『ページのなかの子どもたち・作家論』(松田司郎:著 五柳書院 1984)

ランサムの子どもの世界

 しばらく前から、私は、想像上の一家の子どもたちを心の中であたためていた。その四人(そして赤ん坊を入れると五人)の子どもたちが小帆船にのって、やはり小帆船にのっているほかの二人の子どもたち、ナンシイとぺギイに出会うという物語の大筋は、すでに出来ていた。(略)私は書きさえすればいいのだった。しかし、今までずっとあれやこれやとかきちらした末、やはり私には物語が書けないことがわかるのではという強い不安はあった。(注1)

『ツバメ号とアマゾン号』が生まれる経緯について、ランサムは『自伝』の中でこのようにのべている。
ランサムは、「ほかの仕事にさくひまを一瞬すらおしん」で、ルーズリーフにとじた紙で五十頁まで書き上げた。

 私は、思いきってそれを出版社に見せることにきめた。相手が乗り気のようなら続けよう。乗り気を見せなかったら、書きつづける楽しみは大きいけれども確実に売れることがわかっているもう一つのあれの方を書かなくてはという気になるだろうと思ったのだ。私たちはひどく貧乏だったから、それ以上の賭けはできないのだった。

 ランサムが「ひどく貧乏だった」のには事情があった。40代半ばまで続けてきたジャーナリストの仕事を投げうち、いわばものかきの道を選択したのである。
 ランサムは、それまでに『ラカンドラ号の処女航海』をはじめ、ロシア昔話や旅行記や文芸評論などの本を著していた。(注2)しかし、ランサムは「確実に売れる」本を書きたかったのではなかった。出版社は、ランサムの主として政治や紀行や釣りのエッセイをほしがったし、ロシア文学の翻訳に高額の稿料を申し出るところもあった。(注3)
それはランサムが文芸評論家やジャーナリストとして有能な仕事をしてきたことと無関係ではない。けれども、ランサムが本当に書きたかったのは、子どもたちを主人公にした釣りと帆走の物語だった。
『ツバメ号とアマゾン号』は、ランサムのいわば人生における賭けであったが、結果的には待望の自由と安穏な暮らしを獲得させた。「待望の」というのは、ヒュー・シェリーが、「彼は七五ねんの大半を休暇を待ちのぞむか、休暇を楽しむか、休暇を回顧するかしてすごしてきた」(注4)と述べたように、ランサムの内面は常に湖やヨットや釣りで満たされており、子ども時代のままの冒険と遊びの精神を持っていたからである。
 ランサムが『ツバメ号とアマゾン号』を書くことになったきっかけに、仕事の余暇にいつもでかけるイングランド北部の湖で、知人の孫の子どもたちと釣りやキャンプをしたことがあげられている。つまり、ランサムは、子どもたちとの遊びの中に自己の生きがい、楽しみを再確認し、それを文学(物語)の世界で永遠化(=作品化)しようとしたといえる。
 すでに述べたが、ランサムの全仕事は、大きく分けて三つであるが、まったく異質な分野のようでありながら、これらを無理なくつなぐものがランサムの性格分析の中から明確に浮かび上がってくるのを知ることができるだろう。
 第一に理性的客観的な目。これはノンセクトといわれるぐらい政治的には一つの主張、イデオロギーに偏さなかったといわれていることでも明らかであり、逆にいえば常にアウトサイダーとして冷徹なめでものごとを追求していく姿勢といえるだろう。逆にいえば常にあうとさいだーとして、冷徹な目でものごとを追求していく姿勢といえるだろう。文芸評論では、資料調査を科学的におしすすめ、そこから割りだした事実を客観的理性的に処理していく姿勢が貫かれているといわれていた。また「ランサム・サガ」ではこの客観性が事件やもの、人物像に対する描写をどれだけたんねんについきゅうしていっているかという観察性のしたたかさも共通しているのではなかろうか。つまり、目に見え、手にさわることのできるくらい具体的な迫真性をもって描いているのであり、あらゆることをこまかく正確にとらえているといえよう。
 このことは第二の特徴である、ものに対する愛着心、執着心と結びついていると思われる。「ランサム・サガ」における帆走の仕方から、食事の内容、食器や道具という衣食住についてのこまかく念入りな描写はおどろくほどである。

