『子ども族探検』(第三文明社 1973)

Vこどもたちはいじめられている

 子どもが、おとなにいじめられる場合、その理由はどうあろうとも、おとなが悪いに決まっている。
 おとなが悪いと極めつけるべきである。
 社会全体のなかで、おとなと子どもはどちらが強いか。おとなが強い。子どもは弱い。
 弱い子どもは、強いおとなからいじめられるという関係において、つねに、まちがいなく正しいのだ。
 おとなが子どもをいじめるとき、おとなの背後には、おびただしい数の、強いおとなたちがいる。そのおとなたちの背後には、さらにおびただしい数のおとなたちがいて、そのまたおとなたちの背後には……というかたちで社会の仕組みがあって、おとなは居丈高となる。
 子どもを、なぐるおとな。
 子どもを、つきとばすおとな。
 子どもを、ころすおとな
 それらのおとなの背後に、すべてのおとなは存在している、と、いわねばならない。


強制するのはオカシイ

 幼時体験の多くを美しくもかなしくうたいあげた詩人・中原中也の詩の一節に、
  幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました
という詩句があるのは有名だ。その中原中也の時代から幾時代かが過ぎ去ったいま、“黄色い戦争”なるものが起きている。といっても糞尿譚なんかじゃない。レッキとした子どもと教師(あるいは学校)のあいだの戦争なのである。
 東京都練馬区立石神井小学校五年の佐野斗美クンは、このところ毎日のように、担任のセンセイと対立している。それというのも、斗美クンがクラスのなかでただひとり、黄色いぼうしをかぶっていないためだ。
 一日の授業が終わる。サヨナラということになって全員がカバンを背おい、ぼうしをかぶると、斗美クンただひとりが、鮮やかな緑色の野球帽をかぶっている。センセイは、それを見ると、かなりイライラするらしい。
「キミはどうして、黄色いぼうしをかぶってこないんですか」
「持ってないからだよ」
「新学期から黄色いぼうしが校帽になっているんですよ。キミはそれを親にいってないんじゃありませんか」
「いったよ。でも、うちじゃ反対なんだもん。それにボクも、こっちのほうがすきだからね。黄色なんて、すきな色じゃないもん」
「そうか、キミのうちじゃ、その緑色の野球帽をかぶれなくなるのがおしいもんで、黄色いぼうしが買えないのですね」
「そんなこと、ボクは知らないよ。でも、それほどビンボーじゃないと思うよ」
 というようないいあいが繰りかえされているらしい。
 斗美クン、親にはこういう。
「かなりしつっこいねえ、男のクセにさ。ねえ、おとうさん、オレにヘルメット買ってよ。オレ、もう、ゼンガクレンみたいになりたいよ」
 問題の親はわたしである。緑色の野球帽を買ってやったのもわたしだ。教師のいうように、緑色の野球帽がオシイから黄色いぼうしを買わないのではない。黄色いぼうしが強制されたから緑色の、それも鮮明な緑色のぼうしを買い与えたのだ。
 義務教育である区立小学校において、校帽などというものを決めるのがまず第一にオカシイ。それも市価百五十円位のものを三百円の高値で売る。その差額がどうのこうのというわけではないが、その画一化によって学校の格があがるとでも思っているらしい精神がイヤシイ。肝心なのは内容さ。
 黄色いぼうしが交通安全に役立つのは事実だとしても、それはゼッタイ的なものではなかろう。要は注意することだ。万が一のことを考えればデッカイ口はきけないが、黄色いぼうしで安心しているよりは、無帽あるいはほかのぼうしで注意しているほうが、交通事故から遠いはずである。
「自動車に気をつけろ」と親がいえば、
「ウン、黄色いぼうしじゃないからね」と子どもは答える。
 斗美クンの妹は四年生。もちろん妹も黄色いぼうしなどかぶってはいない。
「佐野あゆみサン、あんたどうして黄色いぼうしかぶらないの」
「うちじゃ反対なんです」
「そう」
 妹のほうのセンセイはそれっきり、何もいわない。このセンセイ、四年生になっても学校が音楽専科の教師をよこさないということで戦っているらしい。
「オルガンだってひけないわけじゃないが、まちがっていることに対しては、あくまでも抗議するんだ」といって音楽の時間に、子どものすきな曲の独奏などやっておしまい。
「音楽の時間がいちばんおもしろい」とあゆみサンはいう。
「いいなァ、おまえら、オレたちなんて、休み時間にも勉強したりするんだぜ。それに、体操の時間なくして算数やったりさ。決められてないことを守ってないのは、アイツのほうじゃないか」
 子どもはすでに、その教師の本質を見ぬいてしまっているのだ。
「ホントはいやだけど、しかたがないからかぶってるやつもいるんだよ。わざわざ、そういいにきたやつもいるよ」
 教師の弾圧(オーバーな表現だが、子どもにとっては、文字どおりのダンアツだろう)にくじけることなく、“黄色い戦争”を戦っている子どもが、心のなかにかちとっていくものはなんだろう。わたしは親バカ的な楽天主義だけではなしに「子ども族」探検者として、子どもが黄色い戦争によってかちとる何かを、価値あるものとして信じたい。
 参考までにつけ加えるなら、黄色というのは、現今の学生運動のなかで、もっともイヤラシイ役割をはたしつつある民青のヘルメットの色彩である。

