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★発行年は「原著年/訳年」です。 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆『ひみつの友だち』 (エリザベス・レアード 香山千加子訳 徳間書店1996/1999) 入学式で出会った女の子ラファエロ。とっても耳が大きい彼女にルーシー何気なく言ってしまう。「カタツムリって呼ぼうかな」。その日から、ラファエロはカタツムリとあだ名されクラスで孤立する。そのことを気に病むルーシーだが、自分も孤立することを恐れて、ラファエロに近づけない。学校の外で友だちになる二人だが・・・・・・・・・・。 以前『ひみつの友だちみつけたよ!』という、タイトルもそっくりな日本のをご紹介しましたが、『ひみつの友だち』も原題に直訳ですから、タイトルも設定も似ている作品が同時に現れたわけです。読み比べてみることで、描き方の、質感の違いを知るのも読書の楽しみでしょう。家族の描き方(触れ方)の差も。また、こうじた事態になるのは、同じ状況がどっちの国でもあるってことでもあります。 ◆『いま、子ども社会に何がおこっているか』 (日本子ども社会学会編 北大路書房 1999) 『ひみつの友だち』のあとにこれ持ってくるのは出来過ぎですが、偶然です。 いやはやなんとも直裁で魅力的なタイトルの論集であることか。目次を開いての各章立てもなかなかなもの。「子どもの社会と文化をどうとらえるか」から始まって「ジェンダー形成と子どもの社会的世界」を経て「異文化の中の子どもたち」と、行き届いた目配りとまでは言いませんが、過不足ないテーマの散らし方。 が、本文に入ると、期待は一気に失望へ。 というのは、個々の研究者が、それぞれのテーマを担当する動機や、モチーフが全く伝わってこない。端的に言えば、それぞれが収得している社会学のスキルを、与えられたテーマに当てはめて、文章を書いているだけ。 社会学ってこんなにヤワだったっけ? 少なくとも上野千鶴子による社会学を見てきた私にとっては信じられない。社会学ってもっと危険なジャンルでしょ。 ◆『もちろん返事をまってます』 (ガリラ・ロンフェデル・アミット 母袋夏生訳 岩崎書店1988/1999) イスラエルの作品。5年生のノアは先生から「よその学校の人と文通したい人」を募られ、かって出ます。一体どんな相手なのか。 自己紹介を含めた手紙をノアは未知のドゥディに出す。 脳性マヒのドゥディとの往復書簡との設定です。 この物語のいいところは、健常者の側からでも障害者の側からでもなく、両者それぞれの側からの率直な思いが描かれている点。「ええ話」には終わっていません。 「ぼくの母は、ぼくのせいで、働いていない。ぼくが学校から帰れば世話をしなくちゃいけないし、たいへんなんだ。ぼくは、ひとりじゃ着がえもだめだし、風呂にも入れないから。車イスからだきあげて風呂に入れるのって、重くてたいへんなんだよ。母は、しょげて泣きだすこともある。もちろん、ぼくの前じゃ泣かないよ。だけど、かべごしに泣き声がきこえるんだ。それに、「つらい」ってなげいて、「なぜ、わたしたちが……」って、父にしよっちゅうグチってる」 「みんなで悩めば、悩みははんぶん」っていうよね? あれって、ぼくたちの学校じゃほんとうのこと、真実なんだ。自分と似たような友だちがいれば、なぐさめになる。その友だちが、ある日、とっぜん、歩けるようになったとする。 君には、歩けるようになる可能性はない。そういうとき、友だちの手術の成功を、自分のことみたいに、素直に喜べるかい?」 「わたし、ふたりの手紙のやり取りって、なんか特別なものだと思っている。今まで一度も、ドゥディとみたいな友だちづきあいをしたことはありません。 友だちって、いつだって相手にいい印象をあたえたいってことが先にくるでしょ。そういう友だちづきあいって、いろいろいやなことがあっても目をっぶってごまかしちゃうのね。自分の弱点を正直にいわないで、自分がしっかりした人間みたいにふるまっちゃうから。 ドゥディとなら、わたしはとっても正直になれる。どんなことがあろうと、いつだって、わたしのそばにはドゥディがいる、ドゥディのそばにはわたしがいる、って自信がわいてくる。 なのに、ドゥディは、どうして会うチャンスをくれないで、強情ばかりはるのかしら? わたしが希望を書くたびに、なぜ、そんなに腹を立てるのかしら? 自分が思っていることを書かないノアと文通して、ドゥディになんの得になるの? 本物のノアが見えないじゃない? 