じどうぶんがくひょうろん


           
         
     
1998/11/22号 通巻11号


族さがしの夏』(ニーナ・ボーデン作 西村醇子訳 中川千尋表紙本文カット国土社 1989/1998)
 『帰ってきたキャリー』でおなじみの、ニーナ・ボーデンの新作。原題は「THE OUTSIDE CHILD」ですけれど、この原題と邦題の差を考えるのも面白いでしょう。が、ま、どちらであれ、そのアプローチの方法次第はともかく、両者は、物語の中味をかなり的確に伝えています。

 わたしはジェーン・タッカー。プレイトー・ジョーンズは、わたしを「はみだしっ子」(「THE OUTSIDE CHILD」)とよんでいる。
 
 と切れのいいフレーズから始まる物語は、ジェーンの語りによって進められます。もう少し、彼女の生い立ちを自身に語ってもらいましょう。

 わたしにはお母さんがいない。わたしを産んですぐに死んでしまった。それにお父さんは船の機関士で、海に出ているときが多いから、ソフィーおばさんと、ビル(ほんとうの名前はウィルへミーナ)おばさんがめんどうを見てくれている。ふたりは、お父さんのまたいとこにあたる。おばさんたちのお母さんはふたご同士で、同じ日に死んだんだって。うちって、母親が早死にする家系かもしれない。
 こういうと、あわれっぽく、きこえるかな? でも、わたしはかわいそうな子じゃないよ。ときどき、そうにちがいないと決めつける人もいる。ソフィーおばさんとビルおばさんがわたしを養女にしようとしたとき、家庭裁判所から調べにきた児童相談員の女の人がそうだった。その人はにこにこしながら質問をたくさんして、わたしがこたえている間もにこにこしっぱなし。わたしがほんとうに養女になりたいのか、調べようとしていた。
「ジェーンちゃん、ちゃんとしたおうちでくらしたくないの? おとうちゃまとおかあちゃまがいるおうちのことよ」と、女の人はいった。
 わたしはそのとき七歳だった。「おとうちゃま、おかあちゃま」なんて、ちびといっしょにしないでほしいと思ったから、いってやった。
「でもできない、そうでしょ? お母さんは死んじゃったし、お父さんはいそがしいから」
「ええ、わかってますよ、お嬢ちゃん」その人がにこにこわらいを引っこめてまじめな顔になったのを見て、わたしはくすくすわらいたくなった。
 でも、そうしちゃいけなことぐらい、わかっていた。

 この、「でも、そうしちゃいけなことぐらい、わかっていた」が、ジェーンって子をよく現しています。
 さて、そんなジェーン、お父さんが帰ってきたとき、見たことのない写真を発見。そこには知らない子どもが、女の子と男の子、二人写っている。「この子たち、だーれ?」と尋ねるジェーン。ため息をつくばかりのお父さん。で、ソフィーおばさんが教えてくれる。「ふたりの名前はアナべルとジョージ。アナべルはお父さんのもうひとりの娘で、ジョージは息子。だから、ジェーンとは母親のちがうきょうだいよ」。彼女はショックをうけるより喜びます。一人っ子だと思っていたのに、急にお姉さんになったのだと。
 でも、そしたら何故、私にはそれが知らされていなかったんだろう?
 こうして物語は、彼女が一歳年下(ジェーン一三歳)のボーイフレンド、プレイトー・ジョーンズと一緒にその謎に迫るプロセスを追っていきます。両親が離婚し、妹と離ればなれで暮らしているプレイトーは言う。「おとなはうそをつくから、信用できないよ。なんでもかんでも、子どもにかくそうとするしね」
 この二人の子どものコンビがいいですね。七歳で「でも、そうしちゃいけなことぐらい、わかっていた」ジェーンと「おとなはうそをつくから、信用できない」と言い放つプレイトー。大人がイメージし、願望する子ども像から、それこそ「はみだしっ子」をしている子ども。いや、逆か。本当の姿を見ず、大人が、自分たちのイメージし、願望する子ども像に当てはめようとするから、「はみだしっ子」になる子ども。

