『ページのなかの子どもたち・作家論』(松田司郎:著 五柳書院 1984)


4 神沢利子の神話世界

 日本におけるファンタジー系列の作品は、一九六〇年代には数えるほどしかなかった。一九七〇年代も後半に入ると、読みごたえのある長編が次々と現れるが(注1)、いわゆる神話の世界を土台にした本格ファンタジーの先駆者というと、神沢利子をおいてほかに考えられない。
 神沢は、一九六一年に『ちびっこカムのぼうけん』、一九六二年に『ヌーチェのぼうけん』、そして一九七三年に『銀のほのおの国』を発表している。いずれも魔法が生きていた時代、神の諸力が具体的に目で捉えることのできた、いにしえの時代に材をとった作品である。
 今日では、ファンタジーが、現実から逃避してありもしない不思議な世界で自らを慰めるもの、という不当な誤解を受けることも少なくなったようだ。むしろ、現実から離れて現実を違った方向から見つめなおすことにより、現実のひずみを鋭く突き、新しい変革の方法と力を示すための有力な方法であることが認識されてきたと言ってもよいだろう。
 神沢は『ちびっこカムのぼうけん』や『銀のほのおの国』において、現実をどう捉え、どう変革させようとしていたのか。

 『ちびっこカムのぼうけん』は、一九六〇年に月刊誌『母の友』(福音舘書店)に連載され、連載終了後に「火の山のまき」を加えて、翌年理論社から出版された。
 『ホビットの冒険』や『指輪物語』という壮大な冒険ファンタジーを書いたトーキンは、『ファンタジーの世界』というエッセイの中で「妖精の国の中心に存在する根源的願望とは、心のなかで想像された驚異を実現したいと願うこと」といっているが、『ちびっこカムのぼうけん』では、この魔法のもつ不思議さの驚異が存分に盛りこまれている。つまり、カムという平凡な小さな少年がいかにして神話的な魔力を司るのかが、この作品の最も痛快な魅力であると言えよう。
 作品は、「火の山のまき」と「北の海のまき」とに大きく分かれている。前編は、火を吹く山のてっぺんに住んでいる大男のガムリイからユビワを奪い、黒い湖のそばに咲くというイノチノクサを病気の母のためにとってくる話であり、後編は、ガムリイに北の海まではじきとばされて白いクジラになっている父さんをユビワの力で助け出す話である。つまり、自ら沸き起こる冒険心のためというよりは、病気の母、行方不明の父を背負った主人公に周到に課せられた冒険ということがいえるだろう。『龍の子太郎』(松谷みよ子)と同様に、このあたりにアダルト・ファンタジーや異国の冒険談に余り見られない肉親との結びつき(子から親への視点)を見るのだが、だからといって主体性の欠如、自己を見つめる視点の弱さというには、余りにも巧みな旅への設定がなされているのではなかろうか。

  ずっと、北の北のほうのくにに、一年じゅう、まっ白な雪をいただいて、そびえたつ、大きな山がありました。
  そのいただきから、巨人のはく、いきのように、もくもくと、けむりをふきあげ、くらい夜には、空までとどく、火のはしらが、とおい海からも、みえました。
  いままで、だれも、のぼったことがないという、その山のてっぺんには、ガムリイという大男のオニがすんでいて、夜な夜な、北の海のクジラをつまみあげては、火にあぶってくっていると、いわれていました。
  火の山のふもと、ひろい野っ原と、ひとにぎりのカバの林。
  そのなかの、ちっちゃなテント小屋に、カムという男の子が、びょうきのかあさんと、ふたりですんでいました。

