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センスとナンセンス
鈴木宏枝

児童文学評論2005.02.25号

       前回の続きのバムケロなのだが、島田ゆかさんはパッケージデザイナーを経て絵本作家になられたため、この絵本は、ストーリーよりも、ずっと眺め続けて色々なものを何度でも発見することのできる<絵>のおもしろさが魅力である、という話を聞いた。なるほど。
 そこで、『バムとケロのさむいあさ』(島田ゆか、文溪堂、1996.12)でTさんがすごい勢いで反応していたトイレットペーパー・ミイラのページをもう1回、私もよくよく見てみたところ、それまでは、めちゃめちゃな散らかり具合の楽しさにばかり目がいっていた場面の中に『みんなでミイラ』という本が転がっていたことに突然気づいた。私は普段は<文>担当なので、あまり絵を読んでいなかった。

 そうか、ケロちゃんって、リテラルないたずらっ子だったんだ。ケロちゃんは、トム・ソーヤー的個性の持ち主だったんだ。
 以前、The Literary Heritage of ChildhoodThe Literary Heritage of Childhood: An Appraisal of Children's Classics in the Western Tradition(Charles Frey & John Griffith, Greenpress, 1987)という研究書で読んだ論考の中で、トム・ソーヤーのいたずらや遊びの数々が、実は聖書やロビン・フッドや「本で読んだ」山賊ごっこなど、書物に基づいていることが指摘されていた。この延長に、レスリー・フィードラーの命名した「グッド・バッド・ボーイ」のイメージを引いて、トムを「「軟弱な」男にならないよう悪童ぶりを発揮し、しかも「文明化」された男らしさを身につけており、将来は、社会で出世の階段を昇るだろうと予測」(吉田純子『少年たちのアメリカ―思春期文学の帝国と<男>』、阿吽社、2004.2)できる少年として捉える見方も生まれる。自由な悪童に見えるトム・ソーヤーは、実は規範の中にいる「良い悪童」なのである。
 ケロちゃんも、実はこの系譜?
 秀逸なトイレットペーパー・ミイラ遊びがオリジナルではなかったことに、ちょっぴり「なーんだ」、ちょっぴり安堵、という相反する思いが、本を見たときに、一瞬のうちに私の心にわいた。

 しかしながら、オリジナルなんて本当にあるのか?と思えるのも事実だ。Tさんを見ている限り、低月齢時代のおっぱいや抱っこ以外のすべては、すべて模倣の連続だった。そして、今や、一番プリミティブに思える<食>や抱っこすら、生存のための本能と同じくらい(少なくとも、今の暮らしの中では)文化の一領域に織り込まれている――精神的なコミュニケーションや、食卓という文化の共有として。彼女の生活のあらゆる面は、遊びも生活も、模倣とつなぎあわせの複雑化によって進化している。
 公園に行くまでに郵便やさんの配達を見れば、それをじっと観察して、今までこぐしかしなかった三輪車に乗るときに、ストッパーをかけてかちゃかちゃとめて郵便物を配達する真似をする。――これは「すぐ」の模倣だ。
 あるいは、時間がたってからの模倣もある。砂場で、プリンカップをつまさきにはめて「ガシーン、ガシーン」と歩いていたり、家の中でカンカラや小さな箱に足をいれて「ロボット、ガローンよ」と言っているのだが、これは、1歳の頃に好きだった012シリーズの『ロボットボット』(文:こかぜさち・絵:わきさかかつじ、福音館書店、2003.10)の記憶だろう。さらにいえば、その記憶が呼び覚まされたのは、つい最近いただいた『ぼくのロボット恐竜探検』(松岡達英、福音館書店、1994.10)がスイッチになったからだろう。
 余談だが、『ぼくのロボット恐竜探検』は、高崎で子どもと読書の活動に関わっている大学院時代の友人が、展覧会で作家の方をお見かけして、Tさんのためにサインを頂いてくれたという嬉しい1冊なのだが、今まで手を出してこなかったジャンルのこの絵本を、(主に反応するのはカブトムシやチョウやハエやカニなどなど、恐竜の周辺の小動物なのだが)「かいじゅうの本、よもうか」と持ってくるようになった。
 「かいじゅう」も「きょうりゅう」もよく知らないはずなのにとよくよく聞いてみると、恐竜の記憶は、数ヶ月前に初めて出かけたディズニーランドのリバーランド鉄道の終点付近にある、恐竜時代のパノラマと重なっているらしい。ちょっと怖かった、でもきしゃぽっぽにみんなで乗った経験そのものは楽しかった、というミックスの経験と、それまでの明るさと打って変わったほの暗い恐竜時代の図は、たしかに印象的であったことだろう。
 とにかく、「きょうりゅう」と『ぼくのロボット恐竜探検』とディズニーランド、それからロボットと『ロボットボット』と砂場のプリンカップ。いろんな記憶が、センス(秩序)の中で組み合わされて、一見ナンセンス(突拍子もない)な言動や遊びが生まれている。しかし、彼女の中では、とてもロジカルに展開している。生活の中で、すべてが、今まで見たもの、読んだもの、聞いたものの引用と組み合わせで成り立っているのだ。
 だから、「オリジナリティあふれる」ではなくとも、それ以上に、かいちゃんのトイレをのぞいてトイレットペーパーを見て、以前に読んだ『みんなでミイラ』を思い出し、その遊びの実践によってかいちゃんとエンジョイしようというケロちゃんの一連の心情は、私にはきわめてリアルに見える。
 インパクトのある『みんなでミイラ』、どんな本なのだろう。気になる!

