『児童文学セミナー』(季節社 1979)

近代子ども観とその成立過程
たれもが近代子ども感をもっている
好むと好まざるとにかかわらず、わたしたちは近代社会の一員であることを余儀なくされているのであって、それゆえにこれまた意識するしないに関係なく、多少の振幅はありうるにしても、まずはたれもが近代人としての知覚でさまざまな対象を観る。これがわたしたちの日常というものだから、子どもの問題に関してもためらいなくわたしはいいきることができるのだ。
たれもが近代子ども感をもっている、と。
日常的にたれもがもっているほどのものだから、格別に珍しいものなどであろうはずない。近代子ども観とは、人間の子どもを、自分たちの同類として観るだけのことで、それ以上でも以下でもなく、それこそ新聞・雑誌を手にすれば近代子ども観はいたるところに、まさに掃いて捨てるほど散らばっているわけである。
ところが日常性というものはすこぶる怠惰な性情の謂でもあるから、それが近代の知覚であるにもかかわらず、遠く近代をさかのぼってまで通用してきた事柄のように錯覚して信じこんでしまうことも決してすくなくはない。とくにこの国においては柳田民俗学あたりが近代の知覚にすら伝統が存在するかのようにいいひろめ続けてきたので、ものみなすべてが昔むかしのあるところから連綿とした歩みをもちきたっているかのように思いこんでいる人が多い。はっきりいって、柳田民俗学ぐらい子どもを現実的に観る目をくもらせているものはない。柳田民俗学にかかれば、すくなくとも子どもの問題にかぎっては、あのフランス革命もイギリス産業革命も、そして明治維新も、まるで意識の変革に関係がないことになってしまう。
前近代人も近代人もまったく同じように、ずんべらぼうの連続の意識で子どもを観てきたなどとは、ほんとうは信じるほうがおかしいのであって、それをおかしいと気づかなくされてしまうところに日常性のおそろしさがあり、さらにいうならそのような日常性の上にどっかと君臨してきた柳田民俗学のこわさがあるのだ。
たとえばレヴィ・ブリュルの『未開社会の思惟』でもいいし、L・H・モルガンの『古代社会』でもいい、さらには構造学的文化人類学者レヴィ=ストロースの『悲しき南回帰線』でもよいのだが、それらを読めばたちまちに、近代以前の社会においては、子どもがどのように"おとなたち"から扱われていたかがわかってしまう。もちろん、近代社会とはまるで違うということがわかるのである。
皮肉なことに訳者の山田吉彦が「凡例」(岩波文庫)として、
<柳田国男先生が、この本は日本の民俗学者必読の書であるばかりでなく、万般の教養人に読まるべき本だと云はれた>と書いているレヴィ・ブリュルの『未開社会の思惟』においては、第三部第八章に「出産」および「幼児殺し」という項目があって、そこでは、
<出産は、死と同じように、単に一つの生活形態から他の形態への通過でしかない>事情が語られ、さらには子どもは犬や他の動物と同じだという未開社会の人びとの意識が説明されている。
<生れたての子供は生あるものというよりは、むしろ社会集団生活の候補者である。この場合も、決定されたものは何もない。いかに僅かでもそれを受け入れぬ理由があれば、彼等はそれを拒絶するに躊躇しないであろう>すなわち嬰児殺しがおこなわれた。アビポン人の場合はどうか。
<母親は三年間その子供に授乳する。その間彼等はその夫と肉体的交渉を持たない。そこで夫はこの長い期間を退屈して他の女と交渉を持つことが多い。それ故に女たちは、離縁を怖れて嬰児を殺すのだ。・・私は生れた子供たちをみんな殺してしまったものを幾人か知っている。誰も止めることもせず、この殺人を罰しようともしない。母親たちは病死した子供たちのためには心からの涙を以て歎く。しかし新生児は地に投げつけたり、他の方法で殺して平然としている>
 訳者の山田吉彦はファーブル『昆虫記』の翻訳でも知られているが、きだみのるの筆名で一連の「きちがい部落」ものを書いた人でもあり、まぎれもなく博学者だったから私はここに描きだされている前近代の社会の人びとの意識、すなわちその一端としての子ども観を"史実"としてうけとらざるをえない。嬰児殺しの形容としては日本語に「間引」があり、
<口べらしのため親が生児を殺すこと>と『広辞苑』に出ている。わたしたちはその事実が日本の農村部においてはほとんど日常的に多くおこなわれた過去を知っているが、現在の社会=近代社会では、そうした行為が罰せられることも、あわせて知っている。そこには明確な意識の変革があったではないか。嬰児殺し(間引)の悪を意識すること、これもまた、近代子ども観のうちなのである。
 レヴィ=ストロースの『悲しき南回帰線』にも触れておこう。だが本文からの引用ではなく、これを読んだ若い児童文学者の率直な感想を紹介したいのだ。