 冒頭の数行をとりだしてみたのだが、冒険的世界のスケールと、そこで起こるであろう冒険への予感が遠近感、大小感を使って読者の胸奥に投げ込まれているのが分かる。つまり、ガムリイとカムの対比の妙である。クジラを手をのばしてつまみあげては火山の火にあぶって食ってしまうぐらい大きな大男オニと、ひとにぎりのせまいカバの林のちっちゃなテントにすんでいる小さな男の子のカム−−この遠近法は、ガムリイが大きければ大きいほど、カムが小さければ小さいほど、いやが上にも読者を冒険という変身飛躍願望へ駆り立てるのではなかろうか。
 さて、『ちびっこカムのぼうけん』は神話的伝承の世界の上に巧みにバランスをとって成立していると思われるが、その土台になっているものをいくつか拾ってみよう。
 (1) 空間(スケールの大きさ)。雪を抱く火を吹く山、はてしらぬ北の海と南の海、氷河と雪溶水を集めて海に注ぐ川、空に光る北斗の七つ星や三日月という大宇宙。
 (2) 時間。六七〇年めぐると北斗の大ヒシャクに銀河の水が満ちる。ガムリイがユビワを奪ってから三千年。七千年もえものを待っていたと歌うトリプラチー。何万年もの昔から燃えたぎる火の山の大釜。
 (3) 生けるもの。山を守る大男のガムリイ、金ピカの大グマ。大男にはじきとばされたカムの父は北の海で大きな白くじらになっている。大ワシ。トリプラチーの大岩。ながヒゲのアザラシ。そして大きさを際立たせるために、小さなカム、ジネズミ、ポルコ、金のユビワ等。
 (4) 《魔法》その水を飲んだり、触れたりすると、石や花に変わる黒い湖。黒い湖や悪いシャチの魔力を解く金のユビワ。早足のタワに、海の上を歩けるながぐつ。魔よけの赤い皮ひも。
 −−こうしてみていくと、天地創造、万物誕生の創世記を想わせる舞台設定だが、この作品の土台になっている《伝承》は、次のようである。
 ナガヒゲ一族のいい伝え−−。昔、お日さまは海からのぼって海へと沈むあいだ毎日トリプラチー兄弟の所で遊んでいた。金のユビワもお日さまがくれた。そのユビワがあまり美しいので長いヒゲのアザラシがだまして奪う。そのユビワをガムリイがとりあげる。お日さまはかんかんに怒って空高くのぼり、トリプラチー兄弟のところには遊びにこなくなった。兄弟は悲しんでいまでもアザラシを見るたびに岩を投げつける。いつかユビワを奪ったアザラシの皮で作ったながぐつをはいた若者が海へ来て、アザラシたちの恥をそそいでくれると信じている。ユキフクロウが語るいい伝え−−。六七〇年めぐると北斗の大ヒシャクに銀河の水が満ちる。今夜はガムリイがこわがる日。そのヒシャクを動かしてガムリイにうち勝つことができるのは、シロトナカイの乳をのんで育った男の子だが、もう一人大ワシに育てられた女の子もそろわなければならぬ。
 『ちびっこカムのぼうけん』はこの二つの伝承を土台にしながら、物語が進行するのであるが、目的が成就するのは伝承された《魔法》の力というよりも、その魔法の力を動かしうる主人公の《内質》に大きく関わっている。つまり、ちびっこカムが大男ガムリイや殺し屋のシャチたちに打ち勝つことができたのは、伝承魔法に決められた、シロトナカイの乳をのんで育った男の子であるとか、ナガヒゲじいさんがアザラシの皮で作ったながぐつをはき、金のユビワをもっていたことだけではなく、その以前に《魔法》を司るものとしての資格をもっていたためである。資格というのは、人間が内質として持っている普遍的な価値、愛情、やさしさ、正義、勇気とかいったものであり、この作品ではそれらは病気の母や行方不明の父を《鏡》として条件反射されてくるものである。つまり、カムがもっている諸々の人間的価値は、父や母を通して、あるいは反射して出てくるものなのである。
 しかし、それらの価値が“魔法の力”を超えたものとして提示されるとき、緊張感あふれた神話的な世界の不思議な魅力が半減される恐れがある。そして、愛や優しさといったものは自己の内と外にあってそれを犯すものや、対立するものとの相克・葛藤をくぐってより美しく尊いものに研かれていくとしたら、カムの冒険への出立はあまりにもストレートで、父母を想う気持ちはくもりがなく、よってややもすれば《冒険》の必然性、わくわくする興奮度がうすめられる危険性をもっているといえよう。この作品が良質のモラル、大らかな楽天性をもって巧みにバランスをとっているのは分るが、そもそも“冒険”とは何なのかという地点に立ちもどって考えれば、小さないらだちに似た不満が残るのは事実だ。
 冒険−−それは限りない憧憬と同時にいい知れぬ不安と恐怖によってないまぜにされているものであろう。動機やきっかけがいかなるものであれ、究極自身にそっくりおっかぶさってくるものとして、存在のすべてを賭けて未知なる時間に対処していくものであろう。
 カムの年齢からすれば、母のぬくもりからの旅立ち、安穏な幼年期との決別という孤独な戦いが想定される。例えば、アーディゾーニの「チム・シリーズ」(注2)やガネットの「エルマー・シリーズ」(注3)が、同じように健康的なモラルと楽天性によって支えられていても、幼い主人公の内質をふとよぎるかげりに、冒険の本質的な魅力である不安と喜びを感じるのは何故だろうか。それは、チムやエルマーが、冒険を何よりも自分自身の問題として捉えているからではなかろうか。
 それに比べ、カムは、スケールの大きい神話的世界で作者の意図した働きを十分はたしていながら、そしてそれ故に思わず引きこまれ、いつのまにかページを繰ることに熱中しながら、ふと空虚なものを感じるのは、この“自己”に対する視点の弱さのためであろう。前述したごとくそれは、自己以外のもの(父や母)に対する想いに、魔法や掟やタブーといった伝承の力異常の鮮やかな価値を課しているためであろう。
 しかしながら、この作品の一つの意図は、小さい読者に冒険ドラマ(冒険を支える魔法の世界)をスピーディに展開させることにある。冒険をくぐることにより、目的を成就させることにある。
 『ちびっこカムのぼうけん』の魅力の一つは物語展開の痛快さにある。それを支えているのは、語り口とテンポである。文章は簡潔でキビキビしたリズムがあり、表現も子どもたちの日常性を考慮した具体的な発想にもとづき、不用意な観念性はない。同時に展開が会話によって進められていくことも、文体に快い流れをつくっている原因の一つと言えよう。
 もう一つの意図は、主人公カムと動物たちとの関わりである。
 この友情は、もちろんカムの行動に対する動物たちの報恩というふうにもとることはできるが、(ジネズミや大ワシ等)むしろカムがもっている内質に対する誠実な好意と考えるのが妥当だろう。大ワシの赤ちゃんにトンボガエリをして笑わせたり、アザラシのぼうやを思わず抱き上げるカムには、誰にも愛をわけ与える優しさ、心の豊かさがあり、それが動物たちという《自然》との調和をスムーズにさせていくのだろう。そして、この『ちびっこカムのぼうけん』という作品には、冒険という目的のほかに、ここに作者が願いとして伏流させた目的があるといえるのではなかろうか。つまり、神話的スケールの大きな大自然(大宇宙)を無体として描出した冒険世界の底に、人間と自然は戦い合うものではなく、調和しあい、愛しあいながら生きていくものであるという《願い》をひそませていることである。同時に、善意の動物を仲だちとして、友と交わることの楽しさ、喜びをも描き出したといえるのではなかろうか。