本物のノアはそういう手紙を書かないもの。」 地味な物語ですが、ストンと心に収まります。 ◆『星兎』 (寮美千子 パロル舎 1999) 「ぼくは『ぼく』というぬいぐるみをかぶっている。そうやって、ずうっとママやパパとうまいことやってきたんだ」。と自覚している「ぼく」の物語。バイオリンのお稽古をさぼったぼくは、出会った星兎と夜を彷徨する。宮沢賢治作品と『星の王子さま』に少しだけ村上春樹が混じった世界。けれどそれが、現代日本の子どもの物語となるとどう立ち現れるか。へたすると感傷や癒しのノリではまってしまうでしょうけど、そうじゃない読み方を探したい。 ◆『13歳論』 (村瀬学 洋泉社 1999) 「12歳」でも「14歳」でも「子ども」でも「児童」でもなく、『13歳論』。 村瀬はそこにこだわる。その意味は、読み進めばしだいに明らかになる。村瀬の言葉を使えば「法の意識」のあるなしの境が13歳です。文字通り古今東西の物語を紐解き、村瀬はそれを指摘していきます。 もちろん13歳たって、近代とそれ以前では違うではないか、との反論は充分可能です。それでもあえて村瀬が13歳を唱えること。それは本当は13歳でなくてもいいのです。しかし、それを「子ども」とやってしまうとあいまいになってしまう部分があるので、村瀬は愚鈍な振る舞いを恐れることなく、13歳を唱えるのです。 さすがに後半は息切れ気味。 表紙のデザインはシャープですが、中身とは乖離しています。 ◆『ことりだいすき 』 (なかがわちひろ 偕成社 1999) 好きな作家の作品に接すると、もうゴロニャンのマタタビネコ状態になるわけですが、これも私にはそうした1冊。別に、なんていう絵本でもないのです。 ともだちの家にはツバメやスズメの巣があっていいな、と思うさとこは、自分も鳥になりたいな、なんて想いを巡らせ、色んな小鳥になるイメージが膨らんでいく。そして、怪我をした小鳥を拾い・・・。 説明しても、面白くないですね。語るより身を任す方が賢明な絵本もあるのです。 ◆『海のアドベンチャー』『夜のウオッチング』 (クロード・ドラフォッス考案・制作 ガリマール・ジュネス社考案・制作 ピエール・ド・ユーゴ絵 ピエール・ド・ユーゴ/絵 草林佳樹/翻案 今泉忠明/監修 フレーベル館 1999) ま、たくさんの名前が必要な絵本であること。 で、それがこの2冊の絵本の意味を伝えてもいます。 コテコテの仕掛け絵本とでもいいますか、でも仕掛け絵本と言ったからって、ポップアップ絵本のような豪華なものを想像されると困ります。 「海の底」「夜」、設定はどっちも、「暗い」です。 「海の底」の場合だと、見開きの左には、海で暮らす様々な動植物の説明と絵。で、右は真っ暗。 実は右は、左の説明と絵で示された動植物が描かれたセル画があって、その下地の紙が真っ黒なので、セル画が見えず、真っ暗なんですね。 で、巻末にある、マジカルライトという厚紙を切り取って、それは、ライトの形で、光る部分が白くなっているのですが、ま、安っぽい。 それをセル画と黒い下紙の間に差し挟むと、ライトの白い部分が下紙となって、セル画が、まるで、ライトの照らされた海の底の生物のように見える。 ・・・・・・、ごっつう、貧乏臭い発想です。 でもね、私なんかが子どもの頃にときめいた、学習雑誌や漫画雑誌の付録だって、こんなものでした。映写機がおまけ!、で買ってみたら、レンズはビニールの袋に自分で水を入れるものだったり・・・。 そうした、だまし、が、ときめくのです。 このシリーズにはそうしたキッチュなときめきがあります。 私は結構気に入って、今も時々遊んでます。 ◆『海がくる』(安土萌/杉田比呂美絵/理論社 1999) 「あっけらかんと、海へ還ろう。」と、帯にある、ショートショートの絵本化作品。 第5回星新一賞ですから、16年前の作品の絵本化ですね。 16年前のをわざわざ掘り起こすには、意味があるはずで、それは「あっけらかんと、海へ還ろう。」とのコピーに示されています。ショートショートなので、中身の説明は、タイトルとこのコピー以上には語れません。あしからず。 ◆『ペンギンのおいしゃさん』『くだもの・やさい』(桑原伸之/小峰書店 1999) 裏表紙に「この本の表紙は抗菌加工をしています」とある。なんじゃそれは? でしょうけど、つまりはこの2冊は幼児がなめてかじっても安全であるとの意味。本とは読む物ではなく、見てなめてかじるものである世代のための絵本。「あっけらかん」と、そのままのもんです。 ◆『映画をマクラに』(上野瞭 解放出版社 1999) 児童書ではなく、上野瞭が観た映画のエッセイを集めたもの。