じどうぶんがくひょうろん

No.4 1998/04/25


           
         
     
『新しい森・2050年西新宿物語』
(小川みなみ 講談社1998年 1500円)

 環境破壊により、地球上はに昆虫が以上発生し(茶羽ゴキブリ!)、人間には住みにくくなった世界。ナツカは、絶滅目前の鳥類の遺伝子を保存し、クローンで増やし蘇らせるためのプロジェクトの所長。いつもは安全なカプセル世界から指示を出しているだけなのに、プロジェクトの現場、2050年の西新宿にある研究所を訪ねる。と、そこの担当者はとてつもなくいいかげんで、所内(遺伝子を保存する現場!)はほこりが一杯。なのに担当者は気にする風情もなく…。
 何故だ!
 よく有りげといえば、近頃有りそうな設定の物語。でも作者、さすが高校の生物のセンセ、ちゃんと押さえる所は押さえてます。


『月の精』
(ジャスティ・シェーン作 中村圭子訳 ぶんけい1998年/1993年1600円)

 我が国では、「アダルト・チルドレン」がブームになってから、すっかり忘れられたような命題に「拒食症」があります。このノルウエーの物語、「拒食症」の現象をまっとうに描いてます。
 成績もよく、きれいなシンディは、BFのヘルゲが何も言わず引越して言ったことで心のバランスを崩し「拒食症」へと傾いていく。けれどそれはきっかけに過ぎず本当の理由は?
 もちろん「拒食症」は様々であり、この物語のケースはあくまで1例ですけれど、フェミニズムの視点で読んでも面白いと思う。訳者の後書きも、ちょい言い過ぎですが、的確。



『アタック! ひいばあちゃん』
(石神悦子作 長野ヒデ子絵 大日本図書1400円)

 5年生の薫は同居しているひいおばあちゃんが大好き。バレボールのエースアタッカー、元気一杯でトムボーイな薫を、ひいおばあちゃんはうらやましげ。
「今度生まれ変わったら、かおちゃんのような元気な女の子になりたい」。
 同じ部屋で眠っているとき地震があり、二人の心は入れ替わってしまう。元気なひいおばあちゃんとなる薫。薫は、せっかくだから、私になって元気な女の子をやるように、ひいおばあちゃんをはげます。
 バレーの大会が近づき、二人は特訓をする…。
 入れ替わり設定はよくあるもので、有名なのは山中恒の「おれがあいつで、あいつがおれで」(大林監督の「転校生」の原作)ですが、だからこの物語、別に新しいものでもないけれど、そうした、ありそな設定で、どういうメッセージを彫刻するかが物語のツボ。
 『アタック! 』は、「今度生まれ変わったら、かおちゃんのような元気な女の子になりたい」という「昔の女」のルサンチマンを結構うまくすくっている。


『夜行バスにのって』

(ウルフ・スタルク作 遠藤美紀訳 偕成社1200円1997/1994)


 『しろくまたちのダンス』で、父と息子を見事に描いた、今邦訳では一番注目されるスタルクの最新訳。今回も父と息子のお話。
 シクステンのとうさんは夜行バスの運転手。とうさんが好きなシクステンだけど、一人の夜はもっと好き。というのは、
「かあさんが家を出て再婚してしまってから、父さんにはシクステンしかいませんでした。だけど、だれかの、たった一つのものでいることは、そんなにかんたんなことではありません」(44)。
 父さんはしょちゅう仕事の最中に電話を掛けてくるし、やっと買ってくれた自転車は安全だからという理由で、なんと女の子用!
 それに、日常生活を気にしなくなったのも問題。TVは壊れたまんまだし、洗濯機も。
「きれいな服がないのです(略)。洗濯機がこわれてから、シクステンの夏の服は底をついてしまいました。父さんは修理をする気がないのです。母さんが出ていってから、父さんはいろんなものを修理する気力をなくしているのです」(13)。
 だから夏なのにシクステンはセーターを来て学校に行くしかなかったり。
  このままではいけない!
 年上の友人ヨンテと共にシクステンは、父さんにガールフレンドを見つけようとしますが…。
「いまのままで、うまくいってるじゃないか。父さんは、ほかにはだれもいらないよ。おまえがいるからさ」(106)。
 やれやれ。
 離婚を経験した母親が娘に依存してしまう事例がありますが、これはその父息子版。一見断絶親子みたいだけど、全然反対。お互いの思いやる心が少しズレているだけ。
 そこをユーモアで描くスタルクの目線の確かさには感心します。父親よりも現実状況が見えているシクステンがなんとも素敵。


『テンカウントは聴こえない』

(緒島英二作 ポプラ社1997 1400円)


