戦後児童文学を調べ直す

一九二〇年代の文学・芸術運動が提起したもの
児童文学に<戦後>はいつ訪れたのだろうか。日本的なワク組みのなかで最も単純に考えるならば一九四五年(昭和20)八月十五日以後ということになり、その時点で生みだされた"子どものための文学"が戦後児童文学でなければならない。しかし文学史的あるいは社会史的な意味で児童文学を<戦前>と<戦後>とに分ける必要性があるとしたら、それは作品に則して存在するのではなく、その作品の評価をめぐって存在するのだということを確認しておかねばならないのだ。ただ単に作品だけを問題にするならば、戦前・戦中・戦後の区分などはほとんど不必要である。時代の移り変りにともなう変化も絶無ではないが、時代の変転にかかわりなく共通する部分が圧倒的に多いのが児童文学の特徴ともいえるのだから、児童文学の作品を通してのみ戦後児童文学を考えるとしても、それはほとんど無意味だと思う。
 従ってわたしたちは、戦前(戦中)の児童文学、戦後の児童文学という分けかたをしたとき、すでに作品の領域を超え、作家主体や児童文学運動的側面、さらにはこの国の文化的潮流の諸相をふくみこんだところにまで視野をひろげているわけである。そのようなかたち以外には、戦後児童文学を調べ直す方法はないと考える。そして、いま改めて、この国における戦後を一九四五年八月十五日以後と措定しよう。そこで、児童文学になにが起こったかを調べ直そうというのだ。
 児童文学における戦後を調べ直す、つまり検証しようとするときにもまた、それにふさわしい尺度または基準が必要なことはいうまでもない。それをわたしは第一次大戦後、いわゆる一九二〇年代のヨーロッパを中心とした芸術・文学運動の<意識>に求めたい。すなわち一九一七年にロシアで十月革命があり、第一次大戦後の恐慌が吹き荒れた時点での芸術・文学における革命運動の意識以外には、この国の戦後児童文学を調べ直す尺度・基準は見当りそうもないからである。
 一九二〇年代の芸術・文学革命運動の代表的旗手のひとりアンドレ・ブルトンは一九二四年(大正14)に発表した「シュールレアリスム第一宣言」で次のようにいっている。
<生活にたいする、それも生活のなかの最も不安定な部分にたいする信頼が深まってゆき、現実の生活も充分に理解されてしまうと、ついにはこの生活にたいする信頼が失われてしまう。すると、この決定的なまでに夢想家である人間は、日ましに自己の運命に満足しきれなくなり、彼が日ごろ使うようになってしまったさまざまな事物、それも彼の無頓着さのゆえに、あるいは彼の努力の結果、その手中にはいったさまざまな事物のまわりで暮らしてゆくのに、苦痛を感じるようになる。それらの物は、ほとんど大部分のばあい、彼の努力の結果えられたものなのである。なぜかというと、人間は働くことを承諾したからであり、少なくとも自分の運を賭けてみることを厭がりはしなかったからである。(しかも人間は、それを運とよぶのだ!)さてそうなると、ひどくへりくだることが人間の持ち分になってくる。人間は、自分が今までにどんな女を所有してきたかということ、またどんなに下劣なアヴァンチュールのなかにひたっていたかということを知るようになる。そして金持であろうと貧乏であろうと、そんなことは彼にはどうでもいいことになってしまう。その点に関しては、いま生まれたばかりの子供と少しもかわりはない。そして彼の倫理意識を認めるかどうかという点になると、彼がそんなものなしで気楽にすごしていることを認めざるをえない。もし彼が、いくらかでも明晰さを持ちつづけているならば、彼はもう、自分の幼少年時代に帰ってゆくよりほかはあるまい>(稲田三吉訳、『シュールレアリスム宣言』現代思潮社刊)
 このあとブルトンは子ども時代の特性について言及し、想像力と精神の自由の可能性を強調した。つまり「シュールレアリスム宣言」の一部分からも類推しても、一九二〇年代の芸術・文学運動に対しては児童文学者は当然、積極的な関心を持つべきであったということがわかるだろう。たとえば二〇年代の文学運動のひとつだったダダイズムに関心を寄せた詩人の中原中也の詩作品はすこぶる児童文学的である。また吉田一穂や稲垣足穂には童話作品があり、それらの文学性の高さは他の追随をゆるさないほど独自の光彩を放っているが、児童文学史的にはほとんど認められていない。すくなくとも主流の作品として評価されたことはなくて、あくまでも傍系にとどまっているのだ。この人たちがシュールレアリスムをはじめとする<戦後>の芸術・文学運動に積極的関心を持っていたことは史実に明らかである。
 ところが、児童文学者たちのほとんどは、シュールレアリスムにもダダイズムにも無縁だった。児童文学者たちは一九二〇年代における新しい芸術・文学思潮には見向きもしなかったというほかはないのだ。(宮沢賢治は、ほとんど唯一の例外と思われるが、宮沢賢治もまた日本児童文学の主流ではない。)ようするに日本の児童文学における戦後は八・一五以後まで存在しなかったといえるわけだが、これは重要な意味を持っている。ここからは、なぜ、児童文学者たちは二〇年代の芸術・文学運動に影響されることがなかったのか、という疑問が必然的に生まれて出てくるからである。
 疑問に対する答えは簡単だ。児童文学はつねに体制べったりのところで生き続けてきたからである。児童文学における体制べったりとは教育行政への従属であって、そのために文学としての自立性は持ちえず、そうした事柄に対する無関心こそが児童文学者の常識であった。
 いうまでもなく、一九二〇年代の一連の芸術・文学運動は、短絡すれば芸術・文学の自立を目的としていた。政治への従属を強要されたときには、運動は滅亡していった。ソビエトにはその例が多くあり、そのゆえにマヤコフスキーは自ら命を断たねばならなかった。しかし児童文学は政治への従属によって生命を永らえ安定させてきたのである。児童文学は政治体制が変化すれば、まことにすんなりとそれに従って変ってゆく。それが巌谷小波以来の伝統だったのだが、一九四五年八月十五日以後の情況の変化はあまりにも急激すぎたために、伝統はゆらいだのである。つまり変化にこだわりをおぼえる児童文学者が現われた。これがすなわち日本児童文学における戦後意識の萌芽なのだ。そのひとり、小川未明は「子供たちへの責任」という文章を書いた。
<最近小さな子供の行状などを見ていると胸をうたれる。いいかえれば時代を反映して悪がしこくなり、今までの子供らしさを失っているものが多い。/子供は純情と一口でいうけれど、それは畢竟どうにでも感化されるという意味に他ならぬ。ただ子供は大人とちがって鋭い叡智をもっている、それは未だくもりなき心に自然がありのままに映るからである。/戦争中はいかなる言葉をもって子供たちを教えたか。指導者らには何の情熱も信念もなく、ただ概念的に国家のために犠牲になれといい、一億一心にならなければならぬとかいって、形式的に朝晩に奉仕的な仕事を強制して来た。そして日本は一番正しいのであるし、敵は残忍であり醜悪であるということを言葉に文章に信ぜしめようとして来た。それが終戦後の態度はどうであるか。今までの敵を讃美し、まちがっていたことを正しいといい、まったく反対のことを平然として語っている。子供は大人に対して抗議する力をもっていない。しかし批判力がないとだれが云い得よう>(一九四六年『日本児童文学』)
 これは急激な変化に対するこだわりの表白なのだが小川未明は急激に変った世のなかに反抗しようというのではなく、急激な変化にともなって急激に変ることは気持として釈然としないから、ゆっくり変化していくべきだと主張した。すなわち次のように結んだのだ。<時代に迎合するというよりは当面した現実に新しい自己というものを発見して、子供たちと共に新しい日本を建設して行くという誠実がなくてはならぬ。現実に対して謙虚であり誠実である時にはじめて新しい自己が発見されるし、新しい時代の感覚を体得しうる。そこに温醸される芸術こそ自然発生的に成長する。そしてそれに限りなきよろこびを、あたえる者もうける者も共にうけるであろう>
 この小川未明のような緩慢派に対して、急激な変化への対応をなしとげようとした人びと、いうなれば性急派も当然のこと存在した。戦中は緩慢派も性急派も少国民文化協会という翼賛組織を拠点として共同の歩調をとっていたのだが、性急派としては戦前戦中の転向はあまりにも緩慢で、それゆえに体制の甘い汁を吸うことも充分ではなかったという反省がきざしていたに違いない。それでなければアメリカ軍を占領軍ではなく解放軍だと規定したような日本共産党へ集団入党的に同調するはずはないだろう。この性急派の現状認識がどれほど日共一辺倒であったかを鮮明にしている文章がある。性急派の代表的論客、槇本楠郎の一文である。
<ポツダム宣言を受諾して無条件降伏をせざるを得なかった「日本帝国」は解体されて主権は人民に移され、占領下にポツダム宣言を忠実に履行して民主国家として新しく生まれ変わる義務と責任とを持った。そして戦後五年半になろうとする今、その成果はどのようなものになっているだろうか?いわゆる「与えられた」民主主義――その「民主革命」は、当初あらゆる分野で全人民によって真剣に強力に推し進められたが、その後の国際情勢の不明朗化に伴ない、国内情勢も停頓状態となり、やがて再びかつての戦前に逆もどりしつつあるかのごとき感を与えるに至っている>(一九五一年『文学教育』所載「戦後児童文学運動と新人」)
