『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房 1965)


空想・心のなかの冒険

百万円のアルバイト


このごろの子どもにはゆめがないという場合のゆめと、睡眠時の夢とは全く異質のものだとおもわれている。睡眠時の夢についてはすでに前章で述べているので、ここに改めて持ち出す必要はないだろう。だがぼくが、睡眠時の夢について、そこには想像力のはたらきがあると指摘したとき、睡眠時の夢と、空想とか憧憬とかいうような言葉でよばれるゆめとはかなり接近して考えられたはずなのである。

もちろん空想と想像とは似て非なるものだ。とくにそれが文学作品などの形式をもって表現されるとき、その相違は顕著である。しかしぼくの目的はそれらの文学的相違を分析することではない。その相違の推察はぼくがつぎに述べる諸条件によって充分可能なはずである。

動物好きの子どもは、アフリカにあこがれる。あるいはまた南米アマゾンの流域を憧憬する。そこにも人間の社会があり、民族主義運動があり、独立のための戦いがあると同時にその困難があることは知らなくても、アフリカに棲息する動物について、なかでもケニヤの大草原については、それなりに知り得ているとおもい込んでいる。

アフリカへ行くには百万円もの金がかかるのだと教えてやれば、その百万円をアルバイトによって稼ぎ出すことがその子どものゆめとなる。親たちが家計のやりくりについて話しているのを傍できき、「心配しなくてもいい、ぼくが百万円以上アルバイトしたら、貸してやるから」などともいう。親はその言い草に苦笑しながら、子どものゆめが、矮小化したのではないかとおもう。島国育ちの親もまたアフリカを巨大な大陸、動物たちのふるさとだとのおもい込みから脱け切れないでいるのだ。

しかし考え直してみると、子どもはまだアフリカへの憧憬を捨て去ったわけではない。百万円以上アルバイトしたら貸してやるといっただけである。

子どもは子どもなりに、百万円というのがとてつもない大金であるということは察している。なぜならそれは、わが家には存在しないほどの大金であり、父親がそれだけまとまった金を稼ぎ出すともおもえないのである。三十円のチョコレート一個を買ってもらうためにもそれなりの苦労がある子どもは実感として、百万円の価値を知っている。

だがようやく五歳になろうとするこの子にとって、アルバイトはまだまだ先のことだ。そのためには幼稚園へも行かなければならず、学校も出なければならない。動物についての知識をふやすためには、文字を覚える必要がありそうだと気づいたときから、子どもは自分から勉強の時間を設定した。わに、とら、らいおん、きりんなどはもう読める。もっと勉強して、わにはわにでも、ありげーたあや、くろこだいるというような種類の綴りまで読めるようになりたいといっている。読むだけではだめだから、書く練習もする。はじめはどうしても鏡文字になってしまう。うまく書けたとおもっても、母親から逆だといわれてしまうのだ。それを何度もくりかえすと、母親は「ばかじゃないの、あんたは」などと無情なことをいう。傍から父親が弁護する。「子どもが鏡文字を書くのは、むしろ正常なんだ」とはいうものの、何度もそれがくりかえされると、わざと逆に書いて親の関心をひこうとしているのではないかという疑いがわく。という具合に書き並べてしまうと、アフリカへの憧憬といった子
どものゆめの存在は薄れてきて、むしろ文字を覚えはじめた幼児とその親とのはなはだ現実的なやりとりが前面に出てしまい、それは日常的な家庭風景とさえなってしまうのである。

親としてはそれなりに、子どものゆめを伸してやりたいとはおもうのだが、それが現実のプランに組み込まれてくると、かくも日常化されてしまうということを知っておく必要がある。それさえも知らずに、つまり意識せずに子どものゆめの喪失を慨嘆してもはじまらない。

