『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房 1965)

原体験・好悪の感情


夏の海の体験
 斗美という名は、俗に斗という字をたたかうという場合のアテ字に使っているのならって、たたかうことは美しいという意味をこめてつけられた。だがそうした意味に対して全てのひとが好感を示すとは限らないので父母は漢和辞典を引いてもう一つの意味を考えたりもした。
 斗にはすぐれたるという意味があり、たとえば北斗七星とは北ですぐれたる七つの星ということなのである。斗美は一九五九年二月十一日の生まれである。それから十三ヵ月後に妹が生まれた。今度は父親が、とかく走りすぎる自己への反省をこめて、あゆみと名付けられた。以後一九六三年秋の今日まで、小さい兄妹は格別重い病気にかかることもなく、ほぼ順調に成長してきたといえるだろう。しかし命名に際して父母が抱いたわが子への期待は、着々と実現されつつあるというわけにはいかず、賭事的にいえば、逆の目が出ることもしばしばというのが現状なのである。
 一九六三年十月のある日、よく晴れた空の下でのことだ。
 縁側で父親が呼んだ。「きてみろ、すごく空がきれいだぞ」
 ふたりは外に出て空をふり仰いだ。青空を背景として 巻積雲が見事にひろがっているという感じの空であった。「海みたいに、きれい」と妹がいうと、
「青いのが海で、雲が波みたいだからね」と兄が和したがそれは必ずしも美しいとか、きれいとかいう言葉あるいは感情につながらない響きをもっていた。
「・・・だけど、海って、こわいときもあるんだぜ」とつぶやくようにいう。妹は無邪気に、「でも、きれいじゃない」といいきる。この場合の「ない」は否定ではなく積極的肯定である。
 妹が空をあくまでも海に似ているから美しいといったのには、やはりそれなりの意味があった。今年の夏、兄妹は父母に連れられて三浦半島へ海水浴に行ったのである。生まれて始めての海。それまで抱いていた憧れにおそれが加わった。昨年の夏連れて行ってもらった池袋のマンモスプールよりもなお広く、そしてもちろん水温も低い。足の下の砂は波にずるずると崩れたりもする。何事につけても慎重派の兄の心中には不安がひろがったらしい。内心の不安はどうしても体の動きを固くする。浮き輪にのって浮遊中、ちょっとしたはずみで、兄は海に落ち、塩からい海水をしたたか飲んだ。これに比べて妹は至極快適に海のよさを満喫した。少しもおどおどしないので、小魚や貝殻類を拾っても兄よりはどうしてもよいのが手に入る。海辺における兄と妹の差はますますひらくばかりであった。それに加えて海の家もこれまた生まれて始めての二階家で、両者仲よく一回ずつ階段から落ちたのだが妹のほうはいささかも痛みを感じなくてすみ、兄は経度ではあったが涙がこぼれるほどの痛みを経験しなければならなかったのである。
 同じ海に行きながら、かくも異なった体験の差が、青空と巻積雲という類似を目の前にしてよみがえってくるのはごく当然のことなのであろう。その後も青空に巻積雲という状景を見れば、兄妹はやはり海のようだ波のようだといい合うのだが、兄もこのごろはそれも美しいといっている。しかしこの青空を美しいとおもう認識に於ける両者の差はいぜんとしていちじるしいはずだ。
 兄のほうが青空と巻積雲を美しいと思うまでには、あの夏の三浦半島の海辺での苦しみの体験を想起し、それを克服しなければならなかったのであり、これに比べて妹はストレートな思い出だけに頼ればよかったのである。
 もしもこれを性急にいうならば、美意識の差はそれぞれの体験の差に準ずるということになり、それぞれの原体験が美意識という名の追体験を決定するといういいかたも可能であるだろう。だがここで忘れてはならないことは、その原体験および追体験が知識として存在するものではないということである。


