〈連載評論〉家族という神話(7)

解体するファミリー・アイディンティティ
――吉田とし『家族』をめぐって――

野上 暁

           
         
         
         
         
         
         
    

 前号で、末吉暁子の『星に帰った少女』、今江祥智の『優しさごっこ』、三田村信行の『さよならファミリー』の三作を取り上げ、七〇年代後半から八〇年代にかけて、日本の子どもの文学は実に先鋭的に近代家族の揺らぎを映し出してみせたと述べた。子ども存在や失われた子ども時代への追憶を、一種のロマンとして理想主義的に着色してきた童心主義的な子ども観から解き放たれた子どもの文学が、リアルに子どもたちの現在に寄り添うならば、子どもの養育装置として機能してきた"家族"という制度に敏感であらざるを得ない。
高度経済成長に伴う労働力の都市集中と核家族化の進展は、六〇年代から加速化してきたのだが、それはまた専業主婦をも増大させ、母親のわが子への眼差しの集中化をもたらし、教育ママを大衆化させていく。子どもの文学や絵本が、上中流家庭のステータスのように機能してきた様相が、六〇年代から一変し大衆化していくこととも重なる。岩波少年文庫や福音館の絵本の大衆的普及と創作児童文学の隆盛は、変容する家族と子どもの在り様のシンボリックな現象だったのではないか。その頃山中恒は、母の眼差しの集中化からの子どもたちの解放と、自己撞着する母の崩壊を『ぼくがぼくであること』で、きわめて先駆的に物語化して見せた。それは、メディアが喧伝し大衆消費を押し上げていったマイ・ファミリー幻想への、子どもの側からの反撃の第一歩でもあったのだ。そしてそこには、急速に大衆化し肥大した大学を、経済至上主義の国家から自立させようとした学生たちの叛乱と通底するものが見えてくる。
吉田としもまた、そういった時代の風を敏感に感受しながら、当時の少女たちの等身大の悩みや困惑を、六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて一世を風靡したジュニア小説のジャンルとも行き来しながら、巧みに物語世界に表出してみせた硬質な作家であった。ジュニア小説『たれに捧げん』などで、十代の少女たちを魅了した吉田としは、七〇年代に入って『小説の書き方』『木曜日のとなり』『ぼくのおやじ』など、意欲的に子どもの文学の秀作を残している。そして一九八三年、マイ・ファミリーからマイ・ホーム幻想が肥大する時代の中で、富士山麓を舞台にマイ・ホームの崩壊していく様相を、三世代の男女の愛の形を見据えながら『家族』という大長編作品に結晶させるのだ。
主人公は十六歳の杏子。一家は神奈川県の綱島に住んでいたが、母方の祖父母と一緒に暮らすために、富士山麓の御殿場市"霧生の里"に大家族向けの建売住宅を購入して、三世代同居の生活が始まる。
祖父の榊庸一郎は名の知れた歴史学者だったが、岡山の大学を七十歳で定年退職してから、母の南海子が老父母を呼び寄せて、彼女が見つけた近くのマンションに妻の柳子と住んでいた。その後、富士の良く見える場所に大きい家を買って同居しようと熱心に提案したのは、横浜の自動車販売会社の総務課長から、近々沼津営業所長として栄転が内定していた杏子の父の進吾だった。
新居に移った杏子は、早朝の濃い霧の中で家の周りを散歩していたとき、「コンドルは飛んで行く」のメロディーを口笛で奏でる青年とすれ違った。杏子より五、六歳年長のその青年に、不思議に惹かれるのだが、そのうちに彼は同級生の兄の親友・勝又修一だということがわかる。祖母の柳子もまた、その青年と知り合い、植物センターに勤めていることも明らかになる。米軍の演習反対運動に熱心にかかわる勝又修一と杏子の愛の行方が、この物語に通低音ともなるのだ。