 とくに湖水地方を舞台にした作品についていえることだが、これらの物語がこどもたちにつよく訴える理由は、子どもの読者が、自分もウィンダミア湖で実際に帆船をあやつり、湖のまんなかにある島の上で野営をしている幸福な仲間の一人だと思いこむことのできる一体感(アイデンティフィケーション)の魅力にあるのだと思う。この場合、作者がこまかい細部を注意ぶかく書いていることが、たいへん役に立っている。ランサムは、船をあやつる技術のことや、テントを張ること、サケをつかまえることや、炊事のことなど、すべての行動がどんなふうにおこなわれたかを、すこしも曖昧なところがないように正確に説明しているので、子どもの読者は自分もその場所にいたような気になり、そのことはほんとうにあったのだと思いこむのである。(注5)

 タウンゼンドが指摘した一体感や臨場感は、物語を楽しむときに大切な要素である。
 第三のポイントは、健康的な憧憬への気持ちである。これは根幹に好奇心と征服欲が存在するのはいうまでもないが、第四の行動力と結びついて「ランサム・サガ」においては、子供が人間の原型として持っている行動する会館、生きている楽しさ、喜びを存分に盛り込むことができたと思える。ランサムの憧憬は外向的には、自然への深い愛情がレジャーに対する行動的執着心となって現れたといえるし、距離的にとらえれば当時のまだ大英帝国が海外雄飛していった繁栄のなごりの色濃い社会状況の中で、ロシアや中国という大陸へ冒険していったといえるだろう。内向的には理想的普遍的な人間関係を求めて『海へ出るつもりじゃなかった』のジョンやスーザンに象徴されるように、艱難辛苦をものともせず常に人間的成長、ありうべき姿を自らに貸していたともいえるのではなかろうか。
 憧憬は行動力をさそって、子どもの文学に不可欠な冒険とロマンを呼んだといえるし、ランサムの生きるエネルギー、原動力になっていたことも事実だろう。逆にいえば、未知への冒険はまたはてしない生命への憧れを内包させているともいえる。
「ランサム・サガ」は一般的にはリアリズムの流れに属するものとされているが、注意ぶかく読んでいくとそれはリアリズム風(ありうべき日常生活を土台としている故に)ではあっても、憧憬や夢が間違いなく完遂されるユートピア世界とこの考える方がよいことが分かってくるだろう。ランサムがロシアの昔話にひかれていった点とこの考え方は無縁ではない。つまり、「ピーターじいさんのロシアの昔話」に代表される世界も「ランサム・サガ」の世界も、ランサムが求めた人間の普遍的価値観が勝利を約束されるユートピアであることが分るであろう。
 この点については、神宮輝夫がすでにのべている。

「『ツバメ号』のシリーズは、数多くの子どもの本でも、めずらしいほどに、手堅く人物や状況や環境を描写した、もっともリアリスティックな作品の例です。にもかかわらず、本質的には、やはりリアリズムとよべるものではなく、末っ子が幸福を求めて旅に出て、波乱万丈の大冒険の末に冨や権力や、美しい花嫁を獲得する昔話と同じなのだと考えます。」(注6)

