『子ども族探検』(第三文明社 1973)

<観>派か<像>派か------------------------------------

 子どもをめぐって何かを考えようとする場合、おとなたちの態度や姿勢は、おおざっぱに分けて<観>派と<像>派の二通りとなる。はたしてあなたは、<観>派か<像>派か。これではまるで自動車メーカーのCM、オオカミ派かヒツジ派かのパロディになってしまうが、冗談ごとではなくて、ひどく真面目な事柄なのだ。
 結論をさきにいってしまうことになるが、わたし自身は確実に<観>派である。そして当然のことながら、<像>派に対して批判的である。それはなぜか。いや、その前に問題をより具体的にしておく必要がありそうだ。<観>というのは、子ども観ということであり、<像>というのは、子ども像ということに他ならない。
 簡単にいってしまうと、子ども観というのは、子どもの観かたであって、かつて阿部進が提示した"現代っ子"というやつがそれである。すなわち、子どもというものは、こういうものだという観点を明らかにした。だからこれは一見生態学的である。子どもという生きものの今日的な役割や動向を重視し、そのなかから未来への展望を洞察しようとするものだ。
 しかし子ども像というのは違う。「期待される人間像」などというサンプルもあるように、まず子どもはかくあらねばならぬという考えかたが優先する。現代社会のなかで子どもが何を考え、何をしようとしているかなどということは二の次、三の次で、とにもかくにもこうあるべきだという押しつけをやる。まるで、子どもを観ようとしない。これが<像>派の実態でありすべてである。
 もちろん、親が子どもを育てる場合、教師が児童・生徒を教育しようとするとき、それなりの計画や期待は持たざるをえない。が、その計画や期待が、子どもの現実を無視したものであったとしたらどうなるか。その果てに待ちかまえているのはほとんどの場合、悲劇であるに相違ない。悪名高い教育ママや点数稼ぎ教師の多くは、<像>派に属する。連中は、とにかく、子どもを観ようとしないのだ。自分の子どもが、どのような顔かたちをしているのか、そしてなかみはどうなっているのかというような"実体"さえも観ようとせず、ただもうやみくもに理想像ばかりを押しつけるエリート狂の愚かさについては、改めて強調するまでもなく明らかだろう。それが自分の子どもだけに被害を及ぼす教育ママならば自業自得さ、ざまァ見ろですまされるが、他人さまの子をあずかる教師となると問題は複雑だ。
 ここにある教師がいる。四十歳になろうというのに独身の女教師だ。クラスPTAの席上、
「あたしは、まだムスメです」と発言して、並みいる母親たちを気味悪がらせたことがある。
 もちろん母親たちはとっくの昔にムスメじゃない。その母親たちの神経からすれば四十歳にもなるのにムスメだというだけでも異常であろう。この四十ムスメ、徹底した<像>派であって、授業中、雑談した子、やや粗暴な振舞いのあった子などを見つけだすや、直ちに母親を呼びつけ、
「お宅の子は問題児だ。知能テストや性格診断を受ける必要がある」と申しわたした。
 母親が驚きつつ、
「そのテストや診断はどこで受けるのですか」と問うと、
「練馬の鑑別所でやってくれるはずです」と平然たる表情で答えた。
 練馬の鑑別所といえば俗称ネリカンで、
?人里離れた塀のなか、
   この世の地獄があろうとは夢にも知らないシャバの人・・・・
 のネリカンブルースで有名なところだと思うから、母親たちはますます驚いてしまう。
 ところがさらに驚いたことには、ネリカン行きをすすめられたのは問題児(?)ばかりではなかった。某日、テストがおこなわれたのだが、その方法にまたまた問題があった。
「カンニングができないように、席の片側の人は床にすわって書きなさい」というモーレツなものだったという。つまり四十ムスメの女教師は、自分の教え子たちを、カンニングするおそれ十分と決めてかかり、クラスの半数を床で答案を書くというありさまにおとし入れたのだ。
その結果、期待に反して、子どもたちの成績は悪かった。約三分の一の母親が呼ばれ、またまたネリカン行きを勧告された。いささかの誇張もない事実である。
 ともすると人びとは、右のような事態が起こると、「だから女のセンセイは困る」というような受けとめかたをする。けれど、わたしにいわせるなら、かくもおぞましき教育がおこなわれるというのも、そこに<像>派の跳梁バッコがあるからだということになる。四十ムスメの女教師は自らの計画と期待のワクのなかに子どもをはめこむことにばかり性急となり、そこからハミだす子を問題児・劣等児ということで片付けようとしているのだ。<像>派の正体、ここにひとつあり。
テキスト化小野寺 紀子