海から動物の国へ
 ある子どもがいる。たとえば二歳のときに丸を描かせたら、それは完全な丸ではなかった。四歳あるいは五歳になってほぼ完全な丸が描けた。親はそれを賞め子どももまた満足する。だがここからは美意識は生まれない。なぜならば、完全な丸と不完全な丸とのあいだには美の相違は存在せず、そこには知識あるいは知識の発達のみが見られるからである。もしも丸がほぼ完全に描かれたことを指して絵が上手になったという親あるいは教師がいたら、その非常識は強く責められなければならないだろう。これを素早く理解するには「階段」ということを考えればよい。
 知識は目的を求めて段階的に発達する。完全な丸というのは目的であり、不完全な丸はその目的への過渡的段階である。ここには明確なるプロセスが存在する。しかしこれに対して美意識における原体験と追体験の関係は決して段階的に進むものではないのだ。美意識は目的ではないからである。更にいうならば原体験と追体験のあいだには、新旧の関係さえないのであって、あえて体験の上に「原」の一字を付するのは、追体験が行われる場合においてのみ原体験が存在すると認められるからにほかならない。
 斗美とあゆみという小さな兄妹に即して考みるならば、斗美には原体験が存在し、あゆみには体験のみが存在したのである。体験あるいは原体験を、このように用いるのは従来の慣例には反するかも知れない。しかしここで峻別しておかなければ、単なる体験と原体験は区別されることもないままに、むしろ知的側面の発達段階の一要素であるところの経験とさえ混同されてしまうだろう。
 青い空と巻積雲を見たとき、妹は夏の海を思い出すだけで美しいと感じることが可能であった。ところが兄にとっては夏の海を思い出しただけではとうていそれを美しいと感じることはできなかったのである。
 兄は曲折をくりかえしたのち、海と空とを区別してしまった。数日後の、秋には珍しい積雲が風に散る日、兄は空を動物の国に見立てることに成功した。
 ぞう、きりん、さい、らいおん等、形を変えながら流れる雲を彼はつぎつぎに動物に見立て、青い空を大草原とよんだ。この作業には妹も参加したけれど、彼女はしまいに綿あめが食べたいなどと平凡なことをいいだすのだった。
 空を動物の国に見立てるなどは、子どもとして決して特異な発想ではないだろう。だが彼はこれによって、自己の体験から脱出すること、乃至は体験を変化させ得ることを認識したのである。ともすれば、あの苦々しい夏の海に見えてくる空を動物の国に変化させるために要した彼の努力は生易しいことではなかったはずだ。たとえそれがテレビ映画「サハリ」あたりから得たイメージへの仮託だったにせよそこにはかなりの努力があったと考えるべきである。
 ここでぼくは、童話作家小川未明が書きのこした一つの言葉を連想する。
「私は、少年時代を雪の降る北国で過しました。常に山の彼方の明るい空にあこがれ、町や村落の新しい生活を夢想し、飢寒も、矛盾も、また孤独も忘れて、未知の友愛と思慕の情に耽けるのでした。やがて、それは心のふるさととなったのです。」(河出書房「日本児童文学全集」第二巻「作者の言葉」より)
 小川未明にとっても、空を見ることは暗い体験を思い起すことであったようだ。もしもそこに明るい空が展開されていたとしても、未明は北国の暗い空を忘れることができなかった。未明にとって、明るいということは、あくまでも、北国の空の暗さに比較しての認識であった。この未明の美意識と、空を海に似たものから動物の国へと変化させ、そこに美を感じた四歳児の認識とは、共通する面が実に多いとおもうのである。未明はこれを原体験とはいわず、「ふるさとの記憶」というような抒情的な言葉で表現してはいるが、それらの記憶が自分の作品を支えるモチーフとなっていることは全面的に認めざるを得なかったであろう。
 試みに小川未明のいくつかの童話作品を思い出してみるならば、ただちに読者は、暗くごうごうとなる海というような表現に出会うことだろう。もちろんこれとは対照的に平和な状景描写もあるわけだが、そした相関関係は、暗い空あるいは海というものが、あくまでも明るい空という追体験を媒体として生まれた原体験であると考えることによって容易に理解されるはずである。
 ところがそこによみがえってきた体験、つまり原体験をただ単に「ふるさとの記憶」程度にしか意識しなかった未明の過ちは、記憶との対比において生まれる想像力を、永遠の童心などという一般化現象を招きさえしたのだ。しかもこれが模倣者たちによって流布されるに及んで原体験は完全に捨象され、明るい空に憧れることのみが童心だと考えられるようにさえなった。このことは夏の海を想起して青空を美しいとはおもえなかったときよりも、雲を動物に見立てて喜んでいるほうが子どもらしいと思ってしまう親ごころと同化し、また俗化しやすいわけで、子どもがそれを知ってますます子どもらしくなっていけば、もはや原体験は消滅しなければならないのである。経験はあくまでも存在するが、原体験は消滅することもあり、あるいははじめから存在しないこともあるということを知らなければならないだろう。