『ピアノ・レッスン』から『ザ・インターネット』、そしてハリウッド版『ゴジラ』まで、その精力的な観客振りは、読んでいて元気がでる。この作家の物の見方がよく判る。 ◆『ペンギンおよぎすいすい』 (山下明生 理論社 1999) およげないアヤカはクラスではサザエ組。今年こそはクラゲ組もマンボウ組もとびこえて一気にイルカ組になりたいと思っている。水泳の授業の日、アヤカは教室の窓からペンギンのしっぽにぶら下がって、南極へ。そこでペンギンの子どもたちと水泳を習って・・・・。 もちろん、んなことあるはずもない話なんですが、だからアヤカの想像の世界と思っていいんですが、その想像から泳げるようになる展開は、少なくとも「水泳」に関しては、あってもいい話。だから、結末には、アヤカに拍手。 ただし、本当に泳げない子はどう思うのかな? ◆『けんたのかきの木』(いわさきさよみ けやき書房 1999) 「ひとと ゆたかな自然を考える」とのクレジットがタイトルの頭に付いています。 けんたの田舎のおじいちゃんはけんたが生まれた時に柿の木を植えてくれた。 毎年けんたはその収穫が楽しみ。なのに、ある年、住宅地造成のためにおじいちゃんの土地は売られ、けんたの柿の木も・・・。 「作/絵」をいわさきさよみが一人で担当しているので、あえて指摘しておけば、一冊の絵本として仕上げるとき、フォントまで気をつかって欲しい。絵本の中の文章はただ読まれるためだけにあるわけではないと思う。そこへの目配りがないため、絵本を開くと、その貧しいフォントが、読む以前にこっちの気分を下降させてしまう。 ◆『どうして』(リンジー・キャンプ文 トニー・ロス絵 こやまなおこ訳 徳間書店 1998/1999) おとうさんには悩みが一つ。それは娘のリリーが、なんでもかんでも「どうして?」とたずねること。雨が降れば「どうして?」。これはまあいいとして、着替えから買い物まで、いちいち「どうして?」。怖い絵本を読み訊かせて、「ワニだ出た!」とやっても、「どうして?」と驚かない。とにかく、なんでもかんでも「どうして?」「どうして?」「どうして?」。頭を抱えるおとうさん。とある日、大きなUFOが降りてきて、恐怖の市民。が、リリーは宇宙人にも「どうして?」。 活きのいいパステル画が跳ねていて、楽しい絵本。子どは共感し、拍手喝采じゃないかな? ◆『山頭火雲へ歩む』(種田山頭火 小崎侃版画 蒼史社 1999) これは、子どもを視野にいれた絵本ではなく、山頭火好きの人のためのもの。 全5巻の最終刊です。「山頭火の絵本」という、表紙のキャプションは余分。 それって、山頭火に合わない。小崎侃の版画や、表紙の紙質などは、山頭火の世界と巧く寄り添っているが、やはり、興味ない人には興味ないであろう絵本。 つまり、そこを抜けて、山頭火を伝えたいといった意欲は、私には伝わらなかった。この辺り、難しいのは判るんやけど・・・。 ◆『カブトくん』(タダ サトシ作・絵 こぐま社 1999) 今年は、地味だけどなかなかおもしろい絵本2冊(『ねこのホレイショ』『世界でいちばんやかましい音』)を翻訳出版したこぐま社が贈る、書き下ろし。 昆虫大好きなこんちゃん。カブトムシの幼虫を採ってきて育てると、なんと人間の大きさに! カブトムシくんとこんちゃんの楽しい日々が始まる。 自分大の昆虫がいれば楽しいのになと子どもの頃思っていたという作者。その夢を絵本で叶えたわけ。その辺りのコンセプトを聞くと、ホノボノしますが、作品だけ見ていると、なんだか独りよがり。大きい昆虫の悲哀に行くわけでもないし、かといって、大きな昆虫でナンセンスに話が走るわけでもなく、もちろんだから、不条理劇となることもなく、中途半端に終わっている。 『ねこのホレイショ』と『世界でいちばんやかましい音』がいい意味で一癖あっただけに、こぐま社さん、作者にもう一ひねり要求してもよかったのでは? ◆『Zちゃん・かべのあな』(井口真吾 ビリケン出版1999) ある日壁の穴から青いネズミが顔を見せる。「あなのなかにはなにがあるの?」と尋ねるZちゃん。「なんでもあるよ」と青ネズミ。Zちゃんは次から次へと大きなものを挙げますが、クジラすら居るという青ネズミ。穴の外のものはみんなこの穴から出てきたんだよと青ネズミ。嘘だと頭に来たZちゃんは、大きくなった穴に入っていく・・・。 井口の独自のキャラクターZちゃんの絵本版。 友情物語といってしまえばそれだけですが、ネズミ穴の内と外という世界観は、物の見方のヒントになります。 |
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