家族という神話(最終回)

家族という神話を超えて
野上暁

           
         
         
         
         
         
         
    


ひこ・田中『お引越し』と『カレンダー』から――

 一九六〇年代末の学生たちの反乱は、大学という制度への疑いから出発しながら、ついにはその解体を叫んだように、既成の価値総体に対して刃を突きつけるものでもあった。そういう中で、対幻想としての男女の関係性から、夫婦や家族のあり方への疑念も拡大していく。そしてそれは、六〇年代後半にアメリカを中心として先進資本主義国に拡がったウーマン・リブの運動とも重なっていった。制度としての結婚や家族の在り様が、フェミニズム的な視点から見直されていくのだ。
これまでたびたび述べてきたように、高度経済成長にともなう人口の都市集中化現象と核家族化の進展は、専業主婦を増大させ、教育ママをも大衆化していった。同時に、マイ・ファミリーからマイ・ホーム幻想が喧伝され増殖していくのだが、前号ではその延長上で、ファミリー・アイデンティティが解体して様相をとらえた吉田としの『家族』を紹介した。それはまた、六〇年代中頃から離婚率の上昇と、それにともなう家族そのものが揺らぎを象徴するものでもあった。
 落合恵美子は、日本も東南アジアも伝統的に離婚率が高かったのに、離婚率の上昇を近代化と結びつけて認識されがちな点に疑問を投じている(『近代家族の曲がり角』角川書店)。日本では江戸時代から明治時代まで、現在と同じくらいの離婚率だったものが、明治末から第二次世界大戦まで低下し、戦後の一時的上昇を例外にして、一九六三年以降また上昇し始めたと彼女は分析する。一九世紀のヨーロッパでは、キリスト教の影響下で離婚が許されなかったから、婚姻終了理由はすべて死別によるものだったが、日本では離婚も再婚も日常茶飯事で、現在のアメリカ並みの驚くべき離婚率であったことを落合恵美子は同書で紹介している。しかし、「世帯内に夫婦以外にもしばしば成人がおり、離婚がすなわち家族の崩壊を意味しなかったからではなかろうか」と、そこに伝統社会における「家」の存在を指摘する(「失われた家族を求めて―徳川日本家族の実像―」『近代家族の曲がり角』所収)。
 日本の近代化は、離婚率を低下させてきたという指摘は一見意外かもしれないが、それが上昇し始めるのは、戦後の高度成長期に入ってからのことである。江戸時代から明治の始めまで今日のアメリカ社会並の高い離婚率を示していたのだが、近代化の中で明治期の末から戦前まで離婚率を低下させてきたのは、明治民法による一種神話的ともいえる家族イデオロギーの徹底化によるものと思われる。母系相続を蛮風として廃して、男子の家督相続や戸主権を確定し、戸籍の筆頭者である戸主の絶対的な権限のもとに家族の成員は様々な制限や規制を甘受させられ、両親に対する孝を国家への忠義に重ねる特異なシステムとしての家族制度が、家族至上主義となって離婚を忌避させてきたことは想像に難くない。一夫一婦制を原則としながらも、夫には婚外の妾が容認される一方で、妻の不貞には姦通罪が適用されるなど、社会の最小単位としての夫婦の関係性を揺るがせないための制度的な仕掛けが幾重にもシフトされていた。そしてそこに良妻賢母イデオロギーが被ってくる。そこにはまた、学校教育を始めとする、子どもの本やメディアによる子どもに向けてのイデオロギーの徹底化があったのはもちろんである。半世紀にわたって徹底化され、国家と家族を一体化する日本独特の近代家族にまつわる奇妙なイデオロギーが解体されていくには、戦後民法が制定されてからもしばらくの時間を要したのだ。
子どもの文学は、子どもの養育装置として機能してきた家族という制度の揺らぎに敏感にならざるを得ない。家族は子どもの生活の安定を保証するものであり、その揺らぎは生活そのものの危機に直接的につながるのだから、子どもの文学が家族の危機を早々から作品に取り込んできたのは当然であった。しかしそれが、悲劇として描かれるところから、一歩踏み出すのは六〇年以降である。明治以降、戦前までに構築されてきた、家族という神話を先鋭的に解体することから、子どもの自立を構想してきたのだ。これまで、年代を追って、具体的な作品に沿いながら家族という神話の揺らぎと、そこから自立していく子どもたちの姿を見てきた。そして近代家族の神話が、小学六年生の少女の視点から軽やかに乗り越えられていくのは、一八九〇年に明治民法が制定されてから百年後の一九九〇年、ひこ・田中の『お引越し』(福武書店)の登場によってであった。
見返しの裏には作品の主人公、小学六年生の漆場漣子(レンコ)の両親である、漆場賢一と星野なずなの婚姻届が。扉をめくると、左ページの中央に「今度、お家が二つになります。」と記される。そして第一章の書き出しは、「水曜日。今日とうさんがお引越しをした」と、物語はレンコのモノローグで展開していく。夜学の大学に行くために高知から京都に出てきたレンコの母のナズナは、同じ大学の昼間部に通っていた漆場ケンイチと出会う。とうさんは大学を卒業するまで七年かかったから二人は大学時代に結婚し、とうさんが卒業するまでかあさんが働いて生計を立てていた。そしてとうさんが広告代理店に勤めだし、レンコが生まれたのでかあさんは仕事をやめた。二人は団塊の世代、つまり全共闘世代でもある。娘のレンコから見ても仲の良い友だち夫婦で、酔っ払うと反戦フォークの「友よ」を二人で絶唱する。その両親が離婚することになり、レンコはとうさんの後輩の布引くんが運転する車の荷台に、布引くんのガールフレンドで暴走族あがりのワコさんと一緒に乗り込んで、荷物と一緒にとうさんの引越し先に同行する。離婚の理由については、作中で明確にはされてはいない。
――うちは、ケンイチの手助けだけやなくて、自分でもう一度仕事がしたかったの。
かあさんは、とうさんがちょっと家出したときに、そういったことがある。そういうところに、ナズナの専業主婦として生活することへの疑念がさりげなく表出される程度である。