 これから直ちに判断される事柄は、槇本楠郎たちがポツダム宣言受諾によって日本帝国は解体され主権が人民に移されたなどと信じている様相だろう。にもかかわらず、あらゆる分野とかの民主革命が遂行されなかったのは、国際情勢の不明朗化にともなった国内情勢の停頓ゆえだと槇本は解説する。体制の動向によってどうにでもなるところが民主革命とやらの正体なのだろうが、これに依拠することによって性急派は伸張した。

 日本児童文学の二系列――緩慢派と性急派
 児童文学はふたつの系列に分化した。分化とはいっても、それぞれの体制に従属するわけであるが、この傾向ははなはだしく戦後的といえるであろう。
 たとえば戦前に、芸術的児童文学と呼称される部分があったことを児童文学史家たちは記述しているけれど、それは体制的通俗児童文学(文化)との便宜的な区分でしかなかったのだ。従って対立するものとしては、芸術的児童文学内部でのいわゆるアナ・ボル論争ぐらいが目立ったわけだが、それもまた児童文学独自の対立抗争とは認め難い。政治の分野における対立を直線的に児童文学の内部におろしてみたら、そこにいくばくかの齟齬が派生したという程度のことと考えれば充分である。そこでは、アナキズム派の代表として小川未明が、ボリシェビイキ派の代表としては猪野省三が、というかたちでそれぞれに位置させられているのだが、はたして小川未明をアナキストときめつけてしまえるものだろうか。非ボリシェビイキはすなわちアナキストだときめつけるところに、偏狭な党派主義が確認できる。小川未明は、アナキストなどではなくて、ある時期には社会主義に傾斜したほどには急進的部分を持ったリベラリストだと思う。
 つまり戦前の児童文学の区分は<芸術的>と<通俗的>とのふたつでしかなかった。それが戦後になって、芸術的児童文学の部分が緩慢派と性急派のふたつに分化し、系列化されたのである。そして、緩慢派は体制=文部省に従属し、性急派は反体制=日教組に従属した。ずいぶんと雑ぱくな分類に思われるかもしれないが、事実としてこの程度なのだからやむをえない。これらを、まことに戦後的な現象として把握しておこう。そしてこの時期の作品の比較分析を試みたい。
 小川未明は一九四六年(昭和21)に「兄の声」を雑誌『子供の広場』に発表している。戦時中の翼賛団体「少国民文化協会」の集団転向組織ともいえる「児童文学者協会」の創立と同時に、小川未明が会長に就任した時点である。――児文協の会長就任にあたって小川未明は、協会内部に共産党員の組織をつくらないことという条件をだし、交渉役の関英雄らはそれを諒承したが、その関英雄自身がすでに協会内党員組織の一員であった。つまり政治のために、関は児童文学上の師である未明を裏切って、なんらかえりみるところがなかったのだ。この挿話は筆者がかつて関英雄自身の口から直接きかされたことである。同一団体に属しながらも系列の異なるふたつの流れが存在したことは、この小さな歴史的事象からも窺い知れるではないか。
「兄の声」は、ひとりの少年が戦死した兄を回想するという形式の短篇で、自由と正義と平和を愛する人間であった兄でさえ、戦争のためには特攻隊員となって死ななければならなかったといい、自由と正義と平和にとって、戦争は対立すべきものだと主張しているよう読みとれる作品である。けれど、"ぼく"という主人公の少年に向かい、<「おまえは、真に自由と、正義と、平和のために、生命のかぎりをつくせ!」>とはげますのは特攻の兄の幻の声なのだ。つまり小川未明は戦争を否定しながらも、戦中の全てを否認するのではなくて、継承すべきものは子どもらに伝えるべきだと主張したのだ。これぞまさしく、緩慢派の面目躍如というべきだろう。これに対しての性急派の代表格は川崎大治だった。その作品『新しい魔法の町』(一九四八年)をみてみよう。
『新しい魔法の町』においてはムサシノ子ども会の民主的活動ぶりが描かれ、子ども会に対して批判的だった母親が、いわば思想的にめざめる過程が記されているのだ。民雄のおかあさんは、子ども会だといっては、長屋の子どもたちと、<おおさわぎしているのを見ると、民雄が勉強をそっちのけにしてしまいやしないかと、心配になってきた>そしてその心配は、民雄たちが人形劇の練習に熱中することで、なおさらに深まる。かくて、
<おかあさんは、心配のあまり、昨夜、民雄が寝しずまってから、おおむかしのお話をしくんだ、魔法のお芝居の本を、そっと、読んでみたのです。>するとその人形劇の内容は、母親が知っている昔の原作のままのものとは違って、現代風にアレンジされている。喧嘩や泥棒がたえず、人々がだましあい、ため息ばかりついている不幸な町を幸福な町に改革しようと、
<まず子どもたちがさきになって、この町からなくなった幸福のランプを、見つけ出しにいきます。そして、いろいろ骨をおって、幸福のランプを手に入れだいじな町を、明かるい笑い声と、楽しい歌のあふれたところにするという、あたらしい魔法のお話>なのだ。おかあさんは、
<この本を読んで、この不幸な町というのは、なんとまあ、いまの、敗戦後の日本の、じぶんたちの町とにていることかと思いました。……こういうお芝居なら、民雄のためになるばかりか、自分までがはげまされるかと思うと、お母さんはほんとに嬉しかったのです>
 さらには、戦争前に、この町に子ども会をつくり、指導にあたったという男までがにこやかにあらわれる。なんのことはない、人形劇の台本は、この岡先生なる男が、<子どもたちと私が、共同でつくったのですよ>という仕掛けなのである。川崎大治は書いている。<戦争がはじまってからは、先生の姿は見られなく>なった。<ああ、その間、岡先生は、どこに居られたのでしょうか。はげしい戦時中を、よくもまあ生きぬかれて、いままた、ここにこうして、子どもたちのまえに、姿をあらわしてくださった。このかたがいて下さるなら、もう、なにもかも大丈夫>と。
 これはまぎれもなく、獄中××年万歳の発想であって、戦後政治の思想ではあっても、戦後文学の思想ではない。これまた性急派の面目であろう。いずれにしても、それぞれの体制に忠実だったことに変わりはない。
 ならば緩慢派と性急派とは対立し、抗争しあったかといえば、それはせずに、戦前・戦中そのままの、通俗ものへの対抗意識による連帯感をひきつぐことによって共存共栄をはかったのである。その明らさまな様相をわたしたちは『日本児童文学大系』(三一書房)の年表によって見ることが可能だ。一九四六年の部分に次の事項が記されている。
<★反動的読物復活のきざし――山中峯太郎「三銃士」高垣眸「紅はこべ」の復刊はその先駆>
 児童文学の敵は昔も今も通俗読物であるから、それらには共同でことにあたろうという意識が明瞭である。皮肉なことに、年表の次の行は、
<★文壇に「政治と文学」論争>となっている。つまり『近代文学』グループの提唱によって惹起されたといわれる<政治と文学>論争あるいは<主体性>論争など戦後文学特有の現象は、いわゆるおとなの"文壇"のできごとであって、児童文学には無縁だったという証言がここにあるといえるだろう。にもかかわらず、民主革命などという政治的な動向には敏感に反応同調しているのだ。なにゆえに、これほどまでに児童文学者はぶざまに政治的なのであろうか。
『近代文学』グループの一員で、すこぶる戦後的な怪作『死霊』を書いた埴谷雄高は、『ドストエフスキイ――その生涯と作品』という著書のなかで、<文学者は先人の文学書を読むことによって文学者になるのが鉄則>といっている。これは、どのようなものを文学として読んだか、どのようなものを読んでいくかによって、文学者の質がある程度まで決定づけられるのだという"歴史的教訓"であろう。これにならうならば、あの一九二〇年代のシュールレアリスムをはじめとする芸術・文学運動の洗礼を受けなかった者にとっては、文学的な意味での戦後はありようはずがないということになるだろう。一九二〇年代の文学者たちこそが、一九四〇年代の文学志向者の先人だったのだ。
 前掲の『シュールレアリスム宣言』の序文「刊行によせて」において滝口修造は、このシュールレアリスム宣言を単に文学的な古典にまつりあげるのではなく、これを改めて読むことによって、より今日的な問題提起の契機としなければならない、という意味のことをのべているが、これは文学的常識である。しかし、児童文学者のほとんどにはそれがなかった。(児童文学もまた文学(芸術)であるならば、さまざまな文学や芸術諸ジャンルの動向・思潮との有機的な関連を考えずにはいられないはずだという"常識"が芽生えはじめたのは、一九六〇年代の安保闘争前後のことで、従って真に文学的な意味での戦後児童文学が現出してくるのは、六〇年以後というわけだ。この点については改めて考察しよう。)――とはいっても、いわゆる戦後に書かれ、発表された児童文学がどれほど非文学的で、戦後政治思想の下僕的存在であったとしても、それらからわたしたちが学ぶべきものはなにもないと結論づけてしまうのは間違いである。ストレートに継承すべき事柄が見当たらないのは確かだが、さんたんたる光景ともいえるあの戦後の児童文学からこそ、わたしたちは曲折的に多くのものを学びとらねばならないと考える。失敗からすら、わたしたちは学ばねばならないのだ。わたしたちにとって、成功例ははなはだすくないのだから。
 思想史のようなものならば、区分はかなり明快である。敗戦→朝鮮戦争→血のメーデー→六全協→六〇年安保、という具合に戦後史はわけられる。けれど、児童文学の場合は、つねに遅れているので、思想史的区分は混乱のもととなる。

『ビルマの竪琴』に対する評価の分析