<子どもに目をとめているストロースのいくつかの記述を見て思うことは、おとなが子どもにかまってやるという、私たちの生活では極く当然のことがまるでないことだ><『悲しき南回帰線』にはストロースの実に鋭い人間省察の目を通して描かれた世界があることに私は驚かされた。これは彼がメルロ=ポンティと共に言語学者ソシュールに傾倒した哲学者として出発し、マルクス主義を経て人類学に到達する過程で形成した強靭な思索力によるものに違いない。ストロースの文化人類学に対する姿勢は、既に在る日常性を、未開社会の持つ始原性(混沌、人間の本性的な輝きといった意味)に照らしだすことで、自己を蘇らせ、世界を蘇らせることにほかならない。近代社会、特に日本の近代は、教育の枠組みのなかで子どもを考えるか、あるいは童心主義的な心情から子どもを見るか、そのどちらかの視点しか持ち得なかったし、今尚、その伝統は大切に遵守されている。不毛の伝統をきっぱりと捨て、子どもを文化的・社会的視野から把え直すという私たちの試みにとって、ストロースに代表される文化人類学の研究成果も、また多くのことを教えてくれるのである>(森田ゆり『子ども学研究』第五号)
 興味深いことにこのレヴィ=ストロースらの文化人類学を、
<即ち、階級侵略性を本質とする「文明」の価値大系をまず全面肯定し、その地位を自ら決して疑うことなく、野蛮な「未開」を分析しようという詐欺である>と弾劾し、さらにレヴィ=ストロースについては、<ベトナム、アルジェリアを失って二級の世界帝国主義国家の屈辱に甘んじているフランスではレヴィ=ストロースの「構造主義」なるコリクツがもてはやされている。彼はアマゾン原住民の研究によって学者としての第一歩を踏みだしたが、フランス国立博物館長の安楽椅子におさまっているこの大層な人物は、日・米・欧各帝国主義国家の一致協力による「大アマゾン開発計画」アマゾン原住民の危機について、そして今やおのれの全生命をかけて、弓と矢で「文明」侵略者と対決して戦っているアマゾン原住民の、人間としての生存権のために、一言でも発言しているだろうか。彼が一九七一年北米のレッド・パワー(アメリカ原住民)の闘争の高揚について発言した言葉は、侵略者の尊大な精神を明らかにするのみ>ときびしく批判する『アイヌ語は生きている』の著者ポン・フチもまた、<根源的共産主義世界>のひとつの具現であったアイヌ人社会においては子ども独自の文化、例えば玩具などが存在しなかったことを明らかにしている。子ども独自の文化が存在しないことと、子どもを、おとなとは異質の、しかも人格をもった存在として認識しないこととは同義である。
 だからポン・フチは、北海道でアイヌの民族玩具のようにいわれているクマの彫刻などを本来のアイヌとはなんの関係もない偽物だと断定する。このことは玩具の歴史を記述した書物を読めば直ちに正しい主張だと理解される。つまりこの国では幕藩体制のたががゆるんだ幕末からようやく初歩的な玩具があらわれ、フランスでは革命のさなかにギロチンの模型が子どもたちのあいだに流行した。早い話が、小さなおもちゃひとつすらも、おとなは、近代子ども観なくしては子どもに手渡したりはしないのである。
 玩具のはなしが出てきたところで、ひとつのすぐれて子ども学的な"玩具論"の紹介をしておくことにしよう。できれば全文を利用しておきたいほどの価値ある文章だがそれは無理なので、とくに近代子ども観と直接的に関連する部分を写しならべておく。
<玩具が子どものためのものとなったのは、近代になってからで、玩具については、大人と子どもの歴史的関係のうちに考えていかなければならないのである><大人と子どもの関係は常に変化してきたのである。中世の子どもたちはすぐ大人の社会に出ていかなければならなかった。現代では、長い保護された子ども時代を享受することができる。学生割引などもこの機構の一つだ。子どもの時代を特権的なものとして分離しようとする一九世紀以来の傾向によって、子どもの世界が純粋化され、大人の世界との関係が考えられるようになったのである><フィリップ・アリエの『子どもたちの数世紀−家族生活の社会史』は子ども時代の成立を歴史的に裏づけた、きわめて示唆するところの多い本である。「中世美術は十二世紀まで子ども時代を知らなかった、またはそれを描こうとしなかった。この理由が、できなかったとか、うまくいかなかったということであったとは考えられない。それは多分、中世の世界では子ども時代のための場がなかったからなのである」>(海野弘「玩具の両義性について」月間『グラフィケーション』一九七六年五月号)
 このあと海野弘は、フィリップ・アリエが<大人と子どもの分裂は、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級分裂と符合していること>を指摘しているといい、子どもの世界のおとなの世界との分離は<エンクロージャ(囲いこみ)>にほかならないとまで言及しているのである。あとでくわしく考察することになるが、近代公教育制度がまさに囲いこみ以外ではないことは、学校教育の体験者ならばたれもがたやすく実感しうる事柄だろう。