原体験の海
  人魚は南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。
  北方の海の色は、青うございました。ある時、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色を眺めながら休んでいました。
  雲間から洩れた月の光がさびしく、波の上を照していました。どちらを見ても限りない物凄い波がうねうねと動いているのであります。
  なんという淋しい景色だろうと人魚は思いました。

 右に引用したのは小川未明の代表作「赤いろうそくと人魚」の冒頭の部分だが、これと「私の生活はたいへん事件の多い幸福な一生であった。それはさながら一篇の好ましいお伽噺である」と自伝に書いたアンデルセンの海とでは、同じように人魚が棲む場所とはいいながら、その違いの大きさに驚かざるを得ないのだ。

  海をはるか遠く沖へ出ますと、海の水は一番美しい矢車草の花びらのように青く、一番すき通っている水晶のように澄んでいます。けれども、その深いことといったら、ど んなに長いいかり綱でもとどかないほど、それはそれは深いのです。海の底から水の上 までとどかせるには、教会の塔を幾つも幾つも、つみ重ねなくてはならないでしょう。 そういう海の底に、人魚たちが住んでいるのです。(大畑末吉訳「人魚のお姫様」岩波 文庫)

 未明の海とアンデルセンの海とを比較してその優劣を論じるなどということはこの場合、不必要である。ここで考えなければならないことは、未明の海があくまでも原体験をはらむのに対して、アンデルセンの海は空想の、それも反芻されることなき概念の産物としての空想の海でしかないということであろう。
 時間的に見ても、未明は、アンデルセンが人魚を明るい海に登場させたことに反発して、暗い北の海を出してきたことは明らかであり、それは「人魚は南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。」という一行によっても証明されることなのだが、アンデルセンへの反発として、自己の体験にたちもどったということは、とうてい無視し去ることのできない問題である。これを児童文学的にいうならば、その質的高低は別としてぼくはやはり未明が描こうとした原体験の海から出発するものをこそ、子どものための文学の、あるいは文化の原型として持つ必要があるとおもうのだ。
 矢車草の花びらのような、水晶のような海から子どもの体験が出発したのでは、もしも将来、原体験を生む契機に遭遇したとしても更に一枚、否定的媒体がそこに存在しなければならないから、どうしても遅れが生じる。決定的瞬間における遅れは、あるいは階級的なわかれをもたらすかも知れず、それぞれが敵と味方にわかれることを意味するかも知れないのである。
 くどいようだが繰返しておこう。体験が原体験となり得るのは、あくまでもその体験を否定し去らなければならない必然が生じたときなのであって、否定的にならなくても、その体験を温存させることによって、たとえば幸福というような生活を保ち得る内的状況のままでは、ついに原体験は存在しないであろう。
 これになぞらえていうならば、未明の海はその暗さのゆえに原体験への可能性をはらんでおり、アンデルセンの海はその明るさのゆえにとうてい原体験とはなり得ないものなのである。もちろんぼくらの日常においては明るさを否定し、暗さへと進む場合もないわけではないが、そこに至るまでの複雑な内的操作はもはや子どもにおいては、知的側面の補いを要する作業となるだろう。
 たとえば革命を志向するというような場合にしても、まずはじめには、暗さの海から明るさの海へと進む否定作業があるのだが、それは社会的な障害によって屈折せざるを得ず、ある状況においては、むしろ逆に明るさを否定する作業をおし進めたりもするわけだ。
 しかしそれが確実に屈折と認められるというもの、原体験という基準があってのことである。ここでいう基準をぼくは心情ともいうわけだが、そうすると社会的障害のことは、思想とでもよぶほうが理解を容易にするだろう。つまり心情はさまざまな思想に遭遇して屈折することはあっても、あくまでも消滅させてはならないということなのである。
 もしもそこに心情という名の原体験が存在せずに革命が志向されるのだとしたら、屈折つまり現状分析ぬきの教条主義か、その日暮しの日和見主義でしかないだろう。


