家族という神話

(4)
"家族"の揺らぎと"母"の変容
――『道子の朝』と『ぼくがぼくであること』から――

      敗戦から一五年過ぎ、一九六〇年から始まる日本の高度経済成長は、人々の生活意識はもちろん、家族の在り方をも急速に変容させていった。五〇年代からの集団就職や、六〇年代からの大学進学者の増加が、地方の農山村から都市部へと若年人口を流失させ、全国的にも給与所得者が急増する。そして彼らが結婚し、家庭を持つことによって、核家族化が広がり、専業の主婦が一般化するのもこの頃からだといってよい。この傾向はまた、地方の中小都市にも急速に波及していく。高度経済成長にともなう夫の賃金の急騰も、妻を内職なども含む現金収入のための労働から解放するとともに、労働の場から締め出しもした。さらに、六〇年代以降の消費社会の進行は、電気炊飯器を手始めに、五〇年代には「三種の神器」と言われ庶民の憧れでもあった、電気洗濯機、冷蔵庫、掃除機などの家電製品を一般家庭にも普及させ、それによって妻の家事労働も軽減されていく。
大正期に増え始めた都市サラリーマン階層の妻の座は、農山村や自家営業の妻たちの憧れでもあり、専業の主婦というは中流家庭のシンボルでもあったのだが、これが全国的に拡大するのが六〇年代であったのだ。社会学者の山田昌弘は、"専業主婦はただ「家事をする人」というだけではなく、一つの生き方の表現なのである"といい、それは、"上流階級の女性(遊んで仕事をしない)と、庶民の女性(生活のために仕事をする)へのアンチテーゼとしての意味をもっている" (『近代家族のゆくえ』新曜社刊)と述べる。遊んで仕事をしない上流階級の女性が、子どもの世話を乳母や使用人に任せたり、反対に生活のために自らも労働者として働く女性たちが、夫にも子どもにもかまけることが出来ないのとは違って、家にいて家事に専念し、夫や子どもの世話に"専心する妻"の特権とも快楽ともいえるものが、専業主婦には保証される。それが一般的にも可能になったのが、高度経済成長期であった。
 日本の児童文学が、大正期のサラリーマン中産階級の誕生と足並みを合わせて花開いてきたように、六〇年代の中流家庭の急増と専業主婦の大衆化が、子どもの本の普及と隆盛に寄与してきたことは疑いようがない。そして専業の主婦としての母と子の関係性が、庶民レベルで"問題化"してくるのも六〇年代からであろう。上野千鶴子は、"生産の場から放逐され、「母」であることにだけ存在証明がかかるようになった「専業の母」が成立してから"「母子密着」が起こるようになったと述べている。(『近代化族の成立と終焉』岩波書店) 上野はまた、"教育という場をつうじての母と子の二人三脚は、中産階級の成立の初めから仕組まれていた"という。専業主婦の成立以来、「育てる母」「教育する母」は、「自分の作品としての子ども」の出来不出来で評価されてきたのだから。(前掲書)しかしこれが可能だったのは、都市に住む中産階級の妻たちであり、だからこそ専業主婦は庶民の女たちの憧れでもあった。そしてこの専業主婦礼賛イデオロギーもまた、日本の近代が育んできた物語であり、それが次第に大衆化するとともに、家族の中での軋みも一般化していく。児童文学は、子どもと家庭に関わらざるを得ない必然から、この軋みを最も敏感に作品世界に反映させてきたのではないだろうか。
 六〇年代末はまた、若者たちにとって激しい政治の季節でもあった。六〇年反安保闘争の敗北からしばらく低迷していた学生運動が、ベトナム反戦運動から授業料値上げ反対などの学園紛争をきっかけに全共闘運動に拡大し、七〇年安保改定阻止闘争と呼応して全国的に広がっていった。母子密着とはいえないまでも、親たちの子どもに対する思いを斟酌する余り、徹底して体制に抗うことを躊躇する者を揶揄して、「家族帝国主義」などという言葉が一部学生たちのあいだで蔓延したのもまた、当時の家族観の揺らぎを象徴していたのだろう。そこには、親の子に対する強権を断ち切るという、一種潔い意味合いが込められていたものの、子の親に対する思いは全く捨象されていた。しかし、当時の児童文学が、そのあたりにも視座に置き、特異なアプローチを示したことは検証しておくに値する。

