをする王族などに対抗するのは、いまだ自分の力がわかっていない未熟な賢女。エイリーンが島を守護する動物たちと心を通わせて使命を果たすことや、(エイリーン本人ではないが、親戚の)「歌」が魔法の一端であること、イメージを駆使した魔法の戦い方などが、ジョーンズらしさを感じさせる。また、使命を帯びておこなう旅でも、その道のりは障害だらけ、ろくな食べ物もなく泥だらけで寒いこともしょっちゅう。そのうえエイリーンはがみがみ指図しなければならないなど、苦労がつづく。つまりこの作品でも、類型的な多くのファンタジー冒険ものをみごとに批評してみせている。おそらく最後の魔法の戦いあたりがアーシュラをてこずらせたのだろうが、あれもこれも一気に解決するやり方はきちんと踏襲されていて、「ジョーンズ」のファンタジーを堪能できる。

今月のもう1冊は、真保裕一『赤毛のアンナ』(徳間書店、2016年1月)である。子どもの本ではないが、作者はモンゴメリの『赤毛のアン』を間テクストしている。書名だけでも、そのことはすぐに連想されるが、さらに全5章の章題は、「赤毛のアンナ」(1章)を皮切りに、「アンナの青春」(2章)から「アンナの幸福」(5章)まで、<アン>シリーズの作品名をもじっている。さらに、アンナがモンゴメリ作『赤毛のアン』を知っている施設の先生をみつけて喜んだり、逆にまだ知らない仲間に紹介したり、感想をいいあったりする場面もある。だから『赤毛のアン』との関連性には疑う余地がないのだが、ただし、物語の舞台を単にカナダから日本に移したというようなレベルではなく、物語の構成はこみいっているし、意外性にあふれている。
主人公の安奈(あんな)は養護施設で育ったが、自分をモンゴメリ作品のアン・シャーリーに重ね、アンの生き方を手本として生きようとしている女の子だった。だが現実は彼女の思いとは異なって、けっして甘くない。それどころか、アンナが周囲の人間を思いやったりかばったりしてついた嘘が、本人の足をたびたび引っ張っていた。またアンナが施設に来る前に起こった事件の真相があいまいなことも逆効果となり、アンナについていつのまにか真実とは異なる一連の記録(身上調書ほか)が作られていた。
物語は、アンナの視点をとらない。またアンナは物語の終盤まで登場しない。かわりに過去のさまざまな時期に、アンナの人生とかかわりをもった複数の人びとの、現在の様子と、彼らのおこなう過去の回想とで進行する。それも、アンナが傷害事件を起こして逮捕された、というショッキングな知らせを受けたところから。ところが拘置所にいる現在のアンナが助けを拒み、弁護士の接見すら受けようとしないせいで、彼らは真相を確かめることができない。そこでそれぞれの事情でアンナと疎遠になっていた過去をもつ彼らは対策会議をもち、ほかの仲間と連絡をとりあって情報を交換する。そして手分けして調べていくうちに、単なる噂だったり書類だったりしてアンナにつきまとってきた「記録」の裏に、真実が隠されていたことを発見する。それは、彼らの知っているアンナらしさを裏付けるものであったがゆえに、とても心痛むものでもあった……。
本家とはまったく別の作品ながら、これはアン・シャーリーの精神を最大限に活かしたユニークなきわめて現代的な物語だと思う。 本日はここまで。(2016年4月)


◆ぼちぼち便り◆ *作品の結末まで書かれています。(土居 安子)
 ふだんは新刊書を読んでいる読書会ですが、年に一、二度は過去に出版された本を課題本にします。今回は『もうひとつの空』(あまんきみこ/作 金井塚道栄/絵 福音館書店1983年11月30日)を読みました。たまたま私があまん作品を網羅的に読む機会があり、この作品についてぜひ、みんなで話し合ってみたいと思ってリクエストしました。この作品は、あまんさん唯一の長編で、雑誌「子どもの館」(福音館書店)に1979年1月号から1981年7月号まで連載された作品です。自宅で病気のために寝ている小学2年生のサキコは部屋にかかっている油絵の世界に入っていき、小学6年生の兄ジンは、父の故郷であるその絵の舞台へ行き、鏡のような池の中の世界に入り、そこで二人は出会って、その絵を描きながら未完成だと苦悩している祖父に出会うというファンタジー作品です。

