『児童文学セミナー』(季節社 1979)

児童文学的表現とはなにか

子どもは未分化な存在か
文学史家ヨハン・ホイジンガの名著『中世の秋』(中央公論社刊)の冒頭の文章は、子どもにかかわる仕事、わけても児童文学を志向するわたしたちにとって、看過することのできない重要な意味を含みこんでいる。改めて想起してみよう。
<世界がまだ若く、五世紀ほどもまえのころには、人生の出来事は、いまよりももっとくっきりしたかたちをみせていた。悲しみと喜びのあいだの、幸と不幸のあいだのへだたりは、わたしたちの場合よりも大きかったようだ。すべて、ひとの体験には、喜び悲しむ子どもの心にいまなおうかがえる、あの直接性・絶対性が、まだ失われてはいなかった>(堀内孝一訳)
 右の文章における重要な意味とは、子どもにかかわる仕事を専門的に志向しているわけではない人、いわば一般人から、それなりに明確な子どもに関する概念規定がなされているということである。すなわちホイジンガは、子どもを中世の人びとと同様の存在と措定し、近代にはいまだ至りえない未分化な状態ときめつけた。つまり、子どもは"まだ若く"あるというのだ。
 ホイジンガが『中世の秋』を公刊したのは一九一九年(大正8)のことであるが、子どもを未分化な存在とするきめつけは、多くの児童文化関係者までを捲込んでの有力な一般論として"いまなおうかがえる"事柄だと思う。そしてそのような子どもに関する一般論が、児童文学における表現のありようを規制していることもまた、まぎれのない事実である。だからわたしたちが、もしも子どもたちを中世的な未分化な存在とは考えず、すこぶる現代的な存在として対象化し、恣意なる表現によって児童文学を創造しようとするならば、たちまち一般論者からの指弾を受けること必定なのだ。しかし、専門的志向者が一般論に組みしている限り新しいものが生まれえないのは各分野共通の、それこそ歴史が教えてくれている常識なのだから、新しいものを生みだすためには、起こって俗論を敵とする気構えが不可欠となる。
 あえて簡明にいうならば、児童文学とは、子どもの論理を基調とする文章表現物なのであって、その表現活動自体のうちに矛盾をはらむことを不可避とするがゆえに<特殊>な文学である。一昔前の童心主義者は、自らの論理と子どもの論理との同質性に固執することによって、表現活動における矛盾・葛藤を意識せずに作品を書き上げることができた。しかし現代の児童文学志向者が童心主義であろうとすれば、たちまち、社会性欠落の無能力者の烙印を押されてしまうに違いない。現代社会は、子ども存在とおとな存在とが峻別されている管理社会であるから、たまたま未熟な精神構造の持主がいても、その人が子ども的に生きようとすることを原則的に許容しない。おとなでありながら、子どもとの同化を希求すれば、どれほど恵まれた状態であっても特殊な奉仕者の美名が冠せられるのを免れることはできないだろう。そしてその社会的=政治的な制約からの特殊扱いのなかに児童文学が包括されていることもまた疑いのない事実である。だが、この、社会的な意味での特殊性をどれほど分析してみても、児童文学的表現とはなにかという主題の解明には役立たない。だからわたしたちは、いま改めて次の二点を確認しておく必要があるのだ。
一、 日本児童文学の伝統において主要な部分を占めてきた童心主義の系譜は、文学的
存在というよりは社会的存在だったということ。
一、 童心主義に関する分析研究は、その必然的帰結として文学論とはならずに社会(政治・
文化)論にならざるをえないということ。
 右の確認にためらいを覚える人は試みに手近かの児童文学論の一冊なりとも繙いてみればいい。そこに展開されているのは、いずれも浅薄低俗な政治論議以外ではないだろう。児童文学がその発生以来、いわゆるおとなの文学の思潮とはほとんど無縁な軌跡を描いてきたのは、作家主体のありようを含めての存在基盤を社会的特殊性の範疇に安住埋没させ続けたからにほかならない。―という以上の論旨を常識的前提として話をすすめることにする。

 子どもの論理を第一義に