 カム的世界には作品として見た場合このような不満と魅力があったが、作者の主張は「自然と人間との一体感」としてくっきりと伝わってきた。それは、恐らく神沢が神話的世界を借りてファンタジーを著そうとした動機と関連があるだろう。
 『床下の小人たち』のノートンは少女時代から過度の近眼であったために小さな世界へ想像が下りていった(注4)といい、「メアリー・ポピンズ」のトラヴァースは、かつて子供であった自分が今楽しむために書いているといい(注5)、『トムは真夜中の庭で』のピアスは、病で倒れたとき子どものころ遊んだ故郷の家や庭へと想像力がかけめぐった(注6)といわれている。作品というものは、作者の原風景や願いのようなものであるだろうが、神沢利子の場合はどうだったのだろうか。

  世間の波にいとも簡単にいためつけられて神経質にいじいじしている自分をやりきれなく思う日、狭い四帖半の間借りのくらしで病気で寝ている日、北方の天地を舞台にはねまわる自然児ちびっこカムと共に、わたしは空を山をかけめぐった。「ちびっこカムのぼうけん」は自分も愉しみ、解放されながらかいた。
     (「祈り(入力者注)につながるもの」『日本児童文学』一九七〇年三月号)

 北方の天地とはカムチャッカ(樺太)であり、そこは神沢にとって幼時を過ごした故郷といってもいい場所である。(注7)妻となり、母となった神沢にとって戦後の関西暮らし(西宮、神戸)は、生きていくのがつらくてならない時期だったようで、この間のことは『日本児童文学』一九七九年八月号の上野瞭との対談や『日本児童文学』一九七〇年三月号の吉田足日の「北斗へのおいめ−−神沢利子論の入口」にも語られている。そして「北方の天地」への憧憬については、

  娘たちがひとみ輝かせて聞き入ったのは母親のカラフトでの子ども時代の話だった。子どものひとみにつりこまれて、わたしの心は異郷となったカラフトへとび、その原野がわたしの内に蘇った。 (「日々の旅立ち」『叢書児童文学第4巻』世界思想社、所収)

 と、記している。カムというのがカムチャッカからとられたのは広く知られているが、ここに、大まかではるが神沢の二つの動機、抜きさしならない現実を一足とびにのり超えたい、とびたいという気持ちと、心の原風景であるカラフトへの熱い想いが浮き彫りにされてくるようである。『ちびっこカムのぼうけん』は、作者の重い現実を足蹴にするだけのバイタリティと楽しさと生きつづける爽やかさにあふれている。しかし、十二年後に発刊された『銀のほのおの国』は、原始のエネルギーの大らかさにたよらず、人類が抱えこんでしまった苦悩と戦い、傍観と本望をひきずりながら、なお迷いのうちに前進する人間の《生》の重さと美しさを描出しようとした。つまり、前作とはうってかわって、主人公の少年の内面に作者の酷しい視線が注がれているのである。もちろん、主人公の年齢のちがい、抱えこんでいる状況のちがいからくるのであろうが、同じく神話的骨格を構築し、原風景ともいえる北方原野を舞台にしながら、十二年という年月が作者にもたらしたものは何だったのだろうか。

