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『その時ぼくはパールハーバーにいた』 (グレアム・ソールズベリー作 さくまゆみこ訳 徳間書店 1994/1998 1600円) ハワイの日系人たちのパールハバーを描いた物語。主人公は日系の子ども。お父さんの時代にハワイに移民した。日本語はあまり得意ではない。白人の子どもたちの野球チームのメンバー。一緒に暮らすためにおじいちゃんが日本からやってきたけれど、なにかあるとやたら日本の軍旗を振り回すので、ぼくはちゃっといや。どっちかっていうとぼくは自分をアメリカ人だと思っているし・・。 そして、ある時、空襲が! 日本軍がぼくたちの島を攻撃したのだ。ぼくたち日系人の日常はそれから、変わってしまう。 ハワイへの観光なんぞで、なじみの深い日系人。そしてあのパールハーバー。両者を繋げれば、そこでなにが起こったかに思いを馳せることができるはずなのに、なかなかそうはしない、私たち日本人の戦争処理があります。 この物語、書き手が日系ではないんですね。それでも、こうした素材を書いておこうとする姿勢。彼の父親は太平洋戦争で戦死した(つまり日本軍によって)そうです。 『子どもの消滅』 (斎藤次郎 雲母書房 1998 1950円) 20年ほど前、児童文学の年鑑の創刊にあたって、斎藤次郎は寄せた原稿において、おおよそ次のようなことを述べた。 もし、児童文学が子どもの側に立たないのなら、ぼくは児童文学が滅びてもいっこうにかまわない。 子どもの側に立たない児童文学などあるものか、と思う人はとてもピュアだけど、間違っている。大人の側に立ち、子どもにもの申す児童文学は多いし。だから、そう言い切る斎藤の覚悟に、児童文学に興味を持ち始めてわずかの私は、感動したことをよく覚えている。 その斎藤が、最新評論集のタイトルに、『子どもの消滅』を選んだこと。 「子どもの問題はすべて子どもとおとなの関係の問題だ、と長い間ぼくは指摘してきた。それはただ、子ども以外のところに責任を求めてのことではない。子どもの不幸を悪として断罪するか、社会全体にかかわるSOSとして受け止めるか、いまこそ子ども論の党派性が問われていると思う。」 「『子どもの消滅』というのは、「子ども」という手垢にまみれた概念(それはおとなの思いこみに過ぎない)から子どもを解放し、無力の力と連帯し直すことなんだ。連帯の第一歩は、子どもたちの必死の要請に応えることだ。」 『子どもたちと産業革命』 (C・ナーディナリィ 平凡社 1990/1998 3200円) 経済学系の人が書いた歴史書。産業革命期、児童労働は過酷で、子どもたちは悲惨であったという、歴史認識の前提のようなものをひっくり返し、「産業革命によって作り出された新しい雇用は、子どもが搾取から逃れる機会をも生み出した」と主張する、刺激的な書物。 「産業革命以前は、子どもには親の支配にまかせる以外の選択肢がほとんどなかった。親に搾取されたとしても、通常はそれを受け入れる以外に選ぶ道はなかったのである。工場やその他の雇用主は、親の支配から抜け出す選択肢を生み出した。工場のおかげで、子どもはまだ十代のうちに家を離れることが可能になった。実際、子どもの自立の増加は、工場制度が生んだ悪徳のひとつとしてしばしば引き合いに出されたほどだった。」 「個人の賃金が高かったおかげで、子どもは……多少なりと平等に近い条件で親と取決めをすることができた。たいていのケースのように、もしその取決めが双方に直接的に好ましいものなら、すべては丸くおさまるし、関係は継続する」 親子関係を経済から見る視点がおもしろい。 また、児童労働の子どもと、それ以外の背丈に比較や、大人労働者との一年の休暇届け日数の比較などから、児童労働の子どもが他よりむしろ健康的だったと割り出す手並みも、なかなかのもの。 『むかしのこども』 (五味太郎 ブロンズ社 1998 1500円) 絶好調の(しかし、この人、ずーと絶好調のまま。鉄に肝臓かなんか持ってるのかしら)五味太郎描く、いわば「大人問題」の裏側からの絵本バージョン。なにもいうことございません。 『EE'症候群』 (皿海達哉 小峰書店 1998 1400円) 短編集。この作家、短編が旨い。今回のは、ちょっと恐いお話が集められている。といっても学校の怪談風ではない。 教育実習に来た、二人の先生。