 くりかえすなら、湖や北海や山でくり広げられる「ランサム・サガ」の舞台は、登場人物たちが主体的に選択した目的にむかって、人間の普遍的な価値観、例えば愛、友情、正義、勇気、やさしさ、力強さといったものを原動力にした若々しい行動力でまっしぐらに進むことのできる世界ではなかっただろうか。
 第五のポイントは、すでに述べたように、ランサムの人間への信頼である。つまり、人間は生まれながらにして本質的に勇気や愛や正義(真・善・美)をもっているというヒューマニズムである。だがこれはのちにふれる中産階級的視点(乱暴なとらえ方だが、一言でいえば内を守り外に目を向けない発想)あるいは大英帝国的青年像の視点(世界に雄飛していく勇敢で賢こい青年像)として、一歩まちがえば人間の価値観をせまい範囲でとらえることにつながる不安感と一体をなしていると思われる。
 ランサムの性格分析、思想分析は第六の個人主義で打ち切るとしよう。これは、他人に迷惑をかけないという発想からきているのであろうが、本来は互いの個としての尊重が土台になっていると考えてもよいものである。ただランサムの作品から連想されるのは「自分の人生をどう生きようと干渉しないでそっとしておいてくれ」という広い意味での色濃いマイホーム主義だと言ってしまえば読みすぎだろうか。
 ただ、仕事から解放されたランサムは誰にも邪魔されずに好きな釣りとヨットにひたり切っていたかっただろう。これが個人主義やマイホーム主義だったとしても、このレジャーに対する憧憬信が「ランサム・サガ」を流れている休暇(外から開放された時間)の楽しさを倍加していることも事実であろう。

『ツバメ号とアマゾン号』に始まり『シロクマ号となぞの島』で完結する十二冊のおはなしは、とにかく読んでいて楽しい。スティーブンスンの『宝島』(1883)ライダー・はガードの『ソロモン王の洞窟』(1885)――イギリス児童文学におけるこの二大冒険小説は、冒険に人間の根源的欲望であるロマンスをもちこんだことによって高く評価されているが、ランサムは《冒険》の質を完全に変化させたといっても過言ではないだろう。冒険がありそうにもない話、夢物語として、空想と行動の一体感によって思いも寄らない世界へ読者を一気に連れ出し、日常性では味わえない身ぶるいするような快感を与えるものと考えられてきた常識をランサムはくつがえしたといえる。
 つまり、現実から非現実の世界へと一足とびにとぶのではなく、現実から《憧憬》の世界へいざなうものが日常的世界に接近しても十分可能なこと、いや現実との密着性が質のちがう冒険の楽しさ、共体験の快感をあたえることを立証したと思われる。同時に現実から《憧憬》の世界への方向性が、児童文学の本質的要素と密着していることも、重大な意味があるだろう。本質的要素とは、いうまでもなくストーリー性であり、昔話、民話の発展をみても分かるとおり、お話を語る、物語するということである。「ランサム・サガ」がもっている特徴は、現実(日常性)と虚構(物語性)の切っても切れない相関関係であろう。この虚構には、二つの要素がある。つまり作品全体を通して、起承転結と展開するプロット(筋)と、作中でブラケット姉妹がみずからアマゾン海賊と名のることや、ジムおじをフリント船長と呼ぶことや、正式な船員式あいさつをとり入れたり、捕虜にした海賊に踏み板を歩かせたりというのは、すべて作中の現実世界と異なるおはなし(ごっこ遊び)の世界であり、これがメイン・プロットに巧みにからまりあって作品に冒険の広がりと楽しさを与えているといえる