 それほど特別な意味ではなしに、まずは新しい児童文学を生みだそうと心掛ける場合、その人の前に提起されてくるのは、さしずめ次のふたつの課題だろうと考える。
 ひとつは児童文学たらしめるにはどうしたらよいかという問題意識であり、もうひとつは、子どもの思考のすじみち=論理を、おとなである作家が文学を成立させつつ代行しうるものだろうかという疑問である。実はこの文学か子どもかというふたつの課題は、児童文学の新生または革新を考える場合、必ずといってよいほど現出してくる事柄であって、その経験を持たない人は真摯に新しい児童文学を志向したことがないのだ、とさえいえるのだ。わたし自身の体験に即してもそのことは確信できる。文学であろうとすれば、子どもの論理はすっとび、子どもの論理を生かそうとすれば文学としては態をなさないという、いわば引き裂かれた状況に身を置いてこそ新しさを目指す児童文学志向者たりうるのである。そして現在までのところふたつの課題の統合をなし遂げた人は、宮沢賢治のような無意識的例外を除いて見当たらない。文学を求めた人はそのまま児童文学の埒外に旅立って帰らず、子どもにかまけた者は教育の分野に身をゆだねることがしばしばだった。しかしそれでも、子どもの論理を一義に考えた人のほうに、まだしも児童文学的可能性は現象してきたのだ。わたしたちは、子どもを第一に考え、文学を二の次にすることによって、児童文学としての新しさを作品的にかちとった作家をさしあたってふたりは知っているはずである。
 ひとりは『いやいやえん』その他の幼年童話作家中川李枝子。そしてもうひとりは児童読物作家であることを自負し続けてきた山中恒だ。このふたりの児童文学者は文学者であるよりも先に"子ども学"者である。たとえば山中恒の初期の代表作『とべたら本こ』の結末を思いだしてみればよい。波乱の行動を繰り返してきたカズオにしては、あまりにもあっけない家庭への定着が描かれているわけだが、子どもの論理を第一義とする作者は、文学的効果だけを考えて更なる波乱万丈の海へカズオを放りだすことなどは到底なしえなかったのだ。誤解を恐れずにいい切るなら、文学第一義の児童文学志向者は幅広い意味での観念論者であり、子ども第一義の人は現実主義者たらざるをえないということになると思う。そしてそのそれぞれは、個個人の体験と基礎的教養のありように、無意識段階においては、規制されているようである。
 可能性のないところで主題を追求するのは徒労であるから、わたしは以下もっぱら子ども学的に"児童文学的表現とはなにか"を考えていくことにする。となれば当然のこと、初めに引用したホイジンガの子どもに関する概念規定の検証に立ち戻らざるをえない。あれはいまなお正しいか、という問題である。これに対しては、正しくない、と即答しなければならないのだが。ホイジンガが『中世の秋』を公刊したのは、半世紀も前のことであり、そこではからずも提起された子どもについての所説はいまなお一般論として通用するものではあるけれど、子どもの現在的情況やその現況を踏まえての真に新しい子どもに関する諸学説に比較するならば、ホイジンガによる"子どもの定義"はあまりにも古典的で古すぎる。二十世紀後半のいまでは、子どももまた二十世紀的存在である。そしてわたしは学説としてメルロ=ポンティの「幼児の対人関係」あたりを手掛りとすることによって、<子どもの論理は、未分化(カオス)から分化(コスモス)への過程そのものである>と措定する。宇宙物理学的にたとえるならば、子どもは暗い泥海におおわれた時代を経て、陸と海とに分離され生物の棲息に適合する遊星に至る過程ということになるだろう。もちろんおとなは既に遊星であって、もはや海陸を損壊、汚染させる存在になり果てているわけだ。そのようなおとなの論理とは、おしなべて社会規範(論理・道徳・法)の金縛りのうちにあるといっても決して過言ではない。それでは子どもはその社会規範の金縛りから自由でありうるのかといえば、それは否だ。子どももまた社会的規範に縛られてはいるのだが、なぜ、縛られなければならないのか、その理由が納得できないでいる段階であって、それゆえに子どもたちには公の名による教育が施される。
