『子ども族探検』(第三文明社 1973)

紙ヒコーキ乗っ取り事件

 乗っ取ったのは校長で、乗っ取られたのは五年四組の悪童どもだ。ところがこの乗っ取り事件、両者の考えかたにモーレツなズレがある。そのズレに“断絶”がある。断絶があるからこそコミュニケーション(伝達)の可能性がある。この可能性をガッチリつかまえておかなきゃだめだ。これが結論。結論を先走らせておいて事件のあらましを語ろう。
 それは幾日もぐずついた天候がガラリ変わって、鯉ノボリが風にはためく五月晴れの朝のことであった。
 練馬区立石神井小学校五年四組の男の子数人は、久しぶりの青空に向かって、何かしたいという衝動に駆られたのである。休み時間に彼らは紙ヒコーキを折り、それを校庭に向けて飛ばした。だれの作ったやつが一ばん滞空時間が長いかなんてことも真剣に調べられた。見物の女の子もずいぶん楽しんだ。
 かなりいい気になって飛ばしたので、校庭のあちこちに白い花が咲いたみたいな状態が現出した。そして休み時間は終わった。いい遅れたが、この段階ではまだ校庭には水たまりが残っていたりしたので校庭の使用は禁止されていたのである。
 勉強の時間が終わり、また休み時間がきたら五年四組の教室へ校長が現れた。そして紙ヒコーキに関係した者は呼び集められ、「紙ヒコーキあそびは厳禁する」と申し渡されたわけだが、このとき校長は、その理由を説明しなかったらしい。そのために、校長と子どもとのあいだに一種の断絶が生じた。何ごとにも明白な、相互に理解しあえる理由が必要なのだ。理由ぬきの申し渡しは強制でしかない。まして小学校五年生ともなれば、十分に話しあいは可能である。ところが校長、それをやらなかった。
 五年四組の担任Kセンセイはこの事件に関心を持ち、まず校長になぜ厳禁するのか、その理由をただし、つぎに子どもたちに向かって、なぜ厳禁されたと思うかを質問した。
「教室の窓からヒコーキを飛ばしてはいけなかったのだ。教室は飛行場じゃないからね」
「いや、違う。落ちたヒコーキで校庭がきたなくなったから校長センセイは怒ったのだ。紙ヒコーキも落ちてしまえば紙クズになる」
「そうか、それじゃ、だれかひとりかふたり、校庭に待っていて落ちてくるヒコーキを拾えばよかったんだな」
「こんどから紙ヒコーキをやるときは、ジャンケンで拾うかかりを決めよう」
「そうだ、校庭は石神井小学校の、みんなのものだからオレたちだけで勝手によごしてはいけないのだ」
「校長先生に乗っ取りされるようなことになったのは、ほんとうにまずかった。反省しよう」
 反省しよう! 子どもは子どもなりに理由を考えだし、反省しようと誓いあったのであるが、これが校長のほうの“理由”とはまるでくいちがっている点に注目していただきたい。
 なんと、校長のほうの紙ヒコーキ厳禁の理由は、
「ノートを破って紙ヒコーキを作るなんてことは教育上許されない」だったのだ。おそらく校長としては、紙ヒコーキなんてものは、新聞の折り込み広告でも使ってやるべきと思ったのだろう。
 だからKセンセイは説明した。
「ノートを破ったりしてムダに使ってはいけないのだ。そういうことはもったいないと校長はいうのだ」
 子どもたちは直ちに反論した。
「ノートなんて、いくらでも買ってもらえる。もったいなくなんてないよ」
 大量消費時代を生きるガキどもに、校長の心情は理解され難い。校長の過去には苦しい耐乏生活の時代があったのだろうから、校長のいいぶんにも一理はある。けれど、それを直ちに理解せよと、いまどきの子どもに要求するのは無理だ。人間はそれぞれに、時代の子以外ではありえないからだ。
 Kセンセイは校長と子どもたちとの中間に位置する年齢である。校長のいいぶんもわかるけれど、やはり古臭い気もする。とはいえ、ノートなんていくらでも買ってもらえるとほざく子どものコトバにも反発したくなった。そのノートを買うカネは、やはり親たちがそれなりに苦労して稼ぐわけだ。そこで一発、Kセンセイは子どもたちを恫喝した。
「それじゃ、てめえら、いっぺんに百冊のノートを買ってもらえるか。買ってもらえるやつがいたら、買って持ってこい、そしたら全員で紙ヒコーキ作ってじゃんじゃん飛ばそうじゃないか。大ヒコーキ大会をやろうじゃないか。教室の窓からじゃなくて、屋上から飛ばそうぜ。そして学校のまわりじゅうに紙ヒコーキまきちらそう」
 子どもたちはKセンセイをなだめるようにしていったそうだ。
「わかったよ、センセイ。そんなにオーバーにいわなくても、おれたち、よくわかるよ」

