楽しかるべき夏休みを
チカメの女の子どもはチカメである! と決めつけてもまちがいでないほどに、近視眼というやつは遺伝するようだ。とにかく、近視になりやすい体質を先天的に背負っているわけだから、よほど注意しないと、チカメの母親以上のチカメになって、水晶のようなぶ厚いメガネをかけるようになってしまう。
ともすると、女性はかなりヒドイ近視でも、美容のために、ふだんはメガネをかけないという人が多い。が、このために、当然、見るべきものも見えず、文字どおり、視野を狭く生きている場合もまたすくなくないのだ。チカメのくせに、メガネをかけずにいる女性で、豊かな社会性を身につけた人なんてものに出会ったことがない。
大山純一クン(小一)の場合も、チカメの女を母親に持っている。学齢前の段階で、母親は純一クンについて、つぎのように語っていた。
「うちの純一は、ホントに本好きなのよ。本さえあれば、一日中でも読んでるの。だから、あのトシにしちゃ、ずいぶん物識りよ」
しかし、これは、すでに先天的な近視がかなり進んでいたため、外で幼い友人たちと遊ぶことさえできなくなっていたからなのだ。
「あっ、トンボだ」と友だちがいっても、それが見えなければ“交際”はうまくいかない。自分自身もおもしろくない。
やむなく純一クンは、本のなかの世界に自分を没頭させることにした。ところがそれを母親が評価してくれたわけだから、まァ、一時的に純一クンは救われて結局、さらに近視を進行させてしまった。母親は、自分がメガネをかけないままの生活をおくっているため、近視眼者における、裸眼とメガネをかけた場合とのちがいについて気をくばることができなかったのだ。
純一クンが、ようやくメガネをかけることができたのは、小学校入学前の身体検査で、メガネの必要を指摘され母親がようやくその気になったからだ。
まず順調に、一学期はおわった。そして夏休みになったわけだが、純一クンは不幸にも、異型肺炎にかかって、医者から“水浴”を禁止された。だが、チカメの母親はこれをむしろ喜んだのだ。なぜならチカメのくせにメガネをかけない母親には、海の青さも、水平線の雲も見えず、自然の美しさもわからず、したがって海に対しては興味も関心もないからだ。(山についても同様である)
母親は純一クンに向かって、海へ行かない理由をどのように説明したか。
「病気だからってこともあるけど、まだ海へは行かなくてもいいの。センセイにきいたら、水泳が“体育”の点に関係があるのは、まだずっとさきのことなんだって」
これを逆にいえば、このチカメの母親は、学校の点=成績に関係があるなら、病気をおしても、純一クンをどこへでも連れて行きそうな気配である。いうまでもなく、海は遊ぶところであって、水泳の勉強をするところなんかではない。海でおぼえた泳法は、競技(プール)では通用しないのが常識だ。逆もまた然なり。
ともあれ、メガネを用いないチカメの母親に育てられているかぎり、純一クンにとっては、夏休みもまた〈教育的受難〉のときといわねばならない。楽しかるべき夏休みを、なぜ、教育で汚すのか。
佐野あゆみサン(小四)は夏休みまえ“夏休みにやること”というので、日記だの花の観察だのと並べたが、ついに何ひとつやらずにおわった。そこで、あゆみサンの反省―来年は、やれることを考えよう。
「ねえ、おとうさん、なんかいいことないかね。三つ以上必要なんだけど」
相談されたから父親はすぐに答えた。
「あるさ。一、よく遊ぶこと。二、よくねむること。三、よく食べること」
「なんだ、そんなことなら、ものすごくできちゃう」
そのとおり。わたしは、快遊、快眠、快食をもって夏休みの三大スローガンとすべきだと主張したいのだ。これなら、子どもだってできる。できない子どもには問題がある。近視なのに、メガネをかけていないなんて子どもは、まず、よく遊べないから、よく眠ることも、よく食うこともできない。したがって夏の暑さにやられて、夏痩せなんてことになる。
夏休みが休みのためにあるのだということを、夏のおわりにあたって、改めて認識すべきだ。
昨日も、新宿の本屋でわたしは見た。水晶のようなメガネをかけた子どもが、青白い顔で世界名作の棚のあたりをさまよっているのを。こちとら商売だって、夏には本なんて読みたくないのに……。