 念のためにいいそえれば、近代の意識は明治維新によってもたらされたのではなく、近代の意識が海外からもたらされた結果として、あの政治的変革が起きたのであり、それによってさらに近代の意識はひろくいきわたることになった。いうまでもなく近代子ども観もそういう近代の意識の一部分にほかならないのだ。
 これでもなお、子どもへの意識の伝統的な形成にこだわる人がいるかもしれないが、そういう人はきっと、あの万葉の歌人、山上憶良の子宝の歌のあたりにその論拠をもとめているのだろう。事実、平凡社版「東洋文庫」の『子育ての書』の編者などは、子はなにものにもかえがたい宝であるという歌の意味を手がかりに日本人の対子ども意識の伝統をさぐろうとしている。だが子宝とは"家"への従属物としての認識にほかならないのであり、これが儒教思想のひろがりのなかで国家権力への従属物としての子宝観へと転化していったことは歴史的にも明らかなのである。従ってそれらを、まず人格の肯定から出発する近代子ども観と混同したり同一視したりすることは、かりそめにも許されてはならない。
 さらに補足するなら、万葉の時代の「子」または「児」ということばは今日的な意味での子どもをかならずしも指すわけではなく、広い意味での目下の若い人、すなわち家の子郎党などのことだったし、それが相聞の歌あたりであれば子は若い娘のことであったと折口信夫もその古代研究の一環としての万葉考察において示唆してくれている。折口信夫は多くの人が知るように同性愛の傾向をもつ人であっただけに、子どもへの意識は日常性に盲ることなくすこぶる客観的でありえた。その折口学が柳田学出発しながら遂に訣別するほかなかったことは、子ども学的にも興味深い事柄だと思う。
 以上のようなことなのだが、これでもまだ、たれもが近代子ども観をもっているというわたしの意見に関して疑問をもち続けられるだろうか。

 人間の歴史は一〇〇万年、子どもの歴史は一〇〇年
 諸説ふんぷんといえるけれど、一般的な常識としては、人間の歴史はおよそ一〇〇万年前の洪積世初頭あたりにはじまるとされている。アフリカにおいてはアウストラロピテクスを先行としてローデシア人が続き、ヨーロッパではハイデルベルグ人が出てくる。アジアでは直立猿人、北京原人が出現、生物の同時発生理論を裏づけるかのように人間の祖先たちが一〇〇万年前ぐらいの地球上のあちこちから派生してきたように思われるのである。
 それ以前はおそらく樹上の生活をおくっていたであろう人類の先達が、なんらかの機会にやむなく地上に降り立った瞬間のことをあれこれ考えると、わたしは胸がさわぐほどの興味をおぼえてしまうのだがいまは問題が違う。もちろんそのころから子はいたに決まっているが、それは近代社会の一員であるわたしたちが日常的に認識しているところの子どもとは異質の存在、いうなればいわゆる動物の子と同じ存在でしかなかった。このあたりのことをわたしは以前にも「子ども学講義」として語っているので改めてそれを引用しておくことにしよう。
――人類がいる限り、そこには子どもといわれるようなものが存在したことはまぎれもない事実であろう。それがいなければ人類は絶滅してしまったに違いない。しかし、小さな人間がいて、その小さな人間が育つ、おとなになる、いわば人間になるというのは、犬でいえば仔犬の成長をさしているのとなんら変りがない。そのような、小さな人間がいるということと、子どもが存在するということとはぜんぜん別の事象なのだというように、まず認識しておかなければならないのだ。
昔、一〇〇年ちょっと前までの人類のあいだにおいても、子どもはひとりの人間として認められることがあったかもしれないけれど、その人間には子ども独自の、子ども特有のものの考えかたや感受性があるのだから、それを尊重しなければいけないのだという考えかたはなかった。おとなたちが、そのときどきにかたちづくっている社会や家を最良のものとして、それにあてはめるようなかたちで子どもを育てる。その子どもたちの自主的な能力が優先的に肯定され尊重されることはなかった。型にはめるということでしか子はおとなから扱われなかった。このような状態において、いまわたしたちが認識しているような子ども存在はありうるはずがない。昔、子どもは、いわゆる未知なるもの、一人前には扱えないもの、まだ対等に話もできかねるものというかたちで抑えられてきたわけである。
いまこれに補足するなら、レヴィ・ブリュルのいっているように前近代における宗教の問題がある。前近代の宗教の普遍的な特徴は死者の復活、それも転生に肯定的なことであって、だからレヴィ・ブリュルは書いている。<一人の子どもが生れるとき、一つの限られた個人性が再び現われて来る。或はより正確にいえば再び形づくられてくる。一切の出産は再生である>