 トイレットペーパー・ミイラは、ナンセンスな遊びではなく、きわめてセンスある文学的な遊びだった。<ナンセンス>は幼児的、幼児が好むと思われがちだが、今のところ、Tさんはナンセンスよりセンスある物語を好んでいるようだ。
 例えば、『キャベツくん』(長新太、文研出版、1980.9)や『海は広いね、おじいちゃん』(五味太郎、絵本館、1979.3)は、ナンセンスといっていいと思うけれど、Tさんは神妙な顔をして、笑いもせずに読み聞かせを聞いている。
 『海は広いね、おじいちゃん』では、おじいちゃんが宇宙人についての難しい本を読んでいるすぐそばで、孫の男の子が変幻自在の宇宙人とエンジョイしているというナンセンスが展開される。このドリフっぽいおもしろさと、宇宙人のクッキーを食べてちょっと考え方が変わったおじいちゃんの思いは、とても説明できないし、説明するものでもない。ただ、五味太郎さんの絵は私も大好きなので、単純に絵を見ているだけでも楽しい。Tさん、あと何年もしてから、言葉どおりの「海は広いね」の向こうにデュアルに重なるナンセンスに気づくのだろうか。ナンセンスは、センスが構築されてこそなのだろう。今は、大好きな「ピンク」の「ぞうさん」や「こんにちは」が楽しいだけでいい。

 Tさんにとってのナンセンスというかギャグというかジョークのようなものといえば、例えば、様々な動物の絵が描いてある近所の幼稚園の私道で、それぞれの動物についてわざと違う名前を言う、というものだ。以前は「ウサギ」「ライオン」「クジラ」「アシカ」など、動物と名前の<一致>を楽しんでいたが、今は、それをわざと冗談にして、クジラを踏みながら「アシカ、あ、まちがえちゃったぁ、クジラじゃないのぉ」と頭をかく、という一連の動作をすべての動物で繰り返す。<不一致>が彼女にとってギャグの第一歩というべきか。センスからはずれたところにあるナンセンスのおもしろさは、Tさんにとって、今はこういうところにあるらしい。「コンビニきのこ」とか「アンパンマンおなべ」とか異種のものをふたつ組み合わせて<変な言葉>をつくる遊びも好きである。
 キャベツくんを食べると、ゾウもゴリラも不思議なキャベツ動物になってしまって、ブタヤマさんが「ブキャ」と驚く『キャベツくん』など、Tさんには、むしろ、とても論理立った世界に見えているのではないだろうか。

 鈴木宏枝(http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/) Tさん(2歳8ヵ月)