PTAへの疑い
先日、『奪還そして解放』という、かなり難しそうな題名の映画を観た。これは“ある定時制高校生の記録”だそうで、登場人物が定時制の高校生たち、そして制作スタッフが主として大学生という具合で、いわゆる自主映画のひとつである。
わたしたちは、定時制高校なるものがあることを知っているし、そこに学ぶ夜学生たちがいることも知っている。いやいや本当は知っているつもりでいるにすぎないのだ。まったくのところわたしたちは、定時制という名の高校についてほとんど何も知らされていない。そのことを、つくづく感じさせられたのが、右の記録映画なのである。そしてさらに、わたしは映画の登場人物となった定時制高校生男女四人と話しあう機会を持ち、定時制高校に関して無知であったことを痛感させられた。
定時制高校はどこにあるか。ほとんどの場合、全日制という名の昼の高校との併設、というよりは一部を借用するようなかたちで授業をおこなっている。それゆえに、昼の高校生にはロッカーがあっても、夜の高校生はそれを使えないという例がほとんどである。高校生の数がふえ、校舎が増築されるというようなことがあっても、夜の高校生は老朽校舎にとじこめられる。
クラブ活動の予算なども、昼の高校生がそのほとんどを使い夜の高校生はクラブ活動もままならない。とにかく“定高生”の受けている差別は数多く根深い。
ところが、たったひとつだけ昼の高校生と夜の高校生が〈平等〉のあつかいを受けているものがあるのだ。それはなんだ。PTAだ。
PTAなるものがあり、その会費を納入させられていることにおいて、この点においてのみ高校生には昼夜の区別も差別もない。このことについて定高生の横山英示クン(都立日比谷定時制四年)は発言する。
「PTA会費は月額、二、三百円。ところがボクら定高生はこれを自分のカセギから払わなければならない。定高生のほとんどは、地方出身者で、とおく親もとを離れて働いている。だから、PTAの会合なんてものがあっても、出席するP(親)の姿はなくて、T(教師)ばかりがいるわけだ。しかも、PTA会費のほとんどは使途不明、経理も公開されない場合が多い。こんなバカげた制度のために、なんでボクらが貧しいなかからカネをださなければならないのか、理解ができない」
中卒で労働に従事し、生活費も学費もすべて自分でかせぎださなければならない夜の高校生が、親(P)と教師(T)の会(A)のために会費を払うというのは、たしかにおかしい。
たとえば八丈島出身の宮原やす子サン(都立新宿定時制三年)の場合なんか、中卒で東京へ集団就職で来て以来三年、家とはまったくの音信不通だった。それがごく自然のやりかただからだ。ところがこの春のある日のこと、やす子サンは週刊誌を何気なく見ていたら、
「かあちゃんと妹の写真が出てたのよね。驚いて、そこのところ読んだら、八丈小島じゃもう生活ができないんで、みんなが疎開することになったんだって書いてあるじゃない。あたし、週刊誌の編集の人に電話して、とにかく移転先だけ調べてもらったの」ということになった。
この、やす子サンのような人までが、PTA会費を払わされているのだ。どう考えても奇怪である。とにかく、このようなフシギなことが“教育”の場にある。しかも教育者の側は、それを奇怪ともフシギとも不合理なこととも思わず、文字どおり慣例にしたがって、親からではなく親もとから遠くはなれて生きている“子”からカネをまきあげつづけている。こういう事実に、わたしたちは気づいていない。
しかし、よくよく考えてみると、PTAなんてものは、定時制高校だけにかぎらず、小学校でも中学校でも、それぞれ内容はちがっていても、ただひたすらに慣例のためと、一部の役員どものために存在するにすぎない場合が多い。
当用漢字も現在カナづかいも知らないくせに役員にシャシャリ出て、PTA会報を私物化しているなんていう例は枚挙にいとまがないし、役員歓送迎会には、議員センセイが顔をだしてノミ食いに参加する。一般会員は会費を払うだけで、なんの利益も受けてはいないのだ。
教師と親が話しあうなんてことは、PTAがなくてもできることなのに、ほとんどの母親(父親も)は、センセイと顔をあわすことも、PTA会費のうちだと思っている。思わされている。マスコミタレントの後援会じゃあるまいし、センセイの顔を見るだけでカネをとられてたまるか。定時制高校の場合もふくめて、わたしたちはPTAについて考えなおす時期にきている。遠くにいる子どものためにも。近くにいる子どものためにも。