 でも、「はみだしっ子」なんてフレーズの選び方、さすが、私と同世代の訳者です。機会があれば、みなさまにもぜひ、故三原順の傑作マンガ「はみだしっ子」に目を通していただけますように。今なら、文庫判で手に入ります。

計ネズミの謎』(ピーター・ディッキンソン作 木村桂子訳 評論社 1993/1998)
 楽しい物語の一つには、ある程度のお約束に読者が気持ちよく従えるタイプにものがある。下で取り上げる『あやとりひめ』もそうなのだが、『時計ネズミの謎』もまた、その一つであり、それも一級品の楽しさに仕上がっている。

 からくり人形の背中のふたを、やっとのことでこじ開けて、中をのぞいて見た。中には人形を動かす機械が少しあるだけで、あとはがらんどうになっている。おっと、こんなところにネズミの巣があるじゃないか。修埋中の時計の中にネズミの巣とは、まいったね。きたならしいネズミに、フンや食べかすをちらかされたリ、そこいらじゅうかじられたらたまらない。家でいつもネズミといや毒エサをしかけ慣れているから、ネズミ退治はお手のものだが、こんなふうに、子ネズミのいる巣にいきあたったら、殺すわけにもいかない。たいてい、親ネズミは逃げたあとだから、赤ちゃんネズミが入ったまま巣をとリだして、どこかそこらあたリに置いといてやる。あとで親が見つけるかどうか、そこまでは知らないけどね。
 ところが、この人形の中の巣は、なんだかへんてこだった。まずだいいちに、ふたをこじ開ける音がきこえたはずなのに、親ネズミが逃げずに残っていた。親ネズミは、ふるえながら巣の中からこちらを見ていた。まだ目も開かない子ネズミたちは、急におっぱいが出なくなったので、やたらと乳有を吸いたてていたよ。
 あんなにきちんとかたづいたネズミの巣なんて、見たこともなかった。床はまるでそうでもしたようにきれいだし、壁ぎわには、プラスチック製の、フイルムの空きケースが並んでいて、草の種や、レーズン、パンくずなんかが、ぎっしリっまっているんだ。
 それを見てピンときた。このネズミはふつうじゃないぞ。06

 なんて調子で始まるそれは、からくり大時計の仕組みから、それを設置し観光に役立てている架空の街の様子まで、手抜きなく描写しながら、テレパシーネズミと、彼らとであった時計職人(時計台の修理にきていて、その中に住む、時計ネズミと遭遇する)との交流や、わき起こる事件を、テンポよく伝えてくれる。
 挿し絵も、挿し絵ならず、抜き差しならず、本文とからまっていて、good!
 旨い物語の一つの見本。

『犬のウィリーと その他おおぜい』(ペネロビ・ライヴリー 神宮輝夫訳 理論社 1987/1998)
 この、そっけない訳題の付け方は、訳者のセンスの良さだけれど、原題の「A House Inside Out」も捨てがたい。
 物語はディクソン家を舞台に展開するのですが、ディクソンさんたちは描かれない。そうではなく、ウィリーを筆頭に、クモやネズミやワラジムシまで、この家に住まう生物たちの日々の生活(?)が、連作短編形式で展開されていきます。そうすることで、ディクソン家、というか、我々の日々が見落としている世界を示てくれる仕掛け。
 いかにもイギリスらしいユーモアに包まれています。                      
 