交通戦争対策に決め手なし
 集団登校という方法がある。てんでんばらばらに登校したのでは途中、車にやられるおそれありというわけで“復活”した。戦時中にも集団登校はあった。軍隊組織のミニチュア判というかたちで。
 ところが最近、集団登校はかならずしも効果的な方法ではないのでは……という声が出はじめ、これを廃止しようとする学校が多くなった。こんどの新学期からは自由登校ということになるところがすくなくない。
 佐野斗美クン、佐野あゆみサンの通っている小学校も集団登校とりやめの方針をうちだした。二月に自由登校をテストし、その結果をアンケートでまとめ、自由登校を希望する声多しとの判断に立ったからだ。
 もちろん親たちのなかには、集団登校をつづけるべきだという意見もあったが、それらはともすると、交通安全と道徳教育とを混同しているのであった。
「集団登校によって、子どもたちはアイサツができるようになる」なんていう意見が意外に多いのだ。とはいっても自由登校派もそれほどの正論ではない。
「自由登校になれば子どもも親も責任をおわなくてよいから」という意見。これは班長として責任をまぬがれたいの一念からきているまったくの自分勝手。子どもがもしも低学年なら意見は逆になったかもしれない。
 かくて、わたしのひきだした結論は、いまや交通戦争にたいして“これだ!”というような決め手はないということなのだ。こうすれば絶対安全なんていう方法はありえない。
 過日、ある広告代理店からたのまれて、交通安全絵本のための文章を書いた。これはソノシートとともに全国の幼稚園にくばられるものだ。スポンサーは自動車メーカー。この仕事をしながらつくづく感じたのは、交通安全対策というやつは、いささかもニンゲンの側に立ってことを考えていないという事実。これは何も交通安全絵本だけの問題じゃない。
「横断歩道を渡るときは手をあげよう」というおしつけ。これは、手をあげることによって走ってくる車の運転手にあなたの存在をたしかめていただきなさいという発想からきている。それでもまだ車の方を優先させえないとなると、歩道橋をつくる。おまえたちニンゲンは車のじゃまにならないように橋を渡っていけ。階段をのぼるのをいやがるな。足腰がきたえられて一石二鳥だよ、というおしつけ。
 さらにいうなら、まえに書いたけれども、黄色いぼうしという発想がある。それをかぶれば安全だと売りつける。ついにはそれが制帽となる。この根底にあるのは、あるくニンゲンはみんな同じ服装をし、同じ動作をするようになれば安全なんだという考えかただ。ニンゲンどもに個性があるから危険だという思想にまでつながりかねないこの発想。
 いまのまま、交通安全対策を自動車メーカーと制服警官の発想にまかせておいたのでは、さきゆきニンゲンは道路を歩くことが許されなくなるのではないか。
 車があぶないというひとことのために、子どもたちは多くのものを奪われてしまった。奪われつつある。交通安全の美名のもとに、子ども時代そのものが失われつつあるといっても過言じゃないと思うのだ。
 話をもとに戻すが、自由登校派の意見のなかでかなり多いのが「ガードレールが整備されたから」というやつ。たしかに学校への通学路のほとんどにガードレールがついている。なかにはドブにふたをし、その上を歩道にしたところがある。それも安全になったので、親たちはひと安心。自分の子どもたちがドブ板の上を歩かされることに感謝さえしているわけだ。
もともと自動車なんてものは、ニンゲン生活を便利にするためにつくりだされたものなのに、いまや自動車はニンゲンに牙をむいて襲いかかってくるものとなった。このあたりで、車の居丈高な態度をとっちめておかないと、とりかえしのつかぬことになるのではないだろうか。繰りかえしていうが、交通安全に決め手なんかありはしない。これで安全なんていう方法はない。
 朝、佐野斗美クンも佐野あゆみサンも「行ってます」といい、「気をつけてね」と親からいわれないと、なんとなく安心できない。なんとなくだ。
 それでも、いままでどうにか無事にやってきたのは、幸運だっただけの話で、安全の決め手をもっていたわけではない。身の安全を幸運にたよらなければならないなんてことは、ひどく非科学的な話ではないか。
 決め手のない交通安全のための絵本に文章を書いてカネもらい、そのカネで子どもを育て、車にびくびくしながら子どもたちは毎日を過ごしている。これはいったい、なんだ。