 砂田弘の『道子の朝』(一九六八年 盛光社)は、母のガン宣告を知らされた一四才の少女・道子を主人公に、一九六七年一〇月八日の羽田闘争前後の騒然とした時代に伴走しながら、彼女が社会に眼を開いていく過程を、父母との関わりの中からアプローチしてみせた、じつに戦慄的な作品であった。
作者は、「はじめに」として、町であった少女にインタビューする。

――将来の希望は?
――一日も早く、おとなになりたい。それから、すばらしい恋愛をして、結婚するの。
 この物語の主人公の道子も、このような少女のひとりでした。

 一日も早く大人になって、素晴らしい恋愛をして結婚する。少女たちの夢が、恋愛であり幸せな結婚であり、そしてその延長上に、明るく楽しい「家庭」が、当然イメージされているはずである。もちろんそこには、専業主婦への願望が無意識的に付着している。しかしそれは、当時の少女たちに共通する感覚でもあったのだろう。加山雄三の「君といつまでも」、マイク真木の「バラが咲いた」、山本リンダの「こまっちゃうナ」など、恋の歌が流行したのが一九六六年。恋愛讃歌が巷に氾濫していた。若いカップルの赤ちゃん誕生の喜びを歌った、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」が大ヒットしたのは、一九六三年であった。
『道子の朝』の「第一章 平和の日々」は、次のように書き出されている。

 きょうこのごろの毎日の、なんと似かよっていることだろう。取り立ててしるすほどの出来事も起こらない。それが平和のあかしだとすれば、平和とは、なんとたいくつなものだろう。
秋山道子の一家の場合も、そうであった。両親と三人の娘たちは、ほぼ似かよった毎日をくり返していた。ちょうど、きのうもきょうも、電車が同じレールの上をゆききするように。