 前章までで、戦後児童文学の一応の区分は完了したと仮定し、それらを前提としながら具体的に、作品をめぐる考察へと問題をすすめることにしよう。
 戦後児童文学初期(体制派=文部省派と、反体制派=日教組派との区分を余儀なくされた時期、すなわち朝鮮戦争開始ころまで)の動向をもっとも象徴的にあらわしているものとしては、竹山道雄の『ビルマの竪琴』がある。念のために繰返しておくが、この場合も、作品のみを考えたのでは問題は一向に解明されないのだ。それぞれの作品の素材だ、主題だ、技法だというかたちの、つまり文芸学的な分析に終始するのではなくて、この『ビルマの竪琴』という作品をめぐっての、児童文学者たちの反応を再確認することが必要なのである。
 周知のとおり竹山道雄は、いわゆる児童文学者ではない。文学者ですらない。竹山道雄はフリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェを信奉する哲学者あるいは思索家といわれている。竹山はニーチェを愛するのあまり、ナチズムに対して激しい憎しみをいだいていた。なぜならば、ナチがニーチェの思想を政治的に悪用したため、ニーチェは全世界的に悪しき思想家、非人間的な哲学者であるかのように印象づけされてしまったからである。
 竹山道雄は日本人としてはまれなほど、ニーチェを理解した人といえるだろう。その点において竹山はすぐれていた。竹山はナチズムを憎悪すると同時に、共産主義をも全体主義と断定し、それへの敵対を志向しているが、このあたりには、竹山の共産主義についての誤解がすくなくない。たとえば共産主義思想と共産主義運動との安易な混同である。
 その竹山道雄が著述した子どものための物語が『ビルマの竪琴』であって、一九四七年(昭和22)三月から翌年二月まで雑誌『赤とんぼ』に連載され、同年十月に単行本となっている。なにゆえに竹山道雄がこの作品を書いたのかという分析については後述するが、これが戦後日本の進むべき道に対する確信にあふれた著作物であったことは明白である。竹山道雄における確信とはなにか。それは、精神文化(人間の心のもち方を基調とする文化と考えられる)が、いかなる物質文化にも先行するという思想にほかならない。これは当然のこと、唯物論とは相容れない。もちろん唯物論を単純に物質文化重視の思想と断定するのは誤りだが、スターリン主義全盛の当時としては竹山ひとりを責めることはできない。(スターリンは、上部構造を決定するのは下部構造だと規定した)
 竹山の作品『ビルマの竪琴』が、次のように主張していることは自明だと思う。
"人間というものは、精神のありよう次第で、戦争をなくすこともできるし、戦争で廃墟になった国土を復興させることも可能なのだ。つねに問題なのは、こころの持ちかたである"
 小川未明も「兄の声」において、精神主義の重要さを主張してはいるのだが、自身が戦中に戦争協力的な言辞を数多く口外あるいは文章化していたために、それが気掛りで、確信的にまではなりえなかった。つまり未明の声は小さかったのだ。しかし竹山道雄は確信をもって『ビルマの竪琴』を書くことができた。竹山の声は大きい。
 当時の日本の情況をふりかえってみると、竹山の主張の確信を納得することが容易である。窮乏の時代であった。人間は物質によって左右されるのだといういいかた、つまり単純唯物論をふりまわされても、物質そのものが乏しいのだから実感できない。従って逆に精神主義の拠りどころは至るところにありえただろう。当時の情況下において、精神文化の優位を説くこと、およびそれを受容する必然性は充分に考えられるのである。であればこそ、『ビルマの竪琴』は、体制側からも反体制側からも高く評価されることとなったのだ。
 評価の色合は一見多様だが、仕訳はかんたんである。文部大臣賞受賞という事象によって体制的評価を代表させることができ、反体制的評価としては菅忠道の『日本の児童文学』に収められている文章が模範文例となる。
<『赤とんぼ』に連載された竹山道雄の『ビルマの竪琴』、戦時中に書かれていた石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』など、これまで児童文学界に属さなかった人によって問題的な長篇が書かれたことが話題にのぼった。『ビルマの竪琴』は、戦争を放棄した日本の少年少女にささげられた美しいヒューマニズムと平和思想に満ちあふれた文学として世評を高めた。だが、作品の基調を流れる思想は一億総ざんげ思想であり、戦争の本質を人間の心の問題にしてしまうユネスコの思想であるという批判の声も高かった>
 これが増補改訂版の『日本の児童文学T 総論』になると次のように改められている。
<ドイツ文学者の竹山が、帰らぬ教え子の魂にささげた鎮魂曲ともいうべき作品だが、ビルマの現地住民への加害の側面は捨象されていた。ストーリーの起伏も巧みで、三部作から成る構成の骨格もしっかりしており、戦後の児童文学の第一級の作品として評価されるようになったのも、当然であろう。だが、後に竹内好が「この作品の底には頽廃がある」と指摘したような、うしろ向きの主題は、作品の発表当時のころから「一億総ザンゲ」思想につながると、進歩派の教育・文化評論で問題になっていた。ところで、このような作品さえ、一時はGHQの検閲で発表をおさえられ、『赤とんぼ』編集長の藤田圭雄の尽力で日の目をみることになったという>
 いずれにしても、引用文の途中の「だが」以後は竹山道雄のその後の思想活動をおもんぱかっての補足でしかない。『ビルマの竪琴』を素直に認めてしまったのでは、反体制派としての沽券にかかわるという態の付け足しなのだが、この批判そのものが、作品に即して考察した場合には、見当違いだといえるのである。(菅忠道は、竹内好の指摘と、いわゆる進歩派の問題意識とを同列的に扱うような操作をしているが、竹内好といわゆる進歩派とが同列であるはずはない。竹内好はすぐれた見識の人なのだ。)『ビルマの竪琴』のなかには、一億総ざんげの思想などといえるものは見当らない。それどころか逆に、懺悔というようなものは、特定の個人にまかせておいて、ほかの人間たちは過去にこだわることなく、先へ、先へと進んでいけばよい、という考えかたが、この作品には満ちあふれているといえよう。それは作品の最後の部分を読みかえせば直ちに判然とする。
<船は毎日ゆっくりすすみました。先へ――。先へ――。そして、われわれははやく日本が見えないかと、朝に、夕に、ゆくての雲のなかをじっと見つめました>
 この終りかたに象徴されるように、竹山道雄は、懺悔は<われわれ>多数には必要ではなくて、それをやりたがっている少数の者に一任しておけばよろしいと主張したのだ。多数は過去にこだわらず、たくましく生き、祖国日本を再建しようではないかと呼びかけている、そういう作品として『ビルマの竪琴』は戦後児童文学の世界に登場したはずなのである。にもかかわらず、それすらも読みとれない単純政治主義によって、戦後児童文学の大勢は支えられていた。そのような情況であった。
『ビルマの竪琴』の一応の主人公・水島上等兵は、選ばれた者である。水島上等兵という名の選良をつくりあげたことによって、凡俗の人びとである兵隊たちは救われ、またそのことによって、選良も精神的安堵をうるという関係が描きだされているのだという程度は、虚心に読めばたれにもわかるはずなのだ。いうまでもなく、これは直ちに現実社会における人間の行動に援用されうる思想である。
 これは、竹山道雄が信奉するニーチェの思想そのものといえるわけだが、すなわち当時の情況に適合させるならば、次のように図式化できる。
"ひとにぎりの戦争犯罪人=贖罪者さえ選びだしてしまえば、あとの多数者はこだわりを捨てて、黙もくと働くことが可能である"
 ニーチェが「神は死せり」と叫んだ人だということはよく知られている。これは、選びぬかれた者ならば、だれもがキリストになりうるのだという主張でもあるだろう。キリスト教の立場からみれば、ニーチェは傲慢の人である。そのニーチェの信奉者として、竹山道雄もまた『ビルマの竪琴』を書きあげたのだと考えれば、問題はいささかも複雑ではない。作品自体にこれらのことを語らせてみよう。
<私はよく思います。――いま新聞や雑誌をよむと、おどろくほかはない。多くの人が他人をののしり責めていばっています。「あいつが悪かったのだ。それでこんなことになったのだ」といってごうまんにえらがって、まるで勝った国のようです。ところが、こういうことをいっている人の多くは、戦争中はその態度があんまり立派ではありませんでした。それが今はそういうことをいって、それで人よりもぜいたくな暮らしなどをしています。ところが、あの古参兵のような人はいつも同じことです。いつも黙々として働いています。その黙々としているのがいけないと、えらがっている人たちがいうのですけれども、そのときどきの自分の利益になることをわめきちらしているよりは、よほど立派です。どんなに世の中が乱脈になったように見えても、このように人目につかないところで黙々と働いている人はいます。こういう人こそ、本当の国民なのではないでしょうか?こういう人の数が多ければ国は興り、それがすくなければ立ち直ることはできないのではないでしょうか?>
 もしも『赤とんぼ』という雑誌の読者が子どもであるならば、竹山道雄はその子どもたちに向かって、声なき民になれと呼びかけたわけである。そのためには、あの人を見、あの人を選良とすれば、それでよろしい。ツァラトゥストラはかく語りき、という仕掛だった。