ママと呼んであげない

 学齢前のチビッ子をふくめて女の子たちがママゴトをやっているのを家の中で、さして気にもとめずに聞いていた。けれどそのうち興味ぶかい会話が耳にとびこんできた。子どもたちがさかんにもめているのだ。その理由は、おかあさん役をやる子どもがいないからなのである。耳をすました。
「だれか、おかあさんになってよ」と、リーダー格の子がいっても、志願する子はいない。リーダーに向かって、
「マキちゃんが一ばん大きいんだから、おかあさんになってよ」といった子がいる。するとリーダーが怒りの声を張りあげた。
「やーよ。あたし、おかあさんになるのなんて、絶対いやだわ。おかあさんなんて、みんなのためになんだかんだって、いっしょうけんめいやるんだからぜんぜんつまらない」
 ほかの子も、母親役は絶対にいやだと主張する。結局、一ばんチビの、しかも男の子が母親役をおしつけられてしまった。そして、ほかの子どもたちはそれぞれ勝手に、父親だの、姉娘だの妹娘だのと自分の役をとりあい、ママゴトは始まった。
「おかあさん、あたしの靴下どこにあるの。ねえ、おかあさん、洗っておいてっていったでしょ」
「おかあさん、早くめしにしてくれよ。何をもたもたしてるんだ」
「おかあさん、このごはんまずいね。いつまでたっても、おかあさんは料理がヘタだね」
 とにかく、勝手なことばを吐きだして、おかあさんをイビるのである。はたして、現実の母親が、このような忙しいものかどうかは疑わしい。もしかすると、実際の母親がダラダラしすぎるので、子どもは家族たちの願望を表現しているのかもしれない。
 母親役の男のチビッ子は泣きべそをかきながら、ゴザの上をもそもそと動きまわっているようであった。
 すこし昔をふりかえってみれば歴然とするように、ママゴトなんてものは、ちょっとおしゃまな女の子が母親役をやり、他の子どもは娘役や息子役あるいはお客役で対応し、万事“おかあさん”を中心に遊びが進行していったものだろう。ところがいまや、母親役は末端の、イビラレ役になり果てたのだ。わたしの家の周辺だけが特殊なのではない。このような傾向は幅広く現象している。
 さて、こんどは中学二年の娘を持った母親の嘆きだ。ここにも当節の母親の受難がある。そして子どもたちの、母親感が鮮かに突出している。
「こないだうちから、娘があたしのことを、“あんた”って呼ぶんです。感じが悪いから、あんたなんて呼ばないでよと叱ったら、娘はちゃんとした理由があって、“あんた”というんだといばってるんです。それじゃあと理由を聞いて驚きました」
 中学二年の娘のいい分。
「こないだまで、ママと呼んでいたのは、あたしが子どもすぎたからなのよ。まちがっていたんだわ。だってそうでしょう。ママというのは主婦なんだから、パパとともに一家の中心にいるべきだと思うの。権利もあれば義務もあるわけね。その点、お手伝いさんなんかとは基本的にちがうのに、うちのあの人は家の中の雑役になりさがっている。いまとなっては、とてもママとは呼んであげられないわ。ママと呼ばれたかったら、もっとママらしいことをして見せてちょうだい」
 ずいぶんときびしい意見である。母親の立場からすれば、いろいろといい分もあるはずだ。娘の意見は文字どおり青臭いかもしれない。しかし、この批判は、単に相手をへこまそうとしたり、傷つけたりすることが目的の批判ではない。どう考えてもそうは受けとれないし、受けとるべきでもないだろう。いうなれば、これは子どもが自分の未来に対してひとつの挑戦を試みたというかたちなのだ。
 ママゴト遊びの子どもたちにしても同じことだが、女の子たちを待ちうけている未来はやはり、特殊な例外を除けば、ごく一般的な家庭の主婦、つまり母親という“座”だ。これを否定する人もいるだろうが、そのことに大きな意味は発見できない。お好きなら勝手にどうぞという程度。
 となると、女の子たるもの、現実の母親のあり方に注目せざるをえない。現実をとびこえたかたちの未来なんてあるもんじゃない。過去とまったく無関係に現実がないように。
 そして注目の結果、子どもたちは母親の現在を批判する。現在の母親のありようこそが、未来の母親すなわち子どもたちの来るべき日日を決定するとなれば、黙ってそれをみすごすことはできないのだ。すなわち、子どもは未来をよりよいものにしたいのである。そういう意味での欲張りなのだ。いいことだ。未来を大きく欲張るべきだ。母親たちも未来を志向しながら、子どもたちとカンカンガクガク討論したほうがいい。それができるキッカケがいま盛り上がっている。