の帰還』(ロバート・ウェストール作 坂崎麻子訳 徳間書店 1898
/1998)
 夫ジェフェリーが出征したので、フローリーは飼い猫のロード・ゴートを連れて、田舎に疎開する。しかし、猫はそこになじまず、ジェフェリーの元に帰ろうと旅を続ける。そんな設定の物語。
 戦争時代を背景にした作品をウェストールは何作か書いているけれど、これもその一冊。日本の多くの、正しいだけで、「反戦」をつまんなく唱えた、いいわゆる「戦争児童文学」と、ウェストールのそれとは、違う。「反戦」や「戦争悪」を、彼は直接何も語らない。ただ、そこに戦争があるだけだ。
 この作品の場合それは、旅をする猫が出会う、様々な戦争風景、戦時下の人々として、描き出される。

 ロード・ゴートが子猫を産んだときのたまたまの飼い主スーザンは、夫が戦死し打ちひしがれ、家に閉じこもっていたのだけれど、猫の餌を買いにいかなくてはいけなくなる。

 自分で、丘の下まで買い物に行くほかはない。それにはきちんと服を着ないと。顔も洗わないと。大仕事だ。服はみんなめちゃめちゃにたんすに押しこんであって、どれもこれも無残にしわだらけだ。着られそうなものをよリわけて、アイロン台を出さないと……面倒な猫どもめ。おまけに、一番いいスカートは、ウエストがきつくなっていた。どうにか着こんだが、体がまん中でちぎれそうだ。
 けれど、顔を洗って、服を着て、まぶしい陽の中に踏みだすと、いつもとちがう気分になった。財布と配給手帳を持って、用事をすませにいくだけよ。人に会うことを思うと急に緊張する。でも。緊張するからって、あの猫どもをほってはおけないじゃない。179

 こうしてスーザンは死から生へと歩みなおしていく。

 他に、『弟の戦争』(徳間書店)『海辺の王国』(徳間書店)『ブラッカムの爆撃機』(ベネッセコーポレーション)『“機関銃要塞”の少年たち』(評論社)など。『“機関銃要塞”の少年たち』の続編が早く訳されないかなー。



『でんしゃが くるよ!』(シャーロット・ヴォーク作 竹下文子訳 偕成社 1998/1998)
 絵本。
 高くて細い橋の上。土曜日。ぼくと家族はここに来る。そうして、橋の上で、やってくる電車をながめる。警笛の音、ふるえる橋、ワァーと叫びたくなる。電車が通り過ぎるそんな一瞬のドキドキを、うまく捉えている。私も思いだした。そんなドキドキを。

『テーブルの下』(マリサビーナ・ルッツ作 青木久子訳 徳間書店 1997
/1998)
 末っ子のハナはテーブルの下が好き。遊ぶのも、昼寝もテーブルの下。そこはお兄ちゃんもお姉ちゃんも入れない。入れるのは小さなハナだけ。ある時ハナはテーブルの下の天井、つまりテーブルの裏側に自分の名前に始まってたくさんの絵を描く・・・。
 この作者、子どもの来待の流れに逆らわないで、ホントにうまい。

やとりひめ』(森山京・作 飯野和好・絵 理論社 1998)
 「古い、古い、むかしの話です。/ある山里に、アヤという女の子がおりました」で始まる物語は、昔話のノリで、ストーリーが進みます(もちろん、アヤという固有名詞がはなから与えられていることで、これは昔話と切断されてはいます)。父が亡くなり、母も病気で倒れ、アヤが母から最後にもらったのは、あやとり(だからアヤ)を教わるときに使っていた五色の糸。なんかもう、この辺りで、「よし、その、昔話ノリに乗った!」と思わせてしまうのが、森山京の腕。
 アヤは名主の家に奉公に。その働き振りに、名主夫婦はアヤを養女にしようと話合う。それを聞いていた、名主の弟は、財産を奪われてなるものかと、アヤをおそうのですが・・・。もちろん、そこからアヤがどのようにして逃れるか、どのような結末を迎えるかは、お約束通りにビシッ!と決まっていて、堪能です。もちろん、それをサポートするのは飯野和好の絵。