それゆえに人びとは子は祖先の、つまり死者の名を与えられるというのだが、これはこの国でもつい先ごろまでしばしばおこなわれてきたことである。ひょっとすると親が子に自分の名の一字を与えたがったりするのもそうした前近代的風習の名残りなのかもしれない。認識しておこう。近代子ども観が前近代にまでさかのぼることはありえないが、前近代の対子ども意識が近代においてもかたちを変えてのこり続けることはありうるのだ。
前近代の人びとがいかに死者の復活を信じていたかを証明するのに格好の興味深い資料があるので紹介しておこう。これは国学者平田篤胤の研究資料のひとつである。ことのついでにいっておくけれど、国学者としての平田篤胤はたとえば本居宣長あたりにくらべても、いかにも不当な低い評価を与えられているように思えてならない。文献批判学という名の唯物史学からすれば平田篤胤の幽界の研究などは邪道の学問でしかないかもれないが、それをきりすてての古代研究が成り立つともわたしには思えないのだ。とにかくここでは昔の人の死者復活の信仰の存在を確認しておく必要がある。平田篤胤は、<文政六年、生れ替りの勝五郎という少年を研究資料に取り上げ><「勝五郎再生紀聞」一冊を書いた>と渡辺刀水はいう。(傳記学会編集・発行『傳記』昭和十一年三月号)
表現がかなり古いので適当に意訳してしまうが、九歳の勝五郎が語るには、
「おれはもと、程窪村(八王子東北方小宮村)の久兵衛の子で、母の名はおしづという。おれが小さい時に久兵衛は死んで、そのあとに半四郎という人が来て父になった。かわいがられ、育てられたのに、おれは六歳のときに死んでしまった。で、あとでこの家の母の腹にはいって生まれたのだ」ということで、調べると程窪村にその事実があった。
 文政六年といえば西暦一八二三年であり、オランダ商館医師ドイツ人シーボルトが出島に着任と日本史年表に記載されており、もうこれだけでも近代はまぢかにきていたことがしのばれる。にもかかわらずこの国にも死者復活の信仰が生きのこっていた。わたしたちはいさぎよく、未開社会とはそれほど遠い時空のことを意味しているわけではないと認識すべきだろう。かくて「子ども学講義」は続く。
 ――一〇〇年ちょっと前から"小さな人間"に対する考えかたが変った。子どもには子どもとしての考えかたや感受性というものがあって、しかも人間としての個性は子どものときにかたちづくられるのだから、子どもを尊重しないと社会は進歩発展しない。未来社会は子どもにまかせるべきだ。子どもが自由にそれをつくりかえる。人類のためになるように、子どもが社会をつくりかえていくべきだ、というような考えかたが出てきた。これがたかだか一〇〇年ちょっと前からなのである。人類の歴史が一〇〇万年なのに対して、子どもが"子ども"として認められるようになったのは一〇〇年とちょっとだということになる。
 一〇〇年あまり前の子ども存在をめぐる歴史的事件。これをわたしたちは「近代子ども観の成立過程」と仮りに呼んでいるのであるが、説明してしまえばたれもが一応は納得せざるをえないはずのこの間の事情も、さきにもくだくだと触れたように、日常化した柳田民俗学あたりが目のうつばりになってしまっていると遠くにかすんでみえなくなってしまう。そういう人のことをメルロ=ポンティは、フレンケル=ブランズウィック夫人のことばをかりて「心理的硬さ」といった。
<心理的に硬い人とは、くわしく調べてみると、実は、言わばその人格が力学的にひどく分裂している人のことです。そういう人に仮に家族について何か質問をしてみますと、一般に彼らは断言的肯定的命題で答え、家族は全く健全でそれ以上何も望むことがないか、あるいは反対に家族はお話にならないほどひどい状態にあるか、そのいずれかになってしまいます。いずれにしても、ニュアンスというものが全くありません。彼らはたいてい伝統主義者であって、たとえば家族――特に両親――が健全だと言い張るとき、両親は彼らにとって絶対者の代表なのです。このことから、この硬さの下には心理学的力とか本当の確信は存在していない、と言うことが許されましょう>(滝浦静雄・木田元訳『目と精神』みすず書房刊所収「幼児の対人関係」)なおこの論文「幼児の対人関係」は、子どもについてなにかを考えようとする人なら、かならず読むべき文章のひとつだと思う。
 日本人は子への豊かな愛をもち続けてきた民族であるという主張は史実には反するのだけれど、かえってそれゆえに伝統主義的に確立している。心理的に硬い人々は伝統主義に固執する。その人たちにとっては、
 人間の歴史は一〇〇万年
 子どもの歴史は一〇〇年
という事実の確認をやってのけるのはそうとうしんどい作業であるに違いない。しかしわたしたちはそれをやってきたし、これからもそれをいい続けることだろう。この文章もそうしたくりかえしの作業のひとつにほかならない。もういいかげんに、伝統主義者はわたしたちからはなれて遠くに立ち去るべきである。