 平和な日々が退屈であるとは、なんとも大胆な言い方である。戦後日本は、ずっと平和を希求してきたのではなかったか。それを退屈だとは、なかなか言いにくいし、まして当時の日本児童文学のメインカレントが、平和と民主主義を標榜していたのだから尚更である。しかし、あえてそう表白したところに、作者・砂田弘の魂胆があったと見るべきであろう。政治社会的な関心も高く、一般文学の思潮にも通じていた砂田は、六〇年代になって俄かに浮上してきた"日常性"という文学的課題を、子どもの文学の中で追求してみようとしたのだろうか。
 のっぺりとした日常性が蔓延し、同じ毎日が退屈だと感じられる意識が浮上してくるのも、敗戦による荒廃から立ち直り、日々の貧困との格闘からも解放され始めた六〇年代になってからだ。それは、都市部の中産階級に典型的な共通感覚だったともいえよう。大江健三郎の『日常生活の冒険』(一九六三年)や『個人的な体験』(一九六四年)は、何もなく退屈な日常性の中に内面的な冒険を見たり、現代的な孤独や不安を家という場や家族との共生に溶解させようとするが、それさえもカミュが描くシシュポスのように、絶望的な営為として感受されてしまうのだ。郊外の団地に住む核家族の生活意識の変容ということでは、安部公房の『燃えつきた地図』(一九六七年)なども視野に入っていたであろう。
 道子の一家もそうであった。産業省に勤めて一四年、三年前にやっと鉱山局の係長になった父の二郎は、役所で不愉快なことがあると、新宿の盛り場によって、パチンコをはじいて憂さを晴らすのが習慣になっている。母の文子も、何十倍という抽選に当たって、都内の木造アパートから2DKの団地に引っ越してきたころの喜びも薄れて、今では家の中にいると息がつまりそうだ。しかも、判で押したような決まりきった毎日の生活に辟易している。その日常性が、母・文子が胃ガンに冒され、せいぜい一年しか生きられないと宣告されるところから急変する。
 医師は、本人はもちろん、子どもたちにも話すなと念を押したにもかかわらず、親兄弟のいない二郎は、文子のガン宣告を娘の道子に打ち明けざるをえなかった。道子は、不安がつのり夢でうなされて、夜中に目を覚ます。父の二郎も、すっかり不眠症になり、酒を飲んでも薬を飲んでも効き目がない。そんな真夜中、父は娘に妻との出会いと、二人が結婚したいきさつを話す。
 二郎と妻の文子の兄・久野省一は、学徒出陣で海軍航空隊に入隊し、特攻隊を志願した戦友であった。省一は出撃してそのまま帰らず、二郎は偶然にも生き残る。そして戦後、兄が戦死し両親も戦災で失い、一人っきりになった文子は、東京に出てきて兄の親友だったという貧乏苦学生の二郎に会う。二人の始めてのデイトは、黒澤明の映画『素晴らしき日曜日』(一九四七年)を髣髴させる。
 文子は、二郎と大学で同期の島崎から求婚されたのをきっかけに、二郎に結婚を申し込む。大学を首席で卒業して産業省に勤め、将来は大臣かとも噂されている島崎と、大学に六年もいて自治会活動とデモにあけくれていた二郎とでは、まさに雲泥の差だ。にもかかわらず、文子が二郎を選んだのは、両者の価値観や人生観の違いであったのだろう。二人は結婚し、二郎は大学を卒業して印刷会社に、文子はバス会社に勤める。しかし、道子が生まれて文子が会社を辞めたのと前後して、二郎はストライキを指導して印刷会社を首になる。まだ戦後の混乱が尾を引いていた復興期で、労資の対立も熾烈な時代だったのだ。
 乳飲み子を抱えて生活に困窮していた二郎は、かつての恋敵の島崎を頼って産業省に勤めることになる。二郎も文子も若い頃の情熱は失い、世の中の流れに逆らって生きることの困難さを実感するのだ。その後、道子の妹も二人生まれ、二郎は産業省鉱山局課長となった島崎に呼ばれて、鉱山局の係長になった。働く妻から専業の母に、文子の経緯は決して平坦ではなかった。そして、どことなく空虚だが安定した生活を送っている中での、突然のガン宣告であった。
 折りしも、二郎は頻発する炭鉱の落盤事故や労働争議の収拾のために、九州の三池炭鉱や北海道の夕張炭鉱への出張が続き、妻の病状が気が気ではない。道子は、母や二人の妹たちに気付かれないように、仕事中の父に頻繁に電話して、一時的に退院した母の家での様子を伝える。
 確実に死に向かう妻の姿から、二郎は出張先の炭鉱で「命とは何か」を改めて考えさせられ、生産優先のために安全を配慮しようとしない資本家に、若き日の怒りを蘇らせる。道子もまた、「命とは何か」を考える。道子が、信仰することでガンを平癒するという、新興宗教のビラを読んでいるところを、足の不自由な級友の修に見つかり、命とは、神が創るものなんかじゃなく、「人間がつくり、育て、守るもの」で、「命をまっとうするとは、人びとにつくすこと」だと言われてはっとする。
 首相の南ベトナム訪問と北爆支持に抗議して、首相官邸前で焼身自殺した老人。戦死したベトナム解放戦線の少年兵。参戦を拒否して脱走したアメリカ兵。担任の先生が教室で読んでくれた三通の手紙がきっかけになって、クラスではホームルームの時間にベトナム戦争についての討論が繰り返される。そして道子や修たちクラスの代表が、朝の校門でベトナム戦争反対のビラを配る。南ベトナムでは、わたしたちと同じ年齢の少年少女が、きょうも砲弾の下にさらされ、命をうばわれ傷ついている。尊い人の命を、まるでアリをふみつぶすように、奪っている人間たちを許すことはできない。「ベトナム戦争反対! 人間の命を守ろう。 二年二組一同」と結ばれるビラの文章は、道子が書いた。
 登校してそれを見た担任は、気持ちはわかるが中学生がそんな事をしてはいけないとたしなめる。世間に知れたり新聞が騒いだりしたら、大変なことになるというのだ。生徒たちはそれに反発する。
 母の病状は次第に悪化し、父が北海道に炭鉱の落盤事故で出張中に息を引き取る。父は知らせを聞いたが、事故の原因が会社にあるという証拠をつかみ、怪我をした人たちの補償金を確保するまで帰れなかったのだ。臨終に立ち会えなかった二郎は道子に言う。