 しかし、ニーチェ思想の日本的展開は容易なことではない。とくにキリスト教的基盤が稀薄な日本の文化風土を考えれば、なおさらに、ニーチェの反キリスト教思想の普及は至難のことと思われる。かくて竹山道雄はひとつのからくりを用いたのである。

 欠落している子どもの論理
『ビルマの竪琴』において竹山道雄が用いた"からくり"とはなにか。それは他者の身替りになることの美しさの強調であり、その美化のための仏教持込みであった。師・ニーチェが敵としたキリスト教を利用することは憚られるが、仏教ならばどのように利用してもかまわないというかたちの、妙な論理操作を竹山は駆使した。水島上等兵は「隊長殿/戦友諸君」に宛てた手紙のなかで次のようにいっている。
<私は日本には帰りません。そういう決心をいたしました。誓いをたてました。私はごらんになったとおりの姿になって、この国のあちらこちらを、山の中、川のほとりを、巡礼してあるきます。ここに、どうしてもしなくてはならないことがおこりました。これを果さないで去ることは、もうできなくなりました。私はひとりでこの国に残ります。そうして、幾年の後に、いまはじめている仕事がすんだときに、もしそれがゆるされるものなら、日本に帰ろうと思います。あるいは、それもしないかもしれません。おそらく生涯をここに果てるかとも思います。私は僧になったのですから。いまは仏につかえる身になったのですから。すべては教えの命ずるがままです。私はただ、われらよりより高い者の意のままに、それがなせという言葉に従います>
 水島のいう<仕事>とは<この国のいたるところに散らばっている日本人の白骨を始末すること>であって、それは<何者かがきびしくやさしく、このようにせよ――、といって命ずる>からだ。これを水島は<ただ首をたれて、この背くことのできないささやきの声をきくよりほかはありません>と主張する。このあたりの論理はともすると、仏教的であるかのように錯覚しがちだが、実のところは仏教とはなんらの関係のない民族主義的な発想なのだ。
 周知のように仏教はインドで発生した。しかし、<現状についていうと、仏教の発生したインド本土においては仏教の勢力は微々たるものである。仏陀の四大聖地――誕生のルンビニー、成道の地のブッダガヤ、最初に説法したサルナート、入滅の地のクシナガラ――は今世紀になってから回復され、整備されて、外国からの参拝(ないし観光)客を迎える用意ができているとはいうものの、インド人自体の仏教徒はきわめて少ない>(筑摩書房版『日本の仏教』第15巻、渡辺照宏)のであって、つまり、ビルマの各地に散乱する白骨のなかから、あえて日本人のものだけを収集し<なき霊に休安の場所をあたえること>などという行為は仏教とは無縁である。もしも仏教が水島上等兵的な発想に終始するものであるならば、発生の地を離れて広く各地に伝播するはずはなかった。
 けれど妥協の余地はありうる。日本人以外の骨はすでに何者かの手によって収集されてしまったと強引に考えれば、水島の発想もかなり仏教的になってくるではないか。相当に苦しい読み取りかただが、できないこともない。ところがそうすることによって、わたしたちはさらに第二の疑問に遭遇せざるをえなくなる。
 というのは、水島上等兵における仏教への帰依が、ビルマの体験として描かれているにもかかわらず、いささかも小乗仏教的でないからだ。ビルマあたりの仏教が小乗だという事実を竹山道雄ほどの学識が知らぬはずはないのに、あえてそれを無視したのは、そうすることによって獲得すべきなにかを指向したからに違いない。もちろんその"なにか"は、一億総ざんげ思想などという陳腐なものではなかっただろう。
 仏教には大別して、大乗仏教と小乗仏教とがある。簡単にいえば、死後、仏の国に赴くときの乗物の大きさが違うのだ。大きな乗物には多数の死者が乗れるが、小さな乗物には少数しか乗れない。当然のこと、生前、戒律を守り修業をつみ重ねた者だけが仏の国に至るのである。ビルマをはじめとする東南アジアには、慈悲の精神を前面におしたてての在家仏教である大乗仏教出現前の部派仏教が存続しており、それはいわゆる小乗仏教に分類されるものといわれる。だから水島上等兵がビルマの地で仏教に帰依したとなれば、特別の但し書きでもない限りは、小乗仏教の信者になったと考えるのが当然だろう。ゆえに、水島自身が僧籍に身を置きもしたのだろう。
 にもかかわらず、水島は<日本人の白骨を始末する>という。<幾十万の若い同胞が引き出されて兵隊になって、敗けて、逃げて、死んで、その死骸がまだそのままに遺棄されて>いて悲惨だから<それをおさめ葬って、なき霊に休安の場所をあたえる>という。これはまぎれもなく大乗仏教の発想であり論理であって、決して部派仏教のものではない。なのに、あえてそれを強引に持ち込んだ竹山道雄のからくりを看過したのでは<戦後>の検証はままならない。
 いまさらいうまでもないだろうが、日本に伝播されている仏教のほとんどは中国経由の大乗仏教である。すなわち竹山道雄は『ビルマの竪琴』において、ビルマ的なものよりも日本的なものを美化するという思想的な論理操作を遂行したのだ。
 いまや水島上等兵の果たした役割は明白となった。水島は僧形に身をやつしはしても仏教徒として行動したのではなくて、戦争責任に殉ずる者のひとりとなり、その少数者とひきかえに多数が生きのびていくべきだとする日本復興計画を立案し遂行したのである。『ビルマの竪琴』が児童文学の範疇を大きくはずれて国民文学的評価さえ受けるに至ったとき、竹山の目的は成就された。一部の楽天的民主主義者はあの作品の宗教的粉飾に眩惑されて、さながら平和の書ででもあるかのように評価し、昨今の竹山道雄の思想とは相容れないなどと無自覚的にいいたてるけれど、それは違う。
 戦後日本の軌跡をふりかえれば直ちに判然とするように、日本資本主義体制の復興は成り、さらに高度の成長を遂げたのだ。それを支えた戦後思想とは、水島上等兵をひとりビルマの地に残して日本へ引き揚げてきた隊長をはじめとする多くの人びとの生きざま以外ではないだろう。竹山道雄の目的の成就とはそのことをいうのである。戦後日本は竹山の思想に領導されたとさえいえるのではないか。
 戦後児童文学における『ビルマの竪琴』評価の曖昧さは、児童文学(者)の戦争・戦後責任の基本的命題としてわたしたちが好むと好まざるとにかかわらず、批判的に継承しなければならない遺産なのだ。もちろん批判的という限りは、これを児童文学的に(以上の記述が児童文学的でないなどとは思っていないが)調べ直す必要があるだろう。たとえば、児童文学評論家として活躍したことのある高山毅は一九五二年(昭和27)七月発行の『文学教育』第二集に「児童文学賞作品の諸問題」という論文を書いたが、そのなかで、
<『ビルマの竪琴』については、既に幾多の批評が出ているので、一応あずかり、以下そのほかの作品について、私の感想を述べてみたい>といった。この論文は三一書房版『日本児童文学大系』第5巻に原文のまま収録されたが、高山の評論集『危機の児童文学』(昭和33)になると、右の引用部分はなくなり、<先ず『ビルマの竪琴』からはじめよう>となっていて、わたしたちを驚かせる。一九五二年に<既に幾多の批評が出ているので>と素通りした身が、六年後には<先ず『ビルマの竪琴』から>とくるのだ。そして<これは、戦争を放棄した日本の少年少女におくられたヒューマニズムと平和思想にみちあふれた文学作品として注目された>といい、不得要領に梗概を紹介したあと、自己の批評を付け加えている。いわゆる児童文学評論家の知的水準を再認識する意味で引用しておこう。
<水島上等兵の生き方の根底には、同胞愛と人類愛とが脈打っている。そうして彼は、戦争を批判しつつ、その救いを精神的なものに求めようとした。折からの一億総ザンゲ式の考え方と一脈相通じあうようなものが感じられ、一種の限界がないではないが、しかし、浮足立って、その日その日の生活に追われていた世相に、心の反省をうながした清新なヒューマニズムの力作であった点を見おとすわけにはいかない>
 この高山毅のような思想がどれほど愚かしいものであるかは、改めて触れるまでもなく明らかだろう。高山のような人の論理構造の埒内では、同胞愛と人類愛とが共存しあえるらしいのだ。これには竹山道雄も驚嘆するのではなかろうか。かつてナチズムは同胞愛と高唱することによって人類に敵対したし、日本天皇制国家も同胞愛を優先させることによって多くの人類を殺戮したではないか。この高山が、戦後のひとときは、いっぱしの児童文学評論家でありえたのだ。このような人が『ビルマの竪琴』について、
<児童文学としては、最初の方が光っており、終わりに行くほど、次第に理くつッぽくなって、生き生きとした感動から程遠くなっているといわなければならない>などと締め括っても、いささかも信用することはできない。
『ビルマの竪琴』を児童文学的に考察しようとする場合、まず第一に問題にしなければならないのは、子どもの論理の完全な欠落だと思う。これは登場人物のほとんどが、おとなだからということで見過ごされるべき事柄ではなくて、そのような子どもの論理不在の文学世界を設定することによって、竹山が子どもにおとなの論理を読みとらせようと指向した点を問題にしなければならない。
 なぜならば、児童文学者のだれもが『ビルマの竪琴』におけるところの、子どもの論理の不在を追究しなかったことによって、戦後民主主義そのものが、子どもの論理を欠落させたものとなったと考えることすら可能だからである。("子どもの論理"という問題については「児童文学的表現とはなにか」を参照されたい)
