『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房 1965)

擬似美意識・いかに生くべきか

祖母の死
 一九六四年十月三十一日没、俗名田中ハツエ、行年五十七歳。
 斗美とあゆみの祖母が死んだ。父親の両親はふた昔も前の戦災で死んでおり、母親もまたひと昔前に父を喪っているから、兄妹にとって、おばあちゃんはたったひとりの老いたる肉親だったのである。
 所沢の国立病院が発行したザラ紙の死亡診断書には死因として「胃部位癌」と書きこんであった。この祖母のガン発生をめぐっての事柄はすでに第五章においてかなり詳細に書き記したつもりである。そのときにも子どもは、死とは何かということを真剣に考えなければならなかったのだが、今度はその死が現実となった。子どもたちにとっては、とにかく優しいひとりの人間であったおばあちゃんが、死体となって子どもたちの眼の前に横たわったのだ。
 死の翌々日、すなわち十一月二日の朝、遺体は病院から火葬場へ直接運びこまれることになった。いったんは自宅に引き取るべきだという意見も親戚一同の間から出ないではなかったが、通夜のさなかに雨が降り、気温が急激に上昇したため、それでなくとも腐敗しやすい遺体からはするどい屍臭が発生し、だれもが自宅への引取りを断念せざるを得なかったのである。
 斗美とあゆみが両親に連れられて、国立病院内のはずれにある霊安室を訪れたのは、出棺の一時間前だった。その日も前夜に引き続いて朝からの雨降りだったために、タクシーに乗って四人は病院へと向かったのだった。母親と斗美が車に弱いことは以前からわかっていたが、この日はあゆみまでが車中に酔い、車中で嘔吐したりした。この状態を、母親はただ単なる乗り物酔いではなく、やり異常な緊張が子どもにも伝わったためだと判断していた。車を降りたとき、斗美の顔色も青く沈んでいたのである。
 霊安室の前庭には黄ばんだ銀杏の葉が幾重にも散り敷いていた。父親は子どもにいった。
「これからも、銀杏の葉が黄色くなって散るのを見たら、死んだおばあちゃんのことを思い出すんだ」
 しかし子どもの関心は黄色い銀杏の葉などにはとどまってはいなかったのだ。祖母の遺体の面部には白いガーゼが掛けてあったが、その白布がおおい切れない部分として、耳が露出していた。もともと耳朶というところは血の気がすくないために、死後いち早く変色するようである。それは黝ずんだ紫色に変わっていた。桑の実をドドメという地方がある。そのドドメ色というべきかもしれない。まず、あゆみがいった。いつもならば大きな声を出すあゆみが珍しく小さな声でいったのだ。
「耳があんな色になっちゃってる」
「あゆみ、そんなこというなよ」
斗美もそれにはとっくに気付いていたのだろう。じっと見つめながら妹を制した。
「もう一度、おばあちゃんの顔を見ておくかい」と母親の姉である伯母に訊かれて、兄妹は母親の顔を見上げた。母親は父親の意見を求めた。
「見せないほうがいい。せっかく、優しいおばあちゃんが死んでしまったと思っているのに、死顔を見せて変な印象を与えてしまうのはまずい」というのが、その場での父親の答えだったが、父親としては、既に子どもたちは、祖母の死の色彩を見てしまっているではないかともおもっていたのである。
 霊柩車に同行したのは母親だけである。父親は子どもふたりとともに、霊安室の後片付けをし、そのあいまに、祖母の死をめぐって、子どもが何を考えているかを知ろうとした。
「おばあちゃんは、死んだんだよ」
「うん、火葬場で焼かれちゃうんだ」
「そしたら、骨だけになっちゃうんでしょ」
「おばあちゃんは、何処へ行ったんだろう」
「天国」
「地獄へは行かないよ」
「優しかったもんね」
「死ぬってどういうことなのかな」
「いなくなっちゃうことだよ」
「もう、見えないし、いないし、はなしもできないし…」
 ふたりにとっては、何もかもが初めての体験である。午後からの告別式には坊さんがやってきて長ながと経を詠んだ。
「坊主ってよくしゃべるんだね」というのが、斗美の率直な感想であった。
 ひとびとが次から次へと現れては焼香していくのを見ては、真実、感心したようだ。
「おばあちゃんって、偉いひとだったんだね」とつぶやいたあとで、斗美は生前、一番最後に会ったときのことを想起した。ガンという病気は意地の悪い病気である。身体がはなはだしく衰弱しても精神だけは明瞭なのだ。母親に連れられて病床を訪れた斗美とあゆみに、祖母は握手を求めた。あゆみは何ということもなく応じたが、斗美はすぐさま手をひっこめてしまったという。
「だって、おばあちゃん、すごい力でにぎるんだもん」
 既にこのときから斗美は異常な雰囲気に酔っていたのかも知れない。それから三日後に祖母は死んだ。子どもたちが、天国を想定して祖母の死後の世界よ安かれと祈ったにもかかわらず、その現実であるところの死は、やはり子どもたちにも安らぎを与えはしなかったのだ。
 