  かあさんがガンだとわかったときから、とうさんは、人間の命について、いろいろと考えるようになった。(中略)かあさんの命は、とうさんにとっても、道子にとっても、かけがいのないものだ。(中略)肉親の愛情というものは、理くつでは割り切れるものではない。しかし大きく目をひらいて、社会の中での、国の中での、あるいは世界の中での人間の命というものを考えてみると、命のとうとさには、だれかれの区別はないのだ。母さんの命も一つ、炭鉱ではたらく人の命も一つ。

 そこまで言うと、道子はすかさず「ベトナムの人びとの命も一つ」とつけ加える。「その通り、命のとうとさには、かわりはないのだ。この考えをつらぬくことは、むずかしい。だが、そう考えることのできる者が、ほんとうの人間なのだ」と、二郎は言い、さらにこう続ける。

 世の中には、自分の命を守ることばかり考えて、他人の命のとうとさに気づかない人間もすくなくない。とうとい命を、虫けら同様にふみつぶして、平気な顔をしている連中もいる。そういう連中とは、徹底的にたたかわなくてはならない。場合によっては、命をかけても、たたかう必要がある。

 道子は、二郎の言葉を聞きながら、「とうさん、一つ、ききたいことがあるの」と言い、こうたずねる。

 この一年、とうさんも、死んだかあさんも、そしてわたしも、ずいぶんかわったと思うの。ものの考え方も、人間としての生き方も、かわってきたと思うの。(中略)
  だけど、もしかあさんがガンにならなかったら、わたしたち、こんなふうには、ならなかったのじゃないかしら。


 それに対して二郎は、「それはちがう」と言い、次のように続ける。

 たとえ、かあさんがガンにならなくても、とうさんいしろ、かあさんにしろ、いつまでも、ぬるま湯につかっているような毎日を、つづけてはいなかったろうよ。新しい生き方をつくりだす、なにかのきっかけを、きっと見つけだしたと思うよ。ただし、それは三年先のことだったかも知れないし、五年先のことだったかも知れない。だが、それはたしかだ。

 母がガンにならなかったら、自分も父も、家族はみんな今までどおりで、考え方や生き方も変わらなかったのではないかと問う道子に、父は違うと言う。遅かれ早かれ、新しい生き方を見出したはずだと言うのだ。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。とはいえ、二郎のこの言葉はいささか格好良すぎはしないだろうか。「ぬるま湯につかっているような毎日」に辟易としながらも、三人の娘たちの成長に夢を託し、いずれ上司で旧友の島崎のように、課長の座を期待していたのではないか。母の文子もまた、日々の退屈と漠然とした欠落感から、夫の栄達と子どもの学力と進路に生きがいを見出す方向に向かわなかったという保証は無い。実際に復興期の日本経済を支え、企業戦士として高度経済成長を担ってきたのはこの世代であり、一方で戦後の労働運動を主導してきたのもこの世代であった。そして高度成長期に向かって大衆化した専業の母が、上野千鶴子の言う「自分の作品としての子ども」に自己投影して、その後の学力戦争を誘導していったとも言えるのだ。
 砂田弘の『道子の朝』では、妻のガン宣告という日常性からの突然の剥離が、家族を揺り動かし、それがきっかけになって家族の眼差しが外側に、社会に向かって開いていった。そしてこの作品には、エネルギー政策転換にともない労働環境が低劣化し、事故が多発することに激しく抗議して闘う炭鉱労働者の妻たちの逞しい姿とともに、担任の先生に象徴される前世代の観念的なヒューマニズムを乗り越えていく若者たちの姿が、眩いばかりに鮮烈に描かれる。それは同時代の伴走者としての、砂田弘の期待可能性とささやかな願望でもあったのだろうが、残念ながら状況は期待する方向に進まなかった。しかし、母のガン宣告をきっかけに社会に向かって目を開いた道子は、もはや「早く大人になって素晴らしい恋愛をして結婚する」という直線的な夢から解き放たれて、専業の母に安住して内側にのみ向かうことはありえないであろう。