 日常生活を舞台にしてフィクションをつくる場合、虚構のわざを利用して、ありふれた日常の時間に、どれだけ特殊な興味とロマンを与えうるかがが、最大の関心である。幸いなことに、ランサムの場合、虚構のテクニックは幼少期から極めてなじみ深いものであった。何故なら、ランサムが人生に見出したものは、自然に対する遊戯的な働きかけであった。イングランド北部の広大な湖沼地方で、釣りをしたり、ヨットを走らせたり、地形を調べたりすることは、大人になってからも彼の楽しみの大部分を占めていたといわれる。帆走するランサムにとって、彼を取り巻く湖や島や河口やさざ波や雲間からもれる陽光は、いくつになっても、さまざまな空想を生み、世界は新鮮で荒々しいばかりに驚きと可能性に満ちて映っていたにちがいない。
 つまり、波が日頃慣れ親しんでいた遊びの世界は、そっくりそのまま虚構の世界でもあった。なんの変哲もない島が宝の島に、ありふれた川がカバやワニのすむ秘境に、ジンジャーエールが海賊ののむラム酒に……という変化は、ランサムが幼い時からくり返していっていた空想遊びの世界であった。
 遊びというものが、空想したり、想像したりすることから始まるとすれば、書くことも同じような行為である。ランサムは、遊ぶことによって楽しみ、それをもう一度文章にして確かめることによって、二重のたのしみを味わったといえるのではなかろうか。
『ツバメ号とアマゾン号』は、ごっこ遊びの世界である。広い湖や河口や山野のすべてが、ゲームの舞台である。湖は果てしない海洋に、地勢のそれぞれには新しい名前がつけられ、陸に住む人々は土人に設定される。しかし、これは単なる置き換えのゲームではない。置き換えることによって、新しく誕生したイメージが連なり、重なり、響きあい、総体をなして第二の世界(非日常=虚構)を創造する。子どもたちが、通常無意識の衝動によって行う遊びの世界の約束ごとである。約束ごとは、一定のルールによって着実に進められていくように見えるが、ありふれたものを別のものに置き換えるとき、そこに設定者の意図をこえた不思議な連想がしょうじ、一人歩きを始める。
 子どもたちの冒険は、自分たちの《地図》を作るところから始められる。ヤマネコ島と陸地の船着き場の間で釣りをしているとき、釣り上げようとした魚をくわえて、何かが激しく大きな渦を描いて引っ張り込もうとする。弓なりの竿をもって、ロジャは思わず「サメだ!サメだ!」と叫ぶ。無意識のうちに感じたままの連想は、他の子どもたちにそれぞれなりのイメージを次々に浮かべさせる。そうして、湖にサメ(実はカマス)がいることによって、サメ湾という架空の地を命名し、そのことによって、第二の世界の性格が徐々に深められていくのである。
 架空リアリズムということばを最初に使ったのは、鳥越信によると古田足日らしいが(注7)、架空性(虚構性)というものはそれを支えている法則が一つでも狂えば、お話全体がくずれてしまうだろう。
「ランサム・サガ」にはごっこ遊びのおはなしを別にすれば日常性を飛び越えた架空というものはなく、起伏に富み、それでいて目的がとげられる骨太のストーリーに仕立てられている。このプロットを展開するきっかけとなるものは、注意深く読んでいくと、登場人物の誰かによる偶然的行動によっていることが分かる。つまり、偶然性が事件を生み、そこから目的完遂の第一歩が始まるのである。この偶然性を演じるのが『ツバメ号とアマゾン号』ではティティであり、アマゾン号が島に上陸したときとっさに船を分捕り、ひとりでウミネコ島まで帆走させてイカリをおろしていると、盗賊がすぐちかくで宝物を隠しているという設定であり、カーネギー賞受賞作品の『ツバメ号の伝書バト』では演技者はロジャで、金鉱探索にあきたロジャが谷底にひとりでおり、洞窟でたいくつしのぎに岸壁を打つと光る鉱石が落ちる設定。『海へ出るつもりじゃなかった』では演技者はジョンと海という自然であり、四人兄弟を残して停泊している鬼号を潮の変化と霧がおそい、適切な処置をしようとしたジョンの努力もむなしく、自然の偶然性が重なって船を沖へおし出すという設定である。