ママ ちいさくなーれ』(リン・ジョネル作 ペトラ・マザーズ・絵 小風さち・訳 徳間書店 1997/1998)
 絵本。
 おもちゃを片づけなさいだの、テレビをけしなさいだの、ママはいつもうるさい。おこったぼくが「ママちいさくなーれ」ととなえると、そうなってしまうママ。おもちゃのボートに乗せて、お風呂にうかべます。「おぎょうぎよく するんだよ ちゃんとはをみがくんだよ」とぼく。おぼれたらどうしようと心配するママに、ぼくは「ママは、つよいんだから」。と、ママ「いつも つよいってわけじゃないの。たすけて!」
 子どもの心を、とてもシンプルなクレヨン画でうまく、すくい上げた作品。ママが「いつも つよいってわけじゃないの。たすけて!」っていうのなんか、『かいじゅうたちの いるところ』との時代差を感じるね。
 
みつの友だち、みつけたよ!』(澤口たま・作 藤枝つう・絵 大日本図書 1998)
 マユはかわいがっていたセキセイインコのピヨを逃がしてしまう。それで落ち込んでいたため、友達のエリともけんか。仲直りしようとするけれど、きっけかけがつかめず、ますます落ち込むマユ。そんなある日、クラスのユウタが訪ねてくる。同じクラスだからって、話したこともないし、どうして? ユウタはセンセイの質問にもよく答えられないし、テストの成績も悪く
、「クラスのなかまは、いつのまにかユウタのことを、のけものにするようになった」いたのだ。「ユウタくんはきっと、わたしのことを『なかまはずれのなかま』だと思ったんだ」を思うマユ。次の日、学校でもしユウタの声をかけられたら、自分も仲間外れにされると思うマユ。でも、やってきたユウタは知らぬふり。マユはクラスで仲間外れにされている他の子たちのことも考える。その日、なんと彼ら全員がマユを遊びに誘うではないか。みんなクラスでは知らぬふりなのに。「そうだ。友だちって、学校の中だけでつくるものじゃないんだね・・・!」
 この短い物語、今まで気づかなかった仲間外れのこの気持ちをマユがわかることや、ラスト、「そのとき、ピヨによくにた声が、どこからか聞こえたように思いました。『ピヨもきっと、この山で新しい友だちを見つけたよね』」など、古風な正統日本児童文学の匂いが全体を覆っていますが、それでも、シカトはいけませんって方向じゃなく、シカトされた子どもたちが彼らでむれる方向に展開し、「そうだ。友だちって、学校の中だけでつくるものじゃないんだね・・・!」に至ります。

『みんなのからだ』(ミック・マニング作 ブリタ・グランストローム作 
百々佑利子訳 訳 岩波書店 1996/1998)
 絵本。
 「かがくとなかよし」シリーズの一冊。タイトルからも推察されるように、知育教育タイプの絵本ですが、「かがみを のぞいてみよう」から始まる、一連の「みよう」で、見開き画面が構成されていて、その行動を促すコピーの下で、人間の子どもと、動物が意味の上で並列されているところが、ミソ。「私」と「世界」の繋がり型の揺らぎが、現在この世界で起こっていることなのだけれど、この絵本、その繋がりを地べたレベルで問い返しているとも言える。

『おねえちゃんったらもう!』(クリス・ラシュカ作絵 泉山真奈美訳 偕成社 1998)
 絵本。
 カバのルーズベルトはいつも、おねえちゃんから、のろのろカバっていわれる。でも鳥の友達ランバートは、そのたびに、いろんな言葉で元気にしてくれる。だからもちろん、「ともだち」がテーマなんだけれど、おとうとにいつも文句つける、おねえちゃんの側から読んでもおもしろいと思う。

『ちへいせんのみえるところ』(長新太)作 ビリケン出版 1998)
 絵本。
 ちへいせんのみえるところに、「でました」「でました」と、次々にとんでもないものが出てくる、もうどこを開いても長新太。
 芸もここまで行けたら、言うことなし。