 <そして彼は、彼ら群衆が≪美しい≫と主張するものを、そのまま≪美しい≫と主張し、≪醜い≫と主張するものを、そのまま≪醜い≫と主張するようになり、彼らがおこなうとおりのことを、自分の仕事とするようになり、かくて彼らと同じような人間となる>(プラトン『国家篇』)しかもそれに反する者は<最大の強制力>によって罰せられる仕組みを持つのが法治国家だということなのだ。しかもプラトンは、どのような個人的な教えのことばであっても、公教育に反対して勝てる者はいないのだから<そんなことを企てるだけでも、たいへん愚かなことと言わねばならないだろう>と説いている。だがしかし、子どもの論理を第一義とする児童文学者は<最大の強制力>はもとより民衆への同化すらも納得しかねている"過程存在"としての子どもに荷担し、その論理の対社会的再構成をもって表現活動とするのだ。従って公的立場からみるならば、たいへんに愚かなことを企てている者かもしれないのである。けれど、この意識化を捨象したのでは、現代における児童文学の表現についての考究はいささかの進展もないと、わたしは思う。では、なにゆえわたしたちは、未分化から分化への過程存在である子どもたちに、かくも執拗にこだわるのだろうか。このことを明確にしておく必要がありそうだ。

 児童文学者の特異性
 "かまける"ということばがある。念のために『広辞苑』で調べると、「かまく」の口語で、感ずる、感心する、心動く、拘泥する、かかわる、などの意味を持つ自動詞となっている。さらに『新明解国語辞典』によれば<その事だけに心が奪われていて、ほかの事を顧みる余裕のない状態になる>と説明されている。この"かまける"ということばほど、わたしたち児童文学志向者の対子ども姿勢を簡明に集約している表現はほかに見当たらないと思うのだ。まこと、児童文学者とは、つまるところ、子どもにかまけずにはいられない人間存在の謂なのである。
 児童文学における童心主義伝統の桎梏から解き放たれようと試みるあまり、さながら子ども嫌いのようにふるまう人もいないではないが、心底からの子ども嫌いが児童文学を志向するわけがない。児童文学は、いやでもやらねばならないほどには社会的経済的に恵まれた仕事ではないからだ。まだ当分のあいだ、子どもにかまける人だけが児童文学者であろうとし続けることだろう。その意味で、児童文学志向者の共通の関心はもっぱら<子ども>そのものであり、極端にいうなら、森羅万象ことごとくが<子ども>へと収斂され続けていると思いこめる人だけが、児童文学者たりうるのである。これはおそらく児童文学における不変の前提条件であるだろう。そして、まぎれもなくこれは特異なことに違いない。世間的には類まれな人間というほかはないのだ。
 この類まれな特異性を人間の生きかたとして、真であり善であり美であると規定し、はばかることもなく至高の価値を自らに付与したのが、かつての童心主義者たちだった。
 たとえば北原白秋の童謡論集でもいい、ひらけばたちまち臆面もなく主観的な童心讃美と自己賞讃がとびだしてくること必定なのだ。
<児童は本来生まれた儘の自然児である。此の大自然の恩寵は一に無邪な児童等に懸かっている。児童は此の大自然に対するに最も無我である。無我の恍惚境に彼らは遊ぶ。然るが故に最も自然の真生命と直面し得るものは児童が最も此の童心を失わぬ芸術家、或は哲人に外ならぬ>(『緑の触角その他』)
 だが残念ながら、そして当然のことに、北原白秋もまた世間的にみるならば、没常識的な変人奇人のひとりにしかすぎなかった。白秋を偉大な文学者、すぐれた童謡詩人とほめたたえる人は少なくないだろうが、白秋のように生きなければならぬと考える人は決して多くはいない。この矛盾にみちた関係は重要である。これは次のようにいい変えることも可能なのだ。
 子どもを重要視し、子どもにかまける人がいることは結構だが、そういう人のように子どもを育てる必要はない。<特異>な存在は貴重だが、自分や自分の子どもが特異な存在になることはない―と考える人が社会の大多数を常に占めている。しかもその大多数の人びとは功利的な意味で、児童文学の対社会的役割を知り、それを役立てつつある。すなわち人びとは児童文学を<教育>に利用しているわけだが参考までにその理由を明らかにしておこう。