親はなくても……
 精薄者のための養護施設のひとつで、すごいことがおこなわれていたというので、新聞紙上はまことににぎやか。朝早くからのカコクな労働。みじめな食事。病気になっても医者にもかかれず、経営者はナグル・蹴る。その上、職員の給料までがピンハネされた。
 たしかにひどい施設である。その経営者が朝鮮人であるとか日本人であるとかにかかわらず、社会事業の美名のかげで、悪事を重ねるとは許せない。
 とはいえ、戦後の混乱期に施設での生活(精薄ではないけど)を体験したことのあるわたしにいわせれば、あの程度の事柄はごく普通だった。いや、もっとひどいところだってあった。いうなれば、施設というところは、ひどいところに決まっていたのだ。
 喜劇王チャップリンの伝記などを読むとイギリスの施設(貧民児学校)でも相当にひどいことがおこなわれていたようである。つまり世界共通のこととして、施設はひどいところと決まっていた。しかし、その常識がとうにか消え去るようになるまで、施設の内容は改善されてきた。
 ひっとすると、いまの世の中で、最もめざましく高度成長をとげたのは、養護・保護施設であるかもしれない。わたしは連日のように新聞紙上でさわがれてる施設の悪事を読むたびに、こんな程度のことが、こんなにも問題になるのだから、他の施設ではこんなことはないだろう……と考える。
 ところで、あの施設をめぐる事件は、新聞の読者つまり世間の人びとにどのような感じを与えるであろうか。こんなひどいことは許せないと思うのは当然として、やっぱり、施設というのはひどいところなのだ、という古い常識が復活してくるということはないのだろうか。そういうこともありそうだ。
 もう一度、改めて、施設というところは、みじめなところだと思うこと、そういう常識を持つことは、施設の内容をもう一歩向上させるのに役立つかもしれない。
 けれど、施設に関する古い常識とシャムの兄弟のようにくっついているのは、施設にいる子ども、あるいは施設出身者にたいする偏見なのだ。
 施設はみじめだ。みじめな環境では健全な人間は育たない−−という三段論法の偏見。この偏見には、わたし自身サンザン苦しめられたものさ。
 たしかにいつの時代でも、施設病と名づけられるようなものはある。施設が改善されすぎたために、そこが温室のような無風地帯となり、そこで育った子どもには自立心が欠けるというようなことがいわれている昨今ではある。
 とはいえ、施設にいるより、家庭にいる子どものほうが、幸福で健全だと思いこむほど愚かしいことはないのだ。施設にもよりけり、家庭にもよりけりである。
 MとTの家では夫婦仲が悪かった。母親はMとTに父親の悪口ばかりをきかせつづけた。そりかげには、父親の性能力にたいする不満があったらしいのだが、そんなことはこどもになんの関係もない。
 ついに離婚。父親は自家用運転手で生活力はあるのだが、母親の宣伝でMとTの父親にたいする印象は悪い。MとTは自分の意志(?)によって母親と暮らすことになったのだが、母親はいままでの生活の反動というか、先天的にそうなのか、生活のためという大義名分ができたからか、まるで娼婦同様になった。
 小学生ながら、、MとTはほとんど外食。母親のところへ男がたずねてきているときなどは、家の前の暗闇に兄弟ふたりでたたずんでいることがあった。
 ある朝早く、Mが近所に駐車してある自動車をのぞきこみ、ドアがあくともぐりこみ、めぼしいものはないかと探している姿を見た。
 惚れた男にふられたとかで、母親は自殺を計った。スイミン薬を呑んで大イビキをかいている母親のかたわらで、MとTはぐっと唇をかみしめていたそうな。それでも一命はとりとめて帰ってくると、こんどは隣近所の亭主族に色目を使いはじめたので、あたりは奇妙なパニックに襲われた。が、家賃不払いがつづいたので、民政委員が動き、MとTと母親は母子寮へはいった。とたんに、母親は発狂し、精神病院に収容された。
 そしてMとTは都立の養護施設にはいったのだが、ここでようやく、兄弟は、人間らしさを取り戻したかに見えるのである。やせ細っていたからだにも肉がついてきたし、施設から学校の行き帰りなどに道で会うと、ニコッと笑ったりするようになった。
「おかあさんは死んだんだよ」とMとTは友人に語るそうだ。おそらく、それは、生きていてほしくないという願望と、気狂いだと思われたくない気持ちがいりまじったものと考えられる。施設には、MとTのような子どももいるのだ。

テキスト化井出祥子