夏の終わりごろから、かあさんはずっと、変だった。すっごくお化粧するかと思ったら、リップスティックも使わないで、そのまま仕事に行ったり、テラスから取り入れた洗濯物の前でじっとしていたり、水を入れ忘れて風呂に日をつけようとしたり、とうさんがもう寝てもまだ起きていたり、反対にとうさんが商談でおそくなると電話してきたら、さっさと寝たり、とうさんのいない時、お昼からお酒を飲んでいたり……。
だから、かあさんは……少しも若くなかったの。
けれど、とうさんと二人で私のお家が二つになることを話してくれてからは急に、夏の終わりごろからよりも、その前からよりも、ずっとずっと若くなった感じ。無理して若がえってるのやなくて、ピンピンの感じ。どうせかあさんを持つのやったら若いほうがいい。得した感じがするもの。

離婚を決める前と離婚を決意してからの母親の変化を、レンコはそう表現している。「二人が別々にお家を持つのは、私のせいやないって、前に言われた。私のせいやないことが私に関係ある。私が子どもやのは、大きい胸がないのは、私のせいやないのに、私に関係がある」と、不満気に思うレンコだが、両親の離婚による母親の微妙な心理的な開放感を感受して、六年生の娘はそれを肯定的にとらえているのだ。つまりレンコは、両親の離婚を、負荷としてではなく前向きに受け入れている。
両親と三人での生活が、父親が出て行ったことにより二人での暮らしに変わるにあたって、母親は娘に当てた手紙を書く。
「私たちはこれまで3でくらしてきました。けれどこれからは2で生きていかなければなりません。3が2になったことは娘であるレンコには何も責任はありません。母ナズナと父ケンイチ二人の責任です。しかし、その結果あなたも、2の生活を受け入れなければならないのも事実です。私はあなたにたいして、そのことをまず、あやまりたいと思います。と同時に、2の生活が目の前にあるのなら、それを今の所はみとめてほしいとも思います。」
母からの手紙は、このように書き出され、3が2で生活するため【2のための契約書】の試案が渡されて、レンコはそれをもとに【3ひく1のためのけいやくしょ(またの名を「十一条のけん法」)】を作成する。そこには食事や洗濯や掃除などの家事の分担と、基本的な二人の約束事が記される。
レンコとナズナは二人でお好み焼きを食べに行く。
突然母のナズナが、「忘れてた。……うち、自分がお好み焼きにマヨネーズをかけるのを好きなのをずっと忘れてた。それを、さっきやっと思い出した」という。両親が始めてデートしたとき、とうさんがお好み焼きにマヨネーズをかけるなんて本当の味がわからないんやって、馬鹿にしたように言ったので、それ以来かあさんはマヨネーズをかけるのが好きだったことを忘れていたのだというのだ。レンコは、「かあさんの言い方は、病気で死にかけている主人公の女の子が、恋人の男の子に愛を告白するみたいな感じだった」と受け止める。そして、「自分が好きなものを話ア擦れるやなんて、そんなの信じられない。そんなこと絶対にあるはずがないって思った」とレンコは言う。それは、レンコなりの二人の結婚生活に対する批判であり、二人の離婚に対する了解点とも重なる。
担任の教師がレンコに言う。