 評論家のハーバード・リードは、『芸術による教育』(岩波書店刊)のなかで、教育の目的には「少なくとも二つのたがいに相容れない説が成り立ちうる」として、
<すなわち一つは、人のその本来あるところのものになるように教育されなければならぬ、という見解であり、他の一つは、人のその本来あらざるものになるように教育されなければならぬ、という見解である>(植村鷹千代・水沢孝策共訳)と指摘している。リードはさらに詳細な分析をおこない、このふたつの見解は変化と画一という問題だという。
<つまり、社会というものを相互の援助によって平衡を求める多数の個人の共同生活体と考えるか、あるいは、及ぶかぎりの一つの理想に準拠する人々の集合と見るか、どちらにするかということになる>わけで、親あるいは教師さらには一般的な意味でのおとなたちは、教育の二つの見解のはざまで<ジレンマ>(リード)に陥りがちなのだ。
 このとき、子どもにかかわる特異な人=児童文学者の第三の見解が人びとにとっての救いとなる。一見、児童文学者特に童心主義者はリードのいう第一の見解に当てはまる主張をしているように思われがちだが、実は違う。北原白秋にしても、先に引用した文章に続けて次のように書いてしまうのである。<児童は詩人である。天才的である。此の天才的な小詩人の一一をたちまちに普通の成人型児童たらしめ、凡物たらしめ、木偶たらしめるのは抑々何の罪、誰の罪であるか。世の教育家はここに思を深く致さねばならぬ>
 これは結局、子どもなどというものは、そのときどきの社会つまりおとなが思うがままになる存在、そうした意味での"自然物"だという論理の表出にほかならない。多くの人びとが「どうしたらよいか」と考え悩んでいるときに「どうにでもなる」と、特異な見解を発表するのが児童文学の社会的役割だった。これだけですら、ジレンマに陥りがちな人びとの、ひとときの救いには充分に役立ちうるのだ。童心主義が"社会的存在"だというわたしの指摘はここでもまた繰返される必要があるだろう。けれどこの段階までの童心主義は、特定の方向性をかかえこんでいないから、子どもを可能体として措定するという進歩性に裏打ちされていたのである。このままの無方向性で終始したならば、教育が、<すべての個別性を抹殺して均質の集団を作る方向に向けられる>(リード)時代において、童心主義文学は、過激なまでの進歩性を持ちえただろう。
 けれど、童心主義は無方向性を放棄し、社会の方向性に同化した。子どもを特定の方向への可能体として措定しなおしてしまったのだ。この瞬間から、児童文学者もまた、子どもにかかわるだけではなくて、社会一般の動向にも気を配ることができるのだという評価が与えられるようになった。児童文学者における市民権の獲得である。市民権とひきかえに、多くの児童文学者は、子どもにかまけるという前提条件を喪失してしまっているというのが現状だろう。ポール・アザールが、『本・子ども・大人』(紀伊国屋書店刊)のなかでいかにもフランス人的な諧謔の口調で批判しているボーモン夫人やジャスリン夫人と、いまどきの日本の児童文学者の多くとどれほどの差異があるというのだろうか。いまこそ改めて、児童文学志向者は子どもにもかまけずにはいられない"特異な自己"を確認すべきだと思う。もちろん、いうまでもなく、この自己確認を出発点とする以外に<児童文学的表現>の考究は不可能である。

ジレンマと屈折の自覚化
 さて、再認識はおこなわれたとする。わたしたちが子どもにかまける人間だということは疑う余地のないところだが、その理由はまだ判然としていない。子どもの"心"とやらを真善美と規定し、それに似たものを持つ自分を高い価値の人間ときめてかかれる童心主義者のようには無邪気になり切れないのだから、問題はかなり複雑だ。
