テレビのなかの子ども
つい先日、ある広告代理店の人にたのまれて、CMフィルムの脚本を書いた。CMのなかに子どもを登場させることがはやっているが、いっそ子どもを使うなら、本格的≠ノこれこそが子どもだというようなものを作ってみたいというわけだ。そしてわたしがその指名をうけたのであるから、やらないわけにはいかない。わたしは、やった。
ところが結局、わたしの書いたものは、ボツになった。上層部の人の意見として、「あまりにも美しすぎる」というのである。しかしこれはどう考えても外交辞令であって、ほんとうのところは、クセがなさすぎるということであったらしい。
脚本執筆の依頼をうけたとき、わたしのだした条件はつぎのようなものであった。「いま放映されているCMフィルムでもっとも許せないのは鉄火焼きせんべいと日産サニーのものである。ああいうものだけは百万のカネを積まれても書きたくない」
その場では、それが了解されたのだが、なんのことはない。あとでそれらに仕返しされてしまったのだ。もはやテレビのなかの子どもは、デモをものマネ遊びとしてしか表現できないような無思想きわまる連中や、隣の車が小さく見えます──などと、くだらぬおせっかいをいういやらしい奴になりはてているといえるだろう。
カルピスのCMのなかの幼児はかなりさわやかだが、あれはしょせん、子どもが自分なりの世界にとじこもっている状態のなかの動きだ。あのさわやかな幼児だって、ひとたびテレビ屋によって、社会=他人と接触させられるようになると、変にこまっしゃくれた、いやらしいガキになりさがるのだ。これはもうほとんど確実なことである。
それではなぜ、鉄火焼きや日産サニーのCMに出てくる子どもをいやらしいというか、それを分析してみよう。これはただ単にテレビCMを批評するなどということではなくて、マスコミという名の体制が、子どもというものを、どういう存在≠ニしてつかまえているかを理解するための重要な手がかりなのだ。つまりCMのなかの子どもたちは、対社会的な姿勢としての発言(伝達方法)をテレビ屋からああいうかたちで強制されているわけだ。すなわち、マスコミによる教育といってもいい。こうすることが子どもらしいのだというかたちの教育。その教育方針にそぐわぬものとして、わたしのCMフィルム脚本はみごとに否認されちまった。
さて、問題はデモだ。この世のなかで、ヘルメットをかぶったデモ隊が機動隊の警備ぬきでおこなわれるということはまずありえない。デモはあくまでも政治的な手段であって、単純な遊びとしては存在しない。それを子どもたちに遊びとして表現させることは、いったい現実に何をもたらすか。ずいぶん硬いことをいうようだが、それはつまるところ、どんなに激烈なデモも、結局は遊びなのだということになっていく。このCMをつくった人たちの思想は、
「デモなんてものは児戯に等しい」という発想に根ざしているにちがいない。あるいはそれを裏返しして、
「児戯に等しいデモなら許される。ほれ、この通り、テレビにも出るよ」というようなことになるだろう。
だが、現実のデモにおいては、おびただしい血が流され、すでになん人もの若者が死んでいる。だから、佐野斗美クン、佐野あゆみサンの兄妹は口をそろえていう。
「ああ、くだらない。せんべいぐらいで、デモなんか、するものか」と。あれほど、自分たちはデモという政治的=社会的行動に関して無知ではないということだろう。
さらに、日産サニーについては、
「隣のうちのことなんかどうでもいいじゃない」と佐野あゆみサンはいい、
「あいつバカだ。自分のうちだって、隣のやつから見れば隣なのに」と佐野斗美クンはいう。
しかも、その隣の車が日産サニーだったら、いったいどうするのかという発言をすることもある。