 『銀のほのおの国』の構成パターンは、『ちびっこカムのぼうけん』と同じく、「旅→冒険→帰還」、つまり「ゆきてかえりし物語」となっているが、大きな相違は、カムが最初から神話的世界の住人であったのに比べ、『銀のほのおの国』のたかしやゆうこは、日常世界の住人でありながら、ふとしたきっかけで非日常世界(神話的世界)に引きずりこまれ、予期せぬ冒険を体験するという設定である。
 これは神沢自ら告白している(注8)ように、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』と類似している。ナルニアでは、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの四人の兄弟が、空襲をさけて送られた田舎の古い家を探検しているとき、末っ子のルーシィが衣装ダンスの扉をあけ、いくつもつるさがっている毛皮の外套を押しわけると、その向こうに雪の舞う真夜中の森が広がり、神話的世界にわけ入る。『銀のほのおの国』では、四月から六年生になるたかしが、春休みに妹と二人で留守番をしていて、応接間のかべに飾られているハクセイのトナカイの首に、カウボーイきどりでロープをかけジュモンをとなえると、トナカイが急に走りだし、かべの向こうの国へたかしと妹を引き入れるというふうになっている。
 二人は、さびしい荒野で茶袋と名のる黒ウサギにあい、トナカイはやての伝説を聞く。物語は、神話の時代から言い伝えられた伝承をベースにして発展する。
 はるかな昔、銀のほのおというトナカイ王が北の地を治めていた。王の御代には長耳族やネズミやビーバーにいたるまで幸せに暮らしていた。しかし、その後青イヌ(オオカミ)が現われ、銀のほのおの国を滅した。そのとき勇敢に戦って死んだのがトナカイはやてであった。
 トナカイの心臓には小さな骨のかけらがあり、死したる後にその骨が微塵となって、三億たび月の光をあびると、死せるトナカイがよみがえるという。たかしがロープを投げたとき、丁度はやてがよみがえったのだ。はやてははるか北、雪と氷が冷たいほのおのごとく燃えさかる銀の国をめざしてかけていったにちがいないという。
 さて、物語は、思いがけず壁の裏側の世界へ引きずりこまれたたかしとゆうこが、トナカイ族と青イヌ族の戦いに巻きこまれていくプロセスを追っていく。
 たかしは、家路のことが気がかりでならないが、茶袋ははやてをたずね、銀のほのおの国へ旅立たねばならない、そうすることが家路への近道だとさとす。
 たかしとゆうこは教えられた通り、林をぬけ谷のつり橋をわたり、ブナの森へ出る。そこで昔青イヌと戦い片腕をなくしたウサギに会う。ウサギは「巨人よりはるかに小さく、されど勇気と知恵に満つ二本足の子がこの地にやってくる」という伝説が本当になったと告げる。そして、荒野のはてに連なる山々の中にひときわ鋭くそそり立つ「天の槍」という峰をめざせと教える。この旅を見届けなければ家に帰れないと半ば確信したたかしは、ウサギの息子はね坊主の案内で荒野を進む、荒野には青イヌが目を光らせ、待ちぶせしている。不思議なムジナに会い、親切にも二人の泊まる所を教えてくれるが、ムジナは青イヌの手先であり、二人の目の前で青イヌに殺される。
 たかしは傷ついたライチョウを助け、ゆうこがめんどうをみてやる。しかし、たかしは空腹のためライチョウを焼いて、自分も食べゆうこにも分け与える、のちにそれがライチョウの肉だと知ったゆうこは、激怒して一人で荒野に出かけ、青イヌらに連れ去られる。やがて、ゆうこを探して青イヌと対決したたかしは、「この地は荒野も峰もすべてわしのものじゃ」と豪語する首領の夜風に捉えられる。
 千年杉の森には巨人が眠っている。その昔青イヌに娘を連れ去られ、娘のいのちと引きかえにトナカイはやてを倒し、そのためにトナカイの銀のほのおの国は滅びた。そのことを悔んで、自らを雪と氷の鎖で十重二十重に縛らせて眠っていたが、はやてのよみがえりとともに息を吹き返したのだ。
 それを知ったニンジン堀りこと茶袋は、自分をせめて千年を待った巨人にその報いをとげさせようと知恵をさずける。巨人は命令通り、天のかべに細工をする。
 トナカイ月の三日に、たかしが天の槍の西の峰に立つと、予言通り天の文字が浮かび上る。それは「荒野の王黒き耳に立つ時、銀のほのおは雪に消え果つべし。よみがえるものふたたび死す時、子は彼方へ帰らん」という偽の文字であった。のちにたかしは真実の文字を知るが、それは「死したる骨のよみがえる時、多くの骨またよみがえらん。戦いはふたたびおこり、いと小さきもの大なるもの、ともにふるい立ち、湖はあまたの死をのみ、さらに生を生むべし。新しき国ははじまるべし」であった。
 青イヌの首領夜風は、偽の予言に狂喜し、トナカイをうたんものと進軍する。たかしとゆうこは青イヌの背にのり、天の槍をこえ、白き背の峰をこえ、果ての湖を望み、トナカイの国に進む。たかしは、不思議な青イヌにおそわれ、雪の谷底へ押し流されるが、穴掘り族の木ネズミに助けられる。元気になったたかしは、銀のほのおの国をめざして旅を続ける。以上が第一部である。
 第二部は、トナカイ軍と青イヌ軍の決戦である。
 トナカイ軍は、はやてを首領に、氷のツノ、苔色、稲妻、といったトナカイの指揮官たち、長耳族、木ネズミ族、ビーバー族、鳥の族と集まってくる。たかしも加わっている。青イヌ軍は、夜風を首領に、旗尾、吹雪、ばばたち、それに赤ギツネ、イタチ、テン、タヌキが馳せさんじ、ゆうこは術をかけられ、巨人河はぎはゆうこを守るために参加する。
 巨人はすぐに好機をとらえ、ゆうこを連れ出し、トナカイ軍に身をさしだす。
 戦いは、天のことばを信じて突進する青イヌ軍の敗北で終わる。トナカイ軍は、さくせんどおり青イヌ軍を湖にみちびき、巨大な氷穴に追い落とし、勝利する。トナカイ軍の氷のツノの謀叛や、策略を見抜いた青イヌ軍の旗尾の活躍などがあったが、首尾よく落着する。
 青イヌの首領夜風は、はやてを追いつめたがひずめで額を割られ、巨人にしめつけられ、自ら身を沈める巨人とともに湖の底に消える。
 勝利したトナカイはやては、若い稲妻に座をゆずり、たかしとゆうこを背にのせてあまかける。たかしとゆうこはふいに投げ出され、気がつくと応接間で眠っている。二人を呼ぶ母の声に目覚める。
 あらすじを長々と書いたのは、『銀のほのおの国』の空間や時間のスケールの大きさや、魔法や予言や伝承といったものの巧みさ、確かさを論じるためではない。いわゆるプロットという枠組み、ドラマの起伏の一つ一つを支えるものとしての作者の<哲学>を検証するためである。哲学といってかた苦しいのなら、主人公を通して体験させた冒険の意味、冒険にこめられた願いといった方がよいかもしれない。
 『カム−−』と『銀のほのお−−』を比べて気付くのは、一つは主人公のよって立つ世界のちがい、二つは冒険へ向かう動機、三つは戦いの意味、とりわけ何が悪であり、何が善なのかという問題、四つはその問題が生きていくこととどう関わっているか−−というような点である。
 カムは神話世界に住む者であったが、たかしやゆうこは日常世界の住人である。つまり、主人公が非日常へわけ入り、一つの体験をすることにより、日常の状況に鋭く目を向けさせるという手法に立っている。
 『カム−−』では、冒険へ出かけていくのに、病気の母を助けるため、クジラにされた父さんを連れもどすためと、きわめて明快な動機が与えられている。それに比して『銀のほのお−−』では、かべ飾りのトナカイの首にロープをかけ、ジュモンを唱えるというふとした偶然性でかべの裏側のむこうのくにへ連れ出される。トナカイの首にロープをかけたのは、「このからだがかべの向こう側にあるんだと思ってた」とか「いつもこいつを見ると、どうして身動きしないのかふしぎでならなかった」というトナカイに対する想いがあったからである。その上に、空想的な少女であるゆうこうにおだてられ、たかしが小さいころよく母さんにしかられた投げ縄あそびを思い出したからである。
 偶然とはいえ、『ナルニア』のルーシィのように、ごく自然に《通路》に入っている。気がつけば、目の前に荒野が広がっていたのである。
 『カム−−』がかかれた一九五〇年代後半から六〇年代はじめは、《豊かさ》をめざしてまっしぐらに進んでいた時代であり、一九七〇年代に入って、ようやく《豊かさ》の本来の意味が問いなおされてきた時代であると言えるだろう。それは、予期せぬ挫折であり、ふと気がつくと迷路にはまっていたという感じと似ている。そういう意味において、たかしとゆうこが目に見えない力によって、むこうの世界へ引きずりこまれたというのはうなずける。
 しかし、冒頭の章における不満は、動機を意識する、しないに関わらず一見安穏にみえる日常世界にすきま風のように入りこんでくる荒々しい世界の不安や恐怖といった“お膳立て”のないことである。
 たかしやゆうこは、一九七〇年代に一般的な中産階級の子どもであり、貧困ともまた家庭内の不幸とも無縁に近い存在である。しかし、具体的な苦境のあるなしは別としても、六年生になるという少年の内面をよぎる不安や迷いは皆無であるはずはない。
 冒頭の数行において、予兆とでもいえばよいのか、目に見えない魔の手といえばよいのか、読者をあちらの世界に引きずりこむ前触れが感じられなかったのは残念である。
 さて、この作品において、《戦い》とは何を意味しているのであろう。
 『カム−−』では、戦いは悪役をやっつけることであり、そうすることによって、父母の不幸がとりのぞかれることはもちろん、山や海に住む動物たちが幸福になることであった。悪役は、火の山のオニ、大男のガムリイであり、海の殺戮者のシャチどもである。
 ガムリイは、火の山に陣どり、だれでもつかまえては遠い海まではじきとばす。カムの父さんをクジラにかえるし、クジラたちを手をのばしてつまみあげては、火山の火にあぶって食べてしまう。
 しかし『銀のほのお−−』では、悪役である青イヌたちに明快な悪の姿、悪の匂いが見えてこない。
 青イヌ(オオカミ)は肉を食って生きる存在である。ウサギやネズミや鳥たちを狩り立て、むざぼり食う。とはいえ、肉食という点に関すれば、タヌキもキツネもイタチも、そして人間でさえ同類に属する。だから、青イヌが肉を食う様子が他のものより派手でむごたらしく見えようとも、そのことによって青イヌを悪の象徴と受けとるには無理がある。この作品においては、次のように悪を設定している。