日曜も休みなく

 小学六年生の西泰二クンはこのごろめっきり友達とのつきあいが悪くなった。それというのも日曜日になると電車にのって代々木までいき、ある予備校の模擬テストをうけなければならないからだ。これをうけるためには当然のことふだんの日もガリガリと勉強しておかなければならず、必然的に友人たちと遊ぶ時間はすくなくなる。
 西クンはもっとも仲のよい佐野斗美クンに胸中をうちあけて曰く、
「このウラミは私立中学の入学試験のときにはらしてやるんだ。おれはわざわざまちがった答えを書きこんで落ちてやる。だれが私立中なんかへおとなしくいってやるもんか」
 西クンの母親はPTA副会長だ。この点も当然考慮されたのだと思うが、つい先日、学校の教師がひとり病死したとき、その葬儀の席で弔辞をよむのを指名された。これを教師のほうで名誉ある大役をふり当てたような気でいる。なにしろ全校の児童代表だ。ところが西クン、教師の思惑がわかっているだけにおもしろくない。まして弔辞となれば読み書きで国語に関係ある。となればクラスにも自分よりつねに成績のいい子が何人もいるのだ。それをおしのけてやるのもいやだし、というわけで弔辞役をことわったのだが、その理由として、
「ぼくには日曜も休みなく勉強がある。とても弔辞までは手がまわらない」ということをあげた。これにはさすがのオベッカ教師も返すコトバがなかったという。いよいよ西クンの“教育”への反抗がはじまったのだ。はたして無事(?)に入試失敗作戦までいきつけるかどうか。
 ここで視野をひろげてみるならば、西クンのような状態におかれている子どもの数はおびただしいということがわかる。わたしの若い友人Kクンは東大大学院の院生という資格で(といってKクンのような全共闘派は東大構内に近づくこともできないでいるのだ)ナントカ学力増進会の日曜ゼミの講師をやっている。そのKクンの話によると、日曜ゼミにやってくる小学生も中学生も、そこに出てくる必要のないガキどもだそうである。
 すなわちテストをやれば四十点満点のところを三十八点、三十九点もとる子がほとんどで合格点に達しない子はほとんどいないという。何かを教えようとすれば
「ああ、それはもうやったよ」といい、
「これはどうだ」と問えば、
「それも知っている」と答える。つまり日曜日にわざわざゼミに出てくる必要のない連中なのだ。
「そんなら、おまえたち、日曜日なんだから、家にいればいいじゃないか」というと、子どもたちは首を横にふる。
「家にいるとママがうるさいんだ。ママのうるささにくらべれば、ここへ出てくるほうがずっとましなのさ」というのが、共通の答え。同じ勉強でも日曜日のそれには救いがあるというわけだ。
 ということもあり、何を教えようとしても「知ってるよ」といわれて意欲をなくしているということもあって、Kクンは子どもたちとクイズあそびなんかをやって時間をすごしてしまうことが多いそうだが、ずいぶんと哀れな子どもたちがいるものである。
 勉強がよくできるということは悪いことではない。できないよりできるほうがいいに決まっている。しかし、ただひたすらガリガリとおしこまれる勉強は子どもにいたい何をもたらすのだろうか。このことを改めて考えさせられてしまう。
 もうずいぶん前のことになってしまったが、群馬県に島小学校というのがあり、そこの校長斎藤喜博センセイが、教える者と教えられる者とのあいだには“感動”がなければならんということを主張した。いろいろなうけとりかたはあると思うが一口でいってしまえば、島小の教育理念は感動を基調にするということだったと思う。その島小の教育は一時期、意欲的な教師のあいだで相当に高く評価されたのだ。しかしいまは……もう島小の教育も斎藤喜博センセイの理論も古典となってしまった。そこで改めて考えたいと、わたしなんかは思うのだ。
 教育における感動とは何か? それはいうまでもなく、新しい知識にふれるよろこびのことなのだ。それまでわからなかったことがわかるようになる。知らずにいたことを知らされる。これらのことは魂の喜び、すなわち感動でありうるはずなのだ。ところがいまの子どもたちは、感動ぬきというべきやりかたで教えられていく。
「さ、わかったわね。それでもうこんどのテストは大丈夫よ」というやりかたの教え手と、「やれやれ、これでようやく何十ページか」といううけとめかたの教えられる側とのあいだに感動のうまれる余地はない。
 感動ぬきに与えられた知識は体験とはならず、掌にすくった浜辺の砂が指のあいだから落ちこぼれるように、いつかはかなく消えるのだ。

