1999.03.25号 通巻15号
|
『本当は恐ろしいグリム童話』(桐生操 KKベストセラーズ 1998 1500円+税) ミリオンセラーとなったのですが、トンデモ本。 いかにも本当のグリム童話はこうだ!てなウリだけど、ただの安っぽい、愚本。セックスシーンが多ければ新しいという感性は、困ったもの。しかもその描写は、スポーツ誌のセックス紙面でも通用しないほどレベルが低く陳腐。読者もナメられたものですが、ナメられた読者が130万人もいるんだなー。必要経費で落とした私は助かったけど。 様々な雑学をさも真実っぽく、あちこちにちりばめてはありますけれど、その時代背景への無理解振りはなかなかなもの。もう少しちゃんと勉強してくださいな。 そして、こちらもさも、すごい!と見せるため、多くの参考文献が巻末に掲げられているけれど、タイトルから著者名まで校正ミスの嵐。ひょとしたら、殆どは読んでないのかもしれません(ま、もし読んでいて、この程度のものしか書けないなら、その読書はちっとも身になってないってことでしょう)。編集者が適当にグリム関係の研究書を意味も分からず並べたのか? ミスの傾向からいうと、スキャナの読みとりで起こるタイプが多い。 これ読んで、グリムを知った気になったら恥をかくのでご用心。 その意味では、本当に恐ろしい。 『レーナ』(ジャックリーン・ウッドソン さくまゆみこ訳 理論社 1994/1998 1500円+税) 昔、貧しい白人の炭坑労働者が住んでいた地域。閉山となり、人がいなくなる。が、そこは中心街からは程良い距離の郊外。白人の郊外には住めないハイソな黒人が住むようになる。そして、その周辺には貧しい白人たちが戻ってくる。 主人公マリーは大学の永久職(アメリカでは、大学の教師は業績がないと首になる厳しい職業ですが、永久職とは文字通り、そうしたことない、特権的な、つまりはそれほどの業績を積んだ研究者が得ることができるもの)にある父親を持つ、ハイソな家庭の黒人の娘。物語は彼女の一人称で語られます。ある日、彼女のクラスに白人の少女レーナが転校してくる。マリーの友人であるハイソな黒人たちはレーナを無視。けれどマリーは何故かレーナが気になり、レーナもまたマリーに近づいてくる。 黒人の作者はかなり意図的に、白人と黒人の位置を、従来のものから逆転させ、その両者の関係にある問題を浮かび上がらせています。 と同時にこれは、父親による性的虐待を受けているレーナの物語でもあります。 既成の価値観に染まっている私をドライクリーニングしてくれた一品。 『タンギー』(ミシェル・デル・カスティーヨ 平岡敦訳 徳間書店 1957/1998 1600円+税) これは元々1957年に出版された、一般書。児童書ではありません。日本でもその次の年に早くも、フランス文学研究と翻訳の巨匠、生田耕作によって訳されています。つまり、当時それほど話題となった小説だということです。 三〇年代、フランス人の父親とスペイン人の母親の間に生まれた男の子タンギー。スペイン戦争に巻き込まれて家族はフランスへ亡命。がそこはナチス支配となっていて、なんと父親は共産主義者の母親をナチスに売って、自分は逃げ去ります。収容所に入る母子。ユダヤ人でないことで収容所を出ますが、活動に身を捧げる母親はタンギーを捨てます。 そうしてタンギーはゲットー、孤児院と、たった一人で生きていく。 とても過酷な子供時代。自伝ともいえる(もちろん作者は自伝としてでなくフィクションとして読んで欲しいと願ってはいます)この物語が、今、児童書の範疇で出版されることは、意味深いでしょう。 子供を捨てる親の物語なんですから。 『おとぎ話が神話になるとき』(ジャック・ザイプス著 吉田純子・阿部美春訳 紀伊国屋書店 1994/1999 2600円+税) こちらは『本当は恐ろしいグリム童話』とは違って、本物のグリム研究書。グリムと言えばドイツ人ですから研究者もドイツ人が多いのですが、今ではこのアメリカ人の研究者を無視してグリム研究は出来ないでしょう。私がとても敬愛する研究者の一人です。 といっても、この本はそんなに敷居は高くありません。というのは、全体で1本でなく、比較的短い6本の論考だからです。好きなのを読めばいいわけ。 彼の方法論は地道です。直接グリムを語るときは、その時代のドイツの歴史・産業・文化など、つまり「グリム童話」のコンテキストを的確に押さえていくもの。例えば「眠り姫」なら、例の「紡(つむ)」に刺されて100年の眠りにつくというシーンの意味を、当時のドイツやヨーロッパの紡績産業(最初の産業革命ですね)の動向から読みとっていく。