  「青イヌがどんなことろするか…ぼくは見た。あいつらが、ただ腹がへって食うのではなく、まるで、スポーツや、もっとむごたらしいゲームをするように、ウサギや木ネズミや、力のないものたちを殺したのを!」

 たかしの口を通してこのように言わせているが、言葉の意味以上のものは伝わってきにくい。一九八〇年代の我々は、理性や知識というものを余りにも優先させたために、科学の発展と反比例して、退屈で平板な日々を送っている。我々はときとして刺激を求め、狩猟やスポーツや自らの慰めのために、動物たちを殺すことがある。
 あらゆる生きものは、自身の暮らしをより安楽により輝かしいものとして維持するために、さまざまな行為をくりかえしている。肉食動物が肉を食い、草食動物が草を食うのは、いわば運命づけられたものである。
 しかし、動物たちがときには怒りや憎しみの余り殺戮行為を行うことはありえないことではない。食うこと以外の目的で殺すことが悪であるなら、人間の多様な行為はすべて悪であるといえるかもしれない。
 悪が戦慄を呼ぶほど魅惑的(?)なものとして描かれるには、その殺戮行為を支える基盤が提示されなければならない。例えば、青イヌが腹を満たす行為以外で殺すのは、それが楽しみであるからかもしれない。あるいは力を誇示するため、非力なものたちをさげすんでいるため、または血の匂いにつかれているからかもしれない。待ちぶせし、おそいかかり、かみつき、ひきさき、血をすするという目に見える行為ではなく、そうしたくてしかたがない青イヌの内面世界を描くことにより、人間に内在する《悪》の意味が浮かび上がってくるのではなかろうか。
 たかしとゆうこは、何が悪かをめぐって自問自答する。