「それに、隣といえば、右と左にあるわけだろ。それが自分たちの車とちがうということは、日産サニーは二対一の割合でしかないということだよな。それを自慢してるようなCMを流しているなんて、たいしたことないぜ」と父親がいえば、いまどきの子どもはただちに反応するのだ。
「そういえば日産ってだめなんだってね。トヨタのほうがぜんぜん景気いいらしいよ」
おのずから、その企業のダメさかげんはあらわれてくる。いかにテレビCMのなかの子どもといえども、その製作にたずさわる人たちの思想の表現以外ではない。
伝記のはたす役割
子どものための文学のなかで、伝記がしめている位置はかなりのものだ。伝記さえ出版していれば商売になるという出版屋サンのコトバを聞いたこともある。
しかし、子ども向けの伝記のほとんどは、いわゆる偉人伝というやつだ。ことさらに、その人物が高潔の士であるかのように書いてある。そしてほとんどの場合、ガキのころは貧乏で、苦学をして、親孝行で、正直で、もう欠点なんてものはいささかもないというかたちなのだ。ために、こんな笑いばなしさえ生まれた。ある子どもが偉人伝をパタンととじてタメ息をついた。そしていう。
「ああ、ぼくは不幸だ。ほくは偉い人になれない。だって、ぼくの家は貧乏じゃないもの」
偉人伝ともなると、だいたいどんな人物が登場するかきまっている。外人ならシュバイツァー、日本人なら野口英世なんていうのがその代表格。ところがどの偉人伝をみても、シュバイツァーのいとこにジャン・ポール・サルトルがいるなんてことは書いてない。野口英世が借金ばかりしていたなんてことは書いてない。それどころか、まことにひどいものがある。
シュバイツァーはこころやさしい人で、あるとき部屋にハエがはいってきたのだが、かれはハエを殺さず、窓をあけて逃がしてやったなどと書いてあるのにお目にかかったことがある。あきれたはなしだ。医者ともあろうものが、ハエを殺さず逃がすなどというのは、公衆衛生思想の欠落もいいところであろう。真実は知らない。とかく、偉人伝というやつは、このようにインチキなものが多い。
偉人伝にありがちなインチキな美化性をぶちやぶり、ある時代を、けんめいに生きぬいた人間の記録としての伝記を子どもたちのために書こうという企画に参加したのはつい先日のことである。そしてわたしはマルコムXについて書いた。
マルコムXは一九六五年二月二十一日、ニューヨークで暗殺された黒人運動指導者だ。同じように暗殺されたキング牧師などとはちがい、白人と妥協することなくたたかった人で、いまでもマルコムXの思想は若い黒人に強い影響をおよぼしている。
マルコムが四歳のとき、父親が白人のために殺害された。父は牧師で人種差別反対を叫びつつけていた。父の死後の極貧、非行、思想的なめざめなど、わたしは深い共感をいただきながらマルコムXの伝記を書いたのである。
ところが、私の若い文学なかまは、マルコムXそのものにはそれほどの関心はないけれど、そのマルコムXに共感する佐野美津男そのものには興味があるといった。なぜなら、
「どんなに、おれがマルコムXに共鳴したとしても、おれとマルコムXとはちがうし、おれは第一、父親を殺されるというような時代に生きている人間ではない」というわけだ。
どうも簡単に書いてしまうと軽薄なコトバとして受けとられるおそれがあるが、この若い文学なかまのいいかたは、いわば戦後世代のものの考えかたをあらわしているように思えたのだ。
「人は同時代者からもっとも多くのことを学ぶ」といったのは、それこそシュバイツァーのいとこのサルトルだが、たしかにそれは当たっている。このヘンに平和な時代のなかで、親が思想的な問題によって殺害されるということは、ほとんどありえないであろう。だとしたら、マルコムXのおそるべき幼時体験は、いまどきの若もの・子どもたちのなかへはいりこんでいくということはないということになる。さきほどの笑いばなしをつくりかえるなら、