これを、フロイド派やユング派は「つむ」に「刺さる」、「つむ」はペニスであり、「刺さる」とは、あー、もうお判りでしょうから書きませんが、あほな想像力で分析してしまうところです。 また、現代とグリム童話なら、何故今日それが受容されるのかを考え、ディズニー・アニメを分析する。 すごくわかりやすい方法論。 『ともだち くるかな』絵本(内田麟太郎・文 隆矢なな・絵 偕成社 1999 1000円+税) おそらく現在この国で絵本の優れた文章書きとして最も安定した存在である内田麟太郎の最新作。 オオカミは今日、とってもご機嫌。部屋を掃除して、誰かを待っています。ところがその誰かが来ない。怒ったオオカミはふてくされて眠る。次の日起きても、やっぱりさみしい。これは腹が減っているせいだと分厚いステーキ二枚を食べても、寂しい。そうして寂しさは募って行き、そうだ寂しいのは心があるせいだと、心を口から吐き出してしまうのだけど・・・。 「ともだち」というキーワードが旨く活きています。 『ママはシングル』(遠藤文子 理論社 1999 1500円+税) 父親の違うひとみと果林、そして彼らのママの3人暮らし。ママの友人が5年間出張する間暮らして欲しいと言われて、赤坂の紫苑坂という古いマンションに引っ越しするところから始まる物語。ママは会社まで30分だと大乗り気。8歳の果林もおおはしゃぎ。12歳今度から中学生のひとみはなんだかうんざり気味。 隣はゲイのサリーさんが住んでいて、向かいはおばあさんとふたり暮らしの古川さん。で、古川さんの甥の涼くん。芝居をやってます。失業した彼、果林たちのハウスキーパーを始める。喜ぶ果林と、うんざりのひとみ。 果林のパパはアイルランド人だけど、会ったことがない。だってママはロンドンで知り合って恋に落ちたが、彼に住所の入ったバッグを盗まれ、連絡付けられずそれっきり。ひとみのパパの一条さんは売れっ子のCMデレクターで、ひとみとの約束をうまく守れない。ひとみのふてくされはどうやらその辺りに原因がありそう。 タイトルからすでに物語の雰囲気は察せられるでしょう。軽いタッチの家族物。サリーさんや涼くんがストーリーにリズムを付け、ドラマを大きく盛り上がらせることなく進みます。これは完全に連続物のパターンで、作者もそう考えているようです。だから、今回は登場人物の紹介程度の中味。 ひとみと果林、全く正確が違う二人の視点交互に語られる手法は、二人が同格の主人公であることを示していますが、それがかえって印象を薄くしています。ですから、この初回はもうすこしメリハリの効いたストーリー展開が良かったのでは。 『おとうさん おはなしして』絵本(佐野洋子・作・絵 理論社 1999 1300円+税) 佐野が10年程前に「飛ぶ教室」などに書いていた物語をまとめたものだが、全く古くない。おはなしをねだる息子に父親が、息子に似せた主人公を登場させたおはなしを語るという定番設定なのだが、そうしているからこそますます、このおはなしたちのヘンが際だつ仕組み。おかしいったったらない。で、ちゃんとオチもあり、ホノボノします。 どこもかしこも佐野洋子に満ちた書物。 『絵船』(川村たかし ポプラ社 1500円 1998) 川村たかしは、小学校、中学校、高校、大学と、4つの学校で教師を務めた経歴を持っています。夜学高校では野球部の顧問をして、奈良代表校として、夜間の甲子園に出場を果たした事もある。何よりも教えることが好きな、いい意味で根っからの教師なんですね。その熱心さは児童文学にも及び、新人をたくさん世に送り出してもいます。奈良をこよなく愛し、奈良を巡るテレビのレポート番組などにも以前はよく顔を出していたものです。 この情熱の人は、作品作りにも良く現れていて、徹底的に取材する。代表作の「新十津川物語」(全10巻 偕成社)では「印税収入より、取材費のほうが多かったよ」と笑いながら話してくれたこともあろます。 的確な描写と取材に裏打ちされた厚み。川村たかしの多くの仕事はそこから生まれている。 今回の長編は、クジラ物。これまでも『最後のクジラ船』『ノルウェーから来た鯨とり』などがあり、捕鯨の歴史への興味も、川村の一つの視点です。 舞台は紀州は太地。時は寛文。狩野派(であることは隠していますが)の絵師東兵衛は、船主から、鯨船に絵を描いて欲しいとたのまれて逗留しています。色々想を練る東兵衛。と同時に彼は狩野探幽から密命を受けていた。隠れキリシタンを探し出せと。 