イメージの基地
 子どもの場合には、現実生活の未成熟ゆえに屈折はなく、むしろ将来において屈折を形成するところの原体験創造の要因が繰返しつくられていくと考えられる。夏の海でのにがい体験から空を動物の国とした四歳児にとって、大切なことは、動物の国から更に飛躍したイメージをつくりだすところの、いわゆる空想のままに遊び呆けるのではなくて、ふたたびあの夏の海の体験にたちもどって、そこからまた新たなイメージの狩りへと出発することである。イメージを狩るために流浪するのではなく、確固たる基地をもった狩人になれということなのだが、この場合、果してそれに耐え得るほどに、たとえば夏の海の体験が強靱なものであったかどうかという心配が浮びあがってくるに違いない。
 だが体験が単なる体験にとどまることなく、原体験となり得るのは、その原型を大切に保存することではないのだから、それが追体験という創造作業によって補強されたり、あるいは原型をとどめぬまでにつくり変えられたりすることもある。とはいってもやはり問題は、何を体験するかではなく、何を体験とするかである。
 小さい兄妹は父親にたずねた。「空を見て何を思い出すか」と。
 父親はすぐに「戦争」と答えたが、子どもに対する答えとしては必ずしも間違ってはいないけれど、親切でないことは確かであろう。しかし空を見てただちに戦争を想起しなければならない父親の体験はやはり伝えられるべきだし、子どもの側にいわせれば、伝えられる権利があるのだった。兄のほうはテレビの「ギャラントメン」や「コンバット」の熱心な視聴者だったせいもあって、空から戦争を想起する父親を理解することは至難のようであった。そこに展開される戦争は、激しい銃火のとび交いと、幸運な兵士たちの超人的な活躍が、「かなしい感じがするから好き」だという音楽をバックに繰返されていたからである。ところがある夜の「ギャラントメン」には多くの子どもが登場し、そのなかのひとりがひどく空襲におびえるさまが描かれていた。これを見たときに父親が「これだ」とさけぶと、兄は「ああ、サイレンか」といった。それ以後、兄は消防車やパトカーのサイレンにも敏感に反応して父親に告げる。「サイレンだ」
 まだまだ不充分ではあるが兄は戦争ものテレビ映画にはふくまれていなかった「戦争」を感じたことはたしかである。つけ加えるまでもなく、ぼくは戦争体験が知識として伝えられることを無意味だと考えている。戦争体験はあくまでも戦後体験によって裏打ちされつつ心情として伝えられるべきである。
 青い空。わずかに点在する白い雲。突然、空の彼方がキラリとひかる。その銀色はしだいに大きくなり、やがて爆音が耳に入る。そしてようやくサイレンだ。あたりは一面の焼野原で、ぼくのかたわらではヒメムカシヨモギが息づくように揺れていた。ぼくの頭上をゆっくりと通過したB二九これは旋回するとまた空の彼方へキラリとひかりながら消えて行ったのである。静かだった。ぼくはこの静けさをこそ戦争としてとらえている。ここには、憎悪も悲哀もない。むしろここにあるのは美意識ではないのかと考える。あるいは美意識を支える原体験ではないのかとおもう。このときからぼくは空についておもいをいたすことが可能になったからだ。
 智恵子は東京には空がないというというような高村光太郎の詩を読んだときにも、ドイツの児童文学者ハンス・バウマンのすぐれた少年小説「草原の子ら」のなかの、大草原の彼方から白馬にまたがった主人公がやってくるという部分を読んだときにも、ぼくはあの日の空を想起し、それと比較したのだった。
 もしもぼくが児童文学者として小川未明以来の伝統に忠実ならば、空または地平線の彼方から何かがやってくるということと、自己の体験とをないまぜにして一つの童心世界を設定してしまうに違いない。そしてそれが技術に導入されるならば、あのサスペンスとよばれる興味性に組み入れられてしまうだろう。もしもそうなったら、なるほどそれは作品をおもしろおかしくするのだろうが、とうてい子どもにとっての原体験の場となり得る作品を創造することは不可能となる。複雑な日常生活の場から子どもが原体験となり得るような体験を選択するのは容易なことではなく、ともすると日常性に溺れてしまう。このときに提出される文学作品または文化が日常性とは異質の、それゆえに強烈なものであったならば、たちまちそこに一つの原体験の場が現出するわけである。とはいっても、ここでぼくは文学論または文化論をまくしたてようとしているのではない。あくまでも子どもの心情の仕組みをさぐろうとしているのだ。ただ次のようなことだけはいっておいてもよいだろう。
 とかく知的側面にのみ関心が傾きがちな教育およびその教育に従属するが如きかたちで命脈を保つ児童文化は、できるだけすみやかに「情」の世界へ復帰しなければならない。子どもは知的側面だけで教育できるものでもなく、知能および知識の面だけで診断できるものでもないからである。