 自分にとって英雄だった父親が目の前でその輝きを失っていく…。
 草太はテキヤの定吉おじいちゃんと共に父親探しの旅をしている。父親はボクシングの元東日本チャンピオン。けれど負けた後、再起できずそのまま蒸発したのですね。それでも草太は父を信じている。きっと帰ってくる。父は負け犬ではない、と。
 定吉じいちゃんの渡りと共に新しく転校してきた学校。クラスではイジメが。それも草太たちが世話になっているテキヤのおじさんの息子和也が。関係ないとシカトするつもりだったけど…。
 和也イジメの中心だった本西が逆に孤立していくプロセスは「イジメ」の顔をうまく捕らえている。
 父と息子の物語なのか、学校物語なのか、残念ながら中途半端さは否めません。
 べつにどちらか一方に絞ればいい、絞るべきだというのではなく、元チャンピオンの父親の蒸発、テキヤの祖父といった、やや特殊な設定(デフォルメといってもいいでしょう)で語られる「父と息子の物語」と、リアルに描こうとする「学校物語」がうまくかみ合っていない。
 二つの物語の関係は、次のようなものです。草太がイジメ問題にアクセスしていく原動力は、「尊敬する父親」の影響です。一方、そうしたアクセスによって草太は、「強くなる」ことが大事だとの自分の考えを変えていく。変わることで、今は自信を喪失している父との再会を物語は準備することができる。
 つまり、互いが一方の物語を進展させる役割を負っているのですが、先に述べましたように、両者は質が違い、そのことをどれほど意識し操作するかの点で、「テンカウント」は弱い。
 そのために、「人間てやつは、みんなしあわせになるために生まれてきたんじゃないですか」(230)といったセリフ(父親の友人が、いじけている父親に言う)が、いささか浮いてしまう。


『ぼくたちの船 タンバリ』

(ベンノー・プールドラ作 上田真而子訳 岩波少年文庫 700円1998/1969)


 旧東ドイツの作品。というだけでも読む価値ありですね、これは。それと、30年前の物語を読むってのもおもしろい体験。
 舞台である漁村に、若い頃村をでて船乗りのなった男ルーデンが帰ってくる。老後を過ごすために。タンバリと名づけた小さな漁船で漁をしながら生きるつもり。
 けれど、自由気ままに生きてきた彼に村人の目は冷たい。
 ルーデンと知り合った主人公の少年ヤンは、彼の船乗り時代の話に魅せられ、唯一の友人となる。
 亡くなったルーデンは遺言で、タンバリ号を村に残す。けれど世話が大変だと、村人は迷惑がる。ただヤンだけが、タンバリ号を愛している。いつかタンバリに乗って船出するのが夢。けれど子どもの彼はそれの世話もままならない。一計を案じたヤン。友達と団を結成し(この辺りが共産国で面白い)、そこがタンバリ号を管理すると村人と掛け合う。
 厄介払いとばかり、村はタンバリをヤンたちに譲り渡す。風雨に傷んだタンバリを熱心に修理する子供たち。自分たちの船だから!
 が、村人たちが資金をつぎ込んで作ったやな(定置網)が嵐で壊れ、多大な借金が残る。あのタンバリ号を売れば、それを無くすことができる…。
 一度子どもの揚げた物を、大人の都合で取り返すのか、それでは子どもは?
 大人と子どもの信頼関係を巡る物語。子どもの気持ちを考えようとする大人と、現実重視の大人の議論、喧嘩。
 大人が正直によく描けてます。こんな風の子どもとの関係を考える大人っていいな。


『おれの墓で踊れ』

(エイダン・チェンバーズ作 浅羽莢子訳 徳間書店1998/1982 1600円)

 なんともすごいタイトルですが、これ原題通り。編集部註に「著者によれば、原題Dance on my Graveは、英語の慣用表現Dance on your Grave(おまえの墓の上で踊ってやる=おまえが死ねば万々歳、というほどの挑発を意味する)を反転させたものです」とある。
 であれば、「 Dance on my Grave」には、ある種濃厚な愛が存在するであろうことは想像が付く。
 16歳の少年ハルは、友人の墓を破壊した罪で逮捕される。その動機は?本人は口を閉ざしたまま。このままでは悪い判決が下り、ハルの将来も危うい。
 ハルが信頼する教師オズボーンは、ハルに手記を書くことを薦める。それは、告白で有ると同時に、癒し行為でもあった。
 この物語はその手記とその間に挿入される担当ソシャルワカーの報告書などによって構成されており、独自の雰囲気を醸し出していのやね。
 ハルが年上の友人バリーの墓を破壊した(上で踊った)のは、バリーの「遺言」に即してなのだが、ここでの「友人」は「恋人」に書き換えなければならない。恋人の遺言にハルは従ったのだ。
 なら、同性愛者の少年を巡る物語なのか、といえば、そうでもあるし、そうでもない。
 もしこれを異性愛者の物語としてみれば、しごく単純な恋愛、自己探し物だろう。それを同性愛者とすることで、変わるのか?
 変わらない。
 当たり前だ。異性愛者であろうと同性愛者であろうと、近代的自我が引き起こす恋愛は同じ。
 異性愛者が同性愛者に向ける、偏差的視線の間違いを、物語はじっくりと教えてくれる。