江戸時代の鯨取りの方法、狩野派の歴史、隠れキリシタンの行く末、様々なドラマに私たちは巻き込まれることとなります。 67歳の川村のエネルギーに満ちている。 『三つのオレンジ』絵本・(剣持弘子・文 小西英子・絵 偕成社 1999 1800円+税) イタリアの代表的な昔話を絵本化したもの。 剣持さんによれば、ほぼ原文のままの訳。 例えば先ほどの『本当は恐ろしいグリム童話』(桐生操 KKベストセラーズ 1998 1500円+税)と違って、こっちは本当に、「昔話」とはどういうものであったかを旨く伝えてくれます。たぶん、こんな感じのは読んだことがある人は少ないでしょう。 むかし、あるところにひとりの王子がいた。ある日、王子はリコッタチーズとパンを食べていて、ナイフでうっかり指に傷をつけてしまった。小さい傷だったが、血のしずくがリコッタチーズに落ちた。白いチーズについた赤い血が、王子にはとてもきれいに見えた。 「なんてきれいなんだろう! 白くて赤いこんなにきれいな娘がいたら、すぐにも結婚したいものだ。ぜひともさがしに行こう」と王子は決心した。 王さまとお妃さまはひきとめようとしたが、王子は耳をかさず、出発した。 ね、なんかちょっと違うでしょ。 小西英子の絵は、私の好みではないけれど、過不足はありません。 なお、この話はイタリアの昔話集『ペンタメローネ』にも、少し違うけれど収録されています。 『ペンタメローネ』は、フランスのペロー、ドイツのグリムより昔に書き留められた書物(訳せば『五日物語』。そう、『10日物語』、つまりデカメロンになぞらえています)であり、例えば『眠り姫』の古い形はどうだったかを知ったりするにはいい書物であり、幸い、近年翻訳もされています。 『ペンタメローネ』(大修館書店 4600円+税) 『旅うさぎ』絵本(天沼春樹・文 水野恵理・絵 パロル舎 1999,02,25 1400円) うさぎの卜マス・ハーゼンタ-ルは、16代まえの御先祖うさぎが残した『旅うさぎの書』を繙きます。 御先祖うさぎの名は、コーネリアス・ハーゼンタ―ル。 諸国遍歴の旅のすえ、子孫のために、うさぎのための哲学書を書きました。 その書物の最初のぺージには、 「汝、穴にすまう者たち。穴より出て旅にいでよ!」 とあります。 卜マスが、ぺ-ジをめくると、それからあとのぺージはすべて虫食いだらけで、文字が読めなくなっていました。 「旅にいでよ!」 結局それが、先祖が残した唯ーの言葉でした。 で始まる小さな物語は、左ページに1エピソード、右に挿し絵という構成で、うさぎの旅を綴っていきます。うさぎは様々な動物に出会い、様々なことを学ぶのだけれど、その「学び」はもちろん「寓話」として展開されるのですが、天沼らしいユーモアによってコーティングされていて、なんとも楽しい世界に仕上がっています。子ども読者より、大人の方がおもしろいかも。 動物図書館の館長を長らくつとめているのは、セバスティンヌスという長い名前の山羊でした。 図書館には古代からの動物たちの哲学書が納められているはずでした。 しかし、今では、ほんのわずかな書物しかありません。 あまりの長いあいだ、誰も図書館を訪れないので、図書館長は、膨大な書物をつぎつぎに食べてしまっていたからです。 セバスティ才ヌスは、書物を読まずに食べたので、なにも覚えていません。 それでも、彼は書物には敬意をはらっています。 てな具合ですから。 『あんちゃん キライ!』(犬丸らん・文 栗山邦正・絵 くもん出版 1998,12,25 1300円) 50年代の少年の物語。ジローはあんちゃんのタローが好きで、尊敬していて、いつもそのお尻に付いている。市電が走る大通りをジローは一人ではどうしても渡れない。その向こうには楽しい商店街もあるのに。 そんなジローを通して物語は50年代の少年の遊びなんかを描いていきます。 いつかジローは大通りを渡ることが出来るのか? 非常に素朴で、まっすぐなストーリー。私などは懐かしいわけですが、今の子どもたちにリンクするための工夫が欠けている。それが弱い。 『そらとぶ カカシ』絵本(スズキ コージ 福音館 1999,01,15 1100円) おじいさんは畑でカラスを追うのに大忙し。それでカカシを作ることを思いつく。さっそく畑の真ん中に。でも、カカシ、犬にしょんべん引っかけられるは、カラスに髪の毛抜かれるはで、怒ってグルグル回転すると、空を飛びだし、カラスたちもそれを追っかけ・・・・。 シンプルな、スズキ コージのユーモア絵本。 |
|