またある親は、子どもの憧憬や空想を日常化のコースにのせることこそが親としてのつとめ、つまり家庭教育の成果だとおもい込んでいる。子どもが昆虫に興味を示した、それいまのうちに理科の勉強をさせてしまえといった具合である。昆虫とくれば理科、歌をうたえばそれ音楽、小遣銭の計算をはじめればそれ算数だというのでは、たしかに子どもは受験には強くなるかも知れないが、それ以上の存在にはなり得ないことは確かである。

スカラベ・サクレに示したファーブルの関心はもちろん理科的要素をふんだんに含んではいるが、もっと広義な意味での美的関心だとおもうのである。結果的には食糧ではあるけれど、あのボールつくりとその運搬に示されるスカラベ・サクレの働きから、ぼくらが読みとるのは、ただ単に奇妙な習性の面白さだけであろうか。そこに、創造へのたゆみない情熱といった美的感動をおぼえることは間違いだろうか。

心のなかの動物たち


博物学者のビュフォンは「もし動物が存在しなければ、人間が人間自身を理解することは、一層困難になるであろう」といったそうだが、この言葉はかなりの曲折を経て、子どもの、ものごとへの関心にあてはめることができる。

もしも右のビュフォンの言葉を科学的にのみ解釈するならば、ただちにダーウィンの「種の起源」などを想起すればいいわけである。さらにはまた大学病院の研究室あたりを訪れてモルモットや二十日鼠が人類の進歩のために活用されているのを見れば充分である。

だが子どもが動物なら動物に対して抱く関心は、とくに幼児の場合、理科的ではあり得ないと判断されるのである。もちろんそれが将来、その子を生物学者まで育てあげる契機になることはあるかも知れない。しかしそれは結果的あるいはそれなりの過程を経てそうなるのであって、動機としては、心のなかに、とにかく何かを棲まわせたいという欲求があるのだと考える。

まもなく五歳になる斗美が動物への関心を持ちはじめたのは、およそ一年前だったということが判ってきた。そのころ斗美はさかんに犬を飼ってくれるよう欲していた。何故に犬が欲しくなったのかは判然としない。しかしそれもまた動物への関心とほぼ同質のものだろうと推察されるのである。

親もまた犬好きであったから、どこかで仔犬をくれるところさえあるのなら飼ってやってもいいだろうとおもい、近くの農家の犬が子を産んだと聞くと、わざわざ訪ねていったりもしたのである。だがひと足違いでひとにもらわれてしまったり、足もとを見られて高い金額を要求されたりして犬を飼うことはなかなか実現しなかった。しかしこのころの斗美はたしかに、心のなかに犬を棲まわせていたようである。

心のなかの犬が消え失せ、アフリカやアマゾン流域の動物たちが棲みはじめたのは、実際に犬を飼いはじめてからである。あまりにも犬を飼えとやかましいので父親は動物愛護協会へ電話をかけた。すると向こうには雑種の犬ならいくらでもいるから、取りにおいでくださいとの答え。あくる日、雨の降るなかを、原宿の動物愛護協会へと出掛けて行ったのだが、すでに定刻の三時も過ぎ、雨も降っていて犬が濡れると可哀相だから、また改めて出てこいというのだ。すでに人間は父親も母親も、斗美もその妹のあゆみも激しい雨に濡れていたのである。

次に訪れたのは赤坂の高速道路建設現場であった。そこの飯場にいる老人が、野良犬を数十頭も集めて新しい飼主を探しているという話が新聞に出ていたからだ。しかし運悪く、そこでもまたひと足違いで、仔犬を手に入れることはできなかった。仕方がないから父親は新宿の犬屋で仔犬を買った。一番安い犬で二千円。犬屋は芝犬だといったが父親は雑種に違いないとおもっていた。

かくてようやく斗美は念願の犬を自分のものにしたわけだが、この犬は病気だったのである。犬は三日後に保健所へ。それから十日ほどたったある日、斗見は小さな野良犬を拾ってきた。今度こそは自分の犬になるのだとおもったのだろうが、この犬はいまだに野良犬の習性がぬけきれず、ついに斗美は犬への興味を喪うに至った。犬についてこだわりすぎたようだが、これによって斗美という幼児の心のなかに、動物たちが棲みはじめた動機が理解されたとおもう。心のなかの動物たちは病気にもならず、元気に跳躍し疾走し、あるいは水中を泳ぎまわり、ときにはその背に自分を乗せてくれるのだ。いくら餌を与えても拾い喰いをし、叱ればこそこそと逃げて行く野良犬あがりの飼犬に比較して、心のなかの動物のたくましいこと、おおらかなこと。自分の心の躍動を父親や母親にも伝達したいがために、百万円のアルバイトなどとはいったがほんとうは、どうでもよかったのではあるまいか。「と」と「ら」の二つの文字をつなげば直ちに虎のイメージが浮び、躍動をはじめるというほどには文字文化に親
しんでいない段階では、字を覚えることも百万円のアルバイトと同じ意味を持っている。そこでもしも、親と自分の心との伝達が成立したら、それは文字の効用が偉大なのではなくて、心のなかに棲む動物たちが偉大なのだ。心のなかの動物たち、もっと速く走れ、高く跳べ、泳ぎまわれ、ぼくと一緒に。

しかしひとびとは、この子が将来、アフリカの大草原に立ったとき、はじめてそのゆめがはたされるのだと考える。児童文学者は、子どもがアフリカあたりへ行って動物たちと遊びたわむれ、あげくの果ては、動物も人間ももっとお互いに仲良くやれるはずだなどという悟りをひらかせることによって結着のつく童話をつくり、これを空想とよぶ。それらは子どもにとって、ゆめの脱穀であるにもかかわらず。

無銭旅行計画


現実生活の地理的振幅が、ほとんど身辺に限定されている子どもたち、とくに幼児たちにとって、冒険とはゆめの実現ではなく、ゆめそのものであることは既に理解されたはずである。

ここに、ある中学生グループの話がある。川崎市に住む中学二年生数人は、三年生の夏休み、つまり今年の夏休みになったら、東北へ無銭旅行する計画をたてた。もちろん実行のその日まで親にもきょうだいにも内密である。かれらは小学校時代の教師を訪ねて、自分たちが真面目な中学生であって、決して非行少年のグループでないことを証明する書類を作成してくれと頼み込んだ。そしてその教師にだけは無銭旅行の計画を洩したというわけである。この一つの例においても、すでにその冒険ははじまっていると判断することは容易だろう。もしもその無銭旅行が計画倒れに終ったとしても、子どもたちの冒険の記録は消え失せるものではない。そこから更に、子どもたちは新しい形の、それでいて前の計画を継承した冒険をはじめることが可能である。しかし、ここでは次のことが考慮されなければならない。もしも計画が実行に移され、その経験に基いてふたたび冒険がくわだてられた場合と、計画倒れの場合とでは、その質は決定的に異なるであろうということだ。経験に基いた計画は知識に属し、
未経験に基いた計画は心情の範疇に属するとはいえないだろうか。

とすると、その計画のほとんどを実行に移すことのない幼児の冒険は、もっぱら心のなかで発展拡大するものと想定することさえ可能なのだ。それはどんなに映像や聴覚によって意味づけされようとも、しょせんは内的世界の出来事である。とはいっても子どももまた小なりとはいえ社会的存在だから、その心のなかを風が吹きぬけることもあり、ときにはそれらをいっきょに壊滅せしめるような暴風雨的干渉もあり得る。だが幼児の場合にはその建て直しが比較的容易である。自己の心の内部を語るためにはいまだ不充分な言語機能もそれをかえって助けるだろうし、どんなにそれが唐突な内的世界であっても、おとなたちは幼児なるがゆえに許容することが多い。まだまだそれを実行に移せる段階ではないからである。

もしもこれが小学校上級生から中学生であったらどうか。心のなかの冒険つまり内的世界の様相はほとんど語られることがないのである。明らかにされることのない内部世界は安泰であって、そこには風も吹かず、雨も降りはしないのだ。ためにそれは定着し矮小化する。あるいはまた知識がそれにとって代わってしまう。

地球全体が海であった時代。光もささぬ暗い海面に、原始の細胞はうごめいていた。人間も魚も虫も同じ海の微生物であった。これを進化論的に考察するならば、それはもはや理科の教材でしかないだろう。知識によって矮小化する内部世界とは、微生物をその海のなかからすくいあげてガラス板の上にのせ、顕微鏡で拡大してしまったような殺風景なものではあるまいか。もしもそこにも豊かなイメージといったようなものを抱き得るとしたら、それはそのひとの心のなかにある海を想定してのことであるだろう。

内的世界の矮小化を防ぐために、子どもはどのような手段をとるのだろうか。次から次へと心のなかの冒険をくりかえし、その充実をはかる時代をとおりすぎた子どもたちの場合である。

無銭旅行の計画が立てられる。東北についての知識が導入される。だがそれらは内的世界にくみ込まれて、心象風景となる。計画が外部に洩れ、親たちの干渉があって計画は挫折する。だがそれを計画倒れのままにしておくことを欲しない感情が芽生える。計画の練りなおし、つまり心のなかの冒険は、ふたたびの挫折を予想させる。かれらの生活経験つまり知識がそれを予想させるのだ。それならば、何が何でもはじめの計画を実行させねばならない。出発はしたものの、計画は現実につきあたり、片っぱしから変更を余儀なくされる。行き詰まる。無理をする。そこに待ち受けているものは非行という名の行為であろう。

戦後の飢餓状態のなかの非行は多くの場合、生理的欲求によるものであったのだから、これを生理的非行とよぶことができる。これに対して現代の非行には心情的非行とでも名づけるべきものが多い。子どもに対するおとなたちの無理解などという単純な事柄が原因ではないのだ。ゆめの脱穀を空想とよび、内的世界を外的世界に結びつけて考えなければ承知できない日常的リアリズムの思考こそがその元凶ではあるまいか。

集団脱走の記録


昭和十九年六月、サイパン島の日本軍は玉砕した。Bニ九による本土空襲はますます熾烈化することが予想された。東京都学童の集団疎開が実行されることになったのは、このころである。八月のある日、ぼくは一枚の紙切れを家に持ち帰るよう命令された。集団疎開への保護者の同意書である。はじめは拒んだ父もぼくのかたくなな主張のために、やむなくこれに同意の印鑑を押した。

一袋のカンパンが支給され、鼓笛隊を先頭にぼくらは上野駅まで出征兵士さながらの堂々たる行進をし、宮城県刈田郡福岡村大字鎌先(現在は白石市に編入されている)の疎開地に向けて出発したのである。

疎開地での生活についてはとてもこれを簡単に書き記すことは不可能だ。そのためにはどうしても四百枚や五百枚の紙数は必要となるだろう。生まれて始めて体験する雪の毎日。食糧不足。シラミ。机ひとつない旅館の大広間での勉強。温泉地特有の性病の感染。寮母の偏愛。野荒し。地元の子どもとの争い。そうした生活のなかでぼくはたった一度だけ脱走を計画し実行した。

鎌先温泉には一条ホテル、最上旅館、鈴木屋ともう一軒名を忘れたが計四軒の旅館があり東京から三つの国民学校が疎開していた。

昭和二十年一月のある日、その日は朝から太陽の輝く晴天だった。ぼくらは銀色に光る雪景色に眼を細めながら、二里ほどの山道を、東北本線白石駅にむけて歩いて行った。総数二十五人。これはぼくら六年生男子の全員だった。ひとり残らずの脱走を組織し得たことをぼくはほんとうに誇らしく思っていたのだ。

二日前、最上旅館に疎開している杉並第三国民学校の生徒のうち男子三名が脱走し、無事東京にたどりついたという情報が入った直後から、ぼくはこの集団脱走の組織づくりにのり出したのである。

常々ぼくに敵対していた山口とも手を結び、どうせやるなら全員を連れて行こうということになった。右親指のヒョウソウを治療するために、白石の県立病院へ通っていた佐藤を駅へ偵察にやった。佐藤の調査によれば、便所の壁に穴があり、そこからたやすく駅構内へ入り込めるというのである。しかしその穴を二十五人がくぐりぬけるためには、かなりの時間が必要だ。そんなことをしていたら、脱走は失敗に終ってしまう。

ぼくらは道が二本に別れるところにさしかかった。右の道は本道、左の道は近道で十分ほど早く駅に着くのだが、途中にひどい坂道がある。考えたすえに、ぼくらは右の本道をえらんだ。二十五人もの疎開児童が近道を行けばきっと村人に怪まれ通報される。本道を並んで歩いて行けば、あれはきっと散歩だろうということになると判断したからである。

ところが途中で小さな事故が起きた。古市というやつが草履の鼻緒を切ったのだ。ぼくは古市を撲りつけた。「貴様、緊張が足りないぞ」というわけだ。古市は泣きべそをかきながら鼻緒の切れた草履を片手に列の後尾についた。そして更にしばらく歩き続けるうちに、古市は姿を消してしまった。
「どうしようか」と山口がきく。
「撃ちてしやまむ」というような言葉でぼくは実行の継続を主張した記憶がある。はたして古市は教師に脱走を通報した。

電話連絡があったのだろう。駅には警官や警防団まで出動していた。半数はその場で押えられ、その場をようやく逃れて汽車に乗り込んだぼくらも宇都宮駅で逮捕されてしまった。ぼくらは宇都宮で東武電車に乗り換えて浅草に着く計画だったのである。

脱走の成功不成功を論じる必要はいささかもない。この冒険といえばいえる脱走劇のそもそもの動機が、よその学校の三人の子どものそれに触発されたものであった点に注目してほしい。

宿舎に連れもどされたあと、ぼくと山口と有馬の三人が主謀者ということで教師から制裁を受けたわけだが、そのときぼくらは口を揃えて「東京へ帰りたい。家へかえりたい」と脱走の理由を感傷的に申し述べているのである。そして奇妙なことに、それを何度もくりかえしているうちに、やっぱり自分たちは東京の父母のもとへ帰りたかったのだという気持になってきた。ぼくらの言葉に寮母などは涙ぐんでしまうし、同じ六年生の女の子たちもシラミのために短く刈り込んだ頭をふりたて、肩組みあって嗚咽するのであった。このために、ぼくらに加えられるべき制裁は予想外に軽くすんだ。そして二度とぼくらは脱走を計画しなかった。もしもぼくらがふたたびそれをくりかえせば、やっぱり連中は親もとを遠く離れて暮らすことに耐えられなかったのだということになってしまう。それは軍国主義教育によって鍛えられ、少国民としての自覚に燃えるぼくらにとっては、それこそ耐え切れぬ屈辱だったからである。

トム・ソーヤーの反抗と冒険


二度とふたたび脱走を計画しなかったかわりに、ぼくらはその後、食糧の確保にその行動力を駆使した。ときたま、村人に逮捕されることがあっても、ぼくらは「天皇陛下のものを天皇陛下の赤子であるおれたちが食ってなぜ悪いか」という論法で相手を罵倒してしまうのである。こうなると、すでにぼくらにとって軍国主義は心情ではなく知識であったといえるだろう。

あくまで一つの例であるから、ここから典型を描き出すことは不可能だ。しかし、以上のささやかな疎開の記録からさえ、心のなかの冒険が、知識に変わってゆく一つの過程は理解されたとおもう。戦時という極限状況のなかの出来事であったから、食糧泥棒のほうはともかく、脱走を非行とよぶおとなはいなかった。すくなくともそれは犯罪行為とは見られなかったのである。

しかし平和な現状のなかでは、家出さえも非行とよばれ、犯罪と同等視されてしまう。心のなかの冒険がふたたび心のなかに還元され、そこにより豊かな内的世界が構築される余地はほとんど残されていないのである。

夏休みに計画された中学生たちの東北地方無銭旅行がたとえ実行に移されたとしても、ふたたび心のなかの冒険に還元されるとしたら、ぼくは全く素晴らしいことだとおもう。そのためにはかれらに挫折があってはならないのである。挫折や失敗が成功をよぶというのは知識偏重の思想が述べたてる詭弁である。知識が心情にとって代わることのすくない幼児の場合には、この格言もある程度の意味を持つのであるが。

幼児の心情つまり内的世界の構築状況は、行動範囲をいちじるしく縮小されている子どもたとえば教育熱心な親をもった子どもに酷似していることがある。だがそれは心のなかの冒険というよりは、心のなかの反抗とでもよぶほうが適切だろう。だがひとびとは、そのほとぼしりをさえ冒険とよんだ。わんぱくの名でよばれるような冒険ぶりは、そのほとんどが、そうした反抗の歪みから生まれる。

マーク・トウエーンの「トム・ソーヤーの冒険」においても、その動機は反抗であった。しかしトムやハックの場合は、それが途中から心情に変化してしまう。かれらは自然の雄大さに触れて「素晴しく元気になり、心は歓びに充ち溢れ」もはや小さな反抗などは忘れ去ってしまうのである。こうした例をほかにも求めることは可能であるが、それはあくまでも虚構の世界あるいは古い時代の出来事であって、現実においてはむしろ不可能なことであるがゆえに、感動をおぼえる。

ここから子どもは一つの知識を得ることができるだろう。もしも現実が雄大で美しく、何の邪魔も障害もないならば、反抗心さえ忘れ去ることが可能なのだという知識である。そこでおとなたちは、雄大で美しいと錯覚されるようなごまかしの自然をつくって子どもたちに与える。
「ほら、子どもたち、トムやハックたちが遊んだのも、こんなところだったのだよ」

子どもはだまされて反抗心を忘れてしまう。冒険という名の浄化作用、またの名を情操教育という。もちろんこれはマーク・トウエーンにとって、至極迷惑な事柄である。マーク・トウエーンとしては、自然の雄大さに触れることによって得られる感動、すなわち人間性の回復こそが重要な課題だったのであり、それに至る過程つまり動機として反抗が存在し得るということを主張したかったのだ。それを故意に読み違えて反抗心の消滅に利用するように仕向けたのが従来の教育であり児童文化であった。

もしもトムやハックのように、反抗心が活用されるのだとしたら、それは幼児における心のなかの冒険心と同質のものとして考えられるべきであり、それは正常な発達をして、外的世界の変革を希求するに違いないのである。その希求を逸らすために、おとなたちは擬似の自然あるいは内的世界の反映の如く見せかけた文化財をつくりだしてきた。

現代の子どもの合理性は本来ならば、あくまでも真実のものを求めてやまぬ精神であるにもかかわらず、見せかけのものを真実のもののようにおもい込む時点で妥結を見出してしまっている。それでいながら、いぜんとして反抗心を持ちあわせている如き態を装う。これは甘えであって、とうてい人間性回復ヘの動機とはなり得ないものである。子どもたちのゆめの喪失はここに極まれりというべきだろう。

「愉快じゃないか?」とジョーが云った。
「素敵だ。」とトム。
「奴等に見せてやったらどう云うだろう?」
「『云う』だって?ふん、多分死んでも此処に来たがるだろうぜ、―なあ、ハック?」
「そうだろうな」とハックが云った。
(石田英二訳、岩波文庫)

トムたちのいう「奴等」とはいうまでもなく、ぼくたちおとなのことであり、そのおとなに妥協する子どもたちのことである。

テキスト化佐々木美穂