じどうぶんがくひょうろん

No.7 1998/06/25号


           
     
*発行年は「原著年/訳年」です。

『ぼくには しっぽが あったらしい』
(なかがわ ちひろ 理論社 1998 10 00円)  

 傑作「のはらひめ」(徳間書店)の作者による新作。もの自体は以前からあったのらしいのだけれど(つまり出版が遅れた)、ここ数年のこの国の子どもを巡る話題(何だかそれももう、不景気風の中、消費されてしまったかのようだけど)の中にこれを置くのもまた、おもしろいと思う。
 タイトル通り、主人公の「ぼく」は自分の不在であるシッポを考え(「おしりの上あたりがときどきムズムズする」)、そこから次々と人間である「ぼく」への視線をひろげていく。しっぽがあったのなら「ぼく」はけものである。実際顕微鏡で肌を観察すると薄い毛がびっしり生えている。「人間ってのは、ちょこっと 毛がはえてて かなり ハゲてる ちゅうとはんぱな けものなのだ」。そうして「うろこだって あったかもしれない」し、「たぶん しょかくも あった」し、「ぼくのなかに 海がある」し、「ぼくは ちきゅうの子 ちきゅうはうちゅの子」だと、「ぼく」と世界を繋げていくわけ。
 とてもシンプルな絵物語だけど、自分が何か、自分が一体どこにいるのか、それが見えない、自分にリアリティがない、そんな子どもたちにとって、自分の輪郭をどう掴むかの一つの方法がここにはある。

『手紙でしか言えなかった・レターカウンセリングの子どもたち』
(八巻香織 新水社 1998 2000円)

 これはフィクションではありません。手紙によるカウンセリン
グを行っている「ティーンズポスト」(0427-20-0221)の代表・八巻香織のエッセイ。「はじめて手紙を送る相談者はどんな心持ちで投函するのだろう。受け取る人がどういう人なのか、まったく分からないところへ自分の内面を書いて送るということは、とても勇気のいることだと思う。」と書かれているように、このカウンセリングは手紙をやりとりするという、まだあまり知られていない方法と使っている。
 手紙を書く行為は、読み手を想定する事で物事を整理することができる効能があります。対面や電話によるカウンセリングと比べてライブ感はないのですが、その代わり自らが自らと向かい合うきっかけを作り易いのです。
 そうしたレターカウンセリングの現場で八巻が考えたことが、この書物に綴られています。

 ナズナは、地元の小学校、中学校、高校に通っていたが、そこではいつも毎日陰湿ないじめが待っていた。学校では、「子どもの自立を育む」という方針のもとに、〈迷惑かけないよう、自分のことは自分ですべてこなし、いつもがんばる〉という自立の概念が支配していた。
 これは、学校だけじゃないところにも根強くあるインチキな自立の考え方だと思う。仮に、自立を「迷惑かけずに、自分のことは全て自分でできること、いつもがんばること」としてみよう。そういう世界があるとするなら、人はみな孤立してしまうのではないだろうか。
 こういうインチキな自立を子どもに強いるところでは、当然子どもは息苦しい。たぶん、大人だって息苦しいはずだ。そういう素振りは見せないかもしれないけれどね。
 大人が子どもを自立させようとするほどには、子どもはインチキな自立など苦しそうだからしたくないと思うだろう。それじゃあ、仕方ないと、今度は競争させたり、脅かしたりする。子どもが求める前に情報やモノを与える。そして、子ども本来の自分で立つ力をはぎ取ってしまう。大人は自立できない子どもを嘆く。実際、ナズナの通っている学校ではいじめが絶えなかった。息苦しい人たちが自分を認められないところでは、傷つけ合う行為やもたれあう行為によってしか、自分を守ることができないのだ。15


 他者のいのちをコントロールすることはできないのだ。相談者のかわりに問題を解決をすることはできない。相談者のこころの苦しみを感じ取ることはできても、それを泥棒することはできない。自分の不安を相手にたれ流したとしても自分は救えない。その姿勢を貫くために自分のこころをケアすることが、唯一私にできることなのだろうと思う。無条件で受けとめても、無責任は認めないために、私は私自身にできることをしよう。しかし、ある時、思ったのだ。きっと、相談者はそういう姿勢の貫き方を知るために手紙を送ってくるのではないかと。今まで、だれよりも、そういう姿勢で関わる相手をもとめてきたのではないかと。179

 熱い本だ。

『ふわりん』
(カルメン・クルツ 柿本好美訳 徳間書店 1996/1981)

 スペインの物語。ふわりんとは生まれなかった子どもです。この物語の場合男の子なんですが、彼は「楽園」をでて両親の元に行くべく旅をしています。その間に、貧しいおじいさんや、病気のあかちゃんなんかを助けていきます。
 やがてたどりついた両親の家、そこには弟がいて、小児麻痺の彼をふわりんはサポート。

「コリン、いい子だ。ころぶことをこわがっちゃだめだ。ころぶときは、からだを丸くするんだよ。はやく、ころびかたをおばえるんだ。けんこうな人だって、ころんで、ほねをおったりするんだからね」ちょうどそのとき、あともう少しで平行棒というところで、コリンはころんでしまいました。ふわりんは、すばやくコリンをだきとめると、早くおきあがれるように、手伝いました。146