オリンピック
 
 祖母が死んだ一九六四年十月は、ある意味で歴史的な瞬間であった。東京オリンピックは学齢前の子どもにも、何らかの影響を与えずにはおかなかったのである。
 開会式のときから、斗美は奇異な感じに打たれていた。どうして世界中の国の人間が一カ所に集まってしまうのかということが第一の疑問であった。この場合、これは決して世界中の国の人間ではないのだ、たとえばインドネシアと北朝鮮はせっかく日本にまできていながら仲間はずれにされたのだと説明しても、子どもの疑問に対する答えにはならないだろう。子どもはオリンピックの開会式を見ているのと同じテレビで、アメリカとドイツが戦争するテレビ映画を見、それなりに感動しているのである。
「どうして戦争をしたアメリカとドイツが同じところにいるのに、喧嘩もしないでいるの」
という子どもの疑問に父親は巧く答えることができなかった。
「それはつまり、スポーツだからさ」というのでは、ブランデージIOC会長と同じ立場になってしまう。父親はここで急転直下、逆に子どもたちに対して質問を発する。
「どうしておまえたちは、日本とアメリカ、日本とソ連、日本とイギリスが一緒にいることを変だとはおもわないんだ。日本だってそういう国と戦争をしたんだぜ」
「それは知ってるけどさ」
「あたしも、知ってるけどね」
 子どもはここで考えて、適当な答えを探しだしてくる。
「ぼく、わかったよ。これは戦争じゃなくてオリンピックだから、どこの国の人がいてもいいんだよね」
「そうよ、オリンピックだからよ」
 そうじゃないんだ。そこのところがもう少し複雑なんだといいたいところだが、父親は我慢してしまう。アナウンサーが調子を上げて日本選手団の入場を告げるのを聴き、旗手が掲げる日の丸を見ると、頭のなかの考えとは裏はらに、何故か父親の目頭も熱くなってくる。この複雑なオリンピックへの感情をどうしたら子どもたちに伝えることが可能なのだろうか。ここにも美意識の問題があることは確かであり、それが子どもにとって全くの無関係ということはあり得るはずはないと確信するのだが、それを的確に伝えるすべを持たないままに、東京オリンピックは閉会した。
 期間中に子どもが一番魅力を覚えたのは、三宅選手が活躍した重量挙であり、プレス、スナッチ、ジャークというような種目さえいち早く覚えて、長い柄の座布団を持ち出し、その両端には両親の枕をくくりつけて「えいや」とか、「よいしょ」の掛け声とともに、そ
れを頭上高く差しあげるのである。オリンピックの種目の中には、スポーツとしてみた場合、もっとほかに魅力を感じるものが多くあるはずだが、子どもはひたすらに重量挙を模倣する。ここにおいて子どもの美意識は、一つの思想を持つことになったといっても、決していいすぎではないであろう。重量挙には東京オリンピックで最初の金メダル獲得という背景があり、それは一つの思想となって子どもの美意識を支えたのだ。ここにおける思想のよし悪しは問うべきではあるまい。それよりも重要なことは、子どもにとっての美意識もまた、思想の影響から絶縁した次元では成立し得ないということである。しかし、既に何度も繰り返したように、問題にすべきはそれを支えた思想ではなく、それに支えられたところの美意識なのだ。斗美は日本人だから、重量挙に美を感じたのではなく、そこに周囲の感動が集中するのを感じとったがゆえに、それが美であると意識したのである。これは美意識の弱さかも知れないし、また逆に強さともいえるだろう。一九六四年十月、五歳の秋に、子供は重量挙をカッコイイものと判断した。次の秋にもその美意識は持続しているだろうか。おそらくは持続し得ないだろう。四年後のメキシコオリンピックではどうか。やはり持続し得ているとはいえないだろうとおもう。このように追体験の効用がない美意識を、ぼくは仮に擬似美意識とでも呼んでおくことにしょう。やはり美意識は思想に支えられたりすることなく、自立すべきなのだ。
 一九六〇年の初夏の夜、国会正門にひるがえった赤旗をぼくは感動をもって眺めた記憶があるが、あの美しさもまた、追体験の実現しない限りにおいては、擬似美意識というべきかも知れない。