 だがこの都合のよい(グッドタイミングな)偶然性によってランサム作品の虚構がくずれさるとは思えない。これは前述した『宝島』や『ソロモン王の洞窟』が日常性を完ぺきに消去することによって、りんご箱への導入や数十年に一度しか起こらない皆既日食が都合よく善玉を救ったとしてもその虚構性(物語)を壊すものではないのと同様に、ランサムは偶然触発的な事件(虚構性)を日常的リアリズムに巧みにとけこませることにより、換言すればその偶然的行動の背景をあくまでもリアルに執拗に描き込むことにより、読み手にスムーズに受取らせることに成功したといえるだろう。
 問題はむしろ行動を規制する虚構性(物語=プロット)にあらかじめ越えてはならない一線を引いてしまっていることである。もう少し分かりやすくいえば、ランサムの虚構によって動かされる登場人物たちにレジャー(遊び)への憧憬は肌身に感じて理解できても、個々の内からほとばしりでる主体的な行動力を余り見ることはできない。行動が物語世界を押しひろげていくとき、そこにはじめて新鮮な発見、体験が生まれるのだが、ランサムの物語世界は逆に行動を無意識に規制していると思われる。
 これは一つにはランサムが人間(子供)の内なるものに関わっていくよりも、遊びそのものに関心をもっているためであろう。四人の子供たちが登場すれば、その四人の内面よりも遊びを行なう一つのグループというとらえ方にウェイトがいってしまうのだろう。
 ここからランサム文学の一つの特徴が浮かび上がってくる。それは登場する子供を、集団や、性格のちがいはあってもランサム風子供像としてトータルにとらえるやり方である。ここには、大人が人間の原型として大切なものを、自分の子供時代を振り返って再創造していくその意識の中に、(人間や子供をみる愛情深さと表裏をなして)、子供を保護し、期待される物として振り返る視点と似たものが存在すると思われる。
 物語を発展させるランサム風子供たちの行動は非主体的な偶然性にたよらざるをえないし、自分らに反抗し飛びだすエネルギーは、隔離された休暇ユートピアの中に減力され、閉ざされているといえる。このユートピアは、外的には休暇で学校や家から遠く離れているという距離や時間の特異性によって成立し、内的にはランサムが価値を持たせた理想的子供像によって成り立っている。勇気と正義感あふれるジョン、やさしくて兄弟思いのスーザンなどがランサムの子供像を象徴しているのであるが、このことは裏を返せばランサムのユートピアを築く上での必要条件ともいえるのではなかろうか。
 さて、社会から隔離され、理想的子供像を背負わされた子供たちは、作者ランサムによっていくつかの《約束》を誓わされている。それは人間が本質的に守らねばならないモラルの問題であるが、作品の中では形をかえて具体的なことがらとして現されている。
 第七巻目の『海へ出るつもりじゃなかった』では、題名の示すとおり帆船で海へ出てはいけないというのが〈約束〉である。この作品が他の作品と違って興味深いのは二つの点においてである。一つは〈約束〉を破ったことで物語が展開すること、一つは大嵐の海原に四人兄弟姉妹だけがほっぽりだされたことである。約束を破ることにより極限状態をむかえ、それが物語の迫真性、緊迫感を出しており、大海原に船出することにより、理解あり愛情深い大人たちと共存することを条件にあたたかく保護された休暇の世界から、大人たちとの共存の絆をたち切り、一時的であれ自立する時間をもったということができるだろう。
 ただ、ここでも留意しなければならないのは、ランサムが四人の子供たちが〈約束〉を破る事を偶然触発的にしかとらえていないことであり、子供たちの主体性を執拗なまでに消去し、反対に偶然性の状況を読者にわかりやすくつみ重ねていっている。
 その状況は、ガソリンが切れた、鬼号の有能な船長の十八歳のジムが目と鼻の先のガソリンスタンドにいった、ジムは船を安全地帯にイカリをおろして停泊させていた。だがジムは(物語の最後で説明されるが)交通事故にあって意識不明、子供たちは待った、海から霧がやってきた、潮が満ちイカリを引きずった、ジョンは予備イカリをおろしたがロープが短すぎた……などなどどうしようもなく鬼号は海に出ることになる。