 近代子ども観は産業革命の渦中から生まれた
 いま仮に、子どもとおとなの違いはなにか、と問うとして、その回答に、おとなとくらべて子どもはからだが小さいとか、歳が若いなど多くの肉体的条件を用意したとしても、それが子どもを定義するのに満足な答えでありうるとはとうてい考えられないだろう。ならばなにが、もっとも明確に子どもとおとなとの差異を立証し定義しうるのか。一般的にいって、子どもは労働をまぬがれているが、おとなは例外的な場合をのぞいては労働をまぬがれえないというのが、この問題をはっきりさせるのにもっとも適当な事柄だとわたしたちには思われる。まさしく労働こそは子どもとおとなの違いを明白にするのに最適な目安なのである。
 ところが一八三〇年代以前の社会、とくにイギリスをはじめとする資本主義社会においては子どもたちは急激に、おとなたちと同様に、いわゆる家事手伝いなどではない正真の工場労働に従事するのをまぬがれえないようになっていた。ここではもっぱらイギリスにおける子どもの労働についての考察をこころみることにしよう。なぜなら、<イギリスの労働者階級はマルクスも言ったように「近代産業の総領息子」であった>(アレン・ハット『イギリスの労働運動史』)からであり、わけても年少労働者は近代子ども観発生の母胎にほかならないからである。
 イギリス産業革命がどのようにしてなりたったかについては、文字どおり山ほどのおびただしい文献資料があるがやはりわたしたちはもっとも手軽でしかも信頼度の高いフリードリヒ・エンゲルスの『空想より科学へ』を使ってその概観をやってのけることにしよう。ただし原文では『ユートピアから科学へ』であるこの著書名が翻訳ではすべてユートピアが空想となってしまうことに関しては、五島茂・坂本慶一とはまた異なる意味で疑問を投げかけておきたい。五島と坂本は次のようにいっているのだ。
<ところで、さきに検討したエンゲルス『空想から科学へ』の原文は、『ユートピアから科学へ』である。「ユートピア」を「空想」と翻訳する習わしとなっているわが国の学界に、ユートピアとマルクス主義とをきっぱり切断しようとする意図を見ることができる。これは決して正しい訳とは言えない。「空想」を目覚めた状態における無意識、無自覚的な夢だとすれば、「ユートピア」は、人間と社会の未来についての意識的、自覚的な夢である。言いかえれば、ユートピアとは、人間と社会の未来的進行方向についての相対的な見取り図であり、理性と情念のトータルな投入によって生み出される現実超越的、未来志向的な、社会についての意識的、計画的な青写真である。科学が認識の体系だとすれば、ユートピアには認識行為と価値判断とが、現実と理想あるいは存在と当為とが混在している>(中央公論社版『世界の名著』続第八巻「オウエン サン・シモン フーリエ篇」解説)
 子どものことにそくしていえば、わたしが志向している児童文学においては、ファンタジーもまた空想童話と訳されることが多い。ファンタジーとはファンタジアのできごとを描いた童話作品のことなのだが、もちろんファンタジアとユートピアは同じではない。なのになぜかそれが一種の慣例になっている。さらにいうならば、近代子ども観の成立にあずかってもっぱら功績のあったのはユートピア社会主義者たちなのであって、厳密にいえばその後のいわゆる科学的社会主義者たちは、それ=近代子ども観をほとんど一歩も新しくはしていない。にもかかわらず、ユートピアとファンタジーをともに空想として片づけてよいものだろうかというのがわたしの素朴な疑問であって、あとで触れるが、ファンタジー童話の創成にもユートピア社会主義者は深いかかわりをもっていたから、なおさらにこのことはいっておきたいわけである。
 とにもかくにもマルクス主義者が空想と呼んだ概念のうちの近代子ども観は、この一〇〇年来、すこぶる現実的な基盤をもってしまっている。ユートピア社会主義を空想と呼んで否定的にみるのならば、そこで生まれた近代子ども観を科学へと変革させる方策がなにゆえに考えられないのだろうか。逆説的だが、空想が現実に化したことを科学的と断定するのは、あまり科学的とは思えないのだ。
 論理のはこびとしては後のことが前にきている感じがないでもないけれど、以上の理由によって、ユートピア=空想という設定をそのまま認めるわけには、子ども学としてはいかないのである。
 さて考えられなければならないのは、イギリス産業革命についてである。
<フランスで革命の嵐が全土に吹きまくっていたとき、イギリスでは静かに、それでいてそのはげしさでは決してそれに劣らない変革が進行しつつあった。蒸気と新しい作業機とが工場制手工業を近代的大工場に変え、それによってブルジョア社会の全根底を変革した。マニュファクチャー時代ののろのろの歩みは生産の真の狂瀾怒涛時代に変った。大資本家と無産プロレタリアへの社会の分裂は、たえず加速度をもって進行し、両者の中間には、これまでの安定した中流階級の代りに、今や手工業者と小商人の不安定な大衆があらわれて不安な生活をするようになり、それが人口の動揺部分となった。