 市民階級的児童文学の成立
 石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』(一九五二年、光文社)が<戦後>の日本の社会に提示しえた第一の事柄は、戦前・戦中の児童文学にはついぞ存在しなかった<階級性>をあきらかにしたということである。すなわち、その<階級性>とは、『ノンちゃん雲に乗る』が市民階級の子弟のための、市民階級としての児童文学作品として成立したことを指すのだ。そのようなものならば、それこそ大正デモクラシーという名でよばれた日本的民主主義はなやかなりし時代にも数多くうみだされたのではないか、と思いがちだが、実際には見当らない。このあたりにも日本児童文学の特殊な構造性が垣間見られるわけだろう。
 たとえば、多くの幼年童話を書きあらわした浜田広介はその周辺の人びととの児童文学運動の政治的側面における立場から類推して、かなりの程度、市民階級的な児童文学作品をものしているのではないかと考えられるのだが、それが意外にも皆無なのだ。東北出身の浜田広介は故郷離れ=市民階級化ができぬままに、結局は農本主義的な思想を底流とする童話を量産したにすぎない。仄聞によれば、浜田広介は学生時代からロシア文学に造詣が深かったとのことだが、それさえもかれの東北人としてのナロードニキ的なものへの関心と考えれば納得容易な事象なのである。ついでにいうなら、同じく東北出身の秋田雨雀も所詮は姑息な農本主義者でしかなかった。
 例外的な作品がひとつだけあるように思えるので、それを紹介しておきたい。それはかつてのプロレタリア児童文学のオピニオンリーダー的存在だった槇本楠郎の短篇「母の日」である。「母の日」は一九三七年(昭和12)に発表され、その年度の童話作家協会童話賞を受けている。それだからというのではないが、この作品は槇本楠郎のものとしても、またその時代の水準からいってもずいぶんと良質に思えるのだ。河出書房版『日本児童文学全集』第七巻の解説で、酒井朝彦がこの作品に触れているから要約がわりに引用しておこう。
<「母の日」(一九三七年)は題名によって知られるように、四人の子供たちが、母にたいする感謝と愛情をささげようとして、いろいろ工夫することをテーマとした作品です。若いころ、病気と貧しい生活のなかで苦労しながら、四人の子供を育ててきた両親のうれしい心もよくえがかれています。この作品では、じぶんの母親に感謝するとともに、世界じゅうの「母」の愛に感謝する、大きなこころも表出されていて、愛情を基として、世界平和と人類の幸福をきずこうとする、作者の思想とヒューマニティーがにじんでいるのを見のがしてはなりません。かつて童話作家協会がこの作品に童話賞をおくったことも意義がありました>
 しかし、酒井朝彦のような評価では、この作品のよさは全く伝わらない。この作品の評価でもっとも重要なことは戦前の、軍国主義一辺倒の時代のなかで<母の日>という"アメリカ産"の生活行事を題材にしている点なのである。
<この風習は米国にはじまり、一九〇八年五月第二日曜日に最初の母の日が行われ、一四年には米国議会の決議により、五月第二日曜日が母の日と定められた。日本では大正以来、婦人矯風会が主唱して母の日の行事を行なったが、のち三月六日の地久説(皇后誕生日の旧称)を母の日と改めた。第二次大戦後、ことに四九年ごろから急速に一般化し、婦人団体を中心に各種行事が行われている>(平凡社版『国民百科事典』)
 槇本楠郎は作中人物のひとり、尋常六年生の耕一に語らせている。
<きょうは、五月の第二土曜日で、ほんとうはあすの第二日曜が≪母の日≫です。母の日というのは、ぼくたち子供が、赤ん坊の時から、めんどうを見て育てていただいたおかあさまに、いや世界じゅうのおかあさまがたに、心からお礼をいってお祝いをしてあげる、一年に一日しかないめでたい日です。これは、アメリカからはじめられて、今では世界じゅうにひろまっているのだそうですが、日本では、まだあまりおこなわれていません>
 この西欧的な生活行事を日本の、けっして特異ではない家庭のなかで"お祝い"させた槇本楠郎の文学行為は、当時の時代様相を考えるならば、酒井朝彦がいうように<題名によって知られるよう>なものではありえなかったのだ。今日的にみれば、平易なリアリズムによる日常的生活の描写と片付けられてしまいそうなこの作品も、当時にあっては非日常的ともいえる激しさを内包していたのだと認識しなければならない。あえて政治的にいえば一種の転向文学なのだが、その転向が天皇制讃美の農本主義にまでは至らず、家庭におけるささやかな幸福を描出するという民本主義的なところにとどまっていたことは、日本児童文学の流れのなかでは異色の現象なのだ。もしも槇本楠郎が「母の日」の系列の作品を書き続けたならば、石井桃子に先行するところの<市民階級>的な児童文学者になりえていたのだろうが、そのようにはならなかったし、戦後に至っては、階級性を完全に喪失した楽天的民主主義者のひとりとなり果てたことは既に指摘したとおりである。
 繰返し確認しておこう。戦前・戦中の日本児童文学においては、市民階級の子弟のための作品を書く作家は、槇本楠郎を例外的な萌芽とする以外には見当らず、従って石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』による戦後の登場が、市民階級的児童文学の"出発点"ということになるのだ。
<敗戦>はまぎれもなく、ひとつの<開国>であった。その開国がたとえ自由主義陣営諸国に向かってのみのものだったとしても、とにかくそれまでの鎖国状態を解き放ったのは事実である。明治維新による開国がもたらした近代化も、つまりは西欧化にほかならなかったけれど、それが富国強兵政策の結果としての大東亜共栄圏構想によって中途半端なかたちになったとき、日本人の市民階級化もまた挫折せざるをえなかったのだ。それが敗戦による再開国により、継承発展の機会をえたと考えるのは妥当な観点であろう。つまり、そのような戦後日本の情況に見事に適応したのがファンタジー(空想童話)の『ノンちゃん雲に乗る』だった。
 ファンタジーがその発生以来持ち続けてきた特質的な要素のひとつ、そしてほかのジャンルの児童文学が持ちえていないもの、それは子ども"独自"の空間を作品世界のなかで確保していることである。(このことについては「児童文学における空間の理念」を参照されたい)
 端的にいって、市民意識の発達は、都市空間への適合志向と、その都市空間内における公的あるいは私的時間の過ごしかたへの関心の深化と不可分の関係にある。戦後から現在に至る多くの日本人の住空間の変遷史は――過疎と過密に象徴されるように――改めて指摘するまでもなく都市空間への適合志向の歩みにほかならなかった。さらにいうならば、それは日本資本主義の高度成長の過程に見合うかたちで消長を遂げてきたから、ある人びとにとっては団地族的空間認識となって現象し、またある人びとには高級住宅的な空間認識としてあらわれることになった。おしなべて、人びとは自分なりの時間を過ごすための空間を欲求し、それが充足させられるのは都市空間への適合以外にはないと考えたのである(このことの当否を問うのは目的ではない)。
 近代化がイコール都市化であるという歴史的現象は世界のあちこちで見受けられる。かつてのイギリスの、産業革命以後の近代化はそのもっとも顕著な史的実例であって、その時代様相のなかから児童文学が、ファンタジーという形式でうみだされてきたことをかえりみるならば、戦後日本と『ノンちゃん雲に乗る』との関係はすばやく、前述したように理解されうるはずなのだ。
"ファンタジーにおける子ども独自の空間の確保"という事柄は次のように考えると理解が容易になるだろう。つまり、おとなが近代社会の一員としての自覚を持って日常生活を過ごしていく場合、子どもをいかなる存在として措定するかが問題だ。だいたいにおいて、子どもは、労働をまぬがれる人として認められ、労働の反対概念としては遊びが考えられたので、子ども=遊ぶ人ということになった。『遊びと人間』の著者ロジェ・カイヨワによれば、遊びということばの語源は、子どもの自由を意味しているそうである。ならばなおさらのこと、子ども=遊ぶ人という措定は順当となる。そしてその遊びを文学空間において最大限に許容したのが、日本語訳で空想童話といわれるファンタジーなのだということを、いまひとたび確認しておきたい。
 もちろんファンタジーをうみだすのは、作家の想像力であり、その作品をうけいれるのも読者の想像力のはたらきなのだから、当然のこととして、そこでは両者の現実が問題とならざるをえない。ジャン・ポール・サルトルが『想像力の問題』で主張しているように、想像は現実との対応によってうまれ、知らぬことは想像できないのだから、ファンタジーという名の文学空間で遊ぶためには、現実生活において、それなりの空間が確保されていなければならないのである。
 たとえば、子ども部屋とよばれる住空間すらも持ちえていない子どもにファンタジーを与えたとしても、その文学空間で遊びたわむれることは不可能なのだ。それを可能だといいつのるのは、おとなの身勝手か弁証法の初歩的認識すらも持ちあわせていない無知のゆえかのどちらかか、または両方だろう。かくて問題はさらに明瞭になってきた。戦前・戦中の児童文学が槇本楠郎の「母の日」をほとんど唯一の例外的な市民階級意識の萌芽とするにとどまっていたのは、多くの日本人の現実的住空間、そしてそれに見合うかたちの空間認識と無関係ではなかったのである。