  「青イヌが生きるために餌をとる。その餌が木ネズミであっても、トナカイであっても、それを悪いことだ、罪だとはだれもいえないだろ。」

 やがて、たかしは前述した食う行為以外の目的で殺す青イヌの中に悪を発見していく。
 ゆうこは、傷ついたライチョウを助け、めんどうをみてかわいがるが、たかしにだまされてその肉を食べてしまった行為を傷み、自分自身とたかしに不信と怒りをぶっつける。
 このエピソードはこの作品の一つの大きなテーマとなっているようである。宮沢賢治の「よだかの星」という作品に「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽蟲が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ」(注9)というよだかの独白があるが、これは食う行為を通して人間の《原罪》を提示しているといえるだろう。
 人間が愛しいものを殺して食べるということはよほどでないと考えられないかもしれない。例えばたかしが、生きるためにゆうこやトナカイはやてやはね坊主を殺すことはありえないかもしれない。しかし、自分にとって特別な関係がないからといって、その生命が愛しいものでないとはいえない。自分が生命を維持するのは、そのような愛しいものたちの生命の積み重ねの上にあるということを自覚すること−−それが人間である証しの一つだと、このエピソードは教えているようである。
 では、この証しを裏返すことによって《悪》は浮かび上がってくるのだろうか。ゆうこをとりもどそうと、青イヌのもとへ出向いたたかしに対して、青イヌのばばは「今にのう、今にこのむすめ、ライチョウを食おうと、トナカイを食おうと、いよいよ心もからだもつよくなろうに。ほほほ、この青イヌのようにな」と呼びかける。
 「つよくなる」ということは、食うために殺す生命のことなど気にかけなくなるということなのか、あるいは青イヌの首領夜風が演説するように「わがくらう肉はすべてわが血となり肉となって、わがからだを駆けめぐる、よってわがからだはわがくらいしもろもろの生きもの(略)のいのちのるつぼよ」と悟ることなのか。夜風はこの論理を自分こそがすべての王としてふさわしいという理屈に利用し、たかしは反発する。
 しかし、どのようにうそぶこうとも、自分の生命が他の多くの生命によって支えられているとするこの論理からは、決定的な《悪》の姿は見えてこない。
 トナカイはやては青イヌ夜風と宿命的な対決をする。はやては、青イヌを打ち負かさなければ、すべての生命あるものにとって、この世は暗黒となるという危機感を抱き、悪をただす正義感に燃えている。
 トナカイ軍の勇者の一人、氷のツノは、たかしの言葉を信じるはやての作戦に異議をとなえ、青イヌ側に密告をくわだてる。しかし、夜風は氷のツノに対して「聞けよ、トナカイ。われら青イヌの族は、わが前に尾をあげ、戦いをいどむものにはようしゃなく牙をつきたてる。だが、一瞬はやく彼が尾を垂れ、その首すじをわが前にのべ、幸福の心をあらわす時、たとえわが牙が首すじにふれようともこれをとどめて、傷つけることはせぬ」といったのち、「だが、敵の陣へ来て、味方を売る恥知らずのトナカイをほふるには、ただの一撃で足りると知れ!」と、ただちに手下どもに氷のツノをしまつさせる。
 ここには、悪の支配者夜風というよりも、叡知にたけ、義侠にあつい有能なリーダーとしての趣の方がつよく感じられる。
 また青イヌ軍の吹雪は、息絶えるまぎわに、ニンジン堀りや穴堀りの鼻黒に「トナカイは味方を売るが、われら青イヌは味方を売りはせぬ」という。吹雪のつかえる青イヌ軍の副官の旗尾は、夜風の思いこみをいさめ、それでもなお追撃する夜風を守ろうと自ら身を投げだして戦う。
 青イヌ軍すなわち《悪》の側だと思って読みすすめていた読者は、ここにいたって、何が悪なのか、はぐらかされたようなとまどいを覚える。
 生きるために食うのではなく、なぐさみに肉をひきさく青イヌ軍の中にあって、勇姿旗尾のこの献身行為は、何を意味するのだろうか、よみがえったはやてや荒野の支配者夜風よりもいじらしいものを感じながら、その行為に見合った深さ、存在のリアリティというには、薄っぺらなキャラクター設定といえよう。
 善・悪の不統一は、登場人物たちの口を通しても語られる。味方と思っていたトナカイの氷のツノに父を殺された穴掘りの鼻黒は、ニンジン掘りに問う。

  「だれがいったい悪いんだい。おら、わかんないや。だれがよう」
  「だれが悪いか、知りたくば泣くな。泣くひまに目をあけて見るのだ。自分がこの目で見たことを、ひとつひとつおぼえておくのだ」