しかもこの新しい生産方法はまだ漸くその上昇期に入ったばかりであり、それは正常な、正規の、当時としては可能な唯一の生産方法であった。それにもかかわらず、はやくもそれはおそるべき社会的弊害を生みだしていた。――大都市の貧民窟には浮浪民が密集していた。家系や、家父長的従属や家族制度といったようなあらゆる伝統的紐帯は弛緩していた。とくに婦人や子供はおそるべき過労に陥っていた。また労働者階級は完全に堕落していた。というのは、彼らは農村から都会へ、農業から工業へ、安定した生活条件から日々変化する不安定な生活条件へと、突如なげこまれた階級であったからだ>(『空想から科学へ』岩波文庫版、大内兵衛訳)
 子どもたちはもっぱら"木綿工場"の労働に従事させられ、半賃金工とも呼ばれたのだが実際は成人男子工の半分にもみたない低賃金であったらしい。そして劣悪きわまりなき労働環境。これは三好信浩の『イギリス公教育の歴史的構造』においてつぎのごとく記述される。
<産業革命期の児童労働者の物語は、「気の滅入るような種類のもの」であり、産業革命期の一大暗黒面として多くの歴史家たちの筆を鈍らせた問題である。ハモンド夫妻が述べるように、「かれらの幼い生命は、よくて単調な労働に、ひどいときには人間惨苦の地獄の中で使い果たされた」。エンゲルスによれば、それは「人類の年代記に類例のないもの」であった>
 時代はいきなりへだたるけれど、いわゆる六〇年安保闘争のあと、六〇年代後半の学園闘争の嵐が吹く前に、ひとときの情況の沈滞があった。そのころにわたしが書いた文章のひとつに「未来からの挑戦」というのがあり、これは春秋社晩『現代の発見』第一〇巻「日本人のエネルギー」に収められているのだが、そこでもイギリス産業革命期の子どもについて触れている。
<産業革命が封建社会とは異質の階級を生みだしたことは周知のとおりだが、そこでもしも、子どもが保護される側にまわらなかったとしたら、そこには、おとなの労働者階級よりさらに下層の、ということは最も搾取されるところの階級が子どもによって生みだされていたとはいえないだろうか。そしてその階級は、最も搾取されるがゆえに最も戦闘的な階級だったかもしれないのである>
 子どもが保護される側にまわったというのは、子どもが工場労働から解放されて公教育の場、すなわち学校に身をうつしかえられたことをいっているのであり、それに強く作用したのはロバート・オーウェンに代表される博愛主義者たちの活動だった。早くも一七八四年には医師パーシバルによる実態調査と改善対策の勧告がおこなわれている。この対象となったのはラドクリフの木綿工場に働く教区徒弟で、産業革命期の児童労働者の二種類大別のいっぽうだった。三好信浩の分類を読もう。
<産業革命期の児童労働者は次の二種類に大別される。その一は、救貧法の適用をうける教区徒弟であり、その二は、両親の膝下から工場に通う自由児童である。産業革命の始期に水力利用の工場が山間の峡谷に建てられた頃は前者の需要が高く、一九世紀に入り、蒸気機関の発明によって工場が都市に進出するにつれて後者の雇用が進んだ。このうち一八〇二年法が直接の対象としてのは前者の教区徒弟である>
 かれらは<荷車一杯に詰め込まれ><あたかも西インドに船で積み出されるように永遠に親元から離れて送り出された>のであり<それはまさしく「児童・奴隷制度と呼ばれるべき>悲惨な労働条件のもとにあった。
 ここに出てくる一八〇二年法とは俗に「初期工場法」といわれているものだが正式名称は「木綿工場およびその他の工場に雇用される徒弟および他の者の健康と道徳を保持するための法律」という。そして<その内容は、作業環境の整備、徒弟の労働の保全と教育、本法の実施、に関する三部から構成されていた>(三好信浩)
 すでに教育がうたわれているけれども、この段階ではまだ労働と教育との並行が考えられていた。ロバート・オーウェンがマンチェスターの五百人をこえる労働者の工場の支配人という立場にありながらも工場労働の改革に着手し、さらには、
<スコットランドのニュー・ラナークの大紡績工場で、業務監督として同じ考えをもって経営をやり、前よりも自由に活動して好成績をあげた、そして、それによって彼はヨーロッパに名声を博した。彼は、後にはしだいに増加して二千五百人になったが、はじめは種々雑多な著しく堕落した分子からなっていた住民を、完全な模範コロニーにつくりかえた。そこでは泥酔、警察沙汰、裁判沙汰、救貧、慈善の必要が全くなくなった。そしてそうなったのは、ただ彼が人間を人間らしい状態におき、特に青少年を注意深く教育したというだけのためであった。彼は幼稚園の発案者であって、はじめてそれをこの地に開設した。児童は二歳になると幼稚園に入れられたが、幼稚園があまりに楽しいところであったので子供たちは家にかえるのをいやがった、ということであった>(エンゲルス)というような活動を続けているうちに、生産様式の進化とくに機械の改良進歩は知的に教育された労働者を大量に必要とする時代をよびよせていた。そしてついにイギリス議会は、一八三三年の工場法および一八三四年の救貧法修正法へとたどりついたのである。