「あのね、ウルシバさん。先生思うの。大変な時ほど、家族が力を合わせないとあかんって。ウルシバさんの所は、今度から、おかあさんとウルシバさんの二人が家族でしょ。だから、つらいやろうけど、おかあさんの言うことをよく聞いて、がんばってほしいの。お家のお手伝いもしてあげてね。だいじょうぶだよね。ウルシバさんは女の子やもん、お家の手伝いなんかカルイカルイ、できるよね」「先生は、ウルシバさんを信じてるの。元気出してね」
それに対してレンコは、「どうして、女の子は、お家の手伝いがカルイカルイなのでしょう」と疑問を呈し、さりげなくジェンダー的な視点から切り返してみせる。「でも、センセが話してる時、自分がマンガの主人公みたく思えて、ホントに涙が出そうやった。泣いたらもっと盛りあがったかなって、あとで少しザンネンだった」とも、おちょくってみせるのだ。
両親が離婚することによって、
漆場 賢一
   なずな
   漣子
の銅版の表札が変わる。賢一は居なくなったのだから、
漆場 なずな
   漣子
と、レンコが書いてかあさんに見せると、かあさんは、
星野 なずな
   漣 子

星野 なずな
漆場 漣 子
と書いて、

「よく聞いてねレンコ。レンコが書いてくれたので今はいいけど、表札は私が書いた二つもできるの。星野はわかるでしょ」と、ナズナは言う。
「うん、高知のおばあちゃんの所の名字や」と、レンコ。
「そう、おばあちゃんの名字でもあるし、うちの結婚する前の苗字でもある」とナズナは答え、「うちは生まれてから結婚するまでずっと星野なずなだったの」と言い、星野のホとなずなのナを取って「ホナちゃん」と呼ばれていたのが、結婚してからは「ホナちゃん」ではなく、「漆場賢一さんの奥さんだけ」になったと言うと、「レンコのかあさんもあるよ」とレンコ。
「うん、そうね。漆場賢一さんの奥さんで、漆場レンコさんのおかあさんやった。そして今度からはレンコさんのおかあさんだけになる」
「うちは相変わらずレンコさんのおかあさんだけど、もう漆場賢一さんの奥さんじゃないから、今度から漆場さんをやめようと思うの。ホナちゃんの星野にもどろうと思うの」

 かあさんは私が書いた紙の上の『漆場なずな』の『漆場』だけを二本線で消した。
『なずな』は急に頼りなく見えた。そして『漣子』も。
 せっかく私がきれいに書いたのにな。
 せっかく表札も2の生活になるのにな。
「でもそんなこと勝手にできるの?」
 少しだけ勇気を出して私はきいた。
「勝手にできるのじゃなくて、別れたらその時に勝手にもとの名字になってしまうの」

「日本ではね、結婚するとどちらか一方の名字にしないといけないの。ほとんどは、うちみたいに女のほうがもとの名字を捨ててしまうのやけどね。うちは結婚して、星野をやめて漆場になった。あんたのとうさんは漆場で生まれて、漆場で結婚したからそのまま漆場。そしてレンコも漆場で生まれたから漆場。わかる?」わかってほしいみたいにかあさんが言った。
「うん、だいたいわかる。かあさんは結婚っていう、お引越しをしたんやろ」
「なかなかうまいこと言うなあ」
かあさんはちょっとだけ笑ったので、私はホッとしたの。
「それでね、結婚が星野さんから漆場さんへのお引越しだとすると、離婚というのは漆場さんからのお引越しなの」
 かあさんは今度は矢印を漆場さんの家の中から外へ引いた。けどその先は星野さんの家には戻らなかった。そして矢印の先になずなと書いた。
 かあさんは漆場さんの家を出ました。