児童文学と戦争の問題
児童文学に限らず、文学一般の動向としての戦後を考え見回すとき、そこにはほぼ必然的に戦争の問題があらわれ出てきているのをたれもが認めざるをえないだろう。つまり戦後とは、敗戦処理的な単純思考をふくめての戦争についての検証の時期でもあったからである。従って自然時間的には戦後をはるか離れた今日の時点において戦後を調べ直そうとする場合には、戦争についての検証というすこぶる戦後的な営為をもあわせてかかえこまざるをえないのであり、それゆえにこそ、戦争についての責任はとりもなおさず戦後に対する責任なのだという吉本隆明らの"戦争・戦後責任"追究の命題はすぐれて示唆的といえるのである。
ましてやこの国のように、戦中にあっては言論表現の自由が全的に抑圧されていたところでは、戦争にかかわる事象の検証はおしなべて戦後にもちこされてこそ可能だったのだということを改めて確認しておくべきだろうと思う。やや短絡的にいい切るならば、戦後の文学は戦争を検証することによって出発したのであって、これは児童文学においても例外ではありえなかった。だがしかし、ここで同時に確認しておかなければならないのは、戦争を検証するということと戦争を文学として描きだすということとは必ずしも同一ではないという問題なのだ。そのことについては可能な限り詳しく述べるようにしよう。
つねにわたしたちの論拠は<児童文学>という限定された、しかも複雑怪奇とまでいえるほどに特殊な分野であって、そこに生起するさまざまの事象は文学一般の概念規定とはくい違うほどに独自の、偏狭な意味内容をもつ曖昧なことばによって表現されることが珍しくないのだ。そしてその一例として「戦後児童文学」なるものがある。
いわゆるおとなの文学においては、戦争文学とはほとんどの場合、作者自らの軍隊生活の体験を素材としており、それらの主調低音は"組織と個人"の問題に集約されている。すなわち軍隊は文学作品のなかではただ単に軍隊であるだけではなくて、組織体の象徴として描出され、その一員である兵士は組織体中の個人あるいは自我として形象化された。このことは文学世界はいかなる意味においても現実世界そのものではありえないという文学の虚構性がもたらす一種の宿命であるだろう。
作者自らの体験をほとんど直接的に描写するおとなの文学(ここでは小説に限っておこう)ですらそのように抽象化されるのである。それゆえにおとなの文学におけるところの、たとえば「戦争文学」なり「戦争小説」なりはあくまでも暫定的または便宜的な分類であって、それにかかわる人びともそのことを充分にわきまえているように思える。だから梅崎春生の『幻化』がいかにすぐれた「戦争小説」であっても、それを戦争反対のための文学として扱うようなことはしていないのだ。
これとは逆に児童文学におけるところの「戦争児童文学」とは組織と個人の問題の集約でもなければ情況と人間の関係の類推でもなくて、もっぱら"子どもに対する平和教育"の教材として用いられる。そこでは文学の虚構性も広義の象徴性もかえりみられることはない。いうまでもなくそれは、子どもの思考能力の独自性であるところの抽象化能力の未発達を考慮しての取り扱いなどではなくて、ただひたすらに文学に対する誤った知識の結果なのである。そういう人たちには小説と戦記との差異すらも定かではないであろう。そのあたりの事柄を明確にいいあらわしている文章があるので参考までに引用しておく。
<もちろん、今後、いかなる小・中学生も、このような夏休みを送ることはあり得ない。だが、少年たちが、なんであれ、困難に直面した時には、勤勉、勇気、思慮、熱心の四つがあれば、必ずそれに打勝つことができるということだ>これは一八二八年にフランスで生れた文学者ジュール・ヴェルヌの少年小説『十五少年漂流記』(波多野完治訳、原題『二個年の休暇』)の結末の一行なのだ。ヴェルヌははっきりと、文学上の出来事と現実の事象との非同一性に言及しているわけで、そのことをわざわざヴェルヌが書かねばならぬほどに一八〇〇年代の昔から、文学の虚構性に思い及ばぬ人たちが多くいたという証左でもあるだろう。
改めて文学について考えよう。文学とくに小説は人間をぬきにしては成立しない。詩歌ならばたとえば次のような風景描写であっても作品として成立する。
<起伏の雪は
 あかるい桃の漿をそそがれ
 青ぞらにとけのこる月は
 やさしく天に咽喉を鳴らし
 もいちど散乱のひかりを呑む
  (波羅僧羯諦 菩提 薩婆詞)>
これは宮沢賢治の「有明」という題の詩篇なのだが、この場合、人間=作者は描写の背後に存在し作品中には登場していない。だが小説はこうした風景描写に終始するかたちではまずは絶対的に成り立たないものなのである。このことは小説という文学形式の成立事情を歴史的に考察すれば直ちに判然とする事柄であって、それは神を絶対化していた中世を経て、近代の人間中心主義の勃興とともに生れ出たものとしての必然的な性質なのだ。
さて問題は<戦争>である。戦争とは何かを人間存在を中心にして考えるならば、それは人間を人間でなくするもの、つまり非人間的情況の集約体としてとらえる以外はないであろう。ここで戦後の、戦争を検証せざるをえない文学にとっての矛盾がはじまる。文学(ここでは小説)は人間を描くことによって成立するものであるにもかかわらず、戦争は人間を非人間な存在、いわば物質化してしまう。ならば戦争そのものを描きだすということは文学ではついに不可能ではないのか。物質化した人間もまた人間の一形態だなどというのは屁理屈あるいは論理の遊びでしかない。プロシアの将軍カルル・フォン・クラウゼヴィツは『戦争論』において戦争の性質を規定して次のごとく述べている。
<ところで、博愛家は次のように考えるかも知れない。敵に必要以上の損害を与えなくても、巧妙にこれを武装解除させたり、屈服させることができる、これこそ用兵の奥義である、と。この説は一見いかにももっともらしく見えるが、それはやはり誤りであって、われわれはこの誤りを粉砕しなければならぬ。というのは、戦争は実に危険な事業であって、このような危険な事業にあっては、お人好しから生まれる誤謬ほど恐るべきものはないからである。物理的暴力の行使にあたり、そこに理性が参加するのは当然であるが、そのさい、一方は、まったく無慈悲に、流血にたじろぐことなく、この暴力を用いるとし、他方には、このような断乎さが欠けているとすれば、かならず前者が後者を圧倒するであろう。そうすると、後者もまた前者に劣らぬ暴力を用いないわけにはゆかず、こうして双方が極限まで暴力を行使するようになり、両者間の力の均衡以外には、これを制限するものは、なにもない。/これが事態の真相である。戦争の粗暴さをいとうあまり、その本質に目をそむけようとするのは、無益な努力であるだけでなく、道理に合わぬ努力でさえある>(第一篇「戦争の性質について」淡徳三郎訳、徳間書店刊)
 クラウゼヴィツが博愛主義の名で形容しているのは、人間が人間であろうとする心情であって、それは軍隊という組織と個人との関係に考えを及ぼそうとする努力にほかならないことはたれの目にも明らかだろう。いうなれば、戦争は文学的であってはならぬとクラウゼヴィツは強調しているのだ。文章は続いている。
<文明国家の戦争と未開国の戦争とを比べてみると、その残虐性と破壊性において、前者の方がはるかに後者にまさっているが、これは、交戦国家の社会状態や国家相互間の関係に由来するものである。戦争は、こうした社会的状態や国家間の関係から発生するものであり、それが戦争を条件づけ、制限し、緩和したりする。とはいうものの、こうした事がらは、戦争そのものの属性ではない。それは、戦争にとっては外部的なものであるにすぎない。戦争哲学のなかに博愛主義をもちこもうなどとするのは、まったく馬鹿げたことである>
 クラウゼヴィツの『戦争論』は第二次大戦時はもちろんのこと、いまもなお軍人たちのあいだで読みつがれている古典である。それをいいかえるならば、戦争と文学とは互いに相いれることのない関係にあるわけであってその融和を構想したりするのは<まったく馬鹿げたことである>のだ。戦争に反対する・しないはさほど問題ではない。いずれにしても戦争を文学化できると思いこんでいることが馬鹿げたことなのだと知るべきである。
 しかしそれでも戦争を描いた文学はあるといい続ける人のためには、野間宏の『真空地帯』をはじめ、長谷川四郎、小林勝、富士正晴らの作品、さらには文学的な質には多くの問題をもつけれど五味川純平の『人間の条件』などを考えつくままに思いだしてもらうことにしよう。それらはおしなべてクラウゼヴィツが『戦争論』で定義するところの戦争を描きだしているのではなくて、軍隊という組織の中の人間を文学として形象化しただけなのだ。だからこそ、それらの作品は戦時下ではない情況においても、それこそ戦争体験をもたない人たちにも読まれてゆく。『真空地帯』の背景は日本帝国軍隊の内務班教育であるけれど、それを読む者にとっては自らが思考的体験によって知りえている組織の問題となる。
 これが文学的具体物を読者が抽象化することによって思考的体験とする一般的過程であって、それを熟知しながらの創作でなければ、いわゆる戦争文学に存在理由はありえない。それを多くの児童文学者はまるで意識していないように思える。

 『鉄の町の少年』とリアリズム