「ああ、ぼくは不幸だ。ぼくはマルコムXのような人にはなれない。だって、ぼくのパパは殺されていないもの」という具合だ。これではこまる。なんとかしなければならぬ。どうすればいいか。
伝記というもののありかたを根本的に考えなおすということがある。これは必要だ。つまりその人物を過去の、歴史のなかにおしとどめるのではなくて、現在の、同時代者としてつかまえなおすというようなやりかたがあると思う。こういうことになると、いままで偉人として公認されてきた人物のなかから確実に何人かは消えてしまう。
現代社会とのつながりを保ちえない偉人≠ェ消えていくのは、それこそ歴史的必然というやつだろう。どんなに伝記作家が努力しても、現代社会とはつながらない偉人とやらがいるものなのだ。それを消してしまうだけの合理性を、いまどきの若ものや子どもたちはちゃんと持ちあわせている。この合理主義をとやかくいうまえに、偉人のランキング(順位)をもう一度きちんと再検討する必要がありそうだ。
日本人という考えかた
西武池袋線の沿線に住んでいるので、池袋駅を利用することが多い。山手線に乗りかえるためだ。時刻が夕方に近くなるころだと、しばしば目撃してしまうのが高校生らしい連中のケンカだ。はじめはそれを、すこしいかれた連中のたあいのない勢力あらそいぐらいに思っていた。
しかしなんどかそれを目撃したり、ケンカのために待ちかまえている徒党の断片的な会話を耳にしたりしているうちに、これは単純なケンカではないのだということがわかってきた。
池袋駅山手線ホームを中心としてしばしば発生する高校生のケンカは、日本人高校生対朝鮮人高校生という、はなはだ民族主義的なものだ。それを知ったときから、注意してみると、日本人高校生の側にはツメ衿の衿の幅が広く、丈の長い学生服を着用した大学生が指導者格としてつき、高校生たちをそそのかしているのがわかった。
この池袋駅の民族主義的なケンカについては、新聞が小さな記事にしていたことがあるけれど、それはまったく、ケンカ両成敗的な、いやらしい客観性をむきだしにしたものであった。
わたしはもちろんことの詳細を知らない通りすがりの目撃者で、せいぜい電車を何台かやりすごす程度の熱心さでことの成りゆきを見守ったことがあるだけだが、あのケンカ、とてもとても、両成敗などということでケリがつくものではなさそうだ。
まず第一に相当に計画的である。ケンカはどうやら日本人側が朝鮮人側を待ちぶせているとうかたちでおこなわれているようだ。そしてほとんどの場合、朝鮮人高校生のかずがすくない。だから、なぐられ、けられて負傷するのはまず朝鮮人高校生たちであり、日本人側は勝ち誇った顔でひきあげていく。
朝鮮人高校生たちの学校は豊島区にある。そしてあれはたしか新宿区になると思うがフジテレビの近く、東京女子医大の隣には韓国人学校がある。いぜんフジテレビになんどか出演したことがあるので、バスの中や駅で韓国人学校の生徒としばしばいっしょになったが、この人たちが襲われるというようなことは、まずないように思えた。
朝鮮人を襲い傷つけるというやりかたから、わたしたちがすぐに考えられることは、関東大震災の直後に起きた朝鮮人虐殺だ。そこに起きたような事件は、しばしば、日本人の民族意識の潔癖性から発生したと思われやすい。そして、問題は民族主義的に処理されてしまうことが多い。そういう事柄を通じて日本人という意識が形成されるのだなどと考える人さえすくなくない。
けれど、これはそれほど単純でも純粋でもないのだ。もしも、あの池袋駅山手線ホームに集結して、学生服着用の大学生の指揮のもと、いっせいに朝鮮人高校生に襲いかかる日本人高校生が、その心情のなかに、