 わたしたちは、わたしたち自身も一構成員であることを免れない現行の社会が一定の方向性を持ち、その最も集約的な現象形態が学校教育であることを知っている。社会もまた子どもを可能体として把握していればこそ、学校教育によって子どもたちを囲いこもうとする。狡猾な教育行政担当者たちは、かつてハーバード・リードが指摘した「ジレンマ」にも注意を払い、教育に対する見解をひとまとめにしてしまおうと躍起である。子どもは可能体として矮小化される。これもまた、おとなたちにとっては、ひとつの安心立命に違いない。学校教育のワク組のなかにさえ追こんでおけば、子どもは、なるようになる可能体だと社会が措定し保証してくれているのだから、おとなたちの心が安まるのは当然だろう。大多数のおとなのレベルではジレンマのない社会ほど快適なのだ。
 しかし、子どもを未分化から分化への過程存在そのものとして認識し、それをまるごとかかえこんだとき、わたしたちは間違いなくひとつのジレンマに遭遇しており、これは子どもにかまけ続ける限り解消される見通しが立ちかねるものと考えられる。子どもたちとわたしたちのあいだには確実にひとつの関係がある。俗にいうならば、なるようになりうる者と、なるようになるはずなのに、なるようにならなかったので、なるようになりうる者にこだわろうとする者との関係だ。わたしたちはかなり諦めがわるいのである。これはまぎれもなくジレンマであって、これほど不安定で快適さからほど遠い精神状態はほかに見当たらないのではないかとさえ思える。
 児童文学者と子どもたちとの関係は、対等でもなく平行でもない。従ってコミュニケーションを成立させる関係としてみた場合、ほとんどフィード・バックのない方式といえるのである。けれどあえてわたしたちは、子どもたちとの関係の上にループ回路を確立させようと試みる。(「電気通信系では、一方向だけに情報が流れてゆくような方式のほかに、受信者に入った情報が情報源としてもとにかえっていくループ回路をもった方式がある」北川敏男著『組織と情報』)。これがすでにジレンマであり屈折であって、ここにも児童文学の特異性は鮮明に現出してくる。児童文学の表現はジレンマと屈折の上にこそ成り立ち、いわゆる子どもことばの単純な羅列とは異質なのだということを強く意識する必要があるだろう。この点、ベッティーナ・ヒューリマンの『子どもの本の世界』(福音館書店刊)におけるペローに関する逸話の紹介は参考になる。
<一六九七年に『教訓を含んだすぎし昔の物語―または小話集』を出版した。これははつらつとした散文で、とくに子どものために書いたものであるが、そのときペローはちょっと恥ずかしかったらしい。なぜなら、そのころそんなことをする人はほかにいなかったから。ペローの恥じらいは、この本をだすとき、むすこのピエール・ダルマンクールの名前にしたことにあらわれている>(野村?訳)
 シャルル・ペロー。―この児童文学の先達はジレンマと屈折を自覚していたのだ。

 子どもはひとつではない
 ところで、いつの時代にあっても、どのようなジャンルを志向していたとしても、ひとりの文学者の<質>を決定するのは、その人の文学的<体験>以外ではないというのが、いわば文学としての常識である。このことを評論家の中村光夫は次のことばで代行させている。
<小説は、誰でも面白い体験があれば書けるものかというと、そうでないことは誰にもわかります。人生で数奇な行路を辿る人は無数にいますが、その経験を小説にして成功した人は、何万人かにひとりでしょう>(新潮文庫『小説入門』)
 中村光夫のいう"小説"を童話か児童文学に置きかえ"人生"を子ども時代とでもいいかえれば、右の文章は素早くわたしたちにとっての教訓となる。すなわち、生活=子ども時代体験がどれほど豊富であったとしても、児童文学的体験が貧困であったならば、その児童文学者の質は高かろうはずがないのだ。もちろん、児童文学者の<質>という場合には、創りだされる作品や評論のよい・わるいという結果的な水準だけを意味してはいないのであって、その児童文学者が、どのような読者を想定しながら文学行動をおしすすめているかという"姿勢"までが含みこまれているわけである。