 戦後児童文学の出発点と呼ぶにふさわしいのは、たれの、なんという作品だろうか。この選択は、戦後児童文学を調べる個個人の恣意な判断にまかせても一向にかまわないと思うのだが、国分一太郎が一九五四年(昭和29)に新潮社から刊行した長篇『鉄の町の少年』は、わたしたちが戦後児童文学について考究する場合は、まずは欠かすことのできない作品であるだろう。
 やや唐突の感を与えるのもかまわずにいってしまえば、この『鉄の町の少年』を読み直し、当時の児童文学情況を調べ直すことによってわたしたちは、長期にわたって、この国の児童文学を支配してきた<リアリズム>という名の方法についての認識を転換させられるのである。そしてそのことは、戦前のプロレタリア児童文学から集団主義童話、さらなる転向形態としての生活童話における方法論の検証につながるばかりでなく、ネオ・ロマンチシズムを文学的出発の旗印とした小川未明までがリアリズムへと転身した少国民文学を貫通し、戦後民主主義児童文学としての社会主義リアリズムの問題へとひきつがれるべき課題なのだ。
<リアリズム>とはなにか。参考までに、リアリズムについての最小限度の概念をこの場で共有するために、ふたつの文章を引用しておく。あくまでも最小の概念規定である。
<@ 現実主義。A?写実主義。?マルクス主義の芸術論において、客観的現実の本質を真実に反映する芸術方法。→批判的リアリズム・社会主義的リアリズム>(新村出編『広辞苑』第二版)
<要するに小説は――スタンダールとドストエフスキーの場合をのぞいて――情緒小説の指示した道をつきすすんで、心象と感情の生活にたいする、そんな堕落した好奇心に身をまかせるまでにはやはりたっぷり百年待たねばならなかった。すなわち、小説をドキュメントや社会学的研究に変え、絵画的な描写、社会分析、資料収集、事実報道(ルポルタージュ)などの技術を小説に教えた、生真面目さの精神の誘惑である。情緒から出発して、人間の心の深みを探検するようにうながす衝動は、過度に文明化された社会、敏感でしかも浮薄な社会のなかから生れたものであるが、この衝動はながい間、あてどもなくただ、波のまにまに漂っているだけだった。その間、新らしいブルジョワ社会は、小説に情報を提供してくれること、資料を集めてくれることを要求するにいたった。そこにリアリズムが誕生したのである。>(R・Mアルベレス『現代小説の歴史』新庄嘉章・平岡篤頼訳、新潮社刊)
 そして次に国分一太郎の「あとがき」を引用すれば、リアリズムへの理解はより深まるはずだ。そうなることが、その人の文学体験を豊かにするわけではないけれど、戦後児童文学考察の一要素であることは確かなのだ。
<この小説には、日本が太平洋戦争に負けた年(一九四五年=昭和二十年)の九月末から、十二月中ごろまでのことをかきました。働くひとが八十人ぐらいな工場のなかで起った、小さな物語になっています。戦争のため農村から出て来ていて、戦後、生まれてはじめて労働組合というものを知り、それに加った少年工たちの物語です。><わたしは、この小説を、どこでもよい、将来工場や会社で、労働者として働くことになる、男女の中学生たちに読んでもらいたいのです。なかでも、いなかの町や村の百姓の家に生まれ、将来都会に出て、いつも生まれた故郷を思いおこしながら、日本の国をたてなおす労働者として働かなければならない小さい人びとに、ぜひ読んでもらいたいものです>
 さらにこのあと国分一太郎は、小説にかかれている時代と、作品発表の時代との差異を書きならべ、その点に注意してほしいという。すなわち国分一太郎は、日本共産党の"現状分析"をそのまま「あとがき」に持ちこんだのである。敗戦直後には解放軍であったアメリカ軍が、実は占領軍だったといい、いまやアメリカ帝国主義の従属下で、労働組合運動も民主主義も危機に瀕しているといった分析なのだ。
 この段階では深読みをしないでほしい。国分一太郎は『鉄の町の少年』という作品において、労働組合運動の行きづまりや民主主義の低迷を描き出そうとしたのではないのだ。国分は、現状がそういう"たいへんな苦労"の時代だから、その"客観的現実の本質を真実に反映する"のではなくて、
<(1)日本を民主主義の国にするのに、労働組合が、うんと大切なものだとしていた年代、(2)だれしもが、日本はグングン新しくなり、よくなり、わけても働く人たちが幸福になっていく国になるんだ――と信じていた年代、(3)日本の国民みんなが、ほんとうに民主主義のために努力しさえすれば、われわれの祖国は、やがて、ひとりだちのできる国になり、平和な世界にも仲間いりができるんだと信じていた年代――だった>ころのことを書いたのである。しかも、用意(いいわけ)は周到だ。
「あとがき」は続いている。
<みなさんがたのなかには、「あなたは、いまの工場や会社に働いている少年労働者たちのことを、なぜ書かないのか?」こう、わたくしにたずねたい人もあることでしょう。/それも、わたくしは書きたいのです。しかし、それには、まだ勉強がたりません。もっともっと勉強してから書くつもりです>
 勉強(!)しなければ書けないというこの児童文学者に"いま"が訪れることは遂にありえないだろう。にもかかわらず、この作品は戦後児童文学の、とくにリアリズム児童文学の到達点のごとく評価された。そしてその評価の底流にあるのは、竹山道雄の『ビルマの竪琴』を、<美しいヒューマニズムと平和思想にみちあふれた文学>とほめたたえたのと同じ、ものごとの暗い面は見たくないし、子どもたちにも見せたくないという身勝手な、やはり結局は童心主義の思想なのである。――私事めくが、国分一太郎は、わたしたち児童文学志向者が一九六〇年反安保闘争にかかわるなかで、ポーランド映画の方法に触発されたりしながら、シュールレアリスムその他、第一次大戦後の芸術・文学運動の方法に学ぼうとする態度にたいしてすこぶる批判的で<児童文学に前衛文学の方法は不向きである>と語り、かつ書いた。わたしがこの「戦後児童文学を調べ直す」の冒頭において、アンドレ・ブルトンの「シュールレアリスム第一宣言」を引用したりしながら、それらへの関心の欠如を指摘したのも、実はそうした国分発言を念頭にしてのことだったのだ。
 曲解もされるだろうが、あえていい切ってしまおう。国分一太郎の『鉄の町の少年』は、この国の多くの人びとに共通する子どもについての考え方・態度であるところの、童心主義と社会主義リアリズムとの混淆によって生まれた珍種なのである。いうまでもなく珍種というのは、一般の文学の方法に比較しての比喩であって、児童文学に限っていうならもっともありふれた亜種でしかない。便宜上これを"童心主義リアリズム"とでも呼んでおこうか。
 勉強がたりないから"いま"を書けないといった国分のことばの論理をたどれば、この作品は、勉強がたりた"すこし昔"のものがたりである(国分一太郎には『すこし昔のはなし』という作品集がある)。その勉強と童心主義リアリズムが結合するとどのような現象が起きるか。そこでは人間の物質化がおこなわれた。とはいっても唯物論的にではなく観念的に(メルヘンのように)である。
 たとえば日記を書くということが特技の少年が出てくる。この少年は日記を毎日休みなく書くという役割でしか活躍の場を与えられていない。だから、メルヘンでいえば口をきく筆記用具なのだ。
 鼻が非常によく効くという少年が登場する。この少年は嗅覚が鋭いということだけで役割を果たし、あとは組合の一員だという存在でしかない。ゴーゴリの短篇のように鼻だけで充分に役割を果たしうる設定である。それは人間性を無視した非人間的な操作だなどとはいわないけれど、リアリズムという方法論からはほど遠いやりかたであることは明らかだろう。観念的とは、こういうことをいうのである。
 なぜ、口にリアリズムを唱えながら(国分一太郎は生活綴方運動にかかわって以来、リアリズム一本槍の人である)、メルヘンの方法を持ちこんだりするのか。それは例の"雪どけ"や"平和共存"の季節の詭弁のひとつ「社会主義リアリズムは方法論ではなく世界観である」というようなことにも関係するのかもしれないが、実際は国分一太郎の、労働組合絶対評価にかかわってくる事象なのだと思う。
 さきの「あとがき」の引用からも判然としているように、国分一太郎の、ヨイ国の定式は、労働組合イコール民主主義でしかない。そして作品中でも組合に加入しないような労働者は資本家の味方であり、民主主義の敵であるという論旨が展開されている。そこでは労働組合もまた組織の一形態であり、それゆえに個人とのあいだに多かれ少なかれの違いはあっても利害の対立を含む矛盾があるという問題はいささかも描かれていない。つまり国分一太郎は、戦後文学の意識的な担い手であった「近代文学」派の問題提起「政治と人間」論には、一瞥の関心すら持ちあわせてはいなかったわけだろう。もちろん「近代文学」派の「政治と人間」論は、戦後文学だけではなく、戦後思想ぜんたいにかかわる問題提起であったはずだから、それにたいする無関心は、戦後の思想情況そのものについての無関心にほかならず、まさに"勉強がたりない"どころのはなしではないのだ。
 組織至上の思想によれば、もはや個人は人間であるよりも、構成分子であることを強制される。もちろん組織が、人間を疎外しようとする外圧=権力をハネ返す役割を果たすであろうことは否定できない。しかしその役割は同時に構成員個個の人間疎外に通じているのだということを認識しないならば、権力の交代だけを意味してしまう。社会主義という名の権力機構はまぎれもなくそれであり、それの肯定は政治優先の思想だろう。国分一太郎が"前衛文学"の方法に批判的だったのも当然である。