 山中恒の『ぼくがぼくであること』(一九六九年 実業之日本社)も、高度経済成長期の終盤における家族の様態を象徴的に取り込み、当時形成されつつあった母子関係の軋みを背景にスリリングな物語を展開し、多くの子どもたちの共感を呼んだ。
 六年生の久保秀一は、名前に"一"がついているが長男ではない。五人兄弟の下から二番目だ。長兄の良一は大学生。次兄の優一は高校生。姉のトシミは中学生で、妹のマユミは小学四年生。婿養子の父は万年係長で、母に頭が上がらない。母に尻をたたかれながら働き、子どもの前で文句を言われても、聞こえない振りをしてやり過ごす父を、秀一はとても尊敬などできない。母にとって、「自分の作品としての子ども」だけが生きがいなのだが、兄姉や妹が優秀なのに比べ、秀一は成績もイマイチだし、学校でしょっちゅう立たされてマユミにチクられる。そんなわけで、家に帰るや否や母親にどやしつけられる毎日で、いっそ家出をしようかと考えるが、それさえも家族から本気にされないのだから悲惨である。
 一学期が終わって成績表が渡されると、"4"は図工だけで、他はほとんどが"3"。しかも算数が"2"というのだから最悪だ。兄姉たちは、ほとんどが"5"と"4"だけだから、"3"を見ただけで嫌な顔をする母親に見せられるわけがない。焼却炉に押し込んだところをマユミに見つかり、仕方なしに持って帰ると案の定ゲエッと言うほど母親に痛めつけられ、夏休みの学習帳の他にウンザリするくらいたくさんの問題集を押し付けられる。秀一の母は、労働の現場から切り離されて、その余剰を徹底して子どもに集中し、過剰な保護者感覚で我が子を教育的に囲い込む、当時登場し始めた典型的な教育ママとして描かれているようだ。
 これじゃ何のための夏休みかわかったもんじゃないと、秀一の家での決意は固まるが、マユミはそれを、家族ばかりか友だちにまで言いふらしてしまうのだから始末が悪い。何が何でも家出をしなくては格好がつかないと、のっぴきならなくなった秀一は、公園の脇に止めてあった小型トラックの荷台に飛び乗る。
 とっさの家出だから、秀一は準備も何もしていない。トラックが止まったところで逃げ出せばいいくらいに考えていたのだが、秀一はついうとうとと眠ってしまい、あたりはもう真っ暗。しかもトラックは山道で自転車に乗った人を跳ね飛ばし、事もあろうに運転手は倒れた人を谷に投げ捨てたまま逃走する。秀一は生きた心地がしない。
 人家が近くなり、トラックが停まったのをチャンスと、秀一はその場を一目散で逃げ出し、少し離れた一軒の家に駆け込む。そこは、老人と孫娘の二人だけで暮している農家で、しばらくそこに泊めてもらうこととなる。翌朝、ひき逃げされた人の死体が見つかったと聞くが、秀一は運転手のことを言い出せない。そして、夏代という秀一と同い年の少女と、夏代の祖父だと言う一風変わった気難しい老人と、三人での奇妙な暮らしが始まる。夏代には友だちもいないようだし、二人とも夏代の両親のことについては全く口に出さない。
 秀一がこれまで体験したことのない、奇妙な日々が続く。ニワトリに餌をやったり、鎌でクリ山の下草刈りをしたり、そんな仕事を、夏代は難なくこなすのに、秀一はびっくりする。その家に、ひき逃げしたトラックの運転手の正直(マサナオ)という男が、時々顔を見せて、秀一をどこかで見たことがあると訝るから油断できない。しかもその運転手の正直は、死んだはずの夏代の母は生きていると言い、老人に内緒で夏代を母親に合わせるとだまして、武田信玄の財宝を埋めてあると言う老人の土地を奪おうと画策しているのだ。
 教育ママへの反発から衝動的な家出となり、ひき逃げ犯人との遭遇から信玄の埋蔵金にまつわる陰謀へと物語のスケールがにわかに拡大していく。このあたりの展開は、さすがである。ちょっとミステリアスでスリリングで、今日読んでもエキサイティングで全くというくらい古さを感じさせない。
 夏代と二人で、クリ山の下草刈りに出かけたとき、夏代が急に腹痛を訴え、秀一は夏代をリアカーに乗せて山道を下り、病院に担ぎ込んだ。盲腸炎と診断されて手術することになり、秀一は病院に泊まりこんで夏代の看病をする。何時になくうろたえ夏代の心配をする老人は、秀一のちょっとした挑発にのって、この手で二人の人間を殺したと、思わぬ過去を告白する。若い頃に大地震があって、かくまってくれと言ってきた朝鮮人を殺し、戦争が終わる二日前に土蔵に隠れていた脱走した兵隊が、助けてくれと泣いて頼むのに、土蔵から追い出しリンチにあって殺された。自分が殺したと同じだと老人はいうのだ。日本の歴史的な暗部が、さりげなく登場人物の一人に投影され、それがまた後で大きな意味を持ってくる。
 夏代を助けて、老人から感謝されながらも、老人がそんな過去を話をしたことから、二人の関係はなんとなく気まずいものになる。しかし以老人は、それから後そのことに触れようとはしなかった。