となりの組に来た北野先生はスポーツ出来て頭も良さそうでかっこいい。のに、こっちのクラスの藤谷先生ときたら。子どもたちは、彼を馬鹿にして楽しんでいる。実習が終わったとき、何か記念に隠し芸を見せてくれと生徒に言われる藤谷先生。北野先生はバスケのシュートをしてくれて、全部入ったのだ。 芸がないからと断っていた藤谷先生だが、仕方なくやったのは、裸足になって、右手で左足の親指を持って輪を作り、そこを跳んでくぐるというものだった。とてもぶさいく。みんなは笑い転げる・・・。しばらくして、藤谷先生の兄だと名乗る、教室に強面のおじさんがやってくる。弟は弟なりに一生懸命やったんだ、と。そして、クラスのみんなに、来週までに、藤谷先生がみんなに笑われた芸を出来るようになっておけ、と言って、去っていく。恐怖で、みんなは、一生懸命練習をする。そして一週間がすぎ・・・。(「うずくまった鳥のジャンプ」) 『アップルバウム先生にベゴニアの花を』 (ポール・ジンデル作 田中美保子訳 岩波書店 1989/1998 1900円) ポール・ジンデルといえば、『高校2年に4月に』(1968/1974)が有名ですが、ほんとに久しぶりの邦訳新作。 ニューヨーク。高校生のヘンリィとゼルダがコンピューターの授業中、アップルUEを使って交互に書いた告白書という設定の物語。 んー、89年時点でもう、そーゆー授業がアメリカではあったんだ。と、作品に関係ないところでまず、感心。 「とんでもないことが起きてしまいました。この本には、嘘やでっちあげはひとつもありません。 わたしたちは今、これを、高校のコンピュ-タの授業中、アップルIEに書きこんでいるところです。(ほかの子たちは、ドンキーコングとかデーモンアタックとかで遊んでますけど。) わたしたちは、なにもかもつつみ隠さず、みんなに話さなくちゃだめだと思ってます。だって、自分たちがしてることは正しいと思っていたんだから。いや、もしかしたら、正しくなかったのかも。 ひどいまちがいだったのかもしれません。じつは、いまだによくわからないんです。もしかして、これを読んだ人がわかってくれて、わたしたちを救ってくれるんじゃないかと思って。 とにかく、わたしたちは、アップルバゥム先生を傷つけるつもりなんて、これっぽっちもなかったんです。どうか、ぜったいに、そんなふうにだけは思わないでください。」 彼らが好きだった科学の先生アップルバウムが退職した。病気らしい。見舞いに初めて訪れた彼女の部屋。様々な実験器具と観葉植物。歓迎してくれたアップルバウム先生は、彼らに授業とは別の、様々なことを教えようとする。セントラルパークの素晴らしさ、そこに住むホームレスこと。先生は彼らに食料を毎日カンパしている。先生はそうして、生きていることの楽しさに満ちていて、まさにそのことを伝えようとしているかのよう。 やがて二人は先生がガンであることを知る。 先生の姪は余生を静かにおくらせたいと、ヘンリィとゼルダの出入りを禁止しようとする。けれど、二人は、姪が先生をちゃんとした医者に見せていないと思う。むしろ、先生がお金を遣わず死ねば遺産が転がりこむのを狙っているような。 そう思った二人は先生を著名なガン専門医診せるため奔走する。かいあって、先生は入院することになるのだが・・・。 果たして彼らは、何をしたのか? 『きみの犬です』 (令丈ヒロ子 理論社 1998 1500円) 男の子たちにはうんざり。こっちがおしゃれしてやってるのは誰のためだと思ってるの! ピナはご機嫌斜め。そんな気配に恐れを為したか、一緒にカラオケに来た男の子たちは、ピナ以外の女の子たちと、早々どこかへ行ってしまった。残ってくれたのは、親友のかおりんだけ。二人で思いっきり歌っていると、「あのー」。あー、こいつ誰だ? 一人の男の子が残っていた。全然目立たない奴。誰だ? そいつが言う。 「シロです。昔ピナさんが飼っていた犬の。今は人間のシロタですけど」。 なんだなんだ、それは! よーし、なら、 ピナは彼をシロとして扱うことに・・・。 振られてしまった男の子に、それでもコリずに尽くしてしまいそうなピナと、こっちはもう飼い犬としてピナに尽くしてしまうシロタ。この奇妙な関係。恋愛の奇妙さでしょうか。 シロタが、いいキャラしてます。 彼は本当にシロなのか、そうじゃないのか? |
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