鈴木宏枝



                     
[Tさん3歳0ヶ月(女)/Mくん4カ月(男)]

 絵本や児童文学と食べものは切っても切れない関係にある、というのはわりに一般的な実感である。食べものを戦略的に使う絵本はたくさんあるし、食べものが象徴的な意味をもつ作品や、食べものが読者の住む現実との着地点になるファンタジーも多種多様に思い起こされる。
 その興味から、私は研究面で、白百合女子大学児童文化研究センターのFood for Thought(思考の糧)プロジェクトに参加し、日本や世界の食文化や食と児童文学との関わりについて考えているところでもある。
 
 食べものは、幼児の生活で大きな部分を占めるけれど、すべてではない。すべてではないけれども重要だ。絵本でずいぶん食にフォーカスした作品が多いのは、子どもの興味以上に大人たちのほうに、食の意義を伝えたい意識があるからだろう。
 食育や子どもの食は、時代的なテーマでもあり、その時代性は大人が仕掛けていくものである。

 さて、大人の思うとおり、Tさんは食べものの話が好きだ。だけど、それだけ突出しているかというと、実はそうでもない。
 TさんやTさんの同年齢の友達を見ていると、単に食べるのではなく、好きなものを食べることが好きだという当たり前のことが見えてくる。大いに体を動かしてお腹がぺこぺこになれば、多少苦手なものもたいらげるが、そうでない日は、気分によって好き嫌いが現れる。おなかがすいていなくても食べられとか、見た目においしいものを食べられる、というのは、大人の食べ方に近く、親の思い通りにいかないことも多い。食は、親のルールに最初に逆らう自我の現われにすらなりうる。
 Tさんの生活は、大人のように食で区切られていない。もちろん、ほぼ決まった時間に食事やおやつは食べているのだが、食の合間に遊ぶのではなく、本質的には遊びと遊びの間に食事(やそれに近いおやつ)を取っており、生きるメインは実は食ではなく遊びの方にある。
 Tさんの食べもの絵本への興味は、自分の経験と遊びからの応用としてあらわれる。食べものの絵本は、食べもの固有への興味以上に、広く生活の経験に根ざしたところで魅力をもつようなのである。

 食べものが出てくる絵本で、最初期に読んだひとつは、『はらぺこあおむし』(エリック・カール/もりひさし訳、偕成社、1976.5)だった。2歳前後の頃、友達の家で見せてもらった小さいボートブック版である。ページをめくるところは楽しんだものの、あおむしのごちそうは数種類の果物しか分からなかった。土曜日にあおむしの食べた「チョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキとそれからすいか」をすべて理解したのは2歳8ヶ月くらいだった(その場合も、これらを全部食べたわけではなく、「サラミはベーコンのおともだち」とか「チョコレートケーキはおいしいケーキ」とかそういうレベルのものもある)。
 知っている食べものが増えていくにつれて、この絵本の楽しみ度も増していく。ぼーっと眺めているだけだった土曜日の食事の場面では、やがて、現実の食の広がりとリンクするかのように読まれる食べものを順番に指差していくようになった。
 今では、Tさんは自分でそらんじる。アイスクリームもさくらんぼパイも手でばしんとたたいてすくいあげるように食べるまねをしたり、どうかすると紙をべろべろなめようとすることもあって、「Tちゃんおなかすいてるの?」と聞くと、たいていその通りで、ほんとのおやつになる。Tさんにとって、絵に描いた餅は食べられるものであるらしい。

 Tさんが生まれたときにいただいたサイン入りの『まよなかのだいどころ』(モーリス・センダック/じんぐうてるお訳、冨山房、1982.9)を、私はずっともったいぶって仕舞っていた。いいタイミングで出会ってほしいと思っていて、開架に並べたのが、この前の3月のことだった。「パン屋さんのお話よ」とか「お料理かな」とか何の説明もせずにひととおり読んだ。そのあと、本を閉じたTさんがにんまあーっと笑ったのを見て、大成功だったと、心の中でガッツポーズをした一冊である。