 中村光夫は小説を指して<いうまでもなく文学の一部門であり、文学はまた芸術の一種です。しかし小説はそのなかでもひとつの特色を持っています。それは小説がたんに文学のなかだけでなく、芸術全体のなかで、一番芸術らしくない芸術だということです>(前出書)といったが、児童文学は、いわゆる小説よりもなおさらに文学・芸術らしくない"特色"を持っているように思える。その特色によって派生してくるさまざまな問題のなかで、最も、<表現>について考える上で危険なのは、あまりにも幅広く、おびただしい数の読者を想定してしまうということなのだ。
 楽天的な理想主義者たちはなにかにつけて、次のような章句を書きつらねる。
<目の色はちがい、ことばは通じ合わなくても、世界のこどもは一つである>(『世界こども百科』監修者藤田圭雄の「ごあいさつ」)
世界の子どもはひとつだというくらいだから、もちろん日本の子どもはひとつにきまっているのが、多くの児童文学者における読者想定なのである。しかし、それはあくまでも錯覚でしかない。全ての子どもを自らの作品の読者として想定しうるほどには、わたしたちの児童文学的体験は豊富であろうはずはないのだ。そしてさらには、子ども時代体験にしても、各層各人にわたっての同化や理解を可能とするほどには重層化してはいないのが普通である。人は誰でもそれぞれに体験の質量を限定せざるをえないような限界をもっていると考えるのが妥当だろう。
 すなわち、Aという児童文学者は、A自身の子ども時代体験と児童文学的体験と、さらにはそれらを基調とするところの世界観と子ども観の振幅の範囲でしか読者を獲得できないのである。
 Aは主張する。「わたしは児童文学者ではなく、児童読物作家なのだ」と。これはとりもなおさずA自身によるA自身の<質>の規定であって、同時にAの作品の射程距離が那辺にあるかをかなり明瞭にものがたっていることになる。Aが児童読物作家を自称したことをもって、読者の想定範囲を拡大しようとしていると考えるのは「こどもは一つ」的な錯覚であって、現実的な判断ではない。Aは逆説的に自らの児童文学者としての姿勢を明確化し、自らが想定する読者の"層"を限定し、作品という名の弾丸が確実に弾着するように志向したのである。
 いうまでもなく、Aの志向は、Aの児童文学的体験の現時点における集約のあらわれであって、それ以外ではありえない。そして、志向があきらかになったとき、表現は必然的に意識化される。これをわたしたちは方法とよべばよいのである。その意味では方法とはすこぶる個人的なものだといわざるをえないだろう。だからこそデカルトもまた『方法序説』を個人的諸体験を語ることからはじめているではないか。
 書き手と表現との関係を考えるとき、読者の層を限定して想定するべきなのだということを、わたしにはじめて"体験"させてくれたのは、ソヴェトの詩人マヤコフスキーだった。それは「いかに詩をつくるか」という評論で、もっぱら詩作に関する事柄が熱っぽくのべたてられているのだが、わたしにとってはマヤコフスキーが、<詩作の初歩にとって不可欠の条件>として列記した五つの項目のうちの第二項を、児童文学志向者となった現在でもまだ忘れかねている。それは、<諸君の階級(または諸君が代表しているグループ)の希望を正確に認識すること、あるいは感知すること、すなわち目的の設定>というのである。これは一見、生硬な政治用語の羅列のように思われがちだが、要するに詩人あるいは作家もまた、一般の人びとと同様に、ある階層に所属することをまぬがれえないという初歩的認識の強調であって、単純な政治用語の転用ではないのだ。こうしたことも、わたしにとってはまぎれもなく、私の児童文学的体験だからわたしの作家としての<質>を決定するのに役立っている。
 もしもマヤコフスキーに出会わなかったら、わたしもまた「こどもは一つ」的な楽天主義者でいられたかもしれない。とはいっても「こどもは一つ」論者に対して寛容になる心つもりはまるで持合わせていない。なぜなら、「こどもは一つ」であるというのは、子どもをめぐる現実を直視したところからは発想されるはずのない表現だからである。