母の南海子は、東京の美術学校時代からの親友に頼まれて、彼女が経営している横浜駅近くのブティックに、店長代理格で通っていた。初めは週三回の予定だったのだが、商売が成功し南海子も仕事に熱中し始めて、今ではほとんど毎日出勤するようなことになっている。南海子は、杏子と弟の小学六年生の知樹に、できるだけ自立できるように仕向けるのだが、なかなか思うようには行かない。知樹は新しい学校になんとなく馴染めず、家でも自分の部屋に鍵を取り付け、母親の南海子を苛立たせる。
南海子は、モスグリーンの小型ワゴン車で、横浜と御殿場の間を苦も無く往復し、仕事にますます熱中するとともに次第に若やいでいく。そんな母の微妙な変化に、六年生の知樹は嫌悪感を抱き始めている。進吾の留守中に彼の若い部下の草野が尋ねて来て談笑していて、転校して初めての父母会に南海子が行きそびれてしまったことに、知樹は激しく傷つくのだ。草野は以前から進吾の信頼が厚く、しばしば家に訪ねてきていた。彼は、四月に沼津支社長になる予定だった進吾の計らいにより、一足先に沼津営業所に移っていたのだが、進吾は社内事情によって転勤が延び延びになっていた。
母は仕事に夢中で、家にいることが少なくなり、父も毎日横浜まで通って仕事に謀殺され、家族の交流はますます乏しくなってくる。それと反比例するように、姉弟と二階に住む祖父母との関係は濃密になっていく。知樹は、始めのうち祖父の庸一郎に馴染まなかったが、一緒に散歩に付き合ったときから、その独特な存在感に惹かれていき、祖父の言葉がきっかけとなって、母にも内緒で富士山のことを色々と調べ始める。
進吾を信頼し彼を沼津支社長に押していた退職間際の本社常務は、転勤が延び延びになっているのをねぎらうために、彼をハワイに出張させた。ところが、その出張中に社内人事に異変があり、進吾の沼津支店長という話が消えて、閑職に追いやられることになる。進吾は、社内での栄達の道が閉ざされたのを知り、覚悟を決めて退職するのだが、南海子はそれを敗北と感じて、二人の間は急速に乖離していく。
ますます仕事に打ち込むようになった南海子は、以前両親が住んでいた綱島のマンションに寝起きし、なかなか家に帰ってこない。夏休みに友人と東京に野球を見に行った杏子が、泊めてもらおうと思って綱島の南海子のマンションを前触れ無く訪れると、部屋の前に見知らぬ男性と一緒にいる母親と出くわす。男は突然の杏子の出現に帰っていくが、部屋に入ってみると大きなダブルベッドがあり、そこに杏子は男の匂いを嗅ぎつける。
庸一郎の突然の死。始動し始めた三世代同居の家族にとっての、大きな欠落となるのだが、それはまた、この物語における家族の亀裂と崩壊を予兆させる。
杏子と修一の愛は次第に進展し、どちらからともなく深く結び合うことを予感していた矢先、杏子が米軍演習場に出入りする米兵に暴行されるという事件が起こる。進吾は、足しげく警察に通い、犯人の捜索を依頼するが、なかなか取り合おうとしない。自衛隊と米軍キャンプの存在によって潤っている地域の事情から、警察も積極的に動けないのだ。杏子は、自らの心の傷を抱いたまま、米軍キャンプの近くに行き、自分に暴行した米兵を執拗に探そうとする。
事件については、南海子に知らされていなかったが、庸一郎の四十九日に彼女が久しぶりに帰ってきたとき、知樹は母をなじるようにそれを伝える。それは知樹の母に対する精一杯の反逆であり復習でもあった。何故知らせてくれなかったかと逆上する南海子に、「家族に求められている妻であり母であったら、進吾さんもわたしも、どうして黙っていられますか」と柳子。「おかあさんの求める自由が、家庭の外にしかないのなら、この場から思い切り飛んで行けばいい」という杏子の言葉が、南海子に離婚を決断させる。
庸一郎は亡くなり、南海子は家を去り、進吾はタクシーの運転手に転職して、柳子、杏子、知樹の四人での生活が始まる。庸一郎と柳子は、見合い結婚だったが、婚約中に庸一郎からもらったただ一通のラブレターを柳子は大事に取ってあった。庸一郎が三十歳、柳子が十八歳のときのものだ。それを久しぶりに開いて読み始めていた柳子は、まるで庸一郎の後を追うかのように手紙の上に崩れ落ち、そのまま息絶える。急性心不全だった。