 勉強しろ勉強しろと、母親からわめきたてられていた毎日から解放され、うるさく指図されることが無くなってホットするのだが、そのかわりに自分の事は自分で決めなくてはならない。秀一は、自分のことをこんなに考えたことが、今までなかったので、家出と言うのは厄介なことなんだとつくづく思う。そして秀一は、働いた給料だと老人から五千円ももらって、夏代に駅まで送られて久しぶりに家に帰る。
 ところが、母の最初の一言は、「どこの子どもか知らないけど、かってに家へはいってきたりしないでちょうだい!」という、冷たいものだった。それで再び家を出て行こうとすると、母親は秀一の背中に飛びついて、とても人間とは思えないような唸り声を上げ、めちゃくちゃに殴りつけてきた。人のことを馬鹿だ屑だといいながら、自分の思い通りにならないだけで、こんなに泣き喚く母の姿を見ていると、まるで赤ん坊と同じだと秀一は思うのだ。そして、「いままで世の中で最大の敵だと思っていた母が、これほどまでにかわいそうなものだとは思ってもみなかった」と、急に母がいとおしくなる。
 ここで子は母の想念を超えるのだが、「自分の作品としての子ども」しか見えていない母には、それさえも気がつかない。子どもは大人が思っている以上に、親や教師を客観的に冷静に見ている。むしろ大人の方が一方的で固定的な子ども観にとらわれているだけに、それに気がつかないのだ。そこに大人の子どもへの無理解と、いびつな関係性を生む原因があるのではないか。
 秀一に夏代から手紙が届く。運転手の正直が夏代に合わせようとしている母の住所が、秀一の学校に近いところなので、調べてみて欲しいと言う。夏代の母親は死んだことになっているが、どうもそれは違うようだ。後に秀一は老人から直接聞くことになるのだが、夏代の母という人は、戦争が終わる二日前に土蔵に隠れていた脱走兵の妹だったのだ。戦後まもなく、兄のことを聞きにたずねてきた脱走兵の妹と、戦争から帰ってきて家でぶらぶらしていた老人の息子が出会い、二人はその後も付き合っていて結婚した。老人は、自分が殺したと同じ人の妹と息子が結婚するのを断じて許さず、息子は親子の縁を切るといって家を出た。そして夏代が生まれた後、息子は妻の運転する車が交通事故を起こして死に、妻も半狂乱になって病院に入院する。そして夏代が老人に育てられることになった。
 秀一は、夏代から送られてきた手紙の住所を探し当てて、その部屋に近づくと、中から若い女と正直が言い争う声が聞こえる。慌てて姿を隠し、正直が帰ったのを確かめてから、秀一はうまくその家に入り込んで、夏代の母親だという女性と対面する。二四歳だというその女は、年齢からしても夏代の母であるはずはなかった。女は相手が子どもだと安心してか、信玄の財宝を手に入れて億万長者になるなどということまで、ぺらぺらと喋ってしまうのだ。秀一はそのことを夏代に知らせようと、いままで書いたこともない長い手紙を書いてポストに投函するが、妹のマユミが母の指示でそれを回収し、母に渡してしまい夏代のもとに届かない。
 私信であろうがお構いなく、娘を使い郵便局員を騙してまで手紙を回収する執念は、小学生が異性と手紙のやりとりをするなんて宜しくないという、母親の単なる思い込みだけである。しかも我が子の手紙だから、親は如何様にでも出来るという思い上がりと、子どもの私物化でもあり、それは人権の侵害だとも言えよう。しかし、「あんたはわたしの子どもでしょう。子どもが親のいうことをきくのはあたりまえでしょう!」なんて、平気で言う母親だから、そのくらいのことは何とも思っていないのだ。
 いささかオーバーに戯画化されているとはいえ、それは「自分の作品としての子ども」への「母の愛」という、過剰に逸脱した自己幻想が描き出す物語として、恐ろしいまでのリアリティと迫力がある。
 手紙が届かなかったのは正直のせいだとばかり思っていたのに、それを知った秀一は母とマユミに対する憎悪から、激しく嘔吐する。そこに長男の良一が警察に検挙されたと次男の優一が伝える。母は秀一の嘔吐した汚物の上にへたり込む。良一は、ビラまきしていた高校時代の同級生を、機動隊が打ったり蹴ったりしていたので、間に入ったら公務執行妨害で逮捕されたのだ。
 高校生の次男の優一も、母親に愛想をつかして家を出て行くという。図書室の司書が交通事故で入院中に、教務主任が思想的に危ない本を大量に廃棄処分にしてしまった。それを生徒たちに叱責されると、教務主任は図書委員の優一のせいにする。優一が教務主任に抗議すると、反抗的で危険思想を持っていると母親に伝え、それをまに受けた母親は、優一を糾弾するのだ。自分の息子の言うことよりも他人のいうことを信じる母親に、すっかり嫌気がさして、それまで母親に従順だった優一までも、もうこんな家にいられないという。「自分の作品としての子ども」たちへの、母の過剰な思いが、それ故に瓦解していく。完全な家庭崩壊である。
 二晩警察に泊められ、げっそりして帰ってきた長兄の良一は母親に言う。