 このことは機会あるごとに繰返してきたので、いま改めて書きあらわすのも億劫だが、現代の階級社会において、子どもばかりが超階級的に生きることはできないのだ。従って、わたしたちは、それこそ自己の諸体験にこだわることなく客観的に、「子どももまた一つではない」ことを認識しなければならない。このような思考作業を、「現実」による「体験」の検証あるいは「外部」と「内部」の照応(コレスポンデンス)という。こうしたことの積みあげによって、わたしたちは固陋な体験主義者に陥るのをまぬがれうるわけだろう。

 百人の児童文学者には百の児童文学的表現
 ところが、子どももまたひとつでないように、児童文学に対する考えかたもまたひとつではない。階級分化は児童文学においても例外なく現象しており、しかも「子どもは一つ」論者たちが、社会一般から重用されているのだから事態は複雑である。そして、この現況のなかから、児童文学にふさわしい表現という概念が生みだされ、多くの児童文学志向者に影響を与えつつあるのだ。そのために、Bという児童文学者のような、相当に意識的な主題えらびをする人までが、表現に関しては「より多くの子どもたちに読んでもらいたいと考えて」たちまちあいまいになってしまう。このようなことがすくなくない。
 Bは未開放部落の問題に関心をよせていて、未開放部落をめぐる事象のひとつを主題として童話を書いた。このような姿勢が「こどもは一つ」論者たちと相容れぬものであることは、指摘するまでもなく明らかだろう。「こどもは一つ」論者の理想主義をもってしては、未開放部落はいささかも開放の方向へは向かない。Bにとって、とれは自明のはずだったが、このBも、ひとたび児童文学的表現にたずさわると、にわかに「より多くの子ども」を読者に想定する誤まりをおかしてしまったのだ。これは志向と表現の分裂であって、方法論不在の児童文学行動といわざるをえない。さらにいうならば、Bの文学的体験はまだまだ豊かではないので、未開放部落の問題を自らの文学的問題としてうけとめることができなかったのだ。ここでもまた、わたしはマヤコフスキーの言質をなぞらえて次のようにいわなければならない。<社会のなかには作品(児童文学―佐野)によってしか解決の考えられない問題があること>
つまり作家は、真に児童文学的主題を自らのものとした場合にのみ、それを表現すればよいのであって、それ以外の問題は、児童文学以外の行動によって解決するなり処理するなりすればよい。もっとも、このような文学観によって自らの文学活動をつらぬこうとしたマヤコフスキーはソヴェトの政治によって死に追いこまれた。これもまたわたしにとっては、児童文学的体験である。悪しき政治動向のなかでは、作家が自らの方法を確立しようとすることが死を意味する場合もあるのだ。文学と表現との関係はなまやさしいものではないことを改めて痛感すべきなのだろう。
 いいかえるならば、児童文学者は、自らが想定した読者=子どもたちと運命をともにするということを主張し続けなければならないわけだ。作家と読者との関係のうちになりたつ幻のコンミューンは、家庭や国家や人類よりも貴重な運命共同体でなければ意味がない。なぜならば、それはあくまでも恣意の、自らの意志によって選択されたところの共同体だからだ。
 さて、作家と読者とのあいだに共同体が構築されたとして、その後に展開される表現活動のあれこれは、実際の育児活動や現実生活における子どもたちとのつきあいとそれほどに隔絶したものではないと思う。その子どもたちの感性、思考、くせ、嗜好、そして言語などを適宜に活用すればよいのだから。
 またまたマヤコフスキーを援用するならば、幻の共同体においては、
<材料。言葉。貯蔵所を、諸君の頭蓋の倉庫を、必要な言葉、表現力に富む言葉、珍しい言葉、工夫を積んだ言葉、新造語などで常に充実しておくこと>が可能なのだ。ひとつの結論としていえるのは、百人の児童文学者がいれば、百の児童文学的表現がありうるということだろう。もちろんこれは、意識的な百人の場合にのみいえることであり、そうした意識的な作家のより多くの出現が児童文学の真の繁栄をもたらしうるわけである。

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