 話し合う前に、拙いながら作品の一章を私が声に出して読みました。あまん作品は、長編であっても耳で聞くことで、楽しめる作品だと思ったからです。それを聞いて情景が絵として浮かぶ、言葉に宿る命を感じられる、色が際立って見えてくるという意見がありました。また、文章という意味では、あまんさんの朗読を聞かれたことのある人は、文を読んでいるだけであまんさんの声が聞こえてきたような気がした。頭で考えるのではなく、皮膚で感じる文章だと思ったという意見もありました。

 この作品の冒頭に、浜子というサキコと同い年の少女が絵の舞台になっている池で溺れて死に、それと同時にサキコが見ている絵の中の子どもの人数が増えるという出来事が起こります。読者は病気のサキコ、池に行ったジン、浜子が溺れ死んだ場所にいた浜子の兄の圭一などが死に引きずり込まれないかと恐れながら読むことになります。読書会でもその怖さを挙げる人が多くいました。また、その怖さが自分の子ども時代の感覚にぴったりだと言う人もいました。

 絵描きであったジンたちの祖父は、5歳だった娘はるこが春の訪れを示す赤い花が咲いたことを知らせに来たにもかかわらず、絵に夢中になって、はるこを二度にわたって叱りつけます。はるこは花を握ったまま、池で溺れて死んでしまいます。そして、祖父は、描きかけの絵を完成しないまま列車事故で死んでしまいます。はるこが死んだ後、祖父と結婚した祖母は、祖父の死後、絵描きだった過去を知り、完成しなかった絵を思いつつ亡くなります。ジンは入り込んだ世界で祖母に再会しますが、ジンが祖母の悲しみを感じている様子がリアルで、大人の悲しみも妥協なく描かれている点を評価した人もいました。一方で、ジンやサキコがとても「いい子」であること、異空間での絵と現実の絵の関係性など複雑な内容がわかりにくいと感じた人もいました。

 私がこの作品で最も興味を持ったのは、娘の死に対する祖父の罪の意識をジンとサキコという孫が解決するという点でした。池で子どもが死ぬたびに絵の中の子どもが増え続ける中で、絵の中に入ったサキコが祖父に、春に花が咲くのと同じように「あの絵にも、子どもが生えたらいいのにね」と、「死」を「生」に転換する言葉を告げることによって、祖父が絵を完成させて絵から解放される。ジンは祖母の悲しみを理解し、絵を完成させた祖父の元へ連れていく。サキコが持つ純粋さとジンの持つ理性が祖父母を救うという話になっていると思いました。作品の中には、直接戦争に関わることはほとんど書かれていませんが、戦争を起こした大人の罪を孫の世代がどのように受け止め、前を向いて生きていくかということが、一つの家族の物語を通して描かれているように思いました。

 他のあまん作品との共通性という意味でもこの作品を興味深く読みました。一つは、「空」というテーマです。あまんさんが病床にあった子ども時代、窓から見続けた「空」、お気に入りの「キンダーブック」に描かれた「空」、『車の色は空の色』の「空」です。この作品では「空」が、池に映る空と現実の空の対比で描かれており、その空が死の世界と結びついていること、自らの心を映す鏡としての役割を果たしていること、ファンタジー世界の入り口として描かれています。加えて、作品の中で歌が重要な役割を占めていること、赤と青の対比、林を歩く様子を海の中に例えるような独特の情景描写などにも他作品との共通性を見出せます。あまんさんは、10歳の時に大病を患い、「<いま>が気になった」(神宮輝夫/インタビュー『現代児童文学作家対談9』偕成社 1992年10月)と言われていますが、サキコとジンの10歳未満と10歳を超える年齢が二人の作品での役割を異なったものにしている点も他の作品と共通していると思いました。読めば読むほど、いろいろな仕掛けに気づく作品であり、声に出して読めば、また、新たな発見がある。他のあまん作品をじっくり読み直して、また、この作品に戻りたいと思いました。