「日本には日本人だけが住むべきだ」とか、「おれたちの国で、ほかの国のやつにでかい面をされるのは許せない」などということがあるとしたら(大学生はそういうことをケシかけていた)、それは当然、韓国人たちにも、そしてほかの外国人にも向けられるべきなのである。(ケシかけているわけじゃない)
しかし、そうはなっていない。もっぱら朝鮮人だけが襲われている。ここには、高校生たちの単純な日本意識を利用した政治≠フちからが動いているのだ。この政治はかなり危険なものであるまいか。
さきの日航機よど号乗っとり事件のあれこれを通じても、わたしたちは、日本政府のやりかたが、韓国に向かってと朝鮮にたいしてでは、まるでちがっていることに気づかされた。そこではもう日本人というような考えかた、つまり民族意識なんてものはケシとんでしまいただひたすらに軍事同盟国のあいだのメンツのたてあいだけがあった。
目を子どもたちのほうに向けなおし、学校の教育の内容を見ると、このごろはめっきり民族意識の形成なんてことがずいぶんやかましくいわれていて、例の神話なんてものもはいりこもうとしている。神話にたいしては民話だなんてことをいう革新(?)政党もあったりして、これまた民族、みんぞく、ミンゾクとやかましいかぎりだ。
けれど、子どもたちの民族意識の現状は池袋駅の高校生のケンカが象徴しているように、どうにもピントが狂っている。いや、これはピントが狂っているなどということではなくて、もはや子どもたちは人間としての自己形成を日本人という考えかたのなかでなしとげていくなんてことができなくなっているのだ。その意味では地球はたしかにせまくなっている。
と同時に、ひとつの国をなりたたせるためには、同じような考えかたの国ぐにとの同盟をとりむすんでいかなければならない。かくて日本は、世界資本主義体制のなかの一国ということになり、朝鮮はそれに対抗する体制のなかにあるのだ。子どもたちはそれは、ハダで感じとっているのではあるまいか。
エンピツをめぐる思想
パチンコの玉とエンピツの値段はずいぶん長いあいだ戦後≠フままをつづけてきたのであるが、その戦後コンビからまずエンピツが脱落、ごく普通のやつでも十五円になってしまった。そして品質がよくなるにつれて、三十円、五十円、百円という具合に高度成長をとげたのだ。
もっともパチンコの玉にしても五十円で二十五個というところは変わらないが、景品交換のときの個数が多くなっているので実質的にはずいぶんと高くなっている。しかし、いぜんとして五十円でおとなが遊べるところがミソである。
考えてみたいのはエンピツのほうだ。子どもたちのあいだでは、高いエンピツを使うことが一種の流行になっている。小学生でも五十円のやつを持っている子がずいぶんいるし、たまには百円のを使う子もいる。そしてそうした現象を、子どものくせにゼイタクだと非難する親もまたすくなくない。
実のところ、わたしもまた小学生が五十円もするエンピツを使うなんてことは許せないと思っていた親のひとりだったのだ。エンピツ一本の問題にしても、その周辺の事情を調べないで文句をいう権利は親にもないはずだから、それなりに調べてみた。すると次のようなことがわかった。
まず、親たちのエンピツにたいする感覚が古いのだ。わたし自身にしても子どもの戦中派だ。ゼイタクは敵だ、欲しがりません勝つまではなんていうスローガンにとりかこまれて生きてきた。ふで箱のなかに短いエンピツがあると先生がほめてくれた。短いエンピツを使いやすくするためのペン軸みたいなものを文房具屋で売っていた。だから、先生にほめられたいと思う子は、わざわざ長いエンピツを短く切り、それを何本も並べておいたりしたものである。このエンピツ体験をひきずったままで、いまどきの子どもに対しているということはないだろうか。