 離婚に伴う姓の変更が、子どもにも関わってくることが明らかにされ、それがまたレンコを戸惑わせ混乱させる。家族制度の根幹に関わる疑問点の表出でもある。そしてここから結婚後の男女別姓の問題意識も引き出されるわけだが、作者はそこには深入りしないで、現行の結婚という制度の不可思議さを子どもの視点から解き明かしてみせる。正月休に入って、初めて一人で父さんの家を訪ねてから帰宅したレンコは言う。

 私、このごろずっと、心の中では、かあさんのことナズナさんって呼んでいるの。ナズナさんがあんまり『かあさん』って感じに思えなくなってるから。それがいいことなのかどうか私にはわからない。でも、お家が二つになってから私、かあさんはナズナさんとかあさんの二つでできているって思うようになったから。そしてこのごろはナズナさんが多いの。
 かあさんは星野ナズナさん。

私は漆場レンコです。
かあさんは星野ナズナです。

 両親の離婚という事態を「お引越し」としてとらえ、血縁家族を基盤にした近代家族の神話を既成の価値観を寄せ付けずに軽々と乗り越えて見せた六年生の少女の感受力は鮮烈で、家族や夫婦や親子にまつわる幻想性のオブラートをさりげなく引き剥がしていく。そして作者は、この作品の二年後に発表した『カレンダー』(福武書店)においては、血縁家族を超えた新しい集団的な生活形態を見据えながら、フェミニズム的な視点を更に深化させながら、世代を超えた愛と生の在り様を、それぞれ自立的に描き出してみせる。
 物語は、幼い頃に両親を交通事故で亡くし、祖父母の家で育てられてきた中学一年生の少女・翼を主人公に、彼女が「二十歳の翼くん」に宛てたカセットテープによる語りかけと、祖母の「文字暁子の日記」を中心に展開する。
 幼い翼を育ててきた祖母は、翼が中学生になるのを待って、始めての一人旅に出かける。生まれてこの方、誰かの娘であり誰かの妻であり母であり祖母であったのだが、一人旅は何時も誰かの何かであったという自分を解き放つ試みでもあったのだ。大学教授の翼の祖父は、二年前に祖母と離婚して老人ホームに入っている。
 翼は祖母が旅行中のため一人での留守番していたときに、家の前でうずくまりゲロを吐いている男と、その背中を必死で摩っている女を、見るに見かねて家に入れる。それがきっかけとなって、その女性・山上海が翼や彼女の祖母の暁子と一緒に暮すことになり、血縁だけで繋がっていた家族の枠組みを超えた新しい人間関係が形成されていく。
 翼は、祖母が可愛がっている猫の紫を拾ったのと同様に、海たちをも「拾った」という。翼に拾われた海と男は、実は心中しようとしていたのだ。中学生の翼にとっては、男女の愛というものがよく判らない。人と人の出会いや別れとは何なのか。翼が赤ん坊のときに死んでしまった両親は、どうして結婚したのか。老人ホームに居る祖母に、若い頃の父親の話を聞く。祖母は一人息子の翼の父親に干渉しすぎ、その結婚にも快く賛成できなかったのだという。翼は、いろいろなことが益々判らなくなってくる。それは自分がガキだからなのか。そんな自分がもどかしく悔しい。
 祖父が老人ホームにいる女性と再婚する。祖母はワープロを覚えて、仲間と女に付いて語り合う同人誌を創刊する。海はそれを見て、「娘・妻・母。女は三つの生を生きる」と書かれたところに、誰もが妻や母にならなくてはいけないのかと異を唱える。翼の祖母・暁子の一人息子に対する一方的な愛と対照的に、理屈本位で息子に対応する大学教授の祖父との相克。祖母の祖父との葛藤を通して母の再発見による女の想像と自立を目指すプロセス。それらを、中学一年生の少女・翼の目を通して描きながら、男と女、親と子、自己と他者などの関係性の今日的な課題に真正面から切り込んでいく。そして家族とは何かを執拗に問いかけ、その神話性を解体した彼方に、それぞれの自立的な関係性を基盤においたところでの近代家族の超克が予感される作品であった。こうして、近代百年の間に構築されてきた家族という神話は、明治民法が施行されてから百年余を経て、鮮やかに終焉を迎えるのだある。(鬼ヶ島通信・40号)