底知れぬ空間

 斗美は祖母を最後の病床に見舞ったとき、オリンピックのはなしをして、できれば重量挙の演技ぐらいは見せてやりたかったらしいのである。ところが病み衰えた祖母には、そうした孫の心使いも通じなかった。死を直前にした人間には金メダルの感動を含めての思想は一切不必要だったに違いない。それでは、もともとが擬似とよぶにふさわしい美意識は伝えようもない。社会には、ある一定の共通理念すなわち思想を持ち得ないと、いささかも美しいとはおもえないという事物が数多くある。ある新興宗教の団体がその勢力を誇示するために建立した大伽藍の美も、それに関係のない人々の眼にはただ単に奇体なものしか見えないというようなことも稀ではない。
 あとで母親から、どうしてあの時、すげなく握手の手をひっこめたのかとなじられて、斗美はさまざまな弁解を試みた。堅く握ったから、痛いと思って、病気がひどそうだったから、などなど。
 しかし、そこには生と死をへだてる断絶が横たわっていたからというべきなのだ。そこでは共通の話題を支える思想が喪われていた。最後までその息子や娘は自分たちの母親に、病気が「胃癌」であるとは伝えなかったけれど、本人は知っていたようである。十年前、亭主を同じ病気で死なせたひとが、それを知らないはずはなかった。
 死を意識した祖母と、これからを生きる孫とをつなぐものは、生半可な思想や肉親意識ではあり得なかった。だからこそ祖母は痩せ細った手を差しのべて握手を求めたのだったが、それすらも自分と孫とをつなぎとめるよすがとはならなかった。いや、実際にはそれでよかったのである。斗美は、それに応じることによって、不可解なるがゆえに不気味な死とつながることを怖れたのではなかったか。そして三日後に祖母は死に、斗美が見たものは、紫色に変色した耳朶であった。これをめぐる事柄については既に述べた。いまはもう納骨もすんで四十九日の法要を待つという段階になっている。
 ところが最近になって、母親の弟妹たち、すなわち斗美とあゆみの叔父叔母たちが、しきりに悪夢にうなされるというはなしを伝えてくるのだ。お互いに幽霊の存在などは信じているはずもないが、潜在意識が夢となって現れるというわけだろう。かなり熱心にそれらの夢の分析を試みたりするのである。
 もしも子どもたちが、祖母に関する夢を見るとしたら、どのような内容であろうか、と父は考える。それはきっと、紫色の耳朶が底知れぬ空間に漂っているという感じの夢に違いないとはおもうのだが、もちろんこれは想像の範囲を出ない。あるいは斗美の場合には、ひっこめてもひっこめても、痩せ細った祖母の手が握手を求めてくるというような夢を見るかもしれないと想像したりもするのだが、子どもがそのような夢を見たという報告はいまのところ出ていない。まだまだ子どもとしては夢になり得るほどには、それらが意識下の形象となりおおせてはいないのかもしれない。それを何とか確かめたいという気持ちは充分にあるのだが、それにあまりこだわると、自分がそれを夢に見てしまいそうで、おもわずためらいを覚えてしまうこの頃である。
 朝、洗面のあとで、突然、斗美がつぶやくようにいった。
「おばあちゃんって、どんなひとだったのかなあ」
 どうして祖母のことをいきなりはなしだしたりしたのか、その理由は判然としないが、その死をめぐる事柄ではなしに、生きていたときの祖母がどのような人間であったのかと訊いているのだ。このような場合、父親や母親は、何をはなすべきなのだろうか。ぼくはこれをあえて、人間は生きているあいだに何をするものなのかという大問題への関心と判断することにした。ある意味でのすりかえであることは覚悟の上だ。
「おばあちゃんが死んだのは五十七歳。五十七といえば、おばあちゃんとしては若いようだけど、やっぱり相当なもんだ。そのあいだにはいろいろなことがあった」
「戦争もあったんだね」
「あったさ、戦争に負けて一番つらいときに、おばあちゃんは九州の炭鉱まで働きに行ったんだ」
 無気力な亭主と六人の子どもをかかえた女の苦労を、いま直ちに幼い子どもたちに伝えることは不可能である。しかしいつの日か、なるべく早い将来に、それを適確に伝えてやりたいと父は考える。ひとりの女の生きた道を語ることによって、同時に日本の歴史のある断面を語るという作業も決して不可能ではないのだ。まして変転きわまりない近代日本の五十年を、文字どおりの下積みとして生きぬいた女の一生なのだから。このあたりでいわゆる伝記と子どもの関係を考え直すことも無駄ではない。野口英世、シュバイツアー、二宮金次郎など、いわゆ伝記のレギュラーメンバーの生きかたに比べて、祖母の生きかたが劣っていると、だれがいえるのだろうか。