「弘法は筆を選ばず」というコトバがある。しかし最近の子どもたちはエンピツを選ぶ。なぜか。その理由はエンピツを使いくらべてみればすぐわかる。高いエンピツはたしかに使いやすい。なめらかな書き味だし、黒い粉が出たりもしない。しかも安いのに比較するとだんぜん減りかたが遅い。高いということは決してムダではないのだ。ことエンピツに関するかぎり。
エンピツをめぐって子どもたちの合理主義は高まる。合理主義というと、どうも味もそっ気もない言動を思い浮かべるかもしれないが、それはヘタな合理主義だ。巧みな合理主義はかえって味のあるものである。
ここに一本五十円のエンピツを使う子どもがいるとする。いるのだ。この子は母親に次のような情報を伝える。
「おかあさん、こんどSストアへ行ったらエンピツを買ってきてよ。一本五十円のやつが一ダース四百八十円なんだ」
もっと積極的な子どもは何人かが組みになって四百八十円をつくり、それでエンピツを一ダース買う。そして配分する。一本五十円のものが四十円で買えるのだ。
その高いエンピツを使ってはたしてどれほど勉強の効果があがるのかなどということは、それほど問題じゃない。そのエンピツをめぐって、子どもたちのあいだに情報の交換があったり、協同組合みたいなものができたりするところに注目すべきなのだ。断絶≠ネんてことがよくいわれる。ある週刊誌が「まんが大行進」なんていう別冊を出して。そのうたい文句が「断絶をなくすためにまんがを読もう」だったことがある。つまり若い世代とおとなの断絶を埋めるのに、まんがや劇画が役に立つというわけだ。けれど断絶は世代のちがう人間のあいだにだけあるのではない。親と子のあいだだけにあるのではない。教師と教え子のあいだにだけあるのではない。子どもたちのあいだにも、断絶はあるのだ。
同じ教室で学んでいても、やがては階級を別にされてしまう子どもたちのあいだに、断絶のないわけがない。給食という名の同じカマのめしを食っていたって、やがては対立を余儀なくされるかもしれないのだ。
「ぼくはおとうさんのあとをついで大工になるのだから、役に立たない勉強はしたくない」と主張した五年生のヒロちゃんは教師によって孤立させられた。子どもたちのなかにも、そのヒロちゃんとのつきあいをいやがる雰囲気があったようだ。断絶を体験したままヒロちゃんは転校していったそうである。
このごろの子どものあいだには、意志の疎通がとぼしい。お互いにたいして無関心だ。そのような時代風潮のなかでは、たとえエンピツをめぐってのささやかな情報交換でさえ貴重なことだと思わずにはいられない。ひょっとすると子どもたちは高いエンピツの書き味を楽しんでいるのではなくて、それをめぐるコミュニケーションを味わっているのかもしれないのだ。
四歳のある晴れた朝
気象台はじまって以来とかいう雨なし記録に終止符をうつ風雨が激しく窓ガラスをたたいた翌朝はもうすばらしい青空であった。その青空をながめながら、あれはたしか、まだ幼稚園にあがるまえのそうだ、四歳の冬の朝のことだった・・・・・・というかたちでわたしは追憶にふけりだす。わたしはしばしば、この四歳の冬の晴れた朝の〈記憶〉を調べなおし、構成しなおしている。すでにわたしはこの記憶を自分の童話作品の一部に活用した。
いままでに明確になった記憶はざっとつぎのとおりだ。
まず、わたしがふとんを抜けだして台所へいくと千恵サンが、炊きあがったメシを釜からメシびつに移していた。千恵サンは住込みの見習女工なので、工場での仕事のほかに朝の食事の仕度もやらされていたのだ。
千恵サンはわたしに、にぎりメシを作ってくれた。それを食っていると、祖父がやってきて散歩に行こうという。祖父といっしょに浅草本願寺の境内へ行く。たくさんのハトがいた。祖父がたもとから豆をだしてまいてやる。ハトが寄ってきた。
自転車にのった子どもがやってきたので、ハトは飛び立ち、わたしと祖父は家に帰った。とちゅうで祖父はわたしのあたまをなでてくれた。