 これは『イギリス社会史』の著書トレベリアンによって<画期的な「児童憲章」>と呼ばれているように、木綿工場を除く紡績工場での九歳以下の子どもの就労を禁止する条項を中心とし、労働にかわる、学校教育の履修を義務付けたもので、世界で最初の、近代子ども観の具体的な法制化として認められるべき法律であろう。
 右の法制化に集約的に示されているような、子どもの労働と教育についてのユートピア主義者の考えかたをもっとも明確にあらわしているのは、あの時代にあってはロバート・オーウェンの書簡体エッセイ集『社会にかんする新見解』だと思われるが、それが一八三三・三四年の法の成立にどれほどかかわりのある内容をもつものだったのかをはじめとする考察にうつるまえに、この法の施行がどれほどの現実的な影響を、当時の子どもたちにおよぼしていたのかを調べてみることにしよう。
 実は、児童文学の創成期の作品のひとつである『水の子』(チャールズ・キングスレイ、一八六二年)は、工場労働から解放、あるいはしめだされた子どもたちのその後の情況のなかから生みだされたものにほかならないからだ。法さえ制定施行されれば、それで問題が解決されると考えられるのは、つねに一部の楽天的な法律家とそのなかまたちでしかない。
 
 童話『水の子』と子ども情況
 チャールズ・キングスレイの長篇童話『水の子』の主人公は、煙突掃除の親方のもとで働く少年トムである。カール・マルクスが『資本論』でいっているように、当時すでに煙突掃除の機会は実用の段階にたっしていたにもかかわらず、それを使うよりも利潤があがるゆえに、かんかん虫と呼ばれる少年たちがまことに安い賃金で雇われていた。トムはそういうかんかん虫のひとりであった。
 伝えられているところでは、キングスレイは本職が牧師のキリスト教的社会主義者だったということだから、ロバート・オーウェンの思想に共鳴する以上に『新キリスト教』の著者サン・シモンあたりの影響をより強くうけていたのではないだろうか。しかし実のところそれ以上のことはイギリス文学史などを読んでもよくわからないし、社会評論的な部分を多くふくむ『水の子』は安部知二訳の岩波少年文庫版以外には完訳がないような状態で、それすらも子どもたちには読みにくい訳文だから、今では忘れられた古典とその作者ということになるだろう。
 ともあれ、トムは一八三三・三四年の法のわくからはみだして、工場へも行かず学校へも通わない少年として設定されている。これは現実的有効性をもちえていない。いわば観念的な理念でしかない法への痛烈な批判であり、それをいまなおゆるしている社会への告発の書であった。このキングスレイの、近代子ども感をいだく者としての戦闘的な精神構造は、一八四五年三月十五日に『イギリスにおける労働階級の状態』を上梓したエンゲルスのそれとほとんど同じようなものだとわたしは思っている。そしてそのような精神構造をもった人を児童文学の先達のひとりに数えうることを誇りたいと考える。
 まぎれもなく近代子ども観の持主であったエンゲルスは、スタッフォードシアの鉄製品地区の北側のひとつの工業地区の児童雇用委員会報告に基いて、次のような子どもの状態をつぶさに観察した。<子供たちに苛酷な、力のいる労働が課せられているが、彼らは十分な栄養も、よい衣服ももらっていない。多くの子供たちはつぎのように訴えている。「おなかいっぱいはたべられないし、たいていはじゃがいもと塩で、肉やパンは、まるでもらえません。学校にもいかないし、着物ももっていません」――「今日は、ぜんぜん昼飯をたべていません。うちではけっして昼飯をたべません。たいていはじゃがいもと塩で、ときどきパンをもらいます」――「これが、わたしのもっている着物の全部です。うちに日曜日の晴着などおいてありません」>
 これはそっくりそのまま、かんかん虫のトムの状態であったから、トムはついに川に身を投げて水中の虫のようなものに変身し、しかも現実社会の反映としてのファンタジアにおいて、人間としての愛にめざめなければならなかった。これをキリスト教的社会主義者の限界といってしまえばそれまでだが、エンゲルスにしても、もっとも悲惨は労働者である子どもたち自身に向かっては革命を呼びかけたりはしなかった。子どもたちを他力によって救われるべき存在とみなしたことにおいては、ともに近代子ども観の城をはずれるものではなかったのだ。