 Tさんの<遊び>は、電車遊びからままごと、とすぱっと切り替わるのではなく、らせんのように進化する。例えば、ひらがなを読み上げながら並べた「ばばばあちゃん」のかるたは、並べ方を変えて階段になり、家になり、それから全部まぜあわされ、大きなおなべに投入されて「おいしいケーキのざいりょう」になる。
 「おいしいケーキをつくろう」というのは1年ほども長く続いているTさんの室内遊びで、これからも続くことが予感される。去年の2歳の誕生日に食べたケーキが印象的だったか、その頃から「ケーキ」という言葉に反応するようになり、やがて、誕生日にいただいたおままごとの木の野菜や果物は、包丁でばらばらに切ったあと(マジックテープで留めてあってすぱっと切れる)、「おいしいケーキのざいりょう」になるようになった。
 「おいしいケーキをつくろう」と言いながらTさんはおもちゃを大なべに入れる。この大なべは私が台所の不要品をあげたものだが、体格比からいくと、魔女の大がまにも匹敵するかもしれない。
 材料は1年かけてだんだん進化してきた。今の基本的材料は、木の野菜のおもちゃのほか、「やきそば」と称するひも、ひも通し遊びのスポンジ製のムーミン人形、アンパンマンのプラスチックの指人形、カルタ類、チラシから切り抜いたケーキの絵、はめこみパズルに使う小さな粒粒、おままごとの木のパンなどである。本物のケーキをつくる手順も今ではよく見ているから、「こなを入れて、ぎゅうにゅういれて」と説明しながらの作業で、彼女の中でほとんどできあがったころに「じゃあ、砂糖を入れて」とか適当なことを言うと、「もういれたでしょ」と一喝される。できた材料はオーブンへ。ダイニングテーブルの下にわっせわっせと運んでいって、「おいしいケーキやきますよ」となにやらもぐりこんで操作している。焼き時間にもこだわりがあるようで、食事のときにじゃまなので出そうとすると、「あっ、まだやけてないのよ」と再び押し込む。
 『まよなかのだいどころ』は、ミッキーがまよなかの台所でパン屋さんたちに会い、ねりこにいれるミルクを取りにミルキーウェイに行く話である。牛乳瓶の天の川と、そこに飛び込む裸のミッキーの身体感覚もなんとも気持ちがよく、ねりこに埋もれる感覚もくるりと夜空に舞う場面も、もちろんふくらみのある絵も、私は大好きである。
 Tさんは、この絵本で「ねりこ」という言葉を覚えた。私がケーキを作っているときに、これなあに?と聞かれて「ミッキーが飛び込んだねりこと同じ”ねりこ”よ」と答えると一発で理解し、さらには、目の前のねりことミッキーのねりこが、まさにつながりあった(ように見えた)。

 ミッキーのはなし しってるかい
 うるさいぞ しずかにしろってなったら
 あかるいへやの はだかんぼになっちゃって
 おとうさんとおかあさんのへや
 クルッて まよなかのだいどころ
 パンやさんが
 しあげはミルク まぜて ならして やこう
 できたオーブン あつい やけたら ゆげが
 ミッキー あたまをつきだして いった
 まっすぐ ベッドに もどって
 やれやれ ぬくぬく
 ミッキー どうもありがとう これですっかりわかった
 パンやさん ケーキをたべるわけが

 まだ耳で暗記している最中のTさんはこんな風に『まよなかのだいどころ』を読む。私と一緒に本物のケーキを焼き、たまには卵など割ったり、あわたて器でまぜたりする経験も含め、生活のフェイズが重なってこの絵本を楽しんでいるのは間違いない。
 『まよなかのだいどころ』以降、彼女の作る大なべの「おいしいケーキのざいりょう」に必ずしも変化があったわけではないのだが、この細かいおもちゃのごたまぜが、Tさんには、あのどろりとしたねりこに見えているのかもしれない。何かの拍子に、「しあげはミルク、しあげはミルク」と歌っているのを聞くのは、私のほうがなかなかいい気分なのである。