まことに簡単な記憶だが、わたしはこの記憶をこれだけにまとめあげるために、かなりの作業を必要とした。まず、おぼろ気な記憶の段階では、四歳などということがわかるはずがない。なぜ、それがわかったか。祖父がわたしの家にいたのはこの翌年の春までだったからだ。つまりわたしの記憶はわが家の変遷史と深くかかわっている。祖父、祖母、そして母の弟妹たちが家を出るについては父とのあいだに何か問題が生じたからだ。
にぎりメシを作ってくれた千恵サンはこのときは川井千恵、のちに嫁して岡部千恵となる。この千恵サンには五年前に福島県本宮で再会し、わたしの記憶をたしかめることができた。もっとも千恵サンにいわせると「おにぎりを作らされたのはわたしだけではなかったけれど・・・・・・」とのこと。食いしん坊だったのだ。こうしてささやかな記憶はわたし自身の生育史のなかの一ページとなる。
どんな人間にも、幼い日日の記憶はある。いま、現に、幼い日日をおくりつつある子どもたちも、おとなになれば、幼い日日を回想し、その記憶のなかに自己を発見するのだ。しかし、つぎのような人の場合、それはどういうかたちをとるのだろうか。
《二十年前、日本に生まれた混血孤児、山形澄生君は養子としてアメリカに渡ったが、昨年春、突然アメリカ海兵隊の軍曹となって日本に現われた。ベトナムで負傷し腹に三発の弾丸を残したまま生まれ故郷にやってきた。
もはや日本語をまったく話せず、その名もジョセフ・メイと変えた彼は、少年時代を過ごしたエリザベス・サンダース・ホームを訪れ、母親の消息をたずねた。父親である米兵が発狂し、母親は泣きながら孤児院に自分を託して行方不明になったことを知った山形君は、深い自己けんおに陥ったが、自分が何者であるかを確めるため母親捜索の旅に出る》(東京新聞・放送欄)
右の文章はテレビ番組の予告宣伝文である。残念ながらわたしはテレビそのものを観る機会をのがしてしまったのだが、右の文中の自分が何者であるかを確めるため≠ニいう部分にショックをうけた。これは単純に、自分の氏素姓を知りたいということではあるまいと思われるのだ。カングレバ、こういうことになる。テレビを観てもカングリは必要だ。
山形澄生クンはベトナム戦争で負傷し、まさしく死というものに直面したとき、生きるということ、すなわち自分を築きあげていくことの意味をまさぐりはじめたのだと思う。これはコトバをかえていうなら、自覚的に生きるということになる。これをさらに発展させて考えると、こうだ。人間が自覚的に生きるためには、自分が何者であるかをたしかめなければならず、それは必然的に幼い日日の〈記憶〉にまでさかのぼらざるをえない。その部分がポッカリと空白になっているのでは、人間、自己の構築も自覚もまさしくなすすべがないのだ。
けれど、もうすでに書いたように、幼児の記憶より鮮明に構成しなおすためには、周辺の人びとの協力が必要なのである。関係者の証言がなければならない。いま、現に幼時を生きる子どもたちの周辺にいる人間、関係者といえばだれか。そのなかの最たるものは親だ。親はいつか、子の〈記憶〉の証人に立たされる。立たさなければならない。
その子を捨てて立ち去っても、その子がいつしか自覚的人間になれば、捜索もされる。親と子の関係は再現される。わたしの場合、親はすでに鬼籍だが、それでもわたしは、その親をなんども招喚した。それはつまり、親子関係、あるいは、家庭教育≠フ再検討なのだ。
大学や各種学校などで「児童文化講座」を担当したりするとき、わたしはかならずといってよいほど、その出席者たちに、「子どもだったころ」という作文を書いてもらう。するとほとんどが、親子関係のなかで、自分の幼時期を再発見するかたちをとっているのだ。それらを見ても、子どもにとって、親の存在のかけがえのなさは明白なのである。(テキストファイル化飯村暢子)