<大阪国際児童文学振興財団からのお知らせ>
●国際フォーラム「いま、アメリカの子どもの本を考える」 参加者募集
プログラム:
(1)「アメリカの子どもの本は、何を語ってきたか」
講師:レナード・マーカス(歴史学者、児童文学評論家)
(2)「アメリカの子どもの本を、私たちはどう読んできたか」
講師:三宅興子(児童文学研究者、絵本研究者)
(3)対 談
通 訳:前沢明枝(翻訳家)、 横山カズ
日 時:5月22日(日)午後1時〜4時
会 場:大阪府立中央図書館 2階大会議室(東大阪市荒本)
対 象:子どもの本に興味のある方ならどなたでも
定 員:80名(申込先着順)
参加費:1,000円
主 催:一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団
共 催:日本イギリス児童文学会
協 賛:パナソニック株式会社/サントリーホールディングス株式会社/
株式会社富士通システムズアプリケーション&サポート/
ムサシ・アイ・テクノ株式会社
*子どもゆめ基金助成事業
http://www.iiclo.or.jp/03_event/02_lecture/index.html#280522◇


*以下、ひこです。
『まだなにかある』(パトリック・ネス:作 三辺律子:訳 辰巳出版)
 YA期は、身も心も、その輪郭線があいまいになって、右往左往している、と極度に思い込んでしまうことが多いけれど、この物語はある意味でそうした時期を、SF仕立てのディストピアとして描いていると言えますが、何かが明らかになったと思ったら、それは同時に、わからないことが増えてしまう事態は、YA期に限ったことでもないので、そうした事態をYA期として設定して、描いて見せているとも言えるでしょう。
 現実を透徹したり、奥底をえぐり出すために物語は様々な骨組みや枠組み、統御する何かをつい必要としてしまいます。というか、物語はそうした何かによって現実と対峙する力を持ちます。魔法も、悪いオオカミも、そうして召喚させられる。
この物語は、そうした物語の特性や縛りの方をあいまいにして、現実により近づけたら、もしくは現実がまるで物語であるかのように装ってみたらこんな物語? といった試みをしています。
舞台は、現代の後の世界のようであり、自分が信じていた現実が、夢見せられていたものであるかのようであり、いやもしかしたら、目覚めた今の方が夢なのかもしれないと思えたり……。しかもここにある物語自体もまた別の物語であるような気がしたり……。
クラクラしてみてください。

『十三番目の子』(シヴォーン・ダウド:作 パム・スマイ:絵 池田真紀子:訳 小学館)
 ダウド、生前最後の作品とのこと。
 貧しい小さな島。地底の暗黒の神ドンドは、村人の誰かの十三番目に生まれた子を海に捧げれば十三年の安寧を与えると約束する。
 村人は気を付けて十二人しか子どもを産まないようにする。十一人の女の子を産み、男の子を待ち望んでいたネブの十二回目の出産。彼女は双子を産んだ。十二番目に生まれた男の子は残され、十三番目に生まれた女の子ダーラは長老が育てる。十三年後に海に捧げるために。
 十三年目が近づき、明らかになる真実とは?
 多くの作品で、親子関係の奥深い場所を語ってきたダウドが、神話的世界の中で、切れそうになるつながりを描きます。

『水の継承者 ノリア』(エンミ・イタランタ:作 末延弘子:訳 西村書店)
 軍の支配下に置かれた村。自然破壊の果てに水は貴重な資源となり、わずかながらの配給で人々は生きながらえている。支配者にとっても自然にわき出る泉を手に入れることは重要だ。
ノリアは茶人の家の娘。代々受け継がれてきた泉を秘密裏に守っている。その水こそが、茶道の神髄であり、自由の象徴でもあるからだ。けれど一方、村人たちからも泉を隠す痛みもある。
やがて軍が動き出し、ノリアは選択を迫られていく。
ディストピア小説が何故今読まれるのか。そしてディストピア小説がYA小説となじみやすくなっているのは何故か。色々考えさせられる一冊です。

『シナモンのおやすみ日記』(小手鞠るい:作 北見葉胡:絵 講談社)
 なつみは、祖父母、両親、おばさんとその息子で暮らしている。
 フライトアテンダントのおばさんがおみやげに買ってくれた日記帳のページの隅には猫の絵。それはいなくなってしまった愛猫シナモンとそっくり。
 なつみはシナモン宛てに日記を付け始める。すると、シナモンからの返事が書かれている!
 小さな可愛いお話。小手鞠と北見からの贈り物。

『少年・空へ飛ぶ』(おぎぜんた 偕成社)
 ケンは、上手く学校に溶け込めず、友達もできない。それはケンのせいではないし、どうすればいいかもわからない。
 物語は解決を図ろうとはせず、ただ、ケンの心がどのように動き、空想に逃れ、現実と向かい合いしていく様を短い言葉で連ねていくだけです。
 そうして読者はケンの心に沿って、体験することになります。

『クマと家出した少年』(ニコラ・デイビス:文 もりうちすみこ:訳 さ・え・ら書房)
 代々踊るクマの芸で生活してきた一家。ザキの父親な息子に継がせたいと思っているが、ザキはかわいいこぐ目立ちをそんな目には遭わせたくない。クマの保護団体は父親に転職の世話をするので、クマを手放すようにうながすけれど首を振りません。ザキが世話をしている子グマたちに芸を仕込む日が近づいたとき、彼はクマたちを連れて家出を決行。自然の知らない子グマたちは野生に戻れるのか。そしてザキはどうなる?
 伝統と野生動物保護という問題を子ども読者に伝えます。

『ややっ、ひらめいた! 奇想天外発明百科』(マウゴジャダ・ミチャルスカ:文 アレクサンドラ・ミジェリンスカ&ダニエル・ミジェリンスキ:絵 岡部優子:訳 徳間書店)
 発明ってのは、それが本当に役立つかどうかではなく、役立つと思って考える人間ってのがおもしろいのですが、ここにはそれが満載です。
 これが全部実用化していたら、とんでもない世界だ。

『こっちん とてん』(かたやまけん 「こどものとも0.1.2」二〇一六年五月号 福音館書店)
 スプーンが、カナヅチが、目覚ましが、何でもいいや、とにかく走ってきて転んじゃう。それだけの絵本。子どもは、もう走ってしまう。結果、転んでしまう。でも泣かないでニコニコして立ち上がる。そんな感じというか、そんな幸せを描いています。
 いいなああ、やっぱり片山さん。

『このあと どうしちゃおう』(ヨシタケシンスケ ブロンズ新社)
 発想絵本三作目。
 今回は死んだおじいちゃんが遺した、死んだ後どうするかノートから始まります。
 死ぬまでにやりたいノートはありまずが、ヨシタケは死んだ後を考えます。
 なるほど、そう発想すると、確かに、死んだ後にやりたいことは一杯あるなあ。
 そこから、今在る生を見返しますよ。

『図解絵本工事現場』(モリナガ・ヨウ ポプラ社)
 橋、道路、地下などの工事現場を、『築地市場』(小峰書店)のモリナガが描いています。元々大人向けに出ていたのを子ども向けに再編集とのこと。
 やっぱり、面白い。
 男の子向けではありません。女の子だって好きです。

『名画で遊ぶ あそびじゅつ! 世界の楽しい美術めぐり』(エリザベート・ド・ランビリー:著 大沢千加:訳 ロクリン社)
 長崎出版からロクリン社へ。
ディテールから絵に親しんでいく試みです。捜し物絵本の名画版。
もちろん捜し物絵本のように、そのために描かれた絵ではありませんから、ディテールから迫る試みは、画家の意図や制作方法を探ることにもなるでしょう。
また、ディテールからアナログ絵画に迫っていくと、ディテール同士の溶け込み合いが見えることもあります。つまり、デジタル絵画との違いを知ることも。

『おじゃまなクマのおいだしかた』(エリック・パインダー:さく ステファニー・グラエギン:え 三辺律子:やく 岩崎書店)
 ある日トーマスは毛布やクッションで洞穴を作る。ここはトーマスの隠れ場所で、落ち着ける場所で、自分だけの場所。
 ところがなんとクマがそこを占拠!
 トーマスは様々な方法でクマを追い出しにかかる。
 絵本でないと出来ない面白さに満ちた作品。
 そして、だからこそ描ける、達成感と受容。
 上手い!
 文と絵がいい感じに溶けこんだんだなあ〜。

『かくれんぼ 朝鮮半島のわらべうた』(池 貴巳子 福音館書店)
 「かくれんぼ」「おいしそうだな やあむにゃむ」「ゆきのうた」の三つが紹介されています。
池の描く子どもの遊ぶ姿が、とても活き活きとして、こっちまでうきうきしてしまいます。
多文化理解と共に、外遊びの楽しさも思い出せますよ。

『すばこ』(キム・ファン:文 イ・スンウォン:絵 ほるぷ出版)
 私たちが今知る巣箱の歴史ってまだ百年ほどなんだ。知らなかった。
 ドイツのある男爵が、小鳥を好きで、自分の領地の森で巣箱を置いたのが始まりなんだ。
 イ・スンウォンは、一羽一羽愛おしそうに小鳥を描いています。
 緑の配置も素敵。

『ぽかぽかすずめ』(山岡ひかる アリス館)
 すずめさんたち、寒い寒い。カラスが羽の中で暖めてあげるよと言ったので、潜り込む。ああ、ぽかぽか。でも、大丈夫?
 山岡のシンプルで表情豊かな絵はいいなあ。

『ニュース年鑑2016』(ポプラ社)
 今年は国会前デモ写真が表紙で、巻頭には「戦後70年はどんな年」として、戦後について、今戦前と呼ばれる意味。それを否定する意見。ISなどテロ問題と、しっかりと戦後70年を押さえています。

『あらいぐまのヨッチー』(デイビッド・マクフェイル:作・絵 三原泉:訳 徳間書店)
 あらいぐまの子どもヨッチーは、カモのエミリーと友達になります。エミリーが卵を産んで温め始めます。ヨッチーもお手伝いで卵を温めます。孵った雛とヨッチーも仲良しになって……。
 春のポカポカ絵本です。

『干したから・・・』(森枝卓士 フレーベル館)
 ドライフルーツからかつぶしまで、干物が一杯。おいしくなる。保存がきく。様々な利点と共に世界中の干物を写真で紹介しています。
身近な者が一杯ですが、絵本の形であらためて眺めていると、人間の知恵ってこういう風に動くんだなと再確認。
見ると食べたくなるな。今日の夕食決定。

『とうめいにんげんのしょくじ』(塚本やすし ポプラ社)
 『このすしなあに』から始まったシリーズ。
 とうとうこう来ましたか。塚本さん。
 ぼくにしかみえないとうめいにんげん。ってか、ぼくにはみえるとうめいにんげん。とうめいにんげんも食事をして、だから胃の中に入った食べ物も見えて、だからそれはやがては大腸に行くわけで……。
 こういう展開で食の話を絵本で伝えられる塚本さんっていいなあ。

『かんこうさんがふってきて』(大阪市立豊崎小学校の子どもたち:作 たじまゆきひこ&うちべけいこ:おてつだい くもん出版)
 かんこうさんとは菅原道真のこと。
 学校でいじめられているぼく。ある日、かんこうさんと出会う。ぼくもかんこうさんも謂われなきことで苦しんでいる。
 祭りの賑わいと共に、物語は展開していきます。
 やはりなんといっても子どもたちの絵の力。
 たじまさんもきっと楽しかっただろうなあ。

『モカと幸せのコーヒー』(刀根里衣 NHK出版)
 刀根のボローニャ国際エゴン原画展入選作品がようやく絵本として登場です。つまりこの作品の元素材はデビュー前に作られています。
それからどのように変化していったか知る術はありませんが、最初の要素や香りは確実に残っているでしょう。
日々に疲れた若者のモノローグで展開します。彼の前に現れたモカというわかいい生き物。そしてコーヒー。
そうして、ぼくの心が少しずつ柔らかになっていくまでを描いています。
刀根作品が何故心を引きつけるかがよくわかる一品です。と同時に、これまで出版されたものとは別の方向を探る可能性もここにはあります。
いや〜、ますます楽しみな刀根世界です。

『つちはんみょう』(舘野 鴻 偕成社)
 舘野の描く虫は強い。綺麗とか、精密とか、美しいとか、確かにそうなのですが、その表現は似合わない。
命の強さに溢れている。
もちろんそれはあくまで舘野の目から見た虫の姿としてあり、逆に、だからこそ私たちは、舘野に導かれて、虫へと近づいていけます。
このダイナミズム。すごいよ。

『みつけてくれる?』(松田奈那子 あかね書房)
 もうすぐおねえちゃんになる女の子の心の揺れを描いています。
 これは永遠のテーマですので、どう描くかなのですが、松田は、この少女はなちゃんが、とりあえず逃げるように話を進めます。逃げるとは、移動することでもあるので、そこで色々出会い、色々考えていきます。旅ですね。冒険ですね。そしてやがて受容していく。
 この展開は上手いなあ。
 春の色合いと共にお楽しみください。

『まりひめ』(岩崎京子:作 市居みか:絵 すずき出版)
 お姫様は、好き嫌いはあるし、お片付けはしないし、寝坊はするし、とってもマイペース。
 お城にとどまっているわけもなく町中に飛び出しますが、そこで見た大道芸に心を奪われ、自分もやろうと思います。
 市居の絵が、まりひめの明るさを全開しています。

『チョコたろう』(森絵都:ぶん 青山友美:え 童心社)
 チョコから生まれたチョコたろうは、みんなを幸せにするために、おいしいチョコを届ける旅に出ます。
 どんなトラブルも、チョコを食べればみんな仲良し、みんな元気。
 ところが泥棒が現れ・・・・・・。
 桃太郎は征服の旅にでますがチョコたろうは違います。そこに作者の願いがあります。
 しかしチョコたろうって、どう描けばいいんだろうと思うけど、青山は見事に造形。なんと言えばいいのか、この人がチョコたろうですとしか言いようがない、チョコたろうです。

『小さな本の大きな世界』(長田弘 クレヨンハウス)
 昨年亡くなった長田が、東京新聞・中日新聞に二〇〇六年から書いていた子どもの本エッセイを主として書籍化。七〇年代から、子どもの本の力を伝えた。ってか、やっぱりかっこよかった。『ねこに未来はない』には、そのタイトルからしてノックダウンされたし。詩人で、エッセイストで、翻訳者で、作家で、贅沢な人生だった。
 この本には、長田が愛して止まない子どもの本たちが大人をも含んだ人々にとって価値のあるものとして書かれたエッセイが一四五編収められています。ここから導かれて、読み始める人たちが出てきますように。
 綺麗で読みやすい日本語なのは、当たり前か。

『百人一首がよくわかる』(橋本治 講談社)
 タイトルまんまの一冊です。
 「恨み泣き 乾かぬ袖は まだいいの 恋に負けてく 私がやなの」。「秋の田の 刈り入れ小屋は ぼろぼろで わたしの袖は 濡れっぱなしさ」。
 デビュー以来橋本が、小説からエッセイまで一貫して展開している、世界の読み解きの一つですね。