 ニンジン掘りのこの答えは、この作品のねらいの一つかもしれない。つまり、善の側、悪の側のイメージ、とりわけ《悪》そのものが見えてこないのは、作者がそのような意図をもっていたと思えるふしがある。
 この作品は、トナカイ軍と青イヌ軍の戦いを描きながら、安直な善悪二次元論やうすっぺらい勧善懲悪の図式を脱して、別の新しい意味を提出しようとしたと思われる。つまり、善悪というものは同時に人間の中に存在するものであるということ、また善悪は目に見える行為の中にあるのではなく、それを司る意思の中にあるということ。
 善も悪も最初から決められたものではなく、自らがその行為の中に形成するものである。人間も青イヌと同じように生きものの肉を食っている。しかし、人間はそれを食うことによって、生命のいとおしさを自覚し、生を維持しながら、善をなそうと思う存在である。
 このことは前述したライチョウの肉事件に象徴されている。肉を食うことが悪ではない。それは避けられない。しかし、そのいのちをいとしく思い、そのいのちによって生きる自己を認めることによって、他の多くのいのちを大切に思うことに意味があるのである。
 しかし、ここまで書いてきて、なお釈然としないものが残る、善悪・高貴と下卑・愛と憎しみといったものを同時に内在させているのが人間の存在の真実であるが、ではその内なる《悪》とは何なのか? 現在を生きる我々は何と対峙しているのか、何におびえ、何に惹かれ、何によって《善》をえているのか? 物語世界を支えるはずのこういった《支柱》が見えてこないことによる焦燥感を、やはりとりのぞくことはできなかった。
 さて、最後にのこされた問題、たかしやゆうこが体験したことが生きていくこととどう関わっているかについて考えてみよう。
 たかしとゆうこは、ライチョウの肉のことでけんか別れをする。兄への不信と自らの罪に絶望し、青イヌの誘惑にのって連れ去られるゆうこ−−。妹を思うたかしの苦しみは、荒野での孤立状況の中で倍加させられる。たかしは愛しいものの肉を食ったことと、妹をあざむいたことの二重の罪に苦しまねばならない。
 それは、大昔に巨人河はぎがトナカイはやてを裏切ったと同じ罪である。河はぎはそのことを悔み、贖罪のために自らを氷のくさりでしばりつけ、かみの毛もひげもつららのように凍らせ、千年もの間立ちつくした。たかしもその巨人と同じ状況におとされる。
 ここに神話の伝承世界をもってきた作者のねらいが生かされている。つまり、たかしは現代の巨人であり、罪を意識することによって苦しまねばならない存在である。そして、その苦しみをくぐりぬけることによって、人間ははじめて生きていく意味をみつけることができるのだ。
 たかしは、壁のむこうの世界へ引きずりこまれてからは、多くの試練を背負わされる。退屈ではあっても安穏な日常性からいきなり青イヌの待ちぶせる荒々しい荒野へ投げこまれる、家路を見失うことにより、家族のぬくもりとの訣別を余儀なくされる。
 たかしは自分の足で歩き、自分の頭で考えることにより、苦境を脱しねばならない。生きるためには食わねばならないことを学ばねばならない。たかしは、ライチョウの肉を食べる。そしてそれをふせてゆうこに食べさせたことにより、ゆうこと訣別し、一人っきりに追い込まれる。生と死の殺戮のくり返される荒野で、武器も腕力もない非力なたかしは、《原罪》にさいなまされ、苦しみ、傷つきながらも、北の国をめざして荒野を進まねばならない。
 たかしにとって荒野を進むことは、生きることであり、孤独な戦いである。はね坊主、ムジナ、笛吹き、銀ひげ、吹雪、夜風、旗尾、巨人…と多くの死に立ちあい、自身もまた何度か死と向かい合う。青イヌが若いトナカイの上に身をおどらせたとき、たかしは思わずトナカイの上に身をなげだし、手にもったナイフを青イヌにつき立てる。たかしもまた食うためではない死を与える側に回る。
 これをたかしの成長というふうに見ることもできる。つまり、生命をうばうということは、スポーツやゲームではない。それは生きるためであり、また愛しいものを守るためである−−ということを身をもってつかんだといえよう。物語の最後で茶袋がたかしに、「おまえさまがあのわかいトナカイの上に身を投げかけ、青イヌの牙から守り、青イヌにナイフをつきたてた時、すでにおまえさまの帰る道は明らかになったのじゃ。この世界とあの世界もひとつになるときがあるのじゃ」という言葉があるが、それはこのような生と死の意味でつながっているのである。
 しかし、このことをたかしはまだ確実に自分のものとはしていない。
 たかしは、自力で歩き、食べ、戦った。考え、悩み、悔み、ゆうこの身を案じ、青イヌのために身を投げだした。たかしのうちを通りすぎた戦いが終わり、物語が幕を閉じるときになっても、たかしは茶袋にさとされた意味と投げかけられた問いを解くことはできず、なおひきずって歩かねばならない。壁のうら側の国へ出発する前にはもっていなかった重荷を、その小さな肩に背負わされて帰ってくるのである。
 いわゆる冒険ファンタジーと呼ばれるものは、主人公の内質への視点やその変化はさりげなく伏流させ、むしろドラマの起伏、舞台の存在感、戦いの具体的な進行、善玉と悪玉のキャラクターとかけひき、そしてあっとおどろく大団円というものにポイントがあると思うが、この作品では少年の自立に重心がおかれている。だから、大団円にあたっての勝利者はやての言葉は喜びよりも憂いに満ちている。「死はほろびに通ずるよりも、さらにゆたかな生につながるのだ」というその言葉は、今生あるものの死を暗示させ、輝かしい未来へと展望するたくましさに乏しい。
 しかし、この言葉を明日を生きる自分のものとするために、たかしと同様に読者もまた自分の足で歩かねばならない−−と考えるなら、この作品が巧みな計算の上に意図したテーマが透けて見えてくるだろう。
 整理すれば、『銀のほのお−−』は、壮大な冒険ドラマをかくよりも、現代という錯綜した状況の中で次の曲り角を見ることのできない現代人の心の世界を映し絵のように描いた。その意味でより現代的であり、主人公たかしの引きずった中途半端な淋しさは、ある種のリアリティをもっているかもしれない。物語としての冒険の迫真性、舞台の手で触れられるような臨場感、手に汗にぎる緊張感にはとぼしいものの、神沢が提出した《問い》は、問いそのものの鋭さとは別の次元で、生き悩む現代の子どもたち、大人の入り口に立つ少年たちに、考えることの大切さを教えたといえよう。それは、理屈によってではなく、見えてこない不確かな道をてさぐりで歩いたたかしという主人公の存在を通してである。
 ともあれ、生きることの意味に通じるこれらの問いは、ストレートに提出されるのではなく、戦いの具体的な展開をくぐることによって、究極読者の内奥に浮かび上がるような手法への切り込みが必要だったのではなかろうか。