 生まれなかった子どもが主人公ってのがまず、すごいですね。彼はとても悲しい存在だとつい思ってしまうけれど、そうではなく描く所がいい。原語ではどうなのか判りませんが「ふわりん」ってのがなんとなく、ピッタリします。
 そして、つぎのような部分もちゃんと押さえてある。
 コリンはふわりんのサポートもあって少し歩けるようにもなり、みんなと同じ小学校に行くこととなる。

「お兄ちゃん、聞いて! ぼく、小学校に入学するんだ。そしたら、みんな、ぼくのことニコラスってよぶんだよ。おじいちゃんとおなじ名前だよ」 おじいさんとおなじ名前でよばれることを考えると、コリンはうれしくて、天にものぼる気分になりました。(略)「学校に行くようになったら、もう、家でも、コリンなんてよばせないんだ」 (略)「お兄ちゃんは、パパとおなじアルトゥーロって名前だったかもしれないね」「そうかもね」183

 でも実はそうじゃなくて、ニコラスという名前は、両親が生まれてくるはずのふわりんのために用意していたものだったんですね。 ここに、ちゃんと「悲しみ」も作者は描いている。

『笛吹童子』
(北村寿夫・原作 橋本治・文 講談社 1998 1500円)

 物語が低空飛行な現在、しっかり物語をしている古典の冒険文学を、活きのいい作家たちに翻案してもらおうというこの企画。「宝島」や「タイムマシン」など、王道の古典のリストの中に、橋本治の希望で、「笛吹童子」が入ったという(あとがき)。ラジオ版は世代的に私はしらないけれど、実写版は夢中だったので、それを橋本治が書くってだけでもう、嬉しいったらない。挿し絵が岡田嘉夫ってのもパーフクト。好きな方には、おいしい一品です。

『ねじまき鳩がとぶ』
(青山邦彦・作 青山邦彦+多田敬一・画 パロル舎 199 8 1600円)

 絵本です。 玩具作りの職人である青年。彼は店にやってきたおもちゃ好きの彼女が好きになる。お屋敷に住む彼女のもとに手紙を届けようと、「ねじまき鳩」を作り、彼女の部屋の窓辺へと飛ばす。ところがやってきたのは、彼女の父親。おもちゃ会社の社長。ぜひこのねじまき鳩を我が社で製造させてくれと・・・。
 ラストはもうおわかりですよね。典型的なロマンチックラブ物語。

『地しんなんかにまけないぞ』
(鹿島和夫・編 坪谷令子・絵 理論社 1998 1200円)

 阪神大震災を経験した子どもたちの詩を鹿島和夫が纏めた書物。
やけたいえ 
むらとめめぐみ(2年)

 わたしはやけたいえにきてなきました
 なきおわっていまのいえにかえりました
 わたしはいまのいえでまたなきました
 なきおわってあしたになってまたなきました
 そしてなきおわってまたやけたいえにきました
 そしてまたなきました


ひなんばしょ 
あおきさち(三年)

 きょうも 
 お父さんとお母さんたちのひなんばしょにかえったいな
 おかさんのところもいいけど
 やっぱり家がなくてもお父さん お母さんのところがいい
 やくしょからぎえんきんをもらった
 うれしいようなかなしいようなふくざっなきもちだと
 お母さんがいっていた
 やっぱり ぎえんきんよりも家がほしい

 もちろんこれらは、地震によって生まれた詩たち。だから、そのように読めばいいのですけれど、同時に、地震という事態によって、子どもの心が飾ることなく現れていることも大切にしたい書物です。

『子どもの本の森へ』
(河合隼雄 長田弘 岩波書店 1998 1500円)

 おなじみの二人が色々な「子どもの本」について語り合った書物。
 ラフスケッチって感じで、さして新たな発見のあるものではありません。ただ、それが読みやすさを誘っており、敷居を低くし、入門書の面持ちがあります。
 語られていることより、大人がこういうふうに好きになる児童書って存在のおもしろさを確かめるためにはいい本。

『こうもりくん』
(ゲルダ・ヴァーゲナー ぶん エミーリーオ・ウルベルガー え いけだかよこ やく 徳間書店 1998/1996 1500円)

 スイスの絵本。 くらいところが恐い、子どものこうもりくんは、翼もピンク色。これじゃあ大人になれない。旅にでるこうもりくん。大人のこうもりになれるだろうか?
 という設定ですから、もちろん真っ直ぐな成長物語です。
 とはいえ、彼が暗闇に対する「ゆうき」を得るのは、なんとかいちゅうでんとうを手に入れてから。こんな所のすかし方がうまい!

『はこ』
(栗山邦正 作・絵 徳間書店 1998 1600円)

 絵本。
 一方こちらは、たいこを叩きながら野原を散歩している男の子。小さな箱を見つけます。開けると中からリスが飛び出してくる。またたいこを叩きながら散歩していると、今度はさっきより少し大きな箱。開けると中からウサギが・・・・。
 こうして段々大きな箱になってくるという、段取りです。
 ページを繰る方向繰る方向に少年は歩き、毎画面の右端の箱が開く。これはもうリズム感がどう出ているか、読み手がそのリズムに乗れるかどうかが勝負。
 こうした一方向物語って、やっぱり成長物語なんですね。『ぼくには しっぽが あったらしい』もこれも、最後は地球規模まで話は進むけれど、描いていることは全く違う。
 でも、この絵本に、もう一ひねり欲しいと思ってはいけないのかもしれない。