『海へ出るつもりじゃなかった』の題名が示すように、ジョン、スーザン、ティティ、ロジャの四人兄弟は母さんの約束を破って海へ出るつもりはまったくなかったのである。これはモラルの問題としてうなずけるが、自分たちで船をあやつって海へ出たい(ジョンは帆走にかけては相当な経験をつんでいる)という無邪気で無鉄砲な気持ちが子供たちの中に存在し、それがときおり顔をもたげるのを冷たく否定しているような気がしないでもない。だが、これは帆走のプロといってもいいランサムが海の恐ろしさを十分知っているがための愛情と考える方がよいのだろうか。
 だが、それにしてもランサムは、念入りに状況設定して大海原にほうりだした四人兄弟たちに何を期待しただろうか。この作品はすでに述べたように大嵐の海という特殊な舞台、しかもこどもたちだけであるという状況設定により、読み手に緊迫感をあたえているのはたしかだ。ランサムの他の作品にも共通しているが、「嵐の海から船を安全なところに移動し、自分達の生命を守る」という簡潔明快な目的を子供たちとともに共有させられた読者は、もう作品から目を離すことはできない。さらにあくまでもリアルな描写、映画を見ているような視覚的な観察のふではこびは迫真性を増している。一体、四人の子供たちはどう対処していくだろうか。
 リーダーとして自覚せねばならないジョンは、体力と知識の限界にけなげにいどみ、スーザンはジョンを助けることで体力を消耗しきっても、なお食べることや弟妹たちの励ましをわすれない。ティティは努めて快活にしようとし、ロジャは自分にできることを精一杯やろうとする。四人は性格のちがいなりに、それぞれ前向きでぶつかっていく。疲れと恐ろしさが意志を打ち砕き、泣きべそをかいて船底にしようとし、ロジャは自分にできることを精一杯やろうとする。四人は性格のちがいなりに、それぞれ前向きでぶつかっていく。疲れと恐ろしさが意志を打ち砕き、泣きべそをかいて船底ににげこんでも、兄姉たちを恨む気持ちはない。読み手はその努力に拍手をおくり、くじける心に励ましを送る。これをナニワブシ的甘さというのは簡単だろう。問題は人間の心の中には、誰しも普遍的価値(愛情・勇気・正義)に対する憧憬があるのは当然だが、普遍的価値というものはそれに相対するものがあって初めて浮き彫りにされるものであろう。愛に対する憎しみ、勇気に対するしりごみ、正義に対する悪はそれぞれ葛藤しあっている。「ランサム・サガ」はランサムの人生哲学、理想的人間像に密着している故に、大嵐という物理的極限状態の対処のしかたも、子供たち個々の精神的葛藤にまで深められず、人間に対する普遍的価値観、美意識にそっくりのっから無ければならなかったのではないだろうか。だが、もちろんこれもランサム作品のめざしたものが、人間の個の内面よりも、広い意味での《遊び》というものに焦点を合わせているためであるのはいうまでもない。
『海へ出るつもりじゃなかった』では、むしろ《タブー(約束)》の一歩外に出てたいけんしたこの大冒険が、四人の子供たちにどのように影響していくか、この視点が作品の中にどう示されているのかが留意したいポイントであろう。だが、大冒険と自分なりに闘ってきた四人の子どもたちの個性の中に、それを受けとめ、乗りこえた心の葛藤、感情といったものが大ざっぱな普遍的価値観の中に安易に捨てられ、一つの体験が子どもたちに与えた変化(変革)は見られない。これは他の作品にも共通し、十二冊の「ランサム・サガ」を通じて実際にはどの登場人物も三〜四歳年をとっているのであるが、その成長の軌跡、変化が余り感じられない。
 冒険小説が登場人物の個の内奥に入っていけばいくほど冒険性から離れていくのは当然の宿命だが、ジョンやスーザン、ティティ、ロジャがきわだった正確をもたされている故に読者に親しみを与えていることをおもうと、虚構(物語性)を展開させるためのキャラクターとしてだけ利用されているような気がしてならない。
 極端にいえば、ランサムが《タブー》を犯して創りだした『海へ出るつもりじゃなかった』は、海の極限状態に四人をおくりこむことによって、人間の普遍的価値観を浮き彫りにさせてあかったということもできるのではなかろうか。
 タウンゼンドが、前出した本の中でいみじくも指摘した「読者が、人生というものは自分が考えていたよりもはるかに豊かで、はるかに不思議なものだと急に目を大きく開かせられるような場面が、どちらかというとすくない」のは、どうもこのあたりに原因があると思われる。