「しょうじきいって、ぼくもいままでおふくろさんのように学生運動なんかやるやつは、ひまで金にこまらないやつだと思ってた。でもね、ああやって警察につれていかれたら、ホテルに招待されるようなわけにいかないんだぜ。それに起訴されれば前科もつくし、就職もふいだろうし、へたすれば学校まで追いだされるかもしれない。たぶん、一生をぼうにふるだろう。だれがすきこのんでそんなことをするもんか。そこにはたくさんの不正があるからだよ。なぜこんなことになったんだ。そいつはね、おふくろさん! あんたの責任だよ!」
「なにをいうの、この子は!」
「だまって、ききなさい! おかあさんのように人を愛することもしないで、めさきのことだけで結婚し、ただ自分の気分のためにだけ、子どもを勉強へ追いやり、自分のめさきのちっぽけな安楽のためにだけ、子どもを大学にやり、一流会社へいれて、なにごともなくぶじにすごしたいというおとなたちが、この不正で腐りきった社会をつくってしまったんだよ。その責任はおかあさんにもある!」
「ばかなことをいわないで! わたしはただのまずしいサラリーマンの家庭の主婦です。そんな、社会をどうのなんて・・・・・・」
「そう、そのとおり。社会に無関心だったおかあさんたちが、このどうしようもない社会をつくってしまったんだ。だから、あの連中がそれをこわしてつくりなおそうとみんなによびかけているんだよ。それがわからないなら、おかあさんも敵だ!」