 児童文学にみる政治性と無国籍童話の評価
 国分一太郎の『鉄の町の少年』における労働組合にたいする絶対的肯定は、反資本家的ではあっても反権力的ではないという組織至上の思想によって成り立っていることは明白である。わたしはさきに、いわゆるおとなの小説の戦争を描いた作品群は"軍隊という組織のなかの人間を文学として形象化した"ものだといい、"これが文学的具体物を読者が抽象化することによって思考的体験とする一般的課程"なのだが"それを多くの児童文学者はまるで意識していない"と断定した。残念ながら国分一太郎もまた、そうした多くの児童文学者のなかのひとりとしかいいようがない。
 国分一太郎の戦後民主主義とやらの情況下における労働組合肯定と、戦時下の軍隊あるいは翼賛組織肯定の論理とのあいだにどれほどの差異があるのだろうか。両者にまぎれもなく共通しているのは『小説の現在』(中央公論社刊)の著者菅野昭正のことばをかりれば、
<環境と個とのあいだにたえず形成される劇的な関係>に対する無関心または盲である。
 菅野昭正は大岡昇平の戦記文学『レイテ戦記』その他に即しながら、その論文「環境と個の劇」を書き、次のことばで大岡昇平を評価している。
<環境と個との緊張関係を軸とする文学的空間を開削するのは、近代小説がひらいてきた大道のひとつである。個人の生の充足をはばむ障害として、大きく立ちはだかる環境の圧力に挑みかかる人物たち、あるいはその圧力のもとで滅びる人物たちが、近代小説の歴史を飾っていることをわれわれは知っている。小説においても、記録作品においても、大岡氏はその遺産の富を確実に受けつぎながら、大岡氏でなければつくりあげることのできない新しい結晶を磨きあげてきたのである>
 そして大岡昇平が<環境と個との緊張関係にこれほど固執するのは、いうまでもなく、そういう文学的な遺産の富を安穏に消費するためではなく、人間がその緊張関係の支配のもとで生きなければならないことを、大岡氏自身が痛切に感じとっているからであろう>という。それがないからこそ児童文学者は軍隊という環境を素材にしても、庄野英二の『星の牧場』のように、個=兵士は容易に環境を離れて夢幻境をさまようことができてしまう。それとも国分一太郎のように組織至上の構成分子に成りさがるかであって、いずれにしろそこには緊張も劇的な関係も見当らない。いうまでもなく"近代小説がひらいてきた大道"からは遠くはずれ隔たっているのだ。
 とはいっても『鉄の町の少年』も一篇の文学作品であるからには、組織至上の思想がみなぎっているという理由だけで、そのすべてを否定してしまうことも肯定してしまうわけにもいかない。そのような政治主義的な評価は、国分一太郎がいまだに連帯を感じ続けているらしい日本児童文学者協会所属の日共党員および同調者たちにまかせておけばよいのであって、わたしたちは作者の政治主義が被覆しえなかった部分の文学性をこそ評価しなければならないと思う。まさに政治主義という環境と、文学性という個との劇的な関係にこそ目を注ぐべきなのである。
『鉄の町の少年』の第十三章は「思ったことはいわなければならない」であり、この章だけは登場人物の戦中体験として、エピソード的な独立した設定を与えられている。従ってこれは長篇作法上の構成からすれば一種の破綻部分といえるだろうが、皮肉なことにそれが救いとなってこの部分だけが文学的に光るのだ。西欧の諺に曰く、愛する神は細部に宿り給う。
――昭和尾十七年の秋。母と少年のふたり連れがクマザサの茂る山道を歩いていた。山形県境から仙台に通じる国道を横にはいった曲折の多い山道は、奥羽山脈のなかの定義温泉にかよう道である。この定義温泉は<むかしから、気ちがいになった人や、脳病、神経すいじゃくなどのひとが、ながい間はいっていると、たいへんききめがあるといわれている>。だが母と少年がここにきた目的は、近くにまつられている"定義様まいり"であった。定義様は徴兵のがれに霊験あらたかなことで、ひそかに信者を集めている神様であり、母は少年の兄たちが召集をまぬがれるよう祈願にきたのだ。このことは少年の心を複雑にゆさぶる。少年は戦中の大部分の子どもがそうであったように、戦争に協力することこそが国民のつとめだと信じこんでいたからである。
 同宿者のなかには精神障害をよそおって自己の指をオノで切断した若い男もいた。そして戦争を呪うことばをわめき続ける女も……。
 これらを単純に反戦思想だの抵抗の意識だのということはできないけれど、戦争という環境のなかにありながらも、なんとか人間であり続けようとする個のうめきであることは鮮明に伝わってくる。このような部分を構築する力量を持つ作家が、なにゆえに安易な、硬直した、教条的な政治主義で全体を被覆しようとつとめるのか。その辺りにこそこの国の児童文学の特殊性ともいえる政治と人間の複雑な関係が仄見えるわけで、そうした関係の凝視を回避する限り戦後児童文学を検証することは到底不可能であろう。
 この国の児童文学における"政治"の部分を代表する評論家のひとりに菅忠道がおり、この人の発言が戦後児童文学の動向を大きく左右してきたことは否定できない。早い話が菅忠道のことばは党中央の声であった。その菅忠道の著作中に次の文章があり、ここからもわたしたちは、リアリズムを至高の方法とする児童文学官僚の意向を察知することが容易である。
<この時期の児童文学の達成としては、社会諷刺性の濃いメルヘンや新イソップの創造、社会的矛盾のえぐりだしに深い現実性を示した生活童話・少年小説の創造をあげることができる。奈街三郎「ふしぎの国」、平塚武二「ウィザート博士」「ねずみの王さま」「太陽よりも月よりも」、筒井敬介「コルプス先生汽車にのる」「チョコレート町一番地」、小林純一「カッパの国」、関英雄「キツネのチョコレート」「銅像になった犬」などは、諷刺的な社会批判の強い作品として記憶に残る。これらの作品の多くに、仮空の国の物語という共通の作風があったので、無国籍童話などとも呼ばれ、こうした傾向が問題になった。仮空性を直ちに無国籍とする評価は当たらないことだし、作品に反映されていたのは、やはり日本の現実的な問題にほかならなかったが、その反映のしかたが観念的であったわけである。諷刺や象徴についても、民主革命下の日本の現実、ことに子どもたちの生活の現実をリアルにとらえるところから出発しないで、主観的な観念の形象化に技巧をこらすということが多かった。こうした作風はモダニズムと無縁ではなく、やがて民主革命の進行をはばむ反動攻勢の強まる情勢のなかで、主題に積極性が失われてゆき」、内容のナンセンス、ニヒルを芸術的技巧でいろどったメルヘンにうつりかわっていった>(『日本の児童文学』)
 このあと菅忠道は、児童文学におけるリアリズムの前進を示したものとして、戦前のプロレタリア児童文学運動にたずさわり、戦中には生活童話を提唱し、戦後は児文協に結集した"忠実な"作家たちとその作品名を列記する。そして高らかに宣告したのだ。
<プロレタリア児童文学の伝統は、生活主義童話を経て、平板な生活童話のなかに埋没してしまっていたが、ここに、このような形で復活された>
 いずれにしても菅忠道が名をあげた作家たちは一度は日共に籍を置くかその周辺にいたのであって、その後、党を離れた人にだけ、モダニズム、ナンセンス、ニヒルというような、かれらにとっての否定的形容が冠せられる仕組みなのである。その固陋な党派性はもちろん批判の対象にすべきだが、それよりもいまここで、わたしたちが考察の対象としなければならないのは、日共の評価のワク組みからはずされてしまったもの、なかでも"無国籍童話"と呼ばれた作品群ではなかろうかと思うのだ。無国籍童話を書いた作家は菅忠道が名をあげたほかに、佐藤義美、太田博也、片山昌造などがいる。
 なにゆえにわたしは無国籍童話を考察の対象にしなければならないと思うのか。その理由は、それらが日共から否定的に扱われたからというような裏がえしの政治主義的判断に基くことでないのは当然だ。菅忠道とはやや異なるニュアンスなのだがやはり無国籍童話に否定的な船木枳郎の文章を引用してみよう。
<『少年記者プエル君』のプエル君は戦災孤児であったが、コンミニストをおもわすような名前の、コオミスという進歩的な青年に救けられ、倉庫番になったり、民衆のために戦う新聞社の少年記者となる。それから社会探訪を始めて、資本家どもの陰謀をさぐって、新聞にバクロするというような社会悪と戦う新聞記者の正義観を扱った冒険もの>(『現代児童文学史』新潮社刊)
 このわずかな引用文からだけでも、登場人物のネーミングなどからして、実は無国籍童話がプロレタリア児童文学の伝統には忠実ではなかったにしても、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」「オッペルと象」「ポランの広場」など一連の、エスペラント語を多用したいわゆる"イーハトーヴォもの"に連繋していることは疑いえないだろう。事実、無国籍童話を書き、その後、党を離れた作家たちのほとんどは、政治的であるよりは文学的であろうとつとめ、民族主義的であるよりは、ボヘミアン的であろうとした。その作家としての姿勢は坂口安吾・太宰治・織田作之助らに代表される無頼派に近かったのかもしれない。児童文学者であるゆえにどこか中途半端に終始したのはやむをえないことなのだろうが、とにもかくにも、戦後文学の思潮とは無縁でなかったというだけでも、信頼の余地をのこしているように思えてならないのだ。