 法律によって労働が禁止され、公教育の履修が義務づけられてもそれが実際にはなかなかおこなわれなかった状態は、日本の明治初期によく似ている。学生発布をたてにとって、子どもを学校へやれと強制する警察官への反発が、交番焼討ちなどの政治的行動にまで発展したことは歴史が伝えてくれているが、イギリスにおいても次のような事象がひんぱんに起きていたようである。
<工場主も親も児童も、それぞれの立場を異にするとはいえ、この教育条項に消極的または否定的であった。すなわち、工場主は、教育条項により日々の仕事に中断が生じることと学校の設置維持の経費を負担することを不満とした。親は、子供が工場主により解雇されたり、給料を差し引かれたりすることも懸念し、また学校出席に要する授業料その他の経費支出を負担に感じた。児童自身も学校出席には気乗り薄であった。そのため「力ずくによらなければ学校に入れ込むことはできなかった。かれらは工場に留まるためあらゆる方法を試み、もし工場から追い出されても学校には出席せず、野原や街路を彷徨した」>(三好信浩)
 これがやがてイギリスにおいても日本においても圧倒的な就学率へと変化していく過程を、くわしく考察する余裕はないが、そこで近代子ども観の啓蒙宣伝がくりかえしおこなわれていることだけは間違いなく確認できる。きたるべき労働のために、さしあたっては労働を猶予しておいて勉学に専念させる、これが近代子ども観の社会的な現象形態なのである。学校教育の国家管理のはっきりとした形式に違いないところの義務教育年限の延長を熱望しているかのような、高校全入運動などが、いわゆる反体制派の人びとによってすすめられている現実は、とにもかくにも子どもを労働から解き放つこと、そして教育によって技術革新にみあう知識労働者を育成しようと志向したユートピア社会主義者の運動の、それこそ伝統的継承以外には考えられないのではなかろうか。
 かつての子どもの工場労働は、おとなの労働者の賃金引きさげをまねきよせた。これは本工に対する臨時工の関係に似ている。だが子どもたちのおしなべての就学は、ほんとうは本工と臨時工の関係以上に困難な情況を労働者一般、というよりは、おとな一般に対して与えているのだということに気づくべきである。なぜなら子どもとは、労働を放棄した存在ではなくて、労働を猶予されている存在、つまり完全に国家管理されているところの産業予備軍にほかならないからだ。
 五島茂・坂本慶一はロバート・オーウェンを「教育的社会主義」の創始者として評価しながら次のように書いている。
<彼はルソー、ペスタロッチら大教育者からの影響を意識的・無意識的に受けた。しかし、これらの人びとと全く異なった教育世界を彼はひらいた。一八八一年、ペスタロッチの労作教育の前工業化基底からの狭隘性と社会性をえぐりだし、その唯心的理想主義に対して、性格形成論を主とした唯物的理想主義のもと、産業革命の生んだ大工業的生産労働と直結する教育の社会改良手段としての意味と偉力を明らかにした>(前出『世界の名著』解説)
 オーウェンの『社会にかんする新見解』は「あるいは、性格形成原理と、それを実践に移すことについてのエッセイ集」というサブタイトルをもつ、いうなれば教育理論書であって、いたるところで、<すなわち、善や悪について、子どもは、生涯のごく早い時期においてかなりのことを学び、身につけるということ。気質や性向は、その多くが、二歳にならないうちに、良くも悪くも形成されるということ。そして、長く残る印象の多くが生後十二ヶ月目に、もしくは6カ月目においてすらも、つくられているということである。それゆえに、無教育の子どもたちと誤った教育を受けた子どもたちは、幼児期とそれに続く子ども時代、青年時代に、その性格形成において重大な損害を蒙る>というような早期教育の重要性が語られている。これもまた「空想的社会主義」の理論の一端だとするならば、それを否定する科学的社会主義者は、子ども観においてもまた空想的社会主義者とは異質の観点をうちだす必要があったはずなのに、なぜかわたしたちの視野のうちにはそれが見当らない。いや、それどころか、ソ連の、中国の、そして日本の社会主義者たちの子ども観にいたっては、
<人間の性質は一方ではもって生れた体質の産物であり、他方ではその生涯、特に発育期の個人の環境の産物であるという、唯物論に立つ啓蒙主義者の学説を信奉していた>(エンゲルス)ロバート・オーウェンと同じか、ひょっとするとさらに観念的な環境決定論でしかないように思われてならない。従ってわたしたちが、近代子ども観を止揚するだけの新しい子ども観をみずからのものとするためには、いさぎよく、自称社会主義者たちの自然科学主義的人間観にもとづく子ども観に訣別する必要があり、そうするためにいかなる方法を用いていくかということについても、くりかえし考察されなければならないだろう。わたしにはさしあたってルートウィヒ・ビンスワンガーの『現象学的人間学』というテキストがあるのだが、ここはそれについて述べる場ではない。あらためて機会をうることを希望しておこう。       テキストファイル化番場美千子