木製の爬虫類
 伝統を拒否してもなお、ぼくが自己の体験に固執すべきだというのは、ただ単にそれが特異な体験である場合だけではない。もしも特異な体験のみが原体験にあたいするのだとしたら、それはさながら未決雑居房の序列のようなものだ。最も重罪とおもわれる者、つまり誰れもがやり得ないような体験の持主が巾をきかす。しかし、むしろ問題は、その体験を生み出した生活にかかるのではなくて、体験以後の生活にかかるわけで、体験が原石だとすれば以後の生活は研磨作業ということになるだろう。そしてしかもわれわれは、その原石の大小を問題にする採石人ではなくて研磨工なのである。だが現実はかなり巧妙であって特異な体験であればあるほど、それに襲いかかる障害も数多くなる。それだけ磨きがかけられるわけだ。
 今年の春ごろから斗美は、わにに関心を持つようになった。あの沼沢に棲む爬虫類である。「何が好きだ」と問われれば、すぐに「わに」と答える。縁の下の薪を持ち出しては釘で細い板切れを打ちつけ「わにだ」という。蛇が大嫌いな母親は同じ爬虫類であるわにには好感をいだくはずもなく、薪のわにを見ると風呂場の火に投げ入れてしまう。
「ぼくのわにだぞ」
「なによ、わになんて気持ち悪いわね」
「だってぼく、わに、好きなんだもの」
「もっとほかのもの好きになってよ」
 こんな会話が何回ともなくくりかえされるころには、彼の小さな指先に血豆が幾つもできていた。釘を打ちつけるその音の響きは、隣家の主婦をして「御主人の日曜大工かと思った」といわしむるほどになった。母親もとうとう彼の熱心ぶりには折れてしまったらしく、薪で作られたわには、座敷内にも侵入し、ときには彼の寝床にもぐりこんで夜を明かすこともあった。そうなると今度は母親が、なるべく実物に近いものを作らせようと心をくばった。外で遊ぶときには必ず持って出る「ぼくの大事なわに」があまりにも不細工な板切れであっては恥しいというのである。
 たんすの上にあって仰ぎみるだけかと思っていた百科辞典が彼のまえでひらかれ、そこには色刷りのわにの写真があった。彼はじっとそれを見つめおわると、ただちに薪のわにを修正した。父親に頼んで鋸で尾を細くしてもらった。やや満足すべきわにができたが、はたしてこれが実物に似ているかどうか、それが気がかりだ。彼は両親に動物園行きを懇願した。実物への近よりを策謀した親としてはそれを拒否する理由はない。途中の電車のなかなどで絶対に取り出さないことという条件つきで、薪から作られたわには風呂敷につつまれて彼の胸に抱かれていた。閉園まじかい夕暮れの動物園で彼は実物のわにを見た。じっと見つめた。「どうした。作ったわにと比べてみないのか」と父親にいわれると、彼は照れくさそうに笑った。「やっぱり本物のほうがすごいよ」
 兄がわにに固執するものだから、妹もしきりに何かを選ぼうとするのだが、彼女の好みは次から次へと変って行く。それに対して彼のわに好きはその後も変らない。テレビ映画「サハリ」でわにの卵や孵ったばかりの子どもわにを喰い荒す禿鸛や大とかげの生態が出てきたのを見たあとは、画用紙を切りぬいた小さなわにを座敷中に散乱するほど作り、「これぐらいあれば、きっとわには亡びない」などというのであった。
 父親はしきりに考えをめぐらせるのだが、なぜ彼がわにを好きになったのか、その動機はいぜんとして不明である。だがいまとなっては、よくもわにに固執したものだと一種の感動さえおぼえている。彼はわにを好きになっても、いささかも利益を得なかったし、ある場合には母親や友人の迫害さえ受けたのである。もしも彼がある目的のためにわにを好きになったのだとしたら、その目的は途中で変更せざるを得なかったであろう。彼は突然「好き」と感じたのだ。あの「わに」を。
 目的つまり知的認識としてではなしに、無目的に出発してしまったわに好きは、その心情ゆえに途中で変更する理由も見出せなかったに違いない。ここにも心情の強さがある。そしてこれは何も、わに好きの四歳児個人およびその環境にのみかかわる事象ではなくて、全ての子どもの場合に適用されるべき考察だとおもうのである。
 美意識を決定するのも原体験ならば、好悪の感情を決めるのも結局は原体験である。わにを好きだといい通したこと、これは彼の原体験となり得る体験であるだろう。これらを導入としてぼくらは、子どもにとって心情とはなにかを知る作業をおし進めなければならない。
テキスト化渡辺みどり