学校とはなんだ

 大田区立K小学校の六年生、三十数人が描いたという自由画を見る機会があった。六年生にもなると、普通、図工の時間に自由きままに絵を描くということはめったにないようだが、その小学校には「自由画こそが子どもの美術教育にとって最も適切な方法なのだ」と考える図工専科のセンセイがいるため、六年生になってもなお、自由画を描く時間が与えられているのだ。
 自由画ともなれば、それぞれの子どもの胸のうちにあるものが表現されてくるはずだと考えるのが妥当だろう。もちろん、その子がいちばん描きたいと思ったことが巧く描けそうもないので、巧く描けそうなものを題材として選んでしまうということがあるかもしれない。しかしそれでも、胸のうちにある何かであることには変わりがない。ないはずだ。
 ところでわたしの見た六年生の自由画だが、まことに貧しいのである。男の子のものでは宇宙船あるいはジェット機なんていうのがかなりの数。そして女の子は人形のような女の顔や緑の並木道なんていうものが多い。とにかくおしなべて、
「これが六年生にもなった子どもたちの心象風景なのか」と心寒くなる絵ばかりであった。もっともわたしが受けた印象では、専科のセンセイの教育方法にもかなりの問題があるように思えたが、それをいまここで論じるのが目的ではない。
 むしろ、ここでわたしたちが真剣に考えてみなければならないことは、学校とは何か、そして教育とは何かという問題である。というのも、実際に表現されてきた絵そのものはすこぶる貧弱であったにせよ、それを描きすすめる過程、つまり図工の時間が、学校教育ぜんたいのなかではかなり“自由”な時間であったらしいからなのだ。
 その図工専科のセンセイは、できるかぎり子どもを叱らないのだという。たとえば子どもたちが窓からの出入りするようなことがあっても叱らない。そういうかたちで子どもたちが自由の試みをやっていることが貴重なのだと主張する。
けれど、図工の時間以外では子どもたちは窓からの出入りをほとんどの場合厳禁されている。ほかの勉強のときには禁止されていればこそ、自由が与えられた図工の時間にはその“禁”を破ってみる。たしかにこれは子どもらしいやりかただ。その図工のセンセイも、自分の授業中そうした子どもらしい反抗がおこなわれていることにずいぶん満足しているようであった。だが、わたしは、
「じょうだんいうな。そんなくだらない自由で子どもに満足を与えられてたまるか」といいたい。だってそうだろう。ほかで禁止されていること−−窓からの出入り−−を、禁止されてもいない図工の時間にやってのけることがなんで“自由”な行動なのだ。それは錯覚でしかない。ほんとうに子どもたちが自由を自分たちのものにする気なら“窓からの出入り厳禁”の場でこそ、それをうちやぶる行動を起こさなければならない。それじゃなきゃ無意味だ。
 ここで舞台がくるりと回り、おなじみ石神井小学校となる。そして六年生の佐野斗美クンたちと担任のMセンセイとの論争。
 セン「学校へ仔犬なんか連れこんでいいと思うのか」
 ガキ「この犬はおとなしいから勉強のじゃまにもならない。家で飼いたいという人が出るまでならいいじゃないか。いま飼い主を募集中なんだから」
セン「だめだ、学校は犬なんか飼うところじゃない。その犬は保健所にわたす」
 ガキ「保健所へいけば犬は殺される。それを知りながら犬を保健所へわたそうとするのは、ふだん、動物をかわいがろうなんて教えているくせにおかしいじゃないか」
 セン「とにかく学校は犬なんか飼っておくところじゃない! 学校ではそういうことは禁止されているのだ」
 ガキ「だれがそんなこと決めたのさ。ぼくたち知らないよ。学校ってセイトとセンセイとがいるところでしょ。それなのにセイトが知らないうちになんでも決めちゃうなんて、ずるいや」
 セン「そんなこといっても、決められているものは守る必要があるのだ。ここは学校だ、学校なんだ」
 その学校では校庭の片隅でニワトリやウサギを飼っている。飼育当番まで決めて。
「それなのに、犬がいけないというのはおかしい。ちゃんとした理由があるなら、先生はそれを説明してほしい」というのが子どもたちの要求である。
 けれどセンセイは答えない。答えられないのだ。窓からの出入り厳禁にしても同じことだ。窓は出入り口ではないからというのでは答えになっちゃいない。答えられないから仕方なくセンセイはそれらを破らせ、自由を与えているなどという自己満足にひたる。いずれにしても、学校とは何かという問いかけが決定的に欠落しているのだ。
 
 いうまでもなく、学校とは何かという問いかけを必要としているのは、学校教師だけではない。子どもを学校におくりこんでいる親たちひとりびとりにとっても、その問いかけが、いまほど必要なときはない。教育をめぐる「権利」と「義務」のたたかいをおしすすめる動きも目立ちつつあるが、その根元には、つねに、子どもにとって、親にとって、教師にとって、さらには人間にとって「学校とはなんだ」という絶えざる問いかえしが存在しつづけなければ、せっかくの“運動”も特定党派の政治力に利用されるのがせいぜいである。かつての高校全入運動では、その問いかけ・問いかえしの欠落が命取りとなって挫折したのだ。
テキスト化井出祥子