 神沢は、その後一九七六年に『流れのほとり』を、一九七八年に『いないいないばあや』を発表した。いずれも生地福岡や小学校から移り住んだ樺太などで体験した幼少時の不安と喜びを書いている。『流れのほとり』から『いないいないばあや』へと、作者の生命の根源(誕生)へとさかのぼっていく姿勢に、もう一度自らの足もとを確かめようとする熱い想いが感じられる。自己変革を願う神沢を力づけるのは、幼時の記憶というよりも、幼時への想像力といえるかもしれない。

  つきつけられたあいくちを自らの手に奪い取り、状況を逆転させていくのは、或る時は力だろうが、悲壮になると自分が怪我をする。目先まっ暗で動くのではなく、ゆとりを持って眺め返すには、ユーモアとナンセンスの精神こそが必要だ。想像力は世界をひろげ深めるとともに、規制の秩序を転倒させるバネの役を果たす。ものにはさまざまな見方があることを教える。この訓練がわたしにも多くのひとにも必要なのだ。これは現実を変革することに繋がり、逃避ではない。            (「日々の旅立ち」前出)

  わけのわからないくせに、ついわかったふりをしがちな、つい、かっこいいことをいいたかったりする自分に対する反省というか、自己嫌悪があって、わかったふりでなく手探りでたしかめていきたい気持ちね。あたまじゃなくさわって感じていくというか、そんな思いで『銀のほのおの国』は書きすすんでいったのです。
   (「対談/フライパンからはじまる別世界」『日本児童文学』一九七九年八月号)

 『カム−−』において、現実を脱出し、乗り越えるために原風景にもどっていった作者は、『銀のほのお−−』では、現実とより深く関わり、作者自らの手で現実を逆手にとって変革するために、神話的ファンタジーの世界を新しく創造しようとしたようである。


注1 斎藤惇夫「冒険三部作」(一九七一〜八二)、舟崎克彦「ぽっぺん先生六部作」(一九七三〜八三)、天沢退二郎「三つの魔法三部作」(一九七五〜八三)、いぬいとみこ「山んばと空とぶ白い馬」(一九七六)、末吉暁子「星に帰った少女」(一九七七)、上野瞭「ひげよ、さらば」(一九八〇)、わたりむつこ「はなはなみんみ三部作」(一九八〇〜八二)あまんきみこ「もうひとつの空」(一九八三)など。
注2 『チムとゆうかんなせんちょうさん』に始まる、少年チムを主人公とした冒険シリーズ。
注3 『エルマーのぼうけん』に始まる、少年エルマーを主人公とした冒険シリーズ。
注4 林容吉「訳者のことば」『空をとぶ小人たち』(岩波書店)収録。
注5 「子どものための本」林容吉訳『ブックバード』一九六八年、No4、収録。
注6 猪熊葉子「《トムは真夜中の庭で》「時」の謎を追及したピアス」『イギリス児童文学の作家たち』(研究社)収録。
注7 「一九二四年、一月二十九日、福岡県戸畑市に生まれる。六人兄弟の五番目。一九三一年、炭坑勤めの父の転勤に伴い、東京・北海道・樺太に移り住む。一九三六年、樺太庁豊原高等女学校入学。翌三七年、上京」『日本児童文学』一九七九年八月号、(偕成社)収録の《神沢利子年譜》より抜粋。
注8 『日本児童文学』一九七九年八月号(偕成社)収録の上野瞭氏との対談「フライパンからはじまる別世界」に「私は当然『ナルニア』を読んで書いたんだから」という神沢の発言がある。
注9 『宮沢賢治全集7』筑摩書房。
※『ちびっこカムのぼうけん』『ヌーチェのぼうけん』ともに(理論社)『銀のほのおの国』(福音館書店、講談社文庫)『流れのほとり』(福音館書店)『いないいないばあや』(岩波書店)


入力者注 原文は{示壽}(←これで一文字)という漢字が使われている。俗に「祷」と書かれる。「祷り」で「いのり」と読む。

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