いかに生くべきか
「子どもにとって美は存在するか」というような、もったいぶった題名の文章も、所詮は人間いかに生くべきかという大項目のなかの一部分なのだと考えることがある。子どもにとって美とは何かという議論ももちろん大切であるが、それよりも前に、それが必要か否かを自分自身に、そして自分自身にとっての子どもたちに自問自答すべきなのだ。死を意識した人間と、これからを生きる人間とのあいだにおいて思想の果たす役割が絶無であるのと同じように、われわれにとって既存の思想がその効力を喪失しつつあるとき、何をもってぼくは子どもと語りあえばよいのであろうか。そこにぼくは「美」を介在させてみようとした。観念ではなしに、実存するものとしての美を。
 戦後世代の手記のひとつに、ぼくのいう感触的認識の実証があった。その子どもは父とともに入浴するとき、父の背に刻まれた傷痕に指を触れ、なぜそれがそこにあるのかを問うのである。すると父親はその傷痕にこそ自己の戦争体験が象徴されているのだということを語りはじめる。しかし子どもは母親からきかされていて、その傷痕は戦傷などではなく、単なる外傷によるものだということを知っているのだ。だが子どもは父の語りに耳を傾ける。なぜならば、そこでは身近な歴史が語られているからなのである。親と子の関係を支えるのは、結局のところ一つの傷痕のようなものではないかと考える。
 ぼくの母も生きていれば、先日死んだ斗美とあゆみの祖母と同じ五十七歳。母は十七歳で長男を生んだ。生後まもないその子をかかえて、母は震災の余燼もさめやらぬ東京へ、若い亭主とともに大阪から出てきた。ぼくがものごころつきはじめた頃には、それなりの安定を示していたが、母の背中には灸の痕跡が幾つもあった。それに指を触れるたびに、母親はぼくに向かって苦難の時代の思い出を語ってくれた記憶がある。母の背中の灸の痕跡は、ぼくにとって、まるでピアノのキイのようなものであった。それに触れればたちまちに、ぼくの耳には一つの音楽を聴くことができたからである。そしていうまでもなく、他人の眼には醜く見えたかも知れない灸の痕跡も、子どものぼくにとっては、まさしく美そのものであった。
 もちろん、子どもにとって親という存在が好ましいものとしてのみ映じるとは限らない。だがそれさえもまた逆の意味で、いかに生きるべきかの教材となることは疑いの余地がない。ぼくの母方の祖母は、斗美やあゆみの祖母とは違って、優しさなどは何処を探しても見当らないような人間であった。この祖母を通して母を見るとき、ぼくには母もまた鬼のような女でしかなかった。両親が死んでからの数年、祖母のもとにあって、母の面影がどうしても想起できないことに悩んだ記憶があるほどに、ぼくは祖母を憎んでいた。この祖母のことがあればこそ、ぼくは子どもたちに「おばあちゃんの死顔」を見せることに反対したのだった。ぼくは祖母の生涯から、人間はあのように生きるべきではないという教訓をひき出した。しかし親の気持ちとしては、自分の子どもには、そのようにネガチブな教訓をひき出しては欲しくないと考えるかもしれない。子どもを、そのような立場に追いこみたいとはおもわないかもしれない。だが実際にそのような事柄に遭遇したとしたら、それを超克するほどの人間であるべきだというぐらいのことは考えるべきなのである。
 ここまで書いてきても、まだ、あの紫色の耳朶の持つ意味が何かということが判然としない。父親としては、銀杏の葉が黄ばんで舞い散る秋の日になったら、死んだ祖母のことを語り、そこから更にわれわれの身近な歴史を語り伝えたいと考えたのだが、その場合、紫色の耳朶のことはどのように取扱うべきなのだろうか。ここで一つの試みが成立する。
 ──おばあさん、あなたの道はどんな道なんです?