雄大な富士山の麓に展開した、三世代の家族のドラマは、豊かな自然の四季の移ろいを背景に、様々な出会いと別離を酷薄に映し出していく。そして、修一たちの反対運動を尻目に、富士演習場での日米合同演習が行なわれる。
こうして物語の展開を見てくると、なんともやりきれない結末のように思えるのだが、そこに暗さは無い。老後を富士の自然に包まれて暮らしたいと願っていた庸一郎と柳子は、娘夫妻やその子どもたちとの束の間の共同生活に翻弄されながらも、そこではかけがえの無い存在感と長い人生を刻んできた威厳を示し、惜しまれながらも生を全うしていった。暗い寝室で、草野心平の「おれも眠ろう」の詩を、「るりり」「りりり」と互いに口ずさみながら眠りにつく老祖父母のくぐもった声に、孫の知樹は不思議な感動を覚える。
五十歳を過ぎ、会社での栄達の夢を奪われた上に、妻にも逃げられた進吾は、自らを押し殺して滅私奉公的に邁進していた会社人間の悲哀から解放され、タクシー運転手という新しい人生を果敢に踏み出すことができた。
南海子は、子どもたちの一定程度の成長を確認した時点で、仕事を通しての自己実現に覚醒し、子どもの社会化機能であり子どもの養育装置でもあった家族から飛び立っていく。それはまた、専業主婦が子どもへの眼差しの集中化によって自己撞着を起こしていく時代の様相に対してのアンチテーゼでもあった。
家族という社会の最小単位が、愛という一対の男女の性を媒介とした幻想的で情緒的な精神安定機能から成り立ち、子どもが誕生することからその養育装置として機能してきたのだけれども、そこでのファミリー・アイディンティティは、多分に禁欲的で倫理的な枠組みを負荷として背負い込まされてきた。それは近代国家の要請とも重なるものだったが、家族の情緒的な親和性は、相互の遠慮ともたれあいによってそれぞれの欲望を隠蔽してきたのだともいえる。
六〇年代以降の高度消費社会の展開は、眠っていた欲望を喚起して、それを消費欲求に収斂させても行ったのだが、と同時に、経済的自立をも容易にしたところから、専業主婦の社会進出と精神的自立欲求をも誘発させた。南海子は、まさにその時代の専業主婦が、家族という桎梏から解放されて、獲得した経済力とともに飛び立っていく様を象徴的に現している。過剰に情緒的で倫理的に幻想されてきたファミリー・アイディンティティは、こうして緩やかに解体していく。
ユニークな身体論を展開する鷲田清一は「ひとは家族を求めてきたというよりも、親密性を求めて家族という共存の形態を編みだしたのだから、男性/女性の性役割分担にもとづく核家族という理念が逆に親密性を息苦しいものへと閉塞させはじめたのなら、あるいは育児を一方的に委託されることで〈親密さ〉が女性の恒常的なストレスへと転化しはじめているのであれば、たとえば共同家族といったより緩い生活形態を考えることが必要だ」(『死なないでいる理由』小学館)と述べている。
吉田としは、ほぼ二十年前に、核家族が逢着する女性の恒常的息苦しさを感受し、三世代同居と言う擬似共同家族を構想することから生じた一種の風穴を押し開いて、そこから南海子を飛翔させた。三世代同居は、核家族以前の血縁家族への回帰を想像させるが、いったんバラバラに暮らしていた家族同士が一緒に生活することは、たとえ親子と言う血縁関係が基盤にあったとしても、その擬似性は疑いようも無い。南海子の母の柳子が同居することによって、自分に課せられてきた役割を担ってくれるという微かな可能性を感受したからこそ、南海子が自由に振舞えたことを考えると、核家族の親の世帯との同居は、血縁家族への回帰ではなくて、共同家族の可能性をも示唆するものでもあったと言わざるを得ない。しかし物語りは、同居を始めた親の世代が死を迎えることによって、新たな展開を予感させることになる。つまり、父子家庭の誕生である。
しかし、母南海子の出立の背中を押した杏子は、自らの心の傷を抱えながらも、次世代ならではの気丈さを獲得して、新しい対幻想を未来に向けて構築していくだろう予感を抱かせるところにこの作品の明るさがあるのだ。
擬制のファミリー・アイディンティティの解体の彼方に、子どもの文学はどのような家族像を構築するのだろうか。(以下次号)