 だが最後にいえば、ランサムはこのことに対して強く反発するだろう。彼は日常性と虚構性を〈遊び〉の世界ではじめて融合させて成功した数少ない作家にちがいないし、彼の創りだしたユートピアが昔話の世界に共通するおはなしの世界である以上、登場人物たちは正確こそちがえ、単なるキャラクターにすぎない。キャラクターが一見読者と共通な日常世界に存する者という錯覚が、キャラクターにそれ以上のものを要求するのであろう。
 ともあれランサムが作りだしたユートピア世界は、日常生活のわずらわしい面(学校、家庭、人間関係)から開放されて、〈遊び〉を楽しみ、〈冒険〉に没頭する世界であり、これは逆にいうと子供時代に誰しもが経験するわれを忘れて遊ぶ《時間》でもあるだろう。今まで述べてきたランサム作品に対する評価は、ランサム作品の舞台が日常性と隣接するがために与えられるものだろう。
『ツバメ号とアマゾン号』が出された1930年ごろは「ドリトル先生シリーズ」(ロフティング)『熊のプーさん』(A.A.ミルン)、『ふくろ小路一番地』(ガーネット)『町かどのジム』(ファージョン)『メアリー・ポピンズ』(トラヴァース)『ホビットの冒険』(トルーキン)と優れた児童文学が続出した年代であるが、この時代に特徴的なのは、一言でいって人間に対する《信頼》ではなかろうか。メインやタウンゼンドの出てくる1960年代になると状況は一変してくる。今日子供たちをとりまく現実が〈遊び〉の時間や空間を極端に狭めている事を思うと、ユートピアを信じて遊ぶことのできる作品が子ども読者にどう受けとられていくか興味深い問題である。児童文学が現実にある人間の獣性、普遍的価値観からずり落ちるもの、社会のひずみや共同体のエゴが生む悪、孤独な絶望感から無縁なところではじめて成り立つものだという考え方を、今日は好むと好まざるにかかわらず一度捨て去って再出発しなければならない時代かもしれない。
注1神宮輝夫『アーサー・ランサム自伝』白水社
注2Edgar Allan Poe(1910),Oscar Wilde(1912),Old Peter's Russian Tales(1916),'Racundra's First Cruise(1923), Rod and Line(1929)
注3『自伝』(前出)によると、『竿と糸』(Rod and Line)を出版契約した出版社は、「ほんとうにほしいのは全般的な問題についてのエッセー集なのだといった」という文章がある。また、「ショーロホフの『静かなドン』を訳してくれたら千ポンドというとほうもない翻訳料を払うと申し出てきた」バットナム社の話がのっている。
注4Hugh Shelley, Arthur Ransome,A Bodley Head Monograph,1960.
注5高杉一郎訳『子供の本の歴史――英語圏の児童文学』岩波書店
注6「アーサー=ランサム」『世界の童話作家』ほるぷ出版、収録。
注7鳥越信『新編児童文学への招待』(風涛社)に「私の記憶にまちがいなければ、神宮輝夫はこれを『宝さがし小説』と呼ぶべきだと言い、それにたいして古田足日がそれもいいが、強いて言えば『架空リアリズム』と呼ぶべきではないか、と言ったように思う」とある。

※〈ランサム・サガ〉は「アーサー・ランサム全集」(全十二巻)として神宮輝夫訳で岩波書店より出されている。/Swallows and Amazons(1930)Swallowdale(1931)Peter Duck(1932)Winter Holiday(1933) Coot club(1934)Pigeon Post(1936) We Did't Mean to Go to Sea(1937) Secret Water(1939) The Big Six(1940) Missee Lee(1941) The Picts and the Martyrs(1943) Great Northern?(1947)

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