 もうひとつ、おいしい話といえば『ぐりとぐら』(なかがわりえこ・おおむらゆりこ、福音館書店、1963.12)である。これも、私の思いいれが強すぎて、手渡したのはつい先月のことだった。
 大学院の頃、『いっしょにつくろう―絵本の世界を広げる手づくりおもちゃ』(高田千鶴子・酒本美登里・小林義純製作、村田まり子絵、ペソ写真、福音館書店、1994.10)をもとに、黄色い手袋とフェルトで作ったぐりとぐらの人形がある。数ヶ月前にそれを見つけたTさんは「ねずみさん」と言って、服をぬがす遊びに使うようになった。私の作りがやわだったのか、もはや首がもげそうになっているぐりとぐらに、これは本物(?)を見せようかと、近所の「絵本の店 星の子」に行ったときにやっと買い求めたのである。

 『ぐりとぐら』も、Tさんはそれはそれは深く聞き入っていて、カステラと大好きなホットケーキとオーバーラップさせて、すぐにお気に入りになった。

 子どもの頃の絵本/読書体験が親の世代になってリピートされるというのは、出版の面でも読者論の面でもよく言われることだが、私もこの絵本は大好きだった。何が大好きかというと、カステラ以上に卵の殻の車の場面である。
 子どもの頃、この最後の1ページにものすごく引き込まれたことを、ありありと思い出す。この車に乗りたい、こんな車が作りたい、と強く思ったのが小学校の低学年くらいだったろうか。戦隊もののヒーローが乗っていたサイドカーつきのオートバイにもあこがれたし、小学校高学年で男子の間でラジコンが流行ったときにも一度触ってみたかった。
 それを私は口に出して言わなかったせいか、どれもかなわなかったのだけど、この卵の殻の車をうまく作れたら、TさんとMくんを乗せて、ついでに私も一緒に乗りたい。いや、私が乗りたい。「ぐりとぐらのカステラ」や「ぐりとぐらの人形」の作り方はよく見るけれど、この車の作り方を紹介したものが何かあったら、ぜひご教示ください。

 この前、Tさんは、ホットケーキやケーキの作り方を思い出すように『ぐりとぐら』を楽しんだあと、最後の車の場面で「どこに行くのかなあ?」と言った。おうちかな? ゆうえんちかな? どうぶつえんかな? ……と私が口に出すのは簡単だったけれど、まっしろな状態で何を言うかとわざと黙っていたら、Tさんは「ここでつないで(殻どうしをつなぐわっかを指差す)、これ乗っけて(道具類をなぞる)……、どこにいくのかな。」としばらく思案し、切り株や木の絵を指でなぞったあと、右下の小さな署名を見つけ、「ゆ、り、こ。ゆりこにいくのね」と納得していた。ゆりこかあ。素敵なところだといいな。

 Mくんは人好きである。まだ人見知りしない時期で、あやされれば笑い、ほほえみかける。空腹でもおむつでもなく、「かまって、遊んで、しゃべってよ」で泣くようになった。うれしいときやくすぐられたときだけでなく、Tさんが大声で笑っているときは、Mくんも声を出して笑う。笑いもまたまねびなのである。気候がいい時期は、リビングのそばのベランダに出し、バウンサーに座って外の風に当たっているのはなかなか優雅かもしれない。
 我が家では特に絵本の時間というのは決まっていない。朝、出勤前のパートナーに読んでもらっていることもあれば、私がパソコンで仕事をしているそばに「こどものとも」を山積みにしているときもある。「1冊だけね」とやぼを言うと、Tさんはそれはそれで納得して、残りは「じゃあ、これはTちゃんがよむね」と音読しはじめる。もちろん、あとは寝るだけ、という状態で、眠くなるまでソファで読むというのは、一番いい時間だ。
 そのとき、間が会えばMくんもよく聞いている。どうかすると、この子は、絵本好きで、ソファで私とTさんが並んですわり、Tさんのひざにある絵本をMくんを抱っこしながら読むと、Mくんは口を三角に開けて笑って喜び、すごいキックを入れて、絵本の上にダイブしようとする。
 Mくんはまた、私の口の動きをじっと見ている。こうして彼は日本語を母語として獲得していくのだな、と私は日本語の絵本を読む。Tさんに読みながら、抱っこのMくんも機嫌よく聞いてくれるとき。これも、私にとっては、一回で二人分おいしい時間である。

(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ 「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm)