『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房 1965)

体験固執・美意識の測定は可能か

夏休みの第一日
 小学三年生の男の子である。夏休みの第一日目にちょっとした事故を起した。団地内の道路で友だちと野球をしていたところ、この子のところへ球がとんできた。懸命にバックして捕球しようとしたのだが、このときたまたま通りかかった豆腐屋の自転車にぶつかってしまった。子どもはかすり傷程度ですんだのだけれど、豆腐屋のほうは身体障害者だったということもあって、かなりの怪我をしたらしい。そしてもちろんのこと、積んでいた豆腐や油揚げは全部路上に投げ出されてしまったのである。
 子どもがこのことを母親に報告するのをためらったので、一緒に遊んでいた友人が代りに母親への通報役を引き受けた。母親は驚いてすぐにその豆腐屋の家を探し出し、子どもを連れて詫びに行った。ここで始めて母と子は、豆腐屋が身体障害者であることを知らされたわけである。
 ここで問題が提起される。母親としては子どもに対して、この問題をどのように処理したらよいのだろうかということだ。ぼくは母親から直接、この問題についての相談を受けた。いわゆる教育相談の会の席上である。
 ぼくはまず問題を次のように分類してみた。
 一、道路で野球をしたことの是非は問う必要がない。
 二、そうした事故を日常ありふれたことと考えるか、またはその逆に非日常的なことと考えるかによって、問題の処理の仕方が変ってくる。
 三、豆腐屋が身体障害者であったということには、それほどこだわる必要はない。とくに同情心などは持つべきでない。
 四、夏休みの第一日目に事故が起きたということを重要視する。
 右の分類に対して母親は、次のように考えると答えた。
 一、道路で遊ぶことは、危険だからいけないと教えているが、そこは団地内の道路なので子どもの場合には、野球程度のことは黙認されている。したがって母親としてもそのことを叱ろうなどとは考えていない。
 二、父親は「そんなこと、いくらでもあるさ」と軽く流すだろうと思うので、まだ話をしていないが、自分としては、それが子どもにとって、ありふれたこととは思えない。
 三、同情心というのではなしに、身体の不自由なひとが豆腐の行商をして働いているのだということを考えさせてやりたい。
 四、子どももそのことを相当に気にしており、「今年の夏休みは、何となくいやなことがありそうな気がする」といっている。
 答えかたを見ればすぐに判るように、この母親の考えかたは、教育熱心な母親としては珍しく健全であって、ぼくが今更、とやかくいう必要もないほどである。ぼくはほとんど全面的に母親の考えかたを肯定して、ただ若干の補足をした。
 つまりぼくは、その子どもにとっての夏休み第一日の体験が、その夏休みを暗くしてしまう契機になるのではなくて、むしろその逆のきっかけとなるべきだといったのである。豆腐屋が身体障害者だったということにこだわるならば、何故、そうした人間が豆腐の行商などというあまり安全ではない職業に従事しなければならないのかを考え、更にその考えを進展させて、自分の父親ははたしてどのような内容の労働をしているのだろうかを考えさせる。そしてそこに話し合いが生じたとしたら、父親にしてからが、あの夏休み第一日目の事故を「そんなこと、いくらでもあるさ」などとはいい切れぬものを感じとるのではないだろうか。
 問題の処理において、ぼくの考えかたはあまりにも教育的でありすぎたかも知れない。しかし、右のようなささやかなことにおいてさえ、ぼくはそれを日常的解決の方向に持ち込まないというこだわりを持ち続けたいのである。
 ところで右の問題は、それを素材として考えた場合、はなはだ児童文学的だということもまた可能だ。おとなの文学でいえば第三の新人といわれる世代に当るのだろうか、児童文学の世界にも戦中に学生生活をおくったというような世代がいて、そのひとたちのほとんどは、軽いタッチのリアリズムの手法を持って、おもに短篇に童話あるいは少年小説を書く。その場合、子どもが道路で野球をしていて、豆腐屋にぶつかり、その豆腐屋が身体障害者であったなどという事件は、まさに格好の素材となる。もっともそのひとたちにとっては、豆腐屋の身体障害が戦傷によるものだということにでもなれば、なおさらのことうってつけとなるだろう。
 そしてそこで、子どもは、親の考えとも教師の意見とも、きょうだいの扱いかたとも違う自分の考えかたを発見して悩むというのが、多くの戦後児童文学のモチーフでさえあった。しかし、その消極的な扱いかたにおいて、まさしく戦後体験は素直に投影されていたのである。

 理髪店の看板
 夏休み第一日の事故と戦後体験とを結びつけたとき、第三の新人ならぬこのぼくが考えることは、そこに交流不能の自己あるいは子どもを見出すことではなくて、それが体験として定義されずに、つまりそれが時限をもったこだわりとならずに、永遠化されてしまうおそれがあるということなのである。永遠化という言葉は曖昧かも知れない。早い話が、それはいつどこにでもある問題、それこそ永遠の問題として普遍化されてしまうということなのだ。そうなったとき、それは夏休み第一日目の事故でも、戦後体験でなくて、事故あるいは体験一般に解消されてしまう。
 たとえば斗美にも交通事故の体験はある。斗美はいまでもその時のことを覚えており、その現場であった理髪店の前を通るたびに、「ぼくは、ここで、自転車にぶつかっちゃったんだ」という。それは事故としては至って軽く、バックミラーが唇に軽く触れた程度だったのである。しかし唇というのは敏感なのだろう。斗美はまるでホッテントットのように唇をぶ厚くはれあがらせてしまった。
 斗美は唇を指でつまんでその体験を想起しようとする。だがそのときの痛みも、恐怖も、いまとなっては、まるで蘇生してはこないのだ。なにしろそれは、斗美がまだ三歳になったかならないかのときのことなのだから。
 父親はここで考える。体験とは何か。体験にこだわるとはどういうことなのか。子どもの事故あるいはわれわれの戦後体験は、決して誇らしい事柄ではない。いわば苦痛の体験である。それにこだわるということは、そうした苦痛を二度とふたたび繰返したくないという願望の現れではないのか。しかし、そのこだわりが願望だけにすりかわると、そこから直ちに一般化への傾斜をはじめる。そしてそれは「教え子をふたたび戦場へやるな」的スローガンにやすやすと合流してしまうのだ。戦後体験と厭戦意識ははなはだ混同されやすいが、あくまでも別物だと考えたい。
 斗美の交通事故体験が、二度とふたたび事故にあわぬための予防措置になるのだったら、それだけでよいのだったら、父親あるいは母親は、そこに恐怖の蘇生を計画しなければなるまい。しかし、斗美は父親に向かって訊くのである。
 「ぼくが自転車にぶつかったときも、床屋さんのあれは、ぐるぐる回わっていたのかね」
 床屋のあれとは、いうまでもなく赤、青、白三色の看板のことだ。むかし、床屋は外科医を兼ねていた。赤は血液の色、青は血管の色、そして白は繃帯の色を現わすという事故来歴をもつ床屋の看板は、たやすく見かけることができるがゆえに、子どもの美的体験のかなり重要な部分を構成すると考えてよいだろう。そしてそれがはじめての交通事故という斗美にとっての非日常的な体験と結びついたとき、かなり強烈な印象をもって記憶されただろうと想像することは容易である。
 父親と斗美は理髪店の看板について会話する。
 「きっと回わっていたさ。……お父さんが子どものときも、床屋の看板はぐるぐるまわっていた」
 「お父さんが、子どものとき行った床屋の看板も、赤と青と白だったの」
 「うん、そうだ。お父さんが一番よく覚えているのは、集団疎開に行く日のことだ。床屋へ行って頭を刈ってもらい、それから近所のひとたちに、行ってきますと挨拶まわりをした。床屋の隣の煙草屋からはじめたから、ぐるりと回わって床屋が一番最後になった。すると床屋のおかみさんが店の外まで出てきてくれて、お父さんを励ましてくれた。お父さんは何んだか恥しくて、ぐるぐる回わる看板ばかり見ていたんだ」
 「それで、その床屋さん、どうなったの」
 「空襲で焼けちゃった。おかみさんも死んだ。おまえたちのおじいちゃんやおばあちゃんも死んだ」
理髪店の看板をじっとみつめたときが、家族と暮した最後の日であった。一九四五年三月十日、父親は疎開先から帰ってきた。約半年の疎開体験もさることながら、三月十日を第一日としてはじまる体験は、子どもであることを許されない日々の記憶と重なって、やがて八月十五日を迎えての戦後体験に直結するものとなったのである。
 いままでぼくはあまりにも原体験にこだわりすぎたかも知れない。どうしておまえは、それほどまで原体験についてうんぬんするのかという詰問も受けた。それでもなお、ぼくはそれにこだわる。
 児童文学者として、ぼくがはじめて書いた散文もまた「三月十日のこと」というのであった。その後それは「浮浪児の栄光」(三一書房)という一冊の小説へと移行発展するわけだが、そこでもなお、ぼくは戦後体験の第一日目ともいうべき三月十日の体験にこだわっているのである。

 昭和二十年三月十日
 ひどいものだった。おれの家は影も形もなくなっていた。むうむうと鼻をつく焼け焦げの臭いと、渦巻くように吹く風に舞い立つ灰ばかりが、おれの目の前に、いや、見渡す限りにあった。
 父も母もふたりの姉も見当らない。煙りに煤けた顔の、焼け焦げた姿のひとびとが、せわしく行き来していても、おれには誰れもかまってくれない。おれは完全にひとりぼっちだった。昭和二十年三月十日の朝、おれは疎開先の宮城県から、空腹六ヶ月の生活をおえて、級友たちとともに、東京浅草の家へと帰ってきたのだ。
 家へ帰りさえすれば、腹いっぱい、めしが食えると思っていたのに、おれたちを待っていたのは、白いめしでもなければ甘いしるこでもなかった。
 三月九日の夜、東北本線白石駅を出発した列車は、予定を三時間以上も遅れて上野駅へ着いたのである。途中、大宮あたりから乗り込んできたひとたちの話で、おれたちは、浅草から本所、深川の一帯がB29によって激しく攻撃されたことを知った。それでもおれは、自分の家だけは大丈夫なんだと思っていた。そのくせ、心臓は痛いほどの音を立てていた。おれの心のなかでは、いわゆる心配と慰めとが葛藤を続けたのだが、汽車が上野へ到着すると同時に、慰めはいっぺんに消えて失せてしまった。 
 上野駅構内は罹災者で埋めつくされていた。そのひとびとの顔や姿のおそろしいことは、ものすごいというよりほかにいいようがなかった。ずっとあとになってから、おれは「原爆の図」を見ることになるわけだが、それはとりもなおさず、この三月十日の朝の様相さながらであった。それは出来ることなら、眼をそらしたいほどのものだったのである。
 右に書き記したのは、ぼくが八年ほど前に生活記録として書いた文章の冒頭の部分の書き変えだが、いまでもそのときの記憶は鮮明である。このあと、ぼくは北浦和に住む知人の家に引取られて行ったわけだが、そのときに考えおよぼしたことの数々が、現在の原体験のこだわりに関係ありとおもえてならいのである。
 手帳の切れ端に書いてもらった地図を頼りに、ぼくがその北浦和の家に着くと、その奥の部屋に、その家の息子が寝ていたのである。
 息子は東京の工場へ勤めに出ていて空襲にあい、煙のために眼を痛めてしまっていて、水にひやした白い布を眼に当てている。それを見て、ぼくはつぶやく。「霧隠才蔵は、無事であったな」ぼくはかつてその息子から、少年講談「霧隠才蔵」をおくられたことがある。ぼくにとってそれは生まれてはじめての体験だった。ぼくはその本を夏の病床で読んだ記憶がある。別にとりたてて騒ぐほどの病気ではなかったのだが、本をおくられるという体験を得てそれは忘れられないものとなった。そして三月十日の午後、床に伏すその息子の姿を見て、ぼくはおもわず、霧隠才蔵とつぶやいたのだった。
 それから更に、その家の末っ子にも会った。ナオヒロというその子は、ぼくより三つ年下である。ナオヒロの顔を見たとたん、ぼくは文字どおり突然に、その子が生まれたばかりのときに、母に連れられて病院の産室へ見舞いに行ったときのことを想起したのである。
 浅草三筋町の電停近くにあった救世軍病院だった。ぼくと母は、見舞いに行った病室で、いなり寿司をすすめられた。ぼくはそれを食べたかったのだが、そのいなり寿司には紅しょうがが入っているために、どうしても食べることが出来ない。悲しくなって、ぼくは窓から外を見た。眼下に電車の通るのが見え、それが路上で見るよりもずっと小さく見えることにぼくは驚きを覚えたのである。
 それ以前、つまり三月十日より前においても、ぼくは体験を想起するということ、すなわち追体験という思考作業をおこなっているかも知れないのだが、その記憶は鮮明ではない。ぼくの体験へのこだわりは、この鮮明な追体験の記憶からはじまったのだということが出来る。
 はなはだしくぼくは体験にこだわるが、それはその体験をいとおしくおもうなどという感傷癖ではなくて、実は追体験という思考作業を比較的容易にするための前提として、体験を問題にしているにすぎないのだ。このことは、再三再四にわたって繰返してきたはずだが、さらにまた繰返し強調したのは、夏休み第一日目の事故とは別に、次のような事柄もあったからである。

 ポンチ絵的知能テスト
 知能テストというものがある。いわゆる知能指数を測定するものから、知能程度のおおよそを知るというような簡単なものまで、さまざまな知能テストが一種の流行現象をかたちづくって教育熱心な母親たちのあいだで問題にされているのだ。ぼくの所属する児童文学団体においても、知能テストと教育相談とを組みあわせた事業活動をおこなうことになり、数多くのテスト用具に眼を通す機会に恵まれたわけだが、ぼくにとって、それらは全く驚き呆れる珍品奇具ばかりであった。
 絵合わせというのがあって、むかしあった動物合わせのように、部分部分にわかれている動物を完全な形態に組合わせて仕上げるわけだが、これが犬だか狐だか狼だか、まるで見当がつかない。自転車もあるが、これがひどいオールド・ファッションである。馬にいたっては、その場にいあわせたおとなたちが議論を重ねた末に、どうにか馬の如きものに仕上げる有様であった。しかし、それでも、それらはまだまだ理解できないこともない代物だったが、絵を何枚か組合わせて物語をつくるというテスト用具になると、腹立たしさを通りすぎて、笑い出さずにはいられないのである。
 西部劇に出てくる強盗のような覆面をした男が、雨戸をこじあけている。
 男はタンスをあけ、時計をひきずり出した。時計は鎖のついた懐中時計である。
 男が大きな風呂敷包みを背負って部屋を出て行こうとしている。
 警察が警棒を男の顔の前へつき出している。男はつかまってしまったのだ。
 いまどき、こんな泥棒がいるものかと子どもが笑い出したら、はたして何点をつければいいのか、そうした説明はどこにも見当りはしない。これを考案した教育学者は、大真面目でここから物語が生まれてくると信じているに違いない。
 次の絵は子どもふたりがリックサックを背負って歩いているところだ。
 犬が子どものあとからついて行く。 
 犬は子どものリックサックから握り飯の包みをくわえ出してしまう。だけど子どもは気がつかない。
 犬が握り飯を食っている。
 野原で子どもはリックサックをひらくが弁当はない。そこで頭をかかえる仕草となる。
 むかしのマンガいわゆるポンチ絵には、こうしたものがよくあった。だかそれが、いまの子どもの知能テストに使われる必然性はまるで存在しないのである。ほかのテスト用具においても、問題はほとんど変っていない。野菜の名前をいわせるところにはカボチャなどがあって、都会の子どもの多くがそれを知らないというようなこともあるときく。このような古臭い用具では、子供の知能を正確に測定することは不可能だというのが、その場に居合わせたひとびとの一致した意見であった。これはすこぶる当然のことといわなければならない。
 しかし問題は、その用具の新しさ古さにだけあるのではないと考える。その絵合わせの図柄を鉄腕アトムに変え、自転車を最新型にしたところで、子どもにとって、それを行為することの意味が感じられないのだとしたら、それはポンチ絵的知能テスト用具考案者の意識と同じような、おとなのひとりよがりだけがそれを強制することになるのである。
 いかに子どもが感動をもってそれを行為するかということを考慮しないならば、知能テストなどというものは、百害あって一利なしの教育企業に終ることは、ほぼ確実である。とはいっても、母親たちの多くは、自分の子どもが社会的にどのような存在であるかを知りたがってるし、またその気持は決して理解できないことではない。
 あるアパートが屋上を子どもたちに解放するについて、意見を求められたことがある。そのときぼくは、幼児のための知能および体力テストがおこなえるようなコーナーを設けるべきだと提案した。もちろんそこで、ポンチ絵的な知能テストをおこなえというのではない。むしろそこでは、従来の知能テストの無感動さを意識するきっかけを与えたいわけである。実現するかどうかは全く不明だが、ぼくはその提案の内容を明確にするために、次のようなことを考えてみた。
 まず、幼児の知能とは何かを考える。ごく大ざっぱに考えると、それは社会適応能力のことではないのか。適応と従属とは違う。だからここではそれほど適応という表現にこだわる必要はない。したがって幼児の知能は肉体的機能とわかちがたい関係を持つ。そこで、幼児の肉体的機能を体力と呼ぶことにする。体力という場合、おとなにおいてはそれはただ単に肉体的な機能だけをいうのではないが、幼児では体力とだけいっておけば、まずまず問題はないだろう。
 幼児の知能と体力は、密接な関係を持つ。身体障害などの特殊な場合を除いては、その関係の密接さを否定することは出来ない。だから、ぼくの提案するテスト方法は、知能と体力とを同時に測定することが可能なものであるべきなのだ。

 模造の芝生
 そこには一面に緑の芝生を敷きつめてやりたいのである。本物の芝はなかなか根付きにくいものだ。そこで考えられるのは、塩化ビニール製の模造芝を使うことである。伝えにきくところによれば、塩化ビニールによって生産される芝の性能はすこぶる優秀であって、イギリスにある世界一のゴルフ場の芝と全く同じものとさえいわれているそうだ。
 その芝生の上を子どもが裸足で駆け回わることの意味は、意外に大きなものであるような気がする。五十メートルの直線あるいは曲線のコースを作って、子どもを走らせる。途中で転倒することもあるだろう。だが子どもが走れば、転ぶなどということは、至って当然のことなのである。転んだことは問題にする必要なしだ。そこからまた立ちあがって走り出すかどうかが問題となるだろう。その場で泣き出してしまうような子どもには減点を与えなければならないだろう。
 俗にいうでんぐりがえしを三回続けてやらせてみるなどというのも、知能体力綜合テストには不可欠のことかも知れない。三歳児、四歳児あたりでは、でんぐりがえしも相当の努力を要するものである。それを一回やり終えたとき、子どもはほっと安心する。そこで回数を忘れるという事態が起きるのではないか。ここでは「さあ、あと何回やればいいのかな」程度の助言は与えてやってもよい。
 斗美とあゆみの家の近くには芝生畑が多い。どんどん畑が減少して住宅が多くなっていく地域では、農家はみんな富裕である。従って芝生畑などに関してはほとんど放置の状態となる。三年ぐらいまでは、肥料をまいてしまうので近づくこともできなかった芝生畑が、このごろではもっぱら子どもの遊び場になっている。
 斗美とあゆみも芝生で遊ぶ。その遊びを見ていると、ほかのどこで遊ぶよりも大胆な行動を示していることがわかる。そこが安全な場であることを知っているだけではなくて、芝生というものには、子どもを大胆な行動に駆立てる機能まであるのではないか。
 もしも野球場に芝生が存在しなかったとしたら、とても今日のような繁栄はあり得ないのではないか。とくに夜間試合のとき、カクテル光線に照り出される芝生の美しさは、観衆の心をなごませる。ゴルフ場についても同じことがいえるかも知れない。ところが一般のひとびとは、その美しい緑の芝生の上を駆け回わることの快感を知らない。その機会に恵まれてはいない。芝生上の行動は一部のひとびとだけが占有するものとなっている。この偏りを正すためにも、子どものときから、芝生上を駆けめぐることの快よい感触を体験させておくべきだとおもうのである。しかしそれをいかにすぐれた性能を持つとはいえ、模造の芝生で体験しなければならないということは、子どもにとってのはなはだしい不幸であり、一種の欺瞞であることもまた確かなのだ。だがそれにこだわって、芝生上で行動することを知らぬままで子どものときを過してしまうことは、いつの日かその快感を自分のものにすることへの欲求を持ち得ないことに通じるおそれもあるといわなければならない。ただひたすらに見ることによってのみ満足することの平安さ。子どもたちをそれに馴らしてしまうことは、模造芝生の欺瞞以上の罪ではないだろうか。
 模造からさらに実物の感触へと子どもたちをして進ませることを本義と心得ながら、その模造に親しませておく。ここにおいて、模造もまた存在理由を持ち得るのである。
 そのほか、ボタンを押すことによって、稲妻や雷鳴を体験することのできる設備を考えたりもしたが、これもまたそれにただ馴れさせてしまうのではなくて、実物に接したとき、より大きく自然のしくみに感動するための予備体験をそこで積み重ねさせたいからにほかならない。もちろん以上のようなアイデアがそのまま通用し現実するほど商業主義は甘くないことは充分承知の上であった。
テキストファイル化柴田冬実