  年寄りというものは振りかえるより仕方のないものでね。振りかえってみると、それは大変な道でしたよ。歩いて行くと、呑んだくれのお爺さんへたばっているんです。犬にけとばされ、いたずらっ子には小便までかけられて、ぐたぐたのお爺さんをいたわりながら行くんだが、いつかひとりぼっちになってしまい、空を見ると、たくさんの風船がのぼってゆく。よほど一緒にとおもったけど、また歩いて行く。またお爺さんが呑んだくれてへたばっている、という有様。それを除けてはどうしても進めない道でした。
 もう十年以上にも前になりますが、八貫目の芋を背負って歩いた道、あの道も赤土のひどい道でしたよ。
 松戸本町から高塚へ、二里半の道ですが、照れば砂ぼこり、降ればぬかるみ、一日四本、銀色のバスがありますが、芋は乗せてもらえず、えっちら、おっちら歩きです。
 途中<家伝・孫太郎虫>の看板を出したよろず屋があって、白髪のおばあさんと猫が店番をしていました。そこで道は二筋に分かれていますが、わたしの道は一本だけ、他のが何処へ行くのか、考えたこともない。そのわかれ目に牛の形をした黒い石があり、どっこいしょ、いつもひと休みしたものです。
 ええ、どういうわけか、そういうときだけ空は青かったと覚えていますよ。
 いまでも、疲れたときなど、黒い石の夢を見るのですが、近寄って見ると、いっぱい虫がたかっています。休むことができないので困っていると、よろず屋のおばあさんと猫がやってきて、かたっぱしから虫をとらえ、むしゃむしゃ食べてしまいます。食べるばかりじゃありませんよ。懐や袂へつめこむのです。これが孫太郎虫かしら、と考えたとき目が覚めましたよ。コオロギが啼いていました。
 呑んだくれのお爺さんは、もうこの世にはいません。遠いところへ、とぼとぼ歩いて行ったのですよ。どんな道だろうかねえ。死人の着物は汚れっぽいから、いたずらっ子や野良犬が悪さをしなけりゃいいんだがね……なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

 右の散文詩は必ずしも祖母を直接的にモデルにしたものではないが、同時代に生きた女の記録として考えた場合、それほどかけ離れた事象ではないとおもう。この程度のものなら、小学校の中級ぐらいになれば理解することが可能だろう。しかしここでも紫色の耳朶はその姿を見せない。
 しかし子どもたちは、確かにそれを見たのだ。それを見ることによって、祖母の死を確認したといっても、決して過言でないほど、はっきりと子どもたちはそれを見ていた。子どもたちが見たあれこれを、一つの契機あるいは媒体として、そこに存在すべき美意識の問題を、ぼくは繰返し書き記してきたのだった。そして最後に、紫色の耳朶が一つが残された。これを宿題として、この文章を終わり、さらに子どもの心の奥底にあるものを探求する作業をおし進めたいとおもう。
 斗美は満五歳と九ヶ月、そしてあゆみは満四歳と八ヶ月になった。

あとがき
 この文章はその大部分を「人間の科学」という雑誌に掲載した。一応の完結をみたところで同誌はは休刊となった。もしもその休刊が数ヶ月でも早かったら、おそらく未完のままで放置されることになったに違いない。なぜならば、同誌の編集者であった中根暢也氏の好意なしには、とても書き続けることが不可能だったとおもうからである。もちろん、これだけでこの文章が完成したなどとは考えていない。いつの日か改めて、この続篇あるいは続々篇を書き記したい。受けるべき批判はいさぎよく受けたいとおもうので、本書の感想を寄せられるよう切望する。
 本書刊行については、多くのひとびとの世話になった。なかでも装ていの中村宏氏、編集担当の安倍氏、そして誠信書房主の行為は忘れることができない。
一九六四年十一月
著者
テキスト化小谷地伸子