 
 当時の学生運動家たちが言う、家族帝国主義との決別というのは、こういうことだったのかもしれない。「ただのまずしいサラリーマンの家庭の主婦」だから、社会がどうこうなどとは無関係だと言うのだが、その無関心が社会を荒廃させて来たと、良一は母を糾弾するのだ。
 長女のトシミは秀一に言う。

 「わたしはね、おかあさんを見ているとかわいそうになるの。わたしはおとなになって結婚して、子どもがうまれても、おかあさんみたいになりたくないって。・・・・・・ほんとはね、おかあさんにもすきな人がいたらしいの。杉並のおばさんがいってたわ。ただ、その人からだがよわかったらしいの。それで、おじいちゃんとおばあちゃんが、じょうぶでまじめなだけのおとうさんをおむこさんにしたのよ。だから、おかあさんにしてみれば、おとうさんにはあんまり期待できないわけよ。そこで子どもたちに期待したわけ・・・・・・」

 あまり期待できない父と、その代償としての子どもへの過剰な期待。それは江藤淳が『成熟と喪失――"母"の崩壊』で描いた、「恥ずかしい父」の像と重なってくる。同書で江藤が言う、近代日本における「母」の影響力の増大は、「父」のイメージの希薄化と逆比例しているという分析が、そのままここに再現されているようでもある。六〇年代に、にわかに大衆化し一般化した、専業主婦と専業の母は、近代家族に通底する「母」のイメージの先鋭化となって現象した。子を思う母の優しい心が、特化し先鋭化したところに母子密着の萌芽があるのだが、子どもの文学は、その危うさを早くも嗅ぎつけて、そこからの相互自立と社会に向かう視点を提示することによって、その膠着化を回避しようとする。
 秀一が再び夏代の家に行き、正直の陰謀を阻止しようとして半殺しの目にあい、老人に助けられて帰宅すると、家は火事で焼け落ちて、大きな消し炭のような柱が何本か残っているだけだった。母が電気アイロンのスイッチを切り忘れたことが原因だったという。しかもその土地は、母が知らないうちに借金の担保になっていた。夫も子どもたちも信用できないので、家を担保に借金して金儲けを企んだが、失敗したらしいのだ。
 長兄の良一は、「こりゃいい荒治療さ。いま、おれたちはみんなおなじ、きたきりスズメのはだか同然になって、ちっともかなしくないなんてのはふつうじゃないよ。この家はおれたちの家じゃなくて、おふくろさんの城だったからだろうなあ」と言う。秀一もそう思うが、母が困っていい気味だなんて言う気持ちは無かった。おふくろは俺の顔なんて見たくないと言うかもしれないし、殴るかもしれないが、俺は避けないで措こうと思う。俺はおふくろさんの子どもだということを、判ってもらおう。そして、俺は俺であることも判ってもらおうと秀一は思って、ショックで寝込んでしまった母のもとに向かう。
 上野千鶴子が、江藤淳の『成熟と喪失――"母"の崩壊』(講談社文芸文庫)の解説で、「母子密着」は、「母の基盤の不安定さと核家族の孤立、そしてそのなかでの父の疎外と最初から構造的に結びついている」(『近代家族の成立と終焉』所収)と書いたのは、一九九三年であった。山中恒の『ぼくがぼくであること』が、六〇年代末に刊行されてから三〇数年後のことである。
 『道子の朝』も『ぼくがぼくであること』も、六〇年代の高度経済成長がもたらした社会構造の急激な変化によって、変貌し揺らぎつつあった日本の"家族"の姿と、"母"の像の変容を、先駆的に映し出している。当時進行しつつあった第一次産業の衰退と、第三次産業の急増は、都市部の給与所得者増をもたらし、核家族化が促進され、専業の母を一般化する。
 産業構造の変化はまた、大学進学者数も急増させ、産学協同路線が提起され始めるのも六〇年代後半からであった。六〇年反安保闘争の敗北から四分五裂していた学生運動も、ベトナム反戦運動や日韓条約反対闘争などを経て再結束を固め、大学の自治機能と学問の自立への危機感などから、学園闘争を全国的に展開していく。
 『道子の朝』も『ぼくがぼくであること』も、当時の学生たちの問題意識を反映して、社会性の強い方向性を明確に提示している。道子の母が抱き始めた日常性の憂鬱は、病との闘いに向かうが、父を人の命への覚醒から、事故で死傷した炭鉱労働者への保障活動に邁進させ、道子もベトナム戦争で殺されている人々への関心を喚起させられる。『ぼくがぼくであること』の母が、「自分の作品としての子ども」への幻想が崩壊し、"母"の磁場が解体していくきっかけは、子どもたちの社会に向かっていく自立的な眼差しからであった。
 しかし、専業の母の拡大は、必ずしも社会に向かって開かれてはいかなかった。むしろ逆に、「自分の作品としての子ども」にますます収斂し、労働の現場から解放・放逐されて可能となった余暇の拡大は、レジャーと過剰消費に転化していく。そこでの家族関係は、七〇年代以降の子どもの文学にどのように反映してきたのか。そこには、家